『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)には、膨大な「注」と「参考文献」がついているが、日本語版ではこれらが省かれている。希望者は、インターネット・サイトからダウンロードできるという方式になっている。
本書は、張作霖爆殺事件は、スターリンの命令にもとづいて、GRUのナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだと書いている(上巻 P301)。この記述に注目した中西輝政教授は、この件の注釈への注意を促す。資料をダウンロードしてみると、注釈には次のように書かれている。
「Kolpakidi & Prokhorov 2000,vol.1, pp.182-3(from GRU sources); key role also played by Sorge’s predecessor, Salnin. indirect confirmation of this is a photograph of the Old Marshal’s bombed train in Vinarov’s book (opposite P.337)captioned: ‘photograph by the author’」
よほど時間がなかったのか、和訳する意思がないのか、英文のままである。
中西氏は、この張作霖事件の注釈の重要性を感得し、次のように書いている。
「該当の注を見ると、その典拠として、アレクサンドル・コリパキディとドミトリー・プロコロフの『GRU帝国』(未邦訳)第1巻182-3頁、が挙げられており、同時にエイティゴンと共に張作霖の爆殺に『主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルーニンであった』と書かれている。つまり典拠は2000年に刊行されたロシア語の2次資料であるが、それはGRUの公文書に依拠して書かれた本だということである。
そして従来ごく一部で噂されていたことだが、イワン・ヴィナロフのブルガリア語の本(『秘密戦の戦士』)に掲げられている張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真のキャプションに、『著者自らが撮影』とあるのが、爆殺の手を下したのは日本軍ではなくGRUだという、もう一つの間接的根拠だというチアンとハリディによる詳しい記述もある」と。(月刊『諸君!』平成18年3月号)
中西氏の慧眼が見抜いたように、この注釈は非常に重要なことを述べている。張作霖爆殺の実行者は、日本陸軍ではなく、旧ソ連のGRUである。それが、なんとGRUの公文書に書かれているというのである。
文中に出てくるゾルゲとは、言うまでもなくゾルゲ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲである。ゾルゲは従来、単なるコミンテルンの工作員とみなされていた。しかし、近年の研究で、ゾルゲはGRUの極秘の諜報員となって、昭和4年(1929)に中国に行ったことが、明らかになっているという。
張作霖爆殺事件は、ゾルゲが中国に赴く前年のこと。事件当時、中国にいた彼の前任者が、サルーニンだった。このGRUの大物スパイが、張作霖の爆殺に「主要な役割を果たした」というのである。そして、ヴィナロフという人物が自著に、張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真を載せ、その絵解きに「著者自らが撮影」と書いているというのである。
ヴィナロフとは1920年代、ゾルゲが上海で活動していた頃、彼と接触していたKGB(当時はNKVD)のエージェントの一人である。その後、1940年代にはブルガリアの諜報機関の長となった。ヴィナロフは、スターリンの指令によるエイティンゴンの計画の下、サルーニンの指示を受けて、張作霖の爆殺に関わったと考えられる。
『マオ』を書いたチアンの夫ハリディはロシア語に堪能であり、本書の著述において、旧ソ連の公文書を調査し、それが本書に強力な論証力を与えていると思われる。
もし『マオ』の記述通りであれば、張作霖を爆殺したのは日本軍でなかった。旧ソ連の赤軍参謀本部情報総局の謀略だった。そして、それを日本軍の仕業に見せかけたことになる。
旧ソ連にとって、張作霖の爆殺を行い、それを日本軍の仕業にみせかけることは、どういう目的と利益があったのか。それは、結果として成功したと言えるものだったのか。
また、従来、張作霖事件は、関東軍参謀の河本大佐が列車を爆破し、国民党便衣隊の陰謀に偽装したといわれてきた。『マオ』の伝える新発見と、このことはどのように関係するのか、『マオ』は何も触れていない。河本とコミンテルンまたGRUの間に、何か関係はないのか。日本陸軍は、河本の背後に、第3国の存在を感知してはいなかったのか。
今後の研究によって詳細が明らかにされていくことに期待したい。
東京裁判において、日本の計画的な世界侵略というストーリーが捏造される過程で、『田中上奏文』が利用されたと前回書いた。『田中上奏文』の捏造には、中国人が関わったことが明らかになっており、その背後で旧ソ連の共産党や国際的な共産主義組織が暗躍したという説も出ている。
その『田中上奏文』が日本の侵略計画実行の第1弾とするのが、張作霖爆殺事件である。この事件が旧ソ連の諜報組織によるものだったとしたら、わが国は、謀略文書と謀略事件によって見事に嵌められ、東京裁判において、世界の悪者に仕立て上げられたことになる。
東京裁判では、旧ソ連・中国・国際共産主義に不利になるようなことは、一切取り上げられていない。まだまだ、歴史の闇の中に隠されていることが、多数あるだろう。
戦後の多くの日本人は、東京裁判が描いた歴史観を正しいものと思わされてきた。今も小泉首相をはじめ、多くの政治家・学者・有識者は、東京裁判史観の呪縛を抜け出ていない。そして、共産中国との外交において、相手の術中に嵌められて続けている。
『マオ』は、そうした日本人に覚醒を促す本である。
本書は、張作霖爆殺事件は、スターリンの命令にもとづいて、GRUのナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだと書いている(上巻 P301)。この記述に注目した中西輝政教授は、この件の注釈への注意を促す。資料をダウンロードしてみると、注釈には次のように書かれている。
「Kolpakidi & Prokhorov 2000,vol.1, pp.182-3(from GRU sources); key role also played by Sorge’s predecessor, Salnin. indirect confirmation of this is a photograph of the Old Marshal’s bombed train in Vinarov’s book (opposite P.337)captioned: ‘photograph by the author’」
よほど時間がなかったのか、和訳する意思がないのか、英文のままである。
中西氏は、この張作霖事件の注釈の重要性を感得し、次のように書いている。
「該当の注を見ると、その典拠として、アレクサンドル・コリパキディとドミトリー・プロコロフの『GRU帝国』(未邦訳)第1巻182-3頁、が挙げられており、同時にエイティゴンと共に張作霖の爆殺に『主要な役割を果たしたのは、ゾルゲの前任者であったサルーニンであった』と書かれている。つまり典拠は2000年に刊行されたロシア語の2次資料であるが、それはGRUの公文書に依拠して書かれた本だということである。
そして従来ごく一部で噂されていたことだが、イワン・ヴィナロフのブルガリア語の本(『秘密戦の戦士』)に掲げられている張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真のキャプションに、『著者自らが撮影』とあるのが、爆殺の手を下したのは日本軍ではなくGRUだという、もう一つの間接的根拠だというチアンとハリディによる詳しい記述もある」と。(月刊『諸君!』平成18年3月号)
中西氏の慧眼が見抜いたように、この注釈は非常に重要なことを述べている。張作霖爆殺の実行者は、日本陸軍ではなく、旧ソ連のGRUである。それが、なんとGRUの公文書に書かれているというのである。
文中に出てくるゾルゲとは、言うまでもなくゾルゲ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲである。ゾルゲは従来、単なるコミンテルンの工作員とみなされていた。しかし、近年の研究で、ゾルゲはGRUの極秘の諜報員となって、昭和4年(1929)に中国に行ったことが、明らかになっているという。
張作霖爆殺事件は、ゾルゲが中国に赴く前年のこと。事件当時、中国にいた彼の前任者が、サルーニンだった。このGRUの大物スパイが、張作霖の爆殺に「主要な役割を果たした」というのである。そして、ヴィナロフという人物が自著に、張作霖爆殺直後の破壊された列車の写真を載せ、その絵解きに「著者自らが撮影」と書いているというのである。
ヴィナロフとは1920年代、ゾルゲが上海で活動していた頃、彼と接触していたKGB(当時はNKVD)のエージェントの一人である。その後、1940年代にはブルガリアの諜報機関の長となった。ヴィナロフは、スターリンの指令によるエイティンゴンの計画の下、サルーニンの指示を受けて、張作霖の爆殺に関わったと考えられる。
『マオ』を書いたチアンの夫ハリディはロシア語に堪能であり、本書の著述において、旧ソ連の公文書を調査し、それが本書に強力な論証力を与えていると思われる。
もし『マオ』の記述通りであれば、張作霖を爆殺したのは日本軍でなかった。旧ソ連の赤軍参謀本部情報総局の謀略だった。そして、それを日本軍の仕業に見せかけたことになる。
旧ソ連にとって、張作霖の爆殺を行い、それを日本軍の仕業にみせかけることは、どういう目的と利益があったのか。それは、結果として成功したと言えるものだったのか。
また、従来、張作霖事件は、関東軍参謀の河本大佐が列車を爆破し、国民党便衣隊の陰謀に偽装したといわれてきた。『マオ』の伝える新発見と、このことはどのように関係するのか、『マオ』は何も触れていない。河本とコミンテルンまたGRUの間に、何か関係はないのか。日本陸軍は、河本の背後に、第3国の存在を感知してはいなかったのか。
今後の研究によって詳細が明らかにされていくことに期待したい。
東京裁判において、日本の計画的な世界侵略というストーリーが捏造される過程で、『田中上奏文』が利用されたと前回書いた。『田中上奏文』の捏造には、中国人が関わったことが明らかになっており、その背後で旧ソ連の共産党や国際的な共産主義組織が暗躍したという説も出ている。
その『田中上奏文』が日本の侵略計画実行の第1弾とするのが、張作霖爆殺事件である。この事件が旧ソ連の諜報組織によるものだったとしたら、わが国は、謀略文書と謀略事件によって見事に嵌められ、東京裁判において、世界の悪者に仕立て上げられたことになる。
東京裁判では、旧ソ連・中国・国際共産主義に不利になるようなことは、一切取り上げられていない。まだまだ、歴史の闇の中に隠されていることが、多数あるだろう。
戦後の多くの日本人は、東京裁判が描いた歴史観を正しいものと思わされてきた。今も小泉首相をはじめ、多くの政治家・学者・有識者は、東京裁判史観の呪縛を抜け出ていない。そして、共産中国との外交において、相手の術中に嵌められて続けている。
『マオ』は、そうした日本人に覚醒を促す本である。
お説の通りです。
非常に重要な意味を持っていると思います。
KPdSU(B), Komintern und die Sowjetbewegung in China. Dokumente Band 3: 1927 - 1931 von M. Leutner,
M. L. Titarenko, und K. M. Anderson von Lit (Gebundene Ausgabe - August 2001)
KPdSU (B), Komintern und die Sowjetbewegung in China. Dokumente. Teil 4: 1931-1937, in zwei Teilen von
M Leutner, M L Titarenko, K M Anderson, und R Felber von Lit Verlag (Gebundene Ausgabe - Januar 2006)
ラフな部分訳ですが、該当部分です。(国立ベルリン自由大学ニュース2000年10月)
タイトル:ソ連がChinaに及ぼした力は実際どれだけのものであったのか?
1927-1931年では合計412個の文書が1900頁4章にわたり記述されている。続編の1931-37年に関する文書が
現在執筆中(2006年に発行済)である。時との戦いである。なぜならばロシア公文書での閲覧条件が再び非常に厳しく
なってしまったからである。ソースの集大成は、最終的に毛沢東指揮下で中華人民共和国建国となるまでの重大で
紛れもないソビエト及び国際共産主義者らの役割を、これまでの研究書になかったような多くの図解とともに説明している。
Insgesamt 412 Dokumente der Periode 1927-1931 werden in vier Kapiteln auf rund 1900 Seiten präsentiert.
Auch der noch ausstehende Band für die Jahre 1931-37 ist bereits in Arbeit – ein Rennen gegen die Zeit,
denn leider haben sich die Arbeitsbedingungen in den russischen Archiven wieder erheblich verschlechtert.
Die Quellensammlung illustriert – wie kein wissenschaftliches Werk zuvor – die gewichtige und umstrittene
Rolle sowjetischer und internationaler Kommunisten in der Anfangsphase einer Revolution, die schließlich
unter Führung Mao Zedongs in die Gründung der Volksrepublik China mündete.
http://web.fu-berlin.de/fun/2000/10-00/wissenschaft/wissenschaft4.html