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●漫画・・ 「青春」..(3)

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 「劇画」の命名者であり、手塚治虫が開拓した戦後ストーリー漫画の裏街道、貸本文化の世界で、貸本黎明期から終焉まで、その中心部で関わり続けて来た、「劇画史」の重要な立役者の一人、辰巳ヨシヒロ氏が興した貸本専門の出版社「第一プロ」、後の「ヒロ書房」が1963年に創刊した青春もの短編漫画オムニバス誌、「青春」の前期の巻頭カラーを飾った作品を多く提供したメイン作家は、みやわき心太郎氏でしたが「青春」中期から後期頃に掛けて、巻頭カラー作品や人気漫画が数多く掲載されたのは下元克巳氏や田代タケル氏の作品でした。田代タケルさんの漫画は当時の僕のお気に入りで、だからといって読者人気が高かったのかどうか今となっては僕には解りませんけど、掲載短編が度々巻頭カラーを飾っていた下元克巳氏の漫画は人気があったでしょうねえ。勿論、当時の僕は下元作品も大好きでした。

 下元克己先生は同じ第一プロから単行本もけっこう出していて、どちらかというとやはり青春ものテイストの作品が多かったと思います。短編誌「青春」に発表する短編は、学園青春ものでもコメディータッチでギャグ味付けものが多かったのですが、一冊もの長編ではシリアスストーリーものもあったと記憶しています。特に印象深く憶えているのが、1962年にデビューして、63年に「美しい十代」という持ち歌が大ヒットして、当時の一大青春スターとなった三田明の、実在アイドル伝記的作品を、下元先生が描いています。多分、64年くらいか65年かの長編作品で、第一プロ発行の貸本単行本です。若冠16歳の少年が歌謡芸能界にデビューする前後からスターダムにのしあがるまでの実話を元にしたサクセスストーリー漫画です。64年65年時は三田明さんもまだ人気絶頂期の時ですよね。勿論、この時代小学校低中学年の僕はハイティーンの美男アイドル歌手なんて全く興味ありませんが、貸本漫画とはいえ、当時のアイドル芸能写真誌「平凡」や「明星」読者の若い女性層を対象に出版されたのでしょうね。あの時代の貸本少女漫画の読者層は、けっこう若い女性層が多かったですからね。下元克巳の漫画は純然たる少女漫画ではなかったけれど、青春漫画オムニバス誌「青春」には若い女性の読者層も着いてましたからね。当時、女性の下元漫画のファンも多かったでしょう。子供の男の子の僕も、下元克巳漫画が大好きで、当時のアイドル歌謡歌手・三田明には全然興味なかったけれど、この三田明実話漫画も借りて読みました。下元先生の絵柄そのものも好きだったし。小学生のガキのくせにませくれてましたが、下元克巳描く美少女や若い女性の絵が好きでした。

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 貸本誌「青春」掲載の作品は両先生とも明朗学園ユーモア漫画で、勿論、ストーリー漫画ですがギャグ味付けで純愛味の入った学園漫画でした。下元作品の方が青春恋愛テイストが主要だったかなあ。田代さんのは、学園ドタバタもの的なギャグ調ストーリー漫画。青春恋愛ものというよりは、どっちかというと学園ドタバタもの漫画だったかなあ。短編集誌「青春」掲載の下元克巳作品も田代タケル作品も当時、僕は大好きでほんわか楽しく面白ろおかしく読ませてもらってました。貸本誌「青春」中期からは、下元克巳先生描くカバーカラー表紙絵も多かったし。下元克巳さんも田代タケルさんもオムニバス誌「青春」に、短編の明朗学園青春コメディ純愛漫画を寄稿するだけではなく、貸本漫画は同じ第一プロ(ヒロ書房)から単行本で長編も描いてました。田代タケル先生は短編誌「青春」に、「フーテン劣等生」シリーズというドタバタ調の学園青春コメディものの中短編を載せていたのですが、これの長編作品を一冊本で出していました。だいたい内容も登場人物もほとんど一緒だったと思います。何しろ、小学生当時に堪能した貸本漫画で、一泊二日で読んでいた漫画本ですから、大昔のことで非常に記憶があいまいなのですが、青春ものオムニバス誌「青春」掲載の両漫画家の短編学園ものは、下元作品が高校生シーンで、田代作品は中学校舞台の学園漫画だったような気がします。でも、現在、僕は当時の貸本誌「青春」現物を所持している訳ではありませんから、はっきりとはしません。いい加減でごめんなさい。

 田代タケルさんの学園青春コメディーのドタバタものも面白く、ホンワカ思春期恋愛風味も利いてて良かったですね。「フーテン劣等生」シリーズの長編版単行本も愉快に楽しめて良かった。後に、田代タケルさんは貸本文化終焉近くの貸本末期、実売出版の雑誌界に移ります。しかも最初はメジャー誌、週刊少年マガジン。「やって来た番長」という学園もの。ほとんど、貸本誌「青春」で描いていた「フーテン劣等生」シリーズのような、学園コメディーものと同じ内容だったと思います。雑誌に移ってからは名前を“一本木尊”に変えて、週刊少年マガジンや、その後、週刊少年ジャンプに描いてました。ジャンプ掲載作品も学園ものだったと思います。どれもだいたい、3週くらいか10週くらいまで続いたものなど、短期集中連載や、それのちょっと長めの連載作品でしたね。田代タケルさんは、雑誌に移ってからの一本木尊名義では、数ではあまり作品を見なくなりました。雑誌移行後は寡作でしたね。僕は70年代も中期以降は一本木尊氏の作品を全く見ていないのですが、後々、知ったところでは、青年漫画ジャンルでシリーズもので、1970年代後半に一世を風靡した感のある、どおくまん作画の「嗚呼!花の応援団」と、とてもよく似た傾向の作品を描いているようですね。僕には詳しいところは解らないのですが、「左巻き大学」シリーズとかで、「左巻き大学・空手部」とかそういうタイトルのコミックス巻もあるようです。こういう作品は「嗚呼!花の応援団」の類似的内容の、大学舞台のギャグ風味主体の、学園ストーリーコメディ漫画だったようです。僕個人としては、少年ジャンプ掲載の学園ものも見てないし、田代タケル・一本木尊氏の作品は、週刊少年マガジンの「やってきた番長」が結局最後に読んだ作品だったように思います。60年代末期、月刊の「別冊少年マガジン」にも読みきりを描いていると思うので、そちらも読んでいて僕が記憶忘却なのかも知れません。尚、「やって来た番長」の連載は、週刊少年マガジン1968年の新年号あたりです。週刊少年ジャンプ掲載の作品も60年代末あたりで、「おれとおまえとあいつ」という作品名ですね。

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 下元克己さんも田代タケルさんとだいたい同時期に雑誌に移っていて、やはり同じくメジャー雑誌、週刊少年マガジンで短気集中連載で「快男児ゴリ一平」という、ユーモア風味の痛快学園漫画。多分、僕も読んでいる筈ですが、内容はすっかり忘れています。下元克己先生は、雑誌に移って以降も、少年誌・青年誌に70年代前半、数々の中・短編を描いて活躍しているようですね。下元さんは元々、貸本時代からギャグ調ユーモアストーリーだけでなく、シリアスな内容のストーリー漫画作品もいっぱい描いてましたからね。僕が記憶しているのは月刊別冊少年マガジンに連載されていた、ギャグ調ユーモアストーリー漫画の「ゴキブリ」。「快男児ゴリ一平」は、週刊少年マガジン1968年の3月頃の掲載ですね。しかし、やはり僕の脳裏に印象深く残り続けているのは、下元克己作品も田代タケル作品も、あの貸本誌「青春」で読んだ短編の学園漫画群ですね。いつまでも心に残り続ける、切なくも狂おしいような甘味で至上に楽しい記憶。甘味過ぎる郷愁。

 ちなみに上記、一本木尊氏の漫画作品のことを書いているところで、引き合いで出した、あの時代の爆発的人気漫画、どおくまん(大阪出身の四人組漫画家共同ペンネーム)氏作画の「嗚呼!花の応援団」ですが、このギャグ調ストーリー大学学園漫画は、1975年の週刊漫画アクションに連載開始され、大人気の内に数年間連載が続きました。勿論、ここのBlog記事タイトル、貸本誌「青春」とは、全然関係ないのですが、あの当時の「嗚呼!花の応援団」からは世間に、「クエックエッ‥」や「チョンワ、チョンワ」という流行語までが出て来ました。正に一世を風靡した感、でして、後に実写映画化もされました。週刊漫画アクション黄金期の看板漫画の一つでしたね。この間、TV放映の後に劇場版映画化された連続TVドラマのスペシャル2時間版「SPEC」を見ていたら、中に出て来る悪い方のヤツの一人が、超能力テレポーテーションを使うときに、「クエッ」と叫んで、往時の「花の応援団」主人公の怪人、青田赤道がやる恰好をそのままやってました。懐かしかったです。両手を斜め高く挙げて海老反りスタイルで片足を後方に上げるという、独特の恰好。あのスタイルも当時は流行ったのかなあ。

◆(2012-01/05)漫画・・ 「青春」..(1)
◆(2012-03/08)漫画・・ 「青春」..(2)
◆(2012-04/25)漫画・・ 「青春」..(3)

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)

8.

 吉川愛子は、バスケット部の女子部室の隅で座り込み、両膝を抱き締めてガクガクと震えていた。全力で走って来て飛び込んだ、女子部室には、幸い誰も居なかった。両側壁面に並ぶロッカーの間に、年季の入った長机とビニール張りの安っぽい長椅子がある。反対側には、折り畳み式のパイプ椅子が無造作に、開かれたまま2、3個立っている。女子部室といえど、机の上には脱ぎ捨ててあるユニフォームや、ボール収納ネットなどが乱雑に投げてある。部屋の隅には、バスケットボールが2、3個転がっている。愛子は、部室の椅子には座らずに、部屋の一番奥の片隅に、まるで隠れるように小さくしていた。しっかりと両膝を抱えた腕の、両肩が小刻みに震えている。膝の間に隠した顔の、口元は歯がガチガチと鳴っている。

 思い出しただけでも全身、身震いがする。とにかく怖かった。用務員宿舎の棟に並ぶ、木造モルタルの倉庫二棟の屋根に、ふわりと飛び乗った二匹の犬。大きいのと小さい犬・二匹が、瓦屋根の向こう側へ動いて姿が見えなくなったと思って、愛子は体勢を変えて、倉庫裏のスペースの方の、卑劣な苛めに興じる不良グループたちを見やると、いきなり瓦が二枚、上から落ちて来たかと思うと、一枚づつが二人の生徒の頭に命中し、同時に風の如く、ヒュッと何か影が降って来た。それは物が落下する速度よりもはるかに速く動き、着地時点も含めて、愛子には、その物のかたちが、目で追って捉えられなかった。

 愛子は、ゴミ置き小屋角と雨樋の間の、わずかな隙間から覗いていたのだが、瓦の落下とほとんど同時に降って来た見えない影は、屋根上に居た二匹の犬だと悟った。愛子は驚嘆して思わず、雨樋の陰から顔を出してしまったが、二人の生徒が瓦が直撃した頭を押さえて悲鳴を上げて蹲る間、その僅かな間にも、着地した筈の二つの影が見えない風となって素早く動き、たちどころに二、三人の生徒の足下が救われ、その者らが宙に浮いた。そして間髪入れずに一人が弾き飛ばされた。次の瞬間には、二人の生徒が空中で思い切り鉢合わせしていた。四、五メートル離れたゴミ置き小屋の角から、覗き見ていた愛子には、これらの動きがまるでスローモーション撮影のようにも映り、しかし、ほぼ同時に起こったようにも見えていた。つまり、ある一瞬間に、7、8人の生徒が全員、空中に浮いていたように見えたのだ。ただ一人だけ、地面で正座したまま背を丸めて、頭を抱え屈み込んだ後能君以外は。その後、まるでスローモーションが解けたかのように、どたどたと、生徒たちは地面に落下した。一人はフェンス柵に叩き付けられ、金網に沿って落下する。一人は、倉庫裏壁面にぶつかって落ちた。一人は落下した際、放置してある建材ブロックでしたたか頭を打った。

 愛子は驚くよりも何よりも、最初、何が起こっているのか見当も着かず、呆気に取られていた。今は、ゴミ置き小屋から完全に身を乗り出して、状況を確認していた。愛子は、頭が真っ白な状態でしばし、ぽかんとしたままだった。目に見えない突風が吹き荒れた。最も単純にいえば、それだけだ。それも、突風が幅三メートルもない狭い空間を、愛子から見て後方から手前へ、手前から後方へと、何度も吹いて、男子生徒たちを空中に弾き上げた。明らかに突風は、何度かターンを繰り返している。突風は一度着地して、瞬間、即座に反対方向に飛んでいるのだ。肉眼で追うにはとても無理なほど見えにくいが、突風には形がある。それは、確かにある。ターンの着地点で、うっすらと見えたように思う。時間的には突風の繰り返しは、あっと言う間の出来事だった。重なり合うようにして倒れた生徒たち一山の向こうで、最後の着地で蹴って、二つの突風は上昇して行った。

 ゴミ置き小屋の角から見ていた愛子は、かろうじて突風の上昇に気が付いた。上昇した二つの突風が、弧を描き倉庫の屋根を越えたと判断して、体勢を入れ替え首を回して、後ろ側になる、特別教室棟前のスペースを見た。屋根を越えて間違いなく、そちらに降りた筈だ。愛子は何かに取り憑かれたかの如く、無意識に、急いでゴミ置き小屋の前まで出た。そこには、二匹の犬が居た。さっきの犬だ。愛子は思った。やはり突風の正体は、この犬たちだったのだ。小さな方は後ろ向きで居て、愛子には顔を見せず、すぐにまた飛び上がった。愛子はその動きを、最後まで目で追うことが出来なかった。もう一匹の大きな方の犬が、凝っと立ったまま微動だにせず、こちらを見ていたからだ。白い大型の日本犬。愛子は即座に狼を連想したが、こちらを睨む大型犬はまるで、虎かライオンのような迫力があり、愛子はその目を見て、恐怖に身がすくんだ。犬は、明らかにこちらを威嚇し、警告していた。それは、このこと一部始終を他言するな、という警告だ。

 愛子には、随分長く感じられた時間だったが、実際はほんの一瞬間だった。白い大型犬は、愛子をひと睨みしただけで飛んだ。恐怖にひきつった愛子の顔面は動かせず、彼女の両目は飛び去った犬の行方を終えなかった。震え上がった身体は硬直していたが、愛子はとにかく、身体のありったけの力を出して回れ右をし、そこで一旦、身体の硬直を取ろうと精一杯、自分の全身に言い聞かせて、後は猛ダッシュした。特別教室棟建物の反対側の角に向かって、フェンス塀沿いに全力で走る。校舎本館裏に出ると、本館脇を抜けてグランドに出て、無我夢中で体育館まで走り、体育館に隣接した、コンクリートとモルタルで出来た平屋の長い建物に駆け込んだ。この雑な作りの細長い建物には、各運動部の部室兼ロッカー室がいくつも入っている。愛子は、バスケットボール部女子部室のドアを勢いよく開け、中に飛び込むと力いっぱいそれを閉じて、なおも内側から、そのドアが決して開けられないように両腕で突っ張って、力任せに押し続けていた。

 両腕でドアを押したまま首を垂れて、はあはあぜいぜいと息をきらせ、苦しそうに呼吸する。ハッと我に返り、気が付くと目の下にドアの取手があり、取手の下にはに鍵が付いている。慌てて飛び込んだので、女子部室の鍵の存在を忘れてしまっていた。愛子は急いで鍵のサムターンをひねって施錠し、ふらふらしながら室内の長机や椅子を避けて移動し、部室の一番奥の、壁とロッカーの端っこの隅にへたりこんだ。はあはあとまだ息は荒い。全力で駆けて来たのだ。息が整うまでしばらく掛かった。呼吸が落ち着いて来ると、今度は突然、あの白い大きな犬の刺すような視線を思い出してしまい、身体にぶるっと震えが走り、恐怖心から「ひっ!」と小さく悲鳴が出た。あの視線は、まるで虎かライオンが威嚇するような目だった。そう思える。思い出すと、愛子の全身に小刻みに震えが起こる。

 先程見た校舎裏の光景は、絶対に誰にも喋るまい、と、固く誓うように胸に手を当てて思った。頭から血を流す者、倒れたまま起き上がれず呻いている者、失神しているのか倒れて伏せたまま動かない者、全員が尋常ではなかった。ただ、真ん中で正座姿勢から頭を抱えて屈み込み、何も見ないようにしている者、後能君一人を除いて。死人が出てるんだろうか? 弟・和也があの犬は本当は、まだまだとてつもなく強いような気がする、とか言っていたのを、愛子は思い出した。和也のその言葉を耳にしたときは、子供の言う戯言のように馬鹿にして聞いていたが、今は、それは本当にその通りだ、と納得した。あの犬らは、信じられないくらい強く、そして恐ろしい。ひょっとすると、虎やライオンのような猛獣よりも恐ろしいのかも知れない。そう思うと、また全身に震えが来て身がすくんだ。愛子は、部室の一番奥の、壁とロッカーの端っこの片隅に隠れるようにして、体育座りの四肢を思いきり縮込めて、石のように固くなり震えていた。しばらくそうしていると、別に、あの二匹の犬が自分を追って捜して回っている訳ではない、ということに気付いた。そう考えると、幾分、気持ちが落ち着き、少し身体の力が抜けて来た。やっと整って来た呼吸から、大きなため息が一つ出た。

 そうすると今度は、何だかどっと疲れたような気分になり、見る見る身体の力が抜けて行くようだ。他のコトを考えて心配する余裕が出て来た。あたしがグランドを全力で走って行く姿は、誰か生徒に見られただろうか? 頭の中が正常に回るようになった愛子は、無我夢中でグランドの中を走りきるとき、まるで視界には何も入って来てないほど、校舎裏のゴミ置き小屋からバスケ部部室までの間の景色の記憶がなかった。昼休みのことだ、制服姿のまま全力でグランドを走りきる姿は、先ず間違いなく誰かに見られているし、それはとても奇異に映ったことだろう。“異常な行動”と、取られたかも知れない。愛子はそう思うと、友達に訊かれたら何と答えようかと考えた。あの、倉庫裏で見た光景は絶対に喋ってはならない。とにかく知らんぷりを決め込まねばならない。気持ちが落ち着いて来て、自分を取り戻した愛子は、もうすぐ昼休み終了のチャイムが鳴り、すぐに午後の授業が始まる、と、部室から出なければと腰を上げようとした。やはり思いの外、疲労感がある。昨夜は、父母の喧嘩など家の中のごたごたがあり、よく眠れなかった。

 愛子がつい、「よいしょ」 と声を出して立ち上がると、部室のドアを力任せに開けようとして、ガチャガチャというドアノブを回そうとする音と共にドアが激しく揺れた。しかし、施錠されたドアは何度も揺すられても開きはしない。「いけない、誰か来た‥!」 愛子は焦ったが、部室の奥で立ったまま揺れて軋むドアをじっと見ていた。やがて、施錠されたドアがどうしても開かないと解ると、ドアの外に居る者はドアをどんどんと叩き始めた。何度か叩いた後、叫ぶような声が聞こえて来た。

 「愛子、居るの!?」

 愛子は、ハッと気が付いて急いでドアのところまで行った。

 「愛子っ!」 「ねえ、愛子居るんでしょ?」 ドアの向こうから呼び掛けて来ているのは、同じクラスの友達、真央とピー子だ。二人とも愛子の親友で、特にピー子は同じ女子バスケ部の部員だ。愛子が慌てて鍵を解き、ドアを開けた。やはり、親友の真央とピー子が立っていた。

 「何やってるのよ、も~う」 ドアが開いて愛子の顔を見た一瞬は、驚き顔をしたピー子が、すぐに表情を心配そうに変えて声掛けて来た。ピー子に対して、「ごめーん」 と甘えたような声音で言いながら、愛子はピー子の首ったまに抱き付いた。「愛子、大丈夫なの?」 隣で心配そうに真央が訊く。ピー子は両手で愛子の両腕を掴むと、力を入れて、自分に抱き付いたままの愛子を引き剥がし、愛子の顔を見て理由を訊いて来た。

 「いったいどうしたっていうの、何があったの?」 愛子は泣いてはいなかった。戸惑いを見せながらも、愛子は答える。 「う、ううん。ちょっとね。でも大丈夫‥」

 ピー子は、バスケットボールをやるには身長が低く、おかっぱ頭の頂点が愛子の口の辺りに来てしまうくらいだ。愛子とて身長は、中二女子の平均身長くらいしかなく、バスケットボール選手としては身長が低過ぎるくらいだろう。愛子よりもずっと低いピー子は、バスケットボールというスポーツには向いていないかも知れないが、案外運動神経は良く、小刻みなドリブルがとてもうまく、小回りを利かせて素早い動きが出来る。ピー子というアダ名は、一年生のときの入部時、三年生の意地の悪い先輩から、流行っているアニメの登場人物に似ているということでアダ名で付けられ、それが浸透してしまい、バスケ部意外の生徒も彼女をそう呼ぶようになってしまっている。

 「愛子がさあ、グランドを血相変えて全速で走って行った、って聞いたからさあ、心配しちゃってさあ」

 横から真央が声掛けて来た。真央は文化部に所属していて、身長は愛子よりも高く、うりざね顔で長い黒髪を三つ編みにしている。もう少し成長して女になると、美人になりそうな顔つきだ。性格は、愛子やピー子に比べれば静かで穏やかで、落ち着いて見えるが学業成績の方もかなり優秀な方だった。

 愛子は二人に交互に首を回して、「ごめんね、ごめんね‥」 と詫び続け、礼を言った。「ありがとう。何でもないからさ‥」

 「心配しないで。もう大丈夫だから」 続けて愛子は二人に、“何でもない”ということを強調するようにそう言って、部室のドアを閉め、教室に戻るために部室の前から離れることを促した。愛子は、女子部室に来たのが、バスケ部の先輩など他の生徒でなく、親友の二人で良かったと心から思った。

 三人は体育館隣の建物から出て、本館校舎へ向かって歩き始めた。すぐに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。三人はお喋りを続けながら、並んで校舎に入って行った。如何に親友といえど二人には、愛子が目撃した光景の話は何一つしなかった。また、誰にも話すまいと固く決めていた。

 ピー子はしつこく何度か“何があったのか”、と愛子に訊いて来たが、自分たちのクラスに入り着席するまで、“何でもない”で誤魔化しとおした。すぐに授業開始のベルが鳴り、程なく五時限目、国語の教師が入って来た。国語課目は担任の戸川先生が受け持ちだ。ネクタイを取った白いワイシャツ姿の戸川先生が教卓に立ち、生徒の起立・礼・着席が済むと、教科書を繰って、このクラスが何処からだったかを探し始めた。今日の進行予定を確認して、開いた教科書を持ち上げたとき、突如、教室のドアが開いた。顔を見せたのは副担任の木暮先生で、音楽科を教える女教師だ。青ざめた顔で担任の戸川教諭を呼んだ。何だか、かなり慌てている様子だ。

 二人の教師は廊下に出て、生徒に気付かれないようヒソヒソと話している。やがて、戸川先生だけが教室に戻って来て、急いでいる様子で、クラス生徒に自習を言い付け、また慌てて出て行った。教師が居なくなるとクラス全体がざわつき始めた。みんな、担任を呼びに来た副担任の、のっぴきならない様子や、その副担任に話を聞いた後にすぐに教室を離れた担任の行動などから、いったい何事が起こったのかと、中学生の子供らしくあれこれ想像してクラス中が騒々しく話が弾む。自習どころでなく、当分は騒ぎが止みそうになかった。クラスのお調子者の生徒が一人二人、他のクラスへ様子を見に出て行く。他の者たちは、その報告を待って各自、私語の会話を続けている。教師に言われたとおりに、おとなしく自習をやっている者なぞ一人二人だけだ。

 やがて、他のクラスに偵察に行っていた者たちが戻って来た。二年の他のクラスもほとんどが、五時限目を教えていた課目教諭が急に出て行って、自習を言い付けられている、ということである。その報告を聞いて、クラスの全員が、“いったい何事が起こったのか!?”と、いっそう騒々しくなった。

 クラスの中で、愛子だけが気付いていた。さっき自分が目撃した、あの、倉庫裏の光景が教師たちにも解ったのだ。そうに違いない。二組の西崎たち七、八人の中には、多分、重症の怪我人が出ているのだろう。何しろ、頭から血を流して呻いている者も居たくらいだ。教師たちが大騒ぎしているのだろう。多分、今から救急車や警察までもが学校に来て、騒ぎはもっと大きくなるだろう。それでも、愛子は、自分が現場で目撃したことは、一切誰にも喋るまい、と改めて固く思った。

「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(9)へ続く。

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
◆(2012-03/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(6)
◆(2012-04/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
◆(2012-06/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(9)
◆(2012-06/16)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
◆(2012-07/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)
◆(2012-08/04)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12) 

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●漫画・・ 「軍鶏」27巻

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 「軍鶏」第27巻が2012年3月23日に初版発行になっておりまして、第四部・グランドクロス編もクライマックス渦中、メインイベント、成嶋リョウVS高原トーマの死闘、真っ最中です。手負いの狂犬、成嶋リョウの打撃に対して、トーマの攻める技々はグランド技ですね。超絶的な運動神経の才能を持つトーマは、これまでの4試合を見て即座に覚え、合気柔術の技や柔道の投げ技が使える。反則混みで短時間KOを狙う成嶋リョウだが‥。高原トーマはしぶとく強い。トーマの迎撃は、隙あらばグランドでの関節一本を狙う。一進一退の竜虎の攻防は続く‥。

 ここのところの「軍鶏」の劇画表現構成を見ると、井上雄彦氏の「バガボンド」と進行構成が似てますね。一つの戦いに割くページ数がメチャメチャ多い。一つの試合に有にコミックスで2巻3巻分のページ数を使う。また、実際の戦闘場面だけではなくて、心理描写を1P全部や見開き2P大画面などを使って大表現する。だから、「バガボンド」と同じようにコミックス1冊読むのに、すぐに読み終わってしまう。大画面描写の連続ですから。特に、光り面から現れた、神の使いの如き栄光の戦士、高原トーマと、本編の主人公、暗黒面のダークヒーロー、成嶋リョウの試合は、比喩的な心理描写場面がいっぱい描かれてますね。

 グランドクロス・メインエベントの死闘はまだまだ続いております。そういえば、余談になりますけど、「バガボンド」はまだ連載が続いているんだな。二回くらい長期休載が続いたけど、コミックスでは現在33巻までの刊行ですね。

 

 

(2007-01-13) 「軍鶏」..第25巻

(2011-11-11) 「軍鶏」..第26巻

(2006-03-29) 「軍鶏 -シャモ-」

 

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)

7.

 昼休み、吉川愛子は給食を半分以上残し、教室を出た。多分、クラスの中では一番最初に教室から出た筈だ。階段を降り、校舎出口の靴箱前を素通りして渡り廊下から外へ出た。普段は給食を食べ終わった昼休みは、教室に残って仲良しの友達二、三人と駄弁るか、バスケット部の部室に行って部活仲間と時間を潰す。しかし、今日はそんな気持ちにはならなかった。とにかく今日は独りになりたかった。

 気分が重い。校舎の裏手の、用務員寝泊まり用の小さな家屋と、二棟の倉庫やゴミ置き場や焼却炉があって、日中は滅多には誰も人の来ない場所に行くことにした。L字形に立てられた本館校舎があり、その一辺を形作る棟の、裏手にまた一棟、本館に比べてやや小ぶりな二階建ての、特別教室用の校舎が立つ。ここは、社会科系や理科系の特別教室ばかりが幾つも入っている。この棟には、昼休み時間に人が来ることはほとんどなく、放課後もたまに居るのは専門教科の教師くらいである。その棟の裏手にまた、普段はあまり使われてない用具倉庫や物置倉庫、ゴミ置き場の小屋と、少し離れて焼却炉が並ぶ。ここには放課後、用務員のおじさんがゴミ処分に来るぐらいの他は、昼休みや放課後に人が来ることはほとんどない。

 この特別教室棟の裏手の倉庫等が立つ周囲路面は、一部だけしか舗装がされておらず、用務員用家屋、二棟の倉庫からゴミ置き場小屋、焼却炉あたりまでの周辺はおおよそ、泥道に砂利を敷いただけの半砂利道であり、雨降りの日はところどころ水溜まりやぬかるみが出来た。ゴミ置き場小屋と焼却炉の間に無造作に、古い大型のU字溝が二つ伏せて置いてあり、愛子はその一つに腰掛けた。

 離れたフェンスの上に視線を向けて、青空に浮かぶ雲をぼんやりと見つめた。フェンスの向こう側は、草が生い茂る崖面になっている。愛子の通う市立中学校は市の外れの高台にあり、フェンスに近付けば、市のかなりの地域がパノラマに見下ろせる。ここから三、四キロ離れた場所には、弟・和也の通う小学校の校舎とグランドが、すぐそこにあるように見下ろせた。また、そのはるか向こうに見えている、二つ三つこんもりと盛り上がる緑の小山は、市の総合運動公園の森林だ。その小山の下に広がる、公園のスポーツ用グランド面や駐車場までが見届けられた。小学校から西側に視線を回せば、その先に市街地も見渡せた。

 愛子は、ただぼんやりと雲を見つめ続けていた。視線を下げて何を見るという訳でもなく、フェンス下部バーの、雑草が繁るあたりに目をやった。はあっ、とため息を一つ吐く。表情はすぐれなくて重い雰囲気で居る。冴えない顔でフェンスの向こうを見やる。深刻な表情になり、膝に衝いた両手に顔を乗せる。愛子は、昨夜の、自分の家庭でのことごとを、繰り返し思い返しては、泥水の中に居るような重たい気分になっていた。

 昨日の夕方、愛子は、家に居ない弟・和也を探しに出た。愛子が学校の部活を終え、夕方帰宅すると、少なくともその二時間前には帰宅している筈の弟が、家の中の何処にも居ない。今日は弟の少年野球の練習のない日だ。弟が慕っている隣家の長男、本田義行は肋骨の骨を二本折って、まだ市民病院に入院中だ。和也が隣家に遊びに行っていることはない。弟の学校の友達の家に寄っているのだろうか。いや、それでもこの時間には、もう帰って来てる筈だ。

 愛子は、玄関から外に出て見た。母屋の隣の、車庫スペースに行ってみる。いつも置いてある、父親・和臣が和也の7歳の誕生祝いに買ってあげた、小さい自転車がない。愛子は確信した。弟は性懲りもなく、またしても多分、市民公園に行ったのだ。二週間近く前、あれだけ危険な怖い目に合い警察沙汰にまでなって、母親・智美から嫌というほど怒られたのに。あたしもネチネチとしつこく、我ながら厳しく文句を言い続けてやった。と、愛子は思い返した。それなのに、それなのにあの馬鹿な弟は、もう一度犬に会いたい、とかふざけたことを考えて、またも、この夕方に、もうすぐ陽が暮れるというのに、あの寂しい、夜になれば人けのない市民公園の中の、不気味な夜の山道目指して、懲りもせずに行ったのだ。そうに違いない。愛子は心中、馬鹿な弟に爆発的な怒りを覚えた。

 もうすぐ母親もパート仕事から帰って来る筈だ。だが愛子は、自分の携帯で母・智美の携帯に電話を入れた。すぐに電話に智美が出たが、寄るところがあり少し遅くなるという。愛子は母親を心配させたくなかったが、良い言い訳が見つからず、結局、本当のことを話すことにして、多分、和也はまた公園の山道に行った筈だ、と確信のある自分の推測も話した。今から自分が、和也を探しに市民公園へ自転車で行って来る旨話すと、やはり、母・智美は心配しながら、愛子に充分注意するようにと念を押して、逐一自分の携帯に連絡を入れるように言って来た。愛子が大丈夫だと言ったが、智美は用事が終わり次第、自分も車で公園へ向かうと言って、電話を切った。

 愛子は、ダイニングのサイドボードの端に紐で掛けてある懐中電灯を取ると、帰って来た時と同じセーラー服の格好のまま家を出て、玄関脇に停めてある自転車に跨がり公園へと急いだ。公園に着いた時にはもうすっかり陽が暮れてしまっていた。野球練習用グランドの手前通路、野球用具庫の前には、案の定、和也の子供用の自転車が停めてあった。弟は性懲りもなく、暗くなってまたここに来たのだ。もう十日以上前になるが、あんな危険な怖い目に合っておいてもまた。母親にさんざん叱られながらも。愛子は弟に対する怒りでいっぱいになった。

 愛子は、乗って来た自転車を和也の自転車の隣に停めて、懐中電灯を用意し、スウィッチを入れてグランド内へと入って行った。グランドを横断するつもりで奥へ進むと、グランド奥両サイドの外灯の灯りの、調度真ん中付近にぼんやりと小さな灯りが見えた。「和也だろうか?」 多分和也に違いないとは思いながらも、もし他の人間だったらどうしよう? と緊張感を抱きながら無意識に身構えて、ゆっくりと灯りに近付いて行った。

 ピッチャーマウンド近くで見えた小さな灯りは、セカンドベースを越えたあたりで、向こう側の灯りもこちらへとゆっくりと近付いて来ているので、相手も懐中電灯を構えているのだとはっきり解った。だがもう辺りはすっかり暗いため、灯りの後ろの姿までははっきり見えない。しかし、小さな灯りの位置が低かったので相手は子供、間違いなく和也だと思った。

 セカンドベースの向こう、さらに二人は近付き、お互いを確認し合った。愛子が叫んだ。「何やってるのよ、もう、あんたは!」 大声で怒鳴られた和也は、懐中電灯のライトを下に向けて愛子の前で立ち止まった。下を向いたまま固まっている。最初、愛子は感情に任せて怒りを爆発させ、怒鳴り散らしてやろうと思っていたが、愛子の前で下を向いたまま棒立ちになって黙っている弟を見て方針を変えた。弟の無事を見た安心もあった。どうせ家に帰れば、母・智美から嫌というほど叱られ続けるのだ。愛子は和也の肩に手を回した。「早く帰るわよ」 二人は自転車の停めてある、ホーム・バックネット方向へ並んで歩き始めた。

 愛子は歩いて来たとおりに和也と共にグランド砂地をザッザッと踏みしめながら、片手でハンドライトを前に向けながら、器用に片手で携帯電話を出して、母・智美を呼び出した。智美は自宅前で、家の軽乗用車の運転席に乗ったままだった。母からは、充分注意して和也を連れて帰るように、また何かあったらすぐに電話をして来るように、と言われた。愛子は家に帰れば、母・智美が和也にこんこんと説教して聞かせるだろうと思い、愛子からは敢えてうるさくは言わず黙って、二台並んで自転車をこぎ、和也を家に連れ帰った。

 帰宅してからは、家に入ると母は和也を爆発的に怒鳴ったりすることはせず、先ず、用意出来ている夕食を三人で摂ることにした。夕食は、出来合いの惣菜や簡単に作れるものが並んでいた。三人は黙々と食べ、食事が終わると智美は、和也をリビングのソファーに座らせた。愛子は、母・智美の和也への説教には付き合わず、宿題があるからと二階の自分の部屋へ入った。愛子は、学校の中間考査試験が近付いて来ているので、宿題を終えた後も科目の復習勉強を続けていた。和也が二階へ上がって来た気配はない。あれから二時間近く経っている。母・智美の説教が終わり、和也は風呂へでも入ったのだろうか。愛子もそろそろ入浴しようかと、教科書や参考書などを閉じ、机を立って部屋のドアを開けた。

 突然、智美の怒鳴り声が聞こえた。愛子は部屋から出ずにドアを半開きにして、階下の様子を窺った。智美の甲高い怒鳴り声が続く。金切り声のような大声だ。和也を叱る時でも、こんな声を出すのは聞いたことがない。間にぼそぼそと、大人の男の声が聞こえて来る。父・和臣の、言い訳しているような話し声だ。父は帰って来ているのだ。母の大きな声で責める口調に対して、父はたじたじになって困り果てたように、何か弁解を続けている。父の 「疲れているから今日は早く寝たいんだ」 とかいうセリフが聞こえて来た。母・智美の激しい批難に、父はほとほと弱りきっているようだ。そしてまた、うるさそうにして何か言い訳が続く。和也が風呂から上がって来たらしい。小三の和也は、最近は一人で入浴し、時折、母が見に行っている。まだ小二だったつい二、三ヶ月前までは和也は、父と一緒に入浴することが多かったのだが、最近は父の帰宅時間が遅過ぎるために、和也の入浴は一人立ちしたのだ。

 和也が二階へ上がって来た。隣の自分の部屋へ入ろうとしたので、ドアの隙間から小声で呼び止め、愛子の部屋へと引っ張り込んでドアを閉めた。和也がぽかんとして、愛子を見つめる。 「ねえねえ、和也。お父さんとお母さん、どうして喧嘩してるの?」 愛子が、息急ききるように訊いた。和也はしばし考えるような様子だったが、ぼそぼそと話し始めた。

 「うん‥。僕が一人でまた、市民公園の森の中に行ったことを、お父さんからもきつく叱って言い聞かせるようにって、お母さんがお父さんに頼んだんだ。そうしたらお父さんが、お母さんが一度叱ってるんだからもういいじゃないか、って言って。それで、お母さんが機嫌が悪くなったから、お父さんが 『わかった、わかった』 って言って僕をソファーに座らせて、叱り始めたんだけど何て言うのかな、優しくって 『駄目だぞ』 って言うくらいですぐに終わって、それで‥」 和也は、そこまで一気に喋ると息をついた。

 「ん。それで、和也‥」 姉・愛子が話の続きを促す。 「お父さんの説教がすぐに終わると、お母さんがすごい見幕で怒りだしたんだ。 『だいたいあなたは、子供のことを考えているのか。いつもいつも仕事仕事って言って、毎日帰りは遅く、休みの日も用事だと言って、出掛けて家に居ないし、子供のことも家庭のことは全部、私に任せっきりで何にもしないし、少しも考えていない』 って。そう言って、怒鳴り始めたんだ。で、お母さんは僕に二階へ行ってなさいって。まだ喧嘩続けてるよ‥」 じっと姉の顔を見ながら、少々たどたどしくも状況をきちんと説明して聞かせた和也の話に、愛子は、視線を外して見るともなく、部屋の天井の一隅に目をやってしばし、黙って考えた。

 とすると、また視線を和也に戻し、和也の肩を片手で掴み、顔を覗き込むようにして、また訊いた。 「ねえ、お母さんが怒ってたのって、それだけだったの? あんたのこととか家のことをお父さんが、放ったらかしにしてるってことだけを怒ってたの? 他に何かお母さん、お父さんのことを責め立ててなかった?」 鋭い視線を向けて真剣な表情で訊いて来る愛子に、和也は緊張し慄きを感じた。ちょっと怖いくらいだった。それを覚った愛子は思わず、「あ、ごめん」 と謝って、態度を和らげて見せた。和也が尋ねる。 「他のことって?」 愛子はしばし迷って、戸惑いを見せた。和也は、姉の顔をじっと見つめたまま、返答を待った。愛子の頭にあったのは、父・和臣の浮気の疑惑であったのだが、そんな話を、小三の幼い弟にしていいものかどうか迷ったのだ。結局、愛子は、父・和臣が他所に、母とは別の好きな女を作っているのではないか、という疑いの推測を、和也に話して聞かせるのは止すことにした。愛子は、母と父の言い争いの中で、夫の浮気の疑いの話の片鱗が出たのではないか、と思ったのだ。和也に訊いてみたかったが、幼い弟に余計な心配はさせまいと、それ以上は話を聞くのは止めにした。

 「うん‥。いや、もういいよ、和也。悪かったね。部屋に行っていいよ。あたしもお風呂入りに下に降りるから」 その後も暫く、母と父の言い争いは続いた。言い争いというよりも、智美の一方的批難の責める言葉に、和臣は 「わかった、わかった」 と、怒り爆発の妻を宥めて、逃げ腰で言い訳をひたすら続けるだけである。最終的に、智美が泣き始め、和臣は風呂にも入らず寝室へ入ってしまった。愛子も、智美に味方してというより、娘として、最近は全く家庭を顧みない父親に、いろいろと意見を、というか文句を言ってやろうと思ったが、父は夕食も摂らずにすぐに寝室に向かったし、泣いた母親もすぐに立ち直りを見せて、子供にだけは涙を見せまいとしてか、忙しく家事に動き始め、食事の後片付けからせかせかと勤しんだ。愛子も、父親への意見を言うタイミングを外し、今回は黙っておくことにした。この先、父親の態度が改まらぬようであればその時は、娘としての意見を、文句を父親に対してぶちまけてやろうと、今回の母親の怒りの批難の効果に期待しておくことにした。

 和臣と智美の夫婦仲は、昨年の暮れあたりからぎくしゃくし始め、今年に入ってからは寝室を別にしてしまった。母・智美が、娘の手前、何でもなかったように家事に勤しむ姿を横目にしながら、愛子は浴室へと向かった。

 愛子は、ぼんやりと宙空を見つめ、視線は見るともなしに金網の向こうの市街地パノラマの風景に置きながら、悩ましげに暗い表情で、以前の父母はあんなに仲の良い夫婦だったのにと、昔の家庭の様子を思い返し、昨夜の二人の、怒鳴ったり泣いたりする母、相手にするのを面倒くさそうにして、その場から逃げようとする父の夫婦仲を、以前と比べて思い、重苦しい気持ちでまた一つ、大きな溜め息をついた。視線を上げて、ゆっくりと流れ行く、大きな雲に目をやる。

 伏せた大きなU字溝に腰掛けた愛子が、背を曲げ、膝に乗せた両腕で、掌に顎を乗せ憂鬱な気分でぼんやりしていると、ザワザワと人の話し声が聞こえて来た。男子生徒たちの笑い声が近付いて来る。咄嗟に愛子は立って、ゴミ置き小屋の影に隠れた。本館校舎の方から何人かの男の子たちが現れた。一目見てガラが悪そうだ。愛子の同学年、二年生の他クラスの生徒たちで、ちょっとした不良グループを作っている連中だ。

 一人だけ、色合いの違う子が居る。集団の先頭でやけに気弱そうに、ふらふらした足取りで、後ろの不良から背中を押され押され歩いている。愛子は、ゴミ置き小屋の影から見つからないように様子を窺った。こちらに気付く気配は全くない。全部で七、八人。大半は二年二組の男子生徒だが、他のクラスの子も居るようだ。二列目に居る、痩せて背の高い、長髪にして恰好を着けたイケメンふう、あいつがこの悪しきグループの親分格だ。家が資産家の坊っちゃんだが、性格が悪く小学校からの苛めっ子なのだ。本当は、小学校を卒業して近隣の市街地にある私立の進学中学校に入ったのだが、中で何かやらかしたらしく、放校処分になり、舞い戻って来て、市の公立中学に一年の三学期時に編入して来たのだ。そしてあっという間に、自分を頂点とする不良グループを作ってしまった。愛子はその、同級生の出来損ないボンボン、西崎慎吾をダニみたいな奴だと思った。

 背中を、突っ張りでも入れるようにトーントーンて押されて、無理やり前進させられてる子は、同じく二組のいつも苛められている子だ。確か、後能君とかいった。新学期の始め、西崎に苛めにあったことを担任の先生に話し、それからは不良グループの彼に対する苛めがエスカレートして、毎日が西崎らの苛めの餌食となってしまった。

 一団は、用務員の寝泊りしている家屋と用具倉庫との間に入って行った。日中、用務員が家に戻ることはほとんどない。倉庫裏は学校内の死角場所だ。一日中ほぼ、誰も来ないだろう。それに、高台の端の崖上フェンス内の位置で、学校外からはヘリにでも乗らない限り見られることはない。日中は完璧な死角なのだ。誰にも見つからない見えない場所で、また陰惨な苛めが行われるのだろう。

 愛子がゴミ置き小屋から顔半分を出して、苛め現場を覗こうかと考えたが、もし西崎らに見つかったら、今度は自分が、不良グループの陰惨な苛めの餌食となるだろう。自分は中二の女子であり、西崎らは思春期を迎えた男子生徒だ。何をされるか解ったもんじゃない。しかし、この場から立ち去ろうにも今、逃げ出そうとここで動くのは却って存在に気付かれ見つかる惧れがある。苛めの餌食にされている二組の男子、後能君には悪いが、愛子は一刻も早くこの場から離れたかった。そして、本当に後能君は気の毒だし悪いのだけれど、この場を離れた後、誰か先生に通報する気持ちもなかった。現に今の後能君が、西崎の自身に対する暴力を通報したばかりに、それから毎日毎日休みなく、陰惨な苛めというリンチの憂き目が続いているのだ。通報した先生が、何処まで庇ってくれるか解らない。西崎の家は、このあたりの地域でいくつも会社を経営する大金持ちで、役所や学校などにも顔が利く、この地方のちょっとした有力者だ。愛子は、普通に正義感も同情心などの優しさも持つ素直な良い子だったが、賢く計算的な面もあった。中学生なりのモラルを持ち、この場合は苛め行為を止めに入るか、それが敵わなければ誰か教諭を呼びに行くべきだと、よくは解っていたが、何せ相手が悪過ぎる。やはり、西崎とそのグループは恐い。愛子は自分の身が可愛く、今回は見て見ぬふりをすることに決めた。

 高台にある中学校の敷地、最裏側の切り立った崖の上に張られた、高いフェンス塀。そのフェンスと、用務員宿舎と並ぶ用具倉庫の裏側との間、幅二メートル少しの狭いところに、不良グループ7人くらいと、二組の後能君が居る。愛子は見つからないように、ゴミ置き小屋の角と雨樋の隙間から、そっと覗いてみた。真ん中に後能君を正座させて、不良グループが立ち、取り囲んでいる。愛子は、不良グループ全員が苛め行為に夢中になっている間に、逆方向へと逃げようと考えていた。後ろをふり返り、逃げ道を確認する。特別教室棟の建物、反対側端まで行くのだ。途中までそろそろと逃げ足で、後はダッシュで建物の向こうへ回ろう。きっとうまく行く。

 不良たちは、取り囲んだ生け贄の獲物、後能君を、頭をはたいたり蹴ったりして面白がり、苛めに興じている。今だ! そう思って後ろを向き、何気なく視線を上に向けた。 「あっ!」 愛子は思わず、小さく叫んだ。何と、二階建て特別教室棟の屋根に、犬が居るではないか。それも二匹だ。愛子が、いつの間に‥、と思う間にも、ポンッと地面に着地した。どちらも音もなく、実に軽やかに降り立った。愛子は、また声を上げそうになって堪えた。愛子のところから5、6メートル程の位置に立つ、二匹の犬の大きさは違うが、片方の白い大型犬はいつかの日、愛子と和也が市民公園からの帰り道、通り魔に襲われたときに助けてくれた、あの時のあの犬だ。間違いない。こんなところで会えるなんて! 愛子は感嘆し、すぐにでも和也に教えてやりたい気持ちだった。手前に居る、もう一匹のやや小型の茶色い犬は何だろう、あれがいつか和也が話していた、もう一匹の不思議な犬なのだろう。

 小さな方の茶色の犬がこっちを向いた。愛子は犬と目が合って、何だかどぎまぎした。愛子の目を見る犬の目は、実に穏やかで、まるで物わかりの良い人間のようだった。愛子は悟った。この目は、人間のように知性のある目だ。愛子は確信した。この犬は人間のように知性があるに違いない。犬は愛子から視線を外した。もう一匹の白い大きな犬はこっちを見ていない。二匹の犬は目配せをした。愛子には解った。この犬たちは、まるで共同作業の二人の人間がするように、お互いを察し合っているのだ。同時に二匹の犬は首を上げ、上を向いた。驚嘆で身体が硬直して、愛子は動けなかった。愛子の目の前で、二匹の犬は、まるで風に乗るように、重さが感じられなくフワリと浮いた。かと思うと、二匹とも同時に用具倉庫の屋根の上に着地した。愛子は口をあんぐりと開けたまま、両の目もいっぱいに見開き、4メートルくらいの高さの屋根に立つ、二匹の犬をじっと見上げていた。

 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ(8)に続く。

◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
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