60~90年代名作漫画(昭和漫画主体・ごくタマに新しい漫画)の紹介と感想。懐古・郷愁。自史。映画・小説・ポピュラー音楽。
Kenの漫画読み日記。
●漫画・・ 「黄色い手袋X -水中ゆうれい団の巻-」
20世紀中にというとオオゲサか、昭和から90年代までに、週刊少年マガジンに連載された「黄色い手袋X(エックス)」本編分は、まとめられコミックス化されて、刊行されていましたが、月刊誌「ぼくら」の方に掲載された方の分は、コミックス化がされないままでいました。1966年の週刊少年マガジン連載分本編は、91年に大都社から全2巻でコミックス化されてますが、まとめられたのはどーも、これが初めてらしいですね。60年代末や70年代に講談社コミックスや秋田サンデーコミックス、朝日ソノラマのサンコミックスなどなどでは、単行本化はされていないようです。91年が初のコミックス化であり、その後が、21世紀に入って、マンガショップさんより2004年に全2巻で復刻・刊行されました。月刊誌「ぼくら」掲載分の方の、短編シリーズは、2005年に同マンガショップより初の単行本化です。
マガジン連載の本編は、国際犯罪組織の首領、マカオの虎(マカオの鷹)を相手に、暗躍する国際密輸ルートの壊滅に挑む、黄色い手袋Xの活躍を描く長編など、正義の覆面ヒーロー、黄色い手袋Xが、凶悪犯罪組織と戦う長編ばかりなんですが、同じ講談社の月刊誌「ぼくら」連載分は、短編ばかりであり、連載期間も66年5月号から12月号までの間で全5話で、8月号から11月号までの「電気人間の巻」のみが、連載中篇となっています。後の4作品は読みきり短編で、一篇32ページから24ページくらいの、一話完結です。
勿論、僕は、マガジン連載の長編話も、「ぼくら」掲載の連作短編も、「黄色い手袋X」は全部、雑誌連載リアルタイムで読んでいますが、特に印象に残っているのは、「ぼくら」掲載分の、第1回「こころの宝の巻」と、第2回「水中ゆうれい団の巻」です。この時期の「黄色い手袋X」は、雑誌「ぼくら」の5月号から7月号までは巻頭カラーで、看板漫画扱い。ぼくら8月号からは、一峰大二氏作画の「ウルトラマン」が、巻頭カラーで始まったので、「黄色い手袋X」は扉カラーであるものの、本誌、後の方のページで掲載となりました。まあ、いいか、別にそんな細かいことは。
昭和の週刊少年マガジン掲載の本編「黄色い手袋X」はマガジン新年号、66年第1号から新連載されて、申し訳ありません、連載終了の号数がはっきりしないのですが、66年の暮れに掲載が終わったようです。多分、66年の最終号である第52号で幕を閉じたんじゃないか、と思うのですが。「ぼくら」連載の“外伝”が66年12月号で連載終了しましたから、この当時の月刊児童誌の12月号の発売は11月初めになるとはいえ、まあ、本編も外伝も66年中には、「黄色い手袋X」は終了した訳ですね。
ここでは「ぼくら」掲載分の印象に残った短編の内、「水中ゆうれい団の巻」について、ちょっと書き込みたいと思います。もう一つの方の連載第一回「こころの宝の巻」については、実は既にちょっと内容や感想を書き込んでいまして、探偵漫画「黄色い手袋X」については、当ブログの06年7月の記事で取り扱い、タイトル「黄色い手袋X」でアップしていますので、書き込み分で重複する内容があって申し訳ないんですが、この過去記事分で「こころの宝の巻」を取り上げていますから、それもあって今回は「水中ゆうれい団の巻」です。「こころの宝の巻」も短いページ内での短編ながらとても良いお話で、さすがは川内康範先生と納得いたします。
僕は月刊誌「ぼくら」掲載分、第1回の短編、「こころの宝の巻」のお話が好きなんですけど、第2回掲載分の短編、「水中ゆうれい団の巻」の方が印象深く記憶に残っている。というのが、このお話を僕は、雑誌掲載の漫画を読みながら、自分で文字だけの小説に起こし直したからだ。まあ、アタマの相当悪いガキが独り遊びの趣味でやったコトで、お世辞にも小説になってるとはとても言えないようなシロモノだけど、とにかく漫画を、セリフ部分と情景とか状況説明で全部、文章に起こし変えてみたのだ。それも自分オリジナルの登場人物に変更して。つまり、僕自身が小学生時代に考えてたキャラクターで、「水中ゆうれい団の巻」のストーリーを文章で書いてみたのだ。だから僕の子供時代から何十年と経っても、このお話は僕の記憶に印象深く残り続けてる。何しろ、ストーリーは盗作とはいえ、生まれて初めて書いた小説だったのだから。小説みたいなモノ、だけど。
僕はものごころ着いた頃から、家中の壁や、家の中にある紙という紙に、落書きをして回っていたけど、小一からは児童雑誌の漫画を真似て、西洋紙を綴じて自分で作った冊子に、鉛筆殴り書きの自分オリジナルの漫画を描いていた。オリジナルって、漫画本に載ってるプロ漫画の物真似ですけど。まあ、鉛筆殴り書きでヘタクソな絵だけど、とにかく毎日毎日描いてた。まあ、生まれついての性格で、独り遊びが好きだったんですよね。“真似”って、漫画本の中のカッコイイと憧れた漫画作品を真似て、設定や話の筋やキャラクターを真似て、自分オリジナルの盗作漫画を描いていた、というトコロか。
小六の終わりか中一の初め頃、当時僕んち一家の住んでた家の、斜め前の屋敷に住んでた幼馴染のM君が、「おまえも漫画ばっかり読んでないで、こういう本も読んでみろよ。面白いから」と言って、シャーロック・ホームズシリーズの長編「バスカヴィル家の犬」を貸してくれて、遅読ながら、えっこらえっこら読んで、途中でM君に「おまえ、まだ読み終わらないのか」と催促されたのを憶えてるけど、まあ、そうやって生まれて初めてみたいに小説をムリムリ読んで、“名探偵シャーロック・ホームズ”の大ファンとなる。それから学校の図書館で“ホームズもの”の小説を片っ端から借りて読み始める。まあ、遅読でしたけど。その内ね、ルブランの“ルパンもの”も図書館で借りて読んだりして、何だか、自分でも小説を書いてみたい雰囲気が自分の内に起こる。で、まあ、ヒーロー探偵ものを書いてみたいけど、どーいうのを書いていいか解らないので、取り合えず、漫画作品からストーリーを借りることにして、小学校時代大好きだった「黄色い手袋X」の短編作品からストーリーを拝借した訳ですね。それが月刊誌「ぼくら」66年6月号掲載の「水中ゆうれい団の巻」だったんですね。まあ、そういう僕のごくごく個人的なエピソードです。
僕が個人的に、パソコンを初めて買い求め、自分ひとりであれこれ操作してみたのが、2004年の暮れで、それまでに会社とか施設のパソコンを触ったコトはあったものの、マニュアル見ながら独自でアーでもないコーでもない、とイロイロ操作してみたのは初めてでした。それで何とかある程度は、ワードとか使えるようになったし、パソコンモニター画面上で何がしか絵を描く、ということに四苦八苦、挑戦してみてた。先ず、パソコン・ワード上で日記を長文で書いてみてたのかな。インターネットにも繋いで各サイトを、いわゆるネットサーフしてみてた。で、パソコン買う前からもともと、自分のホームページを持ちたかった。だから第二段階として、ホームページの作り方をイロイロと勉強してた。そうしたら、“Blog”という、簡易ホームページみたいのを発見する。2005年の年頭くらいの話だから、まだ一般的には、“Blog”登場後の初期くらいの時期だと思う。その後、ネット上にドバッと“Blog”が拡がった。僕が自分のBlog、ココ、「Kenの漫画読み日記。」ですね、ココを開設したときは、調度、さあ今からBlogが流行して行くよ!というような時期だった。だから、ネット上では僕と同時期くらいからBlog始めた人が、相当多かったですね。そしてまたたく間にネットは個人Blogで溢れかえる。僕もココの他にもう一つ開設し、そしてその後さらに二つ開設した。で、その一つのPowerBlogは消滅したけど。
OCNのBlogサービス、「ブログ人」が今年中、年内に終了するというコトで、「ブログ人」終了は今年11月頃だったっけな、で、僕が2005年2月から文章書いて記事Upして来た、拙ブログ「Kenの漫画読み日記。」も、何処か別のBlogサービスに引っ越さなきゃならない。一応、OCNが推奨して、引越しツールサービスを用意しているというGooブログへ引っ越すつもりだけど、Gooブログへの引越しが難しかったりヤヤコシかったりしたら、また何処か他のサイトで考えるつもり。だからこの「黄色い手袋X -水中ゆうれい団の巻-」が、ブログ人で書く記事としては最後の記事になるだろうね。
外伝「黄色い手袋X」の短編第二話、「水中ゆうれい団の巻」のストーリーをザッと説明すると、“地上げ屋悪だくみもの”です。ある田舎の、山々と田んぼと畑と湖沼の地域の土地を、総合リゾート開発のため、悪徳業者が田舎の土地ゴソッと買い占めるために、居住の農民みんなに立ち退きを迫る。住民はなかなか立ち退きに応じず、悪徳業者は土地に古くからある沼に、幽霊・お化けが出没するウワサを流し、農民たちを立ち退きに首肯させようと企む。悪徳業者の仕込んだギャングたちが、幽霊に化けたり細工をしたりして、訪れる人々を脅かすんですね。それで、村の和尚さんに頼まれて、主人公の新聞記者の青年たちが調査にやって来る。青年の一人は実は、正義の味方・黄色い手袋Xその人であり、悪徳土地業者らの悪だくみを暴き、手先のギャング団もろとも退治する。というお話ですね。まあ、単純といえばよくありそーな、シンプルな悪者退治ストーリーかな。まあ、アタマの出来のあんまり(相当)良ろしくない悪ガキだった、11歳頃の僕は、こんな単純なストーリーでも、勧善懲悪の覆面ヒーロー漫画に熱中してたんですね。このストーリーを、学業成績超不振の馬鹿ガキの僕が、ヘタクソなひどい文章で、小説モドキに起こし直したのって、13歳か14歳の頃の話ですね。
●小説(ミステリ)・・ 「イニシエーション・ラブ」
乾くるみさんて、てっきり女性の方とばかり思っていたら、男性だったんですねえ。小説作品「イニシエーション・ラブ」は内容を前・後編みたく、「A面」「B面」と調度、本の真ん中あたりで分けて書かれているんですねえ。まあ、平たく言えばそのもの、前編・後編ですね。その「A面」「B面」も、各章に分かれて各タイトルが着いていて、そのタイトルが全部、1980年代の邦楽歌謡のヒット曲名なんですね。僕はA面を読み進めていて、これは間違いなく作者は女の人に違いない、と思っていたものです。あ、Side-Bの第一章のタイトル、「木綿のハンカチーフ」は70年代のヒット曲ですね。
いやあ~、たまりませんでしたねえ。僕は、物語の恋愛ものが苦手なんです。あくまで物語作品、作ったお話ですが、僕は恋愛アレルギーみたいなトコがありまして、とにかく恋愛もの、ダメなんです。この物語、「イニシエーション・ラブ」のA面を読んでて、面映いやら、気恥ずかしいやら、何かこう、身体の首から胸の辺りから脇ら辺が痒くなるヨーナ感じで、A面読んでて、幾度も読むの中座しました。何度も読むの、途中で止めた。だからA面は読み上げるの、かなり時間が掛かりました。B面はまた少し、感触が違ってたし、お話に慣れて来てたのもあるのか、割合早く読み終わりましたね。物語だけ読むと、これは完璧、恋愛小説ですね。
でも、ここで僕はこのタイトル「イニシエーション・ラブ」を、カテゴリ「ミステリ小説」で挙げてるんですが、この本を読んで行くと確かにもう、恋愛小説そのものなんですが、宝島社の「このミステリーがすごい」2005年版では第12位にランクインされてますし、2004年度の日本推理作家協会賞の候補作に挙げられたような作品なんですねえ。
A面読んでるときの気恥ずかしさとかはまあ、言ってみればある種、気持ち悪さでもあったんですが、B面ではまあ、物語への慣れもあったんでしょう、そうでもなく、けっこうスラスラ読めた。で、何か、少々だけど、A面に比べると違和感も感じてた。何かちょこっと違うぞ、って感じ。まあ、ここがこの本のミソなんですけど。この小説のコトをもっと掘り下げて書いちゃうと、すぐにネタバレに繋がっちゃうんで、解説と言うと何ですけど、感想を書くのは難しいですね。僕はもとから、恋愛物語アレルギーみたいのがあるから何ですが、多分、恋愛小説として「イニシエーション・ラブ」は優れた作品で、このジャンルが好きな人にはメッチャ面白いと思うんですが、最後まで読むと大きな一ひねりがある。というか、カラクリみたいな。Side-A、Side-Bと読み進んでいって、最後の最後になって「あれ?」と思っちゃう。そしてパラパラ、後戻ってページを捲るコトになる。読む前からこの“カラクリ”を知っちゃうとこの作品の醍醐味が無くなって、面白みが半減する。
この小説の前・後編で、A面・B面と分かれていて、Side-A・Side-Bがまた各章分けて、主に80年代のヒット曲名がタイトル付けされてるんですが、僕自身がこの12曲の中で印象深い歌は、Side-Bの方の「木綿のハンカチーフ」「夏をあきらめて」「ルビーの指輪」「Show Me」かな。「揺れるまなざし」「ラッキーチャンスをもう一度」「Dance」という歌は知らなかった。お話の中に当時の大人気ドラマ、明石家さんまと大竹しのぶの「男女七人‥」のコトとかが出て来るのが懐かしかった。まあ、ここも一つ、カギかな。
◆イニシエーション・ラブ (文春文庫) 文庫 – 乾 くるみ (著)
「イニシエーション・ラブ」の“イニシエーション”=initiationて、日本語訳で一般的に「通過儀礼」て意味になるんですけど、恋愛の通過儀礼、つまり、十代後半とか二十代前半頃の初恋から初期の恋愛は、本人たちがこの「愛」こそが本物で人生で重大なもので、これが一生続いてく普遍的なものだ、くらいにかなり大きく意識してしまうんだけど、恋してる当人たちはやっぱり若いし、恋愛が続いて行く中で、イロイロと気付くコトや解って来るコトもいっぱいある。喜び楽しさ嬉しさの後に、互いに傷付くことや悲しみ、嘘や裏切り、辛いコトゴトもいっぱい出て来る。まあ、それも含めて人間としての成長だと言えるのかも知れませんが。純粋から、汚れた大人になっていく、という捉え方もあるのかも知れないけど。小説の中で、登場人物の一人が話すんですが、この小説にはそういう意味も籠められてますね。だから未練タラタラのストーカーなんて、本当に馬鹿らしい。無論ですが、ストーカーは愚かな行為だ、と思い知らされる。まあ、別に僕がストーカー経験者だという訳ではありませんが(僕はストーカーなんてしたコト無いですよ)。ストーカーしそうな性格の人には是非、読んで欲しい物語です。物語中の石丸美弥子の言葉が胸に沁みる筈です(胸に沁みなければならない)。
◆(2014-10/16)
ネットのエンタメニュース記事に、小説「イニシエーション・ラブ」が劇場用映画化されて撮影され、来年公開予定だとありました。ドラマ主役陣は、松田翔太、前田敦子、木村文乃となってますね。このドラマをミステリとして映像で描くことができるのか?? 甚だ疑問ですね。そのまま映像で描いたら、ただの恋愛物語で終わっちゃうし。そのまま映像でスルッと行っちゃうと間違いなく、100%恋愛ドラマですよ。こういう言い方は悪いんだけど、現代ではけっこうありふれたよーな恋愛ドラマ。
ココから先は、“ネタバレ”に触れて行ってしまうコトになるんだけど、この小説はミステリとしては「叙述トリック」なんですね。叙述トリックは映像にしたらバレバレになるから、原作小説を映像表現するのは、もの凄く難しい。というか無理でしょう。漫画にしても無理だ。漫画でもバレバレになるだろう。そのままスルッと映像で行けば、ただの恋愛ドラマだし。堤幸彦監督は、いったいどう表現するつもりなんだろう?
叙述トリック小説作品は例えば、筒井康隆の「ロートレック荘事件」や歌野晶午の「葉桜の季節に君を想うということ」みたいに、小説だからこそミステリの醍醐味が味わえるんであって、映像にしたらバレバレになってしまい、ミステリとしての面白さは、かなりの部分が削がれる。いや、面白味は半減以上に、無くなってしまうレベル。この二作品とも、ミステリとしてはとても面白い秀逸な作品ですけどね。特に「葉桜の季節に君を想うということ」は、叙述トリックを除いても、ストーリーの運びだけでも面白いお話だけど。
主役級の一人、鈴木君は松田翔太が演るんだろうし、もう一人の主役、マユは元AKBの初代絶対センター、前田敦子だろうし、東京サイドのヒロインは木村文乃なんだろうし、難しいですよね。松田翔太の立ち回りに触れると完全ネタバレになっちゃうしなあ。小説のA-side、B-sideをどうやるんだろうなあ? スルッと行っちゃうと単なる恋愛ドラマだし。映画は原作とはかなり変わりそうな気がする。
まあ、ミステリとしては最後の二行で「あれっ?」ってヤツだし、それがなければモロ恋愛ものだし。だから、恋愛物語の苦手な僕は多分、この映画見ないでしょう。何だか済みません。
◆葉桜の季節に君を想うということ-歌野晶午
あ、そういえば、殊能将之の「ハサミ男」も、“叙述トリック”っていえば、叙述トリックになるんだよな。あれは確か劇場用映画化されてるけど、どういうふうに撮ったんだろう? ストーリーの流れ、映像でそのまんま描いたらバレバレになる。小説は読んでとても面白かったけど、映画は見たことない。多分、原作とはだいぶ変えてるんだろうな。醍醐味のネタバレ部分を、どういうふうに描いたのか興味ある。そのまま描いたら、ただストーリー追うだけだし‥。