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「キャプテン8 -ハチ-」「火星犬サンダー」まんが王連載 関谷ひさし作品

 僕が漫画を読み始めたのが1962年の年末頃か63年初頭頃で、当時の月刊少年漫画雑誌が愛読書になった。本屋さんに行って毎月買って読むのが当時の月刊誌「少年」「ぼくら」「まんが王」のどれか一冊、もしくは二冊だった。後の少年月刊誌は当時の貸本屋さんに行って借りて読んでた。最初に馴染んだのは「鉄人28号」と「鉄腕アトム」の載ってる光文社の「少年」で、次が秋田書店の「まんが王」だった。

 僕が「まんが王」を読み始めたとき、62年の年末か63年の初め、もう「キャプテン8-ハチ-」は連載されてた。しかも当時の「まんが王」の巻頭カラーで別冊付録に続く連載の看板漫画だった。「キャプテン8」は時代劇で、あれは何と言うのかサブタイトルと言って良いのか一行内容紹介の惹起文句、キャッチフレーズだね、それが「海洋冒険漫画」だった(ジャンル表示かな)。「キャプテン8」は時代劇だが、主人公の少年が海賊で船に乗って島々や浜辺に着いて、そこの悪者たちや他の悪人海賊たちと騒動を巻き起こす、ユーモアを交えたチャンバラ・アクション漫画だった。物語の中でときには、無人島で犬歯虎(剣歯虎)やでっかいゴリラのような、ちょっとした怪獣みたいな怪物が登場することもあった。これら怪物との対決シーンもコメディ仕立てで描いていた。

 関谷ひさし先生の作風は大まかに分けると二つあって、一つはシリアスなストーリー運びの漫画、もう一つはストーリー漫画なんだけどユーモアを交えたギャグ漫画調も入った作風。シリアスストーリーの方はほとんどギャグ風味がないか、かなり抑えてあるリアル表現な漫画の作風で、もう一方の作風はコメディー調でストーリー漫画だけどギャグ要素も多く、読んでると何度も笑ってしまうストーリー漫画。「キャプテン8」はコメディー調の漫画でしたね。チャンバラ冒険アクション漫画なんだけど、ギャグ要素たっぷりのストーリー漫画だった。後続連載の「火星犬サンダー」はSF漫画なんだけど漫画表現はシリアス調なストーリー漫画でしたね。

 「キャプテン8-ハチ-」の連載が終わったのが多分「まんが王」1964年12月号で、同じ関谷ひさし先生のSFアクション漫画「火星犬サンダー」が始まったのが65年新年号からです。子供の頃の僕はSF漫画や超人ヒーロー漫画が大好きで、「キャプテン8」などの時代劇はあんまり関心がなかった。時代劇でもサンデーの「伊賀の影丸」のような忍者漫画は好きだったんだけど、忍者が主人公ではない時代劇漫画は興味がなかった。だから1963年・64年頃の「まんが王」はよく購読してるんですが、海洋冒険時代劇漫画「キャプテン8」はあんまり熱心に読んでないです。当時はパラパラ絵を眺める程度だったんじゃないだろうか。「キャプテン8」終了後に始まった「火星犬サンダー」は、同じ作者でもSF漫画なので熱心に読んだと思います。

 「火星犬サンダー」はギャグ味を廃した作風で、タイトルに“火星”と着いてるけど舞台はほとんど日本で、火星から送られてきた犬がスパイ犬というか工作犬というか、そういう役目の、人間に取っては敵方の悪い犬なんだけど、地上の日本で知り合った子供に助けて貰い、優しくして貰って、まぁ情が移ったというか少年を助けるようになる。敵方は地球侵略を狙う火星人だったのかな?済みません、「火星犬サンダー」の内容をほとんど記憶してません。僕の8歳9歳当時雑誌連載リアルタイムで読んだきりなのでストーリーは忘れきってます。多分、裏切った火星犬のサンダーが子供を助けて宇宙人たちと戦う、というお話なんじゃないかな?いい加減で済みません。火星犬サンダーの風体は、関谷ひさし先生の代表作の一つ、光文社の当時の月刊誌「少年」に大人気連載されてた「ストップ兄ちゃん」に出て来る、主人公の家に飼われてる大型の日本犬“ボス”にそっくりでしたね。

 僕が近所の貸本屋に通い始めたのは六歳のときで、そうですね小学一年生の秋頃なんだろうか。晩夏か秋頃だと思う。幼稚園とか保育園とかに通っていなくて家庭で親兄弟などに字の読み方・書き方を習わなかった僕は、貸本屋に行ったり市販の本屋で雑誌を買っても、本の中に書いてある字が読めなかった。僕がひらがなが読めるようになるのは小一・二学期の終わり頃か三学期の初め頃なんだろうか。小学二年生に上がった頃はひらがなは読めるようになってたと思います。

 貸本屋に毎日通い始めたのは七、八歳年上の僕の兄貴の命令で、僕自身、幼児の頃から絵本が好きだったから、貸本屋に毎日通って、字が読めなくても貸本漫画の絵を眺めてるだけでも楽しかったから、兄貴の命令に逆らえなかったというより、僕自身が本屋に行って本の絵を見るのが好きだったからだと思います。

 当時の貸本屋のメインの商品はA5判の貸本漫画で、貸本専用に出版された良質紙で巻頭8Pから16Pが四色か二色のカラーで総ページ数130Pくらいの、ソフトカバーの、まぁ単行本ですね。当時は貸本はこのタイプの本の借り賃が一泊二日で一冊10円。後に一冊15円に上がる。僕が毎日通ってた貸本屋が店じまいする頃には一冊20円になってたのかな。僕はこの貸本漫画の単行本を毎日二冊借りていた。ほとんど毎日通ったから単純計算でも月に60冊の漫画を読んでた。

 ある日、年の離れた兄貴が、貸本の単行本ばかりでなく月刊の漫画雑誌を借りて来いと言った。僕の小学生時代、児童漫画主体の月刊誌は6冊発行されてて、貸本屋でも6冊の内、4冊か5冊取り扱っていたと思う。僕は兄の言うことがよく解らず、付録だけ借りて帰って来た。

 貸本屋では、わら半紙の厚紙みたいな資質の良くない厚紙で月刊誌にカバーを掛けて閉じ、当時の月刊雑誌は別冊付録というB6判で32Pから64Pの小冊子がだいたい3冊から5冊付いていた。この何冊かの別冊付録も厚紙で閉じて見た目一冊本にして貸し出していた。

 兄貴は、月刊誌の付録だけ借りて来た僕に文句を言わず、次の日兄貴自身がB5本誌とB6付録を同時に借りて来て手本を見せた。このときまだ僕はひらがなが読めず、まだ漫画本は絵を眺めるだけの状態だったと思う。僕は次の日から、貸本屋にあれば、月刊誌と別冊付録の閉じたのを借りて来た。まぁ、とにかく春夏秋冬ほとんど毎日貸本屋に通って必ず二冊の漫画本を借りて帰っていた。6歳から11歳までの当時の日課ですね。

 小学校低学年時の昔々の話でよく覚えてないのだが、一方で貸本屋さんに「まんが王」があった気もするし、「まんが王」は取り扱っていなかった気もする。どっちだったんだろう?僕が貸本屋に通い始めて兄貴に月刊誌を借りて来いと言われて、貸本屋の下段の棚の端に厚紙カバーで綴じた別冊付録に「まんが王」付録の「キャプテン8」があったようにも思うし、あの貸本屋では「ぼくら」と「まんが王」は扱っていなかったようにも思う。「ぼくら」と「まんが王」は市販の本屋さんでよく購入して読んでたから、もし貸本屋に「まんが王」が置いてたとしても滅多に借りて読むことはないんだよね。だから「まんが王」と「ぼくら」は他の四誌のように貸本屋から借りて来て読んでいた記憶がほとんどない。

 僕の小学生時代、児童漫画主体の雑誌で、ペーパークラフトみたいな紙製組み立て付録等と何冊かの別冊付録が着いた、子供向け月刊誌は六誌出ていて、その内四誌は毎月5日か6日発売で、秋田書店発行の児童漫画月刊誌「まんが王」はだいたいいつも毎月1日発売だった。講談社の「ぼくら」も毎月1日発売。

 子供時代の僕は「鉄人28号」と「鉄腕アトム」が掲載されてる「少年」が一番欲しかったんだけど、毎月6日発売の「少年」が待ちきれず、子供の小遣いで1日発売の「まんが王」か「ぼくら」を買っていた。余裕があれば後で「少年」も買っていたが、「少年」は貸本屋で借りて読むことも多かった。

 「ぼくら」を初めて買ったのはよく憶えている。「ぼくら」の1963年3月号で、TVの再放送の「七色仮面」を見て、「七色仮面」オープニングのタイトルバックに「講談社『ぼくら』連載」とあったので、直ぐさま近所のアーケード商店街の本屋さんに走って買いに行ったら、「七色仮面」の初出放送は59年のことで、63年の「ぼくら」に載っている筈もなかった。

 この63年3月号の「ぼくら」には当時の小一の僕が面白いと思う漫画が「よたろうくん」以外載ってなくて、それ以降は多分「ぼくら」を買わずに「まんが王」を購読して行ったんだと思う。でも「ぼくら」63年11月号から始まった「アトミックゴロー」もよく憶えてるから、「ぼくら」も64年頃から65年当時はよく買ってたのかな。子供時代の僕は小遣いが入れば先ず、本屋行って漫画本買ってたしな。

 光文社の「少年」も購読してたんだよね。「少年」は「鉄人28号」「鉄腕アトム」目当てで買っていた。だから「少年」を買っていたのは「鉄人28号」の連載が終了する66年5月号まで。「少年」は貸本屋さんでも借りて読めたから買わない月もあった。だいたい子供時分の僕は漫画本超大好きだったから、貸本屋で借りて読めてもできれば市販の本屋さんで買って来て手元に持っていたかった。貸本屋だと一泊二日しか読めないけど、購読する分は何度でも読めるし手元にある“自分のもの感”が嬉しい。「少年」を買っていたのはだいたい1963年から66年で、66年以降は月刊誌はだいたい「ぼくら」を購読していた。

 あれは「少年」の65年の新年特大号だったろうか、66年の新年特大号だったろうか。調度あの当時クラスで誕生日会を家庭でやって友達を呼ぶ、というのが流行って、僕は多分、僕ん家でクリスマス会をやって、同じクラスで隣町のHM君とMM君を家に呼んで、クリスマスケーキや母親の手料理を食べて、その夜を三人で遊んで過ごした。その後、MM君家でMM君の誕生日会やって、HM君の家でHM君の誕生日会やって、僕ん家のクリスマス会には呼んでないんだけど、同じクラスのIM君の家で、あれはクリスマス会だったのかな、みんなで集まってお楽しみ会やって、何か流行みたいになってて、他のクラスの友達の家でもやってて、その内学校に知れ渡って、学校から誕生日会とかクリスマス会とかで友達数名読んで、何かお楽しみ会みたいな集会をやることの禁止令が出た。

 太平洋戦争の敗戦から20年くらい経った頃で、世は高度経済成長期のど真ん中で、復興勤労日本は勢いはあったけど、まだまだ総体的には貧しい時代で格差もあり、本当に貧乏な家も多かった。誕生日会やってる子供の家は比較的豊かな家庭の子供の家だったんですね。だからその内、僕のクラスも他のクラスもどの友達も誕生日会とかクリスマス会やらなくなった。

 小一から小六までほとんど同じクラスだったHM君は、同じ小学校に通う隣町在住の、馬鹿ガキの僕に対して優等生の子供で、性格もとても良い子供だった。毎学年一学期のクラス委員を勤めて、先生たちの評価も良く、何か申し分ない子供だったように思う。HM君に比べると僕は劣等生で、天然的に馬鹿な部分と何か意地の悪いような、意地が悪いというのとまた違うかも知れない、何か根性のひん曲がった部分も持ち合わせた、頭も性格もデキの悪い駄目ガキだったように思う。優等生のHM君はそんな出来損ないガキの僕とも、明るく優しくよく一緒に遊んでくれた。

 僕ん家でクリスマス会をやった翌年、HM君の家で誕生日会をやった。その前にHM君の向かいの家のMM君の家でも誕生日会をやった。MM君の誕生日会には僕がクリスマス会に呼んだHM君とMM君しか行かなかったように思うけど、HM君の誕生日会には僕とMM君の他にも何人もの子供が呼ばれていたように思う。確か他のクラスの子供も居たんじゃないかな。

 話は雑誌「少年」1965年新年特大号だった。66年新年特大号だったかも知れない。表紙が、この時代の「少年」の表紙写真に毎号載っていたモデルの少年が、この新年特大号の表紙では宇宙服を着ていた。宇宙服のフルフェイスヘルメットも被っていたと思う。隣にNASAのロケット打ち上げ時の写真。多分66年の新年特大号だろうな。65年12月6日発売の月刊誌。

 素直で性格が良い優等生のHM君が、馬鹿で根性のネジくれたどうしようもない劣等生の子供の僕と、どういう訳かけっこうよく遊んでくれた。まぁ、HM君もその向かいに住んでたMM君も、小一から小六までほとんど同じクラスだった訳だけど。僕ん家の斜め前の同級で幼馴染のMM君は小学校六年間クラスは違ってた。

 ある日、僕ん家にHM君が遊びに来てくれた。65年の12月5日以降のある日。12月中だな。家の中で一緒に遊んでるとき、HM君が僕の勉強机の横の「少年」を見つけた。HM君は「少年」を見せてと言って来た。子供時代の僕に取って一番の宝物は漫画本で、僕は大切な漫画雑誌を他人に触らせたくなかった。HM君はちょっとで良いから見せてくれと頼むのに、僕は拒否して触らせなかった。

 後にHM君の家に誕生日会でお呼ばれしたとき、リビングに行く廊下に無造作にくだんの「少年」新年特大号が置いてあった。僕がHM君に見せなかったから彼は自分で買ったのだ。HM君の誕生日を憶えてないが多分、年が明けてからじゃないかな。はっきりしないけど。彼はやぎ座だったんじゃないかなぁ。

 ちなみに僕の誕生日はみずがめ座なんだけど、僕が誕生日会を思い付いたとき12月で、僕は自分の誕生会をやるのが待ちきれずにクリスマス会をやったんじゃないかなぁ?昔々の記憶なんではっきりしないけど。もし僕の誕生会の記憶が大勘違いでちゃんとみずがめ座の月日でやったんなら、HM君はうお座かおひつじ座だな。当時は知ってたんだろうけど、今や数十年前のことでMM君やHM君の誕生日まで覚えてないしな。

 僕はそれからずっと、このHM 君に僕の持ってた雑誌「少年」の66年新年特大号を見せなかった行為が心残りで、HM 君に対しては気になり続けた。どうしてあのとき本を見せてあげなかったんだろうっていう後悔の念が心に残って、それは何と数十年経った未だにある。あのとき「少年」を見せてあげるべきだったと。

 HM 君は僕が最初に出会った小学一年生のとき名前はKM 君だった。その後名前がSM 君に変わった。その後また名前が変わり、HM 君になった。HM 君ちの前の家のMM 君ちもお母さんが変わった。僕が小学五·六年生時よく一緒に居た当時の親友のME 君ちは母子家庭だったし、僕自身も家は中学三年終了時に家庭崩壊したし、思えばあの時代でもけっこう周囲には複雑な家庭環境の子供も居たんだな。HM 君はその後、僕が最後に見た中学卒業時までHM 君だった。見たというか話したというか、中学三年時は同じクラスだったし。

 HM 君や僕んちの斜め前のお屋敷に住んでたMM 君や僕んちの並びの四·五軒先の三階建てビルに住んでたFT 君は、みんな学業成績優秀で地域で一番の進学校に進学し、僕は同じ公立の普通科でも二番手三番手の偏差値の高校に進学したから、その後会うことはなかったのだが、一度だけMM 君とHM 君に顔を合わすことがあった。高校の下校時に商店街で偶然会ったのだが僕はその時落ちぶれ感満載な気持ちで居たので、彼らが一言声を掛けてくれたが笑顔を返しただけでそそくさと立ち去った。僕の当時の落ちぶれ感が強過ぎて恥ずかしくて昔の友達から逃げ去ったのだ。

 小学生当時の僕んちは、親父が電力会社の社員で電業所という、街中の、小さいけど電力会社事務所の所長身分で、あの時代に電気を扱うという割と花形の職種で、親父の社交的でヒトノイイおおらかな人柄で、町の名士と言うとオオゲサだけど、まぁ人望があったんだと思う。当時の僕んちは、会社の社宅ではあるけど、商店街の真ん中に構えた電力会社事務所の後ろに住まいがあったし、当時は終戦後二十年前後という高度経済成長期の前半期の終わりくらいで、まだまだ総体的には人々の生活は貧しくもあった。僕んちはサラリーマン家庭ではあるものの、あの時代の中では割と坊ちゃん坊ちゃんとして育ってたんだよね。

 それが中三の終わりに家庭崩壊、盛大に雨漏りする、板を打ち合わせて作ったような透き間風ヒュウヒュウなあばら家に引っ越した。本当に台風が来れば倒壊するような平屋の一軒家だった。小学生の頃に比べると超貧乏な生活に転落したし、高校生時の僕は何か恥ずかしくてしょうがなかったんだよね。高校も経済的に公立高校にやっと通ってるような状態で小遣いなんてまるで持ってなかったし。

 何か落ちぶれ感が強くて、高校生以降の僕は小学校・中学校当時の友達や知り合いに顔を合わせるのが嫌だったんだよね。だから、まぁ当時は、小・中学校の同級生や先輩と街で顔を合わせても知らん振りして急いで立ち去った。まぁ僕の思春期~青春期の寂しい思い出ですな。

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 僕が月刊誌「まんが王」を購読して愛読していた、僕の6歳~10歳当時、だいたい1963年~65年の時代、「まんが王」に好評連載されていた漫画のラインナップは、関谷ひさし氏の「キャプテン8」「火星犬サンダー」の他に、「まんが王」に長期連載された板井れんたろう氏のギャグ漫画=生活ゆかい漫画「スリルくん」、子供の頃の僕が大好きで熱中して読んでたジャンル、SF漫画では望月三起也氏の「雷神サブー」、石川球太氏の「巨人ロロ」、実写活劇でTV放映してた「宇宙Gメン」、藤子不二雄A氏の「スリーZメン」、50年代末に「冒険王」で連載されてたものの再録だが手塚治虫氏の「魔神ガロン」、森田拳次氏の陸軍兵隊さんものギャグ漫画「新兵分隊」、小沢さとる氏の傑作忍者漫画「二つ伊賀」、伊東章夫氏の痛快探偵漫画「ピンチくん・リリーフくん」、一峰大二氏の忍者出身の柔道家がアメリカを舞台にギャング相手に活躍するアクション漫画「忍三四郎」、わちさんぺい氏のギャグ漫画「モーちゃん・ター坊」などなどいっぱいです。

 50年代中期に秋田書店の「冒険王」に連載されて爆発的人気を博した、福井英一氏の熱血柔道漫画「イガグリくん」も、「まんが王」のこの時期に再録されました。伊東章夫氏の「ピンチくん・リリーフくん」は確か中学生の双子の少年が主人公で、事件に巻き込まれて双子であることを武器にして少年探偵よろしく事件を解決して行く探偵漫画。伊東章夫さんもこの時代は超売れっ子の部類に入る人気漫画家でしたね。

 「まんが王」は同じく秋田書店発行の先行の月刊児童誌「冒険王」の増刊号として誕生し、「漫画王」のタイトルで刊行が続き、1959年頃だろうか「漫画王」から「まんが王」に雑誌名がひらがな表記に改題された。これは僕は全然知らなかったんだけど、ネット回ってて知ったことなんだけど、「まんが王」はこの後さらに雑誌名を変えて、一時期「小学生画報」という誌名だったんですね。しかもごく短期間。1961年頃のことらしいですけど、わずか数ヶ月間「小学生画報」の誌名を名告っていた。でも直ぐにまた「まんが王」に戻っている。僕が実際に「まんが王」を知ったのが早くても62年の終わり頃だけど、本のタイトルは「まんが王」でした。他社の児童月刊誌に「少年画報」の誌名があったし、「小学生画報」の名前は紛らわしくて評判が良くなかったのかな。

 少年画報社の月刊誌「少年画報」が紙製組み立て付録などや何冊かの別冊付録を全部廃して、本誌だけのスマートな一冊本の雑誌になるのが1965年の3月号から。このスタイルは「少年画報」65年9月号まで続く。10月号からまたもとのスタイルに戻って紙製組み立て付録などや何冊かの別冊付録が着いて発行となる。秋田書店の「まんが王」も「少年画報」に倣ってこのスタイルになるんですよね。「まんが王」が付録を全部廃して一冊本の雑誌になったのがいつ頃か、済みません、実ははっきりと解りません。多分、同じ頃だと思うんですけど。「まんが王」もまた元に戻って付録が着いての発行になるんですが、済みません、この時期はもっとはっきりしません。「少年画報」は半年間だけで元の形に戻ったけど、「まんが王」は付録全くなし一冊本スタイルがもっと先まで続いたと思う。この一冊本の間は付録が着いてた頃よりもぐんと値段が下がってだいたい一冊130円から150円だった。他の付録着き雑誌は一冊180円から200円の時代ですね。

 調べなおしたんですがね。正確には、65年の「少年画報」は3月号から8月号まで本誌一冊本で130円。9月号には組み立て付録が一つ着いて150円。10月号は「怪物くん」の別冊付録が一冊着いて150円。11月号からいっぱい付録が着いて180円ですね。「まんが王」がいつ頃から本誌一冊本だけで130円になったのかよく解らないんだけど、多分65年中なんでしょう。66年いっぱいずっと本誌一冊本のみ付録なしで刊行ですね。付録なし本誌のみスタイルで66年中は140円。66年の9月号は特大号で150円になってますね。67年はどうだか解らない。まぁ先では元に戻って付録がいっぱい着くんですけどね。68年頃は組み立て付録と別冊付録がいっぱい着いてますね。

 僕が「まんが王」を初めて読み始めた頃、看板漫画の一つに一峰大二先生のプロレス漫画で「鉄腕マキ」という作品が掲載されてたんですが、直ぐに連載終了になって、それからしばらくして一峰先生の「忍三四郎」が連載になりました。多分、「鉄腕マキ」は63年3月号頃には連載が終わったんじゃないかな。日本プロレスの英雄、力道山を師と仰ぐ少年プロレスラーのアメリカマット界武者修行の物語。この当時、僕はまだ六歳ですがもうプロレスに興味津々でこの漫画を楽しみにしたんですが、直ぐに終わってガッカリでした。

 「鉄腕マキ」の漫画の中で何故か印象深く覚えているワンシーンがあって、これが背景がメキシコかアメリカ南部の戸外で、主人公マキ少年が高い崖の上に立って、そこから飛行するように飛ぶ。観衆が「飛んだ!」と驚くんだが、崖下の大きな高いサボテン、電信柱みたいな太いサボテンにしがみ着く。マキが「いててて‥」と降りる。飛んだというか飛び降りただけなんですね。どういう訳かここの場面だけを切り取ったように記憶している。多分「まんが王」で一回読んだきりだろうに。

 当時の月刊誌連載の人気漫画って後にまとめられてB6ハードカバーの貸本になることも多かったから、例えば東京きんらん社とか貸本出版社から出た貸本で読んだことがあったのかも知れない。ほとんど記憶してないけどそういうこともありうる。

 この時代はジャイアント馬場はアメリカ武者修行時代で、アントニオ猪木は力道山の付き人でタマに前座試合に出てるような時代ですね。漫画のマキ少年のアメリカでの世話焼きはグレート東郷がやってあげてる。マガジンの「チャンピオン太」もそうだけど、この時代のプロレス漫画はたいてい、少年プロレスラーが力道山を師と仰いで、アメリカの卑怯な怪物レスラーたちと戦って修行して行く話ですね。

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