60~90年代名作漫画(昭和漫画主体・ごくタマに新しい漫画)の紹介と感想。懐古・郷愁。自史。映画・小説・ポピュラー音楽。
Kenの漫画読み日記。
「歌え!! ムスタング」-川崎のぼる·作画-
川崎のぼる先生作画の「歌え!! ムスタング」は僕が子供時代に愛読していた週刊少年サンデーに連載されてました。子供時代といっても僕はもう中一の年齢ですね。
「歌え!! ムスタング」は川崎のぼる先生オリジナルの作品だとばかり思い込んでいたのですが、原作付き漫画で、原作者は福本和也氏ですね。
この時代の熱血青春漫画には珍しく、作品のテーマや舞台は“音楽”です。主人公少年がドラマーだからロック系かな?まぁ、日本のポピュラー音楽の世界ですね。
少年漫画の世界で作品土台のテーマに“音楽”を持って来た“初めて”の漫画作品なんじゃないかな?漫画作品の中では、多分最初だろうと思う。手塚治虫先生が描いてるだろうか?
手塚治虫先生にはベートーベンの生涯を描こうとしていた遺作「ルードウィヒB」があるけど、1987年制作の作品だしな。ただ、手塚先生の膨大な数の短編の中には“音楽”テーマの作品がけっこうあると思う。それも「歌え!! ムスタング」が描かれた1967年以前に幾つも。
「歌え!! ムスタング」の週刊少年サンデー連載期間は1968年第30号から69年第19号まで。週刊誌の30号はだいたい6月頃で、19号は4月頃の発行ですね。僕は中学一年生で、連載終了は僕が中学二年生になったばっかりの頃ですね。
この時代の週刊少年サンデーは、当時住んでた町の近所の幼なじみになるFT君が買った少年サンデーで、毎週、僕が週刊少年マガジンを買って来て、FT君がサンデーを買って、翌日か翌々日かにお互い交換して読んでた。交換することで僕もFT君も毎週二冊の週刊漫画誌が読めた。
僕やFT君やもう1人の幼なじみMM君の住んでた家があった通りは、今は見る影もなく無残な空き地だらけの通りとなっているけど、当時は地方の町としてはかなり賑やかな商店街だった。
「歌え!! ムスタング」は少年サンデー連載中はリアルタイムで全編読んでいるけど、その後の単行本での再読はない。
そもそも「歌え!! ムスタング」は連載終了後はコミックスや文庫の単行本にはなっていないんじゃないかな。
僕が「歌え!! ムスタング」を連載リアルタイムで読んでから、もう55年くらいも年月が経っていて再読は果たしていないから、僕自身「歌え!! ムスタング」のお話の詳細などほとんど覚えていない。
ただ、ロックかジャズかポピュラー音楽の世界が舞台で、一流のドラマーを目指す少年か青年かの熱血青春物語だった、ということとわずかな一場面を二つくらいぼやっとおぼろに覚えているくらいだ。
それで、「歌え!! ムスタング」のことをネットを回って調べました。すっかり忘れきってましたが、主人公の少年は最初はプロ野球選手を目指す野球少年なんですね。このあたりの詳しいことは解らないのですが、野球のある試合で大ケガをするらしい。重傷のケガで後遺症が残り、もう野球のできない身体になってしまうらしい。このあたりの場面で当時の読売巨人軍の川上哲治監督が、この漫画に登場するらしい。
らしいらしいで恐縮ですがもうほとんど覚えてないですからね。確かにリアルタイムで読んではいるのですが。巨人に入団が決まっていたのが破棄になるらしいですね。
そこからヤケになっていた主人公少年に外国人の牧師さんかな、ジャズ音楽の素晴らしさを教える。
音楽に興味を持った主人公少年がギターを弾いて見るが、後遺症の残る手では思うようにギターが弾けない。少年は再び絶望する。何かこのへんのシーンで素晴らしいジャズピアノを弾く黒人ピアニストが、多分ベトナム戦争でしょう、無理やり戦争に連れて行かれる場面などもある。時代ですね。
このあたりのエピソードは、作家-五木寛之氏の短編「海を見ていたジョニー」を思い出させる。
五木寛之さんは60年代後半から70年代は超大人気の流行小説~中間小説の作家さんでした。
そこから今度は素晴らしいドラムを叩くオジサンに出会い、その、見た目サエナイ貧乏くさいが骨のある頑固オヤジみたいなオジサンをドラムの師匠と仰ぐのかな。
この師匠のオヤジは、元凄腕の名ドラマーだけど今は落ちぶれたアル中の貧乏オッサンらしいですね。
このアル中オジサンの、弟子の少年を鍛えるドラムの指導方法が、ドラムのバチ、ドラムスティックですね、少年に先端に鉛の重みを着けた重いスティックでドラムを叩かせる練習があるらしい。スポーツ根性ものみたいな描写ですけど、少年は野球のケガの後遺症で腕か手首か手そのものが少々不自由だったらしいから、そのハンデの克服方法だったんでしょうね。多分。
野球をケガで断念した少年が、再起のために命を懸ける世界はジャズの世界で、少年がハンデを持ちながらも懸命に練習するのはドラムで、少年は一流のジャズドラマーになることを目指す。
しかし最後は悲しい結末が待っている。一生懸命、青春の炎を燃やすけれども結局、救われないドラマですね。
漫画の物語が進んで行く中で、この時代、GSブームの中で超大人気だった、歌謡ロックのグループ、タイガースも出て来る場面があるようです。
途中で、クレイジーキャッツのメンバーの谷啓さんが出る場面がある。僕はこの場面は覚えてます。谷啓さんが、何か音楽イベントの司会進行係をしている。MCですね。
主人公少年が誰か、多分ドラムの師匠と一緒に観覧している。隣の男が少年に「あの谷啓は司会をしているが実は谷啓は一流のトロンボーン奏者で演奏は抜群に上手い」とか何とかいうことを話して聞かせる。何故か僕はこのシーンは記憶している。
あとは記憶しているシーンは最後の悲しい場面。もうネタバレしてしまうけれど、実は主人公少年は不治の難病に侵されていて、命は二年間くらいしかもたない。
この重大な件は漫画の初めの方で明かされるのかな?本人だけが知らないんだよね。物語が進行して行くに連れて主人公少年の死期がどんどん近付いて来る。
最終回では、主人公少年、少年って青年くらいの年齢に見えるけど、青年でもいいのかな、読売巨人軍に入団できる、野球の夢を絶たれて音楽の道に乗り出して行くのだから、そのジャズ青年が不治の病で、いよいよ病気も最終局面に来た。
主人公青年は、ジャズドラムの道に乗り出して歩んで来た短い人生の中で知り合った、親友と呼べる仲の良い男女の数人に見送られ、浜辺だったか岸壁だったか海辺で、暗い海に浮かべた一艘の小さなボートにドラムセットを乗せて、最後の力を振り絞ってジャズドラムを叩いて演奏し、小舟はじわじわと陸から離れて行く。
要するに、夜の闇の中で陸から離れて行く、小さなボートから、遠ざかって行くドラムの音が聞こえなくなったら、そのときが主人公青年の命の灯が消えたときなんですね。
はっきりと主人公の死を描きはしなかったけど、そうやって遠ざかり見えなくなるボートを描いて物語はそこで終幕となります。その夜の後のことは何も描かれはしてなかった。
悲しい最後でしたねぇ。この場面だけはけっこうしっかりと覚えています。印象的な最終回だったですね。
「歌え!! ムスタング」の主人公青年がジャズドラムの修行をする二年間くらいの短い間の物語の、熱血感動漫画ですが、主人公は結局、ジャズドラムでなにがしかの舞台に立てるまでは行かなかったと思う。
ジャズドラムでひとかどのドラマーと言える立場になる前に死んでしまう、救いのない悲しいドラマだった。日本国内の音楽修行の流浪だけで、別に外国に修行に渡るなんてことはなく、けっこう早く命が尽きてしまうし。
あ、そう言えば、音楽テーマの漫画で、80年代の作品だけど、狩撫麻礼·原作で谷口ジロー·作画の「LIVE!! オデッセイ」という劇画があったな。あれはロックだったんだっけ?レゲエ?
最近の作品で話題となった人気作品で、「ブルージャイアント」というジャズ音楽を題材とした、大長編の人気漫画がありますね。
ただ僕はこのジャズの世界に懸ける、一青年の音楽修行の成長物語の漫画を1ページも読んだことがないので、「ブルージャイアント」に関しては何も語れませんが。この作品では本場アメリカに渡って修行するみたいだけど。
読んで見たいとも思うけれど、僕も爺さんで目が悪くて、漫画といえど書物を読むのはけっこうしんどくてなぁ。ワシも、もっと若い頃だったらなぁ…。
BLUE GIANT (1) (ビッグコミックススペシャル)
梶原一騎氏が少年漫画の世界で大ブレイクするのが1966年、週刊少年マガジンで始まった、川崎のぼる氏作画の「巨人の星」が大人気を得てマガジンの看板漫画になってからです。
僕が少年漫画を読み始めたのが1962年の終わり頃、6歳のときです。少年漫画に熱中するのは63年に入ってから、7歳になってからかなぁ。
僕が貸本屋に毎日通い、購読も毎月月刊誌2冊、週刊誌1冊は必ず買ってたのは、だいたい7~10歳のとき、小一三学期~小五の初めかな。
「巨人の星」大ブレイクからの梶原一騎氏の少年漫画界での大躍進は凄まじいもので、60年代後半からは梶原一騎氏は少年漫画原作の帝王の座に君臨してた印象ですね。
60年代後半にも梶原一騎氏以外にも漫画原作を手掛ける作家さんはいましたが、梶原一騎氏の本数、量は他の漫画原作者とは桁違いでした。勿論、読者人気も。
70年代に入ると、60年代末から青年コミック誌が何誌も誕生し、小池一夫氏の登場でまた事情が変わって来るのですが。
60年代前半や50年代末頃も、梶原一騎氏は漫画原作の仕事をしていましたが、60年代前半までの少年漫画シーンでは梶原一騎氏の存在はそこまで目立たなかった。
その当時の梶原一騎氏はどちらかと言うと、少年誌向けのスポーツ記事の読み物の書き手、という印象の方が強かったですね。
あくまで僕の印象ですが、60年代前半の少年漫画の原作でよく見てた名前は、久米みのる氏と福本和也氏でした。勿論、他にも漫画原作の仕事をされていた方もいたでしょうけど。
当時の漫画原作で、福本和也氏の作品で一番有名なのは「ちかいの魔球」と「黒い秘密兵器」です。どちらもプロ野球漫画で少年マガジンの連載作品です。
久米みのる氏原作の漫画もいっぱいあったけど、久米みのる氏はどちらかと言うとSF系のものが多かったかな。柔道ものなどスポーツものもありましたけどね。
「ちかいの魔球」はちばてつや氏作画、「黒い秘密兵器」は一峰大二氏作画ですね。
久米みのる氏も福本和也氏も少年漫画の原作で大活躍してたけど、60年代前半の印象が強いですね。福本和也氏原作の「歌え!! ムスタング」の連載が1968~69年ように、勿論、60年代後半以降も漫画原作の仕事はされてましたけど。
久米みのる氏の漫画原作は60年代後半以降はあんまり見なくなったなぁ。
僕自身は漫画原作者としてしか知らなかったんだけども、福本和也氏は本業は小説家だったんですね。それも60年代から90年代まで膨大な作品数を著述した、主に推理小説ジャンルの作家さんだったんですね。こういう言い方は失礼だけどけっこう人気小説家だったようです。無論、僕は小説作品は一編も読んだことはありません。済みません。
福本和也氏は本業の小説執筆の他に70年代までは漫画原作の仕事もしているようですね。
福本和也氏は1928年=昭和3年生まれだから手塚治虫先生と同年代か。甲種予科練出身で戦争最末期の兵器-特攻ロケット秋水の乗員訓練を行っていたときに終戦になったそうで、戦後60年代初めに航空免許を取得してパイロットにもなってたらしい。
パイロット経験があるということで、僕は、ちばてつや氏が少年マガジン誌上で「ちかいの魔球」の連載を終えた後、太平洋戦争の航空戦記漫画「紫電改のタカ」を同誌マガジンで描くんですが、「紫電改のタカ」も「ちかいの魔球」と同じく福本和也氏の原作だろうと思っていたら、「紫電改のタカ」はちばてつや氏オリジナル·ストーリーの漫画作品なんですね。
ちなみに特攻ロケット秋水ですが、これは終戦間際の日本軍の最終兵器として試作されて、とうとう実戦はなかったロケットエンジンの戦闘機です。
プロペラ戦闘機ではなくてロケットエンジンの戦闘機ですが、アメリカの、対B-29爆撃機用に開発が進められてたようです。戦争の終局面でも試験飛行で失敗したりでとうとう日の目を見ずに終わったようで。
太平洋戦争時の日本がロケットエンジンの飛行機開発を行っていたなんて知りませんした。驚きです。
特攻ロケットというから、体当たり自爆用の航空機かと思ったら、解説文読んでるとそうでもなさそうです。
「サタンボーイ シリーズ」-沢田竜治·作画-
「サタンボーイ」シリーズは好きだったなぁ。憧れて大好きな劇画だった。僕は子供で貸本漫画だけど。貸本漫画の劇画作家-沢田竜治さんの作品だった。格闘と拳銃バンバン、カーチェイスや爆破·破壊などでの派手なスパイ·アクション劇画。
サタンボーイは通り名で、日本の情報機関の凄腕のスパイ。確か“忍者”の末裔だったと思うけど。僕の子供時代に貸本屋で一泊二日で借りて来て読んだ貸本漫画だから、もう「サタンボーイ」シリーズのお話の詳細など忘れきっている。けど大好きな漫画だった。
サタンボーイはカッコ良かったなぁ。忍者の末裔で忍者の能力を持ってて。跳躍力とかさ。忍者の末裔ったって別に黒装束着て背中に刀を差して手裏剣シュッシュッって投げたりする訳じゃなかった、と記憶するけど。シャツとズボンとジャケットの上着と現代人の格好してた。
サタンボーイが所属するのは日本の諜報機関だったか、国際的な、対犯罪組織の大掛かりな機関の日本支部の腕利きエージェントだったか、当時のテレビドラマで言えば、輸入スパイアクションドラマの「0011-ナポレオン·ソロ」、日本のアクションドラマなら「キーハンター」とか「スパイキャッチャーJ3」とかに設定が近いかな。まぁ、この時代のスパイアクションものはみんなアメリカ映画の「007=ジェームス·ボンド」シリーズに影響されてるだろうけど。
貸本劇画「サタンボーイ」シリーズのミソは日本のスパイらしく、忍者の末裔であり、忍者の体術などの能力がある、というところかな。007シリーズにも日本が舞台で東宝の浜美枝さんが“ボンドガール”を演じた「007は二度死ぬ」にも、ジェームス·ボンドに協力する日本のスパイ組織が、確かいにしえの忍者関係だったと思ったけど。違ったかな?
映画「007は二度死ぬ」の中でジェームス·ボンドに協力する日本のスパイ機関は“公安”でした。公安調査局となってます。やはり、その公安の特殊部隊が忍者の装束で出動するらしい。“忍者”関係してました。
「007は二度死ぬ」は僕が19歳頃、映画館でリバイバル上映を見てるんだけど、内容をほとんど忘れてます。
沢田竜治さんのスパイ-アクション劇画「サタンボーイ」シリーズの主人公、超腕利きの日本人エージェントは、別にダークスーツを極めた格好じゃなくて、ラフな現代人の若者の格好してて、シリーズ第1巻ではメッチャ長髪でした。髪があちこち飛び跳ねてて垂れてて、かなりのロングヘアスタイル。第2巻からは当時で言うスポーツ刈りみたいな短髪になった。坊主じゃなくて角刈りでもなくて丸いアウトラインの短髪。
貸本漫画の「サタンボーイ」第1巻が描かれたのって多分、1965年だと思う。当時の貸本漫画本出版社-東京トップ社からの発行ですね。「サタンボーイ」シリーズって全部で6巻くらい描かれたんだろうか。
貸本漫画が終わったのって多分、1967年中のことだと思うんですけど、僕が貸本漫画を読み始めたのは1962年暮れ頃か63年初頭ですが、この時代の貸本漫画の発刊本のスタイルは、だいたいA5判128ページか136ページ本のソフトカバーでしたね。62年頃まではA5判でもっと分厚い150ページ以上の漫画本も出てたけど、63年以降はほとんど128P·136pに統一されてたように思う。中には日の丸文庫の「影」みたく180ページ以上の分厚い短編集もあったけど。
僕が貸本漫画を読んでたのは1966年の4月いっぱい頃までで、「サタンボーイ」は3巻か4巻までしか刊行されてなく、だから僕は「サタンボーイ」の4巻か5巻以降は読んだことない。
沢田竜治さんの貸本時代の代表作というと、シリーズが貸本単行本で全部で30巻くらい続いた「爆弾野郎シリーズ」ですね。「爆弾野郎」の主人公の青年は私立探偵じゃなかったかなぁ。ダークスーツに身を包んでネクタイ締めたタフガイで拳銃バンバン撃って悪者どもを退治する、ハード·アクション劇画。
「爆弾野郎」の主人公は小生意気な男の子の子供と“お竜さん”ってイキの良いスタイル抜群の美女を連れて行動してた。3人連れでヨーロッパの都市が舞台になったりもしてたから、ロードムービーみたく旅して事件に捲き込まれていたのかな?何しろ数十年前に貸本屋で借りて読んだだけの漫画だから詳細は忘れきってる。
60年代前半なんてまだまだ貧しい時代だったろうし、特に貸本漫画家なんて人気があったとしてもやっと生活できた程度じゃなかったかと思う。大部分の貸本漫画家は食うや食わずだったんじゃないかな。テレビドラマの「ゲゲゲの女房」でも貸本漫画家の貧乏さは描かれていたし。当時のモノクロテレビの海外紹介や雑誌の海外紹介グラフ記事はあったにしても、ヨーロッパとか海外なんて空想そのもので描いてたんだろうな。日本国の海外旅行自由化なんて1964年4月のことだし。
この時代の貸本劇画の主人公の私立探偵たちは全員、普通の一般市民なのにみんな拳銃携帯してて、胸に提げたホルダーに拳銃が入ってる。日本国内の暴力団組織がまるでアメリカ暗黒街のギャングそのものに描かれていて、街中で拳銃バンバン撃ち合い、マシンガンでダダダダって機銃掃射する。警察の刑事も普通に拳銃持ってて即拳銃撃ちまくって応戦する。
アメリカ輸入のギャング映画·ハードボイルド映画、50年代~60年代前半に“日活無国籍アクション映画”というシリーズがあって、この時代のこういう実写劇場映画の影響を多大に受けて、貸本劇画では、拳銃バンバン撃って格闘するアクション劇画が流行したんですね。
この時代の貸本劇画の漫画家たちはみんな、自分たち独自のカッコ良い私立探偵ヒーローのキャラクターを作っていて、貸本漫画でその探偵たちのシリーズものを続けて描いてました。
貸本劇画作家たちの作ったアクションヒーローたちは、一番多いのは私立探偵でしたが、ときには刑事や日本独自あるいは国際的な諜報機関日本支部のスパイ、テロ犯罪の防止や撲滅を目的とする機関のエージェントだったりしてました。でも例えば、ギター流しとかして日本中を旅する風来坊が、行った土地の暴力ざたに捲き込まれる設定もありましたね。土地の暴力団どおしの抗争に捲き込まれてしまうお話とか。篠原とおるさんの「万能屋錠シリーズ」は主人公の稼業は“泥棒”だった。
“劇画”という名称は1957年頃に当時の貸本漫画家の辰己ヨシヒロ氏が作った、自分たちが描く漫画作品の作風の呼称であり、当時の大阪出身の貸本漫画家を中心とした、自分たち独自の漫画制作グループ“劇画工房”から隆盛に向かって行った。
劇画工房が実質1年くらいで空中分解した後、劇画工房の1人だったさいとうたかを氏などを中心に今度は“劇画集団”という劇画制作グループが設立される。劇画集団には多数の主に貸本漫画で劇画を描く漫画家たちが参加した。その中の1人に沢田竜治さんもいました。“劇画集団”は“劇画工房”とは組織の内容が違っていて、もっとユルくて、貸本漫画の劇画作家たちの親睦団体の様相が強かったらしいですね。劇画集団参加者の1人、さいとうたかを氏は自分の劇画制作会社「さいとうプロダクション」を作って漫画制作と貸本誌の発行までやってたし。横山まさみち氏の「横山プロ」も同様ですね。
貸本漫画自体、何ていうか、貸本漫画のシステムというか、戦後の国民が総体的に貧しかった時代の娯楽媒体「貸本」は、1959年頃に最盛期を極め、このとき日本全国で「貸本屋」が3万軒存在したと言われています。子供~若者が貧しくて本や雑誌が買えなかった時代に隆盛した貸本屋は60年代に入ってじょじょに国民の生活が豊かになって来ると、本や雑誌は借りて読むものではなくなり、特に雑誌などは読み捨てされるものになった。漫画本も買って読むものになって来る。貸本屋~貸本漫画システムは1965年の秋頃から66年春頃に掛けて衰退して来る。1966年は「貸本」が見る見る衰退して行った時期ですね。
「貸本漫画」の終焉は1967年だと思います。67年のいつ頃かは僕にははっきり解らないんですが、貸本漫画の出版社というのはけっこういっぱいあったんですが、ほとんどが零細企業で、個人商店と変わらないくらいの規模の貸本出版社も多かった。60年代に入ってから倒産や撤退する貸本出版社は増えて行きましたね。1967年中には全部と言っていいほどの貸本出版社が貸本漫画の発行をやめた。中には比較的大きな貸本出版社で新書判コミックスの市販刊行で存続した出版社も幾つかありました。貸本出版社から普通の市販出版社になった訳ですね。町の貸本屋さんも66~67年までに全国で大多数が閉店して行ったと思いますが、中には市販·新書判コミックスを貸し出して貸本屋を続ける店もありました。
貸本漫画には独自の流通形態があって、貸本専用の漫画本問屋が存在してたけど、それも多分、1967年中に貸本流通システムが崩れて問屋もなくなったんでしょう。67年以降の新書判コミックスや雑誌の貸本で商売して残った貸本屋は、貸し出す本を何処で仕入れていたのかな?普通の一般的な市販小売り書店で買って来てたんだろうか?普通の市販本の流通システムの問屋には貸本屋は入って行けなかったろうしな。まぁ、僕も「本の流通システム」に関して詳しい訳じゃないし。調べてなくてごめんなさい。
昭和の時代は著作権法などがしっかりと整備されてなくて、市販の書籍·雑誌を貸し出して商売することが普通に通っていた。こういうレンタルの商売が法的に問題視され出したのは、80年代に入ってからの「レンタル·レコード」からですね。
「貸本屋」という零細企業の保護のような意味で、漫画家·作家の“貸与権”というものが認められていなかったのが、2000年代以降、漫画本レンタルに大規模な企業というか、チェーン店展開の大手企業が参入して来て、漫画家·作家の貸与権が考慮され初め、2006年頃からか、レンタル本屋は貸与権として漫画家·作家に著作権料を支払わなければならないようになって行った。(貸与権とは著作権法が定める著作者の権利)。
漫画喫茶の著作権料に関して調べたのですが、漫画喫茶は著作権料は払ってないようですね。漫画喫茶は本の貸し出しではなくて店内に置いてあるものを読ませているので貸与権が発生しない解釈なんだとか。床屋の漫画本の拡大解釈なのかな。
話をぐんと戻して、多分、1967年中には消滅した昔ながらの「貸本」で、大勢の貸本漫画家たちは否応なく市販雑誌に流れて行った。市販雑誌の世界は厳しくてここでかなりの貸本漫画家は淘汰されたと思います。比較的、絵のうまい(漫画描写のうまい)漫画家は市販雑誌に移ることができた。
でも市販雑誌に移っても生き残って行けた元貸本漫画家の人たちはそんなに多くはなかったですね。
メジャーである少年雑誌の世界で漫画が描ける少数と、1967~70年に掛けてニョキニョキと雨後のタケノコように出て来た、創刊された青年コミック雑誌に、貸本で劇画を描いていた漫画家たちが仕事をするようになりました。それと昔からあった成人漫画雑誌で描く元貸本漫画家も出ましたね。70年代に入ると“エロ劇画誌”なるものがいっぱい創刊され始める。70年代には“劇画ブーム”が始まりますしね。
「貸本」がなくなった後、沢田竜治さんは1969年に週刊少年マガジンに「ワッパ78」というコミカルなアクション漫画を描く。「ワッパ78」は連載ではなくて50ページ読み切りだったようです。69年の4月から7月の間に「ワッパ78」の読み切り短編を3回ほど間欠的にマガジンに載せてますね。僕は少年時代、長期に渡ってずうっとマガジンを購読していたので、この「ワッパ78」は記憶してます。ただ、マガジンの掲載形態だとかストーリーなど内容は忘れてしまっています。
貸本劇画から市販雑誌に移行した沢田竜治さんは、マガジン69年の「ワッパ78」以外にも、60年代末~70年代初め、少年雑誌や青年コミック誌に作品を載せていると思いますが、僕自身は記憶にないです。何十年も昔のことだから忘れてしまってるということもあるけど、僕も70年代初め頃から77年頃まではあんまり漫画を読んでなかったからなぁ。
70年代に入ると、というか70年代半ば頃からかなぁ、70年代後半~80年代前半に“三流エロ劇画ブーム”というものが起こります。70年代半ば頃から三流エロ劇画誌なるエロ漫画雑誌が零細出版社からいっぱい創刊される。
70年代80年代の“三流エロ劇画ブーム”というと、一番売れていた「漫画エロトピア」が代表格で有名だけど、“三流エロ劇画誌”ご三家というと「漫画エロジェニカ」「漫画大快楽」「劇画アリス」ですね。この時代は他にもエロ漫画雑誌はいっぱい出てた。雑誌自販機でエロ漫画誌が売られ始めたのもこの時代ですね。
あの当時、言われていたのは、60年代~70年代初めに学生運動にのめり込んでた若者たちが、大学卒業後にまともな就職先がなく、仕方なく零細出版社を立ち上げ、あるいは中堅出版社から創刊始めた、“エロ劇画誌”の編集~出版の仕事に集まった、という話でした。エロ劇画は70年代に起こった“劇画ブーム”の大きな波から派生した出版現象でしたね。
僕はこの時代、日活ロマンポルノの映画はよく見てたけど、エロ漫画雑誌はあんまり読まなかった。というかだいたいほとんど読まなかったかな。あってもパラパラするくらいで。エッチな漫画でエロシーン満載の漫画なんだけど、ストーリー性に乏しくて、物語を楽しみたい僕には面白くはなかった。中には「女犯坊」みたいな劇画ストーリーのちゃんとしたエッチな漫画もあったけど、少数派だったな。
僕はあの頃、1979年に新評社から発行された雑誌「別冊新評-三流エロ劇画の世界」を“熱読”しました。面白かったのを今でも覚えてる。勿論、内容の詳細は記憶してないけど。この時代、エロ漫画雑誌は“三流エロ劇画ブーム”に乗っかって僕もパラパラ読んでは見てたけど。(“熱読”という言葉使いはありませんが、熱を入れて読んだ、夢中になって読んだ、というような意味を伝えたくて造語しました。)
“三流エロ劇画ブーム”でたくさん出版されたエロ劇画雑誌という社会現象も、ブームとしてはそんなに大きな波のうねりという訳でもなく一部のものだったかな。
当時のエロ劇画雑誌の発行人や編集者などエロ劇画誌に関わっていた人たちは、学生時代に学生運動にのめり込んで就職先のなかった人たちだから、もともとは読書好きで知的な、本来は頭の良い人たちが多くて、理論派だから、この「別冊新評-三流劇画の世界」にもそういった人たちが寄稿していて、何事かイロイロ論じている。この時代、そういうあんまり役に立たないよーな、何かホントはたいして意味のないよーな評論を、ゴリゴリに理屈に理屈を重ねて論じているのを読むのがまた楽しくて、この雑誌や他の雑誌に掲載されてたエッセイやコラムを読むのが面白くて楽しかったな。
勿論、この雑誌にも他の雑誌の掲載文でも、もう、何を書いていたかまったく覚えてないけど。読んだり味わう方としては楽しい時代だったな。(何しろこの雑誌タイプの本、僕が読んだのって五十年近く前の昔のことだし。)
エロ劇画ブームが終わるのは、エロ漫画雑誌にロリ漫画が登場して、エロ漫画誌の主役の座がロリ漫画に取って代わられてからですね。漫画としての表現描写=タッチの全く異なる、ロリ漫画の台頭とエロ漫画界の制圧。80年代初めに出て来て80年代後半かな。ロリコン絵のロリ漫画のブームはその後かなり長く続きましたね。
僕自身は可愛いロリコン絵のロリ漫画にはあんまり気持ちを持って行かれなかったなぁ。ロリ漫画はあんまり興味·関心は抱かなかった。
70年代80年代の“エロ劇画ブーム”の中で、僕は榊まさるさんの漫画が、とても絵がうまくてタッチが大好きで、榊まさるさんの“絵”と描写をリスペクトしてて、この時代、榊まさるさんのエロ漫画の単行本は買ってたなぁ。エロシーンが見たいというよりも榊まさるさんの絵のうまさに惚れ惚れしてかな。
ここまで“エロ漫画”のことを書き込んで来たのは、貸本漫画で「爆弾野郎」「サタンボーイ」を描いてた沢田竜治さんが、70年代に入ってエロ劇画を描き始めたからです。70年代からは沢田竜治さんは完全にエロ劇画専門の漫画家になってしまった。
沢田竜治さんのエロ劇画カテゴリで一番有名なのは、1974年に東映で多岐川裕美が主演で映画になった、雑誌·別冊アサヒ芸能コミック-連載の「聖獣学園」かなぁ。この漫画は勿論エッチな描写もいっぱいあるけどストーリーもちゃんとあった劇画。沢田竜治さんはここからエロ漫画ひとすじみたいになったかなぁ。
沢田竜治さんの「エロ漫画」は今でもコミックス単行本が電子書籍にいっぱいあって、70年代以降、相当な作品数を描いてますね。紙の実物コミックス本はもうほとんど廃刊になってて、古書しかないと思うけど、さまざまな電子書籍ストアでいっぱい作品が売られてますね。沢田竜治さんの「エロ漫画」のタッチはやはり劇画タッチで、そういう意味では作品は全て「エロ劇画」ですね。
僕は沢田竜治さんのエロ漫画の劇画タッチで描かれた女性は魅力的で好きてすね。セクシーで扇情的なタッチで描かれる女性だった。
沢田竜治さんのプロフィールというのは詳しくは解らないんだけど、60年代に20代の年齢だったとして、もう60年も経ってる訳だから80歳前後から80代の高齢になられてますよね。
調べて見ると、2000年代前半発行の成人漫画誌に短編作品が掲載されてるから、その当時までは漫画作品を執筆されていたようですね。やはり旺盛に漫画原稿を描かれていたのは70年代80年代かな。90年代も仕事されていたと思いますけど。
貸本劇画から登場して“劇画”を広めた代表的な漫画家、さいとうたかを氏も2021年に84歳で亡くなられているし、貸本漫画というと貸本出身で有名な水木しげる氏も2015年に93歳で亡くなられているし、もう僕が小学生時代に貸本漫画で至極楽しませて貰った、貸本で人気作品を描いていた漫画家の方々も亡くなられたことを知っている人も何人もいるし、貸本漫画家だった人たちはもう70代後半以上で長生きされてる方は90代にはなりますよね。
人妻は汚された (Wani magazine comics special)
僕が貸本劇画のアクション·ヒーローたちに熱狂的になってたのは、僕の6歳~11歳までの間で、貸本漫画は一泊二日で借り読みしてただけだから、貸本劇画にはたくさんの魅力的なヒーローがいたけれど、もう数十年も昔のことだし全ての貸本劇画作品はストーリーなど詳細を覚えてないけど、貸本劇画の主人公たちには心踊らされて楽しませて貰いました。
沢田竜治さんの「サタンボーイ」にも「爆弾野郎」にも気持ちワクワク熱く楽しませて貰ったなぁ。「ピンクのサリー·シリーズ」は記憶してなかったんだけど、多分、読んでると思うなぁ。
「爆弾野郎シリーズ」のシリーズ終盤の単行本二十数巻目に、「爆弾野郎」の主人公の若者が悪辣非道な悪者連中を復讐心から皆殺しにして、警察に逮捕されて殺害した人数が多いので死刑宣告を受ける。
絞首刑で死刑執行されたが、僕は知らなかったのだけど、死刑執行されてその後何分間かして死刑台から降ろされて、もし生きていれば、その時点で罪がなくなるらしく、絞首刑を受けたのに命があった若者はその後放免される。実際は先ず生きてることは前列もないし有り得ないらしいけれど。
そういうことで「爆弾野郎」の若者はその後放免されてシャバに出て“幽霊男”と呼ばれるようになる。ってこのエピソードだけは何故か記憶してたなぁ。60年くらい昔の記憶だけど。
沢田竜治さんの「サタンボーイ」というと、僕は小学生時代、毎日家で鉛筆殴り書き漫画を描いていたんですが、ほとんどが少年雑誌と貸本のカッコ良いヒーローたちを真似た、モノマネ漫画でした。
その僕の“オリジナル”主人公たちを描くモノマネ漫画群の中に、沢田竜治さんの「サタンボーイ」を真似た、僕の“作品”もありました。
小学生が鉛筆で描く漫画だからクオリティは知れてます。殴り書きのようなヘタクソ漫画で、とにかく描いてる本人が楽しくて毎日独り遊びで家の中で描いてました。誰かに見て貰いたい訳でなく描いてるのが楽しくてしょうがなかった。
「サタンボーイ」のモノマネ漫画は「サタン·ワン」でした。そのまんまやないかいっ、って突っ込まれるよーなヘタクソ漫画で、だいたい内容も「サタンボーイ」のほとんど真似で似たようなストーリーで描いてました。小学生の描くものだから単純なストーリーだったと思います。懐かしい。
沢田竜治さんは60年代末頃に書き下ろし単行本で、エジソンの伝記漫画を描いてたんですね。教育漫画系の偉人シリーズみたいな漫画単行本かな。
「ザンバ」-石川球太·作画 1962~64年-
もう、このブログの中では何度も何度も書いていることだが、僕が漫画というものを読み始めたのは1962年の晩秋から冬の初め、11月の半ば過ぎくらいから12月初め頃からだと思う。そして当時の少年月刊漫画雑誌を読み始めたのは、62年12月初旬発行の63年新年1月号からだと思う。
僕の記憶でははっきり覚えているのは、市販本屋さんで月刊少年誌を買って来たのは、当時の「少年」3月号と「ぼくら」3月号で、はっきりした記憶はないのだが、「まんが王」2月号と「少年画報」2月号を本屋で買って来てるのかも知れない。これは記憶があやふやだ。よく覚えてない。「少年画報」2月号はウチの兄貴が買って来たものかも知れない。
僕の年齢6歳の終わり頃の話で、小1二学期の終わり~小1三学期の初め頃の話だ。僕が漫画本を読んだのは、市販の本屋さんで購入したものよりも、当時の住み家の近所の貸本屋さんで借りて来た本の方が早かった。幼稚園や保育園に行っていない僕がひらがなが読めるようになるのが、多分、小1二学期の11月頃だったんじゃないかと思う。小1の僕に両親も兄貴も「字」を教えてくれなかった。多分、小1二学期半ばまで自分の名前さえ書けなかったんじゃないかな。
多分、家の近所の貸本屋に通い始めたのも1962年11月頃からじゃないかなぁ。そこから66年4月いっぱいくらいまで、ほぼ毎日、この貸本屋に通った。最初は兄貴の使いだったけど、僕自身が字は読めなくとも漫画の絵そのものが好きだったし、その内、漫画に熱中して何よりも漫画大好き少年になった。漫画超大好き少年。
62年12月初旬発行の各少年月刊誌63年1月号は貸本屋で借りて来て読んだ。2月号の「まんが王」を買ったんじゃないかなぁ。「少年」と「ぼくら」3月号は市販本屋で買って来た。
当時の少年月刊誌は「ぼくら」「まんが王」「少年」「少年画報」「冒険王」「少年ブック」の六誌があって、六誌とも貸本屋で借りて読めた。この当時、講談社の「少年クラブ」が62年12月号が最終刊で休刊し、集英社の「日の丸」が63年2月号で休刊した。どちらもそれが事実上の廃刊だった。「少年クラブ」は全く記憶にないけど、「日の丸」の1月号~2月号は貸本屋で借りて読んでるかも知れない。
僕は子供雑誌が大好きだったので、本当はできれば少年誌を買って来て自分のものとしてずっと手元に置いておきたかった。でも、子供の小遣いの金額上、漫画雑誌はせいぜい月に2~3冊しか買えなかった。だからあとは漫画本は貸本屋で一泊二日で借りて読んだ。
そんな小一、6歳の終わり頃、初めて少年漫画雑誌を読み始めた頃、秋田書店発行の月刊少年誌は二冊あり、一つは「まんが王」もう一つは「冒険王」だった。当時の「まんが王」は僕はよく市販本屋で購読してたが、「冒険王」はほとんど貸本屋で借りて読んでた。僕が「冒険王」を購読するのは中学生になってからで、小学生時代は全冊と言っていいくらい貸本屋で借りて読んだ。
僕が「冒険王」を初めて読んだのは多分、1963年新年1月号で、この本に「ザンバ」が掲載されてた。別冊ふろくにも「ザンバ」は着いてた。当時の少年雑誌はペーパークラフトの紙製組み立てふろくやすごろくみたいなゲームなどの紙製の遊びふろくと、B6判32ページ、48ページ、たまに厚い64ページの別冊ふろくが3~5冊着いてた。それ以前は少年雑誌の別冊ふろく合戦で8~10冊着いてたが、僕が読み始めた頃はだいたい4冊程度に落ち着いてた。
当時の「冒険王」連載の漫画、「ザンバ」は石川球太先生のジャングル-サバイバル·冒険漫画で、まだアフリカが暗黒大陸と呼ばれていた時代背景の、和製ターザンものの少年版だ。「冒険王」誌上連載期間は1962年3月号から64年8月号まで、この時代の連載漫画としては長期間の長編漫画だ。
同じ石川球太先生作画で1961年に週刊少年サンデー誌上で「少年ケニヤ」が連載されている。サンデーの1961年4月から62年4月までの調度1年間で、実写ドラマがテレビ放送されたのが61年5月から62年2月までなので、それに合わせたコミカライズですね。「少年ケニヤ」は作家·山川惣治氏の、新聞連載された大ヒット絵物語で、山川惣治氏の原作の初出は1951年10月から55年10月まで、当時の新聞に絵物語として連載されている。
僕が週刊少年サンデーを読み始めたのは1963年5月からなので、漫画版「少年ケニヤ」は当然読んでいないし絵も見た覚えがないですね。
「少年ケニヤ」は、暗黒大陸アフリカ-ケニヤに取り残されて孤児となったワタル少年が、マサイ族他部族たちや猛獣などと絡み合いながら、ジャングルでサバイバルする少年冒険活劇。まだアフリカの数多くの原住民の黒人たちを“土人”と読んでいた時代ですね。
山川惣治氏は戦後直ぐに作画した「少年王者」が巷で大評判となり、紙芝居、単行本、雑誌連載と続けて人気を博した。続いて「少年ケニヤ」も大人気となる訳ですが、どちらも暗黒大陸-アフリカ舞台の日本人少年サバイバル冒険もの絵物語ですね。
山川惣治氏は絵物語作家ですが、僕は文章を書いてるのが山川惣治氏で“絵”の方は別に作画者がいるものと思い込んでました。山川惣治氏は絵物語作家だから文章も絵も書いてたんですね。
戦後直ぐの時代は絵物語が児童紙媒体娯楽のメインで、漫画が絵物語に打って変わって主座に着くのは昭和30年くらいかなぁ。昭和20年代末くらいからだろうか。それまでは児童向け雑誌のメインを張っているのは絵物語でしたね。
「少年ケニヤ」の新聞連載が終わったとき、僕はまだ生まれてません。テレビドラマ版が大人気放送されてたとき、僕はまだ5歳ですね。僕の6、7歳当時「少年ケニヤ」は何度か再放送されて見ているのでよく覚えています。
「少年ケニヤ」は1984年、東映の角川映画で長編アニメ映画化されて劇場公開されてますが、僕はこれは見ていません。
石川球太氏オリジナル漫画の「ザンバ」も物語設定は「少年ケニヤ」とよく似ています。同じように日本人少年がアフリカのジャングルで原住民-部族や猛獣と絡んでサバイバルする、冒険活劇漫画です。
僕が初めて「冒険王」を読んだときまだ6歳で、「冒険王」この年の3月号を読んだときから7歳になる訳だけど、子供の頃の僕はあんまり利口な子供じゃなくてデキの悪い子、ま、要するにバカ領域の子供でいわゆる劣等生で頭悪くて、漫画も子供向けでもあんまり難しいのは駄目で、内容が濃かったり深いのは駄目で、単純に正義の味方が悪い奴らをやっつける勧善懲悪ものが大好きで、6歳~7歳の僕には暗黒大陸アフリカのジャングルが舞台の少年冒険譚「ザンバ」は少々難しかったのか、当時はちゃんと読んでなかったですね。
「ザンバ」も10歳くらいになってたら、バカガキだった僕でもちゃんと読んだんだろうけど。6歳7歳時の僕は脳たりん度がひどかった。当時の「ザンバ」は漫画絵をパラパラ見てたくらいでちゃんと読んでなかったですね。だから「ザンバ」の物語のストーリーの流れを咀嚼してちゃんと理解してない。パラパラ見て雰囲気味わった程度かな。
僕が石川球太先生の漫画作品をきちんとちゃんと読み始めたのって、9歳以上か、10歳になった頃からだろうか。
石川球太さんの漫画で僕が面白いと割りと熱中して読み始めた漫画は、1963年の「まんが王」6月号から始まったSFロボット漫画「巨人ロロ」からだな。僕はまだ7歳だけれども、この作品は正義の巨人ロボットが悪のロボットたちと戦う、SF漫画だからな。子供時分の僕は「鉄人28号」「鉄腕アトム」に代表されるロボットSF漫画が大好きだった。
石川球太先生というと、狼や闘犬、野生サバイバルで苦闘する大型犬、野生の猛獣、ジャングル、大自然と闘う少年、などの大自然や動物を描いた作品が多く、そういったテーマ·ジャンルの漫画作品の専門家みたいに思われ勝ちですが、50年代末から60年代通しての漫画家-石川球太氏はさまざまなジャンルの漫画を描いてますね。
石川球太氏は50年代後半は少女漫画も描いてたし、SF漫画、怪奇スリラーもの、野球漫画など熱血スポーツものも多い。代表的な作品は大自然が舞台とか、野生動物や大型犬の苦闘を描いたものが多いですけど。
50年代後半~60年代は、少年誌の男性漫画家はさまざまなジャンルの漫画を描き分けてましたね。SF、熱血スポーツ、探偵·スパイアクション、ゼロ戦-太平洋戦争活劇…。少女漫画を描いてる男性漫画家も多かった。
僕も10歳を越える年齢になると、石川球太さんの漫画もきちんとちゃんと読んでました。1966年の少年サンデー連載の、マンモスとかとも戦う原始時代が舞台の「原人ビビ」とか、「少年画報」の「魔山マウジンガ」、1967年「少年画報」のテレビ特撮-怪獣もののコミカライズ「怪獣王子」、1968年の少年マガジン連載「野生犬ザボ」とか。
そういえば1965年の少年マガジン連載、「牙王」は読んでたと思う。僕はまだ9歳だけど。内容は忘れてるけど、狼と犬の混血種の大型犬の苦闘の物語ですね。北海道の大自然が舞台。日本の動物文学の第一人者、戸川幸夫氏の小説「牙王物語」が原作の漫画作品ですね。
石川球太氏の漫画作品には「野生犬ザボ」「人喰い鉄道」など、戸川幸夫氏を原作に迎えた作品も多いですね。
60年代通して石川球太先生は少年雑誌に引っ張りだこの売れっ子漫画家で、さまざまな少年誌で連載や読み切り短編を見掛けましたね。
ただ僕は、こういう言い方は大変失礼だけど石川球太先生の作品はそんなに大好きな漫画でもなかったので、雑誌連載のものは9歳10歳頃からちゃんと読んではいたけど、後にコミックス単行本で読み返したものはないと思います。無論、石川球太先生は僕が漫画を読み始めた時代から抜群に絵が上手く、ストーリーもしっかりしてて名作揃いなのですが、僕の漫画趣味の問題ですね。
戸川幸夫氏の動物文学を原作に持って来てたり、脳たりん子供の頭には難しかったのかなぁ。石川球太先生の作品で僕が面白いとけっこう熱中して読んだのはSFロボット漫画「巨人ロロ」くらいかなぁ。あとは、恐竜と侵略宇宙人の出て来る「怪獣王子」とか。
「ザンバ」はひょっとしたら貸本単行本にはなってるかも知れないけど、新書判コミックスの単行本化はされてないと思う。90年代にアップルボックスクリエイトからB6単行本が発刊されてるけど。
石川球太短編集 魔山マウジンガ (マンガショップシリーズ 136)
石川球太さんの短編漫画でなぜか印象深く、記憶に残り続けてる漫画があって、この短編漫画は多分、わずか16ページくらいだったと思うのだけど、ひょっとしたら20ページあったかも知れない、でも多分16ページくらいで間違いないと思う、その短編は、1966年の講談社·月刊「ぼくら」の5月号に掲載された読み切り短編でタイトルは「ヘンナ君のヘンナ物語」。
この「ぼくら」5月号は本屋さんで購入した雑誌で手元にあったので何度も何度も読み返して、お話もだいたい記憶している。何か好きなお話だった。病院内が舞台で主人公·ヘンナ君は入院してる子供なんだけど…。まぁ、ホラーっちゃホラーかな。オチでホラーでなくなるけど。一応、ホラー短編なんだろうな。ユーモア漫画ぽくもあるけど。今の時代ではあんまり詳しく書くとさしさわりがあるような。まぁ、ヘンナ君ですね。
石川球太先生の「ザンバ」は子供のときから知ってたけど「少年ケニヤ」を石川球太さんが描いてたのは知らなかったなぁ。多分、大人になるまで知らなかったと思う。山川惣治氏の絵物語、オリジナル「少年ケニヤ」の存在は、多分、子供時代から知ってたと思う。読んだことはないけど。
勿論、石川球太さんの「少年ケニヤ」は、テレビドラマ版「少年ケニヤ」の放送に当たってのコミカライズ版だけど。当時のドラマ「少年ケニヤ」は大人気-高視聴率のテレビドラマだった。一応、子供向けだったけど、たくさんの大人も見ていたと思う。大人の視聴者の評判も良かったと思う。
やっぱり、日本人の未知の世界、暗黒大陸アフリカのジャングルが舞台というのが大きかった。昭和30年代の日本人って、そんなにアフリカだのジャングルだの知らなかったと思うし。70年代くらいまでは、今はアウトな呼び方だけどいわゆる“土人”という、アフリカの裸で槍とか持って猛獣を含めた野生動物を狩って原始生活をする、アフリカのジャングルの直ぐ近くのサバンナとかで暮らす黒人の部族、というのに興味津々だった。昭和30年代はみんな、南米のアマゾンのジャングルとかもほとんど知らなかったし。
ジャングル冒険ものが流行した一番大きな要因は、日本のテレビ放送黎明期にアメリカ輸入ドラマ「ターザン」が大人気放送されたのが強いですね。後にアニメで「狼少年ケン」というジャングル冒険-少年ターザンものが、長期間連続放送されるし。
アニメ「狼少年ケン」は一つのジャングルに狼の集団とライオンやサイ、ゾウ、トラなど世界中の野生動物が混在するというムチャクチャ設定でしたが。
石川球太氏オリジナルの「ザンバ」は、石川球太版の山川惣治「少年ケニヤ」ですね。月刊「冒険王」連載当時の「ザンバ」は、雑誌連載されてた2年半の期間ほとんど常に別冊ふろくで着いてたし、だいたい本誌カラーページ掲載から別冊ふろくへと続くスタイルで連載されてた。当時の月刊誌の看板漫画は本誌カラーページ掲載から別冊ふろくへと続く形で連載されてた。「ザンバ」は「冒険王」の大人気漫画でしたね。
テレビドラマ「少年ケニヤ」はSFヒーローもの「ナショナルキッド」の放送が終了した直ぐあとの、同時間帯の番組だったんですね。やはり、ナショナル=松下電器の一社提供で。僕は「ナショナルキッド」が大好きで毎週欠かさず放送を見てたと思うし、多分「少年ケニヤ」も毎週見てたと思う。「少年ケニヤ」が放送された61年5月から62年2月は、僕は5歳ですね。勿論、「ナショナルキッド」も「少年ケニヤ」も後の再放送でも見てるけど。再放送時は7歳くらいで見てるんだろうな。「ナショナルキッド」オリジナル初放送時は僕は4歳ということになるな。「ナショナルキッド」の記憶は再放送ではっきりしたものになったんだろうな。
1961~62年の「少年ケニヤ」TV放送の冒頭タイトルバックの主題歌は子供の頃、好きな歌で、よく口ずさんでいたと思うが、歌詞の中の♪ナーダが味方だ という歌詞は、僕は最近までずーっと♪ガーナが味方だ と歌ってて、主人公ワタル少年を助けてくれる、マサイ族の酋長ゼガの名前がガーナだと思い込んでいた。完璧間違ってた。♪ナーダが味方だ と歌っていて“ナーダ”とはワタルが吹く笛の音が大好きでワタルの笛の音でワタルの味方をしてくれる、ワタルが危機に陥るといつも助けてくれる密林の大蛇だった。マサイ族の酋長-ゼガもワタルの味方だったよな。
当時の僕は5~7歳くらいのまだまだ幼児域の子供だったが、何か「少年ケニヤ」のヒロイン、ケイトの魅力に参っていたように思う。まだ子供だったのにケイトにセクシーさを感じ取っていたんじゃなかろうか、と思う。
ケイトもワタルのような身の上で外国人の少女ながらアフリカ部族の預言者に祭り上げられていて、一人二役でアメメ姫という少女もいたよな。同一人物か双子の生き別れか別人か、もう全く記憶してないけど。
関みどりさんという女優がケイトをやっていて、僕は何か生まれて初めての異性への憧れをほのかに感じていたような気がする。初恋とまでは行かないけど。
僕のまだまだ幼児域の時代の、初恋とまでは行かないけれど、生まれて初めての異性への憧れを感じた、当時のモノクロ·テレビの中の女性は、歌手の森山加代子さんと、「ナショナルキッド」の志村妙子=後の太地喜和子さん、それからケイト=アメメ姫役の関みどりさんかな。
80年代後半の「テレビ探偵団」の放送回の中で、ある週のゲストが「少年ケニヤ」をリクエストして、もう1人のゲストとして、多分、そうだったと思う、「少年ケニヤ」でマサイ族の酋長-ゼガ役の当時の俳優さんが出て、当時の撮影の苦労話などをしていた。
実際にアフリカまで行って撮影したのは背景だけで、役者の演じる物語のほとんどは日本で撮影されてて、ジャングル場面は日本の山中の森林で撮影したらしい。
ゼガ役の方が、冬場に山の中で裸で撮影したのでとにかく寒くて堪らなかったと話していた。このとき、長野の山林の中と聞いたように僕は記憶してたが、ネットで「少年ケニヤ」の撮影場所を調べて見ると、神奈川県内の山林だったと書かれてますね。
おもしろいのは、登場人物にアフリカ原住民の部族が多いのに、役者は全部日本人で、腰布以外裸だからみんな顔も身体も黒塗りして黒人感を出してる。
幼少期はそんなこと何も解らないから毎週、興奮して見てましたね。多分、実際にアフリカでロケしてるとか思って見てたんだろうな。ほとんどの出演者が日本人でほとんどのロケ地が日本の中だとは。子供だから部族が全員、黒塗りした日本人だとか気付かなかった(考えなかった)かな。
5歳の僕が心惹かれた美少女、関みどりさんは「少年ケニヤ」以外にもさまざまなテレビドラマに出演しているようです。僕が唯一記憶しているのは1965年のドラマ「空手三四郎」のヒロイン役だけですね。他にもドラマ「柔道一代」とか、当時の刑事ものドラマの1話脇役とかに出ていたみたいですね。ドラマ「隠密剣士」の1話の姫様役とか。当時のいろんなドラマの脇役·端役で出演してるみたい。劇場映画の出演もあるようですね。
関みどりさんは何でも1947年生まれらしくて1970年には俳優業を引退してるのだとか。1961年放映の「少年ケニヤ」当時は14歳くらいだった訳か。
「鉄腕マキ」-一峰大二 1962年-
僕が物心着いた4歳頃から、テレビは「月光仮面」的な正義の超人ヒーローものが大好きで、当時は時代劇も「白馬童子」みたいな、正義の超人剣士が悪党サムライ群をバッタバッタ斬ってやっつけて行く、子供向け活劇ドラマが大好きだった。
まぁ、僕は4歳頃から小学生時代いっぱいくらいまで、正義の超人ヒーローの勧善懲悪ドラマが大好きで、そういう番組はテレビに釘付けで見てた。
で、ね、プロレスも子供の頃から大好きだったんだけど、僕が育った地域では、力道山~ジャイアント馬場の日本プロレス中継は放送してなかったんだよね。僕の故郷でプロレス番組が放送されるのは、1968年1月3日放送開始の通称TBSプロレス中継から。まだ僕は小学校六年生だ。
国際プロレスは番組放送開始の当初はTBSプロレスと呼ばれ、設立タイトルはTWWA世界選手権とタッグ選手権で、僕はそれは記憶してなかったけど、番組名はTWWAプロレス中継だったらしい。プロレス団体は最初TBSプロレス、後に直ぐ国際プロレスと呼ばれた。
だから僕は小六までプロレスを知らなかった筈なのに、プロレス大好き少年で、力道山もジャイアント馬場もよく知っていた。確か、小学校のクラスでも小四·小五時代に休み時間にプロレスごっこをしていたと思う。
親父が、住み家の家屋の前部に併設された会社の事務所で、スポーツニッポンの新聞を取ってたのと、事務所にやって来る作業員の人たちが九州スポーツの新聞を置いて行ってたので、小学生ながらそれらを読んでいたのかも知れない。また、僕が子供の頃愛読していた何誌もの少年雑誌にはプロレス漫画の掲載も多かった。子供向けのプロレス記事も多かったね。
僕が漫画を読み始めたのは多分、1962年末頃から63年初頭で、僕はまだ小一で六歳だった。62年の11月か12月初め頃から当時の住み家の近所の貸本屋に毎日通うようになった。62年末~63年初頭から当時の少年月刊誌六誌を毎月毎号読み始める。
僕が6歳時、少年漫画を読み始めたとき、月刊誌「まんが王」に「鉄腕マキ」というプロレス漫画が連載されていた。
でも、確か「鉄腕マキ」の連載は直ぐに終了した。秋田書店の月刊誌「まんが王」の1963年2月号まで掲載されてたのは、はっきり記憶している。「鉄腕マキ」は「まんが王」1月号の掲載分で初めて読んだんじゃないかなぁ。
何しろ1963年初頭頃の話だし僕はまだ小一で六歳だ。「鉄腕マキ」の記憶はあやふやでぼーっとしたものだ。
「鉄腕マキ」はどーも貸本タイプで単行本刊行されてるみたいだが、僕は「鉄腕マキ」の単行本は読んでない。当時は雑誌連載漫画を貸本タイプの単行本化したときは、ほとんどB6判ハードカバーの96~136ページ本だった。まだ新書判コミックスは出ていない。「鉄腕マキ」は後の新書判コミックスにもなってないと思う。
「鉄腕マキ」で記憶しているシーンは、メキシコの砂漠が舞台で、主人公の若手日本人レスラー·マキが、崖の上から空飛ぶように飛び降りて、砂漠に林立する柱サボテンの一本にしがみつく場面。ギャラリーの人々が「飛んだ!」と叫ぶ。何故かこのシーンだけ印象的に覚えている。
「まんが王」の2月号掲載分か3月号掲載か解らないけど。「鉄腕マキ」の連載は直ぐ終わった、って記憶してるんだよね。多分、3月号くらいで終わったんじゃないかなぁ?どういう物語の閉め方だったか全く記憶にないけど。僕の六歳時だから今から61年か62年くらい前の話だしな。
「鉄腕マキ」は一峰大二さんのプロレス漫画です。日本プロレス界の父-力道山の弟子の少年レスラーの海外武者修行ストーリーですね。だいたい物語は主に1962年の雑誌連載中で、僕が漫画を読み始めたのが62年の暮れからですから、僕は「鉄腕マキ」ストーリーの主な部分は全く読んでいません。物語の終盤しか読んでないですね。でも何か「鉄腕マキ」は懐かしい思いがある。
日本で初めてプロレス興行を始めた人とか、日本からのプロレスラー第1号と言っても過言ではないような、日本プロレス界の父-力道山。海外、特にアメリカでプロレスをやっていた日本人プロレスラーは、力道山以前に何人か存在したでしょうけど、日本国内で初めて日本人にプロレスを認知させた人は力道山だったでしょう。力道山も大相撲力士を廃業して、プロレスラーとしてやって行くにあたって、アメリカに渡って武者修行した期間もあったと思いますけど。
日本プロレスの父-力道山は、1963年12月にナイトクラブ内でヤクザ者と揉めて刃物で刺され、その一週間後、病院で死去した。それまでは、少年漫画の人気ジャンルの一つであったプロレス漫画は、ほとんどの作品が力道山の活躍を描いたものだった。
1960~63年頃のプロレス漫画は、偉大なプロレス師匠-力道山の元で育つ少年プロレスラーを描いた漫画作品が多かったですね。代表作が、梶原一騎原作で吉田竜夫作画で、当時の週刊少年マガジンの看板漫画だった「チャンピオン太」。「チャンピオン太」は当時のテレビの子供向け実写連続ドラマになりました。
プロレス漫画でジャイアント馬場がクローズアップされるのは1964~65年以降ですね。力道山亡き後の日本のプロレス興行そのものの主役はジャイアント馬場になりましたね。一時期、豊登選手がエース扱いされてましたけど。豊登選手は68年以降は国際プロレスで活躍したけど。
1964年になるのかなぁ、割りと短期連載だったと思うけど、週刊少年マガジンに力道山亡き後の日本プロレスの豊登選手を主人公にしたプロレス漫画が連載された。タイトル忘れた。
1964年のマガジン1号から10号までの短期連載に、高森朝雄(梶原一騎)原作で水島朗作画のプロレス漫画「二刀流力道山」が掲載されてるんだけど、多分、同じ作者コンビの作品で豊登選手を扱ったプロレス漫画が、64年のマガジンに短期連載されたと思う。はっきりしなくて済みません。タイトルは「潜艦豊登」じゃなかったかなぁ?はっきり記憶してません。作画者は水島朗さんだと思う。
「二刀流力道山」の漫画は、63年12月15日に力道山が亡くなった後の週刊少年マガジンに連載されたんですね。週刊漫画誌の新年1号から4号くらいまでは前年の12月発売ではありますが。
秋田書店の月刊誌「まんが王」でプロレス漫画「鉄腕マキ」が連載されていた期間がよく解らないのですが、主な連載期間は1962年中で連載終了したのが63年の早い時期、遅くとも春先には終わったと思います。連載開始が61年の終盤か62年に入ってからなのかよく解りませんが。
「鉄腕マキ」の作者-一峰大二先生は、その後「まんが王」では「忍三四郎」という柔道漫画を連載します。「忍三四郎」の連載期間も済みません、よく解らないのですが、僕は「忍三四郎」は連載リアルタイムで読んでいます。この時代、僕は月刊「まんが王」を毎月購読してました。「忍三四郎」の主な連載期間は1964年中ですが、連載開始が63年の終盤なのか64年に入ってからなのか解らないですね。65年に入って早い時期には連載終了してたと思います。
一峰大二先生は漫画家デビューは1956年で、58年59年頃からは、どの少年雑誌にも連載·短編読み切りを載せるような、超売れっ子漫画家でした。60年代いっぱいは数多少年雑誌に連載を持ち、連載漫画を次々と継続して行く、超多忙漫画家生活を送っていたと思います。
後に“コミカライズの王様”と称される一峰大二先生はテレビや映画の、SFヒーロー特撮や怪獣映画の漫画化の作品が多いのですが、正義の超人ヒーローものから、忍者漫画、時代劇、野球·プロレスなどのスポーツ根性もの、ギャグ漫画まで、幅広いジャンルで漫画を描いていました。
70年代以降も「スペクトルマン」や「怪傑ライオン丸」など精力的に仕事をこなされてましたね。
「忍三四郎」はアメリカの大都会が舞台で、柔道漫画なのにギャングを相手に戦ったりしてたよーな、かすかな記憶がある。主人公の柔道家-三四郎は忍者の末裔で忍者の体力(体術)を持っている。柔道の試合場面もあって、怪人柔道選手と戦ってたよーな。
「忍三四郎」も連載時は全編読んでると思いますが、その後、単行本で再読はしてないので、ストーリーはよく記憶してません。
そもそも「忍三四郎」はその後のコミックスで単行本化されてるのかなぁ?どうなんだろう?貸本タイプでもされてないのかな?コミックスにはなっていない気がする。
僕が「忍三四郎」を読んだのも今から60年くらい前の8歳時9歳時だし。
僕の小学生時代、格闘技というか武術というか武道というか、そのジャンルの漫画はヒーローがほとんど全部、柔道家でしたね。空手使いは敵役の方。柔道を修練する少年が人格者の柔道の師の元で、格闘家としても人間としても成長して行くドラマ。
柔道を修行する少年~青年が、悪質な柔術家、プロレスラー、プロボクサー、空手家と決死の戦いを繰り広げる格闘アクション漫画。空手がクローズアップされるのは僕が中学生になってからで1968年以降くらいからかな。
正義の柔道少年~柔道家が悪の空手使いをやっつける物語ばっかりだった。代表的な作品が映画·テレビドラマの「姿三四郎」ですね。他にも柔道ものの映画やテレビドラマはいっぱいあった。
1965年9月から66年2月まで「空手三四郎」という30分の実写ドラマが毎週放映されたけど、そこまでの人気番組にはならなかったなぁ。
やはり空手がクローズアップされるのは梶原一騎が原作で漫画「虹をよぶ拳」が雑誌連載されて人気漫画となり、その後同じ原作-作画コンビで漫画「空手バカ一代」が連載されて爆発的人気を得てからだなぁ。
正義の最強格闘技は柔道から空手へ移り、そして最強格闘技はムエタイ&キックボクシングへ。そしてその後、ブルース·リー映画の大ヒットと雁屋哲原作漫画「男組」の人気連載で最強格闘技は中国拳法へと移る。
と、まぁ、「鉄腕マキ」のことはあんまり書けませんでしたけど。割りと印象深く記憶に残ってるものの、6歳7歳当時、わずか3回くらいの連載分を読んだ記憶だけですからね。60年以上前のかすかな記憶だし。
当時は子供の僕に取って、大好きだった勧善懲悪の等身大仮面ヒーローのテレビドラマとそのコミカライズ漫画と、プロレス漫画は同じ地平線上にあった物語だったですからね。
当時のプロレスは、正義の日本人レスラーが悪のアメリカ-怪物レスラーをやっつける構図だったし。力道山やジャイアント馬場の日本のプロレスマットにやって来る外国人レスラーとは、日本を襲撃する“悪”の怪物たちだったんですね。テレビでやってる、悪の怪人犯罪者どもを退治する仮面ヒーローの活躍、と同じ気持ちでプロレスを意識してた。
子供からすればプロレスラーも“超人”だったしなぁ。やって来る外国人レスラーは不気味な“怪物”だった。
子供の頃って、何かプロレスに対してゾクゾク·ワクワクする興味津々な気持ちがあったなぁ。小学生の頃は、僕らの地域はプロレスのテレビ放送がなくて、知り得る情報は少年漫画雑誌のプロレス漫画とプロレス記事、スポーツ新聞のプロレス記事、本屋の立ち読みで見るプロレス専門雑誌からだけだったからなぁ。そこから得た情報で、子供の想像力でワクワク興奮してたんだろうなぁ。
子供の頃は、ウチの親父が社宅となる住み家の前面に隣接する、会社の事務所で読売新聞と西日本新聞を取っていて、両新聞にも友達の家で見る朝日新聞や毎日新聞にも、野球や大相撲や他のスポーツの記事は詳しく載ってるのに、どうしてプロレスの記事が載らないんだろう?と不思議に思ってた。スポーツ新聞には載ったたけど。でもスポーツニッポンのプロレス記事は一紙面の隅だけで、そんなに詳しくは載ってなかった。九州スポーツは最初の一面から大きく載ってたけど。
プロレスが、八百長とまでは言わないけど、出来レースというか、シナリオのある、お互いに承知した試合を戦っているんだ、と解ったのは大人になってからだな。
子供の頃は、プロレスも他のスポーツと同じように真剣に一生懸命戦っている、普通のスポーツだと思い込んでいた。確かに真剣に一生懸命仕事をしているんだろうけど、最初からシナリオ込みでだいたいのあらすじをお互い解った上で試合していた。お互いの派手な技々をお互いが協力して掛かっていた。プロレスは派手な戦いを見せる興行だった。
僕が中三のときにテレビで見た、アントニオ猪木vsドリー·ファンク·ジュニアのNWA世界選手権の60分フルタイム引き分けの試合など、手に汗握ってハラハラ·ワクワクしながら見ていた。僕はまだ14歳だったなぁ。
大人になって、ボクシングの試合はほとんどの選手が3ヶ月から半年くらいの間を開けて試合してるのに、プロレスラーは毎日のように試合を行っている、身体が持つんだろうか?とかイロイロと考え、子供のとき周囲の大人たちが言ってたように、ヤラセの出来レースで演じてるのかも、と思い始めた。
決定的だったのは村松友視さんの「私、プロレスの味方です」シリーズを読んでからだな。
プロレスラーは真剣そのもので大真面目に一生懸命、仕事をしている。真剣に試合運びをやらないと大ケガをする。それも死に繋がるような大ケガをするかも知れない。本番試合で事故を起こさないように、毎日毎日厳しい訓練をして身体を鍛え上げ、超人的な肉体を作り上げている。そうしないと大ケガをするから。
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力道山:人生は体当たり、ぶつかるだけだ (ミネルヴァ日本評伝選)
KIMURA vol.2~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ KIMURA~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ (アクションコミックス)
多分、力道山以前にも日本国内でプロレス興行をやった人はいるんだろうと想像するけど、力道山は日本にプロレスを持ち込んだ人という印象は強い。大相撲力士を廃業してアメリカに渡ってプロレス修行をやって日本に帰り、日本プロレス協会を設立した力道山は、日本プロレス界の父と呼ばれる。アメリカでプロレスをやっていた日本人や日系人は力道山以前にもいた。
力道山は戦後にプロレスというスポーツ的な娯楽を持ち込んで、アメリカに戦争で負けた国民に、日本人レスラー·力道山がアメリカからやって来た怪物的で卑怯な外国人レスラーを空手チョップでやっつける、という試合を見せて、戦争で負けて疲弊し悔しい思いを溜めている国民の溜飲を下げさせて、力道山は国民の英雄となった。
力道山の死は僕の小学校二年生の二学期の終わり時で、その後も僕が高校生になる頃まで、力道山が本当は日本人じゃなくて在日朝鮮人だったとは知らなかった。力道山は大相撲力士の時代は朝鮮出身を公表してたらしいが、プロレスラーとして活動を始めてからは実は朝鮮人だということは隠していた。僕の少年時代も、周囲の大人たちで力道山が朝鮮人だと言ってる人はいなかったなぁ。知らない大人が多かったのか、薄々気が付いてたけど敢えて言わなかったのか。
戦後のプロレスブームの時代、力道山が朝鮮人だと公表してたら、あれだけの国民的ヒーローにはならなかったろうなぁ。
ただ、力道山はもともと朝鮮半島が日本だった時代に生まれていて、帰化説は諸説あって、長崎県の日本人養父母の間で育った少年時代に帰化していた、とか、実は朝鮮半島で育って朝鮮相撲の選手で日本の大相撲にスカウトされて日本本土に渡って来て、大相撲力士をやめたときに日本人に帰化したという説がある。いずれにしても力道山がプロレスラーとして活躍していたときは既に帰化していて、国籍は日本人だった訳ですね。
力道山がプロレスで活躍して日本国中の大人気だった時代、まだまだテレビ放送が始まったばかりの頃やテレビ黎明期、力道山の映画はいっぱい制作されました。力道山の活躍を描いた漫画も多かった。
僕が漫画を読み始めた6歳の頃は、力道山自身の活躍を描くというより、力道山が育てる愛弟子の少年レスラーの成長と活躍を描く漫画が多かったですね。
力道山さんはプロレスラーとしても魅力溢れる選手だっただけでなく、実業家としても優秀な人で、娯楽施設やマンション経営などさまざまな経営に乗り出してますね。経営者としても成功を納めてた39歳という若さで亡くなってしまったけど。
プロレスラーとして成功して弟子もたくさんできた30代後半頃は、プロレスよりも事業経営の方に関心が強かったみたいで、観客が力道山の試合が見たくて、まだまだメインイベントで試合に出なければならなくて、ちょっと熱意の冷めぎみなプロレス試合をこなすために、力道山は試合前に興奮剤を飲んでいた、という話がありますね。その興奮剤が覚醒剤であった、という説もあって、試合が終わった後も興奮が醒めず、試合後の酒場でよくトラブルを起こしたなどという話も出てますね。
力道山さんが亡くなって後、1960年代後半頃から70年代頃、真実の力道山を描いた小説や伝記の書籍がいっぱい書かれた。日本の戦後の英雄-力道山は、その時代、メディアでは正義の人格者みたいに描かれていたけど、実際は暴れん坊の相当ひどい人だったと描いた本。
僕は80年代後半頃、こうした力道山をモデルにしてモンスターとして描いた小説や、実は朝鮮人の力道山の本当の伝記、などの本を読みました。
酒場などで暴れてトラブルを起こすことがしょっちゅうだという話とか、プロレスの弟子の育成がほとんど虐待で、ムチャクチャなシゴキを行い、猪木などは走ってる自動車から道路に突き落とされたり、猪木は師匠-力道山に殺意を抱いたこともあったんだとか。一番弟子格の馬場も実は力道山の性格を蔑んでいたとか。
このとき、こういった本を読んで、子供の頃憧れた、メチャメチャ強い正義の超人だった力道山の真実を知ったかなぁ。
プロレス界には在日韓国人·朝鮮人や帰化した人が多いですよね。原爆頭突き-大木金太郎とか。大木金太郎さんも猪木と戦うまではずっと日本人だと思い込んでましたね。今は人気ユーチューバーの長州力さんもそうだし、プロレスラーには歴代、いっぱいいますよね。芸能人と同じような意味合いがあるのかな。
誰が書いたものだったか昔読んだ書物で、力道山が朝鮮戦争が休戦に入り、板門店の国境線まで旅行で訪れ、西側陣営で生活する力道山は北朝鮮領土へ入れず、国境線から自分の生まれ故郷、北朝鮮側の土地に向かって何か大声で叫んだらしい。同行した日本人の証言らしいが、何と言ったか聞き取れなかったとか。何かこの話は印象深く記憶しているなぁ。
僕が漫画を読み始めたのが1962年の暮れぐらいからで、当時の少年月刊漫画誌を読み始めたのが、62年12月号か63年1月号からだと思うんだけど、秋田書店発行の「まんが王」1月号で読んだ「鉄腕マキ」をはっきり覚えていて、同時に同じ秋田書店発行の「冒険王」の別冊ふろくで着いていた「少年プロレス王」という漫画も記憶にあった。
ただし「冒険王」新年特大号ふろくの「少年プロレス王」というタイトルは後にネットで最近知ったことで、別冊ふろくに読み切りのプロレス漫画があったというのは記憶していたが漫画のタイトルまでは覚えてなかった。
「鉄腕マキ」とこの読み切りの「少年プロレス王」の内容がよく似ていたので、僕の記憶ではずーっとどちらも作者は一峰大二氏だと思い込んでいた。でも後々ネットで見つけて、まったく違う作者だと解った。僕の完全な記憶違い。
「少年プロレス王」は金山明博という方だった。僕は金山明博さんという漫画家さんを知りませんでした。雑誌で描いていた方なのか貸本漫画家か、代表作は何なのか、まったく知りません。
ただ小一·6歳の子供の記憶にぼーっと、その時の「まんが王」と「冒険王」によく似たプロレス漫画が載っていたなぁ、くらいのあやふやな記憶です。「鉄腕マキ」も「少年プロレス王」も当時のプロレスヒーロー·力道山を師匠とする愛弟子の少年プロレスラーのお話です。ただ「少年プロレス王」は別冊ふろくに着いた読み切り漫画でしたね。
失礼しました。金山明博氏はアニメーターとして有名な方でした。最初は貸本漫画家として出発し、1964年65年頃は市販雑誌の少年誌にも漫画が掲載されてたようですが、65年に手塚治虫の虫プロに入社してアニメーターに転身したようですね。そこからはアニメーターとしてのキャリアを積んで行かれ、虫プロで数々のアニメ作品の制作に携わり、虫プロ倒産後はフリーのアニメーターとしてたくさんのアニメ制作会社の作品に関わり続け、還暦間近までアニメ制作の仕事をされてた方のようですね。
金山明博さんの経歴を見ると「冒険王」にて「少年プロレス王」を描いたのは1964年となっています。僕の記憶する63年新年特大号ふろくの読み切り漫画と「少年プロレス王」は別作品なんだろうか?何か解らなくなって来ました。
いや、やっぱり「少年プロレス王」は「冒険王」63年1月号の別冊ふろくですね。間違いないです。
また同じ漫画がね、まったく同じ内容かどうかはっきり解りませんが同じタイトル「少年プロレス王」で作者も金山明博氏で、63年「冒険王」のお正月増刊号に読み切り漫画が収録されてます。「冒険王」のプロレス&ボクシング特集号という増刊号ですね。
僕は当時の「まんが王」新年号と「冒険王」新年号を読んでいるのは間違いないですが、この「冒険王」お正月増刊号を読んだ記憶はありません。この「まんが王」は62年12月3日発売で「冒険王」は62年12月6日発売ですね。「冒険王」お正月増刊号の発売は62年12月15日になります。
このときの「まんが王」「冒険王」共に貸本屋で借りて読んでます。僕が6~11歳まで通ってた当時の家の近くの貸本屋。
「ブラック巨人」-どやたかし・作画-
「ブラック巨人」は1964年の週刊少年マガジンの夏季に連載されました。はっきりした連載期間がよく解らないのですが、64年マガジンの第28号に新連載されて、第39号か40号あたりまで連載されたと思います。10回と少しの連載なので短期間といえば短期間なので、週刊マガジンの短期集中連載かな。
僕の記憶では巻頭での2色カラーや4色カラー扉などでの掲載がなく、連載期間中ずっとマガジンの後ろの方の掲載だったから、漫画の人気そのものはあんまり出なかったのかなぁ。
「ブラック巨人」はSF漫画で、どうだったろう?宇宙人とかではなくて正義の天才科学者が作り出した超人だったような。はっきり覚えていませんけど。ふだんは主人公少年の影の中に潜んでいて、少年に危機が迫ったり、少年が呼び出すと現れるスーパー巨人だったような。
ブラック巨人はロボットでもなかったよな。主人公少年の父親が科学者で、そのお父さんが作った正義の超人じゃなかったかなぁ?それともやっぱり宇宙人だったのか?解りません。
どーも、「ブラック巨人」の週刊少年マガジン連載期間は1964年第28号から40号までの13回みたいですね。
「ブラック巨人」はその後、まとめたものが単行本化されたのだろうか?まだ貸本があった時代だもんな。コミックス単行本化はされてないんじゃないかな。貸本だとA5ソフトカバー単行本かB6ハードカバー単行本。コミックスだと新書版。新書版コミックスが登場するのは1966年からだと思うから、この時代に仮にもし単行本化されてたなら貸本だな。
原作者と構成作家と作画者と三人も絡んでるので単行本にするのが難しいとかあったのかな?どうか全く解りませんけど。
構成作家として、この時代まだまだ売れっ子漫画家の堀江卓氏が間に入ってるんだな。A5貸本でばかり描いて来たどやたかしさんがB5雑誌で描くので、要領が解らないだろうと、画面構成を堀江卓さんがやったのかな?
堀江卓さんは1950年代後半から63年頃までは、「矢車剣之介」「天馬天平」「ハンマーキット」「太陽仮面」などの連載で少年雑誌界で超売れっ子だった人気漫画家さんです。少年雑誌では60年代後半まで主に忍者ものなど時代劇アクション漫画を描いてました。漫画家としては50年代後半から60年代前半の“大家”と呼んで良い作家さんだと思う。
堀江卓さんは「スパイキャッチャーJ3」や「少年ハリケーン」などの現代ものアクション漫画も人気がありましたね。
堀江卓さんは「ブラック巨人」連載当時は同じマガジンに「隠密剣士」を描いていた。テレビの大人気実写忍者アクション時代劇のコミカライズ。
どやたかしさん作画のSF漫画「ブラック巨人」は、週刊少年マガジン連載時はリアルタイムで全回読んでるのだけど、後にコミックスなどまとめたものを読んでないので、何しろ数十年前の記憶だし、覚えていることがあまりない。コミックスにもなっていないような気がするんだが…。
エピソードはね、3話くらいあって最後の事件は、対敵が巨大なトンボだった。大きな湖だっけか河川だっけかで巨大なヤゴが発見され、それがやがて巨大なトンボとなって人間を襲う。体長15メートルくらいありそうなオニヤンマの超でっかいの。
「ブラック巨人」のことは、主人公少年の影から現れて身長10メートルくらいの大きい超人で、エピソードの一つに超でかい怪物オニヤンマが出て来て、ブラック巨人と戦うことくらいしか覚えてないな。その巨大トンボは一匹だけじゃなくて何匹もいたような…。はっきりしません。
「ブラック巨人」作画者のどやたかしさんは貸本漫画家で、構成クレジットで名前の着いてる堀江卓さんは1950年代からの大人気超売れっ子漫画家で、原作者クレジットのおかしのぶさんて誰なんだろう?おかしのぶさんて名前のヒット歌謡曲の作詞家がいたような記憶があるのだが…。
“おかしのぶ”さんをネットで調べました。漫画原作者でも歌謡曲作詞家でも小説家などでも、“おかしのぶ”さんの名前は見当たりませんでした。ネットで調べてもおかしのぶ先生が何者なのか誰なのか全く解りませんでした。歌謡曲の作詞家で見たことがあるような気がするのは、僕の勘違いでした。
歌謡曲の作詞家の名前では結城忍さんがいて、演歌など歌謡曲の作曲家では岡千秋さんがいますが、おかしのぶさんの名前は見つかりません。もっとずっと若い人なら女流歌人で岡しのぶさんがいますが「ブラック巨人」当時は生まれてません。絵本作家にもおかしのぶさんが存在するようですが、この方も若い人ですね。
「ブラック巨人」の原作者、おかしのぶさんがどういう方か全く解りませんでした。勿論、他に何か携わった作品があるのかどうかもさっぱり。
やっぱり“おかしのぶ”さんの関わってる漫画作品は1964年の「ブラック巨人」しか見つかりませんねぇ。誰か他の漫画家や作家の覆面ペンネームかも知れませんね。「ブラック巨人」が当時話題になって人気の高い長編漫画だったら、例えば「エイトマン」や「スーパージェッター」みたいにテレビアニメ化とかされてたなら、何か当時の情報が残ってたのでしょうが、当時の「ブラック巨人」は毎週、マガジンの最後の方にカラー扉一度もなく掲載だし、連載は13回で終了だし、そんなに子供人気も出なかったし。
“おかしのぶ”さん、解りませんでした。1964年時を単純計算しても今から59年前だから、今現在ご存命だったとしても、かなりなご高齢ですね。
どやたかしさんの漫画は僕の小学生時代、貸本漫画でよく読んでました。僕がほとんど毎日、当時の住み家の近所の貸本屋に通っていたのは、小一の晩秋頃から小五の初めの春頃までですね。約4年間くらいかな。
主に貸本漫画を描いていたどやたかしさんは、貸本漫画の中では絵は上手い方で、貸本劇画の絵柄でしたね。僕はどやたかしさんの漫画は貸本漫画出版プロダクション、横山プロの貸本単行本で読みました。横山プロは漫画家·横山まさみち氏の会社ですね。
僕は市販雑誌の掲載では、どやたかし先生の作品はマガジンの「ブラック巨人」だけしか記憶してないけど、多分、他にも短編読み切り作品などを多数、市販の少年·少女誌に描いていると思います。
横山プロから刊行したどやたかしさんの貸本漫画作品は、絵柄も劇画タッチ系なのでアクション劇画が多かったように思います。少女漫画系も描いていて、少女漫画はホラー漫画ですね。ホラーやサスペンス。
どやたかしさんには青春漫画もあったように思うな。恋愛コメディーというよりも割りとシリアスな内容の青春漫画。ちょっと人生ドラマ系かな。
横山まさみち先生は自分とこ横山プロから「独眼探偵シリーズ」や「ファイトメンシリーズ」などの探偵アクション劇画や、「あぁ青春 シリーズ」のような学生青春ものをシリーズとして定期刊行していました。
そういう横山プロのシリーズ漫画の単行本の後半部の中の巻末20~40ページくらいによく、どやたかし先生の短編青春漫画などを掲載してました。短編サスペンスものなどもあったと思います。
どやたかしさんのことをネットで調べたのだけど、デビューは貸本漫画で1960年のようですね。最初は時代劇ものが多かったようです。剣豪時代劇。アクション劇画やサスペンスものも多いみたいですね。
横山まさみち先生の横山プロに参加したのは遅くて、マガジンの「ブラック巨人」の連載を終えた1964年10月からのようですね。僕の記憶ではどやたかし先生の貸本漫画は主に横山プロ発刊本で読んでいるのですが、僕が本格的に漫画を読み始めたのは1963年初頭の年齢7歳になる直前くらいからだから、どやたかしさんの横山プロ参加以前の、太平洋文庫発刊の貸本でも作品を読んでいるでしょうね。横山プロ以前は主に太平洋文庫で描いていたようですから。
漫画家-どやたかしさんは貸本時代もギャグ漫画以外は、時代劇から現代アクション劇画、シリアスなドラマ、青春もの、少女漫画系のスリラーやサスペンスものと、さまざまなカテゴリを器用に描き分けていました。どちらかというと劇画系の絵柄で貸本漫画家にあっては絵の上手い方でした。
戦後の貸本漫画は1967年~68年頃になくなってしまって、そのとき、数多くの貸本漫画家が市販雑誌に移って行ったのですが、どやたかしさんも60年代後半は市販雑誌に行って描いてますが、僕の記憶だとどやたかしさんの作品は少年雑誌で見た覚えがないですね。
多分、どやたかしさんも60年代後半、仮に長編連載がなくとも短編読み切りなどで少年雑誌で作品を描いているとは思うのですが、どーも、僕は読んだり見た覚えがないですね。
どやたかし氏は、60年代後半からは週刊マーガレットなど少女誌に作品を描くこともあったようですが、貸本消滅後の60年代末から70年代、成人コミック誌に多数、作品を描いているようですね。
60年代末頃から漫画出版界は青年コミック誌が何誌も創刊されて、70年代に入ると劇画全盛時代となり、青年コミック誌、成人コミック誌、エロ劇画誌などの“大人の漫画”が隆盛となり、劇画系漫画家が引っ張りだこになりました。
“大人の漫画”と言いますか、エロ的な描写も含む内容の漫画~劇画ですね。青年誌、成人誌だけど、早い子は高校生くらいから読んでたと思います。大人の鑑賞にも耐えてエロ描写もある、青年~成人対象のコミック誌ですね。
60年代後半からはもう大学生が漫画を愛読する時代になってましたから、67年~70年頃に創刊された青年コミック誌は、大学生が読者対象という面も大きかったですね。
どやたかし氏はその絵柄が劇画的で少年誌には合ってなかったのか、貸本消滅後は成人コミック誌での作品提供が多いですね。画風だけでなくストーリーの内容など作風も大人ウケだったのだと思います。
ビッグコミックなどの青年コミック誌での寄稿はどうだったのかなぁ?双葉社の漫画ストーリーなど主に成人コミック誌への寄稿が多かったようですが、平凡パンチなどのヌードグラビアの載った若者情報誌への劇画作品寄稿もあったようですね。
どやたかし氏は、60年代末頃からの、青年誌~成人誌に作品を発表する際は、作家名「どやたかし」ではなくて「牧真介」というペンネームを使っていたようですね。この牧真介の名前は、貸本時代、まだ横山プロに参加する前の太平洋文庫などで作品を出すときにも、ときどき使用していたようです。
どやたかし氏の漫画は、特に僕が小学生時代、当時の貸本で借りて愛読していたので懐かしいです。
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