●一般意志に基づく理想国家を提示
ルソーの政治理論は、国家の形成に関しては社会契約論であり、主権に関しては一般意志の理論である。
ホッブスは自然状態に「万人の万人に対する闘争」を想定した。戦争状態を克服するために絶対的権力を導き出した。これに対して、ルソーは、人間の自然の善性を前提として、人民の一般意志のみが絶対であり、善であるとする論理で、絶対的権力を導き出した。そして、ホッブスの絶対主義的な主権論を人民主権論へと転換した。一般意志の理論は、徹底した人民主権の理論である。そこから理想の国家が説かれる。
ルソーによると、一人一人の個別の利害や関心は「特殊意志」である。これを足し合わせたものは、「全体意志」である。全体意志は、個々人の利益の総和でしかないが、一般意志はただ共通の利益を考慮する。人民の一般意志は、常に公共の利益を目指すものであり、絶対的であって、誤ることがないという。
ルソーにおいて、主権は、一般意志の行使である。主権は譲渡することができない。なぜなら、主権は一般意志の行使でしかなく、一般意志は譲り渡されたり、移されたりすることはできないからである。主権は分割することができない。主権が譲渡できないと同じ理由によってである。一般意志を分割すればそれは特殊意志となり、特殊意志の行使では主権となることができない。主権は一般的約束の範囲から出ることはできない。いかに絶対的であり、神聖で侵すべからざるものであっても、主権は市民に対して理不尽な要求をすることはできない。
社会契約によって各人は自己の力と自由を全面的に譲渡するが、その国家が一般意志の実現である限り、各人は一構成員として平等の権利を持つ主権者となる。主権者の行為は、公の利益を目指す一般意志に導かれ、「すべての国民のための政治」を実現する行為となるという。
一般意志が常に正しいと言えるには、公衆の「啓蒙」が不可欠だとルソーは主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。
ルソーは、一般意志は、法律に全面的に表現される、法は一般意志の表明である、とする。だが、人民は何が真の共通の利益であり、また何が真の幸福であるかを必ずしも知っているとは言えない。ルソーは、主権者である人民が正しい善の観念を以て行為することができるように啓蒙する役目を持つ者が必要だと考える。それが立法者である。
立法者は、主権者である人民が議論をして、共通する利益を表す一般意志をもって、法を作る際、それが公共の利益に適っているかどうかを判断する。立法者は、権力も利害関係も持たずに、公平と明知をもって洞察のできる「すぐれた知性の人」「非凡な人間」でなければならない。ルソーは、古代スパルタの「神のような立法者」リュクルゴスを、その模範とする。リュクルゴスは、特異なスパルタの鎖国制や軍国主義的な市民生活を定めた伝説的な立法者である。
ややこしいのは、立法者と言っても、主体的に法を立案・制定する者ではない。立法者は立法権を持ってはいけない。立法者は主権者でもなければ、行政官でもない。役割は、啓蒙だとする。立法者は、国家の一員でありながら主権者ではなく、立法に関わりながら自分自身は立法権を持たない。外国人の法律顧問のようでもあり、人民を啓蒙する精神的指導者のようでもある。最終的に法を審判する権限があるわけでもない。ルソーは、「人民自ら承認したのでない法律は無効であって、断じて法律ではない」と明言している。主権者としての人民があくまで主体である。
ルソーにおいて、主権は立法権を主とする。政府は、法を執行する機関である。政府は、従来主権と混同され、絶対の権威を持つと見られてきたが、主権者たる人民の意思の執行機関に過ぎない。首長は、人民の主人ではなくて、「単なる役人」であり、「主権者が彼らを受託者とした権力を、主権者の名において行使しているわけであり、主権者はこの権力をいつでも好きな時に制限し、変更し、取り戻すことができる」とされる。
ルソーの構想した理想国家は、ロックやモンテスキューが説いた議会制デモクラシーの国家や権力分立による立憲君主制ではなく、全人民を主権者とする直接民主政の国家だった。主権は、全構成員が参加する全体会議、いわば人民総会でのみ行使される。ただし、ルソーは、直接民主政をすべての西欧諸国で実現せよ、と主張したのではない。そもそもルソーは、民主政について「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と言っている。極限的な理想として提示しているだけなのである。また、ルソーは、租税の負担という点から、「君主政は富裕な国民にのみ適するものであり、貴族政は富から言っても大きさから言っても中くらいの国家に適し、民主政は貧しい小国に適する」と書いている。これらを比較し、それぞれの長所と短所を指摘し、どれも長く続くと欠陥が出てくる。それを防ぐために最低限、立法権と執行権は分けるべきと説いている。
この論に従えば、フランスは豊かな大国だから、君主政が相応しい。フランスで目指すべきは、君主専制から民衆の政治参加へ、絶対君主政から制限君主政への改革だということになるだろう。しかもルソーは武力によって権力を奪取して社会秩序を打ち立てようとは、まったく考えなかった。ルソーは、武力は権利を与えない、それに屈服する義務はないとした。それゆえ、ルソーはフランスで武力革命を起こして、クロムウェルのように君主を除いて共和政を目指せ、と説いたのではない。だが、君主政の打倒を目指す者は、ルソーは人民主権の共和主義を説いたのだとし、自分たちの主張に利用してきた。
次回に続く。
■追記
本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第2部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-2.htm
ルソーの政治理論は、国家の形成に関しては社会契約論であり、主権に関しては一般意志の理論である。
ホッブスは自然状態に「万人の万人に対する闘争」を想定した。戦争状態を克服するために絶対的権力を導き出した。これに対して、ルソーは、人間の自然の善性を前提として、人民の一般意志のみが絶対であり、善であるとする論理で、絶対的権力を導き出した。そして、ホッブスの絶対主義的な主権論を人民主権論へと転換した。一般意志の理論は、徹底した人民主権の理論である。そこから理想の国家が説かれる。
ルソーによると、一人一人の個別の利害や関心は「特殊意志」である。これを足し合わせたものは、「全体意志」である。全体意志は、個々人の利益の総和でしかないが、一般意志はただ共通の利益を考慮する。人民の一般意志は、常に公共の利益を目指すものであり、絶対的であって、誤ることがないという。
ルソーにおいて、主権は、一般意志の行使である。主権は譲渡することができない。なぜなら、主権は一般意志の行使でしかなく、一般意志は譲り渡されたり、移されたりすることはできないからである。主権は分割することができない。主権が譲渡できないと同じ理由によってである。一般意志を分割すればそれは特殊意志となり、特殊意志の行使では主権となることができない。主権は一般的約束の範囲から出ることはできない。いかに絶対的であり、神聖で侵すべからざるものであっても、主権は市民に対して理不尽な要求をすることはできない。
社会契約によって各人は自己の力と自由を全面的に譲渡するが、その国家が一般意志の実現である限り、各人は一構成員として平等の権利を持つ主権者となる。主権者の行為は、公の利益を目指す一般意志に導かれ、「すべての国民のための政治」を実現する行為となるという。
一般意志が常に正しいと言えるには、公衆の「啓蒙」が不可欠だとルソーは主張した。正しい政治的決断を行うには、理性の働きが必要である。集団の一人一人が、自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。
ルソーは、一般意志は、法律に全面的に表現される、法は一般意志の表明である、とする。だが、人民は何が真の共通の利益であり、また何が真の幸福であるかを必ずしも知っているとは言えない。ルソーは、主権者である人民が正しい善の観念を以て行為することができるように啓蒙する役目を持つ者が必要だと考える。それが立法者である。
立法者は、主権者である人民が議論をして、共通する利益を表す一般意志をもって、法を作る際、それが公共の利益に適っているかどうかを判断する。立法者は、権力も利害関係も持たずに、公平と明知をもって洞察のできる「すぐれた知性の人」「非凡な人間」でなければならない。ルソーは、古代スパルタの「神のような立法者」リュクルゴスを、その模範とする。リュクルゴスは、特異なスパルタの鎖国制や軍国主義的な市民生活を定めた伝説的な立法者である。
ややこしいのは、立法者と言っても、主体的に法を立案・制定する者ではない。立法者は立法権を持ってはいけない。立法者は主権者でもなければ、行政官でもない。役割は、啓蒙だとする。立法者は、国家の一員でありながら主権者ではなく、立法に関わりながら自分自身は立法権を持たない。外国人の法律顧問のようでもあり、人民を啓蒙する精神的指導者のようでもある。最終的に法を審判する権限があるわけでもない。ルソーは、「人民自ら承認したのでない法律は無効であって、断じて法律ではない」と明言している。主権者としての人民があくまで主体である。
ルソーにおいて、主権は立法権を主とする。政府は、法を執行する機関である。政府は、従来主権と混同され、絶対の権威を持つと見られてきたが、主権者たる人民の意思の執行機関に過ぎない。首長は、人民の主人ではなくて、「単なる役人」であり、「主権者が彼らを受託者とした権力を、主権者の名において行使しているわけであり、主権者はこの権力をいつでも好きな時に制限し、変更し、取り戻すことができる」とされる。
ルソーの構想した理想国家は、ロックやモンテスキューが説いた議会制デモクラシーの国家や権力分立による立憲君主制ではなく、全人民を主権者とする直接民主政の国家だった。主権は、全構成員が参加する全体会議、いわば人民総会でのみ行使される。ただし、ルソーは、直接民主政をすべての西欧諸国で実現せよ、と主張したのではない。そもそもルソーは、民主政について「もしも神々から成る人民があるとすれば、この人民は民主政をもって統治を行うだろう。これほど完璧な政体は人間には適さない」と言っている。極限的な理想として提示しているだけなのである。また、ルソーは、租税の負担という点から、「君主政は富裕な国民にのみ適するものであり、貴族政は富から言っても大きさから言っても中くらいの国家に適し、民主政は貧しい小国に適する」と書いている。これらを比較し、それぞれの長所と短所を指摘し、どれも長く続くと欠陥が出てくる。それを防ぐために最低限、立法権と執行権は分けるべきと説いている。
この論に従えば、フランスは豊かな大国だから、君主政が相応しい。フランスで目指すべきは、君主専制から民衆の政治参加へ、絶対君主政から制限君主政への改革だということになるだろう。しかもルソーは武力によって権力を奪取して社会秩序を打ち立てようとは、まったく考えなかった。ルソーは、武力は権利を与えない、それに屈服する義務はないとした。それゆえ、ルソーはフランスで武力革命を起こして、クロムウェルのように君主を除いて共和政を目指せ、と説いたのではない。だが、君主政の打倒を目指す者は、ルソーは人民主権の共和主義を説いたのだとし、自分たちの主張に利用してきた。
次回に続く。
■追記
本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第2部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-2.htm