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●映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(3)

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 劇場映画版の「ゼロの焦点」は2009年11月のロードショー公開で、僕がDVDで見たのが2010年の11月頃ですね。この映画が地上波初で放映されたのが2011年3月6日です。僕はDVDで見たので、TV放映は見ていません。あ、そうか。僕はこの2011年3月は目を悪くして入院していたんだ。そして入院中に、あの忌まわしき未曾有の大震災が起きてしまった。まあ、僕自身は入院中は、ただただTVで、信じられないような悲惨この上ない光景を、画面で見ているばかりでしたが。右目は普通に見えてましたからね。でも、実際には、2011年3月11日からそれ以降の数日は、まだ手術後の経過中で、安静中で、TVは見ていないですね。大部屋だったから、周囲の人たちの話から聞いたのでしょう。「ゼロの焦点」の地上波TV放映はもう一度やってますね。いつ頃のことかは記憶してないけど、TV放送の最後のところのシーンを見た覚えがあります。勿論、もう退院してしばらく経ってからのコトですが。まあ、僕は広末涼子さんはそれ程は好みの女優さんじゃありませんが、どちらかと言うと、中谷美紀さんの方が女優さんとしてはずっと好みですけど、中谷美紀さん、魅力的で素敵な女優さんですね。ちょっと痩せ過ぎな感も持ちますが、上品で綺麗です。良いなあ、中谷美紀。ええ~と、日本一、不幸な女の役が似合う女優さん、木村多江さんは申し訳ないけど、全くタイプじゃない。まあ、おまえ如きが言うな、ですけど。

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 僕が原作である小説の「ゼロの焦点」を読んだのは16歳のときで、読んだ季節は真冬で、物語の背景にピッタリでした。当時、非常に面白く読んでいるのですが、この後再読はしておらず、だいたいのお話の外郭は覚えていましたけど、細部はすっかり忘れてしまっていました。ただ、あの独特の寂寥としたムード、これだけは覚えていました。雪の能登半島の断崖絶壁。強風と雪、荒涼とした能登の風景。面白い物語でもあったけど、重たいお話でもあった。そういう雰囲気的なものは覚えていました。能登の断崖絶壁が最初から自殺の名所だったのか、この物語、「ゼロの焦点」の原作の小説と、1961年公開版の映画作品で、自殺の名所になってしまったのか、16歳でこの小説を読んで以降、僕の頭には「能登の断崖は自殺の名所」というのが焼き付きました。09年の映画作品をDVDで見て、ああ、そうか、こういうストーリーだったんだな、と思ったものでした。

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 僕の読書生活は16歳から始まりました。僕自身はもともと頭の出来そのものが悪いし、読書はメチャメチャ「遅読」なんですけど、高二の春、転向して来たクラスメートのM君から借りた、松本清張と五木寛之の文庫本で、当時の中間小説とか娯楽小説に嵌まり、その後、M君から清張と五木の作品の文庫本を幾度か借り、ついには自分で本屋で両小説家の文庫本を捜し、買い求めるようになりました。「遅読」といえど、ここからが僕の読書生活の始まりです。松本清張も五木寛之も当時のベストセラー作家ですけどね。当時の第一線の流行作家。その後、遠藤周作とか野坂昭如に嵌まって行く。野坂昭如には僕は明らかに影響を受けました。松本清張を読んでいたのは、ほとんどが高校生時代です。大人になって読んだ清張作品はわずか二冊くらい。高校生時代に深夜、勉強しているふりして読み耽っていて、一番面白かった松本清張の作品は、僕の好みで、第1位が「影の地帯」。これは本当に面白かった。もう、スリリングな謎解きサスペンス。第2位は双璧で、「蒼い描点」と「ゼロの焦点」ですね。第4位に「黒い樹海」とか来るのだろうか。僕は「再読」はほとんどしない人なので、無論、数十年前の読んだ本のことなんてどれも、細部はすっかり忘れてますけどね。「蒼い描点」はもともとが女性週刊誌の連載小説ですから、若い男女のロマンチック味も全体を覆うムード的にありますね。謎解き探偵役の主人公が若い女性の、雑誌編集者だし。それを助けるカッコイイ若い男、というか先輩編集者。あ、「蒼い描点」初出は「週間明星」だ。それで、若い女性読者好みな趣向のロマンチック風味で、読みやすく面白かったんですね。

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 「ゼロの焦点」のキーワードの一つに、「パンパン」というのがあります。今の人たちに「パンパン」とか聞いても、何のことやらさっぱりでしょう。「パンパン」の意味を知っているのは、もうけっこう年配の方たちになるでしょうね。少なくとも僕くらいの世代よりも上の方々なんじゃないかな。僕は昭和30年代初頭の生まれになるんですけど、多分、言葉自体は小学生の頃から耳にして知ってたんじゃないかなあ。ただ、意味までとなると、中学生くらいにならないと解らなかったと思う。特に僕は、子供の頃から、シモネタ言葉をくっちゃべって人を笑わすことはよくやってたけど、僕自身の実態は臆病で“ウブ”そのものだったし。これは太平洋戦争後に焦土と化し荒廃した日本で、極貧・赤貧の中で生き抜いて行くために、何よりもとにかく、食べるために「パンパン」になるしかなかった、という日本の国の悲しい過去の裏歴史の一面ですね。僕は現代、今のアダルトビデオ産業に於ける“本番”を見せているAV嬢も、あれは職業としては「売春」の一種だと思っていますけど、今の時代にほいほい「AV嬢」になるのと、戦後に「パンパン」になるのとは随分意味が違うと思います。もっとも僕自身は、生きて行くことが第一優先と考える人間なので、それで食べて生きれるのなら「売春」だって良い、と思っている者なのですけど。「売春」を生業にするのは、それは、あまり褒められたことではありませんけど、「売春」という仕事をして、食べることが出来て、とにかく生きて行けて、子供を育てて子供が立派に育ったのなら、それに越したことはないし。まあ、やらないに越したコトはない仕事だとは思うけど、生きるための最終手段としては‥、と思います。しかし、ハイソな世界でも「売春」やってる人もけっこう居るんでしょうけど。「枕営業」って言葉もあるくらいだし。援助交際とかっていうのもあるし。まあ、だから、この「ゼロの焦点」のキーワードの一つ、「パンパン」は、時代が時代なだけに、日本の悲惨な過去の歴史の裏面が生んだ、悲しい言葉ですね。しかしある意味、生き抜こうという生命力。「ゼロの焦点」は悲しい物語でもあります。謎解きミステリーだし、メチャ面白い小説だけど、けっこう重くもある。

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 「パンパン」の話をもう少し続けると、今の人たちには、フジTV・局アナのアイドルアナが、「~パン」とパン付けで呼ばれていますけど、「パンパン」とかいう言葉の音を聞くと、このフジTVのアイドル女子アナを想起してしまうんではないでしょうか。代表的なのが「アヤパン」で、以前には「チノパン」が居たり、今では「ショーパン」とか「カトパン」とかの、フジ第一線のA級人気アナが居る。比較的新しいフジ・アイドルアナには「ヤマサキパン」とか「ミタパン」とかも居るのかな。カトパンは現在のフジのエースですね。僕は小学生の頃、自分の生活の周囲で大人たちがよくこの言葉を口にしていたので、まあ、「よく」は聞いてもいなかったでしょうが、下世話な大人たちの俗っぽい会話の中に入ってて、自然と耳に残ったんでしょう。まあ、よくは解んないけど。「パンパン」からの発展形語で「パンスケ」とかありましたね。多分、中学生頃にはある程度、意味も解っていたろうし、戦後20年経ってもこの言葉はまだ残っていて、戦後に使われた本来の意味ではなく、何というか、異性間の肉体関係におおらかな女の人と言いますか、尻軽な人、性にだらしない女の人、男付き合いの派手な人、水商売の女性でモテて割とあっさりと肉体関係に入る女性とかに、蔑称の意味で「パンスケ」とか呼んだりしてましたね。いわゆる「立ちんぼ」と呼ばれる街娼なんかも、まだ「パンパン」と呼ばれたりもしてました。だから僕がけっこうイイ歳になって来て、比較的よくTV番組を、特にTVバラエティーを見るようになって、フジのアイドルアナを「~パン」とパン付けで呼んでいるのには、違和感がありました。まあ、TVの東京キー局の女子アナというのはいろいろとゴシップも多いし、週刊誌ネタにされてスキャンダルの上がる女子アナも多い。まあ、真面目で身持ちの固い女子アナさんも居るんでしょうけど、何か、ハイソな尻軽、セレブ尻軽、というイメージがある。だから、戦後に、卑猥な隠語的意味で影の流行語となった「パンパン」という言葉と、現代のアイドル女子アナのパン付け呼びは、何だかちょっとイメージ的に交錯する部分もあるようで、皮肉にイメージ被るなあ~、と思ったものでした。はい。まあ、知れたら、フジTVアナウンス室、激怒ものですね。※(終戦直後の“パンパン”とフジテレビ女子アナとは全く関係はありません。)

 清張作品の多くは、大衆娯楽小説寄りな作風といえど、優れた知的エンタティンメントで、日本文学史に名を残す現代文学の代表的作家、だといっても過言ではない、と思える昭和の文豪、松本清張の、戦後社会派推理小説群ですが、それら山ほどの傑作の中の一つ、「ゼロの焦点」の中の重要なキーワードの一つ、「パンパン」とは、戦後焼け跡の、ただ何かを口に入れて食べて生きて行くだけで必死の極貧の状況下で、進駐軍の米兵相手にその身体を売って、糊口を凌いだ悲しい女性たちに対する、冷酷な蔑称ですが、もともと売春自体は、売春とは世界で最も古くからある職業である、という言葉を昔、聞いた覚えがありますけど、古今東西どの時代にも、合法違法を問わず、とにかく存在した仕事ですよね。何年か前に、ドイツで売春が合法化され、その代わりに税金がエラい高い税率を課せられる、というニュースを聞いた覚えがあるんですけど、調べてみたら、ドイツの売春の合法化は2002年ですね。あれはどういうニュースだったんだろう? 済みません、そのニュースの詳細は忘れてますが、確か、税率が半端なく高い、という話でした。だいたい、ヨーロッパの国々は、現代ではほとんどが売春は合法化されているみたいですね。世界の売春事情は、良いことか悪いことか、まあ、メジャー宗教的には悪いことなんでしょうが、倫理観や道徳的にもどうなのか、世界的にも流れは合法化の方向へ行っている、ということみたいです。職業としての売春も自由主義の一環かなあ。ただ、特にヨーロッパ諸国など、売春の斡旋や営業行為、客引きなどを禁じている国もあるようですね。仲介業者が入ることを禁じている、とかですね。売春婦との客との極力1対1のシンプルな交渉ならOKだけど、ここに中間業者が入って斡旋や営業などなどをやって手数料等のお金を取って商売にしてはならない、ということなんでしょうね。管理売春はともすれば人身売買に繋がりますからね。現在でもあるのでしょうけど、昔から売春商売目的で人身売買が行われて来た悲しく暗い歴史は、これも古今東西何処の地域でもあった、あることです。僕も、売春する女性とそれを正当な対価金銭を払って買う男という、シンプルな関係なら良いけど、間に男や業者が入って、中間搾取的に金儲けするのは許せませんね。

 まあ、別に「売春」の話に、僕もあんまりこだわらなくてもいいんですけど、少なくとも僕が、男娼として売春して来た訳でも、売春に関わって来た訳でもなし。これはどっちかっつうと女性側の問題でしょうからね。買う男が居ることが悪いんだ、と言えばそれまでなんですけど。でも、モラル的に考えてどうなんかなあ。現代では成人女性の200人に一人の割合でAV出演している、という世の中だし。今のAVは九割以上が本番作品でしょ。「中出し」とか倫理的にどうなんかな。自由主義世界の自由恋愛なんだから、自分の性は自分がどうしようが自由だ、というのもどうなんだろうなあ。それほど、愛情とかいうものが介在しなくとも、快感や(国内法的には違法ですが)金銭が得られるなら、避妊さえちゃんとして病気さえ気を付ければ、自分の性はどうしようが勝手で、不特定多数と寝ようがそれは自由だ、というのはどうなんだろう。性のモラルなんてなくてもいいものなのか。まあ、これは大きく女性側の問題なのでしょうけど、私も古い昭和の人間なので、現代の性の自由には何か釈然としないものも持つ訳であります。「ゼロの焦点」の一つのキーワード、「パンパン」から、話が名作物語の本題から大きくずれてしまって、申し訳ないのですけど。どうなんだろう、女の性を自由にさせない、という考え方は、「男側の価値観」「男の支配性」から来てるものなんだろうか。抽象的になりそうだけど、これも難しい問題だな。この先、性は何処へ行くのか。まだまだ、「不倫は許されない」とかいう常識的認識は一般的にけっこう固くあるし、「恋人は一人でなくてはいけない」という考え方は崩壊してますね。眉を顰められたり後ろ指差されたり、というのはありますけど、何又とかセフレとか、ほぼ許されてるのではないですかね。それもある面、英雄視・豪傑視される部分もなきにしもあらずだし。まあ、いいか、「性のモラル」のことは。「ゼロの焦点」から大きく外れた。

 それでもまだ、「パンパン」のことを書くと、「パンパン」の語呂の音が比較的、可愛く聞こえるので、その語呂音から、例えば赤ちゃん紙おむつの「パンパース」とか連想しちゃうし、小学生の頃からアリナミンA25を常用していたという薬フェチの僕としては、昔お世話になっていたタケダの総合ビタミン錠、「パンビタン」の歌とかをつい思い出しちゃいます。♪パンパンパンビのパンビタン‥、というCMの歌。これも連想しちゃって、イメージとして、何だかパンパンのお姉さんが、現代では立ちんぼやコールガールのお姉さんやおばちゃんが、出勤前にパンビタン飲んで、「よーし、今夜は、はりきって5人は客取ってやるぞーっ!」と、元気良く出掛けてるみたいで。あと、「ピーターパン」とかも似た語呂音から、ピーターパンは男の子だから、ウェンディーあたりが、夜中に彼女の出来ない独身男性のもとに訪れて、恋人ボランティアとして相手してくれる、とかつい連想しちゃいます。ピーターパン(ピーターパンパン)も可愛い男の子だから、彼氏の出来ないHOMOの男性とかの下に行くのもアリですね。「パンパン」って意味を聞くと、とんでもないことですけど、意味を知らないで語呂音だけ聞くと可愛いイメージもありますからね。だから今のフジTVの有望アイドル局アナに番組で、「~パン」とパン付けしたんでしょうね。決して、フジの誰かプロデューサーが、「こいつら清楚で可愛いふりしやがって、局の有力上司やIT成金とか有名タレントとか、プロの野球やサッカー第一線選手とかと、見境なくバンバン寝やがって、このセレブ尻軽が!」ということで、ルックスの良い局アナに「~パン」と、パン付けで呼ぶようにした、という訳ではないでしょうからね。済みません。悪ノリし過ぎました。「ゼロの焦点」タイトルで、こんなこと書いてると松本清張ファンにぶん殴られますね。「パンパン」は一つのキーワードですけど、名作でメチャ面白い小説です。お勧めです、「ゼロの焦点」。映画作品も良いです、面白いです。

※ (2010-11/19) 「ゼロの焦点」..(1)

※ (2010-12/16) 「ゼロの焦点」..(2) 

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)

1.

 エレベーターのドアが開いた。中に乗っていたのは中村達男一人だけだった。意気揚々とエレベーターから飛び出した中村達男は、上機嫌で鼻歌をハミングしながら、一階フロアをまるでスキップでもしそうな雰囲気で、ビルの玄関へと抜けて行った。ビル出入り口玄関のすぐ手前に、この15階建てオフィスビルに入るテナント会社の、総合案内となるカウンターがあり、ビル会社が設けてある、このカウンターに受付嬢が一人座っている。玄関の総ガラス張りの自動ドアを出る前に、鼻歌を口ずさみながら中村達男は、受付嬢の女の娘に手を振り軽くウインクした。女の娘がおかしそうに笑った。

 受付カウンターの横には一人、制服制帽の警備員のオジサンが立っていたが、まるで、しょうがねえなあ、とでもいうふうに苦笑いした。ビルから出た中村達男は、表通りまでの数段の階段をリズムに乗って、ステップでも踏むように軽やかに降りた。夕暮れ時の通りは、車輌の交通量が多く、歩道の人通りも混んで来ている。この人通りは、達男のように退社して帰途に着こうとしている者も居るだろうが、まだ今、自分の働いている職場へ戻っているところの勤め人も多いだろう。中村達男は社内で多分、一番先に職場を出た。退社時刻と同時に机を離れたのだ。通りに出て、繁華街方面を目指して歩いて行こうとして、立ち止まった。

 夕暮れ時とはいえ夏場だ。まだまだ明るい。達男は、酒場に飲みに入るのは時間的にちょっと早いな、と思った。それに一人だ。二、三秒考えると、今出て来た自社の入ったビルに後戻ることにした。一階カウンターの受付嬢の顔を思い出したのだ。自動ドアが開いて、中村達男がビルの一階フロアに入って来ると、カウンター隣に立つ警備員が怪訝な顔をした。達男はすかさず、カウンター内に座る受付嬢に、笑顔で手を上げた。それに気付いた受付嬢の娘が微笑みながら、少しだけ頭を下げた。しかし明らかに少々、困惑した表情が含まれている。

 受付嬢の娘は、セミロングの髪型を綺麗に整え、丸顔で、人好きのする可愛い顔立ちをしていた。つかつかと近寄って行く、達男の顔はにやけていた。横から警備員のオジサンが、達男を睨み着ける。達男が受付嬢に話し掛けた。

 「ねえ、何時に終わるの?」

 「は?」 受付嬢がポカンとした顔をした。

 幾つもの企業の入った15階建てオフィスビルの、一階フロアに設置された案内カウンターの中の受付嬢は、白いブラウスの上に紺色の制服を着用して、身なりをきちんと整えている。中村達男はグレイの背広こそ着ていたが、緩めたネクタイが曲がり、全体的に着こなしがだらしなく見えた。

 「だからさあ。終わったら、ちょっと飲みにでも行ってみない? 俺、おしゃれな店、知ってるんだ」

 達男の続けた言葉に、まだ二十歳そこそこに見える娘は、驚いた顔をして達男を見ていた。隣で、警備員のオジサンが大きな咳払いをした。そうするとタイミングよく、エレベーターのドアが開き、ドヤドヤと沢山の人が出て来た。このビルに入る、様々な会社の社員たちだ。残業がなく、定時で帰れる社員たちだろう。一階フロアはみるみる人で溢れかえって来た。続けざまに、もう一機のエレベーターも降下して来て止まり、また沢山の人を吐き出したのだ。

 受付カウンターの前に立つ中村達男は、「ちっ」 と舌打ちをして、苦い顔をした。反対に、受付嬢の女の娘は、助かったようにホッとした表情をした。警備員のオジサンがにんまりと笑う。

 「中村君。あんた何してんの、こんなとこで?」

 フロアを玄関出口へと向かう、沢山の人の流れの中で、一人の女性が声掛けて来た。ベージュ上下のスーツ姿で、軽くウェーブの掛かる、やや長めのショートヘア。身長が低く、ふっくらした体型だ。経理の高山さんだ。高山さんは、経理部門では中堅の人材で、三十を幾つも過ぎてるが独身の女性だ。社歴では勿論、達男の先輩である。

 「退社時間が来て気が着いたら、もう中村君、居なかったからさあ。あんなに早く出て、もう遊びに行ってるものと思ってた。駄目よ。たまには早く家に帰って、奥さんいたわってあげなきゃあ」

 高山さんが早口で捲し立てる。達男が困った渋い顔をしながら、受付カウンターを見ると、受付嬢の娘は、他の、背広姿の若い男と笑顔で話をしていた。またしても達男は、「ちっ」 と舌打ちをした。高山さんもカウンターの方を見て、険しい表情に変わって、また喋り始めた。

 「あら駄目よ、中村君。えっと、結婚何年目だっけ? まだ二年目くらいでしょ。奥さん働いてんでしょ。奥さんに苦労掛けてんのに、浮気なんか考えちゃ駄目よ。あなた、働く主婦って大変なのよ!」

 中村達男は一刻も早く、高山さんの前から立ち去りたかった。高山さんの早口の説教じみた話は、まだまだ続く。

 「ねえ中村君。あんた、結婚式の時何て言ったか覚えてる?」

 達男は、二年前の結婚式の披露宴に、職場の先輩として、高山さんを呼んでたことを思い出した。

 「あんた、花嫁の亜紀子さんに、僕は君を一生守り続ける。一生裏切らない。って、そう言ったのよ。それなのにあんた、毎日毎日定時に会社出て、遊び歩いてんじゃないの? あんな可愛い奥さん、泣かしちゃ駄目よ!」

 達男の妻君は中村亜紀子という。達男は、嫁の名前までよく覚えてるな、と感心した。それよりも何よりも、この場からダッシュで逃げ出したかった。高山さんらと一緒にエレベーターから続々と吐き出され、一階フロアに溢れるように居た沢山の人たちも、ほとんどはビルを出たらしく、達男が辺りを見回すともう、まばらにしか人が居なかった。

 「あたしは今日は用があるから、定時で帰ってるけどさあ。だいたい中村君あんた、毎日毎日会社出るの、早くなーい? みんな残業してるのよ。あたしなんか週に三日、最低でも二日は残業やってるわよ。あんたが残って仕事してるのなんか、あたし見たことないわ」

 高山さんの早口の説教じみた話は、ただの文句のような口調になってしまっている。達男にはただの雑音でしかなく、うるさくてたまらない。ふと、カウンターの受付の娘を見ると、話をしていた男は何処かへ行ったらしく、一人、下を向いている。肩のあたりが小刻みに震えている。カウンターの下を向いて、必死に笑いをこらえているのだ。同じ職場の、やり手のオバサン上司か何かに見える女性から、早口で文句を言われているのが、まるで仕事上で怒られているように見えて、可笑しくてたまらないのだろう。隣の、警備員のオジサンは苦り切った顔で見ている。

 達男は、受付の可愛い娘の手前、恥ずかしくて仕様がなかった。ああ一刻も早く、この場から逃げ出したい。達男はタイミングを探していた。すると、エレベーターのドアが開き、一人の男が降りて来た。ちょっと長めの髪をきれいに整髪して、少し大きめの濃紺のスーツをダボッと着て、白いワイシャツに地味目なネクタイはきちんとしている。見るからにひょろっとして痩せているが、なかなかのイケメンだ。

 「おうっ、藤村。待ってたんだよ!」

 中村達男が片手を挙げて、声掛けた。高山さんから逃げ出す絶好のチャンスだ。高山さんも、藤村と呼ばれた男に気付き、声掛けた。

 「あら、藤村君。今日は早いのね」

 藤村は、二人に近寄って来た。藤村は、中村達男と同じ営業部に所属する同僚だった。フルネームは藤村敏数といい、達男より一つ年上だが、中途入社で、社歴では達男の後輩になる。藤村敏数とて、達男ほど毎日のように定時で帰っている訳ではないが、職場の仕事上では、コツコツと休まず業務を片付けて行く、真面目タイプなので、何となくよく残業しているような雰囲気があった。そういう意味では、経理の高山さんは誤解していた。

 「おう、藤村。まだかまだかって、待ってたんだぞ。よし。行こうか」

 「え?」 藤村敏数は事態が飲み込めず、ポカンとしている。

 「あら藤村君。中村君と一緒にお出掛け?中村君。藤村君をあんまり、悪いところに誘っちゃ駄目よ」

 高山さんは首を左右し、二人に交互に向かって言った。

 「嫌だなあ、高山さん。違いますよ。今日は、藤村が僕に大事な相談事があるって言うから、今から話を聞きに行くだけですよ」

 達男の説明に、高山さんは怪訝な顔をして、藤村敏数の方を見た。

 「本当なの? 藤村君。中村君に大事な相談なんて‥」

 「ええ、まあ‥」

 そして、達男の次の言葉で、高山さんは帰りを促された。

 「高山さん。今日は急ぎの用事で、早く帰るんじゃないんですか?」

 「ああ、そうだったわ。いけない、早く帰らなくちゃ!」

 高山さんは慌てて一階フロアの玄関出口を目指したが、途中振り返り、後ろに並んで立つ敏数と達男に向かって、捨て台詞を吐いてから、自動ドアの向こうに消えて行った。

 「藤村君。相談事もいいけど、中村君の口車に乗って、悪い遊びに嵌まっちゃ駄目よ!」

 藤村敏数自体は、経理の高山さんが思うほど、真面目で品行方正という訳ではなかった。実は、藤村敏数は中村達男の飲み仲間、遊び仲間なのだ。中村達男は仕事中の態度でも、普段から何となくだらしなく見えるが、いつも職場では、コツコツと真面目に仕事しているイメージの藤村敏数も、プライベートでは中村達男に負けず劣らずの遊び人だった。そのギャップが大きいから、職場では想像も着かないのだ。

 ナンパ、合コン、キャバクラなど女の居る飲み屋通い、敏数は達男の遊びの、良きパートナーだった。酒、女、時々ギャンブルでは、二人はいつもつるんでいた。特に達男の方は、藤村敏数が入社して来る前から、夜遊びは派手だった。二年前、結婚した当初は一時期、ピタリと夜遊びは封印していたが、ジワジワとまた夜の歓楽街に出て行くようになり、最近では、敏数とつるんで完全に元に戻ってしまった感がある。

 しかし、独身時代のように金が自由にならないらしく、夜遊びのためならば年上の先輩や上司を誘ってでも、夜の街に出て行っていた。だがこの不景気な時世では、なかなかスムーズに年長者の懐をあてには出来なかった。

 二人は揃って、自社の入る15階建てビルを出て、表通りに立った。

 「藤村、ありがとうな。合わせてくれて」

 「いや。俺も、誰かに話したいことがあってさ。調度良かった。達ちゃんに聞いて貰おうと思って」

 「え? マジかよ。俺は、すぐにでもキャバクラ行って、パーッとやりてえんだけどさ」

 「いや、その前にまだ時間も早いし、俺の話を聞いてくれよ」

 「ちぇっ。何だよ。また藤村の、今の彼女と前の女で揉めてる話かよ。そんなの、自分で何とか片付けろよ」

 「そうじゃないんだよ。仕事上のことなんだよ」

 そう言って藤村敏数は、自社がテナントとして入る15階建てビルを見上げた。つられて中村達男もビルを見上げる。二人が籍を置く会社は、この15階建てビルの、6階と7階の全フロアを借りていた。

 中村達男と藤村敏数の勤める会社は、駅ビル正面から真っ直ぐ伸びる大通りの両サイドに、地方では高層なビルが幾つも立ち並ぶ、この地方小都市の中では最大の大規模オフィス街で、そのビル群の中でも15階建てという、取り分けゴージャスな雰囲気のオフィスビルにテナントとして入っている。二人は、その高層ビルの6階と7階の全フロアを借りている会社の、6階の営業部に所属する。

 二人の籍を置く企業は、社名を、ワカト健康機器産業株式会社といい、車椅子や介護ベッドという基本的なものから、はたまた介護ロボットの開発まで、高齢者や各障害者向けの福祉関係の、各種機器の受注生産・販売・開発を旨とする会社であり、最近では、医療関係の機器の開発までにも乗り出している。この分野では、大手となる株式会社で、通称 『ワカト』 と呼ばれている。

 達男や敏数の勤務する、地方都市中央に位置する最大オフィス街の、高層ビルに入った部署は、この地方、広範な地域の業務全体を統括する、いわば中枢支店本部である。また、実際の商品となる福祉関係の機器や器具の生産は、郊外に自社工場があり、別の地域には開発の研究所まで持っている。達男も敏数も、その支店本部オフィスの営業部に所属する、一介の平社員となる。

 今、二人は、自分たちの机のあるビル6階の窓を見上げていた。

 「そうかあ。仕事の話かあ。あんまり面白くないけど、藤村がそう言うんならまあ、聞いてやるかあ」

 二人は、大通りを繁華街方面へと歩き出した。夕刻のオフィス街通りのこの時間は、会社が退けて帰路に着く者、退社後の遊びに行く者、最近では、様々な習い事やカルチャー教室、ジムに向かう者など、人通りが多い。しばらく歩いて、歓楽街方面へと折れて裏通りに入ると、さらに人通りは多くなった。歓楽街に入ってしまうと、二人はまだ陽があり明るかったが、一軒の居酒屋に入って行った。

 店内はまだ空いていて、がらんとした雰囲気だった。二人は店員に案内されて、二人掛けのテーブルに着いて、「取り合えず生」 と言って、生ビールの中ジョッキを注文した。

 「ギャラクシーの、かえでちゃんがよオー」

 すぐに達男は、藤村敏数が話がある、と言ったことなぞもう忘れて、今ご執心のキャバ嬢の話を始めた。敏数は初めて聞く、ホステスの名前だった。

 「ああ。達ちゃん今、ギャラクシーに通ってんのか」

 「ああ。この、ギャラクシーのかえでちゃんが、これがまた可愛くてさあ。乳もでかいし、お尻もバーンてこう、張っててさあ。セクシーでもう、たまんねえよまったく!」

 達男は、身ぶり手ぶりで、今ご執心のホステスが如何に魅力的かを、敏数にかなり熱っぽく語った。

 「大丈夫なのかい、亜紀子さんは?」

 敏数は、達男の妻君のことを心配した。以前、達男の家にお邪魔した折り、妻君が怒っていて不機嫌な時に出くわし、そういう時はかなりキツいことを知っていた。

 「平気平気。もう、ウチは全然大丈夫だから。藤村が心配することはないよ。それよりおい、ここで少し時間つぶしたらギャラクシー行くぜ」

 「ええーっ! 俺はいいよ、キャバクラは」

 「何だよ藤村。最近、付き合い悪いな。また、結婚とか馬鹿なこと考えてんじゃないのか。止めとけ、藤村」

 「いや、俺も、もうそろそろイイ歳だしね。真面目に結婚も考えないと」

 「馬鹿だなあ、藤村。まだまだ大丈夫だよ。まだまだパアーッと遊ばないと。急いで結婚なんかしちゃうと後悔するぜ」

 「達ちゃん、後悔してるのかい?」

 「いや、俺はそういう訳じゃねえけど‥。何だ、藤村。まるみちゃんにまだしつこく追っ掛けられて、困っているのか?」

 「いや、そういう訳じゃないよ。まあ、正直言って、彼女は簡単には諦めてくんないけどな」

 「ヒューッ、モテる男は辛いな。今の彼女、悦子とか言ったっけ。まるみちゃんと衝突しちゃったのか?」

 「ヒトの彼女、呼び捨てにしないでくれよ。それはない。うまくやってるけど、でもまるみちゃんもいつ、俺のアパートに押し掛けて来ても、おかしくない勢いだからなあ」

 「藤村。おまえも悪いヤツだよ。さんざんまるみちゃんの身体を弄んで、悦子とかいう女が出来たら、紙屑捨てるみたいにポイと捨ててよ」

 「そんなじゃないよ。いろいろあったんだよ。それより、俺の悦ちゃんを呼び捨てにするの止めてくれよ」

 「ふん。今に、おまえとその悦ちゃんが一緒に居るとこ、城山まるみが入って来て刺されるぞ」

 「そういうこと言うの、止めてくれよ。まるみちゃんとは早晩、きちんとカタを着けるよ」

 達男と敏数がそういう、タメの同僚どおしのやり取りをしている内にも、生ビール中ジョッキが運ばれて来て二人は、ビールに口を着け半分ほど飲んでいた。

 「おい。腹減ってるから、何かつまみ適当に頼もうぜ。腹ごしらえしてからギャラクシーへ、いざ出陣。あんな店で、あれこれオードブルとか頼んで、別料金取られちゃ敵わねえからな。あくまでセット料金で押さえて、乳とか尻とかバンバン触りまくらねえとな」

 敏数は困った顔をして、達男の誘いを何度も断った。二人は店員を呼んで、何種類もつまみを頼んで、つまみが運ばれて来る度に、旺盛な食欲で平らげて行った。勿論、生ビールも進んだ。

 「あんまり飲み過ぎて酔っぱらっても、キャバクラで女の娘のお尻触るのも、こっちの感度が鈍るからほどほどにしとかないとな。そろそろ行こうか」

 「だから、俺は行かないって」

 「付き合い悪過ぎるぞ、おまえ」

 「達ちゃんの方こそ、一人で行けばいいじゃんか」

 達男のキャバクラ誘いのしつこさに、敏数も少し腹が立って来ていた。

 「達ちゃん、ひょっとしてあれなんじゃないの?」

 「何だよ、あれって?」

 「総務の二宮主任がこぼしてたぜ。営業の中村君に誘われて、一緒に飲みに行ったは良いけど、お会計の段になって空の財布を開いて見せて、『主任これなんですよ』 って言われたって」

 「失礼なこと言うな、馬鹿。自分の分くらい、自分で払うよ。それより付き合い悪いなあ、藤村。おまえの悩みを聞いてやったじゃねーか」

 二人は居酒屋に入って、もうかれこれ小一時間近く経っていて、生ビールも敏数はまだ二杯目だが、達男は三杯目の中ジョッキをあおっていた。

 「俺の悩みなんて、まだ話してないよ」

 「だから、まるみちゃんと悦子の間で、おまえは苦しんでるんだろう?」

 「悦ちゃんを呼び捨てするな。冗談じゃないよ。達ちゃんが無理やり全部、女の話に持って来んじゃないか」

 「は? じゃ、相談事って何なんだよ?」

 「係長のことだよ」

 「え? 係長って、ウチの係長か。係長がどうかしたのか?」

 敏数が呆れた顔をして、溜め息を吐いた。

 「達ちゃんが、何でもかんでも女の話にしちゃうから、言い出せなかったんだよ。此の頃、ウチの係長って、ちょっとおかしいだろう?」

 「あん? 係長が‥」

 「そうだよ。今日の昼間の事件なんて、社内であれだけ大騒ぎになったじゃないか」

 「事件? 大騒ぎ?」

 「何だ。達ちゃん知らないのか。そうか。達ちゃんは午後から、客回りに行って来るって言って外に出て、ずっと喫茶店で寝てたんだもんな‥」

 「人聞きの悪いこと言うなよ、藤村。ちゃんと客回りはしたんだよ。一件だけど‥。まあ、後は喫茶店で新聞とか週刊誌とか読んで、営業職に必要な、世の中の情報を仕入れてたんだ。俺がキャバクラ通うのも、その一環でだ。で、昼間何があったんだ?」

 敏数は呆れ顔で、達男の弁明を聞いていたが、達男の質問に答えて、おもむろに昼間社内であった騒動を話し始めた。

 「昼休みの給湯室でさ。総務の江口さんて女の娘、あの娘に係長がセクハラしたらしいんだよ」

 「えーっ! あの、総務の可愛い娘ちゃんの、江口恭子ちゃんがセクハラされたのか!? で、何されたんだ?」

 達男は驚いて、声のトーンが二調子分、上がった。係長がセクハラしたということよりも、被害にあったのが、総務課の可愛いOLだったことが驚きだったのが、如何にも達男らしかった。

 「しかしホント、江口さんて可愛いくて魅力的だよな。で、その係長が、どんなことしたんだよ? 早く話せよ藤村」

 何だか達男は、下世話趣味で興味津々のようだ。

 「だから話してるよ。実は、何でもポットにお湯を入れてる時に、係長がお尻を触って江口さんは驚いて、手先を軽く火傷したらしいんだな。調度、給湯室にやって来た他の総務課の女子に見られて、上に報告されたらしい」

 「何だって! 係長、江口さんの尻を触ったのか‥」

 話を聞く達男の様子は、何だか羨ましそうにも見える。

 「解らないけど、ウチの課長に呼ばれて総務課まで捲き込んで、えらい騒ぎになっちゃってる。ひょっとして危ないカモ‥」

 「そんな面白えことがあったんなら、社に居れば良かったな」

 「だいたい最近、係長おかしいだろ?」

 「そうか?」

 「達ちゃん、気が付かないか。机に着いてて、一人でニタニタ笑ってたり。仕事のミスも多いぜ。あの、慎重で丁寧な仕事してた係長が、考えられないよ」

 「へえ~、そんななんだあ」

 「達ちゃん、一緒の部署で仕事してて、気付かないのはおかしいよ。俺なんて、係長のミスで実害被ってるんだから」

 「そんなこともあったんだな‥」

 「ああ。俺の上げた顧客の注文書の品名とか、いろんな数字、係長が間違ってさ。顧客とトラブルになって、俺も一緒に課長から大目玉さ。たまらないよ、まったく。他にも係長の小さなミス、いっぱいあるんだぜ。まあ、その先のオオゴトになる前に、誰かが直したりしてるんだけどさ。だから、何かおかしいんだよ、係長。心ここにあらず、って感じだね」

 「恋でもしてんのかな? まさか相手は、江口さんじゃねえだろうな」

 「いや、そういうんじゃなくて多分、本能が出てしまってんじゃないかな‥」

 「ええっ! ボケ老人みたいだな」

 「冗談でなく、それに近いのかも知れないな。このまま行くと係長、良くて降格か左遷。ヘタするとクビもんカモ‥」

 「そうか。そんなだったんだなー、係長‥」

 「だいたい達ちゃん、一緒の部署に居ておかしいよ。ここんところ俺は、係長のせいでだいぶ実害被ってるぜ。達ちゃん最近、全然仕事してないんじゃないか」

 「馬鹿野郎。俺だって少しは仕事してるよ。ただもともと、あの係長、真面目過ぎてさ。細かいところにうるさかったろ。俺、極力避けてたんだよな。関わるのは仕事の最小限で、あとは眼中になかったからな」

 店員が、酒肴の容器を幾つか下げに来た。敏数は、中ジョッキ二杯でもういっぱいいっぱいだったが、達男の方は、三杯目のジョッキも空になってて、まだ飲みたそうにしていた。しかし、達男には次に本命の目的があるので、これ以上飲むのは我慢した。店員が行った後もしばし、二人とも黙っていたが、おもむろに敏数がまるで独り言のように言った。

 「係長、何だか別人みたいに変わっちゃったよなあ‥」

 突然、達男が立ち上がった。

 「よし。もう、時間も押して来た。行くぞ! いざ、かえでちゃんのもとへ。藤村、用意をせい! かえでちゃんだっこしてソレソレソレって乳も尻も触りまくるぞ!」

 居酒屋の店内はもう随分、混み合っていた。二人が入った時は、がらがらに近いくらいに店内は空いていたが、今はもう空いた席がないくらいに客でいっぱいだ。四方八方から、酔客のオダを上げるような勇ましい声が聞こえる。二人は居酒屋を出た。繁華街は各ネオンや照明で真昼のように明るいが、空を見上げると星が出ていた。

 「藤村、急ごうぜ。八時を回ると、セット料金が千円高くなるんだ」

 達男はあくまで、お目当てのホステスが居るキャバクラへ行くつもりである。

 「いや、達ちゃん。俺、これで帰るよ。ホントもう、今日はそんな、キャバクラ行って騒ぐ気分じゃないんだ」

 「いいじゃねえか、藤村。今の飲み屋も、ちゃんと割り勘で払ったろう。大丈夫。キャバクラ奢って貰おうなんて思ってねえよ。俺の分はちゃんと払うから」

 「いや、そういうことじゃないんだ。今日は乗り気がしないんだよ。何か疲れてたから、生ビール二杯で酔っ払っちゃったよ。だから、もう帰るよ。」

 「馬鹿言え、藤村! ここまで来て帰るなんて、そんなツレナイこと出来るのか。なあ、俺たちは風俗兄弟みたいなもんじゃねえか、藤村。なあ、一緒に行って、パーッと遊ぼうぜ」

 達男はしつこく誘い続け、敏数は断り続ける。そのやり取りの間にも、二人の足は歓楽街の、さらにディープな方へと向かっていた。敏数は嫌だ嫌だと言い続けながらも、達男のしつこさに負けてか、ついつい達男に並んで、風俗店が立ち並ぶ界隈に入って来てしまった。風俗店が立ち並ぶ、といっても、ほとんどはビルの中にテナントとして入っている。

 「おい見ろよ、藤村。あのファッションヘルス、まだやってるぜ」

 見ると、原色ネオンの照明で、風俗店の毒々しい色使いの看板が出て、腹の出た呼び込みのオヤジが、後退した頭髪をテカテカに塗り固め、半袖ワイシャツに蝶ネクタイ姿で、客引きの文句を垂れていた。

 「懐かしいな、藤村。あの店、昔よくお世話になったよな」

 藤村敏数が 『ワカト』 に中途入社した時分、達男はまだ結婚前で、よく一緒に、この風俗街に遊びに来ていた。客引きのオヤジが、達男に声掛けて来た。

 「悪いな、オジサン。俺たちは今日はキャバクラ行くんだよ」

 オヤジは満面の笑顔で、「帰りに寄って」 と言って、離れて行った。敏数が達男の肩を叩いて、注意を引き付けた。

 「達ちゃん、見ろよあれ。あんなところに在吉君だろ? あれ‥」

 達男が、敏数の指差す方を見やった。数メートル離れた四つ角の、人の流れの中に若者が一人立ち、キョロキョロと辺りを見回している。

 「あ、本当だ。在吉君だ」 達男が言った。

 達男がニヤリと笑った。今からキャバクラへ行く仲間が、一人増えたと考えて喜んだのだ。二人は、在吉君に近寄って行った。

 「在吉君!」 敏数が、軽く肩を叩いて呼んだ。

 「ああ、藤村先輩。あれ、中村先輩も‥」

 在吉君は、敏数よりも達男よりも上背は低かったが、薄いグレイのサマースーツをちゃんと着こなしていた。頭髪は短く刈り込んでいて、色は浅黒く、まるで高校球児のような雰囲気がある。達男が言った。

 「在吉君も、隅に置けないな。こんな通りをウロウロして。案外、好き者なんだな在吉君も」

 「ええっ!? いや、違いますよ。迷ったんですよ」

 敏数が尋ねる。

 「道に迷って、こんな風俗ストリートに入り込んだのかい?」

 歓楽街を縦横に走る通りは、どの道も狭い。夕方から夜間は、車輌通行禁止になっている通りも多い。三人は、四つ角の中央で、人の流れを邪魔するように立っていた。

 「実は、係長を追い掛けて来たんですよ。おかしいな‥。確かに、こっちに来た筈なのに。この四つ角から見失ってしまって‥」

 在吉君はまた、キョロキョロとして首を回した。

 「在吉君。せっかく、この風俗街に来たんだ。俺たちと一緒にキャバクラ行って、パーッと騒ごうぜ」

 達男が、上機嫌な表情で言った。

 「いや、イイっすよ。実は俺、今日、彼女と映画見るつもりだったんすよ。七時の回。それが、彼女から携帯に連絡が来て‥。仕事がどうしても終わらないから、映画間に合わないからって。それで仕方なく、辺りの通りをぶらぶら歩いてて‥」

 ここから100メートル近くを西側に歩いて行くと、映画館のハコが幾つも入ったビルがあった。在吉君は、そこから歩いて来たらしい。彼は、『ワカト健康機器産業』 の去年入った若手の社員で、達男や敏数の所属する営業部では最も若い。フルネームを在吉丈哉といい、まだ21歳の青年だ。

 「係長は、何処で見つけたんだい?」 敏数が訊いた。

 「映画館ビルの近くの、サラ金の金貸しATMのボックスから、出て来るとこ見掛けて、何か気になって、跡を着けて来たっす。ほら、今日も社内で事件あったし‥。最近、係長変じゃないっすか」

 「消費者金融のATMって、係長、金に困ってんのかな?」

 達男が言って、達男のお目当てのキャバクラ、ギャラクシーがある方角を見やった。

 「あれ? あの後ろ姿、何か係長に似てないか?」

 達男が、風俗街の通りの奥を指差した。通りの奥の方は、人は数えるほどにしか居ない。その中の一人がぽつんと立って、小さなビルを見上げている。達男らが立つ、十字路に比べて、通りの奥は暗かった。

 「何か、あの辺は、“たちんぼ”でも立ってそうなトコだなあ」

 達男の言葉の後に、在吉丈哉が言う。

 「何だか、あの辺り、不気味なゾーンて感じしますけど、あの背格好シルエットは多分、係長で間違いないっすよ」

 係長と思しき男性の影は、ビルから出て来た、呼び込みらしき男と話をしていた。藤村敏数が二人に聞いた。

 「どうしようか? 取り敢えず、もっと近くまで行ってみよう」

 「ええーっ! 冗談じゃねえよ。俺たちはギャラクシーに行くんだろ? 俺はギャラクシーのかえでちゃんに会いたいんだよ」

 達男が大慌てで、敏数の提案に猛反対する。

 「でもちょっと、見に行きましょうよ。気になるじゃないっすか。近くまで寄ると案外、人違いってこともあるし。だって、ウチの係長のことなんすから」

 「そうだよ。在吉君の言う通りだ。とにかく確認に行こう。それにしても顔ははっきりしないが、着ている背広の色合いといい背格好から、多分間違いないよ」

 「吉川係長っすね?」

 「多分、間違いないと思う。別に、顔合わせたって良いじゃん。適当に話合わせれば」

 「ちぇっ。吉川係長か確認するだけだぞ。かえでちゃんには、今日は必ず行くってメール入れてんだからな」

 達男はしぶしぶだったが、三人は、吉川係長と思しき人と呼び込みの男が立つ、通りの奥の薄暗いところを目指して、近付いて行った。三人はそろりそろりと歩き、目標まで5、6メートルのところまで近寄った。

 「ほら、やっぱり吉川係長っすよ!」 在吉丈哉が叫んだ。

 「声が大きいよ、在吉君!」 敏数が言った。

 「あホントだー。吉川係長だあ」 達男が何だか間の抜けたような、抑揚のない調子で言った。

 声に気付いたのか、吉川係長がこっちを向いた。暗かったが、敏数は目が合ったと思った。しかし、吉川係長は何事もなかったかのように、前を向いて交渉が済んだのだろう、呼び込みの男に促されて、ビルの中に入って行った。

 「係長、シカトかいっ!」 達男が怒ったように言った。

 「行ってみよう」

 敏数の言葉に、三人は吉川係長の入って行ったビルの前まで歩いた。薄暗い中にも、ビルの入り口の回りには毒々しいネオンが光っている。入り口前に電光看板が出ていて、『ビッチハウス』 と書かれている。

 「ビッチハウスって、モロな名前っすね」

 「キャバクラかなあ。キャバクラよりも、もっとエッチな店っぽいな」

 「入んねえぞ。俺はギャラクシーに行くんだかんな」

 「誰も入るとは言ってないよ。しかし驚きだ。あの、吉川係長がキャバクら通いしてるなんて」

 「一人で入るくらいだから、常連なんだろうな。チクショー、係長め! キャバクラ通いしてるんなら一回くらい誘って、奢ってくれても良さそうなものを」

  ビル入り口を入ると、すぐ横に階段がある。奥にエレベーターがあるようだ。この小さなビルは四階建てらしく、壁のテナント案内板を見ると 『ビッチハウス』 は三階にあるらしい。やはり、キャバクラのようだ。

 「俺は、この店には入らないっすよ。もともと、俺キャバクラなんて行かないけど、何かこの店、気持ち悪い感じがする‥」

 苦虫を噛んだような顔で、在吉丈哉が言うと、藤村敏数が応えた。

 「吉川係長が、中でどんなだか気にはなるけど、俺もワザワザお金出してまで、こんな場末のキャバクラ入る気はないよ」

 敏数の言葉に反応して、達男が続けて言った。

 「あたりまえだろ! 高い金払って、こんなキャバクラ入るかよ。今から、かえでちゃんの居るギャラクシーに行くんだよ」

 達男は断固としていた。

 「かえでちゃんて誰っすか?」

 在吉君の問いには、敏数が答えた。

 「キャバ嬢の源氏名さ。中村先輩が現在、ご執心のホステスだ」

 「中村先輩、大丈夫っすか?金、毟り取られるんでないっすか」

 「在吉君。心配なんていらないよ。俺は、遊んでも女に遊ばれる男じゃねえよ」

 達男が得意そうに言った。その時、階段を降りて来る靴音がした。

 「誰か降りて来るぞ。多分、さっきの呼び込みだ。声掛けられるとメンドクサイ。出よう!」

 敏数の言葉に三人は、ビルを出て店を離れた。通りをしばらく歩くと、分岐した細い通りがあった。

 「こっち行くとすぐ、ギャラクシーなんだ。二人とも行こうぜ!」

 敏数と在吉丈哉は、即座に断った。小さな三叉路で、三人は立ち止まったままで、達男の執拗なキャバクラ誘いと二人の絶対拒否が続いた。途中で丈哉が話を変えた。

 「それにしても吉川係長、完全に別人みたく変わっちゃったすね」

 「昔はキャバクラどころか、居酒屋でも滅多に行かない人だったけどな。残業でも定時でも先ず、間違いなく真っ直ぐ家、帰ってたな」

 「マイホームパパっすね」

 「藤村おまえ一度、吉川係長の家、行ったことあるんだろ?」

 「うん。だいぶ前になるけどね。あの時は、本当に良い家庭だと思ったよ。若々しくて綺麗な奥さん。ほっそりしててさ、ボーイッシュな感じで、こうキリッとしててさ。料理も美味しかったし。二人、子供が居てさ。上の子が女の子で、確か愛子ちゃんとかいって、あの時調度、中学入ったばっかりくらいかな。下は、年の離れた男の子で、小学校低学年くらいかな。二人とももう、可愛くてさあ。係長って本当は、もともと温厚な人だろう。優しい働き者の旦那さんに、美人でしっかり者の奥さん。可愛くてすくすく育ってる子供たち。理想的な家庭で、あんな家庭にメッチャ憧れちゃったよ」

 「それが係長、変わっちゃったすか。いったい、家じゃどうしてるんすかね?」

 「会社であれだけ別人になっちゃってるから、家でも相当変わってるんじゃないかなあ‥」

 「何か、俺が入った頃の面影ないっすよ。吉川係長ってダンディー感あったけど、今なんて背広はシワが寄ってヨレッてしちゃってるし、ワイシャツの襟は真っ黒いは、ネクタイは毎日同じものでこれもシワがあるし‥」

 「おいっ! もう係長の話はイイから、早くギャラクシー行くぜ!」

 達男が怒鳴るように言った。もう八時半が近い。急いで目指すキャバクラに行きたくて、焦っているのだ。吉川係長のことは二の次らしい。

 敏数と丈哉は顔を見合わせ、困り果てた表情をした。その時突然、丈哉の携帯が鳴った。電話に出ると、丈哉の彼女からで、残業が終わったので、今、こちらに向かっていると言う。丈哉は、駅で待ち合わせる約束をして、電話を切った。丈哉はニコニコして、達男に別れを告げた。

 これにはさすがの達男も、在吉君をキャバクラに誘うのも、諦めざるを得ない。仕様がない、という感じで 「ちぇっ」 と舌打ちして、腐った表情をした。在吉丈哉が救われた気持ちで、達男の前から辞するのに便乗して、もうこの機会を逃したら後はない、と、敏数が慌てて大きな声で、「じゃあな達ちゃん!」 と、手を挙げながら丈哉に続いた。

 「あっ、おい。藤村、待て!」 達男が怒鳴った。敏数は小走りになり、丈哉を追い越して急いで逃げた。

 一人残された中村達男は、三叉路を細い通りの方へ入って行った。

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(2)へ続く。

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

 

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

12.

 今日は最低最悪の日だった。心身共に疲れきった態で、吉川愛子は二階へ上がって来た。階下ではまだ、母・智美の啜り泣く声が聞こえて来ている。父・和臣は、また風呂にも入らずに寝室に入った。一階には、ダイニングやリビングの他に、寝室として使える部屋が二室ある。一つは当初は客室用だったが、今は母・智美の寝室となっている。和臣と智美が寝室を別々にし始めてから、もう二ヶ月以上になる。

 今日も遅く帰って来た父・和臣は、酒を飲んでいて、夕食は要らないとそっけない態度だった。風呂に入ってすぐに寝ると言う。今、和也が入っていると智美が言うと、「何故もっと早く和也を風呂に入れとかないんだ」 と、ぶつぶつ文句を言って不機嫌になり、「疲れているからもう寝る」 と言い出した。

 普段は吉川家の入浴の順番は、和也が一番先で次が愛子なのだが、この日は和也が、「見たいテレビ番組がある」 と譲らないので、愛子が先に済ませていた。気分的にも、ぐったりと疲れていた愛子には、一番に入浴できるのは都合良かった。何ヵ月か前までは、遅くとも午後九時前には帰宅していた父・和臣が三番目に入浴していたが、最近の和臣の帰宅は十時、十一時はざらで、ヘタすると、深夜・零時を回ることさえ何度もあった。特に最近は帰りが遅い。

 和臣のそっけない態度や不機嫌さに対して、智美がぶちキレた。智美の甲高い怒鳴り声と、うるさそうにボソボソと、言い訳めいた話を繰り返して応対する和臣。明らかに面倒くさそうな態度だ。ひとしきり智美が、怒鳴り声を交えて文句を言うと、泣き声を上げ始めた。二階で、階下の夫婦の騒動を窺っていた娘・愛子は、母・智美の泣き声を聞いたのを機に、階下へ降り、父親・和臣に対して強い調子で意見を言った。

 仕事仕事と言いながら毎晩帰りが遅く、土日の休日は何の用事なのか家に居なく、しかも昨夜は連絡もなしに帰って来なかった、最近は、まるで家庭を顧みない父親・和臣を責めた。愛子自身もだが、まだ幼い和也の面倒も含めて、パートの仕事をしながら家庭のことを一人で全部やっているお母さんが可哀想だ、と母・智美を庇いつつ、和臣を強く責めた。愛子は、父・和臣が中学生の実娘からここまで言われれば、相当なショックを受けて、堪えるだろうと踏んで一気に捲し立てたのだった。

 しかし結果は、吉川和臣はほとんど平然としていた。中学生の実娘、愛子の真剣な訴えを黙って聞いていた父親・和臣は、無感動に 「それだけか」 といった風情で、まるで何もなかったかのように一言、「寝る」 と言って寝室に向かった。愛子は、父親の驚くべき態度に号泣するどころか唖然とし、しばしポカンとした。だが涙は溢れていた。「お父さんはおかしい」 と、心からそう思った。このところ毎日帰宅が遅い。日曜日も居なくて、家庭を顧みない。そういうことばかりじゃない。お父さんは変わった。変わり過ぎだ。

 本来、父・和臣は清潔好きな方だった。それが、昨夜は帰って来なくて、今日帰宅して来た時は勿論、昨日の朝と、下着も全部同じ衣服で、今、寝室へ入ってしまった。今日は最初は風呂に入るつもりだったのだろうが、妻と娘に文句を言われると、それをうるさがって避けるために、入浴しないで寝室に入った。多分、外で、何処かで入浴や、シャワーを浴びることはしていないのだろう、汗臭い。また、化粧臭かった。酒も入ってるし、強い化粧の臭いは酒場の商売女の臭いに違いない。もう最近は、化粧の臭いを落として帰宅する、という気も遣わない。以前はあれほど清潔好きだった、父・和臣が汗の臭いや酒の臭い、化粧の臭いをぷんぷんさせて二日も三日も風呂にも入らず、平気で居るのはおかし過ぎる。もうこれは異常そのものだ。

 愛子は自分の部屋へ入り、ベッドにへたりこむように腰掛けた。全身の力が抜け落ちるようだ。すぐに身体を倒し、仰向けに寝転がり、天井を見た。今日はワクワク期待していた、ハチやジャックというスーパードッグには、とうとう会えず終いで帰路に着いた。熱心に誘って一緒に着いて来させた、後能滋夫には見せる顔がなかった。愛子は、きっと後能君はあたしのことを頭がおかしい、くらいに思ってるだろうと悲観していた。その姉の気持ちを察したのか、一緒に帰る弟・和也が後能滋夫に向かって、「お兄ちゃん本当なんだよ。あの二匹の犬はすごい力を持ってるんだ」 と、力説してくれていた。愛子は後能滋夫に対しては、ただ謝っていた。「ごめんなさい。こんな遅い時間まで誘っちゃって」 と。ただ、そう言う愛子の落胆が大き過ぎて、言葉には力がなかった。本来気持ちの優しい子供なのだろう、後能滋夫は何度も 「いいよ、いいよ」 と言って、笑顔を見せていた。

 そして家に帰れば、母親の機嫌が悪い。帰宅の時間が遅過ぎると、和也ともども怒られる。母・智美の機嫌が悪いのは、父親・和臣が昨晩帰って来なくて、和臣から智美に謝るどころか何の連絡もないことが一番の原因だった。夕方、智美の方から和臣の携帯に電話を掛けて、やっと連絡が取れたらしい。仕事関係の接待で遅くなり、会社近くのカプセルホテルに泊まって朝そのまま出社した、と言い訳をしていたらしい。母・智美は亭主・和臣のことで機嫌が悪く、子供たちへの説教以外は無口で、態度が硬質そのものなのだ。

 愛子は、スーパードッグに会うことが叶わなかった大いなる落胆の上に、家の中の殺伐とした空気を感じて、気分が冷え込み、さらに気持ちは沈んだ。なかなか寝付けなかったが、愛子は午前を過ぎてしばらくして、やっと眠りに就いた。

 そして翌朝。クラスの教壇の黒板には、チョークで落書きがされて、ヘタクソな絵で男女生徒らしい人物一組が手を繋いでいて、そこにハートマークが赤いチョークで三つくらい描き込んである。男子生徒らしき絵の横には 「二組・後能滋夫」 と書かれ、女子生徒らしき絵の横には 「吉川愛子」 と書き込まれていた。この、ヘタクソ極まりない絵柄には見覚えがある。一組の武田虎太の落書きだ。絵の下部にも書き込みがあった。昨日の日付と、駅前ジャンクフードショップ名だ。

 愛子が、怒った顔つきで周囲を見渡した。ピー子の意地悪そうな、馬鹿にしたような笑い顔が目に飛び込んで来た。七、八人はニヤニヤ笑って、黒板を見ている。後は、ワザと知らんぷりしているようだ。愛子は黒板消しを手に取って、落書きを消し始めた。男子の囃し立てる声や口笛が、愛子の背中に浴びせ掛けられる。昨日は、まるで気が付かなかった。武田虎太に駅前周辺で見られていたのだ。男子の誰かが、「吉川、もっと相手選べよ」 と声掛け、どっと笑い声が上がる。

 二組の後能滋夫も今朝は、クラスで苛めにあっているかも知れない。愛子は、後能滋夫に対して悪い気持ちになった。昨日、自分が無理やり誘ったからだ。しかも空振り。愛子は自己嫌悪と、クラスのみんなの仕打ちに泣きそうになった。しかし、口惜しい気持ちが勝り、必死で涙は堪えた。離れたところで一人、心配そうに真央が見ていた。真央は頭の良い子で、賢く優しい。クラスの他の子たちは、正に苛めモードで笑いながらこっちを見ているか、敢えて知らんぷりしているかだ。愛子は案外、集団苛めはこんなことから始まって行くものかも知れないな、と思った。

 後に、二組の後能滋夫に聞いたのだが、この日も次の日も、愛子と街で一緒に居た件で苛められることはなかったらしい。後能滋夫は、西崎ら不良グループと一緒に居ながらも一人だけ無傷で助かったことで、逆にみんなから一種異様に怖れられていた。まだみんな、中学二年生くらいの年代だ。大人が一笑に伏す様な、超自然的な情報を真に受けて、貴重な情報として受け入れがちな世代なのだ。生徒たちの間では、後能滋夫には強力な守護霊が着いている、などという噂まで流れていた。後能滋夫は、学校では相変わらす一人ぼっちだったが、しばらくは誰からも苛めに合うことはなかった。

 さんざんな一日は、放課後のクラブ活動でさらに強烈だった。最悪の一日のもっとも象徴的な最悪の時間が、女子バスケ部の練習の間だった。親友の筈だった同じバスケ部のピー子が、愛子が昨日の練習を病欠で休んで、その時間、何をしていたかを全部員にチクっていた。部活が始まると先ず、最初に三年生の女子主将からビンタを張られた。その後は、体育館の隅に一人立たされて、全部員からバスケットボールを次から次とぶつけられた。

 一年生部員や仲の良い同級生部員が加減してボールを投げると、先輩たちからの激が飛ぶ。ピー子も幾分、手加減しているようだ。途中で体育館に入って来た、保健体育科の男子教員があまりの激しさに、集団リンチのようなボールぶつけを止めたが、三年生女子のキャプテンに事情を聞くと、「あまりやり過ぎるなよ」 と言って、体育館を出て行った。教師の姿が見えなくなると、またボールぶつけのリンチが再開された。

 愛子は歯を喰いしばって耐えていたが、ついに泣きそうになったところで、キャプテンの 「やめ!」 が掛かった。何度も転び、手足はアザだらけだ。頭部には幾つもぶつけられたが、顔自体はあまり狙って来なかった。顔のアザは目立ち、残れば後々、教師やPTAが入って来てコトが面倒になるかも知れないから、気を付けているのだ。実に周到だった。それでも、頭部には飛んで来たが、愛子が両腕で庇い続け、顔部分にはほとんどアザなど残らなかった。ボールぶつけリンチだけでもふらふらになって、体力を消耗させられたが、その後のバスケ部のいつもの練習メニューも、他の部員の倍やらされるくらいにシゴかれ、最後には倒れているところにバケツの水をぶっかけられた。

 やがて練習も終わり、ピー子以外の同級の部員に肩を貸してもらって部室まで行き、何とか着替えて、息も絶え絶え帰途に着き、家に帰り着けば、午後七時半が近かった。母親は夕飯の準備を終えていて、和也がテレビを見ると言うので、先に入浴した。浴室で裸になると腕や大腿部だけでなく、胸や腹部にさえもアザが出来ていた。背中も痛いからきっと、背中にも幾つかアザがあるだろう。全身が痛いのを我慢しながら、脱衣し入浴した。心配するから母親にだけは、この全身のアザを見せてはいけないと思った。風呂から上がると、母・智美と愛子、和也の三人で夕飯を食べ、その後、和也が入浴した。

 和也が入浴を終え、二人の子供が二階へ上がって午後九時を回って、父・和臣が帰って来た。最近では、九時台の帰宅は早い方だ。階下で、智美と和臣の言い争いが始まった。智美は、和臣が毎日、酒と濃い化粧の臭いをさせて、以前に比べて遅い時間に帰って来ることと、一昨夜、とうとう帰って来なかったことの理由を問い質した。和臣はうるさそうに、面倒臭そうにいつものように、仕事の顧客の接待だと繰り返した。和臣の対応のいい加減さに怒った智美が、甲高い怒鳴り声を上げる。文句を言う母・智美の喋り方が泣き声になったとき、娘・愛子は階下に降りて行き、父親・和臣に向かって文句を言った。

 母親を庇い、激しい口調で和臣を責めた。ここ最近の、父・和臣に対して思っていた、溜まりに溜まっていた不満をぶちまけた。「お母さんが可哀想だ!」 この言葉をまるで絶叫するように、父に吐き着けた。もともとは家では、家庭的で優しく、おおらかだった父親に対して、これまで愛子は怒って文句を言ったりしたことは、ほとんどなかったと自分では思う。子供の頃はワガママから、多少は不満をぶつけたこともあったかも知れないが、年の離れた弟の手前、そういうのもあまり言わなくなった筈だ。しかし、最近の父はひどい。毎日帰宅が遅いのも、日曜日に家に居ないのも、特に近頃は酒や化粧の臭いをプンプンさせながら帰って来ることも、本人は悪いなどとは全然思っていない。家族に全く気を遣わなくなった。

 愛子の、父親を責める激しい口調は、涙声になっていた。母・智美が、愛子を止めた。涙で目尻や頬を濡らした智美も、必死のような形相で居る。ところが、妻と娘、両方に相当強く、責め続けられている和臣は、見るからに平然とした雰囲気で居るのだ。愛子が吐き続けた、激しい口調の批難の間、和臣はずっと黙っていたが、智美に責められていたときもどちらも、面倒くさげな態度でいるばかりなのだ。和臣には、相手の話を、真剣に聞いている雰囲気はちっともない。ただうるさそうにしていて、早く終わらないかな、この場から逃げたいな、という気持ちがその態度に出てしまっている。智美と愛子が発した批難の言葉、一つ一つの意味もまともに考えることもしてないだろう。おそらく、二人が必死の思いで発した、合わせて三十分近く続けた真剣な話も、和臣はただ聞き流しただけだろう。

 愛子は、昨晩と今夜と、連続して都合二回、父・和臣に対して、激昂して文句を言った。今日のは特に、もうあらん限りの気持ちで、まるで激しい憎悪心にも似た気持ちで、自分の実の父親を激しくなじった。そして、その後はといえば、張本人の和臣は、そんなことは何処吹く風と言わんばかりの態で、一言 「疲れた、寝る」 と言って、寝室に入った。風呂にも入らず、家での夕飯も取らずに。母親・智美は憔悴しきり、泣き疲れでもしたように放心して、キッチンのテーブルに黙って座っていたが、何だか決心したようなムードもにおわせている。ひょっとしたら、心の中では 「離婚」 ということまで考え始めているのかも知れない。

 愛子自身は何よりも、自分の父親、この吉川家の主、吉川和臣の近頃のあまりの変わりぶりに驚いていた。愛子はもう、涙は出ていなかった。ただ頭の中に信じられないような、一つの疑いが浮かんで来ていた。あれは、本当に父・和臣なんだろうか? 同じ顔、同じ声、同じ姿態だが、何だかまるで違う人みたいだ。愛子は、母・智美が心配で傍に寄り、肩に手を遣りそっと顔を覗き込んだ。智美も、もう泣いてはいない。唇を引き締めて、真剣な顔をしている。何だか目に、決意のような力強さがある。智美は、我が子の前では気丈だった。

 「何て目で見てんのよ、愛子。親のことなんか心配しなくていいから、学校のことをやりなさい。テスト大丈夫なの? しっかり勉強してよ。早く、二階に行きなさい」

 娘がリビングを離れようとしたとき、智美は呼び止めた。

 「愛子。あんた今日、随分疲れた顔してるはね。手が張れてるんじゃないの?」

 「うん。バスケ部の練習が、ちょっとハードだったから」

 「クラブ活動も良いけど、ほどほどにしとかないと身体壊すわよ。痕を残すよーな怪我なんかしたって、何にもならないんだから。部活動よりも、今一番大切なのは勉強なんだからね。成績上げてよ」

             *                *

 時系列ではその少し前になるが、吉川和也は、二階の子供部屋で勉強机に座り、机の上に、小学三年の教科書と参考書、ノート、児童漫画雑誌に連載されて大人気のコミックス本数冊を雑多に置いて、憂鬱な顔をしていた。先程から母親が、夫婦喧嘩をしているのは解っている。つい今さっき、お姉ちゃんが下に降りて行った。お母さんに引き続いて、今度は姉・愛子が大きな声を出して、父親・和臣に文句を言っている。

 昨日と全く同じだ。部屋のドアを閉めているから、父親の声は聞こえて来ない。でも、母・智美と姉・愛子の、父を責める声は大きな声なので聞こえて来る。ときどき怒鳴り声になり、「わかってるの!?」 とか 「はっきり言いなさいよ!」 とかいうのは、とてもよく聞こえて来た。和也は、ああいう怒鳴り声のフレーズはきっと、隣の家にも聞こえているだろうな、と思った。宿題や予習をするにも身が入らず、漫画本を読む気にもなれず、和也は、何にも手がつかなかった。

 ものすごく階下が気になっているが、自分が姉に続いて下に行ったところで、階下の三人には相手にされず、母親にはすぐに追い返されるだろう。当の張本人の父親・和臣は多分、馬鹿にしてまるで相手にしないだろう。それはよく解る。父・和臣は変わった。

 何ヵ月か前に比べると、まるで別人のようだ。だから、智美と愛子が怒って文句を言っているのだ。あまりにも変わってしまったから。何ヵ月か前までの父親は、和也の相手をして、よく一緒に遊んでくれた。和也はもともと母親っ子ではあったが、父親にもよくなつき、夕方など、父・和臣がキャッチボールなど誘うと、喜んで一緒にやった。和也自身も楽しかった。

 日曜日の休日など、家族みんなを自動車に乗せてドライブがてら、よく行楽地へ連れて行ってくれた。また、運転を買って出て、家族全員でスーパーマーケットに、食材や日用品などのまとめ買いに行くのに付き合ったりした。和也を入浴させるのに、一緒に風呂に入ることも多かったし、ごくたまにだが、和臣がキッチンに立ち、カレーやスパゲティなどの手料理を、家族みんなの分作って振る舞うことなどもあった。特に、幼い和也をよくかまってくれていた。それが最近は、そういうことは全くなくなり、自分の妻、智美や我が子、愛子・和也にかまうどころか、話をするのさえ面倒くさいような風情だ。

 極端な言い方をすると、家族を相手にすること自体が鬱陶しいように見える。もう、家族とは口を利くのさえ、うるさくてしょうがない、という雰囲気を出している。小三の和也も、もう今の父・和臣には近付きたくなかった。父親は変わってしまった。和也は思った。父・和臣は、まるで別人になったようだ。

 和也には、自分の居るこの家庭、そのものが心配で仕様がなかった。大好きな母親・智美のことも、可哀想だしすごく心配だった。小三という幼い和也には、まだ夫婦の離婚や家族の離別という認識がなく、そういうことにまでは考えが回らなかった。ただただ、この先どうなるのだろうと不安で落ち着かなかった。勉強にも遊びにも、まるで手がつかない。

 机に就いて、不安な心境でいっぱいで、ボーッとしたままでいると、部屋の端の窓がコツコツと鳴った。硬いもので、窓ガラスの一部を叩く音だ。もう夜も遅いので、窓のカーテンは締めてある。和也は一瞬、気のせいかなと思った。ここは吉川家の二階だ。窓を叩く来客がある訳がない。カーテンの、音が鳴った箇所をじっと見つめた。また鳴った。コツコツと、窓ガラスを叩く音。ここは二階なのだ。和也はゾッとした。恐怖心が襲って来た。しかし、カーテンの向こう側が気になる。和也は椅子から立ち、机を離れ、おそるおそる窓に近付いた。

 和也がカーテンの前でためらっていると、「僕だよ」 という声が聞こえた。

 「えっ!?」 思わず和也は声を上げた。確かに声が聞こえたが、何だか妙だ。

 「和也君、心配しなくていい、僕だ。ここを開けてくれ」

 また、声がした。確かに聞こえているのだが、何処か違う。そして、いったい誰なんだろう? 和也は、こわごわとカーテンを開けた。窓ガラスの向こうは闇だ。和也は思いきって、素早く解錠し窓を開けた。

 いきなり、部屋へ何かが飛び込んで来た。和也が振り返り、床に敷いたカーペットの上を見た。

 「床を汚したら悪いが、そんなに足は汚なくない筈だ」

 和也は、驚いて目を丸くした。茶色い毛色の、少し小さめな中型犬。ハチが居るではないか。重たく沈んでいた和也の心に、みるみる喜びが拡がり行く。和也は、嬉しい悲鳴を上げた。

 「ハチさん!」

 「しっ! 大きな声を出さないでくれ」

 ハチの声が聞こえる。しかし、やはり何か変だ。違う。

 「ハチさん、喋れるんだ!」

 ハチは、和也の目を凝っと見つめながら、言った。

 「声に出してるんじゃない。君の心に話し掛けてるんだ。僕は、犬の声帯しか持たない」

 和也は驚きながら、いろいろと頭を巡らせた。和也は、不思議なことごとに興味津々だ。幽霊やお化けから、UFOや未確認生物、オカルトじみたことまで、超自然的なお話が大好きだ。そういった方面の子供向けの図鑑や雑誌、漫画本までいっぱい持っている。和也は、知っている超能力関係の一語を訊いてみた。

 「テレパシー?」

 「まあ、そんなもんだ‥」

 ハチの応えが頭に響いた。やはり直接、音声で話し声を聞くのとは、だいぶ違和感がある。

 「すごいなあ。ハチさんには、そんな能力もあるんだ」

 和也は素直に驚いてみせた。ハチは部屋の中央付近で腰を降ろし、犬特有の座り方をした。手でも開いて出せば 「お手」 でもしそうだ。ハチは何処にでも居る雑種犬、そんな感じだ。しかし、目を見れば明らかに違う。知性の宿る目だ。ハチがまた、話し掛けて来た。

 「実は礼を言いに来たのさ。二度もごちそうをいただいて、どうもありがとう」

 ハチはちょっと、頭を下げた。

 「いえいえ。こっちこそ、ハチさんたちには助けて貰ったりもしてるし、いろいろとあるし‥。でも、喜んで貰えたんなら嬉しいよ。二回目のも、ジャックさんとかも食べてくれたんだ?」

 「ああ。みんなおいしくいただいたよ。昨日の晩は出て来なくて悪かったが、僕たちはあまり目立つのが好きじゃない。出来るだけ、人目に付きたくないんだ」

 「ああそれは、前に、じじごろうさんからも聞いたよ。僕らも、ハチさんたちの邪魔をしないようにしなくちゃね。もう、何人もで訪ねて行ったりしないようにするから‥」

 和也の方を向いていたハチが、首を回して部屋のドアの方を見た。

 「どうしたの、ハチさん?」

 ハチは数秒、黙ったまま、ドア越しに見下ろすようにしていたが、また前を向いて、和也を見た。

 「一階に居るのは、誰と誰だい?」

 「えっ? お母さんとお姉ちゃんと、それとお父さん」

 和也が答えると、ハチは一言 「そうか」 とだけ言った。そしてすぐに、またドアの方を見た。

 「お姉ちゃんが、階段を上がって来るみたいだな。そろそろ失礼するよ」

 「えっ! もう行っちゃうの。でも、そっか、お姉ちゃん来るもんね‥」

 ハチは、ふわっと、軽々と浮いたように跳んで、開いたままの窓の敷居に立った。

 「じゃあな、和也君。また会おう‥」

 ハチは、開いたままの二階の窓から、闇の中へと、上方へジャンプした。

 和也の視界の中で、ハチは住宅地の屋根屋根を越えて、かなり遠くへと放物線を描いて、跳躍と言うよりも、「飛行」 と言った方が相応しいように飛んで行き、和也の視力で必死で追って、見る見る小さくなって、闇の中に溶けるように消えた。和也はしばらく、開けたままの窓から身体を乗り出すようにして、遠くの闇を見つめていた。

 和也がハッと気が付くと、ドアのノック音が続いている。姉・愛子の呼び掛ける声がしていた。ガチャッと、ドアが開いた。少しだけ開いたドアの隙間から、愛子が顔を覗かせた。

 「何だ、和也。起きてるんじゃないの」

 和也はまだ、窓の前で座ったままで、身体を捻るようにしてドアの方へ顔を向けていた。窓は開いたままで、カーテンの端がひらひらしていた。愛子が不思議そうな顔で、和也の方を見た。

 こんな夜遅くに窓が開いているし、多分、和也は窓越しに外を見ていたに違いない。しかも窓は、覗く程度に狭く開けられていたのではない、和也が身体ごと乗り出すくらい、ガラリと開けられているのだ。そして、二階の窓から見える風景はほとんど闇だ。和也は、星でも見ていたのだろうか、それとも、近所の屋根の上に野良猫でも見ていたのか。こんな遅い時間、普段なら和也は、もうとっくに寝ている時間だ。

 「あ、ごめん和也。何回ノックしても、呼んでも返事がないからさ。勝手に開けちゃったけど‥。窓なんか開けて何してるの?」

 和也は、驚いたような顔をしたまま、言葉が出ないでいる。和也は何だか、子供なりに狼狽しているような様子だ。姉の探るような目。二人の姉弟はどちらも黙ったまま、しばし見つめ合った。愛子は、和也の部屋のドアに挟まれて立ったままだ。運動神経の良い愛子は、勘も良い。

 開いたままの部屋の窓の前に、座ったままで居る和也のもとへ、愛子がダッシュして飛び込んで来た。今、愛子は、弟・和也の目の前に座る。愛子の顔は、両目を驚いたように真ん丸に開けて、満面の笑みを拡げた。愛子は自分の両手で、和也の両手首を掴んだ。

 「解ったわ! ねえ和也。スーパードッグが来たんでしょ、ここに?」

 「い、いや‥」

 和也が、小さな掠れ声で否定した。しかし、愛子の目を直視出来ず、下を向いてしまった。

 愛子は、両手で今度は上腕部を持ち、和也の身体を揺さぶった。

 「ねえ和也、お願い。お姉ちゃんに、本当のことを言って!」

 和也は俯いていたが、仕様がなく顔を上げた。子供ながら、本当に困惑した顔をしている。黙ったままだ。愛子は、納得したような顔付きで言った。

 「やっぱり来たのね、スーパードッグが。この部屋に」

 愛子は、喜びで興奮している様子だ。

 「スーパードッグは、あたしには会ってくれなかったかも知れない。だけど、あたしの弟の和也には会いに来た。あたしの住んでる、この家の和也の部屋に!」

 愛子は、今日一日の朝から今までの、嫌なことだらけの最悪の、深い泥溜まりに重たく沈んだ気分が、いっぺんで吹き飛んだような気がした。大袈裟だが、愛子はまだ神様に見捨てられてないような、スーパードッグという神様の使いが、自分の後ろに着いてくれてるような、そんな心強さが身体中に湧いてきた。そんな愛子の様子を、黙って見ていた和也が言った。

 「お姉ちゃん、あのね、ハチさんたちは嫌なんだって。その、人目に着いたりとか、人間に知られるのが。何だか、そーっと生きていたいんだって」

 和也の言葉に、愛子は満面の笑みの中にも、涙目になって応えた。

 「うんうん、解ってるよ。そうだよね、後能君まで誘って、三人もで押し掛けたお姉ちゃんが悪かったんだ。お姉ちゃんが、あまりにも無遠慮で考えなしだった。和也、もしまた今度、ジャックでもハチでもさ、会うときがあったら、あたしのこと謝っといて」

 愛子は、泣き笑いのような顔だ。しかし明らかに、元気を取り戻していた。愛子は右手で涙をぬぐいながら、和也の前から立ち上がった。顔は笑顔のままだ。

 「和也。早く窓閉めないと、虫が入って来るよ」

 和也も立ち上がり、もう一度、窓から外を覗いて見た。ただの闇だ。愛子も二、三歩、窓に近付き、和也の頭越しに外を覗いた。やはり闇だ。

 「ねえ和也。飛んで行ったんでしょ。どのへんまで飛んで行って、消えたの?」

 和也は、姉にはもう、隠し立てしても仕様がないと思い、正直に答えることにした。和也は、夜の闇の中を指差した。

 「あのへん。見えなくなったの‥」

 「ふうん。今日、来たのはどっちだったの、ジャック、ハチ?」

 愛子は、肝腎なことを聴いてなかったと気が付き、和也に尋ねる。愛子にしてみれば、どちらでも良かったのだ。とにかく、スーパードッグがこの家に来た、という事実が重要だった。

 「ハチさん」

 「そっかあ。ハチさんかあ。もう遅いから寝ようか‥」

 和也は窓を閉めて施錠し、カーテンを引いた。姉・愛子は、部屋を出て行った。自分の部屋に戻った愛子は、ベッドに身体を投げ出し、仰向けに寝て天井を見た。まだ身体の節々が痛い。

 和也の部屋を訪ねる前まで、明日の登校が気になって仕方がなかった。はっきり、明日は学校へ行きたくなかった。だが、愛子の今の気持ちは違っていた。あたしは一人ぼっちじゃない。あたしの弟の和也は、特別にスーパードッグと仲良しだ。和也はあたしの弟で、スーパードッグはこの家にまで来たし、あたし自身も少しでも、二度ほど彼らと関わってる。これなら、あたしは明日の学校は恐くない。クラスの連中の冷たい仕打ちにだって耐えられるし、部活のシゴキにだって負けないでいられる。

 愛子は強い気持ちを心に宿し、明日は勇気を持って果敢に、学校に登校しようと思った。

             *                 *

 時系列的に、その少し前。深夜の、住宅地の中の通りを、ハチが歩いていた。

 会社員、吉川和臣を主人とする、吉川家の二階家が立つ、新興住宅地。約15年くらい前から、小さな山や田畑を切り開き、作り上げた新興住宅地で、建て売り住宅を主体に注文住宅も交えて、約60軒くらいの家屋が塊って立つ住宅地だが、その中を縦横に、舗装された道路が通っている。この、ひと塊りの住宅地の周囲は田畑が主であるが、市街地までは車で10分も掛からずに行ける。ここの住人たちは共働き夫婦が多く、主人は自動車や公共交通機関を使って、だいたい一時間前後掛けて、地方の都市部に勤めに出ている者が多い。主婦は、市街地の商業施設や、近隣の中小企業の集まった工業団地などで、パートや非正規で働いている者が多い。

 深夜、様々な家々の明かりは、まだ燈っている。通りには、長い間隔をおいてところどころに街路灯が立つが、街全体はやはりかなり暗い。ときどきだが、マイカー通勤の帰宅者だろう、通りを自動車が走る。このひと塊りの住宅地の出口近くを、とぼとぼと歩いていたハチが、急に止まって首を上げた。前方に大きな黒い影。巨人の影が聳え立っていた。

 ハチが、もう少し近付いた。黒い影は、それ程は巨大でもなかった。上背がせいぜい二メートルくらいだろうか。それでも大男だ。がっしりして背筋が伸び、筋肉質の体格の良い男は、禿げ頭で老人の顔をしていた。腰のところにだけ布を着け、全身裸で立っている。ハチが呼んだ。

 「じじごろうさん!」

 禿げ頭の、裸の老人が応える。

 「ちょっと気になったんでな。来てみたんじゃ」

 「じじごろうさん、こんな住宅地の中を、うろうろ歩いていていいの? いくら夜中だからって、ふんどし一枚の大きな裸の人が歩き回ってると、目立つよ」

 犬のハチは、じじごろうの頭の中に直接、話し掛けている。

 「あん? ワシか‥。ワシは大丈夫じゃ。ワシの周りの空間を、少しだけ曲げておる。人間の目には見えん」

 「じじごろうさんは、大きくて目立つから不便だね。僕なんて普通に犬だから、別に気にされないし、追っ掛けて来るのは保健所くらいだ。それも、逃げれば済むことだし‥」

 遠くで、犬の吠える鳴き声がした。

 「人間の目は誤魔化せても、動物の感覚は誤魔化せんわい」

 大きな老人と一匹の犬は、住宅地の出口へと向かった。

 「で、どうじゃった?」

 「うん。一階から感じた‥」

 「そうか。ワシも、あの家族が公園の森へ来たとき、微かに感じたんじゃが。やっぱりな‥」

 「けっこう強く感じたから、もう間に合わないのかも‥」

 「そうか。もう少し様子を見るしかないな」

 「うん‥」

 じじごろうとハチは、住宅地から大通りへと出て、その内、深夜の闇の中に溶け込むように消えて行った。

   ※ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ編(Ⅰ~12) 終了

    ※ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1) へ続く。 ・・ 次回より新章!

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
◆(2012-03/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(6)
◆(2012-04/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
◆(2012-06/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(9)
◆(2012-06/16)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
◆(2012-07/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)
◆(2012-08/04)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)

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