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「セニョール・パ」-別冊漫画アクション・連載-

   

 芥川賞受賞作家の高橋三千綱氏が原作を担当して、かざま鋭二氏が作画担当した痛快プロ野球劇画「セニョール·パ」は、双葉社発行の隔週刊(月二回刊)漫画雑誌「別冊漫画アクション」の1982年の年頭くらいの早い時期から連載が始まり、1984年いっぱいくらいまで満三年間好評連載されました。

 掲載雑誌の誌名は「セニョール·パ」が始まった当時は「別冊漫画アクション」で、84年には「別冊アクション」に名前が変わってました。まぁ、いつ頃か雑誌名に“漫画”というのが抜けただけなんですけど。「別冊漫画アクション」の創刊は古く、1968年から刊行されてるんですけど、83年頃に誌名を「別冊アクション」に変え、85年に「comic アクションキャラクター」に改題して編集内容もリニューアルしたんですよね。その後、「アクションキャラクター」は91年に青年漫画雑誌から成人向け漫画誌「アクションピザッツ」に変わったということですが、「別冊漫画アクション」は一度85年に終わって、91年に本格的に終了してしまった、っていう感じかな。

 僕が「別冊漫画アクション」~「別冊アクション」を読んでいたのは85年頃までですね。「セニョール·パ」の連載が終了してからは、あんまり「別冊アクション」は読まなくなったかな。僕は「アクションキャラクター」を読んだ覚えはありません。また、「別冊アクション」の姉妹誌というか母体誌「週刊漫画アクション」の方も、最後に読んだのは1985年までだと思います。「週刊漫画アクション」の姉妹誌は「スーパーアクション」とかイロイロありましたけど、僕が双葉社発行の漫画雑誌を読んでたのは85年まででしょうね。まぁ、86年まで読んでたかも知れないけど。

 80年頃のメキシカンリーグでプレイしていた、東京大学野球部出身で日本プロ野球にも居たことのある野球選手、立花香織をこの時代の西武鉄道グループの総帥·堤義明氏が、西武ライオンズのオーナーということで独断で、当時の西武ライオンズにスカウトする。

 長身·筋肉質で体格の良い居丈夫の立花香織は、長打力を有する優秀な打撃能力を持つが、性格がムチャクチャで、豪放磊落で度を越したポジティブで、細かいコトを全く気にせずデリカシーの欠片もなく、マイペース過ぎる性格が常に周囲の者たちに迷惑を掛け続ける。

 西武のチーム内でも、公式試合で9打席連続ホームランを打ったりひと試合中に全ポジションの守備に入ったり桁外れの才能を見せるが、同時に32打席連続三振や、ピッチャーの投げる何十球という球をぶっ続けて左右の観客席にファウルボールを打ったりする。

 豪快な性格だが全く他人に気を遣わないので、西武チーム内の緒先輩選手や、監督·コーチやベテラン級の名選手たちでも対等に絡み、平気でからかったりする。漫画の描写の中にも、当時のちょっと肥満ぎみの田淵選手に「やぁタブタくん」と呼んだり、南海·ロッテを経て西武入りした球界レジェンド·野村選手にからかいぎみに話し掛けて睨まれるシーンがありますね。

 日本のプロ野球界で“セニョール·パ”の愛称で呼ばれる、立花香織選手には実は男の子が居て、一緒にメキシコから日本にやって来たが、立花香織が我が子なのに全く面倒見ず、未就学のまま浮浪児然と居場所がなく、あるお寺に寝泊まりしている。親がどうしようもない親なので子供ながら自立しようと一生懸命である。

 他にヒロイン役でロングヘア美人の石神恵子。西武ライオンズのファンで、ケガをした立花選手を何度か実家の石神病院に入院させたことで、立花との縁ができ、実家を勝手によく行方知れずになる立花の連絡先にされたり何かと迷惑掛けられ放しになる。けれどだんだんと立花香織に心惹かれて行く。

 僕が青年コミック雑誌を読み始めたのは、1976年か77年頃からで、この時代、基本的にテレビを見ない生活をしていた僕は、一番の余暇の娯楽は青年コミックを読むことでした。毎週「週刊漫画アクション」「週刊ビッグ·スピリッツ」(スピリッツは80年代前半までは月二回刊)を購読し、隔週刊(月二回刊)の「ビッグコミック·オリジナル」「別冊漫画アクション」を購読し、毎号毎号でなくとも他に「プレイコミック」「ヤングコミック」を購読してました。週刊「プレイコミック」は一時期は毎週買って読んでました(記憶違い。プレイコミックは月二回刊)。他にも月刊の「スーパーアクション」や「アクションヒーロー」も買って読んでいた。また単行本のコミックスもしょっちゅう買って来て読んでました。毎度毎度漫画本が溜まる溜まる。青年コミック超愛読時代が85年か86年まで十年間くらい続きましたね。

 そんな青年コミック雑誌愛読時代に毎号購読してた「別冊漫画アクション」の中でも大好きな漫画で毎号楽しみにしてたのが、高橋三千綱·原作でかざま鋭二·作画のプロ野球劇画「セニョール·パ」です。「セニョール·パ」は熱血スポーツ漫画とはまた趣向の違う、爆笑を誘うコメディ味たっぷりのユーモア劇画でした。ギャグ漫画に近いようなユーモア味にときどき熱血スポーツ味も入っている。終盤はシリアスな雰囲気や感動味もありましたね。隔週刊(月二回刊)雑誌連載でほぼ満3年間続いてコミックス単行本で全6巻完結。雑誌連載で毎号読んでコミックスでも多分全編読んでると思います。

  “セニョール·パ”こと立花香織選手は試合や練習時でもふだんでも、おふざけムード満々の態度で居て悪ふざけも多いのですが、行方知れずになったときは人知れず山奥みたいな場所に単身入り、鬼気迫る表情で真剣にバットを振り続け、秘かに厳しい練習をしている。

 また東大出身の立花香織は頭も良く、国際的な弁護士資格も持っていて、最後は立花香織は両目の病でボールを捉えることができなくなり、野球を辞めて西武ライオンズ及びプロ野球の世界から去ることになる。そして多分アメリカの何処かの州で弁護士としてやって行くため日本を去って渡米する。

 んだと思う。「セニョール·パ」を読んだのはもう何十年も昔のことで、コミックス単行本も昔に手放してるし、「セニョール·パ」のお話内容も詳しくはよく憶えてません。実は「セニョール·パ」の内容は今回けっこうネットを回って調べてここに書き込んでいます。確かに昔愛読したことは間違いないんですけどね。

 ネットを回ってて「セニョール·パ」のことを書き込んでる方のサイトを覗かせて貰って知ったんだけど、物語ヒロインの石神恵子は弁護士目指して法学の勉強してるけど、迷惑掛けられ放しの立花香織に途中から心惹かれ始め、結局立花香織に惚れてしまう。ソープ通いが大好きな立花香織(漫画の中ではこの時代『トルコ』となっています。『トルコ風呂』)に、石神恵子自身の真剣な愛の告白と覚悟を伝えるために、石神恵子はソープ嬢(トルコ嬢)になってソープランド浴室の中で、立花香織と対峙する。ヒロイン役がムチャクチャなストーリー展開ですね。

 この辺の終盤の内容はすっかり忘れてましたね。多分このあと、石神恵子は立花香織に着いて一緒に渡米するんだと思う。息子の太郎はどうしたんだろうな?多分まだ小学生くらいの年代の子供だけど、親父に着いて渡米したのか?自立のため日本に残ったのか?最後どうしたのか解りませんでした。

 印象的に覚えてるシーンで立花香織が飛行機の中か新幹線の中で、私服の背広姿の長嶋茂雄に出会う。長嶋茂雄さんが読売巨人軍の監督をやっていたのは1980年までなんでこのときは野球界に身を置いてないフリーの時代ですね。長嶋茂雄を畏敬の念で敬愛する立花香織は席を立ち、直立不動で震えながら挨拶する。長嶋さんが「やぁ、パーか」と言うと「いえパです」と返し「だからパーだろ」とかいうやり取りがある。ちゃんとしたセリフを覚えてないけど立花香織がそのあと、「俺、子供の頃から長嶋茂雄選手の大ファンで大尊敬してたんだよね」とかいうセリフを独白する。ほとんど内容を忘れてた「セニョール・パ」の中でも、ココはどういう訳か記憶してたなぁ。

   

Dr.タイフーン : 1 (アクションコミックス) Kindle版 高橋三千綱 (著), かざま鋭二 (著)

Dr.タイフーンJR : 1 (アクションコミックス) Kindle版 高橋三千綱 (著), かざま鋭二 (著)

Dr.タイフーン : 2 (アクションコミックス) Kindle版 高橋三千綱  (著), かざま鋭二  (著)

Dr.タイフーン : 25 (アクションコミックス) Kindle版 高橋三千綱 (著), かざま鋭二 (著)

セニョール・パ 1 (アクションコミックス)  コミック (紙) 高橋三千綱 (著), かざま鋭二 (著)

セニョール・パ 1~最新巻 [マーケットプレイス コミックセット] コミック (紙) かざま 鋭二 高橋 三千綱 (著)

セニョール・パ 5 DX版 (アクションコミックス) コミック (紙) 高橋 三千綱 (著), かざま 鋭二 (著)

セニョール・パ [コミックセット] -高橋三千綱・かざま鋭二

九月の空 (角川文庫) (日本語) 文庫 – 高橋 三千綱 (著)

さすらいの甲子園 (角川文庫 緑 458-3)  文庫 – 高橋 三千綱 (著)

真夜中のボクサー (角川文庫 (5561))  文庫 – 高橋 三千綱  (著)

我らが仲間 (集英社文庫)  文庫 – 高橋 三千綱  (著)

我ら九人の甲子園 : 1 (アクションコミックス) Kindle版 かざま鋭二 (著), 高橋三千綱 (著)

我ら九人の甲子園 1~最新巻(文庫版)(竹書房文庫) [マーケットプレイス コミックセット] コミック (紙) かざま 鋭二 高橋 三千綱 (著)

 この時代、僕が「セニョール・パ」の漫画が大好きで愛読してたのは、リアルな自分自身は、内気で内省的で引っ込み思案であんまり自己主張せずに他人に気ィばっかり遣ってるネガティブな臆病者だったので、自分と正反対を強調し過ぎた性格の、豪快で豪放磊落でめちゃめちゃポジティブで、他人を全く気にしないマイペース過ぎるくらいマイペースなキャラクター、主人公の“セニョール・パ”にめっちゃ憧れていたからなんでしょうね。

 “セニョール·パ”のキャラクターは、その後の「週刊漫画アクション」連載の「Dr.(ドク)タイフーン」に引き継がれます。僕は「ドク·タイフーン」も読んでたけど「セニョール·パ」ほどは熱中せずにコミックスも何巻かまでしか読んでないと思う。「ドク·タイフーン」の主人公は「セニョール·パ」の立花香織に似たキャラクターだけど、“セニョール·パ”ほどはムチャクチャな性格の主人公じゃなかったな。同じ作画者のかざま鋭二氏が描いてるので顔もそっくりなんだけど。僕自身がゴルフというスポーツがあんまり興味がなかったというのもあったかな。

 「セニョール·パ」のお話の中によくトルコ風呂が登場して、主人公·立花香織の実家がトルコ風呂を経営してたという設定になってますが、「セニョール·パ」が雑誌連載されてた時代、今のソープランドは“トルコ風呂”という名称で呼ばれてました。「セニョール·パ」連載終了後の時期に、留学生だったかあるトルコ人の青年が、自分の母国の名前を売春やってるカモないかがわしい施設の名称に着けられてることに怒り、当時の日本の大臣に申し立てた。大臣は話を聞き入れてこのことを公言したのかな、当時の特殊浴場協会みたいな組織が大臣の話を受け入れて、全国のトルコ風呂に名前を変えるよう促した。全国のトルコ風呂経営者たちは業態の名前を変えるために、これは公募したらしいですね、それで名前がトルコ風呂から“ソープランド”に決まって、全国一斉に名前をソープランドにした。ということがあったんですよね。そういえば僕はトルコ風呂時代は何度か行ったことあるけど、ソープランドに名前が変わって一回も行ったことないですね。つまり30歳からこっちソープランドには行ったことない。

 初めてトルコ風呂に行ったのは18歳のときで当時の親友のシモ君(またの名をユーケイ君)に誘って貰って行った。最初は怖くてガチガチに緊張してたな。懐かしい。その後も会社の先輩とか同僚と飲み屋で酔っ払った後に行ったりしたな。優しくておおらかで良いお姉さんばかりだった。

 「セニョール·パ」の原作者、高橋三千綱氏はもともと小説家で、1978年に「九月の空」で芥川賞を取ったときは、僕は受賞記念掲載誌の文藝春秋を買って来て同作を読んだ。剣道三段だっけか二段だっけかで空手も二段か初段の有段者で、サンフランシスコ州立大中退というアメリカ留学経験があり、ざっくばらんで爽快なエッセイとかを書いてた高橋三千綱さんを、当時の僕はカッコ良い!と憧れて、70年代末から80年代前半、小説作品やエッセイ集を何冊も読んだし、「我ら九人の甲子園」など、劇画作家·かざま鋭二先生とタッグを組んだ人気コミックを愛読した。

 高橋三千綱氏は小説やエッセイなどの文筆作品の数ももの凄く多いけど、漫画作品の原作提供もいろいろな漫画家とタッグを組んだ作品が数多くて、特に人気が高かったのはやはり、かざま鋭二氏とのタッグ作品ですね。漫画原作の代表作も「我ら九人の甲子園」「九番目の男」「Dr. タイフーン」とかざま鋭二氏とのタッグ劇画ですね。

 芥川賞受賞でブレイクした高橋三千綱先生は、もともと純文学出身だから小説作品は、真面目な、というとまた語弊があるカモだけど、シリアスな青春文学小説も多い。またブレイク後は、かざま鋭二先生とタッグを組んだ青春劇画「我ら九人の甲子園」が大人気を得て、独特な、ユーモア感のある爽快なエッセイも人気があり、同時にエンターテイメント分野の小説も書いて流行作家となった。

 思い返して見ると、僕は高橋三千綱氏の著者はエッセイ集を三、四冊くらい読んでるけど、小説作品は多分、純文学では「九月の空」と「真夜中のボクサー」だけで、娯楽小説は「さすらいの甲子園」と「我らが仲間」という、全部で四作品しか読んでないですね。いずれも長編小説だけど。

 小説作品の「我らが仲間」は、「セニョール·パ」ほど過激じゃないけど、漫画原作作品の内容に通じる、あのユーモア雰囲気が作品に溢れてる小説でしたね。思わず笑ってしまうユーモア小説だった。「さすらいの甲子園」の方はほとんど内容を覚えてないんだけど、多分、ユーモア雰囲気が覆った小説だったと思う。

 全く知らなかったんだけど「さすらいの甲子園」って中村雅俊主演でテレビドラマ化されてるんですね。1980年8月にスペシャルドラマとして放映されたらしい。僕は70年代後半から80年代前半はほとんどテレビを見ない生活をしてたから、この時代のテレビ番組は正直かなり疎いです。

 高橋三千綱先生の著作物は僕は80年代後半以降は読んでないし、漫画原作作品も「Dr. タイフーン」以降のものは読んだことないです。最後に「Dr. タイフーン」のコミックスを読んだのが87年とか88年頃じゃないかな。勿論、高橋三千綱先生の作品は80年代後半以降も90年代以降も小説もエッセイ本もたくさん書かれて刊行されてるし、かざま鋭二先生とのタッグ作品も他に何作もあるし、他の漫画家とタッグを組んだ作品もいっぱいあります。また2000年代以降に入ってからは時代劇小説も目立つようですね。

 僕は76年頃から約5年間、東京都下保谷市(今の西東京市)に住んでいて、当時は、西武鉄道保谷駅から西武池袋線を利用して、池袋駅から転勤によっては山手線や地下鉄に乗って都心に出てました。だから当時は毎日池袋駅を通るので暇があれば池袋の街をぶらぶらしてたものです。

 元·西鉄ライオンズが九州を離れて関東へ移り、西武ライオンズとなったのが78年。九州出身で毎日西武池袋線に乗っている僕は、当時の西武ライオンズのファンとなりました。でも、球団事務所を池袋の街の高層ビル、サンシャイン60の中に開設し、埼玉県所沢市の球場を本拠地とした初めは、もの凄く弱かった。実際、公式戦は79年からですが毎日負けているようなイメージでした。

 79年のシーズンの成績はぶっちぎりの最下位でした。プロ野球パ・リーグは73年から82年まで前期·後期の2シーズン制で前期は最下位、後期は頑張って5位でした。80年も前期は最下位でした。

 西武線の池袋駅には当時、西武ライオンズのポスターが柱や壁にあちこちいっぱい貼ってあったのですが、実際の試合は毎回負けてばかりの印象でしたが、球団ニュースポスターはそれでも良いところばっかりピックアップして、西武ライオンズがいかに活躍してるかをアピールしてました。だけど西武線利用者の人たちのイメージは相当悪くて、今でも覚えてますけど、若い二人連れの女性がポスター見ながら「ねえーっ、恥ずかしいねえ」って、顔をしかめて話しながら駅構内を歩き去って行きました。

 西武ライオンズのファンだったと言っても、僕自身、子供の頃から別にプロ野球ファンでもなかったし、子供どおしの遊びのソフトボールもそんなに面白いとも思って遊んでなかった。魔球の出て来る野球漫画は好きだったけど、野球自体はたいして興味もなかった。だから西武ライオンズのファンと言っても知れていて、一回も試合を見に行ったこともなければ、当時はテレビ見ない生活してたから、特にパ・リーグの試合をテレビで見るでもない。

 でも82年、広岡監督に変わってから、西武ライオンズは見違えるように強くなり、この年リーグ優勝を果たし、ついでに82年プロ野球日本一になる。「セニョール·パ」が始まったのがこの82年ですね。「セニョール·パ」は創作の劇画作品だけど、連載毎回の漫画の中に、当時の西武ライオンズの選手たちや監督が出て来てました。立花香織以外の選手や監督はみんな実在したプロ野球選手です。実在の選手たちだけどセニョール·パにからかわれてユーモア感いっぱいに描かれてましたね。

 83年はね、今度はぶっちぎりで強くてダントツでリーグ優勝して、球界の盟主たる読売巨人軍を日本シリーズで破って二年連続で日本一になった。当時の写真週刊誌に西武ライオンズの選手たちが二次会のクラブで大喜びで祝杯を上げる様子が写り、ベテラン田淵選手が「あの巨人を破って日本一になったのだ」という歓喜の言葉が載ってました。

 82年83年となると僕はもう保谷市には居なくて、転勤で群馬県太田市や埼玉県熊谷市に居た時代になりますが、強くなった西武ライオンズは嬉しくて日本一になったのは本当に喜びましたね。多分、対巨人の日本シリーズは見れるときは何とかしてテレビで試合見てると思う。この頃はスポーツ新聞で西武の勝ち負けとか見てたんじゃないかな。

 その後の、森昌彦監督になり清原が新人で入って来て、秋山や石毛、デストラーデ、渡辺投手·工藤投手という、西武黄金時代の数年間は、文句なく西武ライオンズのファンでしたね。その後、僕は帰郷してしばらくして福岡ダイエーホークスのファンになるけど。でもホークスファンになったのって、王監督で優勝した頃からだから90年代末くらいからかなぁ。でも井口選手が好きだったから、そのちょっと前からか。

 

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