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●漫画・・ 「デビルキング」

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 僕が近所の貸本屋に通い、毎日貸本漫画を2冊借りていたのは、6歳から11歳くらいまでの間で、当時の貸本漫画の中には、メジャー雑誌の中の、児童漫画のヒーローたちとはまた違った、カッコ良いヒーローたちがいっぱい居ました。ザッと挙げていくと、「爆弾野郎シリーズ」「サタンボーイ」「渡り鳥シリーズ」「探偵ジャガー」「独眼探偵」「ファイトメン」「トップ屋ジョー」「台風五郎」「パクリ屋おロク」‥。「墓場鬼太郎」もそうですね。あとは、山本まさはるシリーズの中の「探偵屋ナンバーワン」とか古賀しんさくシリーズの中の探偵や、もうタイトルも名前も忘れてしまっている、貸本漫画の中の多くの探偵たち。ヒーローという訳じゃないけど、楳図かずおの「ガモラ」。そして、さいとうたかをの貸本時代のSF、「ベリーファーザー」と「デビルキング」。

 当時の子供向けの漫画雑誌の中でのヒーローたち、これも挙げていくと、雑誌別で僕が魅了されたヒーローたちは、光文社「少年」の「鉄人28号」「鉄腕アトム」「電人アロー」、秋田書店「まんが王」の「スリーZメン」「雷神サブー」「巨人ロロ」「魔神ガロン」、講談社「ぼくら」の「アトミックゴロー」「スパイキャッチャーJ3」「少年忍者・風のフジ丸」、集英社「少年ブック」の「ビッグX」「宇宙エース」、「少年画報」の「まぼろし探偵」「マグマ大使」、秋田「冒険王」の「ワンサイド特急」「ナポレオン・ソロ」、小学館「少年サンデー」の「伊賀の影丸」「W3」「スーパージェッター」、講談社「少年マガジン」の「エイトマン」「ウルトラマン」「ミサイルマン・マミー」「ブラック巨人」、少年画報社「少年キング」の「キングロボ」「エスパー3」「秘密探偵JA」「サイボーグ009」‥。細かく思い出していけば、あとまだいっぱい、いっぱい作品はありますけど、僕の子供時代に特に魅了され熱中して読んだ児童漫画をザッと挙げました。まだ、野球漫画で「黒い秘密兵器」とか「ミラクルA」とか「ファイト兄弟」とかありますしね。プロレスや柔道漫画だと、「吹けよカミカゼ」「チャンピオン太」「ハリス無段」とかもあるし。子供時代に魅了され熱中して読んだ漫画群は思い出すときりがない。(時期的に『魔神ガロン』は『まんが王』の再録の方で読みました。)

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 「劇画」という言葉を考え出し、手塚治虫を開祖とする戦後ストーリー漫画や、それまでにあった「のらくろ」的な、ポンチ絵や戯画をルーツとするような、手塚治虫以前の愉快な、いわゆる「漫画」と、当時の劇場映画・洋画に大きな影響を受けた、自分らの作り出すできるだけリアル描写を重視する漫画作品を区別するために、自分らの描く作品を「劇画」と呼んで差別化を図った、「劇画」という言葉の生みの親は、辰巳ヨシヒロ氏ですが、昭和の時代のミスター「劇画」と呼べば、文句なく、さいとうたかを氏だったと思います。「劇画」という呼び名は雑誌界で、さいとうたかをの漫画作品と共に拡がって行ったと思う。70年代に入ってから「劇画」を拡張させたのは、さいとうたかを氏の他に、原作担当で梶原一騎氏と小池一夫氏の功績が大きいけど。

 「デビルキング」はさいとうたかを氏のSFスペクタクル劇画で、小学館の週刊少年サンデーに1969年31号から1970年17号まで連載されたのですが、もともとの初出は貸本です。69年の週刊少年サンデー連載版は貸本のリメイクですね。雑誌掲載版の方がストーリーも作画も細部を緻密に描き込んでいますが、おおまかなストーリーの流れは貸本もリメイクも同じですね。ただ、貸本版は未完で終わっていて、サンデー版では物語はきっちりと完結しています。

 この当時、僕が読んでいた週刊少年サンデーは、幼馴染のF君が買った本である。僕は小四か小五くらいから毎週、週刊少年マガジンを買っていた。週刊少年マガジンは小三頃から購読していたのだが、買ったり買わなかったりもあった。でも小五からは間違いなく一週も欠かさず毎号買い続けた。ただ、小三か小四の始め頃から近所の貸本屋で借りて読み始めた。それまでこの貸本屋で扱っていなかったけど、その頃から貸し出しを始めたのだ。そして貸本屋は僕が小五の当時、突然店閉いする。それからは毎週毎週欠かさずに週刊少年マガジンを購読した。中学の卒業時まで。中学に上がった頃からか、毎週、週刊少年サンデーを購読しているF君と交換して読むようになった。お互い発売日に本屋で買って読んで、翌日、マガジンとサンデーを交換して読む。だから、週刊少年マガジンを買う僕のところには週間少年サンデーばかりが残った。成績優秀なF君はこの地域随一の進学校へ進み、僕も公立高校へ進学したが、偏差値的には地域で二番手三番手の高校だった。それと僕は中学卒業と同時に、小学生中学生時代九年間を過ごした、商店街の中に立つ家から、同じ市内でも市の外れの田舎に引っ越した。F君と顔を合わすことはなくなり、マガジンとサンデーの交換も自動的に消滅した。

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 「デビルキング」は、僕がマガジンと交換したF君のサンデーに連載されていた。この時代の週刊少年サンデーのラインナップには、「デビルキング」の他にも魅力的な作品がいっぱいあった。僕の印象に残る作品群を挙げて行くと、「地球ナンバーV7」「ターゲット」「あかつき戦闘隊」「歌え!ムスタング」「アニマル1」「サスケ」「キャプテンウルトラ」「マイティジャック」「日の丸陣太」「弾丸児」「どろろ」「地獄くん」「くたばれ涙くん」「おろち」「男どアホゥ甲子園」‥。赤塚不二夫の「もーれつア太郎」もあるな。さいとうたかをの「グループ銀」とか。横山先生の「赤影」や「ジャイアントロボ」、小沢さとるの「青の六号」もだ。この時代は、マガジン、サンデーとも素晴らしい漫画作品群のラインナップを揃えていたな。

 だから、僕が幼馴染F君と、僕のマガジンとF君のサンデーを交換して読み合っていたのって、中一から中三までの三年間だと思うんだよね。一緒に遊んでいたのは、家が近所だったから、小二頃からだと思うんだけど。町内の近所で同学年の、M君とF君と彼らの弟たちとよく一緒に遊んでた。M君家もF君家もあの時代では比較的お金持ちの家で、僕は劣等生のガキだったが、彼らはクラス委員を勤めるような成績優秀な坊ちゃんたちだった。僕の方の家とて、親父は、電力会社の電業所の所長身分だったし、まあ、あの時代の地方の町の中ならば、坊ちゃんクラスの分類に入ったかも知れないけど、僕は何せ、学業がメチャメチャ出来の悪いダメ児童で、5段階成績表で、僕は小一時分はオール1で、小二から1、2、1、2から2、3、2、3となって行き、小学生時代は良くてもオール3の成績だった。それに比べてM君F君はだいたい、通信簿の成績は5と4ばかりのような優等生だった。まあ、僕だけ毛並みの違う馬鹿ガキだった訳だが、家が近所の同級だったので何となくいつも一緒に遊んでいた。

 で、中学に上がるとM君の勧めで剣道部に入ったものの、中二進級のとき、M君が転校したので、僕は中二で何となく自然と剣道部を辞めて行った。mortima、部活辞めたってよ。F君の方は中学になって野球部に入り、三年間ずっと野球部で頑張ってた。高校は別だったので、M君もF君も高校生になってからの先は、僕には全く解らない。

 あの時代に、電力会社のサラリーマンだった親父は、地方の田舎では比較的高給取りの方だったけど、僕が小六頃から家庭の雲行きが怪しくなった。一番最初に母から、「実はウチの家には借金がある」と聞いたのは、僕が12歳のときで、しかもその額は百万単位だということだった。でも実際の生活が、そんなに苦しくなったようには感じられず、衣食住に関しては別段特に、それまでと変わりはなかった。中学生になってから、あまり衣服にお金を掛けたりできず、それ程小遣いも貰えなくなったし、高価なものは買えなかったけど、中二頃までは家の中がそんなに変わっては感じられなかった。子供の感覚からは、いわゆる生活苦なぞは感じられなかった。しかし僕が中三になった頃から、家に借金取りが来るようになり、食べる分はそれまでと変わらなかったけど、食生活以外の出費は抑えられた。夏場になると借金取りが家に泊まり込みで、帰って来ない親父を待つようになった。夏以降だね、昼間や夜、借金取りが家に押し寄せるようになり、親戚中が集まって、親父の高額の負債に関しての親族会議が、夜っぴて開かれた、のは。徹夜で会議が行われることも度々だった。あの時代のサラリーマン家庭にしては、莫大な借金。僕が中三の夏以降からだ。このあたりの事情の詳細は、「Kenの漫画読み日記。」2013年3月中記事、「虹をよぶ拳」..(2)の中でや、じじごろう日記。(番外編)・・「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」 ギャラリー(1)「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(2)「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(3)「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(4)「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(5)の中での文中に、エピソードとして、けっこう詳しく書き込んでいます。

 あの時代、電力会社に勤めていた親父は、この地方の市内・郡部と顔が広く、僕が中学生の頃は、とにかくあちこちに金を借りて回り、借金をどんどん膨らませていた。無論、親父は近所にも金を借りて回っていて、商店街に住まいのあった僕ん家だが、アーケード街も含めた商店街のあちこちに借金をして回っていた。それは、現金ばかりでなく、親父が当時の愛人に貢いだ商品代金も多かった。高価な商品を愛人に貢いで、代金はウチの家に請求に来るのだ。いつも応対に出る母親は、商店の集金人に身に覚えのない高額を請求され、親父は何処かに行方をくらましたままだ。しかし家の主である親父が購入したことは間違いない。親父は行方不明だが、母親はまだ夫婦である。母親はいつも「代金を払え」と責められていた。親父は会社に出てるのかどうか愛人と遊びに行ったままで、タマにしか家に帰って来ない。帰って来ても深夜だし、家に借金取りが泊まり込みで待っていれば、Uターンでまた何処かへ行ってしまう。

 幼馴染F君の家は、衣料品は普段着から礼装、制服まで各種、寝具や家具までも扱う、あの時代の地方の商店としては、規模の大きい大店で、商店街通りで同じ並びで僕ん家から七、八軒先のF君のところにも、親父は金を借りていた。当時は、僕ん家の中で、借金取りや親戚中が集まって、親父の借金の会議が、夜毎の如く開かれていたから、そこで話の中に出ていたので僕は知ったんだと思うが、何でもF君家にも親父は、借金が50万あるということだった。ちなみに親父の借金の会議なのに、いつも親父の姿はなかった。責められていたのはいつも母親だった。

 僕の記憶には、F君家のご両親やお婆ちゃん、店員さんがウチの家に支払いの催促に来ていたという覚えはないが、あの時分、母親に確認すると、確かに親父はF君家からも借金をしているらしい。母親から聞いた話では、お婆ちゃんが「50万返せ」とうるさかった(失礼)らしいが、もとより悪いのは50万を己の放蕩に使って返さないで逃げ回り、遊び回っている親父だ。中学三年間、毎日、僕とF君は朝は一緒に登校していた。お互いに早く家を出た方が誘いに来て、毎朝一緒に学校に行ってた。中三の途中から、僕は親父がF君の家から50万借りていて、しかも払わないまんま、というのがもの凄く気になっていて、無論、払ってないんだから、僕はそんなこと口に出せないし、通学途中、F君も何も言わなかった。F君はとてもしっかりした子供で優等生で、性格も良かったから、とうとう最後まで何も言わなかったんだけど、僕の方はいつも気にしていた。F君は何にも言わないけど、腹の中では、「おまえン家、早く50万返せよ!」とか、思ってんだろうなあ、とかって気にしていた。辛かったよ。あの時代の親父は本当に人でなしの大馬鹿者だったなあ。自分の親を何だけど。中学卒業と同時にF君と顔を合わせなくて済むようになったのは、そういう意味ではホッとしていた。僕の高校進学と同時に、親父は愛人の元へと行ってしまったので、親父が放蕩で拵えた巨額の借金に関しては、どうなったのかは詳しいことは僕は知らない。

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 さいとうたかをの傑作SF劇画「デビルキング」の、物語の大まかなストーリーは、マッドサイエンティスト・小早川博士が、自分の主義主張で世の中を作り変えてしまうために、度重なる人体実験で失敗を繰り返した後、一方の主人公である明男少年のお兄さんである若者を、最後の人体実験に使い、とうとう怪獣の如き巨大人間を作り上げ、“GOD”と名付ける。このモンスターはロボットやサイボーグではなく、人間の細胞ごと巨大化して、屈強で怪獣のように強力な、いわば改造人間の巨人版である。小早川博士の作った巨人は、最初は主人である小早川博士の言うとおりに動き、破壊行動を繰り返すが、その内、自分の意思を持ち、自分自身の考えで行動するようになる。生みの親、小早川博士のコントロール下を離れ、自身の使命感を抱き、自らの意思で行動するモンスターは、自分を正真正銘の「神」と思い込み、街を行進し、警察や自衛隊を撥ね退けて数多くの信者を集める。

 数多の信者を引き連れて、街道を行進する人造人間の巨人、“GOD”。マッドサイエンティスト・小早川博士には双子の弟が居て、こちらも有能な天才科学者。政府の命を受け、怪物“GOD”退治に乗り出した、弟・小早川博士は己の全科学力を結集して、攻撃ロボット“プラズマ”を作り上げる。そして、巨人モンスター“GOD”にプラズマを対決させる‥。というのが、だいたい大まかな、SF劇画「デビルキング」の物語のストーリーの流れですね。

 69年の週刊少年サンデー版は、貸本版に比べ、もっとずっと細かに叮嚀に描いてますけど、だいたいこのストーリーですね。まあ、貸本板は未完だし。貸本版には、信者を引き連れて“GOD”が、街道を行進する場面はなかったように記憶するんだけど‥。僕は中学生時代、毎週毎週の少年サンデー誌上で欠かさず読んだ後、80年代初めくらいにリイド社のコミックス版で、まとめたものを全編読み返してます。64年の貸本板では、多分全5巻の予定が、4巻までしか発刊されませんでしたけど、4冊の内、2冊は貸本屋さんから借りて来て読んでます。小三の頃、同じクラスの女子だったSさんという、天然パーマミドルヘアの女の子に、「デビルキングが面白い」という話を聞いて、驚いた記憶があります。当時の僕は、マガジンやサンデーや光文社の「少年」のことを話す、クラスメートとはよく漫画の話をしたけど、あんまり、貸本の話をする友達に合ったことがなかったので、しかも女の子だし、新鮮な驚きを覚えたものでした。そういえば、M君やF君は、貸本を借りて読んでなかったみたいだな。貸本は非衛生的だし、あの時代には漫画本は低俗な代物だし、M君F君家ともども、こういう呼び方は悪いんだけど、いわゆるエエトコのお坊ちゃん的だったし、という理由も見えそうな気がする。貸本漫画を読むのなんて、どちらもお母上が許さなかったんじゃあないかな。教育上、良くないと。まあ、二人には何十年も会うどころか、顔も見たコトないし、詳しいことは解らないけど。もしかしたら貸本漫画読んだことくらいあるかも知れないけど、僕には、二人が貸本を読んでた記憶はないなあ。

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 貸本出身のさいとうたかをは、60年代初めには“さいとうプロ”を作り上げ、60年代半ばには、漫画作品発表の主戦場を貸本から雑誌界へと移して、60年代後半、貸本は60年代後半はじょじょにじょじょにと廃れていって、70年頃にはついに貸本は消滅しましたが、さいとうたかをは「劇画」の名を欲しいままに、67年頃から漫画界で大活躍し始め、60年代後半から70年代の少年誌・青年誌の各誌に、数多の作品を掲載してます。マガジンの「無用ノ介」、サンデーの「サバイバル」、月刊誌少年の「ザ・シャドウマン」、ボーイズライフの「007」と「挑戦野郎」、ぼくらマガジンの「バロム1」、ビッグコミックの「捜し屋禿鷹登場」、月刊誌冒険王の「ナポレオン・ソロ」などなど、その他、数えきれないくらいの劇画作品を長編、短編、60年代後半以降のいろいろな雑誌群に掲載し続けて行きました。特に読みきりの短編作品もいっぱい発表してますね。この時代、僕が一番好きなのは、光文社の「少年」末期に連載された、SF探偵アクション劇画、「ザ・シャドウマン」かな。冒険王の「ワンサイド特急」や「ナポレオン・ソロ」、ボーイズライフの「挑戦野郎」も好きだったな。

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●漫画・・ 「砲神エグザクソン」..(1)

 90年代末近くから2000年代前半に掛けて、講談社月刊アフタヌーンに連載されてた、園田健一のSF漫画、「砲神エグザクソン」大好きだったんだよねえ。巨大ロボットSFというよりも侵略SF。これは僕は驚きました。ロボットが身長100メートルもあって、お腹にでっかい大砲がくっ着いていて、砲弾一発撃つと、大砲の弾は東京からハワイまで飛んで行って、敵ロボットに見事に命中する。こういう設定にも驚いたし、何よりも宇宙人の侵略方法に驚いた。目から鱗、みたいな。あっ、そういう方法があるんだ!成程、という僕がびっくりして気付かされた侵略方法。そうだよなあ~、こういう方法使うだろうなあ、という。とても汚い方法で、お人よし地球人は馬鹿を見る‥、という。ネタバレになるな。

 軌道エレベーターという地球上空宇宙空間の衛星まで繋ぐメチャメチャ高いというか長いというか、そーいうエレベーターで、このアイデアは50年代末?60年代かな、SF大御三家大巨匠、アーサー・C・クラークが自作のSF小説の中で描いてるけど、この「軌道エレベーター」という発想自体、アーサー・C・クラークのアイデアだと思い込んでいたんだけど、調べたら、クラークのずっと前にロシア人の科学者で、この「軌道エレベーター」アイデアを唱えた人が二人居た。1895年と1959年発表。で、もう一つ、クラークが「軌道エレベーター」を自著の中で描いていた作品は「都市と星」だと思い込んでいたけど、調べたら違ってた。「楽園の泉」という1979年の作品なんだなあ。随分後だ。僕の長年の思い込み違い。

 軌道エレベーター=宇宙エレベーターなんて発想は当時は正に夢物語みたいな突飛な発想だったけど、科学者が物理的には可能と唱え、それでもできる訳がないと言われ続け、それから何十年か経って、「カーボンナノチューブ」という素材が発見か開発かされて、実現可能の様相を帯びて来た。多分、今から数十年後にはできるのだろう。多分、人類は作り上げるだろう。人間の科学力って本当に凄いな。お伽噺を何世代か後には本当に実現化してしまう。誰かが思い付き、誰かが詳細に考えて、その何代も後に誰かが実現する。いやはや、人間の力は凄い。決して忘れ去らずに気が遠くなるほどの時間を繋いで行く人間の凄さ。

 今では数多くのSF小説、SF漫画、SFアニメ、SF映画の中で、「軌道エレベーター」は描かれています。僕も十年くらいか前にアメリカのSF映画の中で、主人公たちが軌道エレベーターで惑星に降りて行くシーンを見ています。何の映画だったか忘れた。無論、軌道エレベーターが「砲神エグザクソン」に出てくるから、軌道エレベーターのコト、ここに書いたんですけど。

 園田健一さんのSF漫画作品、「砲神エグザクソン」は素晴らしいSF漫画です。メチャ面白い。可愛い女の娘もいっぱい出て来るし。可愛くて勇気があって知的で強い女の娘たち。主人公少年の相棒役というかガード役というか、セクシーで抜群に魅力的で可愛い、美少女アンドロイドもメチャメチャ良いですね。身長百メートルのエグザクソンの動きを見ていて、「あ、エヴァンゲリオンに似ている!」と思いました。「砲神エグザクソン」、雑誌連載時リアルタイムで、アフタヌーン誌上で読んで、コミックスでも全編読みました。「砲神エグザクソン」は僕の大好きな漫画でしたね。園田健一さんの絵も大好きです。

(2016-8) 今、手元に「砲神エグザクソン」のコミックス本を置いて見てる訳じゃないけど、「砲神エグザクソン」の漫画の中でSF アイテムとして、“軌道エレベーター”を扱っていることは間違いなく、地球上で地球人と協力して共に生活していた異星人が、突然反旗を翻して侵略行為に出て、主人公の親しい知人らが軌道エレベーターの中でトラブルにみまわれる。軌道エレベーター内の多くの地球人の内、主人公の少年の親しい知人は、確か主人公の“彼女”だったよーな。多分。で、ゴメンナサイ、コミックス本開いて今直に調べてる訳じゃないので、記憶だけで書くけど、確かこの制御不能に陥った“軌道エレベーター”は、主人公らの生活する日本国土に設置された施設だったと思う。多分そうだ。多分、東京だろう。でね、軌道エレベーターのことを調べたら、東京を代表とする日本国土に“軌道エレベーター”は作ることはできないことが解った。

 まあ、反旗を翻す、って、地球人と地球にやって来た友好宇宙人·リオフォルドとは対等な関係だったんだろうけど、科学技術のレベルは明らかに異星人リオフォルドの方がずっと上だった。で、宇宙エレベーターとも呼ばれる軌道エレベーターは理論上は実現可能な未来の超ハイテク建設施設ですが、実は地球上の赤道上にしか作れない。軌道エレベーターの終点は静止衛星だから、静止衛星は地球の赤道上はるか36000キロの軌道上にしか存在出来ない。宇宙空間のその他全部の地球上空軌道上では、“静止衛星”は無理なんですね。地球の地上から見た目で静止している人工衛星は、一つの軌道上でしか無理なんです。その他のどの軌道でも人工衛星は、地上から見た目動いてしまう。物理的にそうなんですよね。だから赤道よりもだいぶ北の方に位置する日本国土からの軌道エレベーターは作れない。

 まあ、軌道エレベーターは上空に真っ直ぐ伸びる、って考えるからで、日本の例えば東京の位置する緯度から、赤道上空の静止衛星まで斜め方向に長々伸ばせば、できないこともないのかな?でも何か捻じ切れちゃったりしないかな、とか不安になりますね。物理的に何か起こりそうな…(地上と宇宙の始点·終点の緯度が大幅に違うのに地球と衛星が同時に回転してると、何か別の力が働いて斜めに伸びる茎部分が捻じ切れるような不安があるが、どうか?)。やっぱり軌道エレベーターの地球上乗降口は、赤道上の陸地になるでしょうね。だから東京からの軌道エレベーターはできない、と。物理のトーシローだけど多分そう思う。

 

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●漫画・・ 「金田一少年の事件簿-魔犬の森の殺人」

 「金田一少年の事件簿-魔犬の森の殺人」を読んだ。再読。講談社漫画文庫の20巻。これ、一度読んだのは今から十年以上前だとばかり思っていたら、奥付見ると2006年8月第六刷となっている。内容をすっかり忘れていたから、今から6、7年前に読んだものさえ忘れてるんだ、と自分で驚いた。ボケが始まっとるな~。少年コミック「金田一少年の事件簿」は、2000年前後くらいに、週刊少年マガジン連載分をまとめた、本誌と同じB5雑誌タイプの総集編で読んでた。続けて10冊くらいは読んだと思う。TⅤドラマの、キンキキッズ・堂本剛主演のドラマは2時間スペシャルものは、多分、2、3度くらいは見てると思う。まあ、僕はアンチ・ジャニーズ系の方だから、ドラマは見ても、そんなに好きになるドラマでもないが、原作漫画の方は面白かった。ファンになるほどでもないけど、面白い謎解き漫画。雑誌タイプ総集編は全部何処かへ行ったが、文庫版「金田一少年の事件簿」は家に十数冊ある。昔読んだ作品を読み返してもほとんどストーリーを忘れていて、無論、犯人も解らないし、再読で楽しめる。まあ、ワシの脳味噌の劣化といえばそうですな。やっぱ、ボケの始まりか?怖い。



 再読で、「魔犬の森の殺人」というタイトルから、少年の頃読んだ、シャーロック・ホームズの長編、「バスカヴィル家の犬」を想起して、あの小説をもじるかなぞるかした作品かなあ、とか思ってたら、全然違うストーリー。そういうことさえ忘れとった。ネタバレになるけど、犬はいっぱい出て来るけど、「魔犬」はいない。「魔犬」がキーポイントだもんね。未読でこれから読もうって人は、「魔犬」出ないってバラして、ゴメンネ。



 「金田一少年の事件簿」っていつだ? 週刊少年マガジンに92年から2001年までか。その後も続編で不定期連載されてるけど、最初の連載分は90年代だな。と、すると、僕が雑誌タイプ総集編で読んでたのは2000年よりだいぶ前だな。95年とか96年97年頃かも。まあ、別にイイんだけど。

 小説の「本格推理」ジャンルのコミック版ですね。横溝正史のおどろおどろ怪奇ムードの本格推理小説をコミックでやりました、というスタイルの漫画ですね。まあ、主人公設定が、横溝正史代表作の名探偵、金田一耕介の孫というお話だし。謎解き犯人当てゲーム漫画、とも言えるかも。雑誌連載では、毎号掲載分の扉にお話の登場人物がズラッと並べられるし、殺害された人のワクにはアミ掛けされてる。ゲーム・コミックと言っても良いんだろうね。犯人当てが醍醐味だろうから。



 申し訳ないんだけど、謎解き推理・少年コミックの双璧、週刊少年サンデーの「名探偵コナン」は僕、読んだことないんだよね。勿論、アニメも見たことない。小学館さん、ゴメンネ。

 「金田一少年の事件簿」は復讐譚がだんぜん多いですね。中には遺産相続争いとかもあるけど。復讐鬼による見立て殺人が断然多い。見立て殺人は、怪奇ムードを煽るからね。あ、天樹征丸さんの小説版もあるんだな。

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●漫画・・ 「みどりの魔王」..(10)

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 「Kenの漫画読み日記。」の一つのタイトル、「みどりの魔王」の第一回を2009年10月30日にアップしてから、この一つ前の第九回を2011年11月20日にアップして、ついに第十回までやって来ました。記念すべき「みどりの魔王」第10回の記事ですね。まあ、続きもんの第10回です。連続Blog記事第10回。この九回で60年代の傑作SF漫画作品「みどりの魔王」の内容についてはだいたい書き込んでて、僕自身、もう「みどりの魔王」という漫画作品については書くことなぞないに等しいくらいなんですね。

 もう一度、「みどりの魔王」のあらすじをざっと述べると、太古の昔、宇宙人が地球に残していったスーパー巨人ロボットが、アマゾン奥地の謎のピラミッドの中で発見された。盗賊に無残にも両親を殺された日系移民の子孫の少年、ワタルは偶然にもスーパーロボット“みどりの魔王”を手に入れ、この巨人ロボットを自由に操って、両親の仇である盗賊どもをやっつけ、復讐を果たす。物語の初めから“みどりの魔王”争奪戦は、遺跡発掘隊チームらやワタル少年、悪魔の科学者ゴラム博士と三つ巴で続きます。執念のマッドサイエンティスト、ゴラム博士が自らが制作した怪ロボットを“魔王”にぶつけ、最後まで“みどりの魔王”獲得に激走(激争)する‥。というような内容の物語ですね。

 ええっと、前回とか前々回とかに書いていた、僕の小学生時代のエピソード、「みどりの魔王」が小学館の学年誌に連載されていた、小学校四、五年生時、多分、小学四年生のときなんだろうナ、クラスメートのM君が、この時代、超大人気の漫画家、横山光輝氏作画の傑作ロボットSF冒険漫画「みどりの魔王」が掲載されている「小学四年生」を学校に持って来て、授業の間の休み時間に雑誌を持って、教室内をウロウロ歩いて回り、M君の気に入っているクラスメートには本を見せて回っていたが、僕や僕の友達には見せてくれなかった、という件。このことを書いていたんですね。僕は「みどりの魔王」が見たかったので、M君に「見せて」と懇願したけど、とうとう見せてくれなかった。このM君の話を書いていた。このM君は同じ町内ではなく、校区は同じだけど、隣町に住むクラスメートで、小学校六年間ずーっと一緒のクラスだった。中学のときは二年生時だけ同じクラスだった。高校からは別の学校に行った。前回か前々回かで、小学校一年生のとき、泣き虫だった僕がこのM君も含めて何人かで休み時間、教室でじゃれ合っているとき、僕が悪ふざけの範疇でM君の腕に噛み付いた。そうしたら、M君が激怒し、形相が変わり、まるで当時のプロレスの最凶悪役レスラー、フレッド・ブラッシーみたいな恐い顔をして、身体ごと腕を後ろに反動を付けて、渾身のパンチを僕の顔面に叩き込んで来た。気弱・小心・泣き虫の僕は、ビエエェェェ~ッ!と声を上げて大泣きした。ここまでのエピソードを確か、前々回に書き込んでいたんですね。

 あ、前回や前々回ではない、第6回や第7回で書き込んだエピソードだ。前々々回や前々々々回ですね。訂正します。前々々回と前々々々回。まあ、どっちでもイイヨーナことか。Kenの漫画読み日記。タイトル「みどりの魔王」も最初の第1回が2009年の10月アップで、実に今回ので第10回ですもんね。内容はないが、よく続いたもんだ。

 それで、この小学一年生時に殴られた僕の、M君への復讐ですけど、まあ、十歳くらいの年齢の子供の僕が、それほど「復讐」なんてことを意識していた訳ではなかったのでしょうが、僕は小学四年時にはクラスで番町格のもう一人のM君と親友になり、僕も両M君も同じクラスの悪ガキ仲間でしたが、番町M君とは僕はお互いの家に泊まりに行ったり、しょっちゅう一緒に遊んでる仲の友達どおしでした。だから一時はクラス内では何となく、ボスが番町M君で僕は副ボスのようなポジションに居ました。フレッド・ブラッシーM君は悪ガキ仲間なんだけど、何となく悪ガキチームから少し離れた存在のようだった。悪ガキ隊の一番外れに位置しているよーな。

 ある日のあるとき、学校の休み時間にクラスの悪ガキ連5人くらいで、トイレに行ってたんですけど、その中にM君も居て、みんな小用の中でM君が大便をしたいと言い出した。それで、M君は小学生なんだけど、上着によく、黒色の学生服を着ていた。大便用トイレに入るから、僕にこの上着を持っていてくれと言う。僕は学生服を預かり、M君はトイレに入りドアを閉める。男子用便所内の小便器前に残った悪ガキ連四、五人の中で、僕は、用具入れに置いてある便所掃除用デッキブラシを取り、当時の細長い溝状の小便器に残る、汚物のドロドロした汚れにブラシの先を擦り着けて、液状汚物を先のブラシにたっぷりと含ませて、M君の上着を他の悪ガキの一人に持たせ、僕はブラシの汚物を学生服の内側生地に塗り付けた。しばらくしてM君が用を足して大便用トイレから出て来たとき、何気なく学生服を手渡すと、何も知らないM君は普通に、学生服に袖を通して上に着た。僕を始め、周囲の悪ガキ連はゲラゲラ笑う。番町格のM君も居たと思う。その場にコエクミ君も居たんじゃなかろうか。みんなが笑っているので、M君が不思議そうな顔をして、「どうしたんだ?」と訊いて来た。僕がデッキブラシを指し示して、種明かしをすると、M君は顔をクシャクシャにして泣き始めた。それでも、学生服は着たままだったように思う。

 その後、もう一回、同じようにM君が大便トイレに入ったときのことを、僕は記憶している。このときも悪ガキ連みんなで男子トイレに居た。このときは大便に際して脱ぐような上着は、M君は着ていなかったのかも知れない。とにかくこのときは僕に上着を預けることなく、みんなを残してM君は大便トイレに入った。その後、僕自身が閉めたのかどうか、僕らはトイレのドアを中から開けられないように外から閉めた。そうしたらM君はドアをどんどん叩き続けて、「開けてくれ!」と叫んだ。それでも開けないでみんなで外で笑っていたら、トイレの板戸を這い登って来た。壁に沿って設えた大便用トイレには仕切りとドアはあるが、天井は開いていた。上まで上ってM君の上半身が覗いたところで、僕がドアを開けると、梁というか横渡しの板にちゅうぶらりんになった状態になって、M君は泣き始めた。まあ、苛めといえばこれは苛めでしょうね。しかし、どうしてだか今となっては記憶にないんだけど、この男子トイレ内での僕ら悪ガキ連の行為は、この後、担任の先生にバレた。

 僕ら悪ガキ連と犠牲者、M君は教室の前方に並ばされて、クラス全員の前で厳しく怒られた。担任の女先生から、「どうしてこんなことをやっていたのか?」と一人一人問い詰められ、それぞれが応えて行き、僕の番になった。僕が、「小学一年生のときにM君から殴られたから、その仕返しをやった」と応えたら、先生から、そのメンバーの中で一番の悪者にされ、僕は「カゲヒナタがある」と言われた。それからしばらくは僕は、クラスメートから「カゲヒナタ」と呼ばれるようになったけど、当時の僕はクラス内ではけっこう力のある方だったので、「カゲヒナタ」呼ばわりはそんなには続かなかった。僕は番町格のM君と親友で、まあ、いわば虎の威を借りたキツネだったのだ。

 そこからは、僕ら悪ガキ連の中での、M君苛めはなかったですね。便所での行為が僕の小学一年生時の復讐だとすれば、僕も四年越しの仕返しだから随分執念深い。後は、M君とも仲良くやっていた。一度、悪ガキ連が二派に割れて、グランドの隅で3対3で決闘みたいな掴み合いの喧嘩してたら、先生に見つかって職員室で怒られた。このとき、僕が掴み合っていたのはM君でしたね。後は、M君とも、一緒に遊んでることが多かったですね。僕は小学生の六年間で、他にももう一人、苛めた子が居る。逆に小六のときに、体格が良くて大きな、如何にもガキ大将タイプの転校生から苛めに合った。このときは本当に嫌な思いをしました。小学生時代、僕は、苛める方も苛められる方も経験した。

 「みどりの魔王」が小学館の学年誌に連載されていた頃、僕の小学校中高学年時代、僕が小学校3年時か4年時に、僕は奇病で独り悩んでいた。大人になってから考えると、あれは「神経症」だったのだが、無論、8歳とか9歳の頃の子供にそんなこと解る筈もない。症状は、例えば学校の階段を降りるとき、右手で階段の手すりを触ると、左手でも触らないと居ても立ってもいられなくなるのだ。教室の引き戸を右手で開けたとすると、左手で同じように戸を持たないと気が済まない。これは何事でも全部そういう調子で、意識したら、鉛筆を落として左手で拾ったら、右手でも鉛筆を触らないと我慢できない。右手でボールを触ると左手でも触って感触を認識しないと、気持ち的にたまらなくなる。要するに強迫神経症の症状ですね。

 

 小三時か小四時かはっきり覚えてないんだけど、多分、小四時だったようにも思う。左手で黒板に触れようものなら、右手でも同じように黒板に触れないと耐えられない。何気なく壁に右手が触れたら、ひとたび、今触れた、と意識したら左手で同じように壁に触れないと居ても立ってもおれず、我慢できない。小四の頃、これには本当に悩みました。毎日毎日苦労してました。「こんな変な癖が友達に知れたらどうしよう? キチガイと思われて、馬鹿にされるに違いない」、そう思って、僕は毎日、この奇病の症状を必死に隠しながら、独り、ひたすら症状と戦っていました。今、記憶にあるのは学校でのことばかりだけど、多分、家でも同じような症状は出てたんでしょうね。ただ、学校に比べて家ではリラックスしてたから、学校滞在時ほどに症状がひどくなかったのかも知れない。もう何十年も昔の話なので、状況の詳細はあいまいになってしまいますけど。

 この奇病、右手で触ったら直ぐに左手で、あるいは逆の場合でも、同じように触らないと、居ても立ってもいられない、我慢できない、という不思議な症状、これに悩んでいたとき、当時僕が毎週購読していた「週刊少年マガジン」の特集記事コーナーで、「世界の奇病100」という特集があって、そこに、この症状が載っていたのを見つけて驚きました。病名を「左右対称ノイローゼ」と書かれていました。僕はこれを発見して、「ああ、そうだったのか。僕のこの変てこりんな癖は病気だったんだ!」と認識しました。当時の「週刊少年マガジン」は内容が漫画ばかりではなく、子供向けの記事らんにもけっこうページを割いていました。60年代前半までは少年向けの小説さえ掲載されていました。そんな当時のマガジンには毎週、「ダイヤモンドシリーズ」という特集記事が掲載されていました。例えば「世界の不思議50」とか「なぞなぞ100」もあれば、「怪獣50」もある。たいていは、子供が驚いたり不思議がって面白がる内容の記事ですね。UFOの目撃情報記事だとか、プロレスラー名鑑までイロイロ。そんな「ダイヤモンドシリーズ」の中に、ある号で、「世界の奇病100」みたいな記事があったんですね。その、カタログ記事みたくワク分けした記事の一つに、「左右対称ノイローゼ」という病名が書かれ、ごく簡単に解説されてました。

 僕のこのおかしな症状は、これは病気で、病名を『左右対称ノイローゼ』というんだ!、と驚き、また妙に納得したものです。子供の僕は、当時は『病気』だなんて意識してませんでしたからね。自分ではどうにもならない『癖』くらいに思っていた。「ああ、『病気』だったんだ」と解って何だか落ち着いた感じだった。でも、ますます学校の友達や先生という他人には絶対に話してはいけないことだ、ときつく自分に課しました。話した途端、僕はみんなからキチガイ扱いされる、と思ってました。キチガイ扱いされたら、クラスで除け者にされる、と。そう思ってた。あの当時、親には話したんだろうか。母親には話したのかも知れないけど、多分、相手にされなかったでしょうね。そんな気がする。僕はもっともっと小さいときから、幼児期から、よく母親に「この子は神経質だから」と言われてました。正に、もう幼少時からその『気-ケ-』はあったのです。親の知らない内に八歳九歳の頃、その症状が出てた。これは『左右対称ノイローゼ』というか、ズバリ「神経症」の症状ですね。強迫神経症。大人になってから、「あのときの“あれ”は‥」とはっきりと認識した。

 この僕の8歳か9歳時の、多分、9歳時なんだろうな、という気もするけど、このときのいわゆる『左右対称ノイローゼ』は、実は、僕は自分自身だけで克服しました。毎日、右で触れば同じように左で、左で触れば右で、というこのどうしようもない強迫観念を、この強迫的な癖を何とか直したいと、あるときから我慢するようにしました。それは辛かったと思います。右手で触った物をどうしても左手で触りたい、でもとにかく一生懸命我慢する。今、手すりに左手が触れた、右手で同じ箇所を触りたくてたまらない。けれど必死で我慢する。ああ、触りたくてたまらない。けれども凝っと耐える‥。とにかく、絶対に我慢する。僕は、途中からこれを、この我慢行為を始めた。自分の中の何かとの戦いですね。当時は本当に、必死の戦いだったんだと思います。で、毎日とにかく耐えていた。しばらくやっていたら、いつの間にか強迫観念が納まって来て、やがて消えていた。僕は『左右対称ノイローゼ』に打ち勝ちました。自分の心(精神)の中の何かと戦って、ついに勝った。戦い続けて、あるときからもう、右で触ろうが、絶対に左で触らなくてはおれない、という症状はなくなった。良かった。僕は治った。

 でも、次に別のヤツがやって来た。『左右対称ノイローゼ』からは解放されたけど、次の症状が出て来た。今度のヤツは、衣服の、下着でも上着でも、首部分に襟元が当たると、ほんのちょっとでも当たると、触れると、たまらなく気持ち悪い。この症状が出て来た。これは小四から小五ですね。だからとてもロングネックなぞ、タートルネックなぞ、ハイネックなぞ、自分の首部分に衣服の一部が当たるものは着ることが出来なかった。丸首セーターでも生地が、ちょっとでも首の付け根にでも触れれば、たまらなく気持ち悪かった。この当時は僕は、しょっちゅう上着の襟や首周り部分を引っ張っていました。そうしてこれがエスカレートする。次には、胸の、心臓や肺の上にあたる部分の皮膚が、下着の裏側に当たると、触れると気持ち悪くて仕方が無い。胸の部分の肌が下着に当たる感触が、居ても立ってもいられない。これで、僕は毎日いつもいつも、衣服の胸のあたりを引っ張り上げていました。まあ、症状的には、『左右対称ノイローゼ』のときよりもラクではあったんですが。しかし、授業中も休み時間もしょっちゅう衣服の首周りを引っ張ったり、胸のあたりを引っ張り上げたりしていた。多分、周りの人たちからは奇異な行動に映っていたんでしょうね。これも一生懸命、隠していた。バレると恥ずかしいから。変人扱いされるから。多分、親には話しても、相手にされなかったでしょう。この癖は、中学生くらいになってから症状は軽くはなったんでしょうが、その後もハイネックの衣服や丸首でも首周りの狭いものは、なかなか着れませんでしたねえ。大人になってもこの癖は残ってたけど、歳を重ねるごとにだんだん軽くなっていった感じ。

 

 週刊少年マガジンの特集記事の中で発見した僕の症状、『左右対称ノイローゼ』という呼び名、奇病というか、要するに強迫神経症の症状ですが、これに悩まされていたのは、僕の小学校四年生時の多分、一年間くらいだったんだと思います。僕の毎日の努力のかいあって、症状がだんだん軽くなって行き、ついには『左右対称ノイローゼ』症状は消えてくれた。あとは緩やかな症状として、首周りや胸部分に下着や衣服がくっ付くと気持ち悪いのが、大人になっても続いたくらいでした。でも後々、随分経ってからまた、神経症の症状が出た。それは20代末。今度は対人恐怖症だった。僕は公立の普通科出身で大学行きたかったのですが、高校生時代の僕の家は大貧乏で、進学しようにもとても学資なぞ出よう筈もなく、僕は高校卒業と同時に上京して、とある大企業に就職しましたが、十年ちょっと経ってから、あるとき、対人恐怖症の症状が出て来た。『対人恐怖症』といっても、別に誰か、人間が自分を襲撃して来て危害を加えられるのが怖い、というものではなく、要するに、人に対して余計なことを気にし過ぎるんですね。もう最初(ハナ)から、自分は、人に嫌われているのではないか、自分の目付きが人に警戒心を持たせるのではないか、自分の一言が相手を怒らせるのではないか、または傷付けてしまうのではないか、自分の存在が相手に不快感を持たせるのではないか、と、とにかく人を前にするとマイナスのこと、ネガティブなことを考え、その思い込みがエスカレートして病的になり、人前で喋れない、相手の目が見れない、人と対面できない、そういうふうな症状が出て、人間関係をとてもやっていけなくなるんですね。社会生活をやって行く上で、大きな障害となる。

 この『対人恐怖症』の症状で、ぼくは十年以上勤めた、高度経済成長期(安定成長期)からバブルに向かう時期の大企業を、非常に勿体なかったけど辞めてしまった。それから田舎に戻って一年半近くプータロー生活をして、今でいうニートですが、そこからまた社会復帰を果たす。幼児期から母親が僕をして「この子は神経質だ」と言ってましたが、もともと僕には神経症的な素質があったんでしょうね。素質って、非常に困った悪い素質ですけど。悪い因子。今でいえばDNA的な負の資質ですね。これまでの人生で、学校でも職場でも、僕は組織や集団の中で、何とか人間関係をうまくやろうと僕なりに頑張って、うまくやって来たとは思うけど、イロイロ苦労はして来てますね。十年ちょっと勤めた首都圏サラリーマン業の大企業を退職して、ニート生活をやった一年半近くの中で、僕は空手道場に通い、そこでの鍛錬で社会復帰への弾みを着けた。僕はこの半生で、精神科系の病院には掛かったことは無いけれども、空手の日々の稽古が僕を社会復帰させてくれましたね。

 昔は、精神科に掛かったりして周囲に知れると、直ぐにキチガイ扱いされて差別視されることが多かったと思いますが、そういう意味では今は時代が良いですね。パニック障害やうつ病など、精神的な症状が出て、軽い症状の内から、割りとイージーに精神科や心療内科といった医療機関に掛かって、治療を受けてる人が多いでしょ。現代は、企業や公務員で、うつ病で休職する人も多いし。昭和の時代は、特に精神科系の病状は、周囲が露骨に差別視して陰口していたように思う。昔の方が世間が、陰険で冷淡で険悪だったように思う。昔の人たちに比べて、今の人たちの方が優しいな、という気がします。

 さて、「みどりの魔王」第10回も、僕の小学生時代のエピソードを書き込んで来ました。正直、もう漫画作品「みどりの魔王」自体については書くことは何もありません。けれども、この、Kenの漫画読み日記。タイトル「みどりの魔王」シリーズは記念すべき第10回を終えて、まだ続きます。本当はもうイイ加減、10回で終了のつもりでしたが、小学生時代のエピソ-ドで書き足りないこともあるので、まだ続いてしまいます。「みどりの魔王」..(11)へと続く。

◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(1)-2009-10/30
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(2)-2009-10/31
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(3)-2009-11/01
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(4)-2009-11/01
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(5)-2010-02/26
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(6)-2010-05/13
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(7)-2011-01/10
◆漫画・・   「みどりの魔王」..(8)-2011-10/22
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(9)-2011-12/20
◆漫画・・ 「みどりの魔王」..(10)- 2013-07/01

 

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