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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(17)

17. 

 都市部の鉄道メインステーションの前から伸びる、四車線大通り両側に林立するビル群。ここは、この地方都市最大のオフィス街だ。割りと近い距離に空港があるため、並建つビル群の高さは制限されているが、大通りオフィス街の中程に15階建てで、通りに面したビル幅がとても広く、ひときわ目立つ立派なオフィスビルがある。

 時刻は正午を少し過ぎたくらいで、ビルの正面玄関から数人の、如何にもオフィス勤めという風体の男女が吐き出されて来た。昼食を摂りに行くのだろう。15階建ての横幅のある大きなビルの中の会社員たちが、昼どきに社外に出て行くにしては少ない人数だ。

 この15階建ての大ビルには地下があり、地下は三階まであって、地下二·三階は駐車場になっているが、地下一階はこのビル専用の食堂街なのだ。しかもこの地下街は地下の通りで駅地下の巨大地下街と繋がっている。ビルの中の会社員たちは大半がビル地下の食堂街で食事を摂るか、地下通路を通って駅地下まで足を伸ばして駅ビルで食べたりしている。だから、時分どきにビル玄関から大通りに出て外に食べに行く者はそんなには居ない。

 中村達男と藤村敏数·在吉丈哉の三人は、15階建てビル正面玄関から大通りに出て来た。この三人の若い男性は、ビルの6階と7階全フロアに入っている会社、ワカト健康機器産業の営業部に所属する平社員だ。三人ともネクタイこそしているが白色の半袖ワイシャツにスラックス姿で、夏場の戸外の暑さに上着は着ていなく、ネクタイも緩めて衿元を拡げている。

 晴れた夏の日の都市大通り、歩道の人の流れは駅に向かっているが、三人は駅とは反対方向に歩いて行く。

 オフィス街の外れの方へと歩く三人は、ビルとビルの間の路地へと入って行った。その細い通りには小さな飲食店が並んでいる。まだ店を開けていない、焼き鳥屋やカウンター主体の小さな居酒屋、バーやスナック。どの店も年季が経って薄汚れた感じの大衆酒場という印象だ。まだ営業前の飲み屋街の、店々の間に小さなラーメン屋があった。三人はラーメン屋の暖簾をくぐった。

 ラーメン屋はカウンターだけの店で、席の半分は客で埋まっていた。いずれの客もこの辺りのオフィスで働くサラリーマンふうだ。女性客は居ない。客はみんな黙々とラーメンを掻き込んでいる。三人はカウンターの奥の席に並んで座った。

 「こんな店があったすか。知らなかったなぁ」

 「この店はよぉ、汚ないけどラーメンはうまいんだよ」

 在吉丈哉に向かって中村達男が言った。比較的大きな声だったので、藤村敏数がカウンター内に立つ店の人の顔を見た。聞こえなかったのか気にしてないのか、忙しそうに作業をしている。奥でどんぶりを洗っていた若い店員が三人の前に来てカウンター越しに注文を訊いた。三人は豚骨ラーメンとギョーザと、同じものを頼んだ。

 お冷やはセルフらしく、カウンターの間を空けて何ヵ所かに伏せたガラスコップと冷水の入ったずんぐりしたポットが置いてある。一番年下の在吉丈哉がコップ三杯冷水を注ぎ、二人の先輩に回した。

 確かに中村達男の言うとおり、店内は年季が入っていて汚ない感じも受けるが、流行ってはいるらしく、直ぐにカウンターだけの席が全部埋まった。暖簾を開けて店内を見て引き返す客も居る。

 三人の前にラーメンとギョーザが次々と並べられ、三人は特に話をするでもなく、ラーメンを食べ始めた。湯気が立つ中、何口かラーメンをすすった藤村敏数が、隣の中村達男の頭部をしげしげと眺め、声を掛けた。

 「おい、タッちゃん。その頭のケガは大丈夫なのかい?」

 下を向いて黙々とラーメンをすすっていた中村達男は、咀嚼しながら、くぐもった声で一言「後で話す…」とだけ答えた。二人のやりとりに在吉丈哉が顔を上げて首を伸ばし、中村達男の頭越しに藤村敏数を見た。在吉丈哉は何も言わないが、その目が意味深な感情を表していた。中村達男は頭に包帯を巻いている。頭部をケガしているようだ。

 藤村敏数と在吉丈哉は目を合わせ、敏数が、丈哉の困ったような焦っているような表情に、後は何も言わず、二人は下を向いて再び黙々とラーメンを食べ始めた。

 店内の隅の高い棚に、カウンター席の客から見えるようテレビが設置してある。14型かもう少し大きい、申し訳程度のテレビで音も絞ってあって音が出ているのは解るが、流行ってる店の中の喧騒もあって、テレビの中の人たちが何を言っているかまで解らない。

 在吉丈哉はラーメンとギョーザを半分までたいらげ、一息吐いた拍子に顔を上げテレビを見た。テレビではニュース番組をやっていた。男性アナウンサーが何か喋ってるが音が聞こえない。だが画面下部に字幕が出ていた。

 テロップには「狼病患者、治療薬投与によって次々と快方に向かう」と出ている。在吉丈哉は黙って読んだ。次に「世界的な狼病研究の権威、オーストリア人医学者·シルバーウルフ博士の持ち込んだ専用治療薬」と出て、その後「特例措置により患者に投与」と出た。画面には並んだベッドに寝ている患者に医師が注射している映像が映っている。

 「どうしたんだ、食わねえのか?在吉」

 ポカンと顔を上げたままの在吉丈哉に、隣の中村達男が咀嚼しながら声を掛けた。藤村敏数も顔をラーメン丼から上げて在吉丈哉を見た。

 「いえ。狼病、次々に治って行ってるんですねぇ。藤村先輩の元カノの人、どうなんでしょう?」

 丈哉が藤村敏数を見た。この話題を振って悪かったかな、とも思った。藤村敏数は黙ってテレビ画面を見上げている。

  画面は次のニュースに切り替わった。ぼそぼそと藤村敏数が喋る。

 「彼女は職場近くの道路で倒れてたそうだ。意識がないまま警察病院か何かに居るって聞いた…」

 「ええっ!そうなんすか?」

 丈哉はその話は初耳だった。中村達男は敏数の話には反応しなくてギョーザを食べ続けてる。達男は食事のピッチが早い。

 「中村先輩、もりもり食べるっすね?」

 普段は中村達男も食事中はダベリながら食べるので、別にそんなに食事が早い訳でもない。だがこの昼食はあまり会話を挟まず、食事に集中してるふうだった。藤村敏数も話を続けるでもなく、また下を向いてギョーザをつつき出した。

 いつもに比べておとなしい中村達男は食欲は普通に旺盛らしく、ラーメンとギョーザを平らげて箸をギョーザ皿に置いた。コップの水を一気に飲み干す。藤村敏数も在吉丈哉もまだラーメンもギョーザも残っている。

 中村達男が藤村敏数と在吉丈哉の方を交互に見ながらボソリと言って、席を立とうとする。

 「俺は係長が何か話があるらしくて呼ばれてんだ。だから先行くわ」

 中村達男が立ち上がり店の出入口に向かった。在吉丈哉は達男が自分の食べた分を払わずに行くのかと心配したが、達男はレジで止まって支払いをしていた。自分の食事代だけ払ったのだろう。達男は店を出て行った。藤村敏数は黙ったままでラーメンのスープを飲んでいる。

 同じくらいに敏数と丈哉が食べ終えた。二人ともグラスの水を飲み干す。一緒に席を立ってレジに行き、別々に払ってラーメン屋を出た。

 丈哉が敏数に向かって言った。

 「まだ時間あるから喫茶店でも入りますか?」

 「うん」敏数が応え、二人はラーメン屋を離れて自分たちの会社方面へ向かった。

 「ここ、入るっすか?」

 丈哉が顎をしゃくって一軒の喫茶店を示した。

 「ああ」敏数が気だるそうに返事する。

 敏数たちのワカト健康機器産業の入る大型ビルから50メートルくらい手前の、大通り沿いの中堅ビルの一階にテナントで入る喫茶店だ。ビルの角に、スモークを掛けた暗いガラス張りの大きな窓で設えてある店舗で、ビルの玄関口とは別に店の入口がある。

 二人は店の中に入り、開いているテーブルに座った。割りと流行っている喫茶店らしく七、八割方席が埋まっている。深い傘で覆った黄色い照明が、間隔を置いて天井に配置されてあり、店の中は薄暗い方だ。客はサラリーマンふうが多く、中にはOL の四人組がぺちゃくちゃと喋っている。

 中は冷房が効いている。やって来たウエイトレスに二人はホットコーヒーを頼んだ。

 「中村達ちゃんの頭だけどさぁ、あれはどうしたんだい?」

 敏数が話を切り出した。先程から、中村達男の頭部をぐるぐる巻いた包帯が気になっていた。ニヤニヤ笑っている丈哉が応える。

 「ああ、あれですね。あの傷に行き着くまでにはけっこう長い話があるんすよ」

 疲れているふうな雰囲気の敏数だが、興味津々なようで幾分目付きが輝いている。敏数もニヤニヤしながら先を促すような顔つきだ。

  「ほら、いつか俺らが繁華街の交差点で警察に連行されたでしょ。藤村さんはまだ入院してた…」

 「ああ。言ってたな。達ちゃんが交差点の手前で突然、ズボン降ろして出しちゃって、公然ワイセツになったって」

 「それです、それです。あのときはね、中村先輩お気に入りのキャバ嬢の娘が現れて、中村さんを誘うような仕草で、中村さん催眠術に掛かったみたくフラフラ着いて行っちゃったんですよ」

 敏数は腕組みしてニヤつきながら聞いている。

 「で、夢遊病者みたくキャバ嬢の娘、フラフラ追い掛けるから、これは尋常じゃないって、俺、中村さんにタックルして止めたんす。そしたら中村さん凄い勢いで前に行こうとする。俺は止めようと必死だけど、中村さんの前に出る力が強くて、俺のタックルした両腕が腰の下に下がった。慌てた俺が思わず掴んだら、チンコが勃起してたんす!」

 調度ウエイトレスがコーヒーを持って来たところで、『チンコが勃起』の言葉に反応して驚いたのか、敏数の前に置くコーヒーカップを皿ごとガチャガチャいわせて、少しこぼしてしまった。ウエイトレスが慌てて詫びながらテーブルにこぼれたコーヒーを布巾で拭く。

 「取り換えて来ますね」

 焦るウエイトレスに敏数が笑顔で応えた。

 「たいしてこぼれてないから、いいよこれで」

 ウエイトレスは丈哉の前にはコーヒー茶碗をちゃんと置いて、敏数のものはおぼんに戻して去って行った。

 「“チンコが勃起”がキョーレツだったんだな」

 「“チンコが勃起”で驚かせちゃったっすね」

 二人は同時にハハハと笑った。

 「どーも、達ちゃんの話をすると、どうしてもシモネタが入っちゃうな」

 「そうっすね」

 二人はまたハハハと声を出して笑った。

 「で、それからどうしたんだい?」

 先に笑い終えた敏数が話の先を促した。

 「ああ、それで俺は驚いたんすよ。フラフラ夢遊病者みたくキャバ嬢追っ掛けてる中村さんの股間が固くなってるすから。思わず俺は両手の力が抜けて、中村さんの腰を離した…」

 再びウエイトレスがやって来たので、今度は二人は話を止めて黙った。ウエイトレスが敏数の前にコーヒーを置いて去ると、丈哉がまた話し始めた。

  「俺から離れて中村さんが尚もフラフラ歩いて行くっす。交差点を挟んだ向こう側には中村さんお気に入りのキャバ嬢が居て、こっちの方向いて『おいでおいで』してるんすよ」

 「うん、うん」

 敏数も興味津々の態で真面目な顔をして聞いている。

 「交差点挟んでキャバ嬢見詰めながら、中村さんはズボン降ろしてパンツも一緒に降ろして、モロ出ししちゃった。そうしたら、あの繁華街の交差点でしょ、群れ居る人たちが一斉に驚いて悲鳴やら何やら大騒ぎっすよ」

 敏数は異常事態の話に笑わずに真面目な顔をしたままだ。丈哉は一気に話して喉が渇いたのか、コーヒーを飲んだ。もうだいぶ冷めてるらしい、ごくりと飲んだ。敏数もコーヒーをすする。

 「それで警察が来ちゃったのか」

 「あのあたりには交番があるし、警らに回ってるおまわりさんも居るっすからね」

 「で、パトカーで最寄りの署まで連れて行かれた、と」

 「はい。俺は一緒に居た知り合いってことで話を訊かれただけで帰されたんすけど、中村先輩はその後留置されて」

 「えーっ。達ちゃん、牢屋に入れられたんだ」

 「はい。その後の話を聞いたんですけど、何でも夜遅く奥さんが身元引き受け人になって連れ帰りに来たんだとか」

 「そうだったのか。で、警察に行ってからの達ちゃんの様子はどうだったんだい?」

 「それがね、警察でもまだボーッとしたままなんすよ。別にそんな大きな犯罪でもないし、中村さんと俺と一緒に取り調べ受けたんすが、コワモテな感じの警察官の前でも何かボーッとしたままで」

 丈哉がお冷やの水をごくりと飲んだ。敏数は真剣な顔で黙って聞いている。

 「それでまぁ中村先輩、半分夢遊病者状態だから、俺が中心になってコトのイキサツも、働いてる会社とか俺らの身分も全部おまわりさんに話して、俺は帰っていいって放免されて中村さんは留置になっちゃって」

 「達ちゃんは警官の取り調べ中もただボーッと座ったままだったの?」

 「いや、調書に名前と住所書けって警官に言われて、何か心ここに在らずみたいだけど、名前はゆるゆる書いて、住所は思い出すのに手間取ってたっすね。奥さんの名前は割合早く出て来たかな。最終的に持ち物の免許証とか名刺とか会社の身分証とかで住所も自宅の電話番号も解って。携帯も持ってたし」

 「で、奥さんが身元引き受け人として達ちゃんを貰い受けに来たんだ?」

 「はい。でもその前に僕は帰っちゃいましたけどね」

 「それで達ちゃんの頭の傷は?もしかして怒った奥さんにやられたの?」

 「実はそうなんすけどね。奥さんもそれだけで怒ったんじゃないんすよ」

 「頭、包帯でぐるぐる巻きだから、かなりの怪我を負わせたんだろうからな。あれは病院行った治療だろ?」

 「はい。そうっす」

 「それにしても在吉君はよく知ってるな。中村達ちゃんがそんなコトまで在吉君に話したんだ?」

 「いや、あの後、中村先輩に聞いたのもあるんすが、実は俺は警察にもう一回呼ばれましてね」

 「へえ~、あ、そうなんだ」

 「何しろ話が今世間で大騒ぎの“狼病”絡みになっちゃって」

 「えっ、“狼病”絡みだって?」

 敏数が驚いて訊き返した。険しい表情になっている。“狼病”というと藤村敏数の元恋人の城山まるみも“狼病”に罹患して、ゾンビ化してしまったらしい。ゾンビ化した城山まるみは、敏数の前恋人の有馬悦子を殺害した容疑で、現在警察病院に収容されている。

 敏数が身を乗り出して来た。話の先を聞きたいのだ。丈哉が話を続ける。

 「最初の取り調べのとき、警察官に知ってるコト全部話したんすが、中村先輩が夢中になってるキャバ嬢の娘のコトも話したんす。その娘目当てで中村さんがしょっちゅうキャバクラに通ってたって。それで、その交差点で夢遊病者状態になってズボン降ろしたとき、実はそのキャバ嬢、楓とかいう源氏名なんすけど、その娘をフラフラ追っ掛けてって楓が交差点の向こうで“おいでおいで”したら、中村さんがモロ出ししちゃったって。それを話してたんす」

 「うん。達ちゃんはいつも『楓ちゃん、楓ちゃん』って言ってたもんな。かなりご執心だったな。まぁ楓ってキャバ嬢にしたらイイカモだったのかも知れないが」

 「いや、藤村さん、知ってます?ほら、吉川係長が入ってくの見掛けたオンボロビルの、ビッチハウスとかってキャバクラ。あのビルの中にね、その楓って女の娘も倒れてたんすよ」

 繁華街の場末の古ビルに入っているキャバクラ店“ビッチハウス”の中で、二十人近い男女が気を失った状態で発見された。そしてその全員が“狼病”ウイルスに感染していて病院に収容された。このニュースはテレビや新聞で大々的に報道された。そしてその発見された男女感染者の中に、敏数や丈哉の上司である吉川数臣が居たのだ。今の丈哉の話では、その中に“楓”というキャバ嬢も混ざっていたらしい。

 「あのビルでは吉川係長も発見されて、係長は今でも病院で意識不明のままらしいな」

 「はい、俺も聞きました。そのビルで発見された楓も、狼病で病院に入ってるらしいんすよ」

 「吉川係長と同じ病院かな?」

 「そこまでは聞いてないけど、そうじゃないっすかね」

 「さっきもラーメン屋のテレビのニュースで言ってたけど、外人の狼病の専門家が持って来た薬が有効で、係長もその楓も治療中なんだろ?」

 「まぁ、詳しいコトは解んないけど、そうなんでしょうね」

 「係長、お見舞いに行かないとなぁ。まだ意識不明のままなのかなぁ?」

 「いや…、そうなんじゃないっすかねぇ」

 「意識が戻らないと見舞いに行ってもしょうがないしな…」

  丈哉が顔を上げて店の壁に掛けてある時計を見た。

 「おっ、藤村さん。もう直ぐ1時っすよ」

 「えっ?あ、そうか」

 敏数も腕時計を見た。

 「まだ良いさ。事務所戻っても俺、特に急ぎの仕事ないし。在吉君は?」

 「俺も特には急いでやる仕事はないっすけど」

 「なら、まだ良いじゃん。俺たち営業はふだん、休日の接待仕事もあれば、お客さんの都合で夜の8時に先方を訪問することもあるんだしさ。昼休みの時間くらいタマに超過したってさ」

 「そうっすね。俺もこの間、主任と7時にお客さんトコに話しに行ったし」

 二人ともコーヒーもお冷やも空になっていた。

 「コーヒーもう一杯頼むか?」

 「いや、よしましょ。店のコーヒーは高いし」

 「おっ、倹約家だな。どうするんだい?」

 「店出ましょ。六階の、自販機いっぱい置いた休憩場があるじゃないっすか。あそこで缶コーヒーでも買いましょ」

 ワカト健康機器産業は、駅前大通りのひときわ目立つ大ビルの六階·七階にテナントで入っている。六階事務所に続く廊下の端に広いスペースを取った休憩コーナーがあった。そこには数台の各種自販機と、テーブルと長椅子や折り畳み椅子などが幾つか置いてある。

 席から立ち上がりざま、敏数が料金票を取った。

 「割り勘にしましょ」

 丈哉の申し出に敏数が断って言った。

 「ここは俺が持つから休憩場の缶コーヒーは在吉君出してよ」

 「あっ、それで良いっすか。勿論です。ごっつぁんでした」

 二人は喫茶店を出て、自分たちの会社の入るビルに向かった。

 六階でエレベーターを降りて、営業部の入る事務所へは向かわず、二人は途中の休憩場で立ち並ぶ自販機の前に立った。自販機は各種飲料やカップ麺、軽食の入った自販機などいろいろある。丈哉が缶コーヒーばかりが入った自販機の前で、小銭を用意しながら敏数に訊いた。

 「コーヒーは何にします?」

 「在吉君と一緒で良いよ」

 丈哉は缶コーヒーを二つ持って先に長椅子に座った敏数のもとへ行き、缶コーヒーを手渡した。丈哉が座って冷えたコーヒーをごくごくと喉に流し込む。

 午後1時を回った休憩場には二人の他には誰も居ない。

 「おおっ、良い飲みっぷりだね」

 缶コーヒーを半分は飲み上げて、ふうっ、っと息を吐いた丈哉に向かって敏数が言った。敏数はまだ缶を開けずに、冷えた缶を両手で弄んでいる。

 「実は俺、淹れた熱いコーヒーよか冷たい缶コーヒーの方が好きなんすよ」

 「へえー、そうなんだ」

 「はい。知ってます先輩?このビルの下の地下街。あそこの自販機にはスマホ対応のヤツもあるっすよ。現金使わないヤツ」

 「ああ。おサイフ·ケータイみたいなヤツか」

 「各種カードも使えるみたいっす」

 「世界中でキャッシュレス化が進んでるからな。便利っちゃ便利カモだけど、現金持ってないと何処か不安でな」

 「俺もやっぱり現金持ってないと不安かな。カードも持ってはいますけどね。ああ、サイフったら中村先輩のあれ、思い出しました。空のサイフの話。俺はまだないっすけどね」

 「え?達ちゃんの空のサイフの話?何のコトだい?」

 「ほら、あれっすよ。中村さんが同僚とか先輩社員とキャバクラ行って、いざ店側にお金払う段になって、一緒に行った人に空のサイフを降って見せるって話。もう店に入ってて席に座ってるから、一緒に居る人が払わざるを得ないっていう、中村さんの“手”ですよ」

 「あ~、あれか。“タカり屋タッちゃん”の話だな。達ちゃんと一緒にキャバクラ行った社員が話し始めて、社内で噂が広まり、達ちゃんは“タカり屋タッちゃん”というのが裏の通り名になっちゃった」

 「俺も聞いたコトあるっすよ。“タカり屋タッちゃん”って。でも俺はまだ被害にあってないっす。だいいち俺、まだ中村先輩とキャバクラには行ったコトないっすからね」

 「さすがに中村達ちゃんも、自分より年下の後輩に奢らせるのは気が引けるんだろ」

 「藤村さんは?」

 「俺はほとんど割り勘だね。俺は達ちゃんより年は一つ上だけど、中途入社で後輩になるからね。キャバクラはないけど、飲み屋で一度くらいは俺が全部払ったコトあるかも。気を付けてるんだよ。一度奢ってしまうと前例を作って次からカモにされるかも知れないからね。“タカり屋タッちゃん”の異名のとおり、彼はそこんところは実にウマイからね」

 敏数と丈哉は顔を見合わせ、声を上げて笑った。丈哉が飲み干したコーヒーの空き缶を捨てに立って、また戻って来た。敏数はまだコーヒーを飲んでいる。

 「ところで何の話だっけ?」

 「ああ、そうだ。何処まで話したんでしたっけね?」

 「そうだな…。達ちゃんのケガの話だけど、達ちゃんが熱上げてるキャバ嬢が狼病に感染してたってトコだな」

 「そうそう。あの、何て言ったっけ、ビッチハウス。ビッチハウスでたくさんの人たちが失神して発見された。その全員が狼病に感染していた。その中の一人が中村さん意中のキャバ嬢だった」

 「達ちゃんご執心のキャバ嬢·楓ちゃんは、確かギャラクシーって店の娘だよな」

 「あ、そうそう。俺も何度も“ギャラクシー”行こうって誘われたっす。勿論一度も行ってないけど」

 「で、それから?」

 「それで担当の刑事さんがイロイロ話してくれたっす。何か気が合っちゃって。コーヒーとか出してくれて」

 「へえ~」敏数が感心したように言った。

 「中村さん、警察に居たときも奥さんに連れられて帰ってからも、ずっとボーッとしてたらしいんですよ。返事したり意志疎通はあるけど、半分夢遊病者みたく。それでね、二度目警察行ったとき、親交の深かったキャバ嬢が感染者だったからって、中村さんを病院に連れて行って検査受けたらしいんです」

 敏数は身を乗り出して、丈哉の話の続きを待った。敏数はごくりと唾を飲んだ。

 「実は中村達男先輩も狼病に感染してたっす」

 「ええっ!そうだったんだ」

 敏数が驚いて少々声が大きくなった。

 「はい、そうっす。だからボーッとしてたし、繁華街の交差点でズボン降ろしてモロ出ししちゃったりしたっすよ」

 「怪物にはならなかったんだな。その…、城山まるみみたいに」

 「はい。何でも医者の話では、何ていうのか感染が浅かったらしいんですね」

 「感染が浅い?」

 敏数が眉間にシワを寄せて怪訝そうな顔をした。丈哉の方は自分で自分の話している内容に興奮を覚えるらしく、喋りに乗っている調子で流暢にコトの顛末を話し続ける。

 「ほら、達男先輩はセクキャバのギャラクシーに通って、感染してるキャバ嬢の濃密なサービス受けてたでしょ。ああいう店は一時間に何回か、ホステスが膝の上に乗って濃厚キスとかするでしょ?」

 敏数も以前は、中村達男の誘いで何度もセクキャバに行っていたのでよく知っていた。敏数はちょっと戸惑いながらも「ああ」と返事をした。

 「キャバ嬢の楓はまだ感染して間もなかったから、お客の男性を咬みはしなかったけど、濃厚なキスをしてた」

 「俗に言う“ベロチュウ”ってヤツな」

 「そうです。そのベロチュウで楓の唾液が達男さんの虫歯の傷から体内に入ったすよ」

 「ああ、そうか。感染した楓のウイルスが唾液と一緒に、歯茎の傷あたりから体内に入って、タッちゃんは狼病に感染したんだ。虫歯というより歯周病だろうな」

 「そういうコトっすね。それでね、話は前後しますけど、達男さんは感染してるかも知れないってコトで、刑事が病院連れてった。勿論、奥さんも一緒に行って立ち会ったっす。刑事と奥さんの前で医師が検査して、狼病ウイルスが陽性と出た。そして刑事と医師が奥さんに達男さんが感染した経緯を説明した…」

 「うひゃー、タッちゃんが日頃、会社帰りにキャバクラ行ってお気に入りのキャバ嬢とどんなコトしてるか全部、奥さんにバレたんだ!」

 「そうなんすよ。まぁ、警察や病院では、常識人でしっかり者の奥さんも冷静に振る舞った。ところが家に帰って…」

 敏数は身を退いて顔をしかめた。

 「それであの頭の包帯の傷か…」

 「そうです。家の玄関入って直ぐに、奥さんは抑えてきたものが爆発して、下駄箱の上の花瓶で生けた花ごと、中村先輩の頭をやっちゃった」

 「うわー、凄えな。花瓶で殴られたらそりゃあ達ちゃん、包帯頭ぐるぐる巻きのケガになるわな」

 「はい。それで頭から凄え出血してまた直ぐ、玄関から病院に直行して頭何針か縫ったみたいっすね」

 「タッちゃんの狼病の方はどうなんだ?」

 「ああ、そっちは、検査の後、その何とかいう外人の医者の提供した特効薬を打って貰って、ほとんど回復したみたいっすね。感染が浅かったから早かったんでしょうね」

 「そうだろうな。今日も会社出て来てるし。何ていうか覇気がなくて元気がないっちゃ元気ないけど、異常ってほど体調悪そうではないもんな」

 「口数が少ない程度ですよね。別に顔色が悪い訳でもないし。頭のケガはまだまだでしょうが、狼病の方はもう問題ないんじゃないっすかね」

 「あのロバート何とかって白人の医師の治療薬って、狼病によっぽど効果があるんだな。ゾンビみたくなってた患者もみんな回復に向かってるんだろ」

 「ノーベル賞級っすね」

 「そうだな。ああいう天才科学者が居て助かったよ。あの白人医師が作った狼病の治療薬がなければ今頃、この辺一帯はゾンビ映画みたくなってたぞ」

 「そうっすね。しかも狼病患者は映画のゾンビみたくのろのろしてなくって、野生の獣みたく素早く飛び掛かって、人間襲うみたいだし」

 「ああ。狼病が蔓延する前に特効薬で事態が終息して行って、良かったな」

 「確かに…」

 在吉丈哉が顔を上げて、休憩コーナーの自販機の上の壁に掛けてある、大きな四角い時計を見た。ここで油を売って休んでいる社員に時間を意識させるためか、比較的大きな壁掛け時計を掛けてある。時計の針が示すのは1時半を過ぎている。

 丈哉は腕時計を嵌めてなかった。

 「そろそろ戻りますか?」

 「そうだな。あんまり遅いと、うるさく言うオバサン事務員とか居るしな」

 敏数が長椅子から立ってコーヒーの缶をゴミ捨てに投げ入れた。丈哉も立っている。二人は並んで自分たちの事務所の方へと向かった。

 事務所へ向かう廊下を歩きながら、丈哉が冗談を言い始めた。

 「藤村さん、さっきのキャッシュレス化の話っすけど、中村さんが通うようなキャバクラもキャッシュレス化、対応するっすかね?」

 「そりゃまぁ、世の中、世界中でキャッシュレス化の流れだからなぁ。時代は電子マネー時代に入って来てるし、日本も遅かれ早かれそうなって行くだろう。勿論、達ちゃんの通うような風俗の店もだんだんと、ね」

 敏数が応える。丈哉がヒャッヒャッと笑いながら話を続ける。

 「中村先輩と風俗店で考えたんすけど、ほら中村さんのよく行くセクキャバって途中でハッスルタイムとか何とかタイムって、キャバ嬢がお客さんの席で立ち上がって踊る時間がある、って言うじゃないっすか」

 「あぁ確かに店によるけどそういうサービスをやってる店もあるな」

 以前はひと頃、敏数も中村達男に誘われてよくキャバクラに行っていたので、敏数もよく知っていた。

 「あのときって、キャバ嬢の下腹部が客の顔の前に来るから、エッチな客はキャバ嬢のスカートの中に頭入れる人も居るっしょ?」

 「まぁ、中にはそういう奴も居るみたいだな」

 「ほら、今キャッシュレス決済でPayPay(ペイペイ)とか話題になってるじゃないっすか。中村さん、キャバクラで支払いのとき、キャバ嬢のパンツにスマホ画面当てて、ペイペイ!とかってやるんじゃないかな、って思って」

 そう言って丈哉は立ち止まってゲラゲラ笑い出した。自分で言ったジョークに自分で大ウケしているようだ。

 「ありえるかもな。もっとも達ちゃんは自分で払わないで人に奢らせるけどな」

 そう返して敏数も笑い出した。二人で廊下に立ち止まったまま笑っていると、後ろから声がした。

 「誰が、キャバ嬢のマ×コにスマホを当ててクイックペイだ、この野郎!」

 大きな声ではなく低い声だが、ドスが利いていて声音だけで怒っているのが解る声だ。敏数と丈哉が同時に振り返った。二人の真後ろに中村達男が立っていた。

 「二人ともいい加減にしろよ、この野郎!」

 中村達男は明らかに激怒している。

 「達ちゃん、居たのか…」

 「中村先輩、居たっすか…。いや、その、そんな露骨なコト言ってないっすよ。この先、飲み屋も電子マネーかな、って話してたっす」

 敏数も丈哉も驚きと共に動揺していて、話す口調が弱々しい。

 「うるせいっ!」

 怒鳴ると、達男は“あいててて…”と包帯をぐるぐる巻いた頭を抑えた。興奮して頭の傷が痛み始めたらしい。

 「達ちゃん、大丈夫か」

 敏数と丈哉が心配そうな顔をする。

 中村達男は頭の包帯を抑えたまま、二人の脇をすり抜け、事務所へと廊下を急ぎ足で行ってしまった。

 「いやぁ~、後ろに立ってたとは解らなかったっすね」

 「課長に呼ばれてるとかって言ってたから、七階の会議室あたりでお偉いさんと話してたんだろ」

 「上は、中村さんが警察に行ったり病院で治療したりしたの、知ってるっすかね?」

 「狼病事件は今一番の世間を騒がせてるニュースだしな。多分、会社側にも警察の聞き込みとか来てたんじゃないかな」

 「中村さん、機嫌悪かったっすね。今、上から何やかんや絞られたっすかね?」

 「絞られたかどうか解んないけど、達ちゃんもここんとこイロイロあったから気分は落ち込んでるだろうし、機嫌も良くないだろ」

 「そうっすね」

 二人は並んで廊下を事務所へと歩いて行った。

               ✳

               ✳

  ここは、市街地から離れた山間部に立つ社会福祉施設である。山間部といっても別に山奥ではなく、山々のすそ野にあたる場所で、山林と反対側は拓けた郊外となっている。この施設で現場職員として大佐渡真理が働いていて、藤村敏数も元はこの職場で真理の先輩であった。また、病院に収容されていた老婆=通称·おタカ婆さんに咬み着かれて狼病に罹患し、ゾンビ化してしまった城山まるみは、この施設で管理部事務員として勤めている。

 時刻は夜の十時を回り、施設の門は閉じられており、また施設玄関も施錠され、施設利用者の居住棟の窓は全て真っ暗である。玄関隣の管理部事務室も灯りは着いていない。ただその隣の比較的大きな部屋の窓だけ、ブラインドから灯りが漏れている。現場職員の事務室だろう。二人の宿直職員が事務業務のために、電燈は点けたままだ。

 居住棟の各部屋の窓の上にはエアコンの室外機が取り付けてあり、低くうなるような機械音を立てている。まだ八月の下旬であり、真夏日の気温は深夜でも暑かった。

 職員の事務室は灯りは着いているが人は居なかった。施設玄関を入って、女子利用者棟に行く手前に浴室がある。男女・二人の宿直職員は浴室に居た。浴室は普通のバスタブの五、六倍の広さのある大浴場になっていて、浴室に隣接する脱衣所もかなりの広さがある。

 この夜の男子棟責任者の宿直職員は蟹原友宏だった。蟹原友宏は八月初めの宿直番の夜、施設に侵入して来たゾンビ化した城山まるみの襲撃を受け、肩を咬まれて傷を負った。ゾンビ化した城山まるみは狼病ウイルスの保菌者だったが、その後に施設に入って来た謎の白人男性に注射を打たれ、多分そのために、蟹原友宏は狼病に感染することはなかった。

 事件の晩の女子棟責任者の宿直職員、大佐渡真理が呼んだ救急車で運ばれ、友宏は入院したが、外傷は思ったほど深くなく、傷を縫って一週間入院した後自宅療養し、八月も下旬に入る頃から職場に出て来ていた。今晩は職場復帰後初めての宿直当番である。

 男女一人づつの宿直者の相方は、今晩は大佐渡真理ではなかった。この夜の男女宿直者・二人は浴室脱衣所の隅で重なっていた。一ヶ月近く前の夜、男女利用者が各部屋でほぼ就寝した頃、蟹原友宏と大佐渡真理は浴室脱衣所の隅で立ったまま、男女の営みを行っていた。この二人はもともとは社内恋愛で付き合っていた。しかし蟹原友宏が大学時代に付き合っていた元恋人とヨリを戻し、それを知った真理が怒ってそこから交際解消していたのだ。

 だが、八月初めの同じ宿直勤務の真理の様子がおかしく、お互いの夜間勤務が一区切り着いた深夜、真理が蟹原友宏を浴室に呼び出し、いきなり男女の交わりを求めて来たのだ。

 切羽詰まったような焦る様子で性愛を求めて来る真理に対し、以前は恋人どおし仲睦まじく、毎晩のように行為に及んでいたことを思い出した友宏は、興奮を覚えて来てたまらない欲望が押し寄せ、宿直当番の勤務中であることも忘れ、異常に興奮した様子で迫って来る真理とお互いに強く抱擁し合い、お互いに下半身の穿きものを降ろして、立ったまま行為に及んだ。

 あの夜は、あの行為の後、事務所にゾンビのような怪物となった、施設の事務員である城山まるみが深夜の事務室に現れ、何かの事務仕事でたまたま施設に残っていた副施設長を襲撃し、騒動に掛け着けた蟹原友宏は副施設長ともども、怪物化した城山まるみに深手を負わされ、失神してしまった。

 あの夜から一ヶ月近くが経った八月末の深夜、今度は相手を変えて、また友宏は浴室脱衣所の隅で、同じ宿直勤務の女子職員と性行為に及んでいた。行為は一ヶ月近く前と全く同じように立ったままで、お互いのジャージズボンと下着を降ろして身体を合わせ、せわしなくお互いの全身を上下に揺すっていた。

 友宏が腰を突き上げるたびに、今夜の相手の女子職員があえぎ声を出した。友宏に片足の腿を抱えられ片足立ちで、友宏にもう一方の腕で支えられた背中を仰け反らせて応じている女は、今晩の女子棟責任者の宿直当番、沢多田文香だ。

 沢多田文香はつい最近、中途採用で入って来た現場女子職員だ。ここの施設は職員の入れ替わりが激しい。一つには、よく感情的になって怒鳴り散らすパワハラ副施設長の存在もある。沢多田文香は、細身で健康的なスタイルにルックスの良い容姿をしている。女好きの蟹原友宏が直ぐに目を着けた。沢多田文香も、前に勤めていた施設で付き合っていた男と調度別れたばかりらしい。お互いモテモテ体質の二人は直ぐにくっついて男女の仲になっていた。

 友宏は大佐渡真理と別れて、大学時代の恋人とヨリを戻していた最中なので、沢多田文香とは二股になるが、プレイボーイの友宏は新しい文香のコトをそれほど意識していなかった。文香もまた、新しい友宏を強く意識しているというほどではなかった。二人は気軽に男女交際して、直ぐに肉体関係に入っていた。女好き・男好きでモテ体質のこの二人に取って、合意でセックスすることはスポーツして汗を流すように気軽なことだった。

 文香の身体を抱きかかえ上下に激しく揺らしていた友宏だったが、だんだんと揺れが小さくなった。背中から頭を仰け反らせてあえいでいた文香が、友宏の動きが鈍くなったのに気付き、頭を起こして怪訝な表情をした。文香には友宏のモノが自分の身体の中で急速に小さくなるのが解る。やがて友宏が身体を離した。友宏の自慢の一物は小さくなって、だらんと下がっている。

 友宏が片腕で抱えていた文香の太股を降ろした。文香は両足で立った。お互いにくっつき合っていた身体を離す。お互いの間隔を開けた友宏に文香が問うた。

 「どうしたの?」

 急に愛の交歓を止めた友宏に対して、ちょっとキツい口調になった。

 「違うんだよなぁ…」

 友宏が独り言のようにボソリと言う。

 「違うって何よ!」

 沢多田文香は明らかに怒っている。

 「今日はヤメだ。悪い。仕事に戻ってくれ」

 友宏がぶっきらぼうに言った。文香が気色ばんだ。顔が怒りで見る見る真っ赤になる。文香はせかせかとパンツを引き揚げジャージズボンを穿いて、友宏に向かって怒鳴るように言い放った。

 「何よっ!まだ仕事中なのにっ!一段落着いたら急いで浴室に来てくれって言ったのはそっちでしょ!途中で切り上げて来たこともあるのよ。いい加減にしてよっ!」

 文香は、脱衣所の床を踏み鳴らすように音を立てて戸口に向かい、怒りに任せて勢いよくドアを閉めて出て行った。

 しばしボーッとしてた友宏は、まだ下半身が裸状態で、力の抜けた自分の一物がだらんとぶら下がってることに気付き、床のパンツを拾ってジャージズボンを穿いた。それでもまだボーッとしている。

 友宏は思っていた。ゾンビ化した城山まるみに襲撃されて救急病院に運ばれて入院した夜、あの騒動の日、いつもと様子が違う、やけにエロい大佐渡真理から積極的に誘われて、この浴室でエッチをしたのだが、大佐渡真理の身体が異常で、お互い立ったままセックスしていて興奮するに連れ、真理の体温がどんどん上がって行った。

 友宏も久しぶりの真理との愛し合いに興奮し、非常にセックスが楽しかったのだが、友宏の腕の中で興奮し喘いでいる真理の体温が高くなり続け、人間の体温としてはちょっと異常なんじゃないかと訝しんでいると、交接する下半身も熱を持ち、真理の身体の中に入っている友宏の一物も、異常な温度を感じるようになった。

 立ったまま抱き締める真理の身体の温度が、人間のものとは思えないような熱さになり、これは50度を越えているだろうと驚いていたら、真理の局部に入っている友宏の一物が火傷するような熱さを感じ始めた。あのときは友宏は、石焼き芋が焼けているところを想像して、“俺のちん×は焼き芋になってしまうんじゃないか!?”と心配した。

  “それも真っ黒に焼け焦げた焼き芋になってたカモ” …もう少し、真理の身体から自分の一物を抜き出すのが遅れてたら、大火傷していたかも知れないと思い、恐怖感でブルッと身震いした。

 しかしそれでも友宏は、あの夜の真理とのお互い立ったままで行ったセックスが忘れられなかった。真理の身体に異常な熱さを感じる直前までは、今まで味わったことのない気持ち良さを感じていたのだ。あのときは、えもいわれない気持ち良さと楽しさだった。

 もともと真理とは恋人どおしで、交際当時はしょっちゅう真理を抱いていた友宏だったが、そのときは、プレイボーイである友宏がそれまで抱いて来た数々の女の子と特に変わりはなかった。しかし、あの宿直当番の夜の真理とのセックスは違っていた。ほんのちょっとの短い愛の交歓だったが、まるで極楽気分を味わったようだった。

 そのときの束の間の極楽気分が忘れられず、友宏は退院してから真理に言い寄ってみた。入院中に真理は病院に見舞いに来なかったから、友宏は傷がだいぶ治って退院間近になってから、真理に電話してみた。しかし真理は友宏の電話に出なかった。メールを送りたかったが、交際を解消してから真理はアドレスを変えていた。

 テレながらも友宏は、職場で真理を掴まえて何とか話を進めようとするが、真理はそっけない態度で友宏を相手にしない。友宏が近付くと避けて逃げてしまう。もう一度、エッチの相手をして貰いたい、と話したいのだが、真理の方で露骨に友宏を避けている。

 大佐渡真理が相手をしてくれないので、友宏はもしかしたらシチュエーション的に施設の浴室·脱衣所の端っこで、あの晩と同じように立ったまま相対して行ってみたら、あの喜びをもう一度味わうことができるのではないか?という思いに至った。

 それで、現在セフレ関係のような間柄の、同じ施設の同僚の女子職員、沢多田文香を相手に浴室で立ったままセックスをしてみようと、同じ宿直当番の夜、夜間業務が一段落着いたところを見計らって、文香を浴室に呼び出したのだ。

 文香も最初は、職場の勤務時間に施設浴室の脱衣所の隅で、友宏が求めて来るので戸惑ったが、文香は彼氏と別れてあまり経ってなく他にボーイフレンドが居る訳でなし、友宏も大佐渡真理と別れた後、大学時代の恋人とヨリを戻していたが距離的に頻繁に会うことができず、自分の欲望の解消相手に容姿が気に入っている文香と、余暇には割りと頻繁に逢瀬を重ねていた。だから場所が場所だったが、文香も友宏の求めに対して割りとすんなりと応じて身体を預けた。

 しかし駄目だった。あの夜の真理との交接のえもいわれぬ喜びを味わうことは、できなかった。友宏はがっかりして、相手の文香がだんだん興奮して来て、肉体の快楽度が上昇し女の喜びを感じて来ていたにも関わらず、文香の局所に突き刺していた友宏の一物が、急速に萎えて行ってしまったのだ。

 怒った沢多田文香が去った後、広い脱衣所に一人、ぽかんと立っていた友宏がブツブツと独り言を言った。

 「ちぇっ。やっぱり真理じゃなきゃ駄目か。でも、あれから真理は俺によそよそしいしな。あいつ、あの晩だけどうして俺に積極的に求めて来たんだろう?あいつの身体も火事みたく熱くなったしな」

 友宏は不思議に思い、何度も首を傾げた。やがて、夜勤業務に戻ろうと、友宏は浴室の電気を消して出て行った。

 

 八月初めの小雨の夜、病欠の申告で勤務を休んで以降数日間、本人からの音沙汰無しだった、施設事務員・城山まるみが急に施設に現れ、事務仕事で残って事務室で机に着き、残務処理を行っていた副施設長を突然、襲撃し、副施設長は深手を負い、その夜、救急車で搬送されてしばらく病院に入院していたが、八月の終わり頃には無事退院した。

 副施設長本人は城山まるみに襲われ流血して失神し、病院で深手の傷を縫合したり処置と手当てを行い、ベッドで目覚めたときは、まるみに首の付け根を噛まれたところまでしか記憶にないが、実は一度は狼病に罹患していた。

 施設に現れたときのゾンビ化したまるみは、狼病ウイルスの保菌者で、副施設長はまるみの二本の牙で咬まれたとき狼病に一時、感染した。ただし、その後間もなく現れた謎の白人男性に狼病治療薬を注射され、狼病ウイルスは体内から消えていた。これは蟹原友宏も同じことだ。

 副施設長も、蟹原友宏に一週間くらい遅れて施設に職場復帰していた。

 ゾンビ化した城山まるみが襲撃して来た夜、怪物然としたまるみに果敢に向かって行き退散させた、施設現場職員·大佐渡真理だが、あのときは、自分自身も全く知らなかった超能力を初めてたった一度だけ使って、怪物·まるみを追い払うことができた。

 もともと大佐渡真理は霊感が強く、よく心霊オカルト的な現象に立ち合うことが多く、悪意を持つ人の心の中を見抜いたり、交通事故を予知したりすることがあった。

 それが、今の彼氏の在吉丈哉の勤める会社の上役の息子の小学生、吉川和也に出会ったことで体調がおかしくなり、普段でも身体が火照っていて、特に気分が悪くて体力が落ちたりしている訳でもないのに、明らかに自分の体温が上がっていると自覚していた。それから妙に性欲が強くなった。

 真理の性欲は日増しに強くなり、恋人の丈哉に欲望の解消相手を求めたが、調度、丈哉が仕事が忙しくてデートをすることができなかった。その内、働く施設の夜間勤務が来て、前の彼氏である、蟹原友宏との宿直当番となった。

  真理は高まったままの性欲を抱えたままで、その困った欲情を己れの内に抑え込んで、日々の生活を送るのが大変だった。そして以前の恋人·友宏と同じ宿直当番になった夜、その抑え込んでいた欲情が爆発した。

 真理は深夜、施設·浴室に呼び出した友宏を性愛に誘った。友宏も今の交際相手が居るくせに真理の誘いにすんなりと乗り、浴室で立ったまま真理を抱いた。友宏は新しく中途採用で入って来た美人の沢多田文香とも関係がある、という噂がある。本心では、今では真理は、そんな手当たり次第みたいなスケベの友宏が嫌いだった。

 でも、現在の真理の異常な欲情を解放するには、友宏を相手にしないと仕方がない。真理は友宏との性愛の中で自分の体温が上がって行くのが解った。しかも、その体温は人間の発する温度を越えて来ている。これはおかしい異常だと自分で意識しつつ、片方で己れの性欲の解放に興奮していた。正に心身共に燃えていた。

 真理が、冗談でなく本当に身体が燃えるのではないか、と心配になって来たとき、あまりの異常な真理の肉体の熱さに、相手の友宏がその高熱に対して耐え切れず、苦しみだし、必死になって真理から離れようとしている。

 燃えるような高温の真理の肉体は、その局所も異常な熱を持ち、興奮していたためか友宏の一物を締め付けて離さない。よく亀のスッポンが咬み着いたら離さないと聞くが、そんなふうに咥え込んだまま離さないのだ。友宏は熱くてたまらず、必死になって抜き出そうともがき苦しみ、やがて、ワインボトルからコルク栓が抜けるような音を立てて、スポン!と抜けた。

 友宏は自分の一物を水道水で冷やし、怪物化した城山まるみに襲われた副施設長の叫び声を聞いて、浴室を出て行った。友宏との一回の性行為を中途半端に終えて、不思議と真理の異常な高熱は下がった。だが真理の身体は人間の通常の体温としては異様に高いままではあった。そして真理にとっては幸いにも、この友宏との一回の性行為で、このところ起こっていた真理の異常な性欲も納まっていた。これには真理は心底からほっとした。

 そして真理は、事務所で流血して倒れている副施設長を発見し、今正に怪物・まるみに襲われている友宏の場面に立合い、怪物と化したまるみの脅威から施設を守るべく、敢然と怪物に立ち向かい、驚くべき超能力を発揮して怪物を追い払ったのだ。 

 この日の後、大佐渡真理は通常の身体に戻っていた。特に性欲が強くなる訳でもなく、体温も人並みな温度でいる。恋人の在吉丈哉ともたまに会ってデイトしている。勿論、丈哉には蟹原友宏とのコトは一切話してないし、怪物化した城山まるみが施設に襲撃して来た晩のコトも、それまでの自分の体調がおかしかったコトも、一切丈哉には話していない。同じ職場の友宏とは業務連絡以外は全く会話せず、距離を置いている。

 

※じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(17)はここで終わります。このお話はまだ続きます。次回 「狼病編」..(18)へ続く。 

 

◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(15)2018-02/28 

◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(14)2017-02/24
◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(16)2018-08/27

◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(7)2013-01/06
◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(9)-α 2013-04/09 
◆じじごろう伝Ⅰ「狼病編」..(9)-β 2013-04/09

◆じじごろう伝Ⅰ「長いプロローグ編」..(1)2012-01/01

 

 

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