goo

「鉄腕マキ」-一峰大二 1962年-

 僕が物心着いた4歳頃から、テレビは「月光仮面」的な正義の超人ヒーローものが大好きで、当時は時代劇も「白馬童子」みたいな、正義の超人剣士が悪党サムライ群をバッタバッタ斬ってやっつけて行く、子供向け活劇ドラマが大好きだった。

 まぁ、僕は4歳頃から小学生時代いっぱいくらいまで、正義の超人ヒーローの勧善懲悪ドラマが大好きで、そういう番組はテレビに釘付けで見てた。

 で、ね、プロレスも子供の頃から大好きだったんだけど、僕が育った地域では、力道山~ジャイアント馬場の日本プロレス中継は放送してなかったんだよね。僕の故郷でプロレス番組が放送されるのは、1968年1月3日放送開始の通称TBSプロレス中継から。まだ僕は小学校六年生だ。

 国際プロレスは番組放送開始の当初はTBSプロレスと呼ばれ、設立タイトルはTWWA世界選手権とタッグ選手権で、僕はそれは記憶してなかったけど、番組名はTWWAプロレス中継だったらしい。プロレス団体は最初TBSプロレス、後に直ぐ国際プロレスと呼ばれた。

 だから僕は小六までプロレスを知らなかった筈なのに、プロレス大好き少年で、力道山もジャイアント馬場もよく知っていた。確か、小学校のクラスでも小四·小五時代に休み時間にプロレスごっこをしていたと思う。

 親父が、住み家の家屋の前部に併設された会社の事務所で、スポーツニッポンの新聞を取ってたのと、事務所にやって来る作業員の人たちが九州スポーツの新聞を置いて行ってたので、小学生ながらそれらを読んでいたのかも知れない。また、僕が子供の頃愛読していた何誌もの少年雑誌にはプロレス漫画の掲載も多かった。子供向けのプロレス記事も多かったね。

 

 僕が漫画を読み始めたのは多分、1962年末頃から63年初頭で、僕はまだ小一で六歳だった。62年の11月か12月初め頃から当時の住み家の近所の貸本屋に毎日通うようになった。62年末~63年初頭から当時の少年月刊誌六誌を毎月毎号読み始める。

 僕が6歳時、少年漫画を読み始めたとき、月刊誌「まんが王」に「鉄腕マキ」というプロレス漫画が連載されていた。

 でも、確か「鉄腕マキ」の連載は直ぐに終了した。秋田書店の月刊誌「まんが王」の1963年2月号まで掲載されてたのは、はっきり記憶している。「鉄腕マキ」は「まんが王」1月号の掲載分で初めて読んだんじゃないかなぁ。

 何しろ1963年初頭頃の話だし僕はまだ小一で六歳だ。「鉄腕マキ」の記憶はあやふやでぼーっとしたものだ。

 「鉄腕マキ」はどーも貸本タイプで単行本刊行されてるみたいだが、僕は「鉄腕マキ」の単行本は読んでない。当時は雑誌連載漫画を貸本タイプの単行本化したときは、ほとんどB6判ハードカバーの96~136ページ本だった。まだ新書判コミックスは出ていない。「鉄腕マキ」は後の新書判コミックスにもなってないと思う。

 「鉄腕マキ」で記憶しているシーンは、メキシコの砂漠が舞台で、主人公の若手日本人レスラー·マキが、崖の上から空飛ぶように飛び降りて、砂漠に林立する柱サボテンの一本にしがみつく場面。ギャラリーの人々が「飛んだ!」と叫ぶ。何故かこのシーンだけ印象的に覚えている。

 「まんが王」の2月号掲載分か3月号掲載か解らないけど。「鉄腕マキ」の連載は直ぐ終わった、って記憶してるんだよね。多分、3月号くらいで終わったんじゃないかなぁ?どういう物語の閉め方だったか全く記憶にないけど。僕の六歳時だから今から61年か62年くらい前の話だしな。

 「鉄腕マキ」は一峰大二さんのプロレス漫画です。日本プロレス界の父-力道山の弟子の少年レスラーの海外武者修行ストーリーですね。だいたい物語は主に1962年の雑誌連載中で、僕が漫画を読み始めたのが62年の暮れからですから、僕は「鉄腕マキ」ストーリーの主な部分は全く読んでいません。物語の終盤しか読んでないですね。でも何か「鉄腕マキ」は懐かしい思いがある。

 日本で初めてプロレス興行を始めた人とか、日本からのプロレスラー第1号と言っても過言ではないような、日本プロレス界の父-力道山。海外、特にアメリカでプロレスをやっていた日本人プロレスラーは、力道山以前に何人か存在したでしょうけど、日本国内で初めて日本人にプロレスを認知させた人は力道山だったでしょう。力道山も大相撲力士を廃業して、プロレスラーとしてやって行くにあたって、アメリカに渡って武者修行した期間もあったと思いますけど。

 日本プロレスの父-力道山は、1963年12月にナイトクラブ内でヤクザ者と揉めて刃物で刺され、その一週間後、病院で死去した。それまでは、少年漫画の人気ジャンルの一つであったプロレス漫画は、ほとんどの作品が力道山の活躍を描いたものだった。

 

 1960~63年頃のプロレス漫画は、偉大なプロレス師匠-力道山の元で育つ少年プロレスラーを描いた漫画作品が多かったですね。代表作が、梶原一騎原作で吉田竜夫作画で、当時の週刊少年マガジンの看板漫画だった「チャンピオン太」。「チャンピオン太」は当時のテレビの子供向け実写連続ドラマになりました。

 プロレス漫画でジャイアント馬場がクローズアップされるのは1964~65年以降ですね。力道山亡き後の日本のプロレス興行そのものの主役はジャイアント馬場になりましたね。一時期、豊登選手がエース扱いされてましたけど。豊登選手は68年以降は国際プロレスで活躍したけど。

 1964年になるのかなぁ、割りと短期連載だったと思うけど、週刊少年マガジンに力道山亡き後の日本プロレスの豊登選手を主人公にしたプロレス漫画が連載された。タイトル忘れた。

 1964年のマガジン1号から10号までの短期連載に、高森朝雄(梶原一騎)原作で水島朗作画のプロレス漫画「二刀流力道山」が掲載されてるんだけど、多分、同じ作者コンビの作品で豊登選手を扱ったプロレス漫画が、64年のマガジンに短期連載されたと思う。はっきりしなくて済みません。タイトルは「潜艦豊登」じゃなかったかなぁ?はっきり記憶してません。作画者は水島朗さんだと思う。

 「二刀流力道山」の漫画は、63年12月15日に力道山が亡くなった後の週刊少年マガジンに連載されたんですね。週刊漫画誌の新年1号から4号くらいまでは前年の12月発売ではありますが。

 

 秋田書店の月刊誌「まんが王」でプロレス漫画「鉄腕マキ」が連載されていた期間がよく解らないのですが、主な連載期間は1962年中で連載終了したのが63年の早い時期、遅くとも春先には終わったと思います。連載開始が61年の終盤か62年に入ってからなのかよく解りませんが。

 「鉄腕マキ」の作者-一峰大二先生は、その後「まんが王」では「忍三四郎」という柔道漫画を連載します。「忍三四郎」の連載期間も済みません、よく解らないのですが、僕は「忍三四郎」は連載リアルタイムで読んでいます。この時代、僕は月刊「まんが王」を毎月購読してました。「忍三四郎」の主な連載期間は1964年中ですが、連載開始が63年の終盤なのか64年に入ってからなのか解らないですね。65年に入って早い時期には連載終了してたと思います。

 一峰大二先生は漫画家デビューは1956年で、58年59年頃からは、どの少年雑誌にも連載·短編読み切りを載せるような、超売れっ子漫画家でした。60年代いっぱいは数多少年雑誌に連載を持ち、連載漫画を次々と継続して行く、超多忙漫画家生活を送っていたと思います。

 後に“コミカライズの王様”と称される一峰大二先生はテレビや映画の、SFヒーロー特撮や怪獣映画の漫画化の作品が多いのですが、正義の超人ヒーローものから、忍者漫画、時代劇、野球·プロレスなどのスポーツ根性もの、ギャグ漫画まで、幅広いジャンルで漫画を描いていました。

 70年代以降も「スペクトルマン」や「怪傑ライオン丸」など精力的に仕事をこなされてましたね。

 「忍三四郎」はアメリカの大都会が舞台で、柔道漫画なのにギャングを相手に戦ったりしてたよーな、かすかな記憶がある。主人公の柔道家-三四郎は忍者の末裔で忍者の体力(体術)を持っている。柔道の試合場面もあって、怪人柔道選手と戦ってたよーな。

 「忍三四郎」も連載時は全編読んでると思いますが、その後、単行本で再読はしてないので、ストーリーはよく記憶してません。

 そもそも「忍三四郎」はその後のコミックスで単行本化されてるのかなぁ?どうなんだろう?貸本タイプでもされてないのかな?コミックスにはなっていない気がする。

 僕が「忍三四郎」を読んだのも今から60年くらい前の8歳時9歳時だし。

 僕の小学生時代、格闘技というか武術というか武道というか、そのジャンルの漫画はヒーローがほとんど全部、柔道家でしたね。空手使いは敵役の方。柔道を修練する少年が人格者の柔道の師の元で、格闘家としても人間としても成長して行くドラマ。

 柔道を修行する少年~青年が、悪質な柔術家、プロレスラー、プロボクサー、空手家と決死の戦いを繰り広げる格闘アクション漫画。空手がクローズアップされるのは僕が中学生になってからで1968年以降くらいからかな。

 正義の柔道少年~柔道家が悪の空手使いをやっつける物語ばっかりだった。代表的な作品が映画·テレビドラマの「姿三四郎」ですね。他にも柔道ものの映画やテレビドラマはいっぱいあった。

 

 1965年9月から66年2月まで「空手三四郎」という30分の実写ドラマが毎週放映されたけど、そこまでの人気番組にはならなかったなぁ。

 やはり空手がクローズアップされるのは梶原一騎が原作で漫画「虹をよぶ拳」が雑誌連載されて人気漫画となり、その後同じ原作-作画コンビで漫画「空手バカ一代」が連載されて爆発的人気を得てからだなぁ。

 正義の最強格闘技は柔道から空手へ移り、そして最強格闘技はムエタイ&キックボクシングへ。そしてその後、ブルース·リー映画の大ヒットと雁屋哲原作漫画「男組」の人気連載で最強格闘技は中国拳法へと移る。

 

 と、まぁ、「鉄腕マキ」のことはあんまり書けませんでしたけど。割りと印象深く記憶に残ってるものの、6歳7歳当時、わずか3回くらいの連載分を読んだ記憶だけですからね。60年以上前のかすかな記憶だし。

 当時は子供の僕に取って、大好きだった勧善懲悪の等身大仮面ヒーローのテレビドラマとそのコミカライズ漫画と、プロレス漫画は同じ地平線上にあった物語だったですからね。

 当時のプロレスは、正義の日本人レスラーが悪のアメリカ-怪物レスラーをやっつける構図だったし。力道山やジャイアント馬場の日本のプロレスマットにやって来る外国人レスラーとは、日本を襲撃する“悪”の怪物たちだったんですね。テレビでやってる、悪の怪人犯罪者どもを退治する仮面ヒーローの活躍、と同じ気持ちでプロレスを意識してた。

 子供からすればプロレスラーも“超人”だったしなぁ。やって来る外国人レスラーは不気味な“怪物”だった。

 子供の頃って、何かプロレスに対してゾクゾク·ワクワクする興味津々な気持ちがあったなぁ。小学生の頃は、僕らの地域はプロレスのテレビ放送がなくて、知り得る情報は少年漫画雑誌のプロレス漫画とプロレス記事、スポーツ新聞のプロレス記事、本屋の立ち読みで見るプロレス専門雑誌からだけだったからなぁ。そこから得た情報で、子供の想像力でワクワク興奮してたんだろうなぁ。

 子供の頃は、ウチの親父が社宅となる住み家の前面に隣接する、会社の事務所で読売新聞と西日本新聞を取っていて、両新聞にも友達の家で見る朝日新聞や毎日新聞にも、野球や大相撲や他のスポーツの記事は詳しく載ってるのに、どうしてプロレスの記事が載らないんだろう?と不思議に思ってた。スポーツ新聞には載ったたけど。でもスポーツニッポンのプロレス記事は一紙面の隅だけで、そんなに詳しくは載ってなかった。九州スポーツは最初の一面から大きく載ってたけど。

 プロレスが、八百長とまでは言わないけど、出来レースというか、シナリオのある、お互いに承知した試合を戦っているんだ、と解ったのは大人になってからだな。

 子供の頃は、プロレスも他のスポーツと同じように真剣に一生懸命戦っている、普通のスポーツだと思い込んでいた。確かに真剣に一生懸命仕事をしているんだろうけど、最初からシナリオ込みでだいたいのあらすじをお互い解った上で試合していた。お互いの派手な技々をお互いが協力して掛かっていた。プロレスは派手な戦いを見せる興行だった。

 僕が中三のときにテレビで見た、アントニオ猪木vsドリー·ファンク·ジュニアのNWA世界選手権の60分フルタイム引き分けの試合など、手に汗握ってハラハラ·ワクワクしながら見ていた。僕はまだ14歳だったなぁ。

 大人になって、ボクシングの試合はほとんどの選手が3ヶ月から半年くらいの間を開けて試合してるのに、プロレスラーは毎日のように試合を行っている、身体が持つんだろうか?とかイロイロと考え、子供のとき周囲の大人たちが言ってたように、ヤラセの出来レースで演じてるのかも、と思い始めた。

 決定的だったのは村松友視さんの「私、プロレスの味方です」シリーズを読んでからだな。

 プロレスラーは真剣そのもので大真面目に一生懸命、仕事をしている。真剣に試合運びをやらないと大ケガをする。それも死に繋がるような大ケガをするかも知れない。本番試合で事故を起こさないように、毎日毎日厳しい訓練をして身体を鍛え上げ、超人的な肉体を作り上げている。そうしないと大ケガをするから。

キングZ〔完全版〕【上】 (マンガショップシリーズ 171)

AKITA特撮SELECTION ウルトラマン 最終決定版 上 (AKITA 特撮 SELECTION)

AKITA特撮SELECTION スペクトルマン 冒険王・週刊少年チャンピオン版 (1) (書籍扱いコミックス)

【デジタルリマスター版】電人アロー(1) (LEGEND A)

甲子園の土(上) (マンガショップシリーズ 43)

プロレス悪役シリーズ2 (マンガの金字塔)

プロレス悪役シリーズ〔完全版〕【1】 (マンガショップシリーズ)

快傑ライオン丸(1) (カドカワデジタルコミックス)

電人ザボーガー(2) (カドカワデジタルコミックス)

電人アロー 一峰大二 画業60周年記念版 単行本 第2巻 Ver3.0

【デジタルリマスター版】電人ザボーガー(1)電子特典付き 【デジタルリマスター版】電人ザボーガー 電子特典付き (LEGEND A)

力道山の真実 (祥伝社文庫)

力道山:人生は体当たり、ぶつかるだけだ (ミネルヴァ日本評伝選)

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(上) (新潮文庫)

もう一人の力道山(小学館文庫)

KIMURA vol.2~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ KIMURA~木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか~ (アクションコミックス)

 多分、力道山以前にも日本国内でプロレス興行をやった人はいるんだろうと想像するけど、力道山は日本にプロレスを持ち込んだ人という印象は強い。大相撲力士を廃業してアメリカに渡ってプロレス修行をやって日本に帰り、日本プロレス協会を設立した力道山は、日本プロレス界の父と呼ばれる。アメリカでプロレスをやっていた日本人や日系人は力道山以前にもいた。

 力道山は戦後にプロレスというスポーツ的な娯楽を持ち込んで、アメリカに戦争で負けた国民に、日本人レスラー·力道山がアメリカからやって来た怪物的で卑怯な外国人レスラーを空手チョップでやっつける、という試合を見せて、戦争で負けて疲弊し悔しい思いを溜めている国民の溜飲を下げさせて、力道山は国民の英雄となった。

 力道山の死は僕の小学校二年生の二学期の終わり時で、その後も僕が高校生になる頃まで、力道山が本当は日本人じゃなくて在日朝鮮人だったとは知らなかった。力道山は大相撲力士の時代は朝鮮出身を公表してたらしいが、プロレスラーとして活動を始めてからは実は朝鮮人だということは隠していた。僕の少年時代も、周囲の大人たちで力道山が朝鮮人だと言ってる人はいなかったなぁ。知らない大人が多かったのか、薄々気が付いてたけど敢えて言わなかったのか。

 戦後のプロレスブームの時代、力道山が朝鮮人だと公表してたら、あれだけの国民的ヒーローにはならなかったろうなぁ。

 ただ、力道山はもともと朝鮮半島が日本だった時代に生まれていて、帰化説は諸説あって、長崎県の日本人養父母の間で育った少年時代に帰化していた、とか、実は朝鮮半島で育って朝鮮相撲の選手で日本の大相撲にスカウトされて日本本土に渡って来て、大相撲力士をやめたときに日本人に帰化したという説がある。いずれにしても力道山がプロレスラーとして活躍していたときは既に帰化していて、国籍は日本人だった訳ですね。

 

 力道山がプロレスで活躍して日本国中の大人気だった時代、まだまだテレビ放送が始まったばかりの頃やテレビ黎明期、力道山の映画はいっぱい制作されました。力道山の活躍を描いた漫画も多かった。

 僕が漫画を読み始めた6歳の頃は、力道山自身の活躍を描くというより、力道山が育てる愛弟子の少年レスラーの成長と活躍を描く漫画が多かったですね。

 力道山さんはプロレスラーとしても魅力溢れる選手だっただけでなく、実業家としても優秀な人で、娯楽施設やマンション経営などさまざまな経営に乗り出してますね。経営者としても成功を納めてた39歳という若さで亡くなってしまったけど。

 プロレスラーとして成功して弟子もたくさんできた30代後半頃は、プロレスよりも事業経営の方に関心が強かったみたいで、観客が力道山の試合が見たくて、まだまだメインイベントで試合に出なければならなくて、ちょっと熱意の冷めぎみなプロレス試合をこなすために、力道山は試合前に興奮剤を飲んでいた、という話がありますね。その興奮剤が覚醒剤であった、という説もあって、試合が終わった後も興奮が醒めず、試合後の酒場でよくトラブルを起こしたなどという話も出てますね。

 力道山さんが亡くなって後、1960年代後半頃から70年代頃、真実の力道山を描いた小説や伝記の書籍がいっぱい書かれた。日本の戦後の英雄-力道山は、その時代、メディアでは正義の人格者みたいに描かれていたけど、実際は暴れん坊の相当ひどい人だったと描いた本。

 僕は80年代後半頃、こうした力道山をモデルにしてモンスターとして描いた小説や、実は朝鮮人の力道山の本当の伝記、などの本を読みました。

 酒場などで暴れてトラブルを起こすことがしょっちゅうだという話とか、プロレスの弟子の育成がほとんど虐待で、ムチャクチャなシゴキを行い、猪木などは走ってる自動車から道路に突き落とされたり、猪木は師匠-力道山に殺意を抱いたこともあったんだとか。一番弟子格の馬場も実は力道山の性格を蔑んでいたとか。

 このとき、こういった本を読んで、子供の頃憧れた、メチャメチャ強い正義の超人だった力道山の真実を知ったかなぁ。

 プロレス界には在日韓国人·朝鮮人や帰化した人が多いですよね。原爆頭突き-大木金太郎とか。大木金太郎さんも猪木と戦うまではずっと日本人だと思い込んでましたね。今は人気ユーチューバーの長州力さんもそうだし、プロレスラーには歴代、いっぱいいますよね。芸能人と同じような意味合いがあるのかな。

  

 誰が書いたものだったか昔読んだ書物で、力道山が朝鮮戦争が休戦に入り、板門店の国境線まで旅行で訪れ、西側陣営で生活する力道山は北朝鮮領土へ入れず、国境線から自分の生まれ故郷、北朝鮮側の土地に向かって何か大声で叫んだらしい。同行した日本人の証言らしいが、何と言ったか聞き取れなかったとか。何かこの話は印象深く記憶しているなぁ。

 僕が漫画を読み始めたのが1962年の暮れぐらいからで、当時の少年月刊漫画誌を読み始めたのが、62年12月号か63年1月号からだと思うんだけど、秋田書店発行の「まんが王」1月号で読んだ「鉄腕マキ」をはっきり覚えていて、同時に同じ秋田書店発行の「冒険王」の別冊ふろくで着いていた「少年プロレス王」という漫画も記憶にあった。

 ただし「冒険王」新年特大号ふろくの「少年プロレス王」というタイトルは後にネットで最近知ったことで、別冊ふろくに読み切りのプロレス漫画があったというのは記憶していたが漫画のタイトルまでは覚えてなかった。

 「鉄腕マキ」とこの読み切りの「少年プロレス王」の内容がよく似ていたので、僕の記憶ではずーっとどちらも作者は一峰大二氏だと思い込んでいた。でも後々ネットで見つけて、まったく違う作者だと解った。僕の完全な記憶違い。

 「少年プロレス王」は金山明博という方だった。僕は金山明博さんという漫画家さんを知りませんでした。雑誌で描いていた方なのか貸本漫画家か、代表作は何なのか、まったく知りません。

 ただ小一·6歳の子供の記憶にぼーっと、その時の「まんが王」と「冒険王」によく似たプロレス漫画が載っていたなぁ、くらいのあやふやな記憶です。「鉄腕マキ」も「少年プロレス王」も当時のプロレスヒーロー·力道山を師匠とする愛弟子の少年プロレスラーのお話です。ただ「少年プロレス王」は別冊ふろくに着いた読み切り漫画でしたね。

 失礼しました。金山明博氏はアニメーターとして有名な方でした。最初は貸本漫画家として出発し、1964年65年頃は市販雑誌の少年誌にも漫画が掲載されてたようですが、65年に手塚治虫の虫プロに入社してアニメーターに転身したようですね。そこからはアニメーターとしてのキャリアを積んで行かれ、虫プロで数々のアニメ作品の制作に携わり、虫プロ倒産後はフリーのアニメーターとしてたくさんのアニメ制作会社の作品に関わり続け、還暦間近までアニメ制作の仕事をされてた方のようですね。

 金山明博さんの経歴を見ると「冒険王」にて「少年プロレス王」を描いたのは1964年となっています。僕の記憶する63年新年特大号ふろくの読み切り漫画と「少年プロレス王」は別作品なんだろうか?何か解らなくなって来ました。

 いや、やっぱり「少年プロレス王」は「冒険王」63年1月号の別冊ふろくですね。間違いないです。

 また同じ漫画がね、まったく同じ内容かどうかはっきり解りませんが同じタイトル「少年プロレス王」で作者も金山明博氏で、63年「冒険王」のお正月増刊号に読み切り漫画が収録されてます。「冒険王」のプロレス&ボクシング特集号という増刊号ですね。

 僕は当時の「まんが王」新年号と「冒険王」新年号を読んでいるのは間違いないですが、この「冒険王」お正月増刊号を読んだ記憶はありません。この「まんが王」は62年12月3日発売で「冒険王」は62年12月6日発売ですね。「冒険王」お正月増刊号の発売は62年12月15日になります。

 このときの「まんが王」「冒険王」共に貸本屋で借りて読んでます。僕が6~11歳まで通ってた当時の家の近くの貸本屋。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「鉄腕アトム... ●小説・・「じ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。