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●漫画・・ 「ひびわれ人間」&「半魚人」

 雑誌で楳図かずお漫画を読んだのは、週刊少年マガジンの「半魚人」が初めてだ。1965年の少年マガジンだけど、もっとも楳図かずお先生の作品はその前から知っていた。楳図かずお先生も貸本出身で、僕は楳図漫画には貸本で慣れ親しんでいたからだ。僕は62年から、当時暮らしていた住居の近くの貸本屋さんへ毎日通っていた。貸本屋へ通い始めた当時の僕は6歳で、僕は幼稚園とか保育園へ行ってないし親も文字なんて教えてくれないから、小1の頃は字が読めなかった。だから当初、貸本屋へ毎日通っていたのは歳の離れた兄貴からの命令だった。また、当時の自宅の前面にはオヤジの勤務する会社の営業所みたいのがくっついてあり、オヤジはいわばそこの所長で、まあ、要するに自宅といっても社宅になる訳だけど、そのいわば営業所の事務所に毎日若い社員が何人か通って来ていた。要するにウチのオヤジの部下ですね。で、この若い社員たちが仕事の合間の娯楽に漫画を読む。僕ら家族の住居と会社事務所は続いて作られていたので、オヤジの部下にあたる若い社員の一人、Yさんはしょっちゅう母屋の方へと出入りしていた。で、このYさんは僕が本屋で買って来た漫画雑誌や借りて来た貸本を事務所に持って行って、みんなで読んでたんですね。僕は兄貴や事務所の若い人たちのために、毎日貸本屋へと通っていた訳ですが、僕自身も、もともと本は好きだった。出来の悪い子供の僕は小1の三学期頃にならないと字は読めないんですけど、小さな頃から絵本が大好きで両親にはしょっちゅう絵本をねだっていた。字は読めなくとも絵本が大好きだった僕は、貸本屋さんの何段もの棚に並ぶたくさんの本を見るのが嬉しく、またいろいろな貸本の表紙の絵柄を見るのが大好きだった。だから毎日貸本屋に行くことはちっとも苦にならず、むしろいろいろな絵柄を見て楽しめるから嬉しかったくらいだった。しかし、僕は小学校に上がるまでの幼児期、先ず百冊近いくらいの絵本は持ってたろうに、とうとう小1の三学期まで字が読めなかったとは、よっぽどアタマの悪い子供だったのだな。いやはや。最初からデキが悪いんだものなあ…。

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 楳図かずおさんは貸本でも売れっ子の方で、無論、貸本時代から得意中の得意、怪奇ホラーコミック作品も数多く手掛けていたけど、貸本時代からロマンチックな青春コメディーもののような作品もSF作品も描いていました。僕は、貸本時代では楳図先生の学園青春ものが大好きでした。楳図先生の青春もの作品は、中学生や高校生の女子学生が主人公の恋愛コメディーものでしたね。コメディーといっても特に笑いを取るのを主体にしたギャグ調では全然なく、どちらかというと明朗学園青春もの系でしたね。あくまで美少女が主人公でした。楳図先生は貸本時代から既に「へび少女」系の怪奇ものはいっぱい描いていて人気があったのですが、僕自身は、自分がものすごく怖がりな小学生だったので、楳図怪奇ホラー漫画はあんまり借りて読んではいませんでした。ただし、ひばり書房の「オール怪談」のような短編集誌には、ときどき楳図怪奇作品が載っていたので、それはけっこう愛読していました。当時の貸本には、怪奇ホラー作品を集めたオムニバス誌が多かったんですね。貸本には怪奇ホラー作品の1作1編単行本も多かったんですけど、当時の貸本の怪奇系作品は表紙イラストが、中身の漫画本編を描いている漫画家とは別の画家が表紙絵のみを手掛けていることが多く、またこの表紙イラストがリアルだったんですねえ。中身の漫画絵はそうでもないけど、リアルな表紙の絵柄がとても怖くて、小心臆病怖がりの小学生だった僕には、その本を手に取るのだけでも怖くてたまらなかった。僕が毎日、貸本屋さんへ行くのはたいてい夜だから、間違ってそういう怪奇ホラーものの単行本を手に取って表紙絵を見ようものなら、もう怖くて怖くて家に帰れず、貸本屋さんの前でぶるぶる震えてるくらいだった。でね、当時の僕の住んでる家は地方の田舎の商店街の通りの真ん中くらいにあって、いつも通う貸本屋まで100メートルもない距離だったんだけど、商店街といえど田舎だし午後7時頃にはもう店閉まいしていた。午後8時にはもう、ほとんどの店が閉めてたと思う。街灯は点いてるけど怖くて怖くて、たいていは全速で走って帰っていた。無論、怖いのは暴力団員風の怖いおじさんとか誘拐魔とかじゃなくて、幽霊とか怪物です。当時、貸本屋さんの3件隣にあたる、調度通りのカドに、ビル作りの当時としては洒落た店作りの婦人洋服店があった。この店も毎日午後8時前には店を閉め切っていたが、外通りに大きくショーウィンドウが見えて2、3体の洋装女性マネキンが立ってた。調子の良い時の僕は帰り道、閉店していることをいいことに、女性マネキンの履いているミニスカートの中の太腿の付け根を狙って、高く高く小便を掛けていた。まだ小学生の僕は上背が小さいので、まだまだ小さな両手で同じく小さなちんちんを掴んで上に向けて、出来るだけ上方へ上方へと小便を飛ばしていた。

 で、僕が貸本時代の楳図作品で一番好きだったのは、当時、佐藤まさあきさんの佐藤プロから貸本出版していた青春ロマンス系オムニバス誌、「17才」に連載されていた楳図かずおさんの青春ロマンス学園純愛コメディーもの。小学生時の僕は当時のガキとしては意外とませくれていて、こういう純愛コメディーがけっこうお気に入りだったんですね。あの当時の僕には、みやわき心太郎先生の青春ロマン作品と、楳図学園純愛ものは双璧ですね。まあ、いいんですが、という訳で、僕は貸本時代から楳図漫画は読んでいた、と。ロストワールド系のSF大作、「ガモラ」なんて当時はすごい一大巨編の傑作で、2巻3巻が待ち遠しくて待ち遠しくて。でも結局貸本では未完に終わり、楳図先生は雑誌へと移った。僕が貸本に親しんでいたのは小1から小5までの正味4年間かな。ああ、そうですね、毎晩の貸本屋通いの帰り道、貸本屋さんで間違って怪奇ホラー系の漫画本を取ってしまって怖い表紙絵を見てしまった時は、帰り掛けの日課のマネキン狙い小便掛けも、僕の可愛い小さなオチンチンも、恐怖心から縮こまってしまってさらに小さくなり、腹肉にめり込んで見えなくなった感じで、とても小便なぞ出る雰囲気でなく、ぶるぶる震えていました。まあ、飛んで全速力で駆けて帰ってたんでしょうけど。この日課もね、ある晩、いつものようにマネキンの股ぐら狙って小便を上に飛ばしていたら、というか放尿でショーウインドウにびちゃびちゃ掛けてる訳ですが、上品な、上下スーツ姿の一見教育ママ風な、ハイソな感じのオバサマ、みたいな中年女性に見咎められまして、「まあっ、何してるの!そんなことしたらいけないのよっ!」とか何とか、上品な感じだけどキツク怒られて、それから止めました。マネキンのスカートの下狙い小便掛け行動。小4くらいだろうか。貸本屋帰り掛けの楽しみが一つなくなったなあ。

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 当時の僕の通う貸本屋さんは、タタミ二畳分くらいしかないようなひどく狭い店内で、入り口ガラス戸から入って前面壁面全部が本棚で、今でも配置は憶えているけど、向かって右側の一番下の段の一列全部が少女向けの漫画本だった。ここに怪奇ホラー系が多かったですね。当時も、女の子は怖い漫画が好きだったんでしょうね。男子向け漫画の中にも、ひばり書房の「オール怪談」やつばめ出版の「怪談」とか、怪奇ホラー系のオムニバス誌がけっこうあって、僕はそういう男子向けの漫画本はホラー系でも、短編集誌はよく借りてましたね。「怪談」や「オール怪談」には毎号、古賀新一や浜慎二の短編が載ってたし、この二人の漫画は内容も気に入っていたのですが、特に絵柄が好きだった。貸本時代、楳図かずおさんもバツグンに絵がうまかったけど、古賀新一や浜慎二も貸本漫画家の中では特に絵がうまい方だった。貸本の世界は玉石混交だったけど、やはり絵のヘタクソな漫画本は借りて読む気がしなかったなあ。貸本消滅後、雑誌へ移って生き残れたのは、やはり画力のある漫画作家さんたちでしたね。貸本時代の楳図かずお作品で特に印象に残っている怪奇短編は、1962年頃の多分、佐藤まさあき劇画マガジンというオムニバス誌所収だと思うんだけど‥、「歯」という作品ですね。これは子供ながら非常に怖かった、と記憶しています。この作品の絵柄は少女誌系の「へび少女」のような可愛さを含んだ絵柄と違って、リアルで迫力があり、絵柄で強い恐怖感を与えられた、と記憶しているけど。

 楳図かずおさんは65年当時から、メジャー児童雑誌の、週刊少年マガジンや週刊少女フレンドに登場し始めました。66年からは雑誌での活躍が目覚ましくなり、月刊誌少年画報にも恐怖短編やSF短編を何作か発表しています。でも、65年66年当時まではまだ、貸本誌にも作品を発表していますね。週刊少女フレンドや同じ講談社の少女月刊誌「なかよし」には、楳図かずお前期の代表的作風、「へび少女」系の蛇の化け物人間(少女・女性)の恐怖漫画や、「紅グモ」などの蜘蛛の化け物人間(少女・女性)が襲って来る恐怖もの、がシリーズ化して連作のように両誌に切れ目なく、毎号掲載が続いて行きます。連載が数回で終了したもの何作もは、月刊誌や増刊号で、別冊付録や特集でまとめて再掲載されたりして出てましたね。また、「へび少女」系のお話は貸本でも発表されていて、アイデアの使い回しというと語弊がありますが、少しづつ時期をずらして同じ内容のホラー作品を何度も、出版社が再発表して出しているということは、楳図怪奇ホラーがそれだけ人気が高かったということでしょう。

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 楳図かずおさんの週刊少年マガジン初登場は65年の「半魚人」です。ひょっとしたら、僕が知らないだけで、それより以前に、貸本時代の楳図氏に、少年雑誌掲載作品があったのかも知れません。あの時代は月刊誌の別冊付録などの読みきり作品で、貸本漫画家が起用されることがけっこう多かったのです。少女雑誌では、多分、少年マガジンの「半魚人」よりもずっと前から楳図作品は掲載されていたでしょうね。「半魚人」は、65年11月の週刊少年マガジン第48号から6回連載されて完結しております。あの時代のアメリカ産輸入怪物系ホラー映画に影響された作品ですね。まあ、もろ当時のアメリカ映画「大アマゾンの半魚人」ですけど(当時といっても、『大アマゾンの半魚人』は1954年アメリカ制作の映画ですけど)。しかし、お話は楳図先生オリジナルストーリーで、楳図「半魚人」はSFホラーですね。ストーリーのプロットは、主人公少年の友達のお父さんである、とある科学者の予言、地球はこの千年で全面海になり、人間は魚になって適応する、という話、まあ学説ですが、その説に順じて半魚人が出現する。主人公少年の実のお兄さんが先ず最初の半魚人として現れ、科学者を襲い始末して、科学者になりすまして友達を捕らえ、半魚人2号へと改造実験・施術を行う。そしてとうとう半魚人化した友達は今度は、主人公少年を襲って来る‥。というのが大まかな内容です。こういった話の流れ、お話の持って行き方は、少女怪奇漫画の「へび少女」ものによく似ています。最初の半魚人、主人公少年のお兄さんの半魚人への変身変化の理由が、あいまいなのがちょっともの足りませんけど。どうして変身してしまうに至ったのかが、理由が詳しくは述べられていないし、簡単に解説があるんだけど、かなりテキトーなんですよね。まあ、昭和40年の子供向け漫画ですからね。細かいトコロはつっついてはいけない。

 僕が、日本漫画史に残る昭和漫画の鬼才、楳図かずお氏の作品の中で、数多ある作品数の中でもとりわけ好きだったのは、週刊少年サンデーに連載された「おろち」と、週刊少年キングに連載された「猫目小僧」なんだけど、週刊少年マガジンで一番印象に残っている作品は「ひびわれ人間」だ。どうしてかこのフランケンシュタインもの怪奇漫画は、ずうーっと僕の脳裏に残り続けていた。連載漫画作品としては「中篇」といっていい長さで、初出の週刊少年マガジン連載は、1966年2月の第6号から始まって第12号までの7回連載だ。主人公少年とその学究少年が師事する老天才科学者が、幾体もの死体を部分部分つぎはぎした怪物に、死んだばかりの幼児の墓を掘って死体から取り出した、幼児の脳髄を入れて、人間をよみがえらせる、というか人造人間を作る。人造人間の怪物は幼児の生きていた当時の記憶で自分の家を捜し求めてさまよい、その後アクシデントで気を失ったりするも、最愛の母親に邂逅する。怪物は雷光を浴びると狂ってしまい狂暴になる欠陥を持っていた。母親は、変わり果てて怪物と化した本当は幼い我が子を復讐の道具、復讐のための最強の凶器と使う‥。というお話の流れで最後は悲劇的結末ですね。主人公少年だけ生き残るんだけど。あ、そういえば母親の財産を狙う3人兄弟の内、2番目はほったらかしなんだよな。どうなったか解らないけど、生き残っている筈だな。まあ、ストーリーは割り合い単純なんですけど。でも当時の小学生だった僕は、相当怖がっていたと思います。僕には、「半魚人」よりもこっちの方が文句なく怖かった。

 

 週刊少年マガジン初出の「ひびわれ人間」の原型は、それより以前に貸本単行本で「恐怖人間」というタイトルで、楳図先生は描いています。これは怪奇短編集誌の中ではなくて、一作一編一冊の単行本でですね。当時の貸本では長編扱いです。実は僕は、この原型の「恐怖人間」は」読んだことがなくて、残酷な描写が多く、恐怖度は「ひびわれ人間」の数倍らしいですね。マガジン版の「ひびわれ人間」では、メジャーな児童雑誌の掲載ということで、描写の残酷性を控えたのでしょうね。楳図先生は初期から、もともと描写力の技術の高い、大変絵のうまい漫画作家だった訳ですが、50年代末から60年代の楳図さんの怪奇漫画は、その描写力でいかに読者に恐怖感を与えられるか、というところに最大の力を注いでいるように窺える。無論、この時代は先述したように青春学園純愛コメディーみたいな作品も描いていた訳なんですけど。やっぱりその才能は怪奇ジャンルの作品でいかんなく発揮されていた、という感じですね。楳図先生はご自分の作品を怪奇漫画でなく、恐怖漫画と自ら名のっていますよね。楳図先生は最初から、読者をいかに恐怖させるか、に重点を置いて執筆されていたんじゃないですかね。これが70年代に入り、週刊少年サンデー初出掲載の「おろち」なんかになって来ると、画面の描写力だけでなくストーリーの心理描写を駆使して、読者へ、大きな恐怖感を味わせるよう、描画・ストーリー構成ともに緻密に作画して行く。楳図先生は、だいたいもともとから、主人公の少年・少女に読者自身を感情移入させて、まるで実際のように恐怖体験をさせて行く、という表現上の技術力が、非常に高い漫画作家さんだったのでしょう。

 楳図かずお氏のマガジンデビュー作「半魚人」&「ひびわれ人間」が掲載された1965年66年という時代は、僕に取っては少年マガジンの黄金期で、僕が一番マガジンが面白かった時代だ。週刊少年マガジン66年第1号から桑田次郎氏の「黄色い手袋X」が始まった。「ひびわれ人間」の掲載開始がこの年の第6号からだが、このマガジン6号の連載漫画の詳しいラインナップを残念ながら、僕は現物は勿論資料も持たないので、はっきりとは解らない。ただ、僕が一番、少年マガジンが大好きだったこの65年66年頃の人気連載漫画陣を、ざっと上げると、「ハリスの旋風」「丸出だめ夫」「ワタリ」「宇宙少年ソラン」「コマンドJ」「悪魔くん」「ミサイルマンマミー」「サイボーグ009」「黄色い手袋X」「巨人の星」…。「パンパカ学園」てなのもあったね。そういう素晴らしい漫画作品のラインナップとなる。「巨人の星」が始まるのが66年第19号からですね。

 2010年10月から2011年4月まで刊行された、講談社文庫コミック版「 - 楳図かずお画業55th記念 - 少女フレンド/少年マガジンオリジナル版作品集」全8巻の、第2巻に「半魚人」、第3巻に「ひびわれ人間」が収録されています。

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●漫画・・ 「関東平野」..(1)

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 日本漫画史に残る偉大な“昭和の絵師”、上村一夫氏が惜しくも45歳の若さで1986年に亡くなられてからおよそ20年が経ち、2005年に没後20周年記念として、氏の往時に残した名作の数々が豪華版として復刻刊行された。その中に出版社小池書院発行の、氏の自伝的名作「関東平野」がある。2005年時の復刻本ではタイトルを「関東平野-わが青春漂流記」と題して上下巻分冊(訂正→上中下3巻分冊)で刊行されている。「関東平野」の初出雑誌掲載は、少年画報社の「ヤングコミック」に76年から78年の約2年間の連載ですね。

 4月初めの日曜の深夜番組で、芸人タレントたちが多数出ていて、自分たちの読んで感銘を受けた漫画の一節を披露していたのだが、というか、番組内容の主旨が、ゲストの芸人やタレントの抱える悩み、というのが概ねフェイクだのネタなんだが、その悩みを解決に導く言葉を、ひな壇席のコミックに造詣の深い、多分レギュラー出演者たちが自分のリスペクトする漫画作品の感銘を受けた一部分を引用して、そこのセリフで救いの言葉を授ける、というような内容のバラエティー番組だが、この中で多分レギュラー回答者の一人であろうビビル大木が、今ではもう昔々の作品となる昭和青年抒情劇画の巨匠、故上村一夫氏の作品を2作、紹介していた。いずれも上村得意の、大人の男と女のある面どろどろした複雑で猥雑な、欲望と愛憎絡まる恋愛の、人間模様を描写してのけた、昭和劇画黄金期の傑作抒情劇作品らしいが、ビビルの紹介した2作の扉には上村一夫オリジナルのストーリーではなく、原作者名が記載されていた。いわゆる、漫画の原作付き、の作品なのだ。そしてその原作者名は“岡崎英生”名義になっていた。

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 「あれ?岡崎英生って‥」と思って、傍らの今から11、2年前に発行された、「まんだらけ」の機関誌というかカタログ誌、「まんだらけZENBU」の1冊を取って、かのページを開いてタイトル「ヤングコミック風雲録」というエッセイの著者名を見ると、「あ、やっぱり!」と“岡崎英生”名義だった。ここの連載エッセイ記事を読むと、岡崎英生さんはその昔、少年画報社発行の成人・青年誌「ヤングコミック」の一編集者だった。その、本人が「ヤングコミック」編集者として活躍していた時代を、自伝的エッセイとして書き表わし、連載を続けているのだ。ネットで調べてみると、岡崎英生さんは早稲田出身で少年画報社に入社し、「ヤングコミック」の編集業務に当たっていたが、その後、少年画報社内での組合争議があって、詳しいところは解らないのだが何でもかなり激しい争議だったらしく、その組合闘争を契機に会社を退職して、仲間有志と共同で新たな漫画誌を創刊発行して編集出版業にあたっていたが、売れ行きが芳しくなく数号で廃刊の憂き目に合ったものらしい。そして、漫画原作者としても活躍して、“昭和の絵師”上村一夫氏とタッグを組んで出した作品も多いらしい。ということみたいです。

 あんまり確かな情報でなくてどうもごめんなさい。漫画原作者としての岡崎英生さんの作品が、上村一夫さんの作画作品以外にどういうものがあるのか?全然解りません。この、「まんだらけZENBU」の10年少し前の号に毎号連載されていた「ヤングコミック風雲録」は、だからその当時、つまり2000年頃に執筆されてた回想録風エッセイなんでしょうけど、劇画家・上村一夫さんとタッグを組んだ作品を書いていたのは70年代からまあ、80年代アタマくらいでしょうし、80年代以降はどういう仕事をされているのかは、済みません、解りません。調べが半端で申し訳ありませんが、ただ、2002年に飛鳥新社という出版社から「劇画狂時代-ヤングコミックの神話」という書籍を上梓されているのは解りました。確かなことは解りませんけど、もしかしたらこの書籍が「まんだらけZENBU」に連載され続けた、自伝的エッセイをまとめて単行本化して出版したものなのかも知れません。

 冒頭に記した4月初めの日曜深夜のバラエティー番組の中で、芸人タレント、ビビル大木がリスペクト漫画に上げた上村一夫作画の2作品、「しなの川」「蛍子」ですが、大長編作品の「しなの川」は岡崎英生さんの原作で、「蛍子」の方はTVドラマの脚本で有名な久世光彦さんの原作になっています。ちなみに岡崎英生さんが上村一夫作品の原作を初めて書いたのは、岡崎さんが少年画報社を辞めた71年で、作品は当時の「劇画タッチ」に3回連載された「花言葉」というタイトルの中篇作品みたいですねえ。ああ、そうだ。少年画報社を辞めた岡崎さんが創刊した漫画誌が「劇画タッチ」なんだ。そうして、上村一夫劇画の原作担当で最後の仕事が、あくまで僕がネットで調べたところだけでは、1979年の作品ですね。ちなみに、ネットで調べて知ったんですが、岡崎英生さん原作の上村長編劇画「しなの川」の掲載誌は、岡崎氏が辞めた少年画報社ヤングコミック誌なんですね。岡崎さんは少画社を労働争議で辞めたようですけど、退職後もけっこう良い関係は持てていたんですね。

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 岡崎英生さんの書いた「まんだらけZENBU」連載の「ヤングコミック風雲録」の中では、月刊誌で出発した青年誌「ヤングコミック」が隔週刊化して後たちまち売れ行き不振に陥り、どうしようもないと表現していいくらいに部数が出なくなり、このまま行けば廃刊もやむなしかというくらいに落ち込んで、編集長を交代したらしいのですが、この新編集長が辣腕選手で、ヤングコミック誌をあちこち模様替えして内容を斬新に切り替えて行き、月刊誌時代以上の発行部数を誇る状態にまで持ち上げてリニューアル成功させてのけた。少画社一社員で、ヤングコミック編集部のスタッフの一人だった岡崎さんも、仕事人としては腕利きではあったのでしょうが、この新編集長とは折りが悪くよく衝突していたらしいし、新編集長は、週刊少年キングの一編集者だった時代に「俺がヤングコミックに行ったら真っ先に岡崎を切ってやる」と言っていたくらいに岡崎さんとは合わなかった仲だったらしいのですが、新生ヤングコミックの編集部ではそれまでの数倍も会議のディスカッションが旺盛になり、スタッフどおしが喧々諤々ああでもないこうでもないと議論をやり合っていたらしい。「ヤングコミック風雲録」の中にはそういうエピソードも書いてある。労働争議を契機にそういう事情の仲のあった編集部を、会社ごと退職してしまった岡崎さんが、よく、辞めてすぐの古巣と仕事をやったなあ、やれたなあ、と感心した次第でして。

 少年画報社の成人・青年漫画誌「ヤングコミック」は1967年に創刊されていて、類似の雑誌、小学館の「ビッグコミック」や秋田書店の「プレイコミック」よりも、世に出たのは早い。双葉社の「週刊漫画アクション」が最も早く出版されているのだが、「ヤングコミック」よりひと月早いだけだ。ここから60年代末が、日本漫画界の青年漫画誕生の黎明期だ。それより以前は、少年少女の子供向け漫画と、大人が見る四コマや艶笑漫画とエロを前面に押し出した成人誌しかなかった。小学館が「ボーイズライフ」というヤング誌を出してはいたが、ライフスタイル記事中心で漫画作品は、せいぜい2つか3つしか掲載されていなかった。60年代後半に入って、貸本が衰退して潰れ、漫画雑誌界に、ハイティーンから20代を読者層ターゲットにした青年コミックが誕生、旺盛に開花して行き、70年代初頭までは雨後のタケノコがニュキニョキ生え伸びるように、青年漫画誌の創刊が目立った。貸本劇画出身の漫画家たちは、貸本という自分らのフィールドがなくなって、成人誌や青年雑誌に大挙移動して来た。それでも青年雑誌に移ることが出来たのは、数限りのある劇画の実力者たちだけだけど。「ヤングコミック」の内容にも、ヤング向けとして若干のお色気を盛り込みつつも、やはりストーリー主体の劇画で誌面を揃えた。「ビッグコミック」に比べても、「ヤングコミック」や「プレイコミック」はお色気色投入は若干強かったですね。「ヤングコミック」や「プレイコミック」には、巻頭グラビアに若い日本人女性や外人金髪女性のヌードモデルのピンナップが必ず付いた。

 

※実はココの記事「関東平野」..(1)は4月4日に書き上げていたのですが、何故かwebアップが4月15日になったしまった。すると、ワシはその間パソコンに触れていない訳か‥。まあ、どーでもいいんだが。で、ココの記事、「関東平野」..(1)は続きます。漫画作品「関東平野」についての文が全くといっていいくらいに出て来ない内に(1)を終わってしまい、(2)に続いてしまってどうも済みませんが、という訳でココの記事文は完結なんか全然せずに、「関東平野」..(2)へと続いてしまいます。待たれよ続編(2)を。ではでは。

◆(2011-04/15)漫画・・ 「関東平野」..(1)
◆(2012-01/30)漫画・・ 「関東平野」..(2)

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