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●漫画・・ 「男一匹ガキ大将」

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 集英社の児童漫画誌、週刊少年ジャンプの創刊時は月二回発行の隔週刊雑誌で、創刊第1号発売は1968年の7月でした。僕は創刊当時は続けて「少年ジャンプ」を購読していたものです。「少年ジャンプ」が週刊誌化されて「週刊少年ジャンプ」になるのが、69年10月です。本宮ひろ志氏の漫画「男一匹ガキ大将」の連載開始が創刊第11号からですから、68年の暮れ近くからですね。そして約10ヶ月間隔週連載で、ジャンプ週刊誌化と共に毎週連載で(当たり前ですが)、1973年まで人気沸騰の内に連載が続く。週刊少年ジャンプを最初に、一気に大発行部数の大人気雑誌に押し上げたのは、この「男一匹ガキ大将」と永井豪氏の「ハレンチ学園」の初期二大連載です。まあ、週刊少年ジャンプはその後に、講談社の週刊少年マガジンから雑誌王座を奪う訳ですが。「男一匹ガキ大将」は熱血漫画だけど、後は何て呼べば良いんだろう(?)。感動漫画というのも、ちょっと違うという気がする。まあ、熱血感動味もあるでしょけど。少年同士の喧嘩が中心にあるから「格闘漫画」といえば、まあ、そうなんだけど。「学園漫画」というのもちょっと違うし。戦国時代の武将さながらに、自分の陣地を拡げて行く、というストーリーですよね。主人公・戸川万吉は登場した最初は中学生だけど、まあ、言ってみれば、小さなヤクザ組織が抗争を重ねて行って、自分とこの勢力図を拡げて行く話の、少年・学校版、だな。それも、小さな田舎町の学校から日本全国規模に、いわゆる「番長」の勢力をどんどん拡大して行き、そして学園的に日本を支配する、という話かな。まあ、要するに、日本全国規模の「番長」トーナメントがあって、関東の片隅の田舎町の、一つの学校の一人の番長が、次々と他の強敵番長を倒して勝ち上がって行き、最後に「不良少年たち」の学園全国制覇する、という話か。不良少年の全国統一と、その頂点に君臨するまでのドラマ、だろうか。あれ、中学だったんだっけ(?)。高校だったんだっけか(?)。舞台は中学生不良世界、か。関東の田舎町、って、関東だったっけか? 西海、だっけ。海沿いの町か。作者、本宮ひろ志氏は千葉県出身だから、西海とは、千葉県の海沿いの町だろうか(?)。

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 作者の本宮ひろ志さんは、一応、貸本出身で、僕は貸本末期の日の丸文庫発行の短編誌、「オッス!」の中で、短編作品を読んだ記憶があります。本宮ひろしさんは1947年生まれだから、団塊世代ですね。貸本に居たのはほんの短い間で、貸本でも劇画調の絵ではなく、当時はほのぼのとした絵柄だったと思う。日の丸文庫編集の「オッス!」は、学園漫画とか青春漫画系作品集でしたからね。「少年ジャンプ」創刊時のラインナップには新人というか、メジャー誌ではあまり名前の知られていない漫画家の起用が多く、例えばジャンプ創刊時の看板漫画に、貸本出身の梅本さちお氏の「くじら大吾」を持って来たりしてた。梅本さちおさんも日の丸文庫の「オッス!」などで、よく短編を描いてた漫画家ですね。貸本では、長編も描いてたけど、ほとんど日の丸文庫ですね。「オッス!」の青春ものとは、中学生くらいの主人公たちの生活を描く、さわやか感動ものとかが多かったという、記憶がある。ジャンプで地味に始まり、最初はたいして話題にもならなかった「男一匹ガキ大将」は、その内、見る見る読者人気を得て来る。どんどん人気が上がり、ジャンプが週刊化された頃には、その当時のマガジンの「あしたのジョー」に負けないくらいの、爆発的な少年漫画人気を誇っていたんじゃないかな。「あしたのジョー」と「男一匹ガキ大将」では若干、読者層に違いがあったかも知れないが。主人公・戸川万吉が少年院に入所して、院内抗争を繰り広げるエピソードの頃には、ジャンプで人気沸騰だったろう。「男一匹ガキ大将」って漫画は、それまでに少年漫画の熱血少年ものジャンルで、独占的に人気を獲得していた梶原一騎の、スポ根もの、熱血学園もの、格闘ものの、梶原一騎(高森朝雄)世界観とはまた違う、独特な味を出して、爆発的な少年人気を得ていた。少年人気というか、少年から青年層までの読者人気。「男一匹ガキ大将」の面白さはもう、“力ワザ”でしたね。ど迫力パワーの“力ワザ”で、怒涛の勢いで、連載を推し進めて行き、大人気を勝ち取る、という連載漫画だったように思う。ストーリーの面白さというよりも、やっぱり、凄いパワーの勢いで物語進行して、世の少年・青年層の血を熱くたぎらせて、大人気長編連載した熱血コミック。

 本宮ひろしさんは、Wikipediaで見ると、デビューは1965年で、貸本の日の丸文庫発刊のオムニバス誌、「きみとぼく」所収になってますね。貸本時代は、その後も日の丸文庫の短編誌、「きみとぼく」と「中学生諸君」掲載となっている。「オッス!」のことは書かれていない。僕の記憶としては、貸本時代の本宮ひろし漫画は「オッス!」で読んだと思うんだが、記憶違いなのか(?)。まあ、「オッス!」も「きみとぼく」「中学生諸君」も、収録作品は似たような漫画の編集オムニバス誌ですからね。三誌とも、当時の日の丸文庫の編集・発刊貸本漫画なんだし。また、梅本さちお先生も本宮ひろ志先生も、貸本時代は日の丸文庫で描いていたのは事実として間違いない。

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 週刊少年ジャンプ連載の「男一匹ガキ大将」が1969年か70年頃、最初にコミックス化され、ジャンプコミックスで発刊された初期の巻で、巻末の解説ページに、当時の、第一級銀幕スターの映画俳優、勝新太郎さんからの寄稿文が掲載されてあって、漫画「男一匹ガキ大将」を読んだ感想が載っていたのを、僕は憶えている。無論、詳細は忘れているが、その内容の中には、自分(勝新太郎)が主役を演じた大ヒット映画、当時の大映製作の「悪名」のスト-リーとよく似たプロットだということで、漫画をとても面白く読ませてもらった、というようなことが書き込まれていた、と思う。「悪名」は、一時は参議院議員、後に中尊寺貫主などを勤める高僧となった作家、今東光の大衆小説分野の代表的作品ですね。小説「悪名」の週刊誌初出掲載が1960年で、大映映画化が61年で、映画は大ヒットしてシリーズ化して60年代前半に何本も作られているから、世代的に、漫画家・本宮ひろ志氏が映画を見て作風に影響を受けている可能性は大きいですね。

 「悪名」の作者、今東光氏は、僕が十代末から20歳そこそこの頃の、集英社の週刊プレイボーイの人生相談コーナーで、「極道辻説法」という連載をやっていて、若者読者の悩み相談に回答して大きな反響を得ていました。僕は、この連載がメチャメチャ面白くて好きで、正直、毎週の「極道辻説法」読みたさに、あの当時の僕は毎号、週刊プレイボーイを買っていたようなものでした。まあ、当時の僕は年頃だし、プレイボーイ掲載のグラビア写真見たさも勿論、あったでしょうが。と、いうか、当時の可愛い娘ちゃんの水着グラビアと、毎号僅か3ページだけの「極道辻説法」お目当てで、毎週毎週プレイボーイ購読してた。当時、芥川賞取って颯爽とデビューした村上龍と、今東光のグラビアページ対談特集なんか、ワクワクしながら読みましたねえ。当時は、新進芥川賞作家・村上龍は、僕ら若者世代を代表してくれる、カッコ良い、若きスーパーヒーローのように映ってた。誌上人生相談で、あの時代の普通の一般若者の悩みを、一刀両断にぶった切って、「馬鹿野郎!」と叱り飛ばす、今東光大僧正の回答は、毎回痛快この上なく、読むのが楽しくて仕方がなかったな。当時既に、七十代の今東光も、爺さんなのにカッコ良いヒーローに映ってましたね。でも僕は、直木賞作家でもある、今東光の作品を読んだことはありません。読んだのは、連載の「極道辻説法」をまとめた集英社の単行本、「極道辻説法」全3巻だけです。でも面白く、ある意味勉強になった。

 僕が高校生の時の、何か教科のある先生が、自分(先生)が今までいっぱい本を読んで来て、読む度に「うんうん、良く解る」と、著者の言いたいことを理解し吸収して来たので、とてもタメになった。だから君たちもこれからうんと本を読んで行きなさい、みたいなことを言ってたんだけど、この言葉も覚えてたんだけど、今東光の「極道辻説法」の中で、とある一節に、「本を読んでも、書いてあることを、そうかそうか、と肯定ばかりして読んでちゃ駄目だ。本を読むときは、この本にはこう書いてあるが俺はこう思う、といつでも本の著者と対決するような姿勢で、読まないと駄目なんだ」というようなことが書いてあり、僕は「ああ、そうなんだ。成程」と思って、これは肝に銘じた。つまり、常に本の著者と対論せよ、ということですね。何でも鵜呑みにせずに疑って掛かれ、つまり、考えながら読め、ということでしょうね。これはこの当時、この時、目から鱗、でした。また僕が若い時分、就職して、初めて配属された部署の上司になったSさんが言った言葉。「読んだ本が、自分の血となり肉とならなければ、何にもならねえじゃねえか」という言葉は、これは今東光が「極道辻説法」の中で書いてた一行に通ずる言葉だと思って、何十年経っても忘れえぬ一言です。

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 「男一匹ガキ大将」は、1968年連載開始から73年まで続いた漫画作品ですが、「Kenの漫画読み日記。」中カテゴリ分けは一応、「70年代漫画作品」としました。「男一匹ガキ大将」は中学生の頃までは少年ジャンプ掲載で読んで、後にジャンプコミックスで再読してますけど、僕は、最後まで全部は読んでないですね。ジャンプコミックスで全20巻か。途中までは読んでますけど、最後は、物語をどう締め括ったのか、は解らず終いです。中学三年生の頃はクラスメートで仲の良かったK君と、よく教室で、「虹をよぶ拳」や「男一匹ガキ大将」の話をしてましたね。主人公・戸川万吉が少年院を出所して、全国の不良たちの統一制覇へ向かい、九州鹿児島の大番長のところまで行く、トコくらいまではジャンプ掲載で読んだかな。後は、何やら全国の何万人というホームレスを束ねる、乞食の総大将みたいな髯面のオッツアンが出て来たり、敵か味方か“水戸のオババ”とかと、ひと悶着あったりと‥。「男一匹ガキ大将」という漫画は、全国規模の番長トーナメント戦を勝ち抜き、全国の不良少年を統一した頂点に立つ、という現代昭和版の、戦国時代合戦天下取りストーリー(前半エピソードかも知れないけど)に、「任侠道」的な男心に男が惚れる男気ロマン味付けをして、全開パワー の“力ワザ”で物語進行して、若き男性読者たちの心を熱くたぎらせた、当時の大人気コミック、だったんじゃないのかな、と僕は思うんだけど。1969年から70年までの半年間に渡り、アニメ放送してるんですけどねえ、これは僕は、ほとんど見たことないですねえ。放送形態が、月曜から土曜までの毎日、夕方の10分間で、短い放送の毎日連続だったんですけどね。放送されてるのは当時知ってたけど、何故か、見なかったなあ。

 

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●漫画・・ 「ぼっけもん」

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 僕は小学館の青年漫画誌「ビッグコミック・スピリッツ」を創刊第1号から読み始め、創刊号から連載が続いた「めぞん一刻」が終了するまで、いや、その後も「YAWARA!(ヤワラ)」が好きだったから、もっと、90年頃まではずっと購読し続けた。ビッグコミック・スピリッツは最初、月刊誌で創刊は80年の10月。「めぞん一刻」の終了が1987年。スピリッツが週刊誌になったのが86年。「YAWARA!」の終了が93年。やっぱり、80年から90年頃までは、僕は「ビッグコミック・スピリッツ」を毎号欠かさず購読してますね。勿論、その10年間に掲載されていた、膨大な漫画作品を全部、憶えている訳がありませんが、当然、印象に残った作品は記憶にあります。僕はだいたい、僕の少年期・青年期に大好きだった漫画作品は、雑誌連載で読んでいても、後にコミックスで再読しています。まあ、申し訳ないんだけど、この漫画作品は連載当時は毎号読んでましたが、コミックスでの再読は果たしていない。

 「ぼっけもん」を読んでいたのは僕が20代後半に入った頃で、掲載誌のビッグコミック・スピリッツは月二回刊の隔週刊誌でした。「ぼっけもん」がスピリッツに連載され始めたのって、83年頃だろうか。「ぼっけもん」は1985年に小学館漫画賞を受賞している。当時の僕は所属する企業の転勤で、東京の中央の営業所から群馬や埼玉奥の小さな営業所に飛ばされた後で、同じ群馬の支店下の職域で後輩となる、同僚の若者のアパートに泊めて貰ったとき、部屋にスピリッツが何冊も積んであったので、「どの漫画が好きか?」と訊いたら、彼が「ぼっけもん」と即答したのをよく憶えてます。正直、申し訳ない、現在、その彼の名前を忘れてしまっているのだが、容貌や雰囲気は今でもよく覚えています。良いヤツでした。「ぼっけもん」は鹿児島から上京して来た一人の若者が、大都会の人間模様の中の生活で、苦闘しながらも、鹿児島の方言で“ぼっけもん”と呼ばれるタフな気質をフルに活用して、自分の人生を切り開いて行く、というと大袈裟か、まあ、その人生を戦い抜く、等身大の人生模様漫画ですね。青春群像、といっても良いかな。失敗も裏切りも、恋も友情も、挫折も復活も‥、という若者生き様ストーリー。だったよーな。若き青年時代の、直情的な行動と青春の試行錯誤と成長。みたいな等身大頑張りコミック。

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 「ぼっけもん」作者や関係者の方に大変失礼ですが、僕は毎号毎号掲載漫画を読んで行ってましたが、そこまで大好きな漫画でもなかったかな。だいたい僕は、コミックは大きく事件性があるものか、爆笑するギャグ・コメディーが好きなもので。僕のコミックの趣味は、言ってみれば、日常を大きく離れた世界観の作品ですね。もろSFとか、殺し屋が出て来るとか、国際的な陰謀とか、犯罪組織に戦争・兵器とか‥。少なくとも、等身大の日常生活から大きく離れた物語。だいたい僕の好みはそっち系かな。あとは、等身大でも「めぞん一刻」みたいな笑えるコメディー。「ハード&ルーズ」や「事件屋稼業」みたいなハードボイルド系も好きですね。そこに、失敗や苦闘や悲しみや憎しみや、友情や愛や復活劇が描かれていても、生身といっていい等身大の人間の生活を描いた人間ドラマは、僕は読まなくはないけど、それ程好きな作品ではない。そういう作風は、僕は、あんまし趣味じゃない方。でも、「ぼっけもん」は細部は忘れているけど、作品はよく覚えています。頑張り抜く主人公に感情移入して、当時「ぼっけもん」を、手に汗握って読んだファンも多かったでしょうね。

 僕は「ぼっけもん」がスピリッツで終了した後に、この作者先生の他の作品を読んでいません。だから、「ぼっけもん」の後に、どんな作品を発表して来たかを知りません。「ぼっけもん」の作者、岩重孝さんは、88年からペンネームを「いわしげ孝」氏に変更されて、「ぼっけもん」で小学館漫画賞を取った後も、メジャー誌に次々と作品を発表されて、精力的に漫画家生活を送っていたようです。だから、僕は雑誌掲載で、「ぼっけもん」以外に、いわしげ孝氏の作品を多分、読んではいる筈なのですが、大変申し訳ありません、記憶してませんでした。スピリッツで「ぼっけもん」終了以降に連載されてた、「ジパング少年」も多分雑誌で読んでる筈なのだが‥。申し訳ない。

 いわしげ孝先生の訃報には驚きました。58歳の年齢で鬼籍入り。若い。若過ぎる。昔からよく、漫画家の人はあんまり長生きしない、とか言われていましたけど、確かに次々ヒットを飛ばして来た売れっ子漫画家先生で、60代くらいで亡くなられた先生もけっこう居ます。しかし、58歳は若死に過ぎますね。勿体ない。2008年から小学館ビッグコミックで連載されていたという、「上京花火」は未完の絶筆になったようですね。2013年3月6日、58歳病死。ご冥福をお祈りいたします。プロの漫画家という職業は、売れっ子になると不規則な生活で慢性的な睡眠不足を強いられ、とても身体に悪いハードな重労働の仕事で、売れなければ全く食べて行けないという難しい職業です。漫画家という職業は、明日の保証など全くない不安定極まりない仕事ですしね。

 僕の20代後半、群馬の支店下で後輩同僚の一人で、良いヤツだった、ごめんなさい名前を忘れてしまっています、コミック「ぼっけもん」が好きだった彼、何々さん、前日シコタマ飲んで、彼の部屋に泊めて貰った折、ビデオ録画して貰ってた「俺たちひょうきん族」のスペシャルを、飲んだ翌朝の、彼の部屋のTVで見せて貰った記憶がある。また、当時、僕が引き受けた仕事で、埼玉奥の山地の、高い山の峰にTV塔が立つので、それの部品機械を会社のセールス車バンの荷台に積んで、山道の悪路をチャーターで運んだ折、勤務する営業所が違うのに手伝って貰って、助手席に乗って貰い、一緒に現場まで持ってった記憶もある。僕の運転するバンが何度か、狭い山道の切通しでガードレールもなく、崖に落ちそうになった。あの時は隣の彼は怖かったろうなあ。懐かしい思い出だ。酒を飲んだ折、僕が15歳で破産して大貧乏だった家庭の話をしたら、彼の家も貧乏だったという話をしていた。北海道の出身で、親父さんが樵を生業としているとか話していた。まあ、いくら貧乏しても、父親がちゃんとしている分だけ良いけど。これが僕の、「ぼっけもん」で想起される思い出でした。少年期・青年期に読んだ昔の漫画作品も、流行歌と同じ効果で、曲を聴いたりタイトルを聞いたり読み返したりすると、懐かしい昔の思い出が頭によみがえって来る。懐かしいね。

※(2013-8/13)追記
 小学館発行の「現代漫画博物館」が出て来たので、パラパラ見てると、「ぼっけもん」の項があり、読むと、「ぼっけもん」の雑誌初出はビッグコミックスピリッツ81年2月号で、連載は85年23号まで、となっていますね。そして、これは僕も知らなかったのですが、その前にビッグコミックの79年19号から80年16号、となっています。つまり、漫画作品「ぼっけもん」のそもそもの新連載はビッグコミックで、途中から連載がスピリッツに移動した、ということですね。それから、この本の口絵グラビアに「ビッグコミックスピリッツ-創刊号」の表紙絵が載っているのですが、表紙をよく見ると、「岩重孝-ぼっけもん」とあります。あれ?おかしいな。スピリッツ創刊号は80年11月号です。スピリッツは創刊当時は月刊誌でしたからね。「ぼっけもん」は創刊号から掲載されてたんだ!
 「ぼっけもん」は、鹿児島から夜間大学に通うために上京した主人公の青年が、昼間働く書店で同僚アルバイトになる同級生の女の娘と恋愛し、やがて卒業と同時に女子は東京で就職し、主人公青年は自らの故郷の夢を実現するため、鹿児島へ戻る。…といったストーリーを本筋とした青春群像劇ですね。僕はスピリッツ連載時は毎号欠かさず読んでますが、後でコミックスでまとめて読む、ということはやってないです。

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●漫画・・ 「我ら九人の甲子園」..(1)

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 「我ら九人の甲子園」は双葉社発行の青年誌、「週刊漫画アクション」の70年代末頃から80年代前半に掲載された、青春野球劇画です。おおまかに言えば、甲子園を目指す高校生たちの青春を描く、野球スポーツ漫画。ただ、それまでの、例えば「巨人の星」を代表とするような、いわゆる“スポ根漫画”とはちょっとテイストが違う、高校スポーツ漫画でしたね。何て言うんだろう、登場人物たちが、それまでの青春熱血感動スポーツ漫画みたく、“真面目”ではない。あからさまに“不良”でもないし、まあ、「力が抜けている」というか。それまでにあった、このジャンルの作品の雰囲気で言うと、中でも近いのは「男どアホゥ甲子園」とか、かな。テイスト的に近いのは。まあ、藤村甲子園が入学した高校は、札付きの不良高校、南波高校だったけど、「我ら九人の甲子園」のメンバーの高校生選手たちは、一見不良ぽい雰囲気もあるけど、特に不良じゃない。ヤンキーというのでもない。普通に高校生で、自由な気風の、みんなちゃんとした若者だ。どっちかというと自分を持ったしっかりした若者で、何者にも縛られない自由感を大いに持ってる雰囲気だよね。で、きっちり九人しか居ない高校野球部。補欠も居ない、その九名だけで甲子園を目指す。主人公の小林投手のみがずば抜けた才能を持つ剛腕ピッチャーで、後の仲間は、最初は素人に近いようなドングリの集まり、という設定は、最近ではTBS系で2008年に放送され、09年に映画化もされた、高視聴率青春学園ドラマ、「ROOKIES -ルーキーズ-」にも似てますね。勿論、「我ら九人の甲子園」の方が、20年以上も先ですけど。「ROOKIES -ルーキーズ-」も原作は、少年ジャンプ掲載の漫画作品ですけど。「ルーキーズ」では、熱血教師が一方の主人公だったけど、「我ら九人の甲子園」には、特に教師に、主人公クラスの登場人物は居なかったように思うけど。主人公・小林投手の脇を固める、八人の野球部の面々には、個性的な登場人物が揃っていた。

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 「我ら九人の甲子園」が連載されていた頃は、「週刊漫画アクション」の黄金期ですね。まあ、青年漫画誌「週刊漫画アクション」の黄金期とは、70年代と80年代でしょうけど。僕には、「我ら九人の甲子園」が連載されていた当時が、「週刊漫画アクション」が一番面白かった時期だという気がする。僕自身が、自分のこの半生で一番、「青年コミック」に熱中していた時代、だったということもあるけど。多分、「我ら九人の甲子園」は後に、アクションコミックスで全編、読み通してると思うけど、連載は毎回毎週、雑誌で読んでましたね。記憶にある限りで、この当時の「週刊漫画アクション」のラインナップを挙げて行くと、「ケイの凄春」「乾いて候」「じゃりん子チエ」「博多っ子純情」「60センチの女」「星を間違えた女」「日本柔侠伝」「ルパン三世」「僕たちの疾走」「我ら九人の甲子園」「九番目の男」「嗚呼・花の応援団」「カニバケツ」「無礼ボーイ」「蜃気郎」‥。みんな懐かしい、僕には懐かし過ぎる、当時の傑作漫画ばかり。この当時の「週刊漫画アクション」には、よく、デビュー仕立てから注目を浴び始めた頃の、大友克洋さんの短編が掲載されてましたよねえ。漫画で日本SF大賞取った、「童夢」もアクション連載か。

 作画担当のかざま鋭二さんの絵柄も好きでしたけど、原作担当の、1978年に「九月の空」で芥川賞を取って、メディアに颯爽と登場した高橋三千綱さんには、当時、僕には強い憧れがありましたねえ。高校生の頃に剣道と空手をやり、どちらも有段者という、高橋三千綱さんは、青年時代、アメリカ留学で三年間の米滞在経験を持ち、芥川賞受賞後のエッセイや対談なんかでよく、海外生活のことなんかも書いていて、あの時代、僕には、相当カッコ良いナイスガイに映ってた。当時20代の僕は、「九月の空」は受賞作発表号の「文藝春秋」で読んで、その後の小説や特にエッセイ集を好んで読んでいた。懐かしいなあ。

 年代的に漫画アクション連載の「無礼ボーイ」は70年代前半ですね。「カニバケツ」はアクションではなくて週刊大衆の70年代後半の連載。

 

※ この「Kenの漫画読み日記。」タイトル「我ら九人の甲子園」..(1)は、タイトル「我ら九人の甲子園」..(2)へと続きます。では、また「我ら九人の甲子園」..(2)で。

 

※(2013-04/04)漫画・・ 「我ら九人の甲子園」..(2)

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●じじごろう日記。(番外編)・・ 「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(5)

 僕のキャラクター、“じじごろう”の原型イラスト、第5弾です。カッコ良く、イラストなんて呼んじゃってますが、まあ、落書きです。暇つぶしでボールペンで、大学ノートや裏に印刷された紙片に、チャチャッて描いた、落書きイラスト。それももうノートに描いたものは残ってなく、あと、出て来たのは紙片にテキトーに描いたものばかりです。紙片の貼り合わせスキャンの第2弾ですね。僕の実の親父モデルで、“じじごろう”はここから始まりました。

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 多分、89年か90年頃に描いたものばかりで、左上がタイガーマスクじじごろう、その下がミッキーじじごろう、右上はダイヤル式電話の受話器で話すじじごろう。右下は、劇画調じじごろう。隣の女性は多分、妹でしょうね。当時、妹は美しくか可愛く描かないと激怒してたから。ミッキーじじごろうは、リボンがあるから、ミニーじじごろうなのかも。

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 じじごろう七変化。小鳥と狼と、何か大きな鳥とかたつむり。まあ、暇つぶしの落書きですから、面白がって、テキトーにいろいろと描いてましたね。最初は一応、親父モデルですけど、このへんの落書きイラストになるともう、親父から離れて単にギャグ気分で描いてるだけですね。

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 禿げワシじじごろうと犬じじごろう。この当時の落書きイラストじじごろうには、犬仕様で描いたものが多いのだが、残っているものも少ない。やっぱ、昔、超愚かしい、色ボケ放蕩で母親を泣かせた親父を馬鹿にしていたから、軽蔑を籠めて“犬”にして描いてたんですね。まあ、動物の犬のサカリは、種族保存の繁殖行為だから、一緒にしたら犬に悪いですけど。親父が色ボケに狂ってた頃、噂では、親父は会社もサボって、昼間から愛人の家へ行き、それは凄まじい痴態を繰り広げていると評判になり、会社の若い人たち、元は直属の部下だったような若い社員たちなどが、みんなで覗きに行っていたとか、そういう噂話も母や僕たち親子の耳にも届いて来ました。あー、恥ずかしい。覗きは、窓やカーテンの隙間から、時には肩車して覗いていたんだとか。この当時、親父は電力会社のこの地域の本部みたいな事務所の一角で、一応肩書きが付いてたけど、何か閑職に居たみたいですね。まあ、当時、もう50歳くらいなってたろうから窓際だったのかな(?)。相手の女は生涯ホステス業で、夜の仕事だから昼間は家に居るし、親父も会社の机でジーッとしてらんなかったんでしょうね。あー恥ずかしい。けっこう親父は高給取りだったから、これから一、二年で中途退社したのは、毎月給や満額の退職金が勿体無かったですね。それでも、電力会社を50歳ちょっとで辞めた退職金は、けっこうな額あったんでしょうが、母親は一銭も貰わずに、無一文で子供を連れて家を出てあばら家に越したから、その退職金を数多居る債権者たちで分けたんでしょうね。兄貴に聞いた話だと、示談で中に入ったある人も、ドサクサに紛れて、そこからかなりな額を持って行っちゃったんだとか。横取りですね。今の時代なら、弁護士を入れて法的に解決してたんだろうし、母親の取り分もあったかも知れない。まったく、親父はどうして、あんな馬鹿なことをしでかしたんだろう?

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 じごろうアップ4種。考えに耽るじじごろう。でも考えてるのは肉のことか。カラオケじじごろう。オカミサンじじごろうと、これはセーラー服を着た女装じじごろうですね。考えるじじごろうは、チンチン強調。でも考えてるのはエッチなことではない。あの騒動の当時、間に入った人の一人が、親父は狂ってるんだから、精神病院に入れた方が良い、と母親に勧めていたけど、実際、あの頃の親父は「性依存症」状態で病気だったのかも知れない。「性依存症」は通俗的な別名を「セックス中毒」と言われていて、現代では内外で精神障害として認知された症例も多い。特に、この「性依存症」の症例が出た有名人として、アメリカの俳優で、マイケル・ダグラス、チャーリー・シーン、デビッド・ドゥカブニーとかが有名ですね。「Xファイル」のデビッド・ドゥカブニーは、一度、ネットのニュースで話題になった。あの時期、会社を休職して親父を入院させておけば、また、事態は変わって行ってたのかも。まあ、親父は抜け出して愛人のところへ行こうとするだろうから、隔離病棟に入れてもらって。それで何とか会社を辞めずに弁護士を入れて解決に当たってもらっていたら、その先の僕たち家族の将来もだいぶ変わったものになってたんだろうな。まあ、親父を精神病院に入れるなんて、当時は、親戚連中が絶対許さなかっただろうけど。

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 これは親父モデルのじじごろう以外に、“半魚人ママ”。「ギャラリー3」で記したように、僕の母親は魚の鯛に似ていると言われていて鯛焼きが好物だったから、僕は母親を“半魚人”ふうに描いた。半魚人ママのおでこのあたりに、チンチン様の角が生えているのはご愛嬌。特に意味はなく、ただ、僕がシモネタ好きなので、半魚人ママの頭にチンチンを付けただけです。深海魚のチョウチンアンコウの、頭の先の角と同じですね。あれがチンチン状になってるだけ。チョウチンアンコウの角は“誘引突起”と呼ぶのか。僕の母親の好物は甘いものでしたから、上の絵ではペロペロキャンデーを舐めてます。驚く、じじごろう。特にお袋の好物は鯛焼きとか、関東で言う今川焼、こちらでは回転焼とか太鼓饅頭とかいうヤツ。

 下の絵は、半魚人ママに殴られるじじごろう。僕が子供の頃は夫婦喧嘩は見なかったけど、僕が小六か中学に入る頃になると、親父とお袋はよく喧嘩してましたねえ。親父は飲みには行ってたけど、社交的で人付き合いの良い親父は、みんなでワイワイやるのが好きで、先ず、一人で飲み屋に行くことはなかったのですが、僕が中学生になった頃には、女目当てで行くようになってたんじゃないかな。また、昔は午後十時頃までには帰宅していた親父も、僕の小六頃からはよく、午前一時頃酔っ払って帰って来るようになった。この頃、僕は「午前様」という言葉を覚えた。僕の小六頃には家に借金も出来ていて、「午前様」で裏口から帰って来る親父を、母親が箒で叩いたりしていた。一度、深夜に裏口から入って来た親父の頭を、母が、いきなり、茶碗や皿が山盛りで入った目篭で殴りつけたことがあった。当然、茶碗や皿はグシャグシャに割れた。親父の頭は大丈夫だったように思う。あの時は僕はまだ起きていて、親父が裏の倉庫で寝て、お袋が、夜中の午前二時とか三時頃に呼びに行ってた。倉庫でまたひと悶着やってたけど。あの頃までは親父もまだ、おかしくなってなかった、という感じだったけど、つまり、それまでとは別に、性格的に、人格的に違和感はなかったけど、僕の中三時ではもう、明らかに親父は変わっていて、別人みたいにおかしくなっていた。

 僕の中学卒業前頃に親父がオイオイ号泣してて、それを見て、あそこで、僕は完全に親父を軽蔑しきったように思う。見下しきった、というか、馬鹿にしきった。僕の児童期から小学校時代の優しくて頼もしい親父は、僕の中学生時代にだんだん変わって行き、ついに落ちるところまで堕ちた。あれが精神的な親父との別れだったなあ。完全な決別。僕の小学生時代までは、人当たりが良くて社交的で、外でも家の中でも変わらず穏やかで、仕事熱心で責任感のある真面目な親父。大きくて、とても頼もしい親父が‥。人は変わる。

 と、まあ、いろいろと書き込んで来ましたが、ここで述べて来たウチの家のコトは、もう何十年も前の話で、一番の当事者の親父も何年か前に死に、多分、あの頃、この件に関わって来た人たちも大半は亡くなっているだろうと思う。ウチの家が借金で火だるまで、当時、毎晩ウチに集まっていた親戚の人たちも、ほとんどが死んでしまっている。個人的なコトとしては、遠い昔の話。はるか昔の話です。キャラクター、じじごろうは残ってるけど。

◆2013-03/06「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」 ギャラリー(1)
◆2013-03/07「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(2)
◆2013-03/10「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(3)
◆2013-03/15「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(4)

 

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●じじごろう日記。(番外編)・・ 「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(4)

 僕の創ったキャラクター“じじごろう”の原型イラストとなる、80年代末頃当時の、ボールペン描き・落書きイラストの第四弾になります。ここで紹介する分は、大学ノートの落書きではなく、紙片にテキトーに描いたものです。裏が印刷された紙片に、暇つぶしでボールペンで気ままにチャチャッと描いたもので、ぺらぺらしてるので、厚紙画用紙に張り合わせてスキャンし、ここにアップしました。

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 ギャラリー(3)のところで書き込んだように、80年代後半に描いた、僕の親父をモデルにした原型“じじごろう”の絵では、掛けている眼鏡にヒビが入っています。これはギャラリー(3)での説明通りです。当時僕は、正直、親父はよく、愛人の息子に殺されなくて済んだなあ、とか、ヤクヅケにされなくて良かったなあ、とか思ってました。まあ、いわゆる“ヤク”なんてものは相当高価なものでしょうから、自分の母親の情夫に使うくらいなら、自分が使用するでしょうからね。息子は、入所出所を繰り返してたヤク中だったし。親父が愛人と離れていた時期に、一度、親父がウチに来て、この“ヤク中”息子の話をしてたことがあって、親父の話に寄ると、禁断症状が出たひどい時には、家の中で、バットや斧までも持ち出して振り回し、室内をメチャクチャに破壊したそうです。「神様があ~、神様があ~!」と叫びながら、斧を振り回して、壁や家具を叩き壊していたとか。幻視や幻聴に苦しめられていたんでしょうね。ヤクブツとかトルエン等の劇物とは、恐ろしいものですね。また、人間とはモロくて弱いものだ。いろいろな意味で。

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 続けて、“じじごろう”のアップ・シリーズ。劇画調じじごろうやウルウルじじごろう、号泣じじごろう。左上はイエティぽいじじごろう、かな。親父の顔の特徴は鼻の下が長かったこと。昔の人としては大男の親父は顔もデカくて長くて、鼻の下が長かったので、漫画調似顔絵にしたとき、鼻の下をデフォルメで異常に長く描きました。実物の顔の本当の鼻の下は、人並みよりもちょっと長い程度ですよ。お化けじゃないんだから。

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 ゴミを漁るじじごろう。生ゴミの中から食べ物を探しているトコロですね。親父が放蕩に明け暮れていた時代、親父が湯水の如く大金を、場末のバーの年増ホステスに注ぎ込むもんだから、一介のサラリーマンだった親父自身には当然、そんな金はなく、貢ぐ大金はほとんどが借金して得ていた。この場合では“不幸”なことに、それまでの親父は顔が広く、信望が厚かった。親父はあちこちの知人から、どんどん借金を作っていった。で、その後、巨額に膨れ上がった借金の催促に、数多の借金取りたちが毎日毎晩、ウチの家に来訪して集まっていた。騒動にまでなってしまっている、金の揉め事の解決のために、示談に入ってくれた人が何人か居て、今だったら、弁護士に頼んで中に入って貰って解決にあたるんでしょうが、当時はどうだったんだろう?法整備とかまだ整っていなかったのか、両親や親戚たちに金銭問題の解決の知識がなかったのか、弁護士に頼まずに、知り合いの示談屋みたいな人、あるいは素人でも示談解決出来そうな、頭のキレる人に中に入って、問題解決に当たって貰っていた。昭和40年代半ば頃の話だから、一般庶民的には、金銭問題のこじれなどは、弁護士に頼んで解決する方法は取っていなかったのかも知れない。また、会社を辞める前の親父は顔が広くて信用があったから、個人的な“信用貸し”の借金が多かったですからね。

 で、親父の債務問題で中に入ってくれた人の一人に、元は同じ電力会社の社員で親父よりも年長で、元は職場の先輩にあたり、何らかの事情で既に中途退社していた、I さんというオジサンが居て、この方が、当時の憔悴しきった僕の母親に話していたことが、「Mさん(僕の親父)は、今の会社を辞めて、奥さんとも別れると、落ちぶれ果てて、街の中のゴミをどんどん漁って回るような生き方になりますよ」という言葉で、これを僕が印象深く憶えていて、80年代末頃、暇つぶしの落書きで描いてた親父モデルのイラストで、「ゴミ漁り・じじごろう」を描いてました。まあ、完全に馬鹿にしきっていますが、当時は、僕には、親父が、別に特に美人でも何でもない、小太りの場末のバーの年増ホステスに、しかも噂では男から男を渡り歩いて、離婚歴があり子持ちの生涯水商売女に、あちこちあらん限り金を借り回って、サラリーマンとしては巨額の借金を作ってまで、貢いで、注ぎ込んで、家庭も仕事もメチャクチャに壊した親父の色ボケ行為を、これ以上ない愚かしい行為を取った、“馬鹿”そのものに見えてました。だから、この当時、僕は、軽蔑の意味も込めて、落書きで「ゴミ漁り・じじごろう」を描いちゃった。

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 猛スピードで走るじじごろう。全速・じじごろう。左側の絵は、ジョイナー・じじごろう。アメリカの陸上選手、フローレンス・ジョイナーがクローズアップされたのは、1988年開催のソウルオリンピックで、陸上競技で3個の金メダルを取ってからですから、この、紙片の落書きイラストは88年以降に僕が描いたものですね。まあ、じじごろうを使ったパロディーです。じじごろう七変化。やはり、親父の放蕩の象徴である“チンチン”は、強調して描いてますね。

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 この頃の落書き“じじごろう”イラストでは、犬仕様で描いたものも多い。じじごろう犬。左上の絵は、犬になったじじごろうとムク犬が戯れてる場面。左下はゴミ漁りじじごろうの変形版で、てんとう虫になったじじごろうがゴミ山に向かい、ゴミ漁りしているシーン。上に乗っているのは僕の妹で、親父の末っ子の娘です。この当時、どーも、僕の頭の中で親父をイメージすると、ついつい、I さんの言った、「奥さんと別れると、どんどんゴミ漁りするようになりますよ」のセリフが頭から離れなくて、何枚も、ゴミとじじごろうを描いてしまっている。右はヤモリになったじじごろう。住まいの窓ガラスにはよく、ヤモリ=カベチョロがやって来て張り付くので、窓に張り付くカベチョロ見ながら、“カベチョロじじごろう”を描いてしまいました。

◆2013-03/06「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」 ギャラリー(1)
◆2013-03/07「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(2)
◆2013-03/10「じじごろう“昔・ルーツ”イラスト」ギャラリー(3) 

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