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「60センチの女」-上村一夫・作画-

 売れない漫画家、というか売れる売れない以前に漫画家になってる訳でもないような、漫画原稿を出版社に持ち込んでは返されてる、漫画家志望の無職の若者、新沼健二は木造オンボロアパートの、六畳だろうか四畳半だろうか、風呂なしトイレ共同の部屋に1人で住んでいる。

 漫画を描いて出版社に持ち込んでも取り上げて貰えず返されるだけだから収入がなく、アルバイトもしていない。頼りは田舎の親からの仕送りだけど、それも実家の事情で仕送りが途絶えた。

 田舎の農家の母親は父親が病気で倒れたので、家計が苦しくなっているし、漫画家の見込みがないのなら田舎に帰って来て故郷で働けと、手紙で再三帰郷を促して来る。

 そんな今でいうニートの新沼健二のオンボロアパートの棟の隣の、同じようなアパートの棟に若い女性が越して来た。

 越して来たセクシーで魅力的な女の、隣のアパートの住まいの部屋の窓と、貧乏無職の新沼健二の部屋の窓とは間の空間がたったの60センチしかない。健二はなけなしの金で買ってあるパンと牛乳で朝食をふるまい、彼女とご近所として親しくなる。

 “60センチの女”はスタイル抜群の美人で、新沼健二はそのセクシーさにそそられっ放しなんだけど、彼女とは友達関係にはなっても恋人関係とかエッチなことをする関係にまではなることはできない。彼女の方はクールそのもので、健二を恋人男性としては全く見てなくて、性愛的な意味でのその気は全くない。

 “60センチの女”は冷静沈着、クールだけど、おおらかそのものであけっぴろげで、大胆で行動力がある、ミステリアスな美貌の若い女だ。

 健二はあけっぴろげな彼女にいつも発情しているが、彼女の方には全く性的な関心はない。彼女は現代人としてはかなりの世間知らずの人間だ。

 健二は“60センチの女”とご近所の仲良しの友達となり、健二はこの世間のいろいろなことを教え、彼女は“謎の女”として不思議な力でそれとなく健二を助ける。

 彼女は職を捜し賃金が高いので割りの良い、キャバレーのホステスをやって稼ぐ。金に無頓着な彼女は眠っているときに健二に金を盗まれても気にしない。健二はその金で貧窮生活が助かる。その金でパチンコしてすっちゃうんだっけかな。

 そういえば、悪徳編集者にタカられて、飲みに街に出て、街角で偶然、老客を送る“60センチの女”に出会い、金がないと言う健二と編集者のキャバレー代を金持ち老客に奢らせるシーンとかあったな。

 健二は向かい窓の部屋の女を「キミ」って読んでるんだよな。物語の中での不思議な彼女の名前は何て言うんだろう。“60センチの女”がちゃんとした名前で呼ばれることはない。健二は「おーい」とか「ヘイ!」とか「ヨォ!」としか呼ばないし。あとは「君」だけ。

 健二や健二を訪問して来た人たちに何かのっぴきならない危機が訪れたとき、おんぼろアパート二棟の上空、アパートの間の隙間から覗く天空にUFOが現れる。かなり近い上空にUFOが現れて突然消える。健二はそれをたびたび目撃する。その後、健二たちの危機は解決する。

 “60センチの女”は数人の暴漢をいとも簡単にのしちゃうほど腕っぷしが強いし、健二の気付かないところで不思議な超能力を使える。

 健二を心配して高齢の田舎者の母親がアパートに訪れる。“60センチの女”は健二の母親をもあれこれ世話をしてあげる。

 デキが悪く不甲斐ない息子を心配ばかりしてる母親は、しっかり者の“60センチの女”に健二の嫁になってくれないか、と頼む。女は、それはできない、と断る。

 “60センチの女”はまるで健二の母親のように姉のように、情に流されることのないクールな態度ではあるけれど、表でも陰でも、健二を励ましたり助けたりしてる。彼女のクールな態度は一貫してるけど姉御肌で面倒見の良い面を持つ。

 新沼健二と“60センチの女”は彼氏·彼女の恋愛関係ではなく、無論、夫婦のような関係でもない。見方によっては母親や姉のような面倒見の良さで接している。健二の方は性的な対象として興奮することも多いけど、ご近所の友達で止まっている。二人の仲は男女の親友に近いかな。

 コメディータッチで、都会にいそうな情けない貧乏若者の独身男性の日常生活を描いた漫画、という面が大きいけど、一方、主人公·健二の、ある種相棒のようなもう一人の主人公、“60センチの女”は自分から正体を明かすことはないけど、超能力を使ったり、ときどきUFOが現れたり、どう考えても宇宙人で、そういう面ではSFコミックとも言える。

 健二と彼女が二人で海水浴場の海に遊びに行くシーンのとき、広々とした海の遠くを眺めながら、彼女が涙を流すと、涙のひと粒に、とある惑星が寿命なのか何か自然異変なのか科学の大規模暴発なのか、惑星ごと破壊してしまうシーンが映る。そしてその後、爆発した惑星から逃れる一艘の宇宙船が映り、宇宙船の内部の様子が映る。宇宙船の内部の席に固定された大勢の中に“60センチの女”の姿もある。

 彼女がどういう理由で地球にやって来たのか、を読者に説明する場面を詩的に表現している。無論、健二も誰も登場人物はそのことは知らない。彼女はミステリアスな、謎の魅力的な女のままで物語は進行する。

 あ、そうそう、“60センチの女”は地球の食べ物はラーメンでも何でもおいしく食べてるんだけど、キャベツが大好きでキャベツを主食みたく丸かじりで食べる。部屋に大玉キャベツのストックが山になってて、終いには近くに畑を作ってキャベツを育てるんだっけかな?何かそんなシーンもあったよーな。

 「60センチの女」は双葉社の青年コミック誌「週刊漫画アクション」の1977年9月から78年11月まで連載されました。

 僕は双葉社の青年コミック誌「週刊漫画アクション」を自分の20代、ずーっと愛読してましたが、毎週欠かさず購読していたのは多分、1985年までだと思います。ひょっとしたら1986年まで読んでたのかも知れません。

 ただ「週刊漫画アクション」を毎週購読し始めたのが70年代後半のいつからだったかはっきりしないんですね。「60センチの女」は当時面白く愛読していて、多分、新連載から連載終了まで欠かさず雑誌連載で読んでます。後にアクションコミックス単行本全6巻で再読してます。

 「60センチの女」の新連載が1977年9月ということは、77年にはもう「週刊漫画アクション」を毎号購読してたのかな。小学館の「ビッグコミック·オリジナル」は1976年から毎号購読してました。これははっきり覚えてます。ビッグ·オリジナルの方は76年7月から連載が始まった「少年の町ZF」が大好きで、毎号楽しみにしていて続きが待ち遠しかった。

 僕の20代前半の記憶に、「週刊漫画アクション」に連載されてた「武夫原頭に草萌えて」という漫画を、当時の西武線沿線·江古田の街の裏通りの定食屋で、カウンターに置いてた汚れた雑誌のアクション誌上で読んで、凄い面白いと感動して、この続きが読みたいと、そこから「週刊漫画アクション」を毎号購読し始めた、というエピソードがあったのだが、調べると「武夫原頭に草萌えて」のアクション連載開始は1977年の12月からだ。

 僕はアクション連載の「60センチの女」をアクション誌上で最初から最後まで読んでいる。ということは、僕が江古田の定食屋で初めてアクション読んで、掲載の「武夫原頭に草萌えて」読みたさにそれからアクションを毎週買い出した、というエピソードは記憶違いだということになる。この記憶が思い込み間違いだということだ。

 昔の記憶ってけっこうそういうのあるよね。思い込み違いしてる。まぁ、しかし、二十歳前後の思い出だとすれば四十数年前の記憶だしな。年寄りになってから思い返してる若き日の思い出だし。

 まぁ、どっちでもいいですけどね、上村一夫先生のSF風味の生活コメディー劇画「60センチの女」は、当時、僕は毎回面白く読んで大好きな漫画の一つでもあった。だから雑誌連載で一度全編読んでるのにコミックス単行本が出る都度、新刊買って読み直してる。コミックス全6巻持ってたし。多分、本は引っ越しの際、捨てちゃってるんだろうけど。

 僕の20代前半、東京、今の西東京市の西武線沿線保谷駅から歩いて5分のアパートに住んでいた、都会のサラリーマン生活時代。懐かしい。

 若い時代、さっぱりしてて冷静沈着、姉御肌で面倒見が良く、知的そうで万能な、セクシー美女が直ぐ近くに居て親しい友達付き合いできれば、と、いやいやモロに恋人付き合いできれば、と空想的憧れを持って漫画を愛読していたのかも。

 それは、ヒロシに取っての怪物くん、ケンイチに取ってのハットリくん、のび太に取ってのドラえもん、新一に取ってのミギーみたいな存在が自分にも欲しい、という空想的憧れだったのかも。

 だから恋人としての万能美女が欲しい、というのでは、ちょっと違っていたのかも知れない。

 上村一夫先生の作品は上村先生オリジナルの作品もいっぱいありますが、いわゆる“原作付き”も多いですね。原作者の書いたストーリーがあって、上村一夫氏が原作ストーリーに沿って作画して、漫画に仕上げる作品。

 この時代は劇画全盛時代で上村一夫作品も劇画として扱われていたのかな。青年コミック誌、成人コミック誌に掲載される漫画は当時はほとんど、劇画と呼んでいたんじゃないかと思う。当時隆盛だったエロ漫画雑誌に掲載される漫画も、エロ劇画と呼ばれてたし。

 上村一夫劇画の原作付き作品の、原作者で多かったのは、小池一夫氏、真樹日佐夫氏が多かったですね。その他にも超売れっ子作詞家の阿久悠氏の原作作品も初期に多い。他に、笹沢左保、滝沢解、西塔紅一、梶原一騎等々多数。元ヤングコミックの編集者だった岡崎英生氏の原作も多いなぁ。やまざき十三、関川夏央、矢島正雄原作などもありますね。

 週刊漫画アクション誌上で「60センチの女」の連載が終了して直ぐ、「星を間違えた女」がアクションで1978年の12月から始まり、80年の3月まで連載が続きます。「星を間違えた女」も「60センチの女」同様、上村一夫先生オリジナル作品です。

 人気連載作品だった「60センチの女」の内容が読者にとてもウケていたので、続けてアクション誌面に連載される上村一夫作品も、設定が同じような漫画になっています。

 ぶっちゃけて言うと「60センチの女」の主役が地球にやって来た宇宙人の美女で、続けて連載された作品「星を間違えた女」の主役もキャラクターの個性は変えてあるが、同じ地球に舞い降りた宇宙人の美少女です。

 70年代80年代、上村一夫氏の漫画はどの雑誌にも連載や短編掲載が載ってるような引っ張りだこ状態で大人気でした。ほとんどが青年コミック誌だと思います。成人コミック誌にも載っていたけど。少年誌ではあんまり見掛けなかったなぁ。

 上村一夫先生は1986年の1月に惜しくも45歳という若さで亡くなられた。武蔵野美大デザイン科卒でもともとイラストレーターとしてデビューしてた上村先生の劇画のタッチは独特で魅力的でした。あの絵柄は、同時代に同じようなタッチの同業者を見なかったし亜流も生まなかった。独特の天才の絵柄は、なかなか他の者が真似できなかったんでしょうね。

 

 “ヒルのようなぬるっとしたなまめかしさ”と評されたんだっけかな、上村氏の描く“美女”の独特な魅力。当時は、あの“美女”の描画に魅せられたファンは数多く居て、僕もその一人でした。そのなまめかしさと躍動するときのセクシーな魅力。あの絵柄にも魅了されて愛読してましたね。

 僕の好きだった上村一夫劇画には、「修羅雪姫」など小池一夫氏原作の作品も多いのですが、真樹日佐夫原作の「おんな教師」「ゆーとぴあ」が好きだったなぁ。

 真樹日佐夫氏原作のストーリーは真樹氏独特の趣向や味が如実に表れるものなのに、原作者が真樹氏だと解らせないほど、上村一夫氏の画風、タッチ、独特の作画力·構成などの才能がありましたね。

  

リリシズム―上村一夫の世界

蛍子―昭和抒情歌50選 (上) (fukkan.com)

上村一夫 美女解体新書

60センチの女【分冊版】1 (マンガの金字塔)

 

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漫画・・ 「ターゲット」

 園田光慶先生のアクション劇画、「ターゲット」。貸本出身の園田光慶氏は、貸本時代からその描写力に定評があり、特に貸本時代の代表作の一つ、「アイアンマッスル」シリーズでのアクション描写は、当時は革命的とまで言われた程でした。「ターゲット」は、小学館の週刊少年サンデー、1969年20号から連載が始まり、70年24号まで掲載され続けました。園田先生の週刊少年サンデー連載では、「ターゲット」以前に戦記漫画の「あかつき戦闘隊」があります。「あかつき戦闘隊」は相良俊輔氏の原作付きでしたが、「ターゲット」は園田光慶氏オリジナル作品です。アクション劇画は貸本時代からの得意分野で、「ターゲット」も、その派手なガンアクションの場面描写に迫力がありました。

 平凡で平和なサラリーマン生活を送っていた主人公の男が、出張中に、両親と妻子という一家惨殺の報せを受ける。緊急に帰宅し、家族と家庭を奪われた事実を突き着けられ、男の精神は奈落の底へ突き落とされて、黒髪が真っ白に変わる。主人公は、自分の最愛の家族を奪った鬼畜の如き殺人魔に復讐を誓う。

 本編の主人公、岩神六平の家族を惨殺した犯人が、実の弟だと知り、六平は、弟・徹二を捜索する。徹二のことを調べていると、アフリカの企業に勤める男の姿が浮かび上がり、六平は単身アフリカへと渡る。

 アフリカで徹二の姿を見掛けたが、徹二を追う内に、六平は、当地の警察に殺人事件の容疑者にされて連行される。無実の罪を掛けられ、絶対に脱獄不可能と言われる監獄の島「終身島」へと送られることとなった。

 終身島を支配する、地獄の看守長ヤコブに寄り、六平は拷問のような扱いを受け、ボロボロにされる。家族を惨殺されたことへの復讐に燃える六平は、一刻も早く、弟・徹二を探し出すために、監獄島からの脱獄を考え続ける。

 獄中で知り合ったジャーナリストの男の協力を得て、死亡をよそおい、六平は、何とか監獄島からの脱獄に成功する。

 ジャーナリストに誘われたニューヨークの組織で、負傷した身体の治療をして貰い、そのときに右手の拳の人差し指と中指の第一関節に、ダイヤモンドの塊を埋め込まれる。この組織で殺人マシーンとなった岩上六平は、終身島監獄の悪魔看守長でもあったヤコブと、六平の家族を惨殺した弟·徹二の所属する犯罪組織に敢然と挑むのであった。銃撃と格闘の舞台は、ニューヨーク-アフリカ-日本と繰り広げられて行く…。

 というのが、だいたいの「ターゲット」のストーリーの流れです。「ターゲット」は劇画作家・園田光慶氏が貸本時代に得意とした、ハードボイルド拳銃・格闘アクション劇画ジャンルでの、大手人気雑誌での連載巨編です。

 貸本時代は、ありかわ栄一名義で貸本劇画を描いていた園田光慶氏は、1963年の週刊少年キング誌上で久米みのる氏の原作付きで、「車大介」という柔道漫画で、ありかわ栄一名義のままメジャー雑誌デビュー。初の雑誌連載作品でした。ここからは貸本漫画の執筆と平行して、メジャー雑誌でも主に原作付きで連載漫画を描いて行く。

 「車大介」の後、同じ週刊少年キング誌上で同じく久米みのる氏の原作付きで、1964年に「巨人ジャンロ」~「ホームラン探偵局」の二本の連載を描いてます。また、キングと同じ出版社発行の月刊誌、少年画報に1965年、「月影三四郎」という柔道漫画を四回連載しています。66年には、週刊少年キングで読み切り短編の「アイアンマッスル」と「ゴム人間」というアクション劇画を掲載しています。「ゴム人間」は66年の別冊少年キングにも、読み切り短編で発表しているようですね。同じく66年、講談社の月刊誌、ぼくらに「ガードマンセブン」を描いています。これは四回の連載かな。

 

 67年の週刊少年キングに怪獣もののTV特撮ドラマのコミカライズ、「怪獣王子」を連載。これは67年いっぱいくらい連載で描いたのかな。67年11月頃から週刊少年サンデー誌上で、相良俊輔氏の原作付きで「あかつき戦闘隊」の連載を始め、この戦記漫画はサンデー69年の四月頃まで長期に連載が続きます。

 そして「ターゲット」の週刊少年サンデー連載開始が69年五月頃で、この、オリジナル・アクション劇画の連載が70年五、六月頃まで続く。70年に入ると、梶原一騎原作で後にTVアニメ化されて大人気となるサッカー漫画、「赤き血のイレブン」を週刊少年キング誌上で71年五月頃まで長期連載をする。

 この間に雑誌の作品執筆は、短編読み切りの漫画も数多く描いてますし、また、漫画家デビューの貸本劇画は、1958年のデビューから67年頃まで貸本の各出版社から長編·短編を精力的に描いていますし、特に短編作品は当時の貸本オムニバス誌、「街」や「影」から「刑事」「ゴリラマガジン」「ヤングビート」「青春」などにまで、相当な数の短編を掲載しています。

 ペンネームをありかわ栄一から変えて、園田光慶の名前を使い始めたのは、1965年くらいからかな。園田光慶先生は、1960年代を通して精力的に漫画作品を描き、60年代十年間は大忙しだったでしょうね。

 「ターゲット」の主人公、岩上六平が物語途中で世話になる組織の中で、六平の右手の拳、右手人差し指と中指の第一関節にダイヤを埋め込まれるところがありますが、雑誌連載リアルタイムで本編を読んでいた頃は、何だかこういうことに憧れてました。ゲンコツを鉄よりも硬いダイヤモンドにすることができるんですから。この部分のシーンは大人になっても印象的によく憶えてました。

 小学生から中学生の時代、僕は漫画物語の中のヒーローたちに憧れ続けてました。SF 漫画のヒーロー、アクション劇画のヒーロー、学園漫画のヒーロー。とにかく「強くなりたい」という憧れ。勿論、喧嘩に強くなりたいという憧れも大きかった。僕は根は臆病な小心者で精神的に弱い子供でしたから、実際の喧嘩なんてほとんどしないですけどね。でも本心では「ああ喧嘩に強くなりたい」と妄想的に願っている僕は、学園漫画の中の喧嘩が超強い番長ヒーローに憧れました。

 常々、「喧嘩に強くなりたい」と妄想的に願っている僕は、「ターゲット」の主人公、岩上六平みたく拳にダイヤモンドを埋め込んだら強くなれるんだろうなぁ、と馬鹿みたく憧れました。超単純な考えで拳が武器になる、と思ったものです。

 大人になって解るのですが、拳に埋め込むダイヤモンドって、現実にはもの凄く大きなものですね。ダイヤモンドとしては超レアな塊で、宝石の値段としては10億じゃくだらないくらい高価なものになるんでしょうね。大人になってよく考えてみると、拳にダイヤなんか埋め込んでも関節の役目をしないから、指が動かなくなるし拳を強く握ることもできなくなる。当然武器になんてならないし、むしろ、スラム街みたいな危険区域に入ったら、強盗から、手首から切り落とされて拳ごと持って行かれるかも知れない。

 現実的に考えるとダイヤの塊を埋め込むというよりは、ダイヤを平たく薄く削って、平面にしたものを拳の関節に貼り付けるのが良いかも知れない。でもこれも実際は難しいでしょうね。拳の関節を可動させないとならないから、90度以上を自由に動く関節に、超硬度なダイヤを薄皮状に貼り付けるのは技術的に相当難しそう。

 拳に薄く削った一枚のダイヤを貼り付けるのが難しいなら、拳に小粒のダイヤを何個か埋めたらどうか、とも思うけど、そうすると殴ったときにその反動が拳に来て拳が痛くてたまらないだろうから、拳に通る神経を抜かなきゃならない。拳の神経を抜いてしまうとそれはそれで何か支障が来そうだし。

 そうやって考えると結局、一番良いのはメリケンサックですね。何もダイヤでなくていい、鉄製のメリケンサックで充分。拳のダイヤもメリケンサックも用途は同じことですもんね。

 漫画の中で復讐に燃える主人公の拳にダイヤの塊を埋め込んだのは、地球上の自然鉱石の中で一番硬いダイヤモンドを拳に埋め込む、というダイナミックな衝撃性を煽る、まぁ漫画演出の一つだったんでしょう。事実、僕みたいな低脳な少年は「おおっ凄えな」とか驚いて、「俺も拳にダイヤを埋めて喧嘩に強くなりてぇ」とか単純に馬鹿な憧れを持った訳ですからね。

 「ターゲット」が週刊少年サンデーに連載されていた時代、僕は中学二年生ですね。僕が六歳から十五歳まで住んでいた、商店街の中ほどにあった、当時親父が勤めてた電力会社の社宅の家の、前面に隣接した会社の事務所(営業所)の、通りを挟んで斜め前にある屋敷の次男の、同級の幼馴染みのMM 君の誘いで中学の剣道部に入り、MM 君が中一・三学期終了と同時に転校して居なくなって、毎日部活動としてやっていたけど、あんまり剣道の練習に熱意を持たず、ただ惰性で仕方なく剣道をやっていて隙あらば部活動を辞めたがっていた、僕を剣道部に引き留めてくれていた友達が居なくなって、中二に上がって一学期までは何とか放課後の部活動に出ていたけど、毎日毎日、部活動が嫌だ嫌だと剣道を辞めたい気持ちが募るばかりで、その内、放課後は逃げるように下校するようになり、ついに中二·一学期中に剣道部を辞めてしまった。

 だいたい、中学生時の僕は部活が嫌いでしたからね。トレーニングは独り黙々と身体を鍛えるのは大好きなんだけど、子供時分から集団で運動することが何か苦手であんまり好きでなかった。特に部活は上下関係もあるし、何か集団の中の規律みたいなものが嫌だった。上下関係の厳しい集団の中で、根性とか精神力を強調され、ムリムリにキツい練習を強要されて運動するのが嫌で嫌でたまらない僕は、本当に部活とかが嫌いでした。でも自分独りでトレーニングするのは好きなんですよね。自分がやりたくて一人でやる運動はけっこう長時間でもやれる。けど、集団の中でやらされる厳しい練習は嫌だった。

 だから、当時、いつも僕を剣道の練習に誘ってくれて、僕が練習に行きたくないと言って部活を辞めたがるのを引き留めてくれた、MM 君が転校して居なくなると、タガが外れたように部活を辞めたい気持ちが噴き出して溢れ返り、毎日放課後逃げたい逃げたい気持ちが募り、実際、放課後直ぐに逃げるように帰宅し始めた。そしてめでたく中二の一学期中に剣道部を辞めた。正式に辞めたというよりはズルズル辞めて、中二の二学期から完全に部活に行かなくなった。勿論、中二の一学期は部活の先輩から殴られたりしてました。殴られると余計辞めたくなってた。

 中二の夏休みからは、たっぷり時間ができて、おおいに僕の内面的少年時代を堪能しましたね。僕は妄想·空想の鬼のような少年でしたから。幼児時代から少年時代を通して、独り遊びが大好きで、大いに漫画を読んでモノマネになるけど自分オリジナルの漫画を描いて、空想の友達と会話して(要するに独り言だけど)遊んで、その他にもイロイロ独り遊びに熱中してました。

 毎週の週刊少年サンデーで「ターゲット」を読んでいた中二の頃、僕はこういう少年時代を過ごしていました。僕は集団でやる部活は嫌いだったけど、一人でやるトレーニングは大好きだったんで、剣道部を辞めた後も家の庭で竹刀を振ってたし、家の中では毎日、腕立て伏せと腹筋とスクワットとブリッジをやって身体を鍛えていました。

 

  園田光慶先生は、貸本時代は1965年頃まで、ありかわ栄一名義で作品を発表してましたが、65年頃の貸本時代の代表作「アイアンマッスル」シリーズは園田光慶名義で発表かな。貸本時代はだいたいハードボイルド·アクション劇画が多く、「挑戦資格」は貸本単行本で全8巻になる、貸本時代のもう一方の代表作。六歳から十一歳頃まで毎日通った貸本屋では、ありかわ栄一のアクション漫画はよく借りた漫画本だったな。さいとうたかを·南波健二·ありかわ栄一の漫画はだいたい似たような作風のアクション漫画で、新刊があれば「ラッキー!」と喜んで借りていた。この三人の貸本漫画家は絵柄も似てたし。

 沢田竜治や旭丘光志のアクション漫画も好きでよく借りてたけど、この二人はまたちょっと作風が違ってた。都島京弥のアクション漫画は借りては来てたけどあんまり好きな画風じゃなかったな。川崎のぼるも貸本で描いていて、南波健二やありかわ栄一にタッチがよく似てたけど、貸本漫画での印象があんまりないな。川崎のぼる初期の印象は、少年ブックの西部劇漫画「大平原児」だな。

 貸本時代の「アイアンマッスル」で、拳銃アクション·格闘アクションの場面描写で、さまざまな“線”を駆使して、当時の漫画描写としては革命的な場面描写を発明した、ありかわ栄一(園田光慶)氏ですが、実際、園田先生の漫画の絵はムラが多く、一枚の場面を精魂込めて緻密に書き込んだ絵もありますが、明らかに手を抜いたような場面も多い。こういう言い方は失礼になるのですが、やる気まんまんで情熱込めて燃えて描いてるときと、やる気がなくて惰性だったり、まぁイヤイヤみたいな気分だったりで描いてるときと、漫画執筆時の気持ちの落差が大きいようにも見られるところがあったみたいですね。

 

ターゲット(上) (マンガショップシリーズ (12)) コミック 園田 光慶 (著)

ターゲット(下) (マンガショップシリーズ (12)) コミック 園田 光慶 (著)

ターゲット (1) オンデマンド版 [コミック] オンデマンド 園田 光慶 (著)

怪獣王子〔園田光慶版〕【上】 (マンガショップシリーズ 376) コミック 園田光慶 (著)

  

 園田光慶先生の作品年譜を調べていたら、1967年の月刊誌「ぼくら」の分厚い別冊ふろくに園田光慶先生作画の「ファントマ黄金作戦」があるのを見つけました。この分厚い別冊ふろくはおぼろに記憶しています。確か、B 6判別冊だけど150ページ近いような分厚い別冊ふろく本で、この「ファントマ黄金作戦」は読み切りです。この厚さだと、中編かな長編部類に入れていいのかな、とにかく読み切り別冊でした。

 戦後に生まれた少年月刊誌は、昭和30年代に入ると、B 6判の薄い冊子の別冊を何冊もふろくで付けるようになりました。昭和30年代半ば頃はこのスタイルがピークで、別冊ふろくの数が6冊7冊から多いときは10冊くらい付いてた。別冊全部合わせると本誌よりも厚いなんてザラでした。62年63年頃から、月刊誌の別冊ふろく競争が落ち着いて、少ないときで3冊、多くて5冊、まぁ4冊のときが一番多かったかな。

 

 これが1966年頃になると、各少年月刊誌はB 6判の薄い別冊を何冊も付けるのをやめて、別冊ふろくをB5や変形B5、A5判の厚い一冊本にしました。一冊の厚い別冊ふろくに四、五本の漫画が収録されてる。何々コミックスと名前を着けて。例えば少年画報の別冊ふろく本は少画コミックス、「少年」の別冊ふろくには「少年パンチ」って名前が着いてた。少年ブックにグランプリコミックスっていう大型別冊が付いてたこともあったな。

 月刊誌「ぼくら」には66年頃からB 5判の大型別冊が二冊くらい付いていて、これは、68年以降の月刊·冒険王も別冊ふろくはこのスタイルで、毎号二冊くらいのB 5判大型別冊が付いてたけど、67年68年頃の「ぼくら」には、B 5判別冊の他に、読み切り中·長編が収録された分厚いB 6別冊が付いてた。B 6で小さいけどエラい厚い別冊ふろく本。

 この形の分厚い別冊ふろくの読み切り漫画で、1967年「ぼくら」の新年1月号に、怪獣漫画の「南海の大決闘」、6月号に「ファントマ黄金作戦」が付いて、この両中編(長編)漫画の作者が園田光慶氏でした。僕は講談社発行の月刊誌「ぼくら」は63年から65年までは買ったり買わなかったりだけど、66年からは毎号欠かさず購読してたんで、「ファントマ黄金作戦」の方は記憶があるんだけど、1月号ふろくの「南海の大決闘」は憶えてないなぁ。この67年1月号の「ぼくら」を買ってるのは間違いないんだけど。一峰大二氏作画の「ウルトラマン」の大型別冊を覚えている。67年1月号の「ウルトラマン」は、赤い怪獣バニラと青い怪獣アボラスの巻。確か、古代に封じ込められたカプセル内の液状の怪獣がよみがえって、都市を破壊するのをウルトラマンが止めて、二大怪獣を退治する話。12月号がバルタン星人で2月号がゴモラ。

 園田光慶作画の「ぼくら」67年1月号別冊ふろく「南海の大決闘」は、東宝のお正月映画「ゴジラ·エビラ·モスラ 南海の大決闘」のコミカライズ漫画で、映画の方は僕は見てます。当時、僕の家の斜め前が邦画のロードショー館で、僕は当時小五ですね。小学生時代の僕はしょっちゅう斜め前の映画館で邦画を見てた。

 「ファントマ黄金作戦」も多分、映画のコミカライズなんでしょう。「ファントマ黄金作戦」というタイトルの映画は当時なかったけど、フランス映画のシリーズで「ファントマ」という怪盗を扱った洋画が当時公開されてました。

 フランスで制作されたアクション映画シリーズが、1964年「ファントマ危機脱出」、65年「ファントマ電光石火」、67年「ファントマミサイル作戦」の三本。この映画シリーズのコミカライズで園田光慶作画で描かれた漫画が、67年「ぼくら」6月号ふろくの「ファントマ黄金作戦」なのでしょう。

 「ファントマ」のシリーズは、もともとは古いフランスの娯楽小説で、怪盗ファントマの暗躍を描いた、まぁ、「怪盗アルセーヌ·ルパン」みたいな小説ですね。一種の探偵小説かな。1911年から1913年頃のフランスで書かれた大人気の娯楽小説のシリーズ。かなりの本数出版されたシリーズらしいですね。1911年は日本の元号だと明治44年。「ファントマ」のシリーズは第二次大戦の前後も書かれてますね。この小説を原作として60年代に作られたカラー映画が、上記三本のフランス娯楽映画ですね。園田光慶氏の「ファントマ黄金作戦」は三本の映画のどれかを原作として描かれた漫画作品なのでしょう。映画原作のオリジナルストーリーか。僕はこの別冊ふろくは記憶してますが、内容までは覚えてません。ストーリーなどは全く覚えてないですね。

 

  小·中学生の子供時代、僕は邦画はよく見たけど、洋画はほとんど見ていません。TV で放送される、洋画劇場みたいな番組でも、ドラキュラみたいな怪奇映画は見てたけど 、他のジャンルの洋画はほとんど見ていない。だからフランス映画の「ファントマ」のシリーズも見たことない。園田光慶氏の漫画は内容は全く覚えてないけど読んでることは間違いないですね。 

 当時、「ファントマ」と似たようなシリーズで「黄金の七人」という映画のシリーズがあったけど、あっちはイタリア映画ですね。主演女優のロッサナ·ポデスタが超セクシーな魅力的美女でした。「黄金の七人」の方は後に、作品のどれかをTV 放送で見てるかも知れない。

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●漫画・・ 「喜劇新思想大系」

 山上たつひこの代表作といえば、文句なく「がきデカ」ですが、山上たつひこ先生が「がきデカ」を週刊少年チャンピオンで執筆を始める前に、山上たつひこがギャグ漫画を描くきっかけとなった漫画作品が、この時代、マイナーな成人漫画誌だった「漫画ストーリー」に連載されました。山上たつひこの長編連作コメディー漫画、「喜劇新思想大系」です。この漫画はジャンル的には、ストーリー漫画とギャグ漫画の中間のような作風の、コメディー漫画ですね。それまでの“ギャグ漫画”とはまた違う作風の、勿論、“笑い”が主体なんですが、コメディーとして描く、等身大の青春群像劇、といった漫画ですね。下ネタの多い低俗ギャグ味を盛り込んだ、ユーモア青年劇画、かな。爆笑のストーリー漫画、と言っても良いと思う。

 「漫画ストーリー」は、双葉社が1962年から刊行していた成人向け漫画誌で、何て言うのか、いわゆる“B級雑誌”ですね。60年代末頃に雨後の筍のように、たくさんの青年劇画誌が誕生しますが、その前までにあった、大人が読む、何て言うか、低俗味と言うと怒られるかな、まあ、B級雑誌ですね。双葉社の「漫画ストーリー」が定期刊行されていたのは、62年から74年までで、山上たつひこ氏の「喜劇新思想大系」が連載されていたのは、72年7月から74年3月までの二年弱です。「喜劇新思想大系」は、姉妹誌の「別冊漫画ストーリー」でも掲載されていたようですね。

 僕が「ビッグコミック」や「漫画アクション」などの、青年劇画誌を読み始めるのは、76年くらいからですから、この「漫画ストーリー」や「別冊漫画ストーリー」は読んだことがありません。もともとあんまり、俗に言う“エロ漫画雑誌”は読まない方だったし、はっきり言って「漫画ストーリー」が売れていた時代は、僕はまだ子供から少年期ですからね。

 「漫画ストーリー」の休刊(事実上の廃刊)と「喜劇新思想大系」の連載終了が同じ、1974年三月頃ですから、掲載誌廃刊と同時に、一緒に漫画も終了したのかも知れないですね。60年代には成人漫画雑誌がいっぱいありましたが、60年代末頃の貸本終焉でたくさんの貸本漫画家が、青年劇画誌とエロ漫画誌に移って行きました。60年代にあったB級成人漫画誌は廃刊になったか、エロ劇画誌化して行きましたね。70年代は、青年劇画誌とエロ劇画誌の黄金時代でした。まあ、80年代も続いてはいましたが、勢いは落ちたかなあ。80年代後半頃には、エロ劇画誌は衰退して行きましたね。70年代には、“三流エロ劇画ブーム”というのがありましたしね。

 もともと、貸本出版の日の丸文庫の社員だった山上たつひこ氏は、日の丸文庫が定期刊行していた貸本劇画オムニバス誌、「影」などに短編作品を載せていました。貸本終焉と共に、週刊少年マガジンなどのメジャー少年誌に移って作品を描きます。中でも、1970年の週刊少年マガジンに連載された、ポリティカルロマン大作「光る風」は、当時話題になった佳作です。この時代の現代が、軍国主義体制になったなら…、というシリアスな怖さを描く、やはりSF かなあ。連載当時は一部で話題になったけど、マガジンの毎週連載は後ろの方だったから、ちょっと難しくてあんまり読者人気は得なかったんじゃないかなあ。けど、名作の誉れ高く、何度も復刻されて刊行されてる漫画ですね。

 正直言うと、僕は頭の悪い子供でしたから、この漫画はあんまり熱心に読んでないなあ。頭の悪い中学生にはちょっと難しかったのかな。60年代末から少年雑誌で描き始めた頃は、山上たつひこさんの作風は、貸本時代もそうですが、SF やスリラーとかサスペンスものが多かったですね。たまに実験作のように、ストーリー漫画の体裁で“笑い”を描いた短編なんかも発表してた。これも、ギャグとしては“ドタバタ”でしたね。「光る風」は長編漫画ですが、少年雑誌デビュー当時はストーリー漫画の短編作品が多かったですね。

 貸本出身で、それまでSFやスリラー、サスペンスものを描いていた、ストーリー漫画家、山上たつひこ氏が初めて長編で描いたギャグ漫画、「喜劇新思想大系」はマイナーな雑誌の連載だったから、連載中はそれ程話題にもなりませんでしたが、氏のストーリー漫画の“絵”で描いたギャグ漫画の作風は、その後「がきデカ」で開眼する。開眼というか、あの作風は既に「喜劇新思想大系」で開眼し出来上がっているのだが、メジャーな少年誌で同じ作風で描くことに寄り、洗練される。貸本出身でまだ線が太くて荒い「喜劇新思想大系」に比べて、「がきデカ」は全体的に絵が整ってタッチが綺麗になる。

 少年チャンピオン連載の「がきデカ」は大人気・大ヒットするけれど、世間的にはPTA からやり玉に揚げられる。子供の読む漫画としてはあまりに下品・下劣と、良識的な世間から大バッシングを受ける。

 「喜劇新思想大系」のギャグ味は“ドタバタ”ですね。成人向け雑誌連載だから、下品・下劣度は、少年誌連載の「がきデカ」よりも過激です。もう、いっぱい性交シーンが、まんま出て来ますしね。無論、局部は描きませんけど、自慰シーンも性交シーンも多いし、ヒロインはよく襲われそうになるし、ヒロインの性交シーンもあるし。まあ、何度も言いますが、局部は描いてませんが。下品性では、モロ、下ネタ・ギャグ漫画とも言えます。

 「喜劇新思想大系」は74年の春の連載終了後、最初にコミックス単行本として刊行されたのは、「漫画ストーリー」の出版元の双葉社ではなく、元々貸本出版社だった、コアな漫画専門雑誌「ガロ」を定期刊行している、青林堂からでした。青林堂からは全6巻でコミックス化されてますが、調べたら、雑誌連載中からコミックスとして刊行されてたようですね。僕が読んだのは、秋田漫画文庫版で、1978年か79年頃ですね。勿論、秋田文庫版で全編読みました。山上たつひこ最初の長編ギャグ漫画も、調度この時代、「がきデカ」「快僧のざらし」同様、大爆笑の内に読みました。この時代、僕は「がきデカ」と「快僧のざらし」の大ファンでしたが、タッチは荒いけれど、「喜劇新思想大系」も面白くて、声を上げて笑いながら読んだと思います。

 評論家の呉智英さんが、以前あるTV 番組で「山上たつひこは天才」と断言していました。呉智英さんは最近では水木しげる先生が93歳で亡くなられた折り、高名な国民的漫画家ということで、メディアでニュースとして大きく取り上げられましたが、その中のあるワイドショー番組で解説ゲストとして出演されてました。漫画評論家でもある呉智英さんは、若い頃、水木しげる先生の水木プロで資料整理の仕事をアルバイトでやっていたのだとか。呉智英さんは漫画評論の本も含めて、数多くの著作物を上梓されてますね。



 角川グループが刊行する月刊誌、若者向け体裁のあんまり難くない、総合文芸誌「ダヴィンチ」に、90年代末から2000年代初めに連載されたエッセイを、まとめて加筆修正して単行本として2002年に刊行された、呉智英氏の漫画評論本「漫画狂につける薬21」を、調度この当時読んだのですが、この中の一章に「喜劇新思想大系」が取り上げられていて、この評論エッセイの趣向は漫画を一作品取り上げると同時に、呉智英氏が件の漫画作品と共通するものを見出した、文芸小説作品一編を取り上げて、ジャンルの異なる二つのメディア芸術作品を比較しながらも、文芸も含めたメディア芸術としての、同じ“味わい”や“ツボ”を解説して行く、という試みの文芸評論エッセイ集です。



 評論本としては漫画一作品と小説一作品を、単行本のわずか4ページ弱で解説するので、当該作品を未読の読者には解りにくい部分も多いと思いますが、僕がこの本を読んだ当時は、漫画と文芸小説を同時に取り上げて共通項を示しながら、二つを評論する、という斬新な試みが新鮮で、面白く読みました。02年か03年頃に読んだとして、今から十何年も前ですけど。



 僕はそれほどの読書家ではないし、この本で取り上げている小説は、娯楽小説よりも純文学方面の文芸小説が多かったので、取り上げられている漫画の方は知ってる漫画ばかりだったのですが、これまで娯楽小説主体に本を読んで来た僕には、読んだこともなければ題名さえ知らなかった小説作品も多かったです。

 そんな中で、漫画作品「喜劇新思想大系」の対象作として挙げられた小説作品が、「吾輩は猫である」という小説で、これは僕は読んだ覚えのある文芸小説でした。というか、かの有名な夏目漱石の代表作の一つです。漱石の、日本文学のレジェンド作品ですね。

 僕が、漱石の「吾輩は猫である」を読んだといっても、中学生の頃の話で、しかも作品全編ちゃんと読んだ訳ではない。どういうことかと言うと、僕が中学生になって直ぐ、この当時は教育熱心だった母親が、小学生時代にあまりにもひどい成績だった僕に家庭教師を着けてくれた。もともと英語教師の年配の先生は、英語と数学を教えてくれて、集中力や根気のない僕も、家庭教師とのマンツーマンだとけっこう良く理解し、中一から英語と数学の点数がぐんと上がった。まあ、もともと頭が悪いから学年のトップクラスまでは到底行けなかったけど、英語と数学だけは、中の上か上くらいまでは成績が上がった。

 中二まで僕が家庭教師として習った年配の先生は、本来英語教師なので数学は実は疎い。数学も中一の三学期や中二になると、教えきれなくなった。数学の教科書の問題を一緒に考えてると、僕の方が先に問題を解くようになって来た。この先生の教え方はほとんど教科書に沿った予習で、学校行くと、英数の授業は家で一度習ってるから、もともと授業を聞かないガキなのに、ますます授業は聞かなくなった。解ってるからもうイイと、授業中は落書きしてるか窓外の景色見てるか。まあ、僕は幼少時から高校生まで、だいたい授業中は落書きか妄想か、だったけどね。

 僕自身、もともと英語専門である先生の、この年配の先生に数学を習っても、あんまりよく解らないから仕方がないな、と思って、母親から「数学はもうイイです」と言ってもらった。だが、後々考えるにこれは間違いだった。学校の勉強大嫌いな僕は、放っておいたら家庭学習なんて全くやらないのだ。問題の解けない先生でも一緒に数学の問題を考えることで、とても大きな家庭学習になっていたのだ。

 もともと家で勉強するの大嫌いだった僕は、英語の成績も上がったので、中二になってから母親に話して、この年配の家庭教師の先生を解任してもらった。つまり、家庭教師を辞めてもらった。これ、いつ頃だろう?よく憶えてないけど、中二だったことは間違いない。中二の夏ごろだろうか?憶えてないなあ。もともと放っておいたら全く勉強しない僕が、その後どうなったか、火を見るよりも明らか。英数の成績はぐんぐん落ちた。だから、中二の半ばまで学年成績で割かし良かったのに、中二の後半からは事情が変わった。

 英数を家で習って勉強着いたら、けっこう他の教科もそれなりにやるんだよね。定期試験前とかね。でも、家で全く勉強やらなくなると当然、英数以外は全くやらない。中二後半以降の成績はだだ下がり。

 でも、中二の途中で、家庭教師の先生に辞めて貰って良かったと思ってる。というのも、中二の終わり頃から、僕の家庭はかなり傾いて来たからだ。僕が中学上がったとき既に、家には借金があったけど、そこまで生活レベルは落ちてなかった。僕が中三になった頃から、しょっちゅう借金取りが家に来始め、中三の夏場くらいからは、明らかに闇金のヤクザな取り立てが来て、逃げ回っているオヤジが家に帰って来なくて、オヤジを待つという理由で、ウチの家にヤクザな取り立てが泊まり込むようになった。その後、刃物をかざして取り立てが来たりする。中三の夏以降は、家で頻繁に、夜を徹して債権者会議や親族会議が開かれる。オヤジは家に帰って来ないし、母親は憔悴し、時にはパニック状態で号泣するし、もう家の中がメチャクチャだった。当然この頃になると、家庭教師料なんて払えなかっただろうし、次々と借金取りが来てるのに家庭学習どころじゃないだろう。憔悴した母親や、家の中のただならぬ雰囲気も、家庭教師の先生は解ったろう。

 だから後々考えて、家庭教師の年配の先生に、家の中の修羅場や、ただならぬ雰囲気を感じさせずに済んで良かったな、と。やっぱり子供として恥ずかしいよ。家の中が壊れて行ってるの見られるのは。それに、しょっちゅう債権者が家に来てたから、子供が家庭教師雇って教え受けてるとか、そんな金があったら借金払えと文句言われるだろうし、それ以上に、家庭教師代が払えなかったかも知れないし。まあ、オヤジの籍が電力会社にある内は、母親が何とか遣り繰りしていたけど。

 僕が家庭教師の先生から逃げたのは、この先生は毎週日曜日の昼間に来てたんだけど、中二のある日、僕は、裏庭の板塀ごしに生えてる渋柿の木に登って降りて来なかった。日頃から母親に家庭教師やめたいと言ってたので、この日、母親が話してやめることができた。先生は最後に、柿ノ木の樹上の僕に向かって庭から見上げる格好で、挨拶してくれてサヨナラした。年配の英語教師、S先生とはそれが最後だった。まだ家が傾く前で、オヤジのド外れた放蕩も、僕にはまだよく解らない時期だった。オヤジが家に帰って来なくなるのは、僕が中三になってからだな。オヤジは、僕が中学卒業するまで電力会社に籍はあったが、あの当時、会社へは行ってたのかなあ。バーの女と遊びまわってて、まともに行ってなかったという気がする。

 で、この、家庭教師の先生に習ってた話がどうして、「吾輩は猫である」に繋がるのかと言うと、この年配の先生は来る度に、イロイロと古本を持って来てくれた。たいていは、僕よりも10歳下になる妹に、幼児向け雑誌を持って来てくれてて、みんな古雑誌だった。妹は生まれ着いて股関節脱臼していて、もう生後直ぐから石膏ギブスに入ってた。この、先生が妹向けに「めばえ」や「よいこ」などの幼児雑誌を持って来てくれてたのは、調度、妹のギブスが取れて、やっとヨチヨチ歩きができるようになった頃だ。

 そんな、S先生が持って来る古雑誌の中に、「中学生時代」や「中学生コース」の付録の小冊子があった。勿論、古雑誌の付録だ。これが「吾輩は猫である」だった。確かに夏目漱石の「吾輩は猫である」で間違いないんだけど、薄くて、途中をだいぶはしょって編集されたものだった。小学生時代は漫画しか読んだことなく、中学生になってやっと「名探偵ホームズ」のシリーズをほんの一、二冊読んだ程度の僕も、この薄い冊子の小説は読んでみた。多分、このとき、意外に面白かったものと思う。けど、これをきっかけに文学を読もう、などという気持ちにはならなかった。でも「名探偵ホームズ」のシリーズは、中学三年間で、学校図書館で借りてけっこう読んだ。ホームズものはあらかた読んでる気がする。

 ダイジェスト版という程は短くないけど、真ん中はしょった短縮版「吾輩は猫である」を読んで、最後は主役というのか、語り役の“猫”が水に落ちて死ぬところは、何とも言えないものを感じたのを今でも覚えています。漱石は青年時に他の長編も読みましたが、結局、「吾輩は猫である」完全版は未だ読んでいません。「吾輩は猫である」は小学生時代、僕の家の斜め前の屋敷に住んでた幼馴染みのMM君が、「吾輩は猫である」を読んで冒頭の十行くらいを暗誦できる、と言いに来たのを憶えています。彼は、僕にホームズものの「バスカヴィル家の犬」を貸してくれて、ホームズものの面白さを教えてくれた友達でした。

 中学生になって剣道部に入ったのも、MM 君の誘いだし、中一でもう、剣道をやめたかった僕を部活にとどまらせたのも、MM 君だったし、中一の担任のNS先生も家庭訪問のとき、僕の母親に「MM 君は非常に良い友達」だと言ったそうです。MM 君は学業成績も優秀で、必ず学年で10番以内には入ってました。本気で勉強したらトップも取れる頭だったでしょう。MM 君は、中一三学期が終わった春休みの間に引っ越して、僕を剣道部に引き留める者が居なくなったので、僕は中二の一学期までで剣道部を辞めました。中二で家庭教師もやめて成績が下がり、オヤジの放蕩も、僕が中三に上がる頃には、かなり激しくなり家の借金も増え、何か、僕の周囲の何でもが、悪い方へ悪い方へと転がって行ったような、この時期、そんな感じでした。

 僕の中三時、オヤジの放蕩は激しくなり、オヤジは嘘を言ってあちこちから金を借りて回り、オヤジの作る借金は膨れ上がり、オヤジは家に帰って来なくなり、バーの女に貢いで一緒に遊び回り、僕の中三の一年間はひどい状態でした。夜っぴて借金の債権者会議や親族会議は頻繁にあるは、次々と借金取りは来るは、ヤクザ者の取り立ては家に泊まり込むは、オヤジは人が変わってしまって、家の状態がおかしくなって、毎日の、その悪い雰囲気に反応して、頻繁に大泣きする幼児の妹を、オヤジは一度、怒鳴りながら布団にまるめてしまうは、精神的に疲れきって泣き続ける母親に、カッとなったオヤジが暴力を振るおうとするは、オヤジの変わりようはひどいものでした。まるで狂ったように人が変わってしまってた。後年、母親が、兄貴が居なければ、母親も妹もオヤジに殺されていた、と言ってたのは、高校で空手、大学でボクシングをやっていた兄貴が、オヤジの暴力を止めたからです。兄貴の足刀を喰らったオヤジはもう、何もできませんでした。母親がパニック状態で泣き叫んでるときに、オヤジにパイプ椅子を投げ付けて追い払ったのも、兄貴でした。このシーンは、オヤジも兄貴も身長180センチ以上もあって体格が良いので、まるでプロレスの場外乱闘を見ているようで、よく憶えてます。

 この辺りの話は、以前一度、当Blog、2013年3月の記事、漫画・・「虹をよぶ拳」..(2)で詳しく書き込んでますね。まあ、僕と我が家の黒歴史ですけど。ひどい黒歴史。

 まあ、昔の話ですからね。あの小冊子の「吾輩は猫である」は、中学生が読めるように書き下していたのかなあ?確かに“あれ”は読んだけど、文庫本でもけっこう厚い本編は未だ読まず、です。「坊っちゃん」とかに比べれば厚いよな。

 呉智英先生は、「吾輩は猫である」に出て来る、猫が居すわる屋敷の主人を、毎日のように訪ねて来る、知識人的な、いったい何をしているのかよく解らないような、理屈ばかり吐いて、世の中や人を批判ばかりしてる、暇人たちを、“高等遊民”と呼んで、漫画「喜劇新思想大系」の中の、これもまた何をして糧を得ているのやら、毎日昼間からブラブラしているような登場人物たちと、毎日遊んで暮らしているような、フワフワした人々、として、よく似た「同様の登場人物たち」と論じているのですけど。

  「吾輩は猫である」の猫の、やっかいになってる先生の屋敷に、毎日やって来る、教養があるが遊んで暮らしてるような連中もそうだけど、例えば「姿三四郎」とかにも出て来るけど、明治や大正の時代を舞台にした物語によく、「書生さん」て出て来ますよね。あの“書生”という若者たちは、食い扶持はどうしてたんだろう?“書生”というのが存在してたのって、戦前までかな?戦後も居たのだろうか?昔の「徒弟制度」が生きてた頃の、師匠に着く弟子ですよね。昔は、専門的な職業は学校に行くんじゃなくて、一人の“師匠”的な先生に着いた。だいたい、あれが「書生」かな(?)。昔は、小説家も徒弟制度でしたよね。「のらくろ」の田河水泡にも弟子が居たから、昔は漫画家も徒弟制度だった。学校の先生は師範学校があったからなあ。落語家の弟子も、書生っつうたら書生みたいなものですね。画家の世界も徒弟制度だったのかな(?)。

 「書生さん」は、師匠(先生)の家に住み込みかなあ。住み込みなら、先生が食べさせてたのか?それとも、実家が幾ばくか払っていたのか?昔は武道とかに「内弟子」ってあったしな。「姿三四郎」に出て来る内弟子は、住み込みかなあ?武道を習ってても「書生さん」だったのかな?「書生」という存在は、昭和30年代頃で消えたような気がする(?)。書生は、徒弟制度の中の存在ですよね。昭和の時代まで、漫才などお笑いも徒弟制度だったけど、今は、芸能プロダクションの経営するタレント養成所みたいな学校、高い入学金払って通って、卒業するスタイルになってしまった。演歌歌手はどうなのかな?昭和まではビッグネームの演歌歌手の付き人になったり、作曲家の家に住み込んだり、あれは徒弟制度でしたよね。

 「徒弟制度」を調べたら、もともとは、西洋史の中の、中世ヨーロッパの“ギルド”の、職人養成制度のコトなんですね。そこに端を発するけど、意味合い的には、専門的な職業の師匠と弟子の関係も、ちょっと似たようなもんですよね。落語家の一門の弟子とか、掃除から雑用、付き人みたいなコトしますよね。あの、弟子は何だろう、食事は食べさせてもらってタマに小遣いとか貰えるのかな?弟子が多いと師匠は大変だろう。まあ、山上たつひこ先生のギャグ漫画の名作、「喜劇新思想大系」とは書生も徒弟制度も関係ないんですけど。漫画家の「弟子」っていうのは、今はもう“アシスタント”ですね。売れっ子の量産態勢のプロダクションに入るか、ですね。

 「書生」も調べてみたら、モロに明治時代の学生ですね。明治の時代背景に於ける学生。当時は地方から出て来て学問を志す者は、先生とか学者や事業家や、お金持ちの商人なんかの屋敷に住み込みで雑用したり、イロイロ手伝ったりしながら、学校に通って高等な学問を勉強したんですね。大正時代には学校が寄宿舎など、学生寮を整備したりして、「書生」はなくなって行ったらしい。まあ、「喜劇新思想大系」の登場人物は今で言えばフリーターみたいな人たちで、一歩間違えばニートみたいな人たちかな。書生は関係ないです。思わず、僕の疑問を書いてみただけでした。失礼しました。

 山上たつひこ先生の漫画作品は、僕に取っては、僕の子供時代·少年時代に親しんでリスペクトした、手塚治虫先生をはじめ、横山光輝、桑田次郎、両·藤子不二雄、水木しげる…、などなどの往年のレジェンド大家たちの作品に匹敵するような、そんな素晴らしいフェバリット作品群です。漫画の内容は、下品·下劣味が強いかも知れないけど。60年代の貸本短編からメジャー雑誌に移行してからの70年代前半までの、山上たつひこさんの短編作品も、SF やスリラー·サスペンスなどのストーリー漫画も、先鋭的な作風で面白くて好きでしたが、70年代半ばからの「がきデカ」や「快僧のざらし」を代表作とする、独自の革命的ギャグ漫画は、僕は70年代後半から90年代まで大好きで大ファンで、いやあ~、青年期から三十代、ゲラゲラ声を出して大爆笑させてもらいました。短編ギャグ漫画も、どれも可笑しくて面白かったなあ。

 「喜劇新思想大系」とは全然関係ない、全くの余談ですが、ちなみに僕の中一·中二途中までの家庭教師だったS先生ですが、かなり老けて見えたんだけど、多分あの当時まだ現役の英語教師で、多分、中学校の英語の先生だったんだろうと思うんだけど、息子さんが大学受験生で、と言うより、東大目指す浪人生で、もう何度も東大受験するが合格できずにいて、S先生も息子さんの受験や浪人生活にお金が掛かっていて、それで家庭教師のアルバイトを何件も掛け持ちしていたようです。僕の一コ歳上の従兄もS 先生に家庭教師で習ってた。従兄は金曜か土曜の晩で、僕は日曜の午後。多分、他の曜日にも他の生徒を持ってたんでしょうね。多分、母親から後で聞いた話でしょうが、東大目指して何浪もしていた息子さんは、一橋大に切り換えたら、一回ですんなり受かったんだとか。このときは僕も、雲の上のような話ですが、ああ、同じ国立の名門でも、東大は別格で難しいんだなあ、と思ったものでした。もう数十年前の話だから記憶がどうか。もう一つ、オヤジの会社の先輩か上司の話で、息子さんが何度も東大受験して受からず、京大に切り換えたら一回ですんなり上がった、という話もあったし、ひょっとすると混同してるカモ。何しろ昔々の話だし。「喜劇新思想大系」と全く関係ないけど、S 先生のコト書いたら、S先生のエピソード思い出して、つい書きました。関係ないし何でもない話で済みません。

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●漫画・・ 「ネオマスク」

 秋田書店発行の少年漫画週刊雑誌、「週刊少年チャンピオン」の1972年1月発行の、第7号から連載が始まった、小畑しゅんじ氏作画で、原作が辻真先氏担当の少年ヒーローSF 漫画、「ネオマスク」は、チャンピオン同年第29号まで連載が続きました。チャンピオンの看板を担うまでの人気は得ることはなかったかも知れませんが、少年誌のSF ジャンル作品が減って行ってた時代、面白い少年変身ヒーロー活劇SF の傑作漫画でした。「ネオマスク」は、連載終了後に少年チャンピオンコミックスで刊行されることはなく、四年後の76年に、当時の永岡書店より、ナガオカコミックスで全2巻で出版されました。そして、連載時からはるか30年以上経ってから、まんがショップから完全版として、2006年に復刻版が全1巻で刊行されました。

 僕が幼児・子供時代からずうっと、憧れ続けて来た少年変身ヒーローものの傑作、「ネオマスク」の超能力とは、主人公少年のお爺ちゃんの天才科学者が、太平洋戦争時に日本軍が戦争勝利兵器作成のために、時の軍部が用意した科学設備で天才科学者のお爺ちゃんが、戦後、独自のスーパー兵器作成の研究を続け、孫の主人公・伊吹志郎少年を、変身して全身を特殊コスチュームで包むと、超人ネオマスクに成ることができる力を、身に着けさせるものです。天才科学者・伊吹博士の超科学力に寄って産み出された、正義の超人ヒーロー·ネオマスクは、世界征服を企む悪の大組織、“超人兵団”に敢然と立ち向かう。といった、ワクワクものストーリーです。大人になろうが幼稚かった僕は、子供の頃から青年時代、こういうお話が大好きだったんですよ。

 対敵の超人兵団は、世界征服を目指す凶悪犯罪組織で、超人兵団の戦闘員は超能力者です。さまざまな超能力を持つ殺し屋たちが、各々の特異な超能力を使って、都市の破壊活動や人間の殺戮行為を行う。主人公の中学生、伊吹志郎君が、天才科学者のお爺ちゃんの作り上げたスーパー科学力で、ネオマスクに変身して、超人兵団の手強い超能力者たちと死闘を繰り広げて行く。ネオマスクの必殺技は、サンダーパンチ!

 「ネオマスク」が、週刊少年チャンピオンに連載されていた時代、僕は高校生でした。僕は小学生の時代は周囲に比べてけっこう裕福な方の生活を送っていて、自分で言うのも何ですが、まあ、当時としては坊っちゃん坊っちゃんした子供時代を過ごしていましたけど、中学生になってからその生活もだんだん雲行きが怪しくなって行き、中三時には生活レベルは貧乏の方へかなりシフトして行っていて、僕の中学卒業と時を同じくして家庭崩壊、奇跡的に僕は公立高校へ進学できたものの、生活レベルは大貧乏になってしまい、家族が何とか食べれてはいましたが他の金銭的余裕は一切なくなりました。僕は高校生時代はお金がなくて、修学旅行にも行ってないしね。夏休みなどにバイトしてもほとんど全額、生活費の足しに母親に渡してたし。

 小学生時代は漫画漬けの日々を過ごして来た僕でしたが、高校生になってからは漫画本を購読する余裕なんて、もうほとんどなくなりました。それでも何かの理由でごくタマに、小遣いが入った時は迷いなく、漫画本を買って来てました。そんな貧乏生活の中で本当に、ごくごくタマに買って来た当時の週刊少年チャンピオンに載っていたのが、小畑しゅんじ氏作画の「ネオマスク」でした。原作・辻真先氏、漫画・小畑しゅんじ氏の少年ヒーローSF アクション漫画、「ネオマスク」の連載期間は1972年の1月から5月ですから、調度僕が高一の頃ですね。

 僕は当時、「ネオマスク」という少年SF 漫画の存在を知ってましたから、多分この当時、週刊少年チャンピオンを一、二冊購読しているのでしょう。まとめて全編読んだのは、もうずっと後々、ン十年後のまんがショップ完全復刻版で、ですから2006年まではちゃんとしたストーリーそのものはよく知らなかった。だいたい僕自体がもう幼少時から少年時代、ずうっと等身大ヒーローに憧れ続けていましたから、高一という少年期としては後期の、青年への階段を登り始めたイイトシの年齢にも関わらず、こういった「ネオマスク」みたいなジャンルの作品には強い憧れをしっかりとまだ持ってました。こういう正義の超人ヒーローには現実にはなれないのだとは勿論よく解ってましたが、なれるもんならなってみたいと、もう15も16もなって夢のように憧れてました。まあ、馬鹿なんですけど。

 この、少年後期から青年期の時代以降も、何か、ずうっと憧れ続けてましたねえ。超人ヒーローに。20代に入って以降も。この「ネオマスク」と同時代に、小池一夫氏が原作担当して同じ小畑しゅんじ氏作画の少年SF ヒーロー漫画が、チャンピオン発行と同じ秋田書店の月刊誌、「冒険王」に見た目全く同じような、作画の漫画家が同じだから似ていて当たり前なんですが、少年変身等身大ヒーロー活劇漫画が載っていて、こっちのタイトル、「マスクマン0-ゼロ-」の方もよく知ってました。

 この少年SF漫画も大変興味があって、当時、僕は熱く読みたい気持ちいっぱいだったんですが、読む機会がなかった。調べてみたら、「マスクマン0-ゼロ-」の月刊誌「冒険王」連載期間は1971年9月号から72年12月号までになっていて、時系列的に調度、同じ漫画家が「マスクマン0」の連載を終えて、 同じ秋田書店発行の週刊誌に原作者を変えて、同じジャンルの漫画を連載した形になるんですね。僕は「マスクマン0」の方も冒険王の大型付録で一、二回は読んでますが、勿論、全編通して読んだことないし、だいたいのおおざっぱなストーリーは知ってますが、ちゃんとストーリーを味わったことないので出来れば読んでみたいですね。何てったって、あの小池一夫先生の原作ものだし。あっ、違った。同じ72年内だから重なってるのか。原作は違えど、小畑先生は、同ジャンルの同じような変身ヒーローものを、同一出版社の同じ少年誌二誌に、同時期に描き分けてたんですねえ。

 「ネオマスク」の作画担当の漫画家、小畑しゅんじさんを僕が初めて意識したのは1967年、週刊少年サンデー連載の「キャプテンウルトラ」からでしょうか。勿論、それ以前から、週刊少年サンデーの連載漫画「タイタン」や読み切り短編漫画など読んでたから、小畑しゅんじ先生は知っていたけど、絵柄的にそれほど好きな漫画でもなかったのであんまり気に留めてはいなかったけど、「キャプテンウルトラ」は当時の日曜七時タケダアワーでの「ウルトラマン」に続く、子供向けSF 特撮ドラマで、宇宙の惑星とかが舞台のSF 冒険ドラマだったので、当時はワクワクしながら番組を見ていたから、サンデー連載の漫画も注目していた。

 当時の週刊少年サンデー連載では、だいたいいつも雑誌の後半部分収録だったから、コミカライズの漫画自体は、サンデーの看板背負うような人気は出なかったですね。初連載作品のサンデー「タイタン」は、SF 冒険活劇ものだったと思うけど、内容など詳しいことは全然記憶してない。サンデー収録の小畑しゅんじ先生の短編作品で、ラストシーンに湖底で揺れる美女の死体が、潜水した主人公が触れるとボロボロと崩れてしまうといった、この短編漫画のクライマックスシーンだけ、何故か記憶に残っている。何か、幻想的味わいで印象深かったんだろうと思う。「キャプテンウルトラ」もこの短編も、読んだのは小学生時代ですね。ああ、ネットで調べて解りました。記憶に残る件の短編。「人を呼ぶ湖」というタイトルで、初出掲載は週刊少年マガジンの69年21号から23号まで、3回に渡って掲載された中編ですね。案外、長いお話だったんだな。この作品は、まんがショップさんからの復刻短編集に収録されているようです。初連載の「タイタン」もサンデーでなくてマガジン連載かな(?)。

 小畑しゅんじ氏はデビュー前は、もともと桑田次郎先生のアシスタントをしていて、桑田次郎氏が拳銃不法所持の罪で逮捕され、マガジン連載の「8-エイト-マン」の続き分が描けなくなったとき、桑田先生の代筆を、もともと弟子筋だった楠高治氏とこの小畑しゅんじ氏が行ったという話は、昔から聞いてました。聞いてたって、何かで読んで知ってたんだろーけど。本編TBS 系列実写ドラマ「キャプテンウルトラ」は、主題歌がカッコ良かったですねー。「キャプテンウルトラ」の音楽は富田勲氏でしたからねえ。

 辻真先さんはもう、83歳にもなられるんですねえ。1932年生まれの辻真先氏は、2016年1月現在、83歳の年齢になる計算になりますね。僕は少年時代から、「辻真先」という名前は知っていました。多才な辻真先先生は本業作家ですが、その作家業も小説は、推理小説からSF 、ユーモア小説やパロディからジュブナイルなど、幾つものジャンルを書き分け、もともとは、まだまだ黎明期と言えたモノクロテレビの時代から、TV 番組の制作に関わって来た方ですね。ドラマの演出などをやった後に、虫プロに在籍して数多くのアニメ制作に関わる。この時、少年時代の僕は、アニメ番組のタイトルバックで何度も「辻真先」の名を見たのだと思います。またTV 脚本は、アニメにとどまらず、幾つもの特撮ドラマのお話も書いてます。

 ミステリ作家としても、その著作本を本屋でよく見ました。小説家としても長年に渡ってもう、本当にたくさんのエンタティンメント小説を書かれて来てますね。子供向け小説の作品も多い。メチャメチャ多才な作家先生だと思います。ミステリ作家としても本格派で、日本推理作家協会賞や本格ミステリ大賞も受賞されています。辻真先先生は、そのお名前を、昔々の僕の少年時代から存じ上げていた、長きに渡ってメディア界で活躍されて来た先生なのですか、僕自身は、昔は毎日のように通っていた本屋さんでしょっちゅう目にしていたお名前ですが、誠に申し訳ないのですが、実は先生の著作は一冊も読んだことはありません。しかし、TV メディアでは子供の頃からアニメやドラマで、辻真先先生が脚本などで関わっている作品を山ほども見て来ています。

ネオマスク〔完全版〕 (マンガショップシリーズ ) コミック 小畑しゅんじ(画)辻真先(作)

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●漫画・・ 「がらがら」

 「がらがら」は、秋田書店発行の少年漫画雑誌、少年チャンピオンの1970年第7号から始まり、週刊少年チャンピオンの71年第3・4合併号まで連載が続きました。この時代の連載漫画の連載期間としては、割りと短い方ですね。1969年7月に創刊された、秋田書店初の月二回刊というか隔週刊誌、少年チャンピオンは、約一年間を経た後、翌70年6月から週刊誌化され、週刊少年チャンピオンとして毎週発行されるようになりました。秋田書店初の週刊雑誌ですね。「がらがら」の初登場新連載はまだ隔週刊誌だった70年第7号からで、この、チャンピオンの隔週刊は70年の第13号まで続き、次の第14号から週刊少年チャンピオンとなります。「がらがら」の連載は71年の新年号までですから、連載期間は約7ヶ月間くらいかな。

 当時のチャンピオン誌上では、巻頭カラーで掲載されたり、カラー扉大増ページ掲載があったりと割と看板漫画扱いだったのに、そんなに人気は出なかったのか、比較的短期間で連載が終了したし、多分、この後コミックス単行本化していないですね。本元の少年チャンピオンコミックスで見たことないし、多分他の出版社のコミックスでも発行されてないと思います。ネットでも単行本を全く見掛けない。さいとうプロ制作の漫画作品はたいてい、さいとうたかを氏のリイド社でコミックス化するのですが、リイド社でも何も単行本は出ていない。何しろ、ネットの漫画オークションで、少年チャンピオン連載時本誌切り取り、全連載時オリジナル分がオークションで出てたくらいですし。

 当時の少年チャンピオン連載時、僕はこの漫画が大好きで、けっこう毎号楽しみにしてたんですけど。当時の一般的チャンピオン読者人気は、あんまりなかったのカモ。僕がこの漫画が好きだったのは、何となくこの作品が、僕が小学校時代慣れ親しんだ、この時代もう消滅していた貸本漫画の雰囲気を持っていたように、僕が感じていたからだと思います。まあ、あくまで僕の個人的な思いですが。何だか、貸本時代のさいとうプロ発行の貸本オムニバス誌、「ゴリラマガジン」に掲載された短編・中篇作品によく見られたような雰囲気、匂い、ですかね。

 貸本出身のさいとうたかを先生は、貸本時代、当時の貸本トップクラスの売れっ子でしたが、60年代後半に入って、本格的に当時の月刊冒険王や週刊少年マガジンのような、雑誌漫画へと移行して行きます。60年代末には、この当時、雨後の筍のようにニョキニョキと次々創刊された、青年コミック誌にも進出し、さいとうたかを氏を代表とするプロダクション漫画制作システムとして、さいとうプロは、70年代80年代と、その先もずっと、日本のコミック界を代表する劇画制作プロダクションとして、日本の出版文化で活躍を続けます。

 50年代末から60年代半ば過ぎまで、当時の貸本界を代表する貸本漫画作家として活躍した、売れっ子のさいとうたかを氏は、当時いち早く、漫画制作に分業制の流れ作業システムを取り入れ、代表者さいとうたかを氏を漫画制作の監督とし、脚本から下書き、背景、ペン入れ・べた塗り・仕上げ等々、分業して流れ作業で作品を創り上げる、合理的な制作システムで漫画の量産態勢に対応しました。やがて貸本は衰退期に入り、1970年頃には貸本が完全になくなるのですが、さいとうたかを率いるさいとうプロダクションは、雑誌の世界でも引っ張りだこの売れっ子となり、児童漫画・青年コミック問わず、当時のどの雑誌にも作品が掲載されているように量産システムで活躍を続けて行く訳です。

 「がらがら」は、さいとうたかを先生が貸本時代から得意とする一方の作風で、陽気でタフな主人公の青年が、おっちょこちょいや早とちりの間抜けな部分で笑いを誘いながらも、その豪快な腕力を武器に、アクション全開で活躍する、コメディ味の探偵ものアクション劇画ですね。まあ、そういう感じの漫画かな。河川敷にブリキかトタン造りのような一見工場みたいな建物で、鉄クズみたいな廃品の機械部品とか粗大ゴミみたいなガラクタの山に囲まれて、独りで生活する、廃品回収かリサイクル業者の青年が、その河川敷に遊びに来る子供たちによって、トラブルに巻き込まれ、初めは不本意ながらも探偵さながらの活躍で、ちょっとした犯罪事件を解決する、というようなコメディ味付けのサスペンス風アクション劇画かな。この漫画の雰囲気、当時は僕、大好きでした。

 僕は秋田書店から少年チャンピオンが創刊されて、初めの月二回刊、隔週刊だった頃は毎号欠かさず購読していたのですが、約一年経って週刊誌化されて週刊少年チャンピオンになってからは毎週は買わなくなりました。というか続けて読みたかったのですが、この頃から家が貧乏になって来ていて、というか少年チャンピオンが隔週刊だった頃から家は貧乏に向かっていたのですが、漫画本くらいは何とか買えていた。だいたい少年時の僕は小遣いといえば、ほとんどが漫画本に使っていましたからね。週刊少年チャンピオンになった頃は、もう漫画代さえままならぬようになって来ていた。僕が高校生になってからは小遣いなんてゼロですからね、漫画本なんて一冊も買えなかった。高校生時は途中から、弁当を毎日百円の昼食代に変えて貰って、時々昼食抜いて、時折漫画本を買って読んだりしてた。

 秋田書店の月刊児童誌「冒険王」での60年代後半、大人気だった看板漫画「夕やけ番長」が、69年に新しく創刊された少年チャンピオンに、「冒険王」本編とは少しテイストを変えた別エピソードが、チャンピオン初期の看板漫画として連載され、僕は「冒険王」の「夕やけ番長」が大好きだったので、少年チャンピオンが隔週刊誌だった約一年間連載された「夕やけ番長」読みたさに、隔週刊時代のチャンピオンを購読していたというのもありましたね。勿論、週刊誌化して毎週購読は、お金が続かなくなった、っていうのが大きいのだけど。

 今回は、僕が中学生時の後半から終盤に、愛読した初期チャンピオンに連載されてた、認知度では多分、かなりマイナーな方になる、痛快コメディ・アクション劇画「がらがら」をタイトルに持って来ましたが、この漫画は僕が当時、雑誌掲載分を読んだ記憶しかなく、多分、この漫画は後にコミックス単行本化されていないと思うし、また僕自身雑誌初出リアルタイムで読んだ以外では、再読したことがないので、数十年前の記憶だけで記事文を書いています。

 でも、「がらがら」はその漫画の雰囲気、テイストが、僕が小学生時代にどっぷり浸かった“貸本”の名残を残していたように感じられて、今でも妙に印象に残り続けている。貸本時代から雑誌移行期の60年代から70年代はじめ、さいとうたかを先生がよく主人公に描いていた、タフで陽気で正義感が強く、おっちょこちょいで幾分間の抜けたところがあるが、人情深く、怒り出したらその自慢の腕力で大暴れする、さいとうたかを氏オリジナルのキャラクター、貸本時代の代表作「台風五郎」でも見られた痛快キャラクター、そのさいとうたかを劇画の主要キャラが大好きで、昔々の懐かしさで、今回の記事タイトルに「がらがら」を持って来た次第でした。

 

太平記〈上〉―マンガ日本の古典〈18〉 (中公文庫) 文庫

さいとう・たかをセレクション BEST13 of ゴルゴ13 Author’s selection 単行本

コミック 鬼平犯科帳 92 (文春時代コミックス) コミック

俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代 単行本

 

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