●ネイションの絶対化には弊害がある
私は、第6章で人権とナショナリズムについて書いたが、ここでリベラル・ナショナリズムの理論を踏まえて、ナショナリズムについて補足したい。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i-2.htm
多くの発展途上国においては、エスニック・グループの対立や宗教宗派による分裂、多言語・多文化による統合の困難さ乗り越えて、一個のネイションが形成されることが望ましい。ネイションの形成には、人々にある程度の自由と開かれた討議が必要である。貧困者の声が政治に反映される仕組みと、自らの努力で貧困を解決しようとする自助努力の精神が育っていけば、各国政府による主体的な人権の保障と国際社会の支援を通じて、貧困が徐々に改善されていくことを期待できる。
ただし、私は、ネイションの役割の再評価が必要と考えるとともに、ネイションの形成を絶対的な価値とすることには弊害があることも認識しなければならないと考える。
ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義した。仮にこの原理の実現を極度に推し進めるならば、複数のエスニック・グループで構成されている国はみなそれぞれの集団ごとに分割されるべきであり、先住民族が居住する国は、先住民族が分離独立し彼らの祖先からの資源を取り戻すべきだということになる。だが、こうした政治的な変化は、権利関係・権力関係の複雑な変動を伴う。話し合いによって平和的に実現できる場合はよいが、意思と利害が対立すれば、実力のぶつかり合いになる。少数者集団が自ら望む場所で政治共同体の樹立を強く望んでも、一定の領域を占有するには、他の政治権力の排除を必要とする。また集団によって経済力、軍事力、占有する資源の種類・量等が違うから、分離独立しようとする元の国家との間でこれらの差が大きい場合は、独立主権国家になれる集団とそうでない集団が出てくる。すべてのエスニック・グループが無条件に平等に国民国家となる権利を享受することは、事実上達成不可能である。
複数のエスニック・グループで構成されている国家で、民族的少数者集団や移民の集団等に無制限に権利を認めると、国家は国家として存立できなくなる。キムリッカの主張を援用すれば、政治権力に参与する主要な集団は、少数者集団の文化を基本財として保障し、また国民形成において、少数者集団に破壊的な影響を与えるという不正義を最小化するために、彼らに一定の権利付与を考慮する必要があるだろう。ただし、キムリッカが、民族的少数者集団と、主として移民からなるエスニック・グループを区別し、自治権を持つのは前者のみとし、後者にはエスニックな文化権及び特別代表権は認められるとしているように、付与する権利の種類と内容を分けるべきである。少数者集団の中に、極少数派の集団が存在する場合は、そこにおいて同様の検討が必要だろう。複数のエスニック・グループの間で、一方的な支配でもなく、とめどない分裂でもなく、国民としての協調を図るには、社会正義の追求が必要である。その際、特に移民に対する対応は、重要である。違法に滞在する移民に過度の権利を与え、逆に国民の権利を制限する多文化主義政策は、国家主権の自己否定となり、国家の崩壊をもたらす。
事情は国家によってそれぞれ異なる。統合同化を通じた共同発展を目指す場合、一個の国家の中で一定の自治権を与えて協調を図る場合、分離独立をしたうえでネイション間の平和共存を保つ場合など、それぞれの道があるだろう。そうした模索をせずに地理的・社会的・経済的等の諸条件を無視し、ただただ分離独立が実現されるべきものとし、これを推し進める思想・運動は、世界をとめどない分裂と対立に導く。そして、その結果、逆に強大な国力を持ち、強い領土的野心を持つ国家によって支配される恐れもある。覇権主義に対しては、その行動を抑止する十分な実力を持つ国家のみが対抗し得る。そこに米国のようなリベラル・デモクラシーに基づく大国の役割がある。
次回に続く。
私は、第6章で人権とナショナリズムについて書いたが、ここでリベラル・ナショナリズムの理論を踏まえて、ナショナリズムについて補足したい。
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion03i-2.htm
多くの発展途上国においては、エスニック・グループの対立や宗教宗派による分裂、多言語・多文化による統合の困難さ乗り越えて、一個のネイションが形成されることが望ましい。ネイションの形成には、人々にある程度の自由と開かれた討議が必要である。貧困者の声が政治に反映される仕組みと、自らの努力で貧困を解決しようとする自助努力の精神が育っていけば、各国政府による主体的な人権の保障と国際社会の支援を通じて、貧困が徐々に改善されていくことを期待できる。
ただし、私は、ネイションの役割の再評価が必要と考えるとともに、ネイションの形成を絶対的な価値とすることには弊害があることも認識しなければならないと考える。
ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければいけないと主張する一つの政治的原理」と定義した。仮にこの原理の実現を極度に推し進めるならば、複数のエスニック・グループで構成されている国はみなそれぞれの集団ごとに分割されるべきであり、先住民族が居住する国は、先住民族が分離独立し彼らの祖先からの資源を取り戻すべきだということになる。だが、こうした政治的な変化は、権利関係・権力関係の複雑な変動を伴う。話し合いによって平和的に実現できる場合はよいが、意思と利害が対立すれば、実力のぶつかり合いになる。少数者集団が自ら望む場所で政治共同体の樹立を強く望んでも、一定の領域を占有するには、他の政治権力の排除を必要とする。また集団によって経済力、軍事力、占有する資源の種類・量等が違うから、分離独立しようとする元の国家との間でこれらの差が大きい場合は、独立主権国家になれる集団とそうでない集団が出てくる。すべてのエスニック・グループが無条件に平等に国民国家となる権利を享受することは、事実上達成不可能である。
複数のエスニック・グループで構成されている国家で、民族的少数者集団や移民の集団等に無制限に権利を認めると、国家は国家として存立できなくなる。キムリッカの主張を援用すれば、政治権力に参与する主要な集団は、少数者集団の文化を基本財として保障し、また国民形成において、少数者集団に破壊的な影響を与えるという不正義を最小化するために、彼らに一定の権利付与を考慮する必要があるだろう。ただし、キムリッカが、民族的少数者集団と、主として移民からなるエスニック・グループを区別し、自治権を持つのは前者のみとし、後者にはエスニックな文化権及び特別代表権は認められるとしているように、付与する権利の種類と内容を分けるべきである。少数者集団の中に、極少数派の集団が存在する場合は、そこにおいて同様の検討が必要だろう。複数のエスニック・グループの間で、一方的な支配でもなく、とめどない分裂でもなく、国民としての協調を図るには、社会正義の追求が必要である。その際、特に移民に対する対応は、重要である。違法に滞在する移民に過度の権利を与え、逆に国民の権利を制限する多文化主義政策は、国家主権の自己否定となり、国家の崩壊をもたらす。
事情は国家によってそれぞれ異なる。統合同化を通じた共同発展を目指す場合、一個の国家の中で一定の自治権を与えて協調を図る場合、分離独立をしたうえでネイション間の平和共存を保つ場合など、それぞれの道があるだろう。そうした模索をせずに地理的・社会的・経済的等の諸条件を無視し、ただただ分離独立が実現されるべきものとし、これを推し進める思想・運動は、世界をとめどない分裂と対立に導く。そして、その結果、逆に強大な国力を持ち、強い領土的野心を持つ国家によって支配される恐れもある。覇権主義に対しては、その行動を抑止する十分な実力を持つ国家のみが対抗し得る。そこに米国のようなリベラル・デモクラシーに基づく大国の役割がある。
次回に続く。
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