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●漫画・・ 「BROTHERS -ブラザーズ-」..(1)

 小池一夫先生の原作(ストーリー)作品で、感動した作品や熱中して読んだ作品、好きな作品はいっぱいありますが、この漫画も大好きな作品でしたねえ。小池一夫氏原作、叶精作氏作画、時代を代表した両劇画作家の渾身の力作SF、「BROTHERS -ブラザーズ-」。いやあ~、この劇画は面白く読んだなあ、当時。雑誌GORO連載時も読んでたし、その後にコミックスでも全編読みました。小池一夫作品中でも、大好きなSFアクション劇画です。

 掲載された雑誌が、小学館発行の青年向けグラビア情報誌「GORO」で、若くて綺麗でスタイル抜群のおねえさんやアイドルの、グラビア写真主体の青年誌で、「BROTHERS」の内容も、読者の中心層である青年ウケに、エロエロ描写が多用され、それは叶精作氏一流の作画力で、アクションシーン同様に激しいファックーンも迫力抜群に描ききっていて、漫画で、破壊・活劇シーンと共に、エロエロ・エッチシーンも堪能できます。まあ、この作品は、前作「実験人形ダミーオスカー」の終了に伴い、続いて同作画コンビで連載された劇画作品ですからね。前作「実験人形ダミーオスカー」も、かなり激しい性描写多用劇画でしたからね。

 SFアクション劇画の傑作、「BROTHERS -ブラザーズ-」は、隔週刊(月二回刊)誌GOROに、1985年10月から90年4月までの期間、長期連載されました。足掛け5年の長期連載でしたが、隔週刊(月二回刊)誌連載だったし、一回一回の掲載がそんなに大増ページでもなかったので、まとめられたビッグコミックスでは全9巻で刊行されました。ただ、グラビア誌GOROは写真主体誌ということで、通常の雑誌よりも大型誌だった。女性ファッション誌と同じA4判だったのかな。今、手元に当時のGOROを持ってないので、掲載はどうだろう?毎回16Pか20Pくらいかな(?)。

 「BROTHERS」は、80年代後半から90年代、小学館ビッグコミックスで全9巻で発刊されて後、2000年代に入ってから小池一夫氏の出版社、小池書院からいわゆるコンビニ版のスーパーワイドシリーズで全5巻で発刊されました。小池書院からはコミックス版が90年代半ば頃に発刊されてますね。

 青年向けのグラビア情報誌GOROは、若くて美しいスタイル抜群の日本人モデルや女優、アイドルのグラビア写真が主体で、あとは時代の流行、乗用車から性関係、イベント・行楽などなどの、若者向けのトレンド情報の読み物がイロイロと掲載されてました。ある種、若者向けの、都市型ライフスタイル誌かな。女の口説き方から、いざコトに至るまでの、ハウツー指南みたいな記事も毎回載ってたように思います。漫画の掲載は1本か、せいぜい2本くらいでしたね。

 僕も若い頃は、このGOROも含めて、週刊プレイボーイや平凡パンチなど、巻頭ページに、その時代時代の人気美女たちのカラーグラビアが載った、青年グラビア情報誌をよく買って来てました。僕は、まあ、それは何度かは写真集も買ってますが、その時代の若い美少女アイドルなどの写真集というのは、そんなに買ってはいません。それでも、20代30代、何冊かは買いましたけどね。でも、GOROや週刊プレイボーイなどの青年向け雑誌は、しょっちゅう買って来てましたね。特に20代ですが。30代になってからは、そんなに頻繁には買ってないかなあ。

 本屋で立ち読みして時間潰してるとき、グラビア雑誌なんかをパラパラやってると、最初買う気がなくても、つい買って来ちゃうんですよね。まあ、昔の話ですが。で、買って来て家に置いとくと、そんなにアイドルの写真を見るものでもない。雑誌の中の若者向け記事も、僕は自動車にも若者向けおしゃれの洋服にも、全く興味がない方だったし、中身の記事もパラパラやるだけでしたね。あの当時の僕の関心て何だったんだろう。映画とSFとミステリ小説とプロレスくらいか。観光とか名所旧跡にも全然興味なかったから、旅行にも関心なかったし。記事は読まなくて、あの時代は部屋に、漫画雑誌とコミックスと、グラビア情報誌が溜まる一方だったなあ。本当にGOROもよく買ってたよ。

 週刊平凡パンチの休刊、事実上の廃刊が1988年10月か。1974年6月に創刊されたGOROの休刊は1991年いっぱいでしたね。事実上の廃刊。だから、「BROTHERS」の連載終了から1年半くらいで、本体の雑誌そのものがなくなっちゃったんですね。その後、小学館は似たようなグラビア雑誌、「sabra -サブラ-」を創刊して出版し続けたけど、やがてやって来たネットの時代に、グラビア誌は淘汰されましたね。それでもサブラは、2010年までも続いたんですね。  

 ※今回はタイトル「BROTHERS -ブラザーズ-」なのに、肝心の漫画のことを一つも書き込んでないので、ここの記事「BROTHERS -ブラザーズ-」..(1)はこれで終わらずに、「BROTHERS -ブラザーズ-」..(2)へと続きます。続きは「BROTHERS -ブラザーズ-」..(2)をお待ちください。誰も待ってないだろうけど、待たれよ、次回。

※[2015-11/27]「BROTHERS -ブラザーズ-」..(1)

※[]「BROTHERS -ブラザーズ-」..(2)

 後で思い出したんだけれど、当時の青年雑誌「GORO-ゴロー-」には、落合信彦さんの若者向けの人生相談コーナーが載ってて、その連載タイトルが「ブタは死ね」だった。迷える若者を叱咤激励する人生相談で、かなりキョーレツな叱咤ビシバシ内容の文面だったように思う。後に単行本化されたときのタイトルが「狼たちへの伝言」だったのかな(?)。「狼たちへの伝言」は確か続刊して、全部で二巻か若しくは三巻まで出てると思う。GORO連載時は初め、人生相談だったけど、途中からエッセイになったんだっけ(?)。もう昔の話なんで、あんまりよく憶えてないけど。

 「ブタは死ね」はGOROのいつ頃から連載され始めたんだろう?僕がGORO誌上で読んでたのって、どうだろう、僕の20代末頃から30代前半くらいか。僕は、30代には落合信彦氏の著書をよく読んでた。だから、「狼たちへの伝言」も買って来て読んでる。続刊の2巻とか3巻を読んだかどうかまでは憶えていないけど。

 僕がGOROを購読していた時代は、綺麗でナイスバディなおねえちゃんたちのグラビアを見たかったのも勿論あるが、落合信彦さんのこの人生相談及びエッセイを楽しみにしていたのもある。掲載は一回、見開き2ページかせいぜい3ページほどだったけどね。

 もともと僕は男の子に生まれたくせに傷付きやすく、社会に出てからはいつも傷付き落ち込んで、よく真っ暗闇状態に陥ってた。そんなとき、週刊プレイボーイの今東光大僧正の「極道辻説法」や、このGOROの「ブタは死ね」とか「狼たちへの伝言」は、元気を取り戻すための一つのカンフル剤だった。

 しょっちゅう傷付いて落ち込んでた、若い頃の僕は、家に帰るや、前向きな自分を取り戻すために、とにかく精神状態を元に戻さないといけないと、ステレオセットかヘッドホンで、ハードロックかビートの効いたアップテンポの明るい曲を、大音響とまでは言わないまでも、大きな音で聴きまくってた。元気を出す曲は主に、洋楽の明るい曲調のロック・フォークだった。とにかく、外で傷付いて落ち込んで帰って来ては、家で、アップテンポのロックやフォークで、自分の精神を、頑張れ、負けるな、ってビートの効いた音でビシバシ叩き続けて、元気が戻るのを待った。あれがほとんど毎日の作業だったな。

 そんなしょっちゅう傷付いて、よく真っ暗闇状態に陥ってた僕に、しっかりしろよ!と声掛けて、叱咤激励で僕の胸や背中をビシバシ叩いてくれたのが、当時の「極道辻説法」や「狼たちへの伝言」だったですねえ。あと、快活な主人公が諦めずに負けずに困難に挑み、頑張り、困難と果敢に戦う内容の、ヒーローコミック。ヒーローコミックったって、SF超人ヒーローものでなくて、探偵アクションものやスポーツもの、格闘漫画。読んで元気の出そうなコミックも、あの当時の僕に取っては、元気を取り戻すための栄養ドリンクみたいなものでしたね。

 「狼たちへの伝言」もそうだけど、20代末から30代半ば頃まで、国際政治レポートエッセイも含めて、落合信彦氏の著書はけっこう読みましたね。落合信彦氏のエッセイには、アラブ地域等途上国の、戦争・紛争の国際問題に関して割いているページ数も多く、僕に取っては何だか、劇画の「ゴルゴ13」からの流れで、落合信彦の著作に行き、船戸与一の冒険小説へと行ったという感じがします。僕の読書遍歴ですが。読んでた時期は、みんな重なってますけどね。船戸与一氏の冒険小説群も、舞台はほとんど、第三世界や途上国でしたからね。

  だから、昔から心臓のタフな人は羨ましかったですね。ふてぶてしい精神の持ち主とか憧れでした。神経が細く、傷付きやすく直ぐ落ち込んでしまう、という性格は直りませんね。僕も、格闘技を習いに行ったり、毎日朝晩、朝晩て晩は深夜が多かったけど、走ったりナワトビ跳んだりして、身体を鍛えてみたけど、こういうヤワなハートというか、精神の脆さは変わりませんね。駄目です、こういった気質や性格は直りません。もう生まれ持った気質や性格として、上手に付き合って行く他ないと思います。気質とか性格というものは、若しかしたら、子供の頃なら変えることができるのかも知れないけれど、もう大きくなって出来上がっちゃうと直らないですね。持って生まれた性格です。そういえば、若い頃毎日やってた、深夜の一人トレーニングは、負けるもんか、負けるもんか、って自分に言い聞かせて激しい運動してたんでしょうね。もう、深夜戸外での、一人トレーニングやらなくなって久しいから、懐かしいな。

 

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●漫画・・ 「ナガシマくん」

 戦後、1946年11月に創刊された、光文社発刊の児童雑誌、「少年」の黄金期に連載が始まった、わちさんぺい先生の代表作の一つ、「ナガシマくん」は連載開始の第一回が1959年の新年号で、連載終了が64年の8月号でした。いわゆるギャグ漫画のカテゴリでしたが、当時はけっこう子供人気の高い漫画作品でした。このジャンルが“ギャグ漫画”と呼ばれるのは64年か65年頃からで、「ナガシマくん」が人気絶頂の頃は、このジャンルは“ゆかい漫画”と呼ばれてました。わちさんぺいさんの作風は、お笑い系漫画が多いのですが、そのコメディー味はのどかでほのぼのとした雰囲気のものでした。「ナガシマくん」は一応、お笑い系のコメディー漫画ですが、草野球が大好きで勉強が苦手で、早とちりや間の抜けたコトが多い、オッチョコチョイな子供を、ユーモラスに描いた、等身大の“ギャグ漫画”でした。この時代の“ゆかい漫画”は「ギャグ」という言葉が持つ感じ、スピード感やブラックユーモア味や過激な笑い、という雰囲気が、およそ相応しくない、のどかでほのぼのとしてゆったりした笑いの、安心して見れる漫画でした。

 日本で「ギャグ」という言葉が使われ出したのは、いつからで誰からなんだろう? 漫画作品だと赤塚不二夫先生の「おそ松くん」からで、1962年から週刊少年サンデーで連載が始まった「おそ松くん」も、初めの頃は“ゆかい漫画”と呼ばれていた。長期連載が続いた「おそ松くん」も、64年か65年頃には“ギャグ漫画”と呼ばれていたと思う。僕は、日本の児童漫画史上最初に、“ギャグ漫画”と冠せられて呼ばれた漫画作品は「おそ松くん」だと思っています。では、「ギャグ」って何処から出て来た言葉なんだろう? ギャグは勿論、もともと英語のgagで、戦後進駐軍と一緒に入って来た言葉なんだろうけど、日本のメディアで最初に“ギャグ”って呼ばれたのは、コミックバンドのクレイジーキャッツなんじゃないかな、と思う。クレイジーキャッツも当初は、進駐軍のキャンプの舞台に立ってジャズを演奏しながら、間にイロイロとパフォーマンスの笑いを挟んで、観客である米兵たちの笑いを誘っていた。進駐軍が引き揚げた後、日本の舞台に立ち、やがてテレビに出始めたクレイジーキャッツは、同じスタイルでちゃんとしたジャズ音楽の演奏もやりながら、コミックバンドとしても随所に笑いを入れて、パフォーマンスをして行った。そのクレイジーキャッツのコミックバンドとしての笑いが、日本で最初に“ギャグ”と呼ばれたんじゃないかなあ、と僕は思うのだが。

 64年か65年には“ギャグ漫画”と冠せられた「おそ松くん」も、初めは“ゆかい漫画”と呼ばれていた。「おそ松くん」以前は「笑い」をテーマにした漫画作品は全て、統一されて“ゆかい漫画”と呼ばれていた。「おそ松くん」以前は、このジャンルは、ほのぼのとした子供の生活をおもしろおかしく描いた漫画が多かった。中には奇天烈なものもありましたけどね。奇天烈な“ゆかい漫画”っていうと何だろう、例えば、集英社が発行してた雑誌「日の丸」に連載されてた、大友朗氏の「日の丸くん」だとか、同じく集英社の「少年ブック」連載の、益子かつみ氏の「サイコロころ助」だとか、かなあ。同じく益子かつみ氏作画の少年サンデー連載、「快球エックスあらわる」だとか。だいぶ古くなるけど、杉浦茂氏の「猿飛佐助」とか。カテゴリ的には“ギャグ漫画”領域なんだけど、設定がSFだったりぶっ飛んだ忍者ものだったり。中にはそういう“ゆかい漫画”もあった。

 また、赤塚不二夫の「おそ松くん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」以前は、当時の子供の等身大の生活が舞台で、のどかでほのぼのとしたゆったり感のユーモア漫画が多く、また、ストーリー漫画も随所にちょっとした“ギャグ”を入れていて、「ストーリー漫画」と「ゆかい(ギャグ)漫画」の境界があいまいでしたね。当時の草野球に打ち込む少年たちを、ほのぼの描く漫画作品も多かった。また、ストーリー漫画も絵柄が、かなりデフォルメされていて、まるっこい線で描かれる絵柄は、ゆかい漫画とそんなに変わりはなかった。60年代初めに光文社から刊行されたハードカバー単行本の「ナガシマくん」も、冠せられたキャッチは“ゆかい漫画”ではなく“少年野球漫画”でした。また上記文中で挙げた「サイコロころ助」も、絵柄や主人公の姿形は“ゆかい(ギャグ)漫画”でも、内容はほとんどストーリー漫画でしたし。

 僕が漫画を読み始めたのは、1962年の終わり頃からで、雑誌「少年」を読み始めたのは63年に入ってからだと思います。だから、多分、1959年から連載の始まった「ナガシマくん」も読み始めたのは63年からで、「ナガシマくん」の月刊誌「少年」連載は64年で終わる。戦後昭和の、舞台は東京なんでしょうね、住宅地の多分、当時の商店街に並ぶ理髪店が実家で、商店街といっても賑やかな商店街でなくて、ちょっと地味目な商店街かな、そこの一軒の小さな散髪屋の小学生の息子が、主人公のシゲオ君。家族は、カミナリオヤジの面もあり怒ると怖いけど、一家の長として頼りになり威厳のある、理髪店主のお父さん。理髪店を手伝う、綺麗で優しいけど、内心はしっかりしていそうなお母さん。可愛い妹。昭和の、暖かな、ステロタイプの理想的な家庭ですね。安心して見ていられる理想的な、暖かい家庭。勉強は苦手だけど、素直な良い子で、草野球を一生懸命頑張る主人公、ナガシマくん。ナガシマくんは、巨人軍の長嶋茂雄選手を神と崇めて、憧れている。主人公の、おっちょこちょいや早とちりや失敗が引き鉄で、お父さんなど周囲を巻き込んで、騒動を繰り広げて、ほのぼのとした笑いを誘う、安心して読める暖かなユーモア漫画ですね。

  実は僕は、わちさんぺい先生が亡くなられていたことを、不覚にも、長い間知りませんでした。そういえば、わちさんぺい先生は、今お幾つになられるのか、と何気なく思い、調べたら既に99年に亡くなられており、僕は驚きました。わちさんぺい作品に触れると、僕がわちさんぺい先生の、おっとりゆっくりした絵柄とほのぼのとした作風の、「ナガシマくん」や「火星ちゃん」などの、わち先生独自の“ゆかい漫画”に浸っていた、僕の小学校低学年から中学年だった時代を思い起こし、決して戻っては来ない時の郷愁感に、何だか物悲しくもうっとり浸りますね。わちさんぺいさんの漫画は、過ぎ去った昭和30年代40年代初め頃を、郷愁と共に呼び起こす装置の役目を持ってますね。

 僕の小学生時代、少年漫画の月刊誌は六冊あって、僕の育った地方では、「少年」「少年画報」「冒険王」「少年ブック」は毎月の5日か6日の店頭発売で、「ぼくら」と「まんが王」は毎月1日か2日には店頭発売されていた。多分、二誌は、毎月1日の夕方には店頭に並んでいたと思う。62年から近所の貸本屋に毎日通って漫画本を借りていた僕だったが、普通の本屋で漫画雑誌購入し始めたのは63年からだ。いや正確には、62年中でも何誌か漫画本を購入している。はっきり記憶しているのは、集英社の月刊漫画誌「日の丸」62年8月号。それと多分、小学館の学年誌も二、三冊くらいは買って来ているだろう。ただ、僕は62年内は字が読めなかった。ひらがなさえ。だから、「日の丸」買って来たものの、兄貴が読んだだけで、僕は読めなかった。漫画の絵だけは眺めていたけど。幼稚園も保育園も行ってなく、親兄弟や周囲の誰も字なんて教えてくれなかったから、多分、ひらがなが読めるようになったのが小一の三学期に入ってからだ。いや、しかし僕はねえ、頭悪くて、小学校の勉強がことごとく解らなかったんだよねえ。小学生時の僕の教科書は、購読する漫画雑誌と、毎日借りて来る貸本漫画でしたね。後はテレビのヒーロードラマとお笑いバラエティーか。それと、田舎の子供なんて、当時の親なんて大半は、学校さえやっときゃ文字の読み書きから日常の計算から、普通常識的なことは黙ってても、学校で教えてくれて、子供は自然と覚える、くらいの意識の人が多かったろうしね。

 63年から僕は、講談社の「ぼくら」や秋田書店の「まんが王」を毎月購読し始めた。「まんが王」には62年から63年の春頃に掛けて、わちさんぺい先生の「発明先生」というSF調のゆかい漫画が連載されていた。多分、3月号までで「発明先生」は終わったと思うんだけど、「発明先生」のお話の最後頃に、主人公の発明先生が二機(二体)の子供型ロボットを作った。これが“モーちゃん・ター坊”で、「まんが王」63年4月号くらいから、「発明先生」の続編で、「モーちゃん・ター坊」という漫画が始まった。漫画の主役は、発明先生からモーちゃんとター坊に移った。モーちゃんとター坊が活躍するSF冒険調のゆかい漫画「モーちゃん・ター坊」にも、生みの親である発明先生も時々出てた。この漫画、どのくらいまで続いたんだろうなあ。63年いっぱいくらいだろうか。64年まで続いたのかなあ。「モーちゃん・ター坊」になってからも、あんまり長くは連載が続いてはいない気もするんだが(『まんが王・新年特大号』の別冊ふろくに『モーちゃん・ター坊』があるということは、少なくとも64年1月号には掲載されている、というコトですね)。わちさんぺい先生は、50年代末頃から64年頃までは、児童漫画誌では、割と人気のあった漫画家さんだったと思います。59年から62年まで「少年画報」に連載された、「豆パンチ」だとか有名ですね。後は、「少年ブック」に60年から64年まで連載された、「火星ちゃん」は人気漫画でしたね。この時代には、少女誌にも連載を持ってたし。僕が本格的に漫画を読み始めるのは63年に入ってからなので、わち先生の代表作の一つ、「豆パンチ」はリアルタイムで読んだことはありません。「火星ちゃん」は「ナガシマくん」ほどは印象深く覚えてはいませんが、勿論、当時の「少年ブック」誌上で読んだことあるし、後に単行本で読んでますね。

 昔のポンチ絵から発展して、「のらくろ」や「冒険ダン吉」的な漫画を経て、戦後の手塚治虫の築いたストーリー漫画には行かずに、昔ながらの漫画を踏襲した、昭和ゆかい漫画の世界は、60年代前半で終わりを迎えました。正に、昭和のゆかい漫画然とした、わちさんぺいの漫画も60年代前半までで、60年代半ばからは見なくなりました。60年代も半ばからは漫画は、よりリアリティーを重視し始める。60年代後半に入ると劇画が登場し、60年代末から70年代、漫画の中心は、取って変わったように、劇画が主役の座に着いてしまった。戦後ストーリー漫画の開祖、手塚治虫の画風も変わった。絵も作風もよりリアリティーを重視し始めた。日本漫画の、70年代は劇画の時代ですね。60年代後半に入ってから淘汰された、昔ながらの絵柄や作風の漫画家は、けっこう多かったんではないでしょうか。わちさんぺい先生の漫画も60年代後半に入ると、完全に見なくなった。寺田ヒロオさんが筆を折ったって、いつだろうか? 調べたら73年なんですね。寺田ヒロオさんも、少年漫画の世界では60年代後半には見なくなった。僕は見てないが、絶筆までは、学年誌とかで描いていたのかも知れません。60年代半ばを境に、日本の漫画は変わりましたね。

 日本の漫画のギャグ漫画ジャンルも、60年代後半には変わった。ゆったりのんびり感の、ほのぼの・ゆかい漫画は淘汰された。ギャグは、もっと過激なギャグになり、漫画はスピード感が強く、ブラックなギャグも、シュールな笑いも許されるようになった。昭和30年代ののんびりした、ほのぼのユーモアは通用しなくなって、ギャグは瞬間的でキョーレツになる。「天才バカボン」「レッツラ・ゴン」から、70年代には「がきデカ」が登場する。わちさんぺい先生が描いたような、安心してみれる、ゆったり感のほのぼのユーモア漫画はなくなってしまった。ある評論家の先生が、昭和の“ゆかい漫画”を「限りなき平穏な日常」と表現したそうですが、正にそういった世界でしたね。たいして何でもない、昭和30年代の、善人の両親が揃った幸福な家庭に育つ、普通の子供たちの日常生活を描く世界。安心しきって芯からくつろいで笑える漫画。今はもうない、ノスタルジーの世界ですね。

 

ナガシマくん〔赤バットの巻〕 ―わちさんぺい傑作集1― (マンガショップシリーズ 280 わちさんぺい傑作集 1) コミック

ナガシマくん〔やっと一軍の巻〕 (マンガショップシリーズ 289 わちさんぺい傑作集 2) コミック

豆パンチ〔なんでも1ばんの巻〕-わちさんぺい傑作集8- (マンガショップシリーズ 323 わちさんぺい傑作集 8) コミック

ナガシマくん〈前編〉 (1977年) (集英社漫画文庫) 文庫 – 古書, 1977

豆パンチ〔大きなきぼうの巻〕-わちさんぺい傑作集6- (マンガショップシリーズ 314 わちさんぺい傑作集 6) コミック

空のよもやま物語 (イラスト・エッセイシリーズ) 単行本 – 1988

空のよもやま物語―空の男のアラカルト (光人社NF文庫) 文庫

ナガシマくん〔ニギニギでさようならの巻〕 ―わちさんぺい傑作集5― (マンガショップシリーズ 306 わちさんぺい傑作集 5) コミック

 

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