ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権186~米独立宣言の背後にあるもの

2015-08-12 10:23:26 | 人権
●フランス革命にイギリス人ペインが参加

 ペインは、アメリカ独立の思想をフランスに伝えるとともに、外国人でありながらフランス市民革命に参加もした。1789年秋、革命の最中にあるフランスに渡り、革命の高揚を目撃した。翌年、友人のバークがイギリス議会でフランス革命を激しく批判し、『フランス革命の省察』(1790年)と題して出版すると、ペインはイギリスに帰国し、バークに反論して『人間の権利』(1791年)刊行した。バークはフランス革命がイギリスに波及して共和主義が高揚することを防ごうとしたが、ペインはフランス革命を擁護し、バークを徹底的に批判して、熱烈に共和主義を唱導した。そのため、著書は発禁処分となった。ペインは逮捕寸前のところ、フランスに脱出した。
 バークについては後に書くが、ペインについては、『人間の権利』は、91年までのフランス革命を過度に美化している。その後の混乱や悲惨を全く予想していない。ましてや自分がフランスで捕囚の身となるとは、思ってもみなかったのだろう。
 『コモン・センス』は、刊行されたその年の内にフランス語に訳され、フランスでも広く読まれ、大きな影響を及ぼした。ペインは、フランスでも著名人だった。ペインは市民権を与えられ、国民公会の議員に選出された。ジロンド派に協力して、ジロンド派の憲法草案作成に参加した。アメリカ独立革命の扇動家がフランス革命を推進したのである。ペインはルイ16世の処刑には反対した。だが、フランスの急進共和主義者は、過激だった。ロベルピエール等がジロンド派を追放すると、ペインは孤立し、93年12月、「共和国に対する反逆」という罪状で投獄されてしまった。
 テルミドールの反動後も出獄できないでいたが、駐仏アメリカ大使モンローの奔走で、ようやく94年11月に釈放された。その後、ペインはナポレオンに請われて、統領政府の会議に出席した。意見を求められたペインは、たとえイギリス軍には勝てても、イギリス人民を支配することはできない、と答えた。ナポレオンから呼ばれることは二度となかった。
 フランスに居場所のなくなったペインは、1802年に再びアメリカに渡った。だが、『コモン・センス』の著者で独立戦争の英雄は、民衆から忘れ去られていた。ペインはフランス仕込みの過激な思想家と見られ、孤独の中で惨めな最期を遂げた。ペインがアメリカ独立を訴えた『コモン・センス』、フランス革命を擁護した『人間の権利』は、ペインの生涯の全体を踏まえて読まれるべきである。
 ところで、ペインについては、もう一つ見逃せないことがある。それは、「フリーメイソン団の起源」という論文があることである。ペイン自身がフリーメイソンに加入していたかどうかは不明であるが、メイソンとの関係は濃厚である。ペインは、フランクリンの紹介でアメリカに渡ったが、フランクリンはメイソンの活動家だった。ペインは、フランクリンが関与した独立宣言の作成に協力した。『コモン・センス』の共和主義・人民主権の思想は、「自由・平等・友愛」というメイソンの思想に通じる。独立戦争の司令官ワシントンも同書を読んだ。ワシントンは有力なメイソンであり、フランスから援軍に来たラ・ファイエット公爵をメイソンに加入させた。そのラ・ファイエットに、ペインは『人間の権利』第2部を献呈している。フランス革命期には、ペインは外国人でありながら国民公会の議員になったが、革命は多くのメイソンによって指導されていた。メイソンは国境を超える思想・運動であり、イギリス、アメリカに人脈を持つペインは、歓迎されただろう。このように、ペインはメイソンと多くの関係を持っている。
 私は、人権の思想の発達には、ホッブス、水平派、ロック、ルソー等とともに、フリーメイソンが関わっていると見ている。拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」に書いたように、アメリカ独立革命、フランス市民革命は、メイソンを抜きに理解することはできない。独立宣言、人権宣言には、フリーメイソンの思想が何らかの形で反映されていると私は考えている。

●独立宣言の思想の背後にあるもの

 独立宣言の思想については、第5章に書いたが、ここでその要約を示すとともに、新たな点を補いたい。
 独立宣言は、ジェファーソンが草案を作成、ベンジャミン・フランクリンとジョン・アダムスが若干の加筆修正を行って成案した。ペインも作成に協力した。
 独立宣言は、前文で、圧政下にある植民地の人民が自由独立の国家を建設することを公言し、自然権、社会契約思想、「合意の支配」、革命権を謳った。そこには、ロックの思想が色濃く反映されている。ジェファーソンは、ロックを信奉していた。彼が起草した独立宣言は、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主(Creator)によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、その中に生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とあるが、「生命、自由及び幸福の追求」は奪いがたい天賦の権利と書いているのは、ロックが説いた生命・自由・財産の所有権のうち、最初の二つをそのまま取り入れ、最後の財産を幸福の追求に置き換えたものである。また、アメリカ合衆国は、ロックが市民社会の発生段階に想定した社会契約を、絶対王政下の植民地が独立して新たな国を建設するという全く異なる条件において、実現したものである。米国憲法は、前文に「われわれ合衆国の人民は(We the people of the United States)」と書いており、契約をした主体は、アメリカ人民である。人民が相互に契約を結んで作ったのが、合衆国である。ロックの社会契約論は、既存の国家の起源には当てはまらないが、新たな国家の建設には、有効な理論となったのである。
 独立宣言は、権利の根源を「造物主」に置く。ここにおける「造物主」は、基本的にユダヤ=キリスト教的な神である。ただし、この「造物主」は、理神論に立てば、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する宇宙の創造者となる。アメリカを建国した指導者たちは、ピューリタンまたはキリスト教を信奉するフリーメイソンだった。独立宣言に署名した56人うちフランクリンを含む9人から15人がメイソンと見られる。独立宣言は、建国の指導者たちが共有し得る世界観に立って、すべての人間は平等に造られ、造物主によって、一定の不可譲の権利を与えられているとしたものだろう。人民の権利は、歴史的・社会的に形成されたイギリス臣民の「古来の自由と権利」ではなく、天賦の権利であるという論理が打ち出された。人民の権利から、権利の歴史性が否定され、権利の根拠として、造物主によって与えられたものということが強調された。この造物主は、単にユダヤ=キリスト教的な神ではなく、ユダヤ教・キリスト教・フリーメイソンに共通する神の理念ととらえたほうがよいだろう。
 独立宣言には、ロック、ピューリタニズム、フリーメイソンという3つの要素が融合していると私は見ている。これらのうち、フリーメイソンについて、次に書く。

 次回に続く。