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●漫画・・「すすめ!ロボケット」..(3)

 五歳まで、山々と田畑ばかりの、地方の本当のド田舎、といっても、まあ、この時代、国内は、街もあったがほんの一部で、大部分は、そんなド田舎状態だったんでしょうケド、そういうド田舎で育った僕は、保育園や幼稚園といったものには行かず、家の中と、自然そのものの戸外で、伸び伸びと育ったが、かなり人見知りの強い子供で、大人でも、馴れない大人には、なかなかなつかなかった。子供のくせに、小心臆病で警戒心の強い子供でしたね。読み書きが全く出来ないのに絵本好きで、親にはいつも幼児絵本をねだってました。親父が仕事でバイクで出掛ける度に、絵本をねだってました。だから家の中には絵本がいっぱいあった。七、八歳年上の兄貴は完璧アウトドア派で、小学生時代は毎日、数人の仲間を引き連れて野山を駆け巡り、鍬やスコップを持って山々へ穴堀りや、森の木登りに行っていたが、内向的な僕は家で一人遊びすることが多かった。でもこの時代、引き籠りは許されず、必ず近所の子供か暇な大人が、戸外へ連れ出してましたね。

 僕ん家は、僕が六歳になって直ぐに、親父の転勤で街の方へ引っ越し、僕が小一から中三までは、商店街通りの真ん中に立つ家で暮らした。家は一応、親父が勤める電力会社の社宅で、親父としては出世だった。商店街通りに面した会社事務所に接続した、裏の母家が4DKの住み家だった。この時代の商店街通りは、たいそう賑わっていた。当時の住み家の通りを挟んだ向かいは、製菓会社の工場で、僕が小六頃、工場は郊外へ移転して跡にボーリング場が立つ。家の斜め前は邦画のロードショー館で、僕が小学生の時代までは映画館も盛況だった。僕の小学生低学年時代は、市全体の人口は多分、現在の三倍以上居たろう。僕は街に来て直ぐに、小学校へ上がった。小心臆病で人見知りの強い、一人遊びの好きな僕は、学校が大嫌いで、毎日毎日登校が嫌で嫌で仕様がなかった。毎朝、家で行きたくないと泣いたりゴネたりしてたが、毎朝、母親に無理やり学校に連れて行かれた。一学期の間は、学校でも毎日のように泣いていた(んじゃないか、と思う)。母親は一学期の間は毎日、僕を学校まで連れて行き、授業が終わるまで廊下で待って、午後の放課後、僕と一緒に家に帰った。廊下で見張ってないと、僕は授業を抜け出して一人、家に帰って来てしまうからだ。

 二学期になって多分、ようやく、母親が行きも帰りも同伴、というのがなくなった。つまり、母が廊下で待たなくてよくなった。しかし毎朝、学校までは母親に連れられて行っていた。でないと、二学期になっても朝、登校しないからだ。それくらい、学校が嫌いだった。三学期でも学校は行きたくなかったが、ホントにようやく、毎朝親と一緒に学校に来てるのが、自分一人だけだというのが恥ずかしくなり、母親と一緒に登校するのは、通学路の途中までになった。だが、朝学校行くのがものすごく嫌なのは変わらないので、母親が連れ出さないと登校しようとしなかった。小学校二年生になってからホントにホント、ようやっと、一人で学校へ行くようになった。でも学校は嫌いで、隙あらば休もうとしていたが、母親が頑として休ませなかった。仕方なく毎日学校へ行ってたが、登校途中で何処かへ行くことはなかった。あくまで家の中が大好きなのだ。また、僕はもとから小心臆病、強度の人見知りの子供だから、放浪的な見知らぬ場所への冒険など絶対しなかった。

 僕は小さい頃から一人が好きで、両親は子育てにおおらかでうるさくなかったから、家では漫画本読み放題、オリジナルの、鉛筆殴り書き漫画描き放題。家ではいつも、空想の友達が四、五人居て、毎日エア友達と会話してたから、寂しくなんてなかったし、家の中では、充実した子供ライフを過ごしていた。幼児期、絵本ばかりを買ってもらってた僕は、平行して小学館や講談社の幼年誌、「めばえ」や「よいこ」や「幼稚園」も何度か買ってもらっていて、その流れで、小学校に上がると、小学館の学年誌「小学一年生」も買ってもらった。小学校は大嫌いだったが、雑誌「小学一年生」は大好きだった。もっとも僕が、ひらがなが読めるようになるのが多分、小一・三学期からだから、「小学一年生」も買ってもらっても、絵を眺めてるだけだったろう。絵本好きから雑誌好きになった僕は、漫画狂になったが、活字本好きにはならなかった。小説類は大の苦手で読めなかった。児童文学など最敬遠して絶対読まなかったし、また、手に取ったとしても読めなかった。頭が悪過ぎたのだろう。そんな六歳時、雑誌「小学一年生」で眺めてた漫画が、「すすめ!ロボケット」だ。本誌四色カラーで美麗な絵で、別冊付録へ続いてた。でも考えてみれば、小一時、家で、親父でも母親でも当時中学生になってた兄でも、ひらがなの読み方くらい教えてくれれば良かったのに‥とも思う。まあ、僕は学校大嫌いだったし、当然、勉強も大嫌いだったから、家で勉強的なコトを習うのも嫌がったのかも知れないな。

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 当時の「すすめ!ロボケット」は、「幼稚園」掲載と同時にか「小学一年生」~「小学二年生」~「小学三年生」に連載が続いたから、僕はひらがなが読めて大いに漫画を読み始めた小二になってからも、「小学二年生」を買って読んでたでしょう。小学館の学年誌は貸本屋さんでは扱っていなかったから、時々購読してたんだろうけど。「すすめ!ロボケット」の掲載形態は1962年から65年までの間に、同時に「幼稚園」「小学一年生」「小学二年生」「小学三年生」にそれぞれ別個のエピソード作品が掲載されていたんですね。「小一」~「小二」に連載持ち上がり形態もあったけど、作品はどれも基本的に短編作品で、その号読みきり掲載ですからね。藤子不二雄名義の藤子F不二雄先生ソロ作品。この時期って、調度、小学館の「週刊少年サンデー」に、「海の王子」が連載されていた時代ですね。「海の王子」は、絵柄的には藤子F不二雄氏のタッチが強いというか目立つんだけど、一応、共作なんですね。「海の王子」終了後に「週間(週刊)少年サンデー」に連載された、「おばけのQ太郎」も藤子F不二雄先生のタッチだという気がする。だいたい、その後の「週刊少年サンデー」掲載の藤子不二雄名義作品は、「パーマン」や「ウメ星デンカ」など、藤子F不二雄単独作品ですね。集英社の月刊誌「少年ブック」末期に連載された、「チンタラ神ちゃん」は絵柄的に、藤子F不二雄ソロだと思っていたけど、共作作品なんですね。そうやって見ると、共作作品は、藤子F不二雄氏のタッチに合わせているような感じですね。タッチを藤子F不二雄に統一している、というか。この時代の相方、我孫子素雄先生の代表的な作品、「フータくん」「怪物くん」「忍者ハットリくん」なんかと比べると、タッチがかなり違うでしょう。藤子不二雄A氏作品のこの時代のストーリー漫画、「シスコン王子」「消える快速車」「シルバークロス」「スリーZメン」などと比べると、藤子F不二雄氏や共作との絵柄・タッチは全く違いますね。

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 藤子F不二雄氏の膨大なSF短編作品群を見ると、藤子F不二雄が正に“天才”であったことがよく解りますが、藤子F不二雄の描く児童漫画は、正に“子供の夢”を描いた漫画作品ですね。純粋で良心的な作風で子供の夢を描いた作品、という気がする。何ていうか、実社会・実世間である大人の世界の生々しい、穢れや嘘や裏切り、騙し、恨み、厭らしい妬みとか裏表、憎しみ、などなどのたくさんある、人間のネガティブ部分が見えない、“透明感”が作品を覆っている。そんな気がします(無論、F不二雄先生の膨大な数の珠玉のSF 短篇の中には、風刺やアイロニーの要素がいっぱいありますけど)。それに比べると、藤子不二雄A氏の作品には、「魔太郎が来る」や「笑ゥ(黒い)せぇるすまん」、「ブラック商会変奇郎」や「黒ベエ」などなどの人間のネガティブ部分が題材になった作品も多い(“毒がある”という意味でもあるんだけど)。勿論、藤子F不二雄氏のSF作品の中に、そういうものが扱われているものもあるかも知れませんが、それは舞台がSF世界だからかも知れませんが、作品に“透明感”がありますね。何か、藤子F不二雄作品は、純粋な正義とか、友情や夢とか希望とか、正統的な、綺麗なものが多いという気がします。窮めて極端な言い方だけど、作品的に藤子F不二雄が太陽側の陽で、藤子不二雄A氏は陰という感じを受けますね。まあ、バラエティーに富んだ作風の、藤子不二雄A氏の部分的な面に、ですけど。で、藤子不二雄A氏の方の作品は、文学性が高いものが多い。“天才”といえば、大師匠、神様・手塚治虫も、石(ノ)森章太郎も赤塚不二夫も両・藤子不二雄もみんな、種類というか傾向の違う“天才”であることは間違いありませんが。

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 さて、「すすめ!ロボケット」が、リアルタイムで小学館の幼年誌・低学年誌に連載されていた当時、僕の小学一年生時ですが、僕が小学校に上がって直ぐ、身体検査がありまして、学校の学年検診や身体測定ですね。この時も、僕は予防接種の注射で、ビャアアァァ~と大泣きしてましたが、よく憶えているのは僕だけ、着ている衣服の着脱が出来ず、担任の女先生に脱がせてもらい、また着せてもらってました。六歳。僕だけでした。仕様がないですね。あれ? 予防接種と身体測定とかを一緒にやってたのかなあ? 何だか一緒に記憶してるけどなあ‥。別だったのかも。また、小学校入学当初、クラスで泣いている子供が三、四人居たんだけど、僕は身長が高い方で、同じく身長があり、後ろの方の席だったK君が泣いていたのも印象的によく憶えています。無論、僕も大泣きしてました。K君は後に、中学で野球部のキャプテンをやり、中学三年生時は、僕たちの中学校の番長格と他校からも目されてました。また、高校では生徒会長もやっていた。だから、そういうギャップで、小一の初めのクラスの後ろの席で、シクシク泣いていたK君の姿が、とても印象深く記憶に残っているんですね。もう一人、泣いてた子が居て、名前はすかっり忘れてるけど小さな子で、この子は同じく泣いてる僕に対して強がって威嚇し、図体の大きい僕は怖くてまた泣いてました。でもこの子は、別の日に、授業中にウンコを漏らしてしまって、その時もまた泣いて、それから、僕を威嚇しなくなったように思う。大便失禁して泣いてるこの子を、隣の席の小さな女の子が面倒見てたのを記憶してる。「すすめ!ロボケット」と、昔、学校で泣いてたのと、授業中の大便失禁は関係ありませんけど。まあ、僕も小学生時代は何度か、授業中に大便失禁して、バレずに、後で、落とし込み式の汲み取り便所で、ドツボに汚れたパンツを投げ込んで、直にズボン穿いて帰ったもんですけど。懐かしい大便漏らしの思い出

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 僕は、大昔の、小学校一~二年生時に読んでから、なかなか復刻が成らず、待ちに待って2012年初夏からの初復刻で、ン十年ぶりで「すすめ!ロボケット」を、読んで触れて凄く嬉しかったものですが、他にも藤子不二雄作品には、非常にレアなプレミア作品があります。「ユートピア‐最後の世界大戦」。レアっていったけど、でもこれって、1991年発刊の中央公論社版・藤子不二雄ランドの中で、新書版コミックスで復刻刊行されてたんですね。フジ系月9ワク2013年初春期連ドラの、「ビブリア古書堂の事件手帖」2月25日放送の回で、藤子不二雄氏の処女作といってもいいような、まだ雑誌連載デビューも果たしていない頃の、両氏共作の足塚不二雄名義の、1953年描き下ろしSF漫画単行本、「UTOPIA‐最後の世界大戦」をお題に扱っていました。これ、僕は未読なんですけど、メディアで紹介される中身をぱらぱらと見るに、手塚治虫の影響が色濃くあるけれども、やはりタッチは藤子F不二雄氏だという気がする。共作では、どの作品も一応、藤本弘氏が主体で我孫子氏はどちらかというとサブに回っている、という感じを受けますね。「UTOPIA‐最後の世界大戦」の1953年発刊の初版本は、「ビブリア古書堂の事件手帖」のドラマの中でも、古書値で百万単位の高値が着く、とセリフで言ってましたが、事実、古書値は200万~300万はするみたいですね。超びっくり!です。ちなみに99年に放映された実写版で伊東四郎主演の「笑ゥせぇるすまん」でも、この超レアお宝漫画古書を扱っていた回がありました。「UTOPIA‐最後の世界大戦」は、小学館クリエィティブ発行の「藤子F不二雄大全集」第Ⅲ期にて、2012年初秋、愛蔵版復刻刊行されてます。

◆(2012-05/09)漫画・・ 「すすめロボケット」..(1)

◆(2012-06/02)漫画・・ 「すすめロボケット」..(2)

 

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●漫画・・「宇宙エース」

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 コーラのお婆ちゃんが居なくなった、ということで、小さな集落のみんなで探しに出た。集落の人たちは、ほとんど農家だったけど、無論、中には学校の先生や勤め人も居た。僕の家は「電気屋」さんと呼ばれていた。僕の家族の住んでいる家は、長屋で、隣家の主は電気工事士だった。斜め前には「絵描きのおばちゃん」という、資産家の人が居たし、真ん前はもともと農家だが、僕の友達の親父は刑事だということだった。田圃と畑と連なる小山ばかりの地域だったが、今から考えると、あの集落にはけっこう、公務員や勤め人も多かったようだ。僕ん家の住む長屋の、隣家も、僕が生まれた当時までは小学校教員の家だった。僕ん家の住む長屋の庭を挟んで、柵の向こうにも長屋が有り、そこの一軒に、学校の勉強が成績優秀な高校一年生くらいの息子が居て、僕の兄の勉強を見てもらっていた。兄は当時、小六くらいだった。その家のご主人は身体を悪くしていて、奥さんが働いていたんだと思う。

 コーラのお婆ちゃんは夕方、暗くなってから居なくなった。庭向こうの優等生の息子を、僕の家の者はみんな、「前の兄ちゃん」と呼んでいた。僕の住まいの長屋には、「電気屋」の事務所が隣接していて、事務所から考えれば「前」の家は、親父さんが刑事の「ヒサボウちゃん」家になる。僕ん家、窓の縁側から見れば「前」は、長屋の「前の兄ちゃん」の家になる。僕は、懐中電灯を持った「前の兄ちゃん」に着いて、コーラのお婆ちゃん捜索に参加した。15歳くらいの「前の兄ちゃん」の手をしっかり握って、一緒に闇の田舎道、田圃道、山道を歩く僕は、当時5歳になっていたろうか。無論、4歳5歳当時の、僕の記憶がはっきりしている訳がない。この村中での捜索の記憶で、僕の頭にぼんやりと残っているのは、コーラ(コウラ)の家から村落を横断する河川まで続く、山沿いの小川を何人かの集落の人たちと一緒に、「前の兄ちゃん」の手をしっかりと握りながら、「コーラのお婆ちゃん」の名前を呼びながら、歩いた場面くらいだ。もっとも、似たような場面の記憶もある。「前の兄ちゃん」の手を握りながら、同じ小川沿いの細い道を歩いた記憶。そっちは真っ暗い夜道を、無数の蛍の光を眺めながら、歩いた記憶だ。どっちも同じ場所で、夏場のことだが、シチュエーションが全く違う。その晩はみんなで手分けして、あちこち深夜まで「コーラのお婆ちゃん」を探した。

 「前の兄ちゃん」にしろ、中三かせいぜい高一くらいだし、僕は四、五歳の幼児だ。よく覚えてないが多分、他の、捜索する大人たちより先に退き上げてると思う。僕の実兄は小六くらいだろう。この夜の、実兄や父母の記憶がない。父母は多分、別口で捜索に当たってたんだろう。その頃の噂では、コーラのお婆ちゃんは嫁に虐められていた、という話だった。その「虐め」の内容の細かい話は知らないが、そういう噂で、そのことを四、五歳の僕が当時、実際耳にしていたかは記憶になく、後に僕がもう少し大きくなって、母や母の友人知人たちとの会話の中から、聞いた話なのかも知れない。中でも、「虐め」の話の内容で生々しいのは“食べ物”の話で、当時、意地悪な嫁は義母に、ご馳走を食べさせるのが嫌で、別々の膳で、自分らだけカニを食べ、お婆ちゃんは後でゴミ箱にカニの残飯を見つけ、カニの甲羅を一生懸命ほじってわずかなカニの身を口に入れた、という話があった。まあ、僕としては後から聞いた逸話なんだけど。聞いた話としては、嫁の姑苛めが目立ってひどかったらしい。別に、幼い時分の僕が直接目にした訳ではなく、あくまで僕のまた聞きないしマタマタ聞き、くらいの、まあ昔の噂話ですけど。

 それで、この、コーラのお婆ちゃんの失踪は事実で、その晩の、集落を挙げての捜索も事実で、捜索にあたった人たちのほとんどは、その夜の深夜、ないし未明には捜索を、その晩は打ち切って退き上げたが、翌朝の早朝、僕ん家の親父、「電気屋」の親父が遺体を発見した。多分、親父は何人かの有志と共に夜っぴて、明け方も捜し続けていたんでしょうね。川に橋のたもとから入水して死んでいたらしい。何でも親父が引っ張り上げたらしいが、多分、その後だろう、立ち会った警察が自殺と判断したらしい。お婆ちゃんの遺体が自宅に運ばれた時、まあ、僕はよくは解らないけど、姑苛めをしていたという、まあ、鬼嫁さんですよね、この嫁が、家の座敷に姑の濡れた遺体を置くというので、座敷の畳の上にバーッと新聞紙を何枚も広げて敷いた。この時、カツヨさんというおばちゃんが、「布団を敷いて。この家で一番上等な布団を敷いてちょうだい。布団は私が買って返すから!」 と怒鳴って、嫁に布団を敷かせて、みんなで、ずぶ濡れのお婆ちゃんの遺体を布団に寝かせたという。

 この日の二、三日後、コーラのお婆ちゃんが入水して死んだ川のほとりから、離れた自宅方向に向かって、大きな火の玉が飛んで行った、という逸話があった。勿論、深夜の話だが、目撃した警察官が腰を抜かして、しばらく立てなかったという噂話だった。当時、僕の周囲の人たちは“人魂”とは呼ばず、“火の玉”と呼んでいた。僕も貸本で水木しげるなどの怪奇漫画を読むまでは、“人魂”などという呼び方は知らなかった。僕の幼少時には、「火の玉目撃談」の話がいっぱいあった。でも、どれも「私が見た」という話ではなく、「誰それが見た」という、また聞きやマタマタ聞きや噂話だった。で、それからしばらくして、この、まあ、僕自身はよくは知らないのだが、後から聞いた噂話では鬼嫁だった、この嫁は、コーラのお婆ちゃんの息子である亭主と離縁して、実家に戻った。コーラのお婆ちゃんの息子はその後、再婚した。“コーラ”といっても、勿論「コカコーラ」のコーラではなく、亀の“甲羅”の字でもなく、多分、“こうら”に当てる漢字のある、苗字だったんだろうが、今の僕には確かな苗字の漢字は解らない。4、5歳の年齢だった僕には、“コーラのお婆ちゃん”の記憶もない。多分、会ったことはあろうが、おとなしいお婆ちゃんだったという印象が何となくあるが、はっきりはしない。息子の顔も全然記憶に無い。しかし、噂に寄る“鬼嫁”の“コーラのおばちゃん”は覚えている。一緒に写った写真がある。4、5歳当時の僕が自転車に乗り、周りをまだ若い母親と、当時の家の近所の人たちが囲んでいる、一枚の古い写真。“コーラのおばちゃん”は巨漢だった。いつも真っ白い割烹着を着けていた。僕ん家の隣の若夫婦のおばちゃんも太っていたが、“コーラのおばちゃん”は比べものにならないくらい太っていた。

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 で、話は“カツヨさん”である。カツヨさんは、当時の僕の母いわく「おりこうさん」だった。今から考えるに、本当に、当時の僕の周囲に居た大人たちの中では、頭の良い人だった、という印象がある。母のいう「おりこうさん」とは、別に「狡賢い」という意味ではなく、単に「頭が良い」とか、人間関係の処理がうまい、コミニュケーション能力が高い、とかいう意味だったんだと思う。カツヨさんは長い間、福祉事務所か市の福祉課に勤めていた。詳しいことは知らない。カツヨさんは僕の母親よりも年長だし、ひょっとしたら親父と同じくらいか、もう少し年上だったのかも知れない。数年前86歳で亡くなった僕の親父と同い歳か、もう少し上だったら、今、どうなんだろう?という年代である。無論、僕自身、40年以上会ったことはないが、僕が東京圏からUターンで帰って来た最初の年、次の仕事にまだ就いてなく、ぶらぶらしていた時、街の中で昼間、遠くから見掛けた。無論、遠くて声など掛けていない。それでももう、30年近くも前になる。ただ、僕の子供時代のカツヨさんは福祉関係の仕事に就いていて、スカート姿だが、いつでも女性用の上下スーツを着用して、アップにした髪形からお化粧も、いつでも上品できちんとしていた。多分、決して美人という相貌ではなかったんだとは思うが、今から思うに目の光など、頭の良さを窺わせていたように思う。酒好きだった印象は、よく覚えている。

 カツヨさんは子供好きで、小学生低中学年の僕をよく、街の大衆食堂に食べに連れて行ってくれた。一度、食堂で、一緒になった隣テーブルの客が、養護学校か養護学級かの生徒数人と引率の若い男性教師だったのだが、その子供たちの騒がしいお喋りや先生とのやり取りに、僕はちっともおかしくはないのに、カツヨさんは楽しそうに聞いて、吹き出すように笑っていた。無論、馬鹿にした笑いではなく、心から愛すべき者への楽しそうな笑いだった。僕はそのシーンを今でも、印象深く記憶している。その時は「変なの」みたいな感想だったけど、後からあのシーンを思い出すと、カツヨさんの慈愛と子供好きがよく解る気がする。僕の幼年期から少年時代、僕の家にはカツヨさんを含め、たくさんのいろいろな人たちが、毎日のように訪ねて来ていた。親父の会社関係の人たち、集落の人たち、近所の人たち、街の人、母親の友達。あの時代、電力会社に勤めていた親父は、ある種、ヒーローだった。親父が電力会社を中途で辞めて家が破産し、親父が大借金を抱えたまま愛人のもとへ行き、家庭崩壊と同時に大貧乏に陥るまでは、家にはいっぱい人が来ていた。親父が居なくなって、引っ越したオンボロあばら家には、誰も来なくなった。仮に誰か来たとしても、母親も働き始めていたし、家には社交的でない田舎者の母方の祖母しか居ない、というのもあった。長年、事務所でたまの電気料金受領業務くらいしかしたことのない、ほとんど専業主婦だった母親は、いきなり仕事を始めて疲労困憊し、日曜は一日寝てたし、病院に掛かることも増えていた(その内寝込み、その後入院した)。親父が居なくなりあばら家に越してからは、それまでの何十年もの間に来ていた人たちが、本当に誰も来なくなった。カツヨさんもそれきりだ。勿論、だからカツヨさんが冷たいのではなく、自然とそうなったのだろう。母親も世間身分的には、「電気屋の奥さん」から落っこちた訳だし。僕が、それまでの友達と会いたがらなかったように、多分、母親も落ちぶれた自分を見せたくない気持ちもあったのではないか、と思う。

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 ここの記事のタイトルが、漫画作品の「宇宙エース」で、ここまで読んで来られて、何だ、「宇宙エース」なんてちっとも出て来ないし、「宇宙エース」に関係するような記述もまるで無いじゃないか、と噴飯もので思われる方も多いと思いますが、これからが「宇宙エース」なんです。“コーラのお婆ちゃん”や“カツヨさん”など、大昔の地方の一地域の片隅で生活していた一・一般人の話ばかりで、どうやって昔のSF少年漫画の「宇宙エース」に繋げるんだ、と思われるでしょうが、まあ、このBlogの記事はBlog主の僕の漫画に関する、ごく個人的なエピソードの書き込みも多く、ここも、僕の記憶のエピソードが細かく書き込まれているだけで、これから「宇宙エース」の話は出て来ます。

 子供好きのカツヨさんは、小学生当時の僕をよく、当時の自分の住まいに連れて行って、ご飯を食べさせて泊めてくれた。仕事を持っているカツヨさんは、たいてい土曜の夕方から連れて行ってくれてたんだと思う。確かに記憶しているのは二泊で、一泊目は僕が小二か小三頃、カツヨさんが大きな家の二階を、今でいうシェアハウスみたいにして下宿的に借りていた当時、僕が一泊して、日曜の朝、目が覚めると枕元に貸本漫画がいっぱいあったのをよく覚えている。二泊目はそれからしばらく経って、僕が小三か小四時で、カツヨさんは当時長屋に一人住まいしていた。玄関ドア前の小さな畑で採れたオクラなどの野菜などで、夕飯にご馳走を作ってくれた。この時、カツヨさんと二人で夕飯を食べている時に、TVで「宇宙エース」がやっていた。これはしっかりと記憶している。モノクロアニメの「宇宙エース」放映は、当時のフジテレビで65年から66年の一年間だから、多分、65年の初夏頃のことなんじゃないかなあ、と思うんだけど。当時の「宇宙エース」放送は、毎週土曜日の夕方だったし。

 と、まあ、これが随分長い、長過ぎる、SF冒険漫画「宇宙エース」に関する、ワシ自身のごくごく個人的なエピソード。で、ここからが「宇宙エース」そのものについての説明です。

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 「宇宙エース」は僕が小学生の頃、集英社の月刊誌で連載され、TVアニメとして放送され始めてからは大人気の、子供向けの漫画・アニメ作品だった。宇宙からやって来た、スーパー超能力少年・宇宙人のエースが、地球の平和を守るため、地球のマッドサイエンティストや凶悪組織、地球侵略を狙う異星人団たちと、パールム星人の超能力や科学力を使って、知恵と勇気で、人類の敵たちと戦い抜き退治する、というSF冒険漫画作品。集英社の月刊誌「少年ブック」新連載が、1964年7月号からですね。まだあの、東京オリンピックの前だ。それから約二年間も連載が続いて、「少年ブック」の66年5月号まで掲載され続けたんですね。「宇宙エース」は、当時の「少年ブック」の看板漫画の一つで、常に本誌カラーページからB6判別冊付録へと続く形の掲載でした。アニメ化は雑誌連載開始から一年遅れて、1965年5月から調度一年間放送されました。TVはフジテレビで、66年4月末まで全52回放送。勿論、当時のアニメはモノクロ放送です。タツノコプロの製作第1号アニメで、当時は大人気放映されてました。あ、「宇宙エース」の後番組が、「ハリスの旋風」だったんですね。漫画とTVアニメの終了は、調度同時期ですね。

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 「宇宙エース」の雑誌連載もTV放送も、始まりから終了までの間、僕は小学生時代で、TV放送も多分、毎週見ていたんだと思います。僕ん家の近所の貸本屋が店閉まいするのが、僕が小五の春くらいだったんじゃないかと思うから、僕は、「宇宙エース」連載当時の「少年ブック」は、たいていは貸本屋さんで借りて読んでますね。たまには購読してたと思いますが。「宇宙エース」が当時の僕が特に大好きだった漫画作品という訳でもないですが、当時は、TV人気に煽られて朝日ソノラマソノシートを買って来て、レコードプレイヤーで聴いたりして楽しんでいました。小学生六年間の僕の、家での遊びは、毎日の鉛筆漫画殴り描き、でしたから、「少年ブック」の別冊付録やソノシート冊子のカラーイラストを真似て、鉛筆描き漫画で僕オリジナルの「宇宙エース」を描いてました。まあ、頭の悪い小学生ガキの単純で他愛も無い鉛筆描き漫画ですけど。まあ、この当時の僕の「漫画描き」は描き上げて冊子にまで作り上げたからといって、別に誰か他人に見せる訳ではなく、オール自己満足です。まあ、当時の僕には、家では常に五、六人の空想の友達が存在してましたから、エア友達の彼らには、いつも見せていたのかも知れない。評価も貰っていたのかも知れないなあ。実際、独り言の一人芝居ですが。まあ、当時は僕の、決して裏切らない友達、だったのかな。でも、小学生時の僕は、学校や放課後には、現実の友達も多かったんですけどね。

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 「宇宙エース」の作者、吉田竜夫氏は1950年代から大活躍していた売れっ子漫画家で、62年に漫画製作のプロダクション、タツノコプロの原型を作りました。漫画「宇宙エース」は64年の吉田竜夫とタツノコプロの作品ですが、もともと、基本的なアイデアは当時の東映動画がアニメ企画として持ち込んで来たもので、企画自体はアニメ先行型だったんですね。実際のアニメ化は、漫画連載から一年遅れた66年(65年)からですけど。タツノコプロは「宇宙エース」を皮切りに、どちらかというと雑誌漫画よりもアニメ製作に力を入れて行きましたね。アニメ作品は「宇宙エース」の次が「マッハGoGoGo」、それから「おらぁグズラだど」「ドカチン」「紅三四郎」「ハクション大魔王」「いなかっぺ大将」から「科学忍者隊ガッチャマン」などへと続いて行きます。吉田竜夫先生は、僕が漫画を読み始めた幼少時、もう既に幾つもの雑誌の看板漫画を抱える、超売れっ子漫画作家でした。1932年生まれだから、昭和13年か。77年に惜しくも45歳という若さで急逝されてますが、吉田竜夫先生も、日本漫画史に足跡を残す偉大な漫画作家の一人ですね。

 (追記)。忘れてた。“コーラのお婆ちゃん”の話で、“コーラのお婆ちゃん”の死んだ後の逸話には、発見された橋のたもとから自宅まで大きな火の玉が飛んだ、って話の他にもう一つ、逸話があった。噂話。当時は昭和30年代半ばくらいの時代で、個人の家庭の火力はほとんどが、まだ、薪、石炭、炭、豆炭、練炭とかだった。だから家庭には一人、薪割りの係りが居た。特に風呂、竃、暖取り用ですね。コーラ(コウラ)の家では、薪割りの係りはお婆ちゃんだった。コーラのお婆ちゃんの死後、夜中になると、この家の裏で、生前、お婆ちゃんが薪割りしていた場所あたりから、薪を割る音が聞こえて来ていた‥、という噂話。この家はねえ、民家が集まった場所からちょっと離れた、山沿いの一軒屋だったんだよねえ。家の前面は広い田圃、裏はもう山々。怖かったろうなあ。ちなみに当時の僕ん家は電力会社の一応、社宅だったから、電気使い放題で、風呂も調理も暖取りも全部電力だった。親父は戦争から復員して良いところに就職してた。まあ、あの時代に、親父に電気技術があったからなんだろうが。途中からがなあ‥。

(2021-2)YouTube動画で中森明菜の♪I Missed The Shock を聴いてたら、僕は80年代アイドル歌手の代表的な一人、中森明菜の歌では「I missed the shock」がことの他好きだったんだが、昔、この歌を鼻歌で替え歌で歌ってたのを思い出した。その替え歌を歌ってた時分、缶チューハイでコーラショックというアルコール飲料が売り出されていて、要するに普通のチューハイがソーダ割りならコーラショックはコーラ割りの酒なんだけど、この商品のテレビCM 見てて“コーラのお婆ちゃんの話”を思い出して、替え歌を作って鼻歌で歌ってた。替え歌の内容は、お婆ちゃんを苛めてた鬼嫁の太ったオバサンが夜なんか一人で家に居ると、誰も居ない筈なのに、裏庭から斧で薪を割る音が聞こえて来る。コーラのオバチャンはショックを受ける。そういう内容の歌詞を勝手に作って、中森明菜の♪I Missed  The Shock のメロディーに乗せて鼻歌で歌ってた。サビの♪アイミスドザショック·ショック…、という部分を♪コーラショック、ショック、コーラのオバサン·ショック、ショック…、というふうに暇なとき独りで口ずさんでいた。という何でもない、ドーデモイイ話。しかしまぁ、あの当時のあそこの家は山沿いのぽつんと一軒家だったから、誰も居ない筈なのに斧で薪を割る音が聞こえて来たら、そりゃあ怖かったろうなぁ。アルコール飲料·コーラショックと中森明菜のヒット曲とコーラのお婆ちゃんの怪異譚とを掛けた僕の独り言みたいな替え歌の話でした。

 

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●じじごろう日記。・・ 「The レイプマン」

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ジャック: お、ハチ。読書中か。何、面白い本なのか?

ハチ: ああ、ジャック。ミステリーだよ。面白いんだ。ハードボイルドぽいのに、謎解きサスペンスなんだ。

ジャック: もうすぐ終わりそうだな。え?それは下巻か。上・下巻あるんだ。長い小説だな。

ハチ: ああ。謎解き、スリル、サスペンス。長いけど、ワクワクしながら、あれよあれよと読んじゃったよ。

ジャック: へえ~。ハチは読書家なんだな。俺はもっぱら、DVDで映画鑑賞だけど。何て小説なんだい?

ハチ: パンドラアイランド」って、ハードボイルドタッチで進むミステリ・サスペンスさ。

ジャック: え? パンツ穿いとらんど? 主人公がパンツを穿いてない物語か?

ハチ: 何だか、最近はジャックも、シモネタになって来てるな。じじごろうさんの悪い影響か‥。違うよ、パンツを穿いとらん、じゃなくて、「パンドラアイランド」。アイランドは島。舞台が絶海の孤島なんだ。

ジャック: そんなに面白いのか?

ハチ: 勿論。舞台は本土から遠い島で、時代は現代だけど、1970年代にアメリカから返還された孤島で、謎の死が次々と起こるんだ。それに、この島は人口千人にも満たない島で、漁業も普通だし、観光にも力を入れてないのに、不思議と島民というか、島そのものの財政が割りと裕福なんだ。そこも謎なんだけど‥。

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ジャック: へえ~、面白そうだな。主人公は何なんだい? お定まりの刑事かい? まさか漁師じゃないよな? 絶海の孤島に探偵、ってコトも無えか。でも、ハードボイルドタッチなんだろ。やっぱりタフガイな探偵かい?

ハチ: いや、「パンドラアイランド」の舞台は、小笠原島からも離れた孤島で、人口千人も居ない小さな島だし、長い間、大きな事件も起きていないんで警察官が常駐していないんだ。だから島の役所が置く保安官しか居ない。で、島設の保安官が病死して、替わりに臨時でやって来た新任保安官が、元捜査一課の刑事で警察を退職した過去を持つ、本編の主人公。キャラは、中年に近い年齢の、いかにもタフガイぽい、ハードボイルドタッチな主人公だな。

ジャック: ふう~ん。拳銃ドンパチやったり、派手な立ち回りのアクションシーンとか多いんだ? 島の中だから、カーチェイスはないのかな‥?

ハチ: いや、そういうのはないよ。別にヴァイオレンス活劇作品じゃないし。あくまでミステリーだよ。ゾクゾク謎解きのサスペンスだね。みんな何事かを隠しているような、怪しい登場人物がいっぱい出て来るし。重要な鍵となる娼婦、とかも出て来るし。

ジャック: 娼婦、なんてじじごろうが喜びそうだな。

ハチ: いや、娼婦って、別に少ない女性の登場人物の中でも、物語の重要な役割を担う女性が、たまたま娼婦、なんだよ。このお話の中には、はっきりしたヒロインは出て来ない。

ジャック: ふう~ん、そうか。何だか難しそうだな。

ハチ: 難しくなんてないさ。島の住民たちが共有する秘密や、主人公が訪れてから起こる様々な事件の謎なんかが、エトランゼの主人公が行動する度に、じょじょに、少しずつ解き明かされて来る。ここんとこがワクワク・ゾクゾク面白いんだよ。これがサスペンスの醍醐味。面白い小説だ。

ジャック: ハチは犬でも、そんじょそこらの犬とは大違いな、秀才犬で勉強家だから、趣味もミステリ小説の読書、と高尚で何だか気品溢れてるな。ところで、“エトランゼ”って何?

ハチ: “エトランゼ”は、「異邦人」とかいう意味。ここでは、“よそ者”ってコト。別に僕は、高尚でも気品がある訳でもないよ。タダの野良犬だ。趣味という点では、ジャックの、DVDでの映画鑑賞と変わりないよ。

ジャック: いやいや、謙遜するな、ハチ。たいしたもんだよ。野良犬の鏡だよ。家の座敷でドッグフード貰って満足してる、血統書付きとかいう、タダ可愛いだけのペット犬たちに、教えてやりたいよ、まったく。

ハチ: いや、本読んでるのは僕のタダの趣味だし、娯楽小説だから、単に余暇の楽しみさ。何でもないよ。この本、「パンドラアイランド」も、もうあと数ページで読み終える。

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ジャック: ハチは、たいした偉いものだ。じじごろうにハチの鼻毛でも煎じて飲ましてやりたいね。あのドスケベ爺さんに‥。

じじごろう: 誰が、野良犬の鼻毛を煎じて飲めば良い、じゃ。馬鹿者!

ジャック: あ、じじごろう! 生きてたのか‥。

じじごろう: おう、生きとるわいっ! 誰がドスケベ爺ィじゃ、馬鹿者!

ハチ: まあまあ‥。二人とも、顔を合わせて直ぐに喧嘩をしないで‥。

じじごろう: ハチ。何じゃと、パンツを穿いといらんど、じゃと?

ジャック: あ、じじごろうのヤツ、俺のギャグを盗みやがって。じじごろうもヒトのギャグを盗むようになっちゃあ、もうお終いだな。

じじごろう: 誰がお終いじゃ、馬鹿者。 

ハチ: まあまあ‥。じじごろうさんも、パンツを穿いてない話じゃなくて、「パンドラアイランド」ってミステリー小説だよ。

ジャック: すごく面白い小説らしい。

じじごろう: 何じゃ‥、つまらん。それよか、これじゃ。これ、「ザ・レイプマン」!

ジャック: 漫画本か?

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じじごろう: ああ、劇画じゃ。ヴァイオレンス劇画。みやわき心太郎先生の「The レイプマン」じゃよ。これは面白いし、興奮するぞお~。

ハチ: 「レイプマン」て成人漫画だよ。エロ劇画。ネット通販のamazonで買おうとすると「あなたは18歳以上ですか?」ってチェックが入る。

ジャック: 何だァ、エロ劇画ァ~? じじごろうはまたシモネタか。

じじごろう: 馬鹿者。「レイプマン」は確かに、エロシーン満載の興奮劇画じゃが、名作じゃい!

ハチ: まあ、「The レイプマン」作者の、みやわき心太郎さんは、1960年代から青春漫画の第一人者だった。昔は青春漫画の名作を量産している。

ジャック: 60年代から‥。随分昔だな。日本の漫画の初期の発展期だな。大御所か? まだ活躍してるのか?

ハチ: 残念ながら、みやわき心太郎先生は2010年に67歳のお歳で亡くなられている。60年代の貸本で活躍されてた人だけどね。青春もの劇画には「ハートコレクション」とか名作が多かった人だけど。「レイプマン」は異色作だね。どちらかというと晩年の作品になるな。まあ、貸本以後の作品は、青年誌発表作も多いので、エロシーンの入った漫画もあるけどね。

じじごろう: 馬鹿者。「The レイプマン」は傑作中の傑作じゃい。まあ、エロといえばエロじゃが、興奮させてくれるし、ある種、「必殺・仕事人」の世界じゃし、プロ中のプロじゃ。レイプのプロ。

ジャック: レイプのプロ? そんなこと言ってると、女性の人権団体から訴えられるんじゃねえか。全国の、いや、全世界の女性を敵に回すような話だぞ。レイプのプロなんて話を肯定された日にゃあ、女性側が黙っちゃいないだろ、絶対。世の中の女が全部、激怒する話だぞ。

ハチ: 確かに、実際に90年代に、劇画の内容がレイプを肯定、美化するものだというコトで、女性団体や人権団体に糾弾されて、「The レイプマン」は雑誌連載を休載にまで追い込まれている。漫画作品自体は、青年漫画誌「リイドコミック」にて、80年代半ばから連載され始めた人気コミックで、90年代まで連載が続いて、コミックの総巻数は全13巻まで発行されたんだけど‥、ね。まあ、内容が内容だしね‥。

じじごろう: 名作だったんじゃけどな‥。面白い娯楽漫画じゃった。レイプのプロ、レイプの必殺仕事人、レイプマンは金銭を貰ってレイプを商売として、レイプにより、ある意味、人助けをしておったのじゃ。レイプのプロ、レイプマンの凄腕テクニックに寄って、レイプされたご婦人方は、男のセックスの素晴らしさに目覚め、どの話もある意味、みんなハッピーエンドじゃ。レズビアン女に男とのノーマルセックスの素晴らしさを教えたり、自己中で高慢で短気な、性格の悪い女が、レイプされた後に改心して、素直な良い女になるとか‥。結果、家族間の関係が修復される‥、とかイロイロな。お金を貰って仕事をし、ターゲットになりレイプされた女がみんな、結局、揉め事がうまく納まり、コトの解決に繋がる‥。まあ、レイプは犯罪じゃが、お話はみんな問題解決して、ハッピーエンドじゃ。

ハチ: そこが駄目だったんだよ。そういう内容が、レイプの肯定とか美化になっちゃうんだよ。そういう内容に女性サイドが怒ったんだよ。あまりにもふざけてる、って。社会的にも悪影響を及ぼす、って。

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じじごろう: そうか‥。娯楽漫画、なんじゃけどのう。

ハチ: レイプは女性側に取って見れば、卑劣この上ない重大な犯罪行為なんだよ。女性側の気持ちも考えないと。特に、世の中にはレイプ被害にあって、トラウマを植え付けられて苦しんでる被害女性も、いっぱい居るんだから。そこを考慮しないとね。でも、「The レイプマン」は映画にもなってるし、男性にはけっこうファンは多かった。。映画って、別に劇場公開された訳じゃなくて、OVAだけど。

ジャック: 成る程な。しかし、じじごろうはいやに「レイプマン」を擁護するなあ。ひょっとして、ドスケベ変態・爺さんのじじごろうは、夜な夜な、レイプなんて、重大な犯罪をやってるんじゃないのか!?

じじごろう: 馬鹿者! 誰がレイプ事件など起こすか! あくまで娯楽コミックじゃわい。

ハチ: そうだな。いくら変態・じじごろうさんでも、レイプなんて卑劣な犯罪は犯さないよ。せいぜい痴漢くらいだな。あ、あれだよ。じじごろうさんの専売特許、デロリンマン。

じじごろう: 誰がデロリンマンじゃ、馬鹿者。痴漢もやらんわい。「レイプマン」のテクニックは、匠のワザ、みたいなもんじゃ。日本人だけが古来より持ち得る、天分の器用さ。宮大工の技術とかあるじゃろ。技術大国日本を作り上げた、日本人の持つ、伝統的な器用さ、技術力じゃ。「レイプマン」の持つカミワザ・テクニックも、同じ技術力じゃ。

ハチ: ええ~っ!? じじごろうさん、そんなコト言ってると、このサイトのこの記事も危なくなるよ。ココ読んだ女性は全員、激怒モノになるよ。

ジャック: そうだよ、だいたい、レイプ犯罪の腕前と、日本の伝統的匠のワザを、一緒にして、同列で論じるのがおかしいだろう。

ハチ: それと、「パンドラアイランド」の作者の大沢在昌って、直木賞とかいろんな文学賞取ってる作家だし、「パンドラアイランド」は柴田錬三郎賞受賞の作品だ。「レイプマン」と同列で扱ったら、大沢在昌さんが怒るよ。

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じじごろう: まあ、しかし、「ザ・レイプマン」の作者は作画の名義はみやわき心太郎先生じゃが、原作者の方の名義は“愛崎けい子”さんと、女性作家の名前じゃ。ストーリーは女性が書いとるんじゃよ。

ハチ: いや、それは仕組みがあって、“愛崎けい子”なる人物は居ないらしい。というか、愛崎けい子イコールみやわき心太郎さん、らしいね。噂だけど‥。

ジャック: え? どういうコトなんだ?

ハチ: うん。何でも、漫画作品の内容から、見掛けのイメージをソフトにしようと、ストーリーを考える名義を女性名にしたものらしい。そういう話だけど‥。ああ、こんなひどい話だけど、ストーリーを考えてるのは女性作家なんだ、ってふうに思われるように仕組んだものらしい‥、ってあくまで噂だけどね。

ジャック: ああ、そうか。イメージ操作だな。

じじごろう: ふんっ。ハチはイロイロと、細かいコトをよう知っておるのう。小賢しい野良犬じゃ。まあ、男性興奮必至のアダルトコミック。問題作ですが、興味のある男性読者は是非。

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