60~90年代名作漫画(昭和漫画主体・ごくタマに新しい漫画)の紹介と感想。懐古・郷愁。自史。映画・小説・ポピュラー音楽。
Kenの漫画読み日記。
●漫画・・ 「アニマル 1 -ワン-」
国際都市ブエノスアイレスで行われた、2013年9月のIOC総会で、日本時間で9月8日、2020年開催のオリンピック・パラリンピックの開催都市が、最終的に東京に決定し、夏季オリンピックが日本国内で、56年ぶりに第二回目の東京オリンピックの開催が実現出来ることとなった。2020年東京五輪。9月8日の招致活動最終プレゼンテーションでは、パラリンピックに何度も日本代表選手として出場する義足のアスリート、2011年東北大震災の被災者家族の一人でもある、佐藤真海さんの感動的なスピーチや、美貌のフリーアナウンサー、滝川クリステルさんの流暢なフランス語に寄る、「お・も・て・な・し」スピーチなど、日本の招致スタッフ中の最終プレゼンターたちの、印象に残る素晴らしいプレゼンテーション・パフォーマンスが続いて、招致勝利・開催決定結果に、日本国中でお祭り騒ぎの大盛り上がりとなりました。佐藤真海さん、滝川クリステルさん、安倍総理、号泣シーンが印象的だった太田雄貴さん、高円宮妃久子様などなど、2020東京五輪決定の瞬間から数日間は、メディアはこの話題で持ちきり状態が続きましたが、「東京オリンピック」がもう一度、この日本へやって来る!ということで、僕が漫画作品で、真っ先に頭に思い浮かべたのは、「アニマル1-ワン-」でした。
今でも「アニマル-1-」の歌は、よく憶えています。まあ、歌詞全部を憶えてた訳じゃないけど。知らなかったなあ、「アニマル1-ワン-」主題歌を歌っていたのは、朱里エイコさんだったんですねえ。パンチの効いたボーカルで声量があり、抜群に歌がうまかった。後に歌謡曲で「北国行きで」という歌が大ヒットして、紅白歌合戦にも出場している。“100万ドルの脚線美”と呼ばれた、美しいおみ足が話題になった。「アニマル1-ワン-」での朱里エイコさんのボーカルって、そのパンチの効いた声量から、昔々の、まだ「人形の家」がヒットする以前の、肉付き良く軽く太ってた頃の、弘田三枝子さんを連想させる。朱里エイコさんていうと、どうしても、情緒不安定からの失踪事件ていうのを思い出しちゃいますね。全く知らなかったんだけど、朱里エイコさんは2004年に56歳の若さで亡くなられていた。僕自身は朱里エイコさんのことは、“百万ドルの脚線美”と「北国行きで」の大ヒットくらいしか知らなかったけど、十代の修行時代や、向こうの本場ショービジネス界での活動と、何度となく渡米している、本格的実力派シンガーだったんですね。凄いな。後年、精神的に脆かったのは、不遇の幼少期のトラウマなんでしょうね。
1964年10月の東京オリンピックのとき、僕は8歳でしたね。僕がオリンピックと聞くと、先ず最初に思い出す漫画作品は「アニマル1-ワン-」ですけど、次に、頭に浮かぶのが「YAWARA-ヤワラ-」ですね。その次に思い出すのが、国友やすゆきさんの「せかいイチ」だったんだけど、「せかいイチ」を押入れから出して来て、パラパラって読み返したら、主人公の愛野せかいは、何事でも一等賞は目指すけど、特にオリンピックを目指してるんでなかった。調べたら、女子レスリングがオリンピック公式種目に入ったのは、2004年からなんですね。だから、愛野せかいは「オリンピック金メダル」を口にしない。「YAWARA-ヤワラ-」で、猪熊柔が出場するのは、ソウル五輪とバルセロナ五輪か。「アニマル1-ワン-」の主人公、東一郎が目指すのは、アニメ主題歌の歌詞にもあるように、メキシコ五輪。
1964年東京オリンピック当時の僕は、8歳とはいえ、もともと僕自身がスポーツには全く興味のない子供だったんで、それはあの時代、国民的大人気のプロ野球にも大相撲にも興味がなかったんで、実際、オリンピックにもほとんど興味がなかった。ただ、当時夢中になってた児童漫画誌の月刊誌で、全誌一様にオリンピックをイメージした表紙だったし、本の中に特集記事でオリンピックのことが書いてあったので、そういう意味では、ほんの少しならオリンピックにも関心があったのかも。記憶しているあの頃のエピソード場面は、幼馴染のM君が、M君の屋敷の並びの角の理髪店で、TVで放送されている東京オリンピックの陸上競技の中継画面を、興味津々、興奮ぎみで見ていて、M君が散発が終わるのを面白くもなく、長椅子に座って待ち、TV画面でなく、TVを見るM君を見ている僕、という構図の場面。ここ、このシーンだけは記憶している。この場面の前後の記憶はないんだけど。僕、8歳時の記憶。僕自身は別に散髪するでもなく、ただM君を待っていたように思うんだけど、よくは憶えていない。オリンピックも後半に入った時期、僕は家の中で一人遊びで、将棋の駒を使って独り言ブツブツ言いながら陸上競技ゴッコをしていたように思う。まあ、僕は幼児期からずっと、独り言ブツブツ言いながら一人遊びするのが大好きだったからね。根っからの、クラァ~イ孤独性格。
川崎のぼる氏の「巨人の星」「いなかっぺ大将」などとも並ぶ、氏の代表作の一つ、「アニマル1-ワン-」は、小学館の週刊少年サンデーに1967年の第11号から1968年の35号まで、一年間ちょっと連載されました。当時のサンデー大人気のスポーツ根性漫画で、TVアニメ化もされて、当時のフジテレビ系で大人気放映されました。あれ?アニメの放送期間は半年間ですね。当時は、それ程は人気が出なかったんだろうか? TV放送期間は68年の4月から9月までです。メキシコオリンピックの開催が1968年の10月か。主人公・東一郎が目指すメキシコオリンピック開催直前で、放映は終了したんですね。僕の記憶イメージではサンデー連載の「アニマル1-ワン-」は、もっと前、66年頃からの連載だったように思っていたんですが、記憶イメージ違いですね。67年の早春頃からの連載か。しかも連載は一年ちょっとで終わっていた。記憶イメージでは、もっと長期連載したように思っていたのに。僕は漫画の「アニマル1-ワン-」は大好きで、サンデーで熱中して読んでましたけど、TVアニメの方はあんまり見ていないように思う。多分、当時の裏番組を見てたんじゃないかな。まあ、放映アニメは何度か見たろうけど。だって、主題歌の歌詞、部分的に憶えてるし、初めの方はソラで歌えるし。
それでは、当時のフジ系放送のアニメ版「アニマル1-ワン-」の、朱里エイコさんが歌った主題歌の歌詞です。
♪ がんばれ アニマルワン
力のかぎり 進めよ アニマルワン
メキシコめざして
やるぞ いまにみてろ
バババババンと 日の丸あげるのだ
がんばれ アニマルワン
元気をだして ぼくらのアニマルワン
強いぞレスリング アニマルワン!
はばたけ アニマルワン
輝やく空へ とびだせアニマルワン
世界をめざして
進め あせをながし
ズズズズズンと 心をひきしめて
はばたけ アニマルワン
希望にもえて ぼくらのアニマルワン
強いぞレスリング アニマルワン!
オリンピックと聞いて、僕が思い出す漫画作品は、まだ他にもありました。1964年の東京オリンピックで、“東洋の魔女”が金メダルを取って、国内に女子バレーボールブームがやって来て、漫画では、当時の二大少女漫画週刊誌、週刊少女フレンド、週刊マーガレットに、「サインはV-ブイ-」と「アタックNo.1-ナンバーワン-」が連載され、人気を博し相次いでTVドラマ化、TVアニメ化されて放送され、高視聴率を取って、一世を風靡するような大ヒットとなりました。「木の葉落とし」「稲妻サーブ」「X-エックス攻撃」は、当時の流行語になったとも言えると思います。そういえば、流行語というと、ロングヘアの女の娘が、ラーメンやうどんなど汁物を食べる時の格好が、「X攻撃」と呼ばれていたことがありましたねえ。「サインはV」から随分経ってからだけど。
「巨人の星」「いなかっぺ大将」で一世を風靡した、昭和漫画の巨匠、川崎のぼる先生の「アニマル1-ワン-」は、原作付きではない、川崎のぼる先生オリジナルのスポーツ根性漫画の名作です。主人公、東一郎は中学生だから、学園スポーツ漫画といっても良い作品ですね。レスリングでオリンピックを目指す少年の、熱血感動格闘技漫画。中にはプロレスラーも含めた、数々のアマチュア・レスリングの強豪たちと戦って行く中で、オリジナルの必殺技、アニマルドロップやローリングストーンなどを編み出して、格闘技の強さと共に精神的にも成長していく、少年熱血感動ドラマ。「アニマル1-ワン-」の主人公の中学生、東一郎は、川に係留された船で生活する、大家族の長男。父子家庭で七人兄弟。「巨人の星」の星飛雄馬とは全く違う、陽気で快活、前向きな腕白キャラの主人公。
週刊少年サンデーの当時の看板漫画の一つでもあった、熱血学園レスリング漫画「アニマル1-ワン-」の中で、僕が印象的に記憶に残してる場面は、先ず新連載第1回の、東一郎が転校して来て、同じく転校生の体格の良いツワモノそうな生徒と共にグランドに入ると、突如、そのグランドに猛牛が乱入して来る。東一郎はガタイの良い転校生と共に、一緒に力を合わせて猛牛を叩きのめしてしまう。この、連載第一回目のシーン。その後、ツワモノ転校生はボクシング部へ入部し、学校内で一躍有名になった東一郎はレスリング部へ入部することとなる。確か、そういう物語導入部だった。その次に印象に残っているシーンは、プロレスラー・ヘンリーと断崖絶壁の下は絶海という岩場で、レスリング対決して一郎が劣勢になるが、意識が遠のく中で頭上を飛ぶ二羽の蝶々の戯れを見て、無意識の内のように、ヘンリーを上空へ投げ上げて、一郎オリジナルの必殺技、アニマルドロップを編み出し、完成する。このシーン。もう物語りも、だいぶ進んだ時点での場面だけどね。それから、次の必殺技、ローリングストーンを編み出すシーン。何ていったか、レスリングの強豪ライバルの一人で、体格の良い野生的な少年と共に互いの必殺技の発表し合いをやったら、何と全く同じフォール技だった、という場面。この三シーンは、ン十年経った今でも、僕がよく覚えている場面(“ローリングストーン”でなくて“ブラックワンタックル”の方だったかな?)。
私のこの、拙Blog「Kenの漫画読み日記。」も、2005年から延々と書き次いで来ておりますが、2010年頃まではコンスタントに記事アップを果たして来ていたのですが、また、中には度々、一つの記事の内容が、かなりな文量の長文記事で、アップされて来ていたのですが、されて‥って、まあ、自分で書き込んでたんだけど、以前は、それだけの打ち込む能力があったんですね。2011年早春に左目の網膜剥離を患い、病院に入院して、眼科の手術、治療をしたのですが、病院に掛かるのがちょっと遅かったのもあって、退院後の後遺症がけっこうあって、左目視力は矯正で0.2か、良くて0.3くらいしかなく、裸眼だと0.01もないくらいになり、左目では見るものがグニャリと曲がって見える。もともと9歳くらいからの近視なので、右目は裸眼0.1ですが、矯正で0.9くらいはあり、右目で見る分はまあ、普通に見えるのですが、これが左目と一緒に使って見ると、物を読んだり書いたりする作業には、かなり不便なんですね。TVを見たり遠くを見たり、日常生活には大丈夫なんですが、デスクワークとなると、以前に比べれば半減どころではない能力の落ち方で、読み書きではかなり苦労している。矯正左目で見える物は遠くて小さいし、左右の物の見え方がものすごくアンバランスなんですね。だから、パソコンのキーボード打ちも非常に苦労する。いつも打ち間違うし、打ち込みのスピードは格段に落ちてしまった。まあ、もともと脊椎症の後遺症で手指に痺れがあり、キーボード打ち込みは遅かったんですけど。と、まあ、そういう訳で、拙Blog「Kenの漫画読み日記。」の記事アップは、以前に比べてアップ頻度が格段に減ったし、記事の内容自体も以前みたいに目いっぱい文量の多い、長文記事でないし、書きこみ時間もかなり掛かる。以前に比べると、目も相当疲れやすくなったしね。頭の中では、あの漫画のこと書こう、この漫画のことを書きたいと思い、文章構成の内容まで考えていても、いざ書き込むとなるとなかなか大変で、ちっとも進まないということになる。で、記事アップは頻度が激減した訳ですね。いろいろな漫画のことも書いて記事アップしたいし、ワシの拙作過ぎる大長編小説、「じじごろう伝」の続きも書き次ぎたいんですけど。思うように行きません。
川崎のぼるさんは「巨人の星」や「いなかっぺ大将」のみならず、昭和の漫画・劇画シーンで大活躍した、有名な巨匠・漫画作家ですね。川崎のぼるさんも、もともとは貸本出身で、僕が6歳の頃から毎日通っていた、当時の自宅の近所の貸本屋さんが、66年頃店閉まいしてしまうんですが、その64年65年頃、貸本誌の青春もの等の短編オムニバス誌で、よく短編作品を発表していました。と、記憶します。1959年発刊の貸本の時代劇オムニバス誌に、川崎のぼるさんの短編が収録されているのを見つけたから、貸本では随分前から描いてたんですねえ。メジャー児童漫画雑誌に作品が載り始めたのも、65年66年くらいからかな(?)。集英社の月刊誌、少年ブックに連載していた「大平原児」って西部劇漫画はいつ頃だろう?65年くらいかな?あるいは64年? 後年の氏の作画に寄る、「荒野の少年イサム」は有名でしたけどね。 資料を調べて見たら、「大平原児」は少年ブックの昭和39年40年時の毎号のB6別冊付録で掲載されてますね。児童漫画月刊誌にはもう既に、64年頃から各誌に短編読みきり作品などを発表していましたけど、漫画家・川崎のぼるの名前を一躍、メジャーなものに押し上げたのは、梶原一騎の原作で66年から週刊少年マガジンに連載が始まった、名作「巨人の星」ですね。
川崎のぼる先生は、60年代70年代の少年誌・青年誌の各誌に数多くの長編連載や短編掲載作品を持ち続け、また60年代には少女誌にも中・短編の読みきり作品を掲載し、60年代70年代の昭和漫画シーンで、熱血感動もの、アクションもの、コメディー漫画といろいろなジャンルを描き分け、勢力的に大活躍した実力派漫画家ですが、中でも僕の印象に残る漫画作品は、「巨人の星」「アニマル1-ワン-」の他に、60年代末の少年ジャンプの「男の条件」、70年代週間少年マガジンの「フットボール鷹」、70年代ヤングジャンプの「長男の時代」などの作品が大好きでしたね。
僕が僅か8歳だった、1964年の東京オリンピック。懐かしいですね。三波春夫さんの歌う、「東京五輪音頭」。♪オリンピックの顔と顔。それトトントトトント、顔と顔。ここだけは今でもソラで歌える。そしてこれからの、2020東京オリンピック。この先、これから日本はどう変わって行くのだろう。2020年の五輪開催を契機に、それを目指しての東京圏の交通環境や建物・施設の大規模な改装・整備、新たな建設。東京圏の未来化。日本経済の立ち直りと躍進。未来に向かう明るい希望が見える。東京五輪を目指す若きアスリートたちの頑張り、努力。みんなの前向きな気持ち。しかし、まだまだ重く大きく残る不安と心配。汚染水問題も含め、福島第一原発のこの先の処理はどうなんだろう。確実に着々と処理が進んで行く、ということが、不安で信じられない気持ち。まさか、本当はお手上げ状況なのではないのか。という不安。それどころか、これ以上、危険が増幅・拡大しないように、うまくやって行けるのかどうか。福島第一原発はまだまだ不安と心配でいっぱいだ。大都市、首都、東京だけでなく、東北の復興は進んで行くのか。被災者が置き去りにならないか。格差社会、貧困層、地方の過疎化、少子高齢化、地方の高齢者ばかりの地域。未来への明るい材料ばかりでなく、重大な問題もいっぱい残っている。東京五輪招致にあたって、安部総理などなどが、IOC関係者や報道陣の質問に対して、「東京は福島第一原発から二百何十キロ離れています」って答えていたけど、放射能濃度の問題は別にしても、これって、福島の県民や住民には面白くない回答の言葉だろうなあ。と、思う。その原発で作っていた電気を大量消費していたのは東京の人間のくせに、汚染されているかも知れないように見える、福島から東京は離れているから大丈夫ですよ、なんてヌケヌケと答えるんだもの。まあ、東京招致のために必要な回答なのだとは解るが、この言葉は福島関係者に取っては、腹立たしいものなんじゃないのか。
あと七年。俺は生きているのかどうか。まあ、普通に年齢的には生きてるんだろうけど、生きているのかな、と悲観的気分でもあるけど。しかし、2020年の東京オリンピック・パラリンピック、成功させて欲しいですね。