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「科学冒険まんがJQ -ジェイキュー-」-月刊·ぼくら 連載-

 僕はこの、アメリカ輸入アニメで、昭和の少年月刊誌-ぼくら 掲載の漫画作品のタイトルを長らく「冒険少年JQ-ジェイキュー-」で覚えてて、つい最近、この洋アニメ-漫画作品の本当のタイトルが「科学冒険まんがJQ-ジェイキュー-」だと知った。勿論、この作品をリアルタイムでテレビで見て漫画雑誌で読んでた頃は、ちゃんとしたタイトルは解ってたろうけど。

 何しろ僕が「科学冒険まんがJQ」をテレビで見て雑誌で読んでたのは、9歳のときで今から60年近くも前のときだ。

  

 当時のアメリカ輸入アニメ「科学冒険まんがJQ」の日本国内初放送は1965年1月末から同年9月下旬までの7ヶ月間ですね。当時9歳の僕はこの輸入SFアニメは多分、毎週見ていたと思います。

 主題歌がカッコ良くて好きでしたね。後々知るんですが、あの時代の大物タレントの前田武彦さんの作詞なんですね。で、この主題歌の歌唱が坂本九さんで驚きました。坂本九さんはあの時代の大人気有名歌手です。まさかアニメの主題歌歌ってたなんて。

 前田武彦さんの大ブレイクは60年代後半も末期よりの時代だな。テレビ-バラエティー番組の自由なMCの草分け。前田武彦さんってずーっと高卒のテレビの人と思い込んでたけど、立教中退なんだな。けっこうインテリだったんだ。

 何よりも僕がこの「科学冒険まんがJQ」を好きだった訳は、テレビアニメの日本版コミカライズ、漫画版が当時僕が愛読して毎月購読していた講談社の月刊誌「ぼくら」に連載されていたからです。

 ちなみにどーもテレビアニメ版の方の番組タイトルは「科学少年JQ-ジェイキュー-」だったようですね。

 月刊·ぼくら 連載の漫画は「科学冒険まんがJQ」でテレビ放送の番組タイトルは「科学少年JQ」のようです。

 講談社の「ぼくら」連載の「科学冒険まんがJQ」は好きでしたねぇ。作画は堀江卓先生でした。漫画人気も高かったようで当時の「ぼくら」毎号の別冊ふろくで掲載されてました。B5本誌から続くB6別冊ふろく。本誌掲載分はカラーページや表紙絵カラーが多い。

 僕がずーっと「冒険少年JQ」のタイトルだと思い込んでた「科学冒険まんがJQ」は、昭和の少年月刊誌「ぼくら」に連載されてた人気漫画だった訳ですが、月刊誌「ぼくら」のはっきりした連載期間が解りません。まぁ、初出テレビ放映されていた1965年の1月あたりから9月10月あたりまでだと思いますが。

 

 この時期10歳頃の僕はSFアニメドラマ「科学冒険まんがJQ」に興味津々で、もとより僕は幼少時からSF漫画、SFドラマが大好きでしたから、このアニメ~漫画にもけっこう熱中してたんですね。

 僕は幼少時から家の中で落書きばっかりして遊んでましたが、7歳頃から、漫画本のプロの描いた漫画作品の真似をして、鉛筆書きで毎日漫画を描いて遊んでました。

 落書きの気の利いたよーな鉛筆殴り書き漫画です。漫画本の真似だから絵だけ真似て描くのではなく、ごくごく単純なストーリーで子供の描くヘタクソな“漫画”を描いてました。

 僕の漫画描きの独り遊びは7歳頃から15歳まで続きます。

 少年雑誌漫画や貸本漫画の真似で鉛筆殴り書き漫画を描いて独り遊びに勤しんでいた子供時代の僕ですが、当時流行っていたテレビアニメの主題歌·挿入歌と声と音だけのドラマを録音したペラペラビニール製のソノシート、けっこう高かったんですが、子供時代の僕も何枚か買って持ってました。

 ソノシートはビニール製のレコード盤ですね。16ページ綴りくらいの総カラー美麗ブックレットに挟み込んである、簡易レコード盤。表面が歌2曲で裏面が音と声だけのドラマ。ラジオドラマみたいなもんかな。

 僕は「宇宙エース」と「宇宙少年ソラン」のソノシートを持っていて、ブックレットの漫画絵があまりにも綺麗なので、真似て自分で描いて、子供なので凄い単純なストーリーの物語で漫画描いて、16~20ページくらいの漫画本作ってた。

 漫画本といっても西洋紙をホチキスで綴じて普通の鉛筆と色鉛筆で描いた、粗末な自作漫画本。

 子供ながらけっこう似てたと思う。小学生の落書きみたいな漫画にしては割りとうまかったんじゃないかな。我ながら。大昔のことだけど。

 当時、僕は「科学冒険まんがJQ」のソノシートは買ってはいないけど、テレビアニメに熱狂的になってたので、月刊「ぼくら」掲載の堀江卓先生の漫画絵を真似て描いて、「宇宙エース」や「宇宙少年ソラン」の真似漫画みたいに、僕自作のお粗末な「科学冒険まんがJQ」の漫画を描いてた。やっぱり頭の悪い小学生が考え付く非常にシンプルなストーリーの真似漫画だったと思う。

 でも、堀江卓先生描くJQ=ジョニー·クエストの模写絵はけっこう上手く描けてたと思う。「宇宙エース」も「宇宙少年ソラン」も主人公の模写絵は割りと上手く描けてたと思う。

 僕の小学生時代、他に鉛筆描き漫画だけど、16~20ページくらいの西洋紙綴じで、「ウルトラマン」とか「ナショナルキッド」も描いた覚えがある。

 まぁ、子供の自己満足の独り遊びなんだけどね。

 

 「科学冒険まんがJQ」は、主人公がジョニー·クエストという少年で、お父さんが天才科学者のクエスト博士。クエスト博士は自分のジェット機などで研究のため世界中を飛び回っている。同行するのは息子の他、優秀な助手の屈強な若者、レース。元軍人みたいで、さまざまな乗用機器の操縦ができて武器を操り、格闘の達人みたい。それと、ジョニー·クエストの親友のインド人少年、ハジ。ジョニー·クエストの飼い犬のバンディ。

 

 科学冒険まんがのストーリーなので、クエスト博士一行が世界のさまざまな地域でSF的な怪事件に遭遇し、危機に曝されながらも戦い、難事件を解決して行く冒険ドラマ。科学兵器やロボットや怪物どもと戦い、犯罪組織を壊滅させるストーリーが多いですね。

  

 2015年と2018年に、1964年に制作されたテレビアニメ「科学少年JQ」の実写化が企画されてたという情報をネットで見つけたんだけど、結局、その後、実現はされてないようですね。50年越しの企画だったようですがポシャったのかな。テレビドラマではなくて劇場版映画のようですが。2018年からだともう6年経ってるけど実現の目処は立ってない訳かな…。

 子供時代の僕は当時、テレビアニメ放送の「科学冒険まんがJQ」の主題歌が好きでよく1人で口ずさんでいたものです。では最後にテレビアニメの主題歌の1番の歌詞です。放送では冒頭、タイトルバックに1番歌詞部分だけ流れてました(冒険タイトルバックには2番まで流れてたのかな?)。

  ♪太陽は燃える ジャングルは叫ぶ
   謎に輝く 宇宙の星へ
   冒険を求めて 地の果てへ
   神秘の世界 宇宙の果てへ
   勇気を出して進め
   JQ JQ JQ JQ ジョニー・クエスト

■「スパイキャッチャーJ3」2006-12/19

 

■「赤い風車」..(1)2010-9/30

 

■「赤い風車」..(2)2010-10/18

 

■「隠密剣士」2021-1/31

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「高校生無頼控」 原作·小池一雄-作画·芳谷圭児

 

 僕が、芳谷圭児氏作画-小池一夫氏原作の傑作青春熱血恋愛劇画「高校生無頼控」をB6判アクションコミックス全8巻で読んだのって、1977年か78年頃かな。勿論、このときが初読で、その後二、三回読み返してるかも知れない。

 僕が少年漫画雑誌ではなくて、青年コミック雑誌を読み始めたのが多分、1976年くらいからだと思う。「高校生無頼控」の初出は、双葉社発行の青年コミック雑誌「週刊漫画アクション」に1971年7月から連載が始まり、誌の73年6月まで連載された。

 1971年から73年までの間は僕は調度高校生の期間だ。僕はこの時期は青年コミック誌や成人漫画雑誌は読んだことない。無論、それまでに本屋の店先でパラパラとか友達の家でパラパラ見せて貰ったことはあったけど。

 高校三年のときに学校に「高校生無頼控」のアクションコミックスの1冊を持って来てる、他のクラスの同級生がいたけど僕はその本は見てはいない。他クラスの同級生の1人がワザワザ僕んトコまで来て「おまえが持って来た本か?」と訊きに来たけど、僕は「違う」と何か素っ気なく答えたのを覚えている。まぁ、特に仲が良い同級生でもなかったし。ほとんど話したことない同級生だった。

 主人公が女にモテモテでエッチなシーン満載の漫画作品だったから、年齢的に性愛に興味津々、女にモテたくてモテたくてしょうがない青春期の少年たちに取っては、非常に関心の強いコミックで、まぁ、あの年齢の少年たちには楽しく面白かった訳です。

 実際、「高校生無頼控」は当時の若者たちに大人気の青春劇画でした。エロさ満載だったし。

 大昔の記憶だけど、僕んトコに漫画「高校生無頼控」のコトを訊きに来た同級生の彼は、高校生“ブライヒカエ”と呼んでいた。僕も最初、“ブライヒカエ”かと思った。後で高校生“ブライコウ”と読むんだけれど。でもやっぱり“ブライヒカエ”で良いのかな?“ブライコウ”と読む人も“ブライヒカエ”と読む人もいるけど。柴田錬三郎さんの代表作の一つ「眠狂四郎シリーズ」に「眠狂四郎無頼控」という作品もあるけど。「コウ」と「ヒカエ」どっちが正しいんだろ?この場合の「控」の意味は“記録”とか“覚え書き”とか“日記”みたいな意味で使われてるのかな。

 僕が漫画「高校生無頼控」をコミックス全巻読んだのって、多分21歳くらいのときじゃないかな、と思う。もう、女にモテたい、女にモテたいと思って仕方のないときだ。まぁ、女にモテたい、とは十代半ば頃に色気付いてから先は二十代も三十代もずーっとだったろうけど。まぁ、男はみんなこれはオスの本能だよなぁ。まだ“草食男子”なんて言葉がなかった時代だし。

 「高校生無頼控」の主人公の少年、“突きのムラマサ”こと村木正人が女にモテモテでナンパの達人で、常に美女をモノにして連載の毎回毎回エッチをしている。青年時の僕は憧れてましたねぇ。俺もこんなふうに美女のナンパに成功して美女と楽しく過ごせないかと。夢でした。勿論、夢で終わったけど。

 “ナンパ”って別に「ヘイ、カノジョ~、一緒に遊ばな~い」みたいな巷でよく見る、軽いノリのチャラい、行き掛かりの知らない女性に最終目標エッチで声掛ける、いわゆる“ナンパ”ではなくて、最終到達地点はエッチと同じコトでも、“突きのムラマサ”の場合は、何か訳有りそうな、何か悩み抱えてそーな若い女性の、困ってる問題に介入して一緒に問題解決に向けて尽力してあげて、立ち直って明るくなったその女性といつの間にか肉体関係に入ってる、という感じの、ちょっと深い意味の“ナンパ”でしたね。

 漫画「高校生無頼控」のストーリーのおおまかな内容は、時代的に大学紛争に没頭したか捲き込まれたか、大学紛争の渦中の中で行方不明になってしまっている、大学生の兄を捜すため、高校を中退して単身、東京にやって来る、薩摩示現流の剣道の達人、村木正人少年が上京の道中や東京に入ってからと、さまざまな美女たちと邂逅し、そこからいつの間にか正人少年と各美女のエッチな関係になって行くお話かな。

 僕が漫画「高校生無頼控」を読み返したのも、もう何十年も昔のことだから「高校生無頼控」のストーリーの詳細なんて忘れきっています。

 ネットで「高校生無頼控」のことを調べると、主人公の捜す兄は、学生運動の過激派のリーダーで警察に追われて行方不明状態になっており、故郷鹿児島で兄の婚約者の女性が重病で明日をも知れぬ命という切羽詰まった状態で、主人公の薩摩示現流の達人の少年、村木正人は兄の捜索に、東京だけでなく、全国を回る旅を続ける話、というコトなんだけど、この漫画の本当のテーマは、女にモテモテ、スケコマシの達人、村木正人少年がさまざまな女性をナンパしてはエッチなお楽しみをして回る物語ですね。

 読者も、剣道の達人の熱血少年がチンピラみたいな連中を叩きのめす爽快感よりも、数々の女をどう落としてエッチ状況へ持って行くかに興味が大きく、そこがこの漫画の楽しみであり醍醐味だったと思う。

 主人公少年が旅して行く間に、エピソード的にさまざまな女性に出会い、各々相手の立場や抱える悩みなどを聞きながらも、論理で押し流していつの間にか肉体関係に持って行く。

 村木正人少年は頭も良くて弁も立つから論理的に、さまざまな相手を納得させてしまう。だからいろんな女性とエッチに入って行くけど、決して無理強いではなくて、最初は戸惑っていた女性たちもいつの間にか正人君に身体を任せてしまう。知らぬ間に女性は恍惚状態で喘ぎ声を上げている。ここんところが読者待望のクライマックスですね、この漫画の。

 掲載誌の漫画アクションもこの漫画も、読者は若い男性が主体で、読者の大半の男ドモは女性への関心がメチャ強くて、とにかく女にモテたくて日々悶々として送っているから、この漫画の主人公のスケコマシ術と成果に、俺もこんなふうにいろんな女とエッチして回りたい、と憧れて読んでたんですねぇ。

 

 まぁ、勿論、これは創作漫画で、実際はそんなにうまく行く訳がないけど、読者男性たちはナンパの成功からの美女たちとのエッチに憧れ夢見た。漫画の主人公の村木正人君からが元から、イケメンで剣道の達人で腕っぷしが強くて正義感溢れる頭の良い少年で、現実にはありえね~って物語ですからね。

 それぞれのエピソードの終盤クライマックスは必ず、美女との肉体関係エッチシーンが盛り込まれる、まぁ、ある意味エロ漫画でもある「高校生無頼控」ですが、表向きのテーマは、あくまで主人公が行方不明のお兄ちゃんを捜す、熱血感動コミックで、各エピソードでは正義感の強い熱血少年が予期せぬトラブルに見舞われ、自慢の剣の腕を奮うアクション場面もある訳です。

 熱血剣道少年の主人公、“ムラマサ”の胸に刻み込んだ信条は“三流主義”で、この三流主義は汗を流し血を流し涙を流す、という熱血漢信条。これは多分、60年代学生運動ブームの若者の熱くたぎる闘争の時代が過ぎて、その反動のように70年代の若者が“三無主義”と言われた。

 三無主義とは無気力、無関心、無責任の意味で、別にその時代の若者が自分らは三無主義だと主張した訳ではなく(当たり前)、そういうふうに世間で呼ばれたということですね。別名“シラケ世代”などとも呼ばれたり。“三無主義”は当時の流行語にもなってましたね。

 流行語の三無主義を否定する意味で、熱血少年-ムラマサは三流主義を掲げて、前向きな行動力を示して熱く強く生きて行ってる訳です。

 高校生時の僕自身は典型的な三無主義みたいな生活送ってましたけど。三無主義の引き籠りみたいなものでした。引き籠りって別に学校へは普通に通ってたし、学校にはいっぱい友達もいて毎日明るく振る舞ってたけど。高校三年間は何か精神的に引き籠ってたかなぁ。別に意識はしなかったけど三無主義は三無主義状態だったなぁ。

 「高校生無頼控」はこういったジャンルを開拓した漫画、というか、熱血感動青春ストーリーにプラス“エロ”を入れて男性若者読者のハートを掴んだ人気コミックですね。ストーリー漫画の体裁で、モテモテ主人公が美人女性と出会い、何だかんだ結局口説いて行き、相手女性たちも気持ちを許し身体も許し、エッチな関係に入る、という、一見ストーリー漫画ながら、その醍醐味は終盤の女が落ちるエロエロベッドシーンだという、爽やかナンパ漫画。

 こういった趣向の漫画作品はそれまでなかった。「高校生無頼控」はこういった爽やかナンパ漫画の草分けの先駆け作品です。言い方変えたら、青春イコール結局エロ、とはっきり示したコミックかな。

 若者どおしの恋愛も行き着く先は結局、肉体関係ですからね。いくら純愛とか言っても。特に男の方はオスの本能で好きになったら、したいしたいになっちゃう訳だし。

※「学校の探偵」2018-3/25 Kenの漫画読み日記。

 

高校生無頼控1 (マンガの金字塔)

高校生無頼控8 (マンガの金字塔)

高校生無頼控 [少年向け:コミックセット]

ぶれいボーイ1 (マンガの金字塔)

ぶれいボーイ4 (マンガの金字塔)

ぶれいボーイ [マーケットプレイス コミックセット]

カニバケツ1 (マンガの金字塔)

カニバケツ7 (マンガの金字塔)

カニバケツ [マーケットプレイス コミックセット]

カニバケツ 1 (アクションコミックス)

学校の探偵1 (マンガの金字塔)

高校生無頼控 4 (劇画キングシリーズ)

 漫画「高校生無頼控」全8巻はこれまでに三、四回くらいは同じものを読んでると思うけど、最後に読んだのだってもう何十年前のことで、大まかなストーリーはぼんやり覚えてて、何ヵ所かは印象に残ったシーンをおぼろに覚えてたけど、詳細どころかそれ以外ほとんど忘れきってた。

 で、「高校生無頼控」を読んでみた。電子書籍で。でも最初の1巻全部と2巻の途中まで。すっかり忘れてたけど、ああ、こういうシーンがあったんだな思い出した、というところもほんのちょっとはあった。

 「高校生無頼控」は、何十年も前に読んで覚えてたイメージとだいぶ違ってた。エッチなシーンはたいしたことない。エロ漫画とはほど遠い、そのエピソードごとのヒロインとエッチに至るシーンと肉体関係シーンは描いてるけど、ほんの何コマかだね。別に詳細にエッチなシーンを描き込んでる訳ではなく、1エピソードが30ページくらいあるとするとほんの2、3ページくらいか。エッチシーンの大画面もあるけど、イメージ描写っぽい描き方かな。

 村木正人少年は高校生の年齢だけど大人びていて、ハンサムで男らしく一本筋の通った芯の強いとてもしっかりした子で、剣道の達人で喧嘩が強く、頭が良くて機転が利いて、メッチャ弁が立ちどんな相手も論理的に言い負かす。また高校生のくせに法律に強くて特に刑法をよく知っている。これは原作者の小池一夫先生が中央大学法科出身ですからね。主人公はこれは絶対モテるという万能少年のヒーローですね。

 上記で“ナンパ漫画”と評したけど、これは思い込み違いで、口説いて口説いて相手に納得させてエッチ関係に入るような“ナンパ”ではなく、モロに強姦に入るような凌辱行為の多い漫画ですね。

 エピソードエピソードごとのヒロインの美女たちを、ほとんど毎回、襲い掛かって否応なしに肉体関係に入る。最初は拒む毎回のヒロインたちも屈強な男性のムラマサの体力に負けて犯される。けっこう暴れたりするんだけどブチュウってキスしてたりして、何か観念したのかムラマサに肉体を任せてエッチ行為を続けてしまう。

 で、初めは拒んで抵抗してたくせに行為が終わるとカッコ良いムラマサに惚れてしまう。あれだけ拒絶してた相手なのに一回の行為のあとは、もうムラマサとその都度都度のヒロインは恋人どおしみたいに仲むつまじくなってるんだよね。

 まぁ、ムラマサは力ずくで女を犯すけど、殴る蹴るの暴力は振るわないなぁ。ただ、一回、抵抗する女を殴ったあと犯す、モロ強姦もあったな。

 この漫画、女性側からしたらこういう描き方は腹が立つんじゃないかなぁ。特に今の女性は。90年代以降の女性たちが読んだら拒否反応示すだろうなぁ、と思う。こういう描き方は絶対怒り出すと思うな。

 この漫画が描かれたのは1971年だからなぁ。

 昭和の昔はよく「押し倒してヤッちゃえ」って言われてた。相手が拒否してても無理やり肉体関係持ってしまえば相手は落ちる、って言い方。今だったらモロに犯罪だけど。昭和でも犯罪だったろうけど。

 昭和の時代は強姦されても訴え出る女の人はほとんどいなかったって言うしね。女の人が弱かった時代。70年代のウーマンリブとか女権拡張運動が世界的に起きて日本の中も運動が活発になり、社会の意識がじょじょに変わって行った。

 なかった女性の権利も社会的に拡大して行った。1985年の男女雇用機会均等法の制定とか法的にも整備されて行ったし。女性が無理やり凌辱される犯罪も被害者の方に寄り添った取り調べや裁判がされるようになって行ったし。

 昭和までは、まだ貞操観念というのがあった時代で無理やりにでもそれが折られてしまうと女性は諦めてたのかな。昔は、最初は女の人の方が抵抗して拒むのを男の方が力ずくで無理無理エッチをして最後まで行って、その後、結局その二人は結婚したって話を何度か聞いたことあるもんな。女性が諦めて降りてたのかどうなのか。

 ムラマサみたいに襲い掛かって、抵抗する女を最初は力ずくで無理やり犯して、そのあとは、一回エッチ行為のあとは、女の方が無理無理抱いた男に惚れてしまう、というのは当時の男たちの思い上がりだったのかな。今の時代だったら、拒否してるのに無理やり犯して来た男を一回エッチしたあとに惚れてしまう、なんてことは先ず有り得ないよな。

 まぁ、よっぽどカッコ良い男で本音はそのカッコ良さに「イイ男ね」と、ちょっと参ってる気分だけど立場的に拒否する態度取ってて、無理やり犯されて本音がストレートに表面に現れて惚れました、というケースもあるのかも知れないけど。やっぱ、今の時代は女の人は無理やりエッチなことされたら先ず怒るよなぁ。かなり激怒するよなぁ。

 主人公ムラマサの行方不明の兄は、学生運動·過激派の大幹部で警察に指名手配を受けて捜索されている。故郷·鹿児島の兄の婚約者は難病で床に伏したまま余命一年くらいの状態にある。この婚約者はムラマサの初恋の人でもある。死ぬ前に一目、婚約者に会いたいという初恋の人の願いを叶えるためにムラマサは単身、行方不明の兄を捜す。

 ムラマサの目的は、兄を捜し出して自首させ罪を軽くし、保釈金を払って兄を鹿児島に連れて帰ること。保釈金の大金も道中、いろいろな方法で金を稼いで行く。ココも漫画の面白いところですね。

 熱血ストーリー漫画「高校生無頼控」はこの一本の縦軸に沿って物語は進む。

 でも漫画の醍醐味はムラマサの行く先々で出会うたくさんの美女たちとエッチな関係になること。モテモテなムラマサだけど、かなり強引な方法で相手の女性たちを惚れさせる。この漫画はココに人気があったんですねぇ。

 ムラマサは過激派大幹部の兄を捜索する警察捜査本部の部長とも連絡を取り、行方不明の兄と繋がりの有りそうな学生運動グループへの潜入に成功する…。・・・

 コミックス単行本全8巻もあるのに、2巻の初めの方でもう兄の行方を知ってそうなグループと接触する。この兄の捜索という本筋だけで全8巻の長さをもたせられるのかな?と疑問に思ってしまう。

 もう「高校生無頼控」の物語の流れなんてすっかり忘れきってしまっている。昔、三回は全編読んでると思ってたのだが。何十年も経ってるからなぁ。ただ自分が若かった昔のあの頃はモテモテのムラマサに憧れてたんだろうなぁ。俺もこんなふうに美女にモテモテの青春を送りたいと。勿論、夢見ただけで終わってるが。

 「高校生無頼控」コミックス分第1巻を読んでて何故か吉田拓郎さんの昔々の若いときの曲、♪からっ風のブルース を思い出した。吉田拓郎さんの1973年6月リリースのアルバム「伽草子」のA面1曲目の曲。

 だいたい漫画「高校生無頼控」と同時代の曲になるけど。「高校生無頼控」の方がちょっと先になるけど。

 漫画「高校生無頼控」は三回、1972年73年に実写で劇場版映画化されてるけど、勿論、♪からっ風のブルース はこの3本の映画の主題歌や挿入歌になってる訳ではなく全然関係ない。

 ♪からっ風のブルース は吉田拓郎の作曲だけれど歌詞の作詞は岡本おさみ氏。

高校生無頼控2 (マンガの金字塔)

高校生無頼控3 (マンガの金字塔)

伽草子

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「うるとらSHE-シー-」「ビタミンI-アイ-」

 都内住宅地に立つ一軒の民家は、片方の道路に面しては昔ながらの八百屋店舗、片側通りに面しては洒落たデザイン事務所、という細長い平屋で、真ん中で繋がってて風呂·トイレなどは真ん中で共有となっている。ここに住む二人のグラマー美人が、1人は美貌の女性デザイナー、六条千草22歳独身、1人は八百屋の美人女将にて16歳、しかしミセスの小原マキ。

 この二人のグラマー美人と、16歳マキちゃんの亭主のオヤジが織り成す騒動を描くユーモア生活コミック。マキちゃんの亭主はけっこうオジサンに描かれてるからだいぶ年の差結婚みたい。デザイナー·千草はどっちかというと内気な方でおとなしめで恋愛にも消極的。活発で行動的な美少女-マキちゃんが恋愛に引っ込み思案な千草を駆り立てて引っ張り回し、それが騒動に発展するコメディー劇。グラマー美女二人の活躍はお色気抜群。ドタバタ調もあるかな。

 というのが「ウルトラSHE-シー-」の物語。

 「ビタミンI-アイ-」の方は、住宅街(マンモス団地)に越して来た薬局店舗の美人薬剤師-アイちゃんは未亡人で、グラマーな魅力的美女。住宅街に住むさまざまな男たちを虜にして行き、その住宅街の人々との交流が騒動を巻き起こす、生活ユーモアコミック。

 「ビタミンI」の方はね、若い頃、凄く関心は強かった漫画なんだけど、きちんとちゃんと読んだ作品じゃないから、詳細はあんまりよく解らないんだよね。ごめんなさい。でも望月三起也先生描くヒロイン、薬剤師のアイちゃんがスタイル抜群な美人で魅力的で、主人公の漫画絵は目に焼き付いている。

 「ビタミンI-アイ-」も「ウルトラSHE-シー-」も望月三起也氏作画の青年~成人向けのお色気コミックです。お色気コミックというか、ユーモア生活コミックでけっこうお色気シーンも入ってるかな、という作品ですね。普通の等身大の市井の市民の生活をユーモラスに描き、モロに性愛シーンとか入れたエロ漫画ではないのですが、まぁ、青年~成人向けコミックとしてお色気シーンもある、という程度かな。大人向け生活ユーモア漫画ですね。

 「ビタミンI-アイ-」が小学館の青年コミック誌-ビッグコミックに連載されていたのは、1971年中なのですが、ちょっとこの当時のビッグコミックの第何号から何号までの連載かが解りませんでした。1968年に月刊誌として創刊されたビッグコミックが翌年4月から隔週刊(月二回刊)誌となって2年目、創刊から3年目の連載作品ですね。コミックス単行本としての「ビタミンI-アイ-」は小学館からではなく、1974年に大都社から全2巻で刊行されました。

 「ウルトラSHE-シー-」もビッグコミック掲載で連載期間は1972年中だから、ビッグコミック誌上で「ビタミンI」の連載が終了して直ぐに後続で「ウルトラSHE」の連載が始まった形になりますね。

 「ウルトラSHE」もコミックス刊行は小学館からではなくて、連載終了からだいぶ経って1982年に朝日ソノラマのサンコミックスからですね。

 60年代後半、1967年頃から雨後の筍のように“青年コミック誌”が多数創刊されました。読者対象が18歳以上の青年~大人の漫画雑誌ですね。永井豪が初めて、というくらいに画期的に1968年から連載開始した「ハレンチ学園」で少年誌で漫画絵といえど、少女のヌード絵を描きましたが、それまで少年·少女雑誌では性的な表現は勿論のこと、女性のヌードはタブーでした。

 60年代後半に創刊された青年コミック誌では、漫画で女性のヌードを描くのは勿論OKで当時も軽い性的表現は描いてもOKでした。だいたい当時の青年コミック誌には女性のヌード写真のグラビアが巻頭に着いてたし。青年コミック誌のヌードグラビアは当時は外国人の若い女性のが多かったですね。

 60年代後半から70年代前半の僕は中学生~高校生時代ですから、色気づいてから女性や性的な事に興味津々、もう頭の中は毎日女性の裸でいっぱいみたいな時期でした。

 中学生~高校生時代は青年コミック誌が読みたくて見たくてしょうがないような時代でした。特に望月三起也先生の描く青年コミック誌掲載の漫画も見たかった。望月三起也先生の描く若い女性はセクシーさ抜群でしたからねぇ。

 僕の中三~高校生時代、僕ンチはひどい貧乏で…、凄まじい貧乏で、と書こうと思ったけど、確かに三食-食べるのと高校行けるの以外、高校生時代、かなり貧乏で衣服なんて全く買えなくて、家では中学の頃のシャツやセーターと、親父が昔穿いてたボロボロ作業ズボン、小遣いなんて全くなかったけど、まぁ、食べれてたしな。オヤツみたいな菓子は食えなかったけど。

 高校生時代は最初、朝、母親が作ってくれる弁当持って行ってたけど、同級生たちがみんな校内の学食でうどんかカレーライスか定食食べてて、弁当昼食の同級生がかなり少なかったんで、僕も学食で食べるかパン食にしたくて母親に話して、毎朝昼飯代100円にして貰って、高二のときどきや高三時は昼ご飯食べないで小遣い作って、文庫本の大衆小説買って読んでたな。学校帰り掛けに友達と同行するのに幾らか小遣い持ってるのも必要だったしな。

 高校の帰り掛け、帰宅部の僕はよく本屋に寄って立ち読みしてた。小心で厚かましさのない僕は、本屋の店員の手前、手に取ってパラパラ見るのがやっとだったけど、毎日のように本屋に寄って帰ってたな。

 高校生になっても漫画大好きだったけど、小遣いがないからせいぜい本屋の店頭でパラパラめくる立ち読みがやっとで、漫画も満足に読めなかった。僕の高校生時代って1971年~74年春くらいだけど、青年コミック誌にも興味津々だった。

 僕ンチは大貧乏だったけど、何故か母親が新聞だけは取ってた。新聞の広告らんに当時のビッグコミックの広告なんかも載る。当時の青年コミック誌も、僕が小学生·中学生時代に熱中したり親しんだ漫画家が作品を描いていた。

 ビッグコミックなども家でじっくり読みたいなぁ、と思ったものだ。

 読んだことないけど、当時、ビッグコミックに連載されてた「ビタミンI」は知ってた。1971年は僕は高一だ。小学生·中学生時に少年誌のアクション劇画でメチャ楽しませて貰った望月三起也氏の作品だ。

 中学生の頃から思ってた、望月三起也氏描くヒロインは妙に色っぽくて魅力的。要するにセクシー。中学生の頃、少年キング誌上で読んだ「ワイルド7」のヒロイン、喫茶店·女性マスターのイコには魅せられてた。

 当時、ビッグコミック連載中の、望月三起也氏描くお色気コメディー·コミックの「ビタミンI」は読んで見たくてしょうがなかった。高校生の僕は本屋の店頭でビッグコミック、パラパラ見たりはしてたろうけど。

 前にもここのブログで書き込んだけど、僕の中学生時代、週刊少年キングを買って来て、「ワイルド7」の初期の掲載を読んだら、「バイク騎士事件の巻」で、この「バイク騎士事件」のエピソードは週刊少年キングに10年間も続いた大長編連載の「ワイルド7」、エピソード48話の中でも第2話で、多分、僕が中二のときじゃないかな、と思う。

 その号のキング掲載分「バイク騎士事件」では、「ワイルド7」の主人公-飛葉の行きつけの軽食喫茶-ボンの女性マスター、ヒロインのイコが犯罪組織-バイク騎士一味に誘拐拉致監禁され、コンクリート閉鎖の密室で本物そっくりの豹の着ぐるみに入れられる。

 その後、不覚にも飛葉大陸も拉致されて連れて来られて、豹のぬいぐるみを着せられたイコのいる部屋に一緒に入れられる。豹のぬいぐるみは本物そっくりでイコが入ってるから動く。飛葉は恐怖する。口元が細工された着ぐるみは、イコの声が出なくて何か喋ろうとすると、本物の豹のようなうなり声になってしまう。

 本物の猛獣と勘違いした飛葉は恐怖に戦慄し、近くに置いてあったムチを手に取る。着ぐるみの中のイコには飛葉だと解り、助けて欲しくて飛葉に近付く。

 しかし、豹の着ぐるみにイコが入っていることを知らない飛葉は、猛獣への恐怖からムチを振るって戦う。愛する飛葉のムチが当たり、イコは叩かれる痛みに苦しむ。なおも飛葉のムチが豹=イコを襲う。苦しみもがくイコだが助けを求める叫びは、低いうなり声となってしか出ない。

 イコは飛葉が好きで、飛葉もイコを憎からず思っている。いわば相思相愛に近い。それなのに愛する飛葉にムチで叩かれ苦痛にのたうつイコ。飛葉は本物の猛獣と思ってムチを振るい続ける。

 また、望月三起也先生が、豹の着ぐるみを透かして苦しむイコの絵を重ねて描く描写が、変態セクシー的に気分をそそるんだよね。変態気分を。

 このシチュエーションに中二·13~14歳の僕は興奮した。多分、まだ13歳。後にこのときのことを思い返すと、俺も変態的要素があるんだなぁ、と思ったものだ。漫画の中の1シーンだけどね。

 多分、これくらいの時期だと思うけど、多分13歳くらいのときだと思うけど、僕は小さい頃から毎日せっせと趣味で家で漫画を描いてたけど、これはまだ鉛筆描き漫画だったけど、一度、変態気分で漫画を描いたことがあった。

 主人公の恋人のヒロインが悪の犯罪組織に捕えられて、同じく拘束された主人公の目の前でヒロインの顔を無理やり醜く整形手術して行くという、サディスティックなシーン。まだ子供域の少年の僕はそんなの鉛筆書き漫画で描いて1人で興奮してた。

 変態の芽生え。でも僕は別に、この半生で性犯罪を起こして逮捕されたことなんて一度もないですよ。当たり前だけど。

 2022年の10月に書き込んでアップした記事「クリちゃん」の中で、ワシの昔の思い出語りで、小五か小六のときの、多分、小六だと思う、僕が友達の万引きに着いて行き、ビビリの僕が「見張りしといてやる」と言いながら、かなり離れたところから見ていた、そのときの万引き実行した友達、IK君、彼はその後、万引きした戦利品をその店に戻しに行って「やっぱり要らないから金を戻してくれ」と領収書なしに見事、現金を得て来た、悪質だけどその度胸と落ち着きに驚いた、勿論、同級生のIK君。

 IK君は僕の小五·小六時分に転校して来た同級生で、多分、クラスは違ってたと思う。僕ん家から100メートルくらい行った先の隣町のアパートにお母さんと二人で住んでた。隣町と言っても当時の国道挟んだ直ぐ近くの、住所名的にまぁ、名前が違う隣町だった。

 クラスが違うのにどうして僕が彼の万引き冒険に着いて行くほど、仲良くしてたのかよく解らない。子供の頃は僕は意外と社交的だったかな。大人になって内気になって人見知りが強くなり非社交的になったかな。

 IK君とは中二のとき同じクラスだったな。小学校、中一·中三は別のクラスだった。彼は中三のときか中学卒業後か引っ越して行ってしまった。中三ではほとんど彼とは遊んでない、というか一緒にいたことがない気がする。

 中一のときだろうか中二のときだろうか、僕はIK君の家に遊びに行った。IK君のお母さんは水商売の仕事をしていて、夕方お邪魔するとお母さんはいなかった。僕はIK君と二人きりで彼の部屋で遊んだ。

 遊んだといっても別に、ただ彼の部屋のベッドの下にあった青年コミック誌を見せて貰っただけだ。

 万引きをしたくらいだから、特に不良という程でもなかったけどIK君はまぁまワルガキだった。12、13歳くらいなのに近くに立ってるラブホテルにいたずら電話したりしてた。

 IK君の部屋のベッドの下に隠してたのか置いてたのか、エロ本的な青年コミック誌は僕には新鮮だった。そのとき僕もエロ漫画本が欲しいと思ったに違いない。その当時、僕もワルぶった言動もしてたが、本心は小心臆病でとても不良的な真似はできなかった。

 その当時は、興味津々でもとても本屋の店頭にある青年コミック誌や成人コミック誌をパラパラ見るなんてことはできなかった。怖くて。僕の小六~中学生時。

 小六か中一の頃、近くのアーケード商店街の本屋の店頭にある、成人コミック誌(ビッグコミック·漫画アクション·プレイコミック·ヤングコミックが創刊される前から成人漫画誌は何冊か刊行されてた)を興味本意でパラパラ捲ってたら本屋の若い店員のお姉さんに「うわあ~エッチやねえ」と繰り返し言われて、恥ずかしくてたまらなくて、それは何かトラウマになってしまった。

 家に帰ると多分、事務所の若い社員の男性、まぁ、親父の当時の部下にあたる、多分、Yさんだったんじゃないかなぁ、と思う、その人にその話をしたら「見せて悪いものなら置くな、と店員に言ってやれ」と言われた。そのときは子供の僕は多分、なるほどなぁ、と思ったものだと思う。

 だいたい小さな頃から何でも雑誌が好きで雑誌に興味·関心の強かった僕は、中学生になって成人漫画誌·青年コミック誌に興味津々、本心は見たくて読みたくてたまらなかった。でも怖くて見れなかった。若い女性店員に言われたのがトラウマになっていたのだと思う。

 で、多分、中二の初め頃なんだろうな、ひょっとして中一かも知れない、年だと1968年か69年のことだと思う。ビッグコミックの創刊が1968年2月、ヤングコミックの創刊が1967年8月、漫画アクションの創刊が1967年7月と、僕の中一·中二時代は1968年69年だから、メジャーな青年コミック誌は定期刊行されてた。

 IK君のお宅にお邪魔したとき、夕方で、IK君のとこは母子家庭で美人のIK君のお母さんは水商売で働いていたから、夕方から仕事に出て行ってIK君と二人きりになると、IK君はベッドの下から青年コミック誌を何冊か取り出した。お母さんに見つからないようにベッドの下に入れてたんだと思う。

 ウブな中学生だった僕はショックだった。多分、雑誌の巻頭に若い女性のヌードグラビアがあったと思うが、漫画大好き少年の僕には青年~成人向けのコミックがまぶしかった。多分、そのとき凄い魅了されたんだと思うけど、眼前のIK君の手前、僕は割りと平然を装ったんじゃないかな。

 本心は、青年~大人向けコミックを貪るように見たかったと思うけど。

 無論、その数冊の雑誌が何という漫画本だったかなんて記憶してない。60年近く昔の話だし。

 その雑誌に収録された漫画の中に、望月三起也氏の作品があったようにうろ覚えで記憶にあるような気がするのだがはっきりしない。何か望月三起也氏のセクシーな女性登場人物を描いたシーンがあって、そのIK君の雑誌が欲しくて持って帰りたかったが、IK君に「譲ってくれ」なんてとても言えなかった、と思うんだけど。

 仮に持って帰ったところで自宅では直ぐに母親に見つかるし、怒られるだろうし家族に対して恥ずかしいし。そのときはIK君の環境を羨ましく思ったと思う。

 IK君は一度だけ僕ん家で夕飯を食べたことがある。僕ん家に泊まったことはないと思う。翌日か翌々日か、IK君の美人のお母さんが家に菓子折りを持ってお礼に来たのを憶えている。

 多分、IK君ちで見た何冊かの青年コミック誌の、漫画絵で描かれた裸の女性に魅了され、頭から離れなくなって、おまけに少年キングのワイルド7で見た望月三起也描く美少女=イコのセクシーな絵も手伝って、実物の裸の女の人の写真よりも、裸の女性の漫画絵が見たくて見たくてたまらなくなってて、当時の兄貴の勉強部屋の兄貴の本箱タンスの底あたりの引き出しに、兄貴がエロ本を隠し持っているのを見つけて、そこには、平凡パンチや週刊プレイボーイやポケットパンチOh!なんかに混ざって、ビッグコミックやプレイコミックの青年コミック誌もあって、そのときは本当に嬉しかったと思う、僕はあまりの嬉しさで、女性ヌード絵をそのままにしとくのが勿体なくて、そのヌード絵をハサミでジョリジョリ切り抜いて、ノートに貼り付けて行ってコレクションにした。

 13歳~15歳の頃だけど、切り抜いてノートに貼って行ってコレクション帳を作ったのは、多分、14歳のときかな。IK君ちでエロ漫画雑誌見せて貰ったのは13歳だろうか14歳だろうか。まだ13歳だったような気がするなぁ。僕の性の目覚めというのは13歳なんだろうな。けっこう遅かったような気がするな。

 IK君との思い出も懐かしいな。IK君など僕の同級生たちもみんな、もう今は高齢者のお爺さんだ。あの日々に初恋みたく恋慕の情を抱いた女の子も、今や高齢者のお婆さんだなぁ。失礼。

 

 望月三起也先生描くヒロインたちは魅力的だなぁ。望月三起也先生は美女たちの、例えばヒップをクローズアップさせた描写とか美女の躍動的なスタイルをセクシーに描くのが抜群にうまい。望月三起也先生描く女性の全身イラストには本当に魅了されますね。

望月三起也 MAD DOG 完全版(上)

望月三起也 MAD DOG 完全版(中)

うるとらSHE (1)

うるとらSHE (2)

うるとらSHE (3)

W7 新世紀ワイルド7

W7 ~新世紀ワイルド7~ モノクローム

ごくろう3 (1)

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「サタンボーイ シリーズ」-沢田竜治·作画-

 「サタンボーイ」シリーズは好きだったなぁ。憧れて大好きな劇画だった。僕は子供で貸本漫画だけど。貸本漫画の劇画作家-沢田竜治さんの作品だった。格闘と拳銃バンバン、カーチェイスや爆破·破壊などでの派手なスパイ·アクション劇画。

 サタンボーイは通り名で、日本の情報機関の凄腕のスパイ。確か“忍者”の末裔だったと思うけど。僕の子供時代に貸本屋で一泊二日で借りて来て読んだ貸本漫画だから、もう「サタンボーイ」シリーズのお話の詳細など忘れきっている。けど大好きな漫画だった。

 サタンボーイはカッコ良かったなぁ。忍者の末裔で忍者の能力を持ってて。跳躍力とかさ。忍者の末裔ったって別に黒装束着て背中に刀を差して手裏剣シュッシュッって投げたりする訳じゃなかった、と記憶するけど。シャツとズボンとジャケットの上着と現代人の格好してた。

 サタンボーイが所属するのは日本の諜報機関だったか、国際的な、対犯罪組織の大掛かりな機関の日本支部の腕利きエージェントだったか、当時のテレビドラマで言えば、輸入スパイアクションドラマの「0011-ナポレオン·ソロ」、日本のアクションドラマなら「キーハンター」とか「スパイキャッチャーJ3」とかに設定が近いかな。まぁ、この時代のスパイアクションものはみんなアメリカ映画の「007=ジェームス·ボンド」シリーズに影響されてるだろうけど。

 貸本劇画「サタンボーイ」シリーズのミソは日本のスパイらしく、忍者の末裔であり、忍者の体術などの能力がある、というところかな。007シリーズにも日本が舞台で東宝の浜美枝さんが“ボンドガール”を演じた「007は二度死ぬ」にも、ジェームス·ボンドに協力する日本のスパイ組織が、確かいにしえの忍者関係だったと思ったけど。違ったかな?

 映画「007は二度死ぬ」の中でジェームス·ボンドに協力する日本のスパイ機関は“公安”でした。公安調査局となってます。やはり、その公安の特殊部隊が忍者の装束で出動するらしい。“忍者”関係してました。

 「007は二度死ぬ」は僕が19歳頃、映画館でリバイバル上映を見てるんだけど、内容をほとんど忘れてます。

 沢田竜治さんのスパイ-アクション劇画「サタンボーイ」シリーズの主人公、超腕利きの日本人エージェントは、別にダークスーツを極めた格好じゃなくて、ラフな現代人の若者の格好してて、シリーズ第1巻ではメッチャ長髪でした。髪があちこち飛び跳ねてて垂れてて、かなりのロングヘアスタイル。第2巻からは当時で言うスポーツ刈りみたいな短髪になった。坊主じゃなくて角刈りでもなくて丸いアウトラインの短髪。

 貸本漫画の「サタンボーイ」第1巻が描かれたのって多分、1965年だと思う。当時の貸本漫画本出版社-東京トップ社からの発行ですね。「サタンボーイ」シリーズって全部で6巻くらい描かれたんだろうか。

 貸本漫画が終わったのって多分、1967年中のことだと思うんですけど、僕が貸本漫画を読み始めたのは1962年暮れ頃か63年初頭ですが、この時代の貸本漫画の発刊本のスタイルは、だいたいA5判128ページか136ページ本のソフトカバーでしたね。62年頃まではA5判でもっと分厚い150ページ以上の漫画本も出てたけど、63年以降はほとんど128P·136pに統一されてたように思う。中には日の丸文庫の「影」みたく180ページ以上の分厚い短編集もあったけど。

 僕が貸本漫画を読んでたのは1966年の4月いっぱい頃までで、「サタンボーイ」は3巻か4巻までしか刊行されてなく、だから僕は「サタンボーイ」の4巻か5巻以降は読んだことない。

 沢田竜治さんの貸本時代の代表作というと、シリーズが貸本単行本で全部で30巻くらい続いた「爆弾野郎シリーズ」ですね。「爆弾野郎」の主人公の青年は私立探偵じゃなかったかなぁ。ダークスーツに身を包んでネクタイ締めたタフガイで拳銃バンバン撃って悪者どもを退治する、ハード·アクション劇画。

 「爆弾野郎」の主人公は小生意気な男の子の子供と“お竜さん”ってイキの良いスタイル抜群の美女を連れて行動してた。3人連れでヨーロッパの都市が舞台になったりもしてたから、ロードムービーみたく旅して事件に捲き込まれていたのかな?何しろ数十年前に貸本屋で借りて読んだだけの漫画だから詳細は忘れきってる。

 60年代前半なんてまだまだ貧しい時代だったろうし、特に貸本漫画家なんて人気があったとしてもやっと生活できた程度じゃなかったかと思う。大部分の貸本漫画家は食うや食わずだったんじゃないかな。テレビドラマの「ゲゲゲの女房」でも貸本漫画家の貧乏さは描かれていたし。当時のモノクロテレビの海外紹介や雑誌の海外紹介グラフ記事はあったにしても、ヨーロッパとか海外なんて空想そのもので描いてたんだろうな。日本国の海外旅行自由化なんて1964年4月のことだし。

 この時代の貸本劇画の主人公の私立探偵たちは全員、普通の一般市民なのにみんな拳銃携帯してて、胸に提げたホルダーに拳銃が入ってる。日本国内の暴力団組織がまるでアメリカ暗黒街のギャングそのものに描かれていて、街中で拳銃バンバン撃ち合い、マシンガンでダダダダって機銃掃射する。警察の刑事も普通に拳銃持ってて即拳銃撃ちまくって応戦する。

 アメリカ輸入のギャング映画·ハードボイルド映画、50年代~60年代前半に“日活無国籍アクション映画”というシリーズがあって、この時代のこういう実写劇場映画の影響を多大に受けて、貸本劇画では、拳銃バンバン撃って格闘するアクション劇画が流行したんですね。

 この時代の貸本劇画の漫画家たちはみんな、自分たち独自のカッコ良い私立探偵ヒーローのキャラクターを作っていて、貸本漫画でその探偵たちのシリーズものを続けて描いてました。

 貸本劇画作家たちの作ったアクションヒーローたちは、一番多いのは私立探偵でしたが、ときには刑事や日本独自あるいは国際的な諜報機関日本支部のスパイ、テロ犯罪の防止や撲滅を目的とする機関のエージェントだったりしてました。でも例えば、ギター流しとかして日本中を旅する風来坊が、行った土地の暴力ざたに捲き込まれる設定もありましたね。土地の暴力団どおしの抗争に捲き込まれてしまうお話とか。篠原とおるさんの「万能屋錠シリーズ」は主人公の稼業は“泥棒”だった。

 “劇画”という名称は1957年頃に当時の貸本漫画家の辰己ヨシヒロ氏が作った、自分たちが描く漫画作品の作風の呼称であり、当時の大阪出身の貸本漫画家を中心とした、自分たち独自の漫画制作グループ“劇画工房”から隆盛に向かって行った。

 劇画工房が実質1年くらいで空中分解した後、劇画工房の1人だったさいとうたかを氏などを中心に今度は“劇画集団”という劇画制作グループが設立される。劇画集団には多数の主に貸本漫画で劇画を描く漫画家たちが参加した。その中の1人に沢田竜治さんもいました。“劇画集団”は“劇画工房”とは組織の内容が違っていて、もっとユルくて、貸本漫画の劇画作家たちの親睦団体の様相が強かったらしいですね。劇画集団参加者の1人、さいとうたかを氏は自分の劇画制作会社「さいとうプロダクション」を作って漫画制作と貸本誌の発行までやってたし。横山まさみち氏の「横山プロ」も同様ですね。

 貸本漫画自体、何ていうか、貸本漫画のシステムというか、戦後の国民が総体的に貧しかった時代の娯楽媒体「貸本」は、1959年頃に最盛期を極め、このとき日本全国で「貸本屋」が3万軒存在したと言われています。子供~若者が貧しくて本や雑誌が買えなかった時代に隆盛した貸本屋は60年代に入ってじょじょに国民の生活が豊かになって来ると、本や雑誌は借りて読むものではなくなり、特に雑誌などは読み捨てされるものになった。漫画本も買って読むものになって来る。貸本屋~貸本漫画システムは1965年の秋頃から66年春頃に掛けて衰退して来る。1966年は「貸本」が見る見る衰退して行った時期ですね。

 「貸本漫画」の終焉は1967年だと思います。67年のいつ頃かは僕にははっきり解らないんですが、貸本漫画の出版社というのはけっこういっぱいあったんですが、ほとんどが零細企業で、個人商店と変わらないくらいの規模の貸本出版社も多かった。60年代に入ってから倒産や撤退する貸本出版社は増えて行きましたね。1967年中には全部と言っていいほどの貸本出版社が貸本漫画の発行をやめた。中には比較的大きな貸本出版社で新書判コミックスの市販刊行で存続した出版社も幾つかありました。貸本出版社から普通の市販出版社になった訳ですね。町の貸本屋さんも66~67年までに全国で大多数が閉店して行ったと思いますが、中には市販·新書判コミックスを貸し出して貸本屋を続ける店もありました。

 貸本漫画には独自の流通形態があって、貸本専用の漫画本問屋が存在してたけど、それも多分、1967年中に貸本流通システムが崩れて問屋もなくなったんでしょう。67年以降の新書判コミックスや雑誌の貸本で商売して残った貸本屋は、貸し出す本を何処で仕入れていたのかな?普通の一般的な市販小売り書店で買って来てたんだろうか?普通の市販本の流通システムの問屋には貸本屋は入って行けなかったろうしな。まぁ、僕も「本の流通システム」に関して詳しい訳じゃないし。調べてなくてごめんなさい。

 昭和の時代は著作権法などがしっかりと整備されてなくて、市販の書籍·雑誌を貸し出して商売することが普通に通っていた。こういうレンタルの商売が法的に問題視され出したのは、80年代に入ってからの「レンタル·レコード」からですね。

 「貸本屋」という零細企業の保護のような意味で、漫画家·作家の“貸与権”というものが認められていなかったのが、2000年代以降、漫画本レンタルに大規模な企業というか、チェーン店展開の大手企業が参入して来て、漫画家·作家の貸与権が考慮され初め、2006年頃からか、レンタル本屋は貸与権として漫画家·作家に著作権料を支払わなければならないようになって行った。(貸与権とは著作権法が定める著作者の権利)。

 漫画喫茶の著作権料に関して調べたのですが、漫画喫茶は著作権料は払ってないようですね。漫画喫茶は本の貸し出しではなくて店内に置いてあるものを読ませているので貸与権が発生しない解釈なんだとか。床屋の漫画本の拡大解釈なのかな。

 話をぐんと戻して、多分、1967年中には消滅した昔ながらの「貸本」で、大勢の貸本漫画家たちは否応なく市販雑誌に流れて行った。市販雑誌の世界は厳しくてここでかなりの貸本漫画家は淘汰されたと思います。比較的、絵のうまい(漫画描写のうまい)漫画家は市販雑誌に移ることができた。

 でも市販雑誌に移っても生き残って行けた元貸本漫画家の人たちはそんなに多くはなかったですね。

 メジャーである少年雑誌の世界で漫画が描ける少数と、1967~70年に掛けてニョキニョキと雨後のタケノコように出て来た、創刊された青年コミック雑誌に、貸本で劇画を描いていた漫画家たちが仕事をするようになりました。それと昔からあった成人漫画雑誌で描く元貸本漫画家も出ましたね。70年代に入ると“エロ劇画誌”なるものがいっぱい創刊され始める。70年代には“劇画ブーム”が始まりますしね。

 

 「貸本」がなくなった後、沢田竜治さんは1969年に週刊少年マガジンに「ワッパ78」というコミカルなアクション漫画を描く。「ワッパ78」は連載ではなくて50ページ読み切りだったようです。69年の4月から7月の間に「ワッパ78」の読み切り短編を3回ほど間欠的にマガジンに載せてますね。僕は少年時代、長期に渡ってずうっとマガジンを購読していたので、この「ワッパ78」は記憶してます。ただ、マガジンの掲載形態だとかストーリーなど内容は忘れてしまっています。

 貸本劇画から市販雑誌に移行した沢田竜治さんは、マガジン69年の「ワッパ78」以外にも、60年代末~70年代初め、少年雑誌や青年コミック誌に作品を載せていると思いますが、僕自身は記憶にないです。何十年も昔のことだから忘れてしまってるということもあるけど、僕も70年代初め頃から77年頃まではあんまり漫画を読んでなかったからなぁ。

 70年代に入ると、というか70年代半ば頃からかなぁ、70年代後半~80年代前半に“三流エロ劇画ブーム”というものが起こります。70年代半ば頃から三流エロ劇画誌なるエロ漫画雑誌が零細出版社からいっぱい創刊される。

 70年代80年代の“三流エロ劇画ブーム”というと、一番売れていた「漫画エロトピア」が代表格で有名だけど、“三流エロ劇画誌”ご三家というと「漫画エロジェニカ」「漫画大快楽」「劇画アリス」ですね。この時代は他にもエロ漫画雑誌はいっぱい出てた。雑誌自販機でエロ漫画誌が売られ始めたのもこの時代ですね。

 あの当時、言われていたのは、60年代~70年代初めに学生運動にのめり込んでた若者たちが、大学卒業後にまともな就職先がなく、仕方なく零細出版社を立ち上げ、あるいは中堅出版社から創刊始めた、“エロ劇画誌”の編集~出版の仕事に集まった、という話でした。エロ劇画は70年代に起こった“劇画ブーム”の大きな波から派生した出版現象でしたね。

 僕はこの時代、日活ロマンポルノの映画はよく見てたけど、エロ漫画雑誌はあんまり読まなかった。というかだいたいほとんど読まなかったかな。あってもパラパラするくらいで。エッチな漫画でエロシーン満載の漫画なんだけど、ストーリー性に乏しくて、物語を楽しみたい僕には面白くはなかった。中には「女犯坊」みたいな劇画ストーリーのちゃんとしたエッチな漫画もあったけど、少数派だったな。

 僕はあの頃、1979年に新評社から発行された雑誌「別冊新評-三流エロ劇画の世界」を“熱読”しました。面白かったのを今でも覚えてる。勿論、内容の詳細は記憶してないけど。この時代、エロ漫画雑誌は“三流エロ劇画ブーム”に乗っかって僕もパラパラ読んでは見てたけど。(“熱読”という言葉使いはありませんが、熱を入れて読んだ、夢中になって読んだ、というような意味を伝えたくて造語しました。)

 “三流エロ劇画ブーム”でたくさん出版されたエロ劇画雑誌という社会現象も、ブームとしてはそんなに大きな波のうねりという訳でもなく一部のものだったかな。

 当時のエロ劇画雑誌の発行人や編集者などエロ劇画誌に関わっていた人たちは、学生時代に学生運動にのめり込んで就職先のなかった人たちだから、もともとは読書好きで知的な、本来は頭の良い人たちが多くて、理論派だから、この「別冊新評-三流劇画の世界」にもそういった人たちが寄稿していて、何事かイロイロ論じている。この時代、そういうあんまり役に立たないよーな、何かホントはたいして意味のないよーな評論を、ゴリゴリに理屈に理屈を重ねて論じているのを読むのがまた楽しくて、この雑誌や他の雑誌に掲載されてたエッセイやコラムを読むのが面白くて楽しかったな。

 勿論、この雑誌にも他の雑誌の掲載文でも、もう、何を書いていたかまったく覚えてないけど。読んだり味わう方としては楽しい時代だったな。(何しろこの雑誌タイプの本、僕が読んだのって五十年近く前の昔のことだし。)

 エロ劇画ブームが終わるのは、エロ漫画雑誌にロリ漫画が登場して、エロ漫画誌の主役の座がロリ漫画に取って代わられてからですね。漫画としての表現描写=タッチの全く異なる、ロリ漫画の台頭とエロ漫画界の制圧。80年代初めに出て来て80年代後半かな。ロリコン絵のロリ漫画のブームはその後かなり長く続きましたね。

 僕自身は可愛いロリコン絵のロリ漫画にはあんまり気持ちを持って行かれなかったなぁ。ロリ漫画はあんまり興味·関心は抱かなかった。

 70年代80年代の“エロ劇画ブーム”の中で、僕は榊まさるさんの漫画が、とても絵がうまくてタッチが大好きで、榊まさるさんの“絵”と描写をリスペクトしてて、この時代、榊まさるさんのエロ漫画の単行本は買ってたなぁ。エロシーンが見たいというよりも榊まさるさんの絵のうまさに惚れ惚れしてかな。

 ここまで“エロ漫画”のことを書き込んで来たのは、貸本漫画で「爆弾野郎」「サタンボーイ」を描いてた沢田竜治さんが、70年代に入ってエロ劇画を描き始めたからです。70年代からは沢田竜治さんは完全にエロ劇画専門の漫画家になってしまった。

 沢田竜治さんのエロ劇画カテゴリで一番有名なのは、1974年に東映で多岐川裕美が主演で映画になった、雑誌·別冊アサヒ芸能コミック-連載の「聖獣学園」かなぁ。この漫画は勿論エッチな描写もいっぱいあるけどストーリーもちゃんとあった劇画。沢田竜治さんはここからエロ漫画ひとすじみたいになったかなぁ。

 沢田竜治さんの「エロ漫画」は今でもコミックス単行本が電子書籍にいっぱいあって、70年代以降、相当な作品数を描いてますね。紙の実物コミックス本はもうほとんど廃刊になってて、古書しかないと思うけど、さまざまな電子書籍ストアでいっぱい作品が売られてますね。沢田竜治さんの「エロ漫画」のタッチはやはり劇画タッチで、そういう意味では作品は全て「エロ劇画」ですね。

 僕は沢田竜治さんのエロ漫画の劇画タッチで描かれた女性は魅力的で好きてすね。セクシーで扇情的なタッチで描かれる女性だった。

 沢田竜治さんのプロフィールというのは詳しくは解らないんだけど、60年代に20代の年齢だったとして、もう60年も経ってる訳だから80歳前後から80代の高齢になられてますよね。

 調べて見ると、2000年代前半発行の成人漫画誌に短編作品が掲載されてるから、その当時までは漫画作品を執筆されていたようですね。やはり旺盛に漫画原稿を描かれていたのは70年代80年代かな。90年代も仕事されていたと思いますけど。

 貸本劇画から登場して“劇画”を広めた代表的な漫画家、さいとうたかを氏も2021年に84歳で亡くなられているし、貸本漫画というと貸本出身で有名な水木しげる氏も2015年に93歳で亡くなられているし、もう僕が小学生時代に貸本漫画で至極楽しませて貰った、貸本で人気作品を描いていた漫画家の方々も亡くなられたことを知っている人も何人もいるし、貸本漫画家だった人たちはもう70代後半以上で長生きされてる方は90代にはなりますよね。

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悪魔と死神 ピンクのサリーシリーズ第3弾 トップ社

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殺りっぱなし 爆弾野郎シリーズNO21

 僕が貸本劇画のアクション·ヒーローたちに熱狂的になってたのは、僕の6歳~11歳までの間で、貸本漫画は一泊二日で借り読みしてただけだから、貸本劇画にはたくさんの魅力的なヒーローがいたけれど、もう数十年も昔のことだし全ての貸本劇画作品はストーリーなど詳細を覚えてないけど、貸本劇画の主人公たちには心踊らされて楽しませて貰いました。

 沢田竜治さんの「サタンボーイ」にも「爆弾野郎」にも気持ちワクワク熱く楽しませて貰ったなぁ。「ピンクのサリー·シリーズ」は記憶してなかったんだけど、多分、読んでると思うなぁ。

 「爆弾野郎シリーズ」のシリーズ終盤の単行本二十数巻目に、「爆弾野郎」の主人公の若者が悪辣非道な悪者連中を復讐心から皆殺しにして、警察に逮捕されて殺害した人数が多いので死刑宣告を受ける。

 絞首刑で死刑執行されたが、僕は知らなかったのだけど、死刑執行されてその後何分間かして死刑台から降ろされて、もし生きていれば、その時点で罪がなくなるらしく、絞首刑を受けたのに命があった若者はその後放免される。実際は先ず生きてることは前列もないし有り得ないらしいけれど。

 そういうことで「爆弾野郎」の若者はその後放免されてシャバに出て“幽霊男”と呼ばれるようになる。ってこのエピソードだけは何故か記憶してたなぁ。60年くらい昔の記憶だけど。

 沢田竜治さんの「サタンボーイ」というと、僕は小学生時代、毎日家で鉛筆殴り書き漫画を描いていたんですが、ほとんどが少年雑誌と貸本のカッコ良いヒーローたちを真似た、モノマネ漫画でした。

 その僕の“オリジナル”主人公たちを描くモノマネ漫画群の中に、沢田竜治さんの「サタンボーイ」を真似た、僕の“作品”もありました。

 小学生が鉛筆で描く漫画だからクオリティは知れてます。殴り書きのようなヘタクソ漫画で、とにかく描いてる本人が楽しくて毎日独り遊びで家の中で描いてました。誰かに見て貰いたい訳でなく描いてるのが楽しくてしょうがなかった。

 「サタンボーイ」のモノマネ漫画は「サタン·ワン」でした。そのまんまやないかいっ、って突っ込まれるよーなヘタクソ漫画で、だいたい内容も「サタンボーイ」のほとんど真似で似たようなストーリーで描いてました。小学生の描くものだから単純なストーリーだったと思います。懐かしい。

 沢田竜治さんは60年代末頃に書き下ろし単行本で、エジソンの伝記漫画を描いてたんですね。教育漫画系の偉人シリーズみたいな漫画単行本かな。

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「ザンバ」-石川球太·作画 1962~64年-

 もう、このブログの中では何度も何度も書いていることだが、僕が漫画というものを読み始めたのは1962年の晩秋から冬の初め、11月の半ば過ぎくらいから12月初め頃からだと思う。そして当時の少年月刊漫画雑誌を読み始めたのは、62年12月初旬発行の63年新年1月号からだと思う。

 僕の記憶でははっきり覚えているのは、市販本屋さんで月刊少年誌を買って来たのは、当時の「少年」3月号と「ぼくら」3月号で、はっきりした記憶はないのだが、「まんが王」2月号と「少年画報」2月号を本屋で買って来てるのかも知れない。これは記憶があやふやだ。よく覚えてない。「少年画報」2月号はウチの兄貴が買って来たものかも知れない。

 僕の年齢6歳の終わり頃の話で、小1二学期の終わり~小1三学期の初め頃の話だ。僕が漫画本を読んだのは、市販の本屋さんで購入したものよりも、当時の住み家の近所の貸本屋さんで借りて来た本の方が早かった。幼稚園や保育園に行っていない僕がひらがなが読めるようになるのが、多分、小1二学期の11月頃だったんじゃないかと思う。小1の僕に両親も兄貴も「字」を教えてくれなかった。多分、小1二学期半ばまで自分の名前さえ書けなかったんじゃないかな。

 多分、家の近所の貸本屋に通い始めたのも1962年11月頃からじゃないかなぁ。そこから66年4月いっぱいくらいまで、ほぼ毎日、この貸本屋に通った。最初は兄貴の使いだったけど、僕自身が字は読めなくとも漫画の絵そのものが好きだったし、その内、漫画に熱中して何よりも漫画大好き少年になった。漫画超大好き少年。

 62年12月初旬発行の各少年月刊誌63年1月号は貸本屋で借りて来て読んだ。2月号の「まんが王」を買ったんじゃないかなぁ。「少年」と「ぼくら」3月号は市販本屋で買って来た。

 当時の少年月刊誌は「ぼくら」「まんが王」「少年」「少年画報」「冒険王」「少年ブック」の六誌があって、六誌とも貸本屋で借りて読めた。この当時、講談社の「少年クラブ」が62年12月号が最終刊で休刊し、集英社の「日の丸」が63年2月号で休刊した。どちらもそれが事実上の廃刊だった。「少年クラブ」は全く記憶にないけど、「日の丸」の1月号~2月号は貸本屋で借りて読んでるかも知れない。

 

 僕は子供雑誌が大好きだったので、本当はできれば少年誌を買って来て自分のものとしてずっと手元に置いておきたかった。でも、子供の小遣いの金額上、漫画雑誌はせいぜい月に2~3冊しか買えなかった。だからあとは漫画本は貸本屋で一泊二日で借りて読んだ。

 そんな小一、6歳の終わり頃、初めて少年漫画雑誌を読み始めた頃、秋田書店発行の月刊少年誌は二冊あり、一つは「まんが王」もう一つは「冒険王」だった。当時の「まんが王」は僕はよく市販本屋で購読してたが、「冒険王」はほとんど貸本屋で借りて読んでた。僕が「冒険王」を購読するのは中学生になってからで、小学生時代は全冊と言っていいくらい貸本屋で借りて読んだ。

 僕が「冒険王」を初めて読んだのは多分、1963年新年1月号で、この本に「ザンバ」が掲載されてた。別冊ふろくにも「ザンバ」は着いてた。当時の少年雑誌はペーパークラフトの紙製組み立てふろくやすごろくみたいなゲームなどの紙製の遊びふろくと、B6判32ページ、48ページ、たまに厚い64ページの別冊ふろくが3~5冊着いてた。それ以前は少年雑誌の別冊ふろく合戦で8~10冊着いてたが、僕が読み始めた頃はだいたい4冊程度に落ち着いてた。

 

 当時の「冒険王」連載の漫画、「ザンバ」は石川球太先生のジャングル-サバイバル·冒険漫画で、まだアフリカが暗黒大陸と呼ばれていた時代背景の、和製ターザンものの少年版だ。「冒険王」誌上連載期間は1962年3月号から64年8月号まで、この時代の連載漫画としては長期間の長編漫画だ。

 同じ石川球太先生作画で1961年に週刊少年サンデー誌上で「少年ケニヤ」が連載されている。サンデーの1961年4月から62年4月までの調度1年間で、実写ドラマがテレビ放送されたのが61年5月から62年2月までなので、それに合わせたコミカライズですね。「少年ケニヤ」は作家·山川惣治氏の、新聞連載された大ヒット絵物語で、山川惣治氏の原作の初出は1951年10月から55年10月まで、当時の新聞に絵物語として連載されている。

 僕が週刊少年サンデーを読み始めたのは1963年5月からなので、漫画版「少年ケニヤ」は当然読んでいないし絵も見た覚えがないですね。

 

 「少年ケニヤ」は、暗黒大陸アフリカ-ケニヤに取り残されて孤児となったワタル少年が、マサイ族他部族たちや猛獣などと絡み合いながら、ジャングルでサバイバルする少年冒険活劇。まだアフリカの数多くの原住民の黒人たちを“土人”と読んでいた時代ですね。

 山川惣治氏は戦後直ぐに作画した「少年王者」が巷で大評判となり、紙芝居、単行本、雑誌連載と続けて人気を博した。続いて「少年ケニヤ」も大人気となる訳ですが、どちらも暗黒大陸-アフリカ舞台の日本人少年サバイバル冒険もの絵物語ですね。

 山川惣治氏は絵物語作家ですが、僕は文章を書いてるのが山川惣治氏で“絵”の方は別に作画者がいるものと思い込んでました。山川惣治氏は絵物語作家だから文章も絵も書いてたんですね。

 戦後直ぐの時代は絵物語が児童紙媒体娯楽のメインで、漫画が絵物語に打って変わって主座に着くのは昭和30年くらいかなぁ。昭和20年代末くらいからだろうか。それまでは児童向け雑誌のメインを張っているのは絵物語でしたね。

 「少年ケニヤ」の新聞連載が終わったとき、僕はまだ生まれてません。テレビドラマ版が大人気放送されてたとき、僕はまだ5歳ですね。僕の6、7歳当時「少年ケニヤ」は何度か再放送されて見ているのでよく覚えています。

 「少年ケニヤ」は1984年、東映の角川映画で長編アニメ映画化されて劇場公開されてますが、僕はこれは見ていません。 

 石川球太氏オリジナル漫画の「ザンバ」も物語設定は「少年ケニヤ」とよく似ています。同じように日本人少年がアフリカのジャングルで原住民-部族や猛獣と絡んでサバイバルする、冒険活劇漫画です。

 僕が初めて「冒険王」を読んだときまだ6歳で、「冒険王」この年の3月号を読んだときから7歳になる訳だけど、子供の頃の僕はあんまり利口な子供じゃなくてデキの悪い子、ま、要するにバカ領域の子供でいわゆる劣等生で頭悪くて、漫画も子供向けでもあんまり難しいのは駄目で、内容が濃かったり深いのは駄目で、単純に正義の味方が悪い奴らをやっつける勧善懲悪ものが大好きで、6歳~7歳の僕には暗黒大陸アフリカのジャングルが舞台の少年冒険譚「ザンバ」は少々難しかったのか、当時はちゃんと読んでなかったですね。

 

 「ザンバ」も10歳くらいになってたら、バカガキだった僕でもちゃんと読んだんだろうけど。6歳7歳時の僕は脳たりん度がひどかった。当時の「ザンバ」は漫画絵をパラパラ見てたくらいでちゃんと読んでなかったですね。だから「ザンバ」の物語のストーリーの流れを咀嚼してちゃんと理解してない。パラパラ見て雰囲気味わった程度かな。

 僕が石川球太先生の漫画作品をきちんとちゃんと読み始めたのって、9歳以上か、10歳になった頃からだろうか。

 石川球太さんの漫画で僕が面白いと割りと熱中して読み始めた漫画は、1963年の「まんが王」6月号から始まったSFロボット漫画「巨人ロロ」からだな。僕はまだ7歳だけれども、この作品は正義の巨人ロボットが悪のロボットたちと戦う、SF漫画だからな。子供時分の僕は「鉄人28号」「鉄腕アトム」に代表されるロボットSF漫画が大好きだった。

 石川球太先生というと、狼や闘犬、野生サバイバルで苦闘する大型犬、野生の猛獣、ジャングル、大自然と闘う少年、などの大自然や動物を描いた作品が多く、そういったテーマ·ジャンルの漫画作品の専門家みたいに思われ勝ちですが、50年代末から60年代通しての漫画家-石川球太氏はさまざまなジャンルの漫画を描いてますね。

 石川球太氏は50年代後半は少女漫画も描いてたし、SF漫画、怪奇スリラーもの、野球漫画など熱血スポーツものも多い。代表的な作品は大自然が舞台とか、野生動物や大型犬の苦闘を描いたものが多いですけど。

 50年代後半~60年代は、少年誌の男性漫画家はさまざまなジャンルの漫画を描き分けてましたね。SF、熱血スポーツ、探偵·スパイアクション、ゼロ戦-太平洋戦争活劇…。少女漫画を描いてる男性漫画家も多かった。

 僕も10歳を越える年齢になると、石川球太さんの漫画もきちんとちゃんと読んでました。1966年の少年サンデー連載の、マンモスとかとも戦う原始時代が舞台の「原人ビビ」とか、「少年画報」の「魔山マウジンガ」、1967年「少年画報」のテレビ特撮-怪獣もののコミカライズ「怪獣王子」、1968年の少年マガジン連載「野生犬ザボ」とか。

 そういえば1965年の少年マガジン連載、「牙王」は読んでたと思う。僕はまだ9歳だけど。内容は忘れてるけど、狼と犬の混血種の大型犬の苦闘の物語ですね。北海道の大自然が舞台。日本の動物文学の第一人者、戸川幸夫氏の小説「牙王物語」が原作の漫画作品ですね。

 石川球太氏の漫画作品には「野生犬ザボ」「人喰い鉄道」など、戸川幸夫氏を原作に迎えた作品も多いですね。

 60年代通して石川球太先生は少年雑誌に引っ張りだこの売れっ子漫画家で、さまざまな少年誌で連載や読み切り短編を見掛けましたね。

 ただ僕は、こういう言い方は大変失礼だけど石川球太先生の作品はそんなに大好きな漫画でもなかったので、雑誌連載のものは9歳10歳頃からちゃんと読んではいたけど、後にコミックス単行本で読み返したものはないと思います。無論、石川球太先生は僕が漫画を読み始めた時代から抜群に絵が上手く、ストーリーもしっかりしてて名作揃いなのですが、僕の漫画趣味の問題ですね。

 戸川幸夫氏の動物文学を原作に持って来てたり、脳たりん子供の頭には難しかったのかなぁ。石川球太先生の作品で僕が面白いとけっこう熱中して読んだのはSFロボット漫画「巨人ロロ」くらいかなぁ。あとは、恐竜と侵略宇宙人の出て来る「怪獣王子」とか。

 「ザンバ」はひょっとしたら貸本単行本にはなってるかも知れないけど、新書判コミックスの単行本化はされてないと思う。90年代にアップルボックスクリエイトからB6単行本が発刊されてるけど。

    

少年ケニヤ (上) (マンガショップシリーズ 32)

魔犬ムサシ キリマンジャロの風

石川球太短編集 魔山マウジンガ (マンガショップシリーズ 136)

シートン動物記 石川球太の野生シリーズ (1)

少年ケニヤ (下) (マンガショップシリーズ 32)

原人ビビ (上)

人喰鉄道〔完全版〕 (マンガショップシリーズ 158)

ツンドラ狼物語黒チビちゃん 2 (KCデラックス)

原人ビビ (下) (マンガショップシリーズ 20)

狼ジンギス汗 2 (講談社漫画文庫 い 12-2)

巨人獣 第1話

巨人獣 第2話

ヤマケイ文庫 野性伝説 羆風/飴色角と三本指

 石川球太さんの短編漫画でなぜか印象深く、記憶に残り続けてる漫画があって、この短編漫画は多分、わずか16ページくらいだったと思うのだけど、ひょっとしたら20ページあったかも知れない、でも多分16ページくらいで間違いないと思う、その短編は、1966年の講談社·月刊「ぼくら」の5月号に掲載された読み切り短編でタイトルは「ヘンナ君のヘンナ物語」。

 この「ぼくら」5月号は本屋さんで購入した雑誌で手元にあったので何度も何度も読み返して、お話もだいたい記憶している。何か好きなお話だった。病院内が舞台で主人公·ヘンナ君は入院してる子供なんだけど…。まぁ、ホラーっちゃホラーかな。オチでホラーでなくなるけど。一応、ホラー短編なんだろうな。ユーモア漫画ぽくもあるけど。今の時代ではあんまり詳しく書くとさしさわりがあるような。まぁ、ヘンナ君ですね。

 石川球太先生の「ザンバ」は子供のときから知ってたけど「少年ケニヤ」を石川球太さんが描いてたのは知らなかったなぁ。多分、大人になるまで知らなかったと思う。山川惣治氏の絵物語、オリジナル「少年ケニヤ」の存在は、多分、子供時代から知ってたと思う。読んだことはないけど。

 勿論、石川球太さんの「少年ケニヤ」は、テレビドラマ版「少年ケニヤ」の放送に当たってのコミカライズ版だけど。当時のドラマ「少年ケニヤ」は大人気-高視聴率のテレビドラマだった。一応、子供向けだったけど、たくさんの大人も見ていたと思う。大人の視聴者の評判も良かったと思う。

 やっぱり、日本人の未知の世界、暗黒大陸アフリカのジャングルが舞台というのが大きかった。昭和30年代の日本人って、そんなにアフリカだのジャングルだの知らなかったと思うし。70年代くらいまでは、今はアウトな呼び方だけどいわゆる“土人”という、アフリカの裸で槍とか持って猛獣を含めた野生動物を狩って原始生活をする、アフリカのジャングルの直ぐ近くのサバンナとかで暮らす黒人の部族、というのに興味津々だった。昭和30年代はみんな、南米のアマゾンのジャングルとかもほとんど知らなかったし。

 ジャングル冒険ものが流行した一番大きな要因は、日本のテレビ放送黎明期にアメリカ輸入ドラマ「ターザン」が大人気放送されたのが強いですね。後にアニメで「狼少年ケン」というジャングル冒険-少年ターザンものが、長期間連続放送されるし。

 アニメ「狼少年ケン」は一つのジャングルに狼の集団とライオンやサイ、ゾウ、トラなど世界中の野生動物が混在するというムチャクチャ設定でしたが。

 石川球太氏オリジナルの「ザンバ」は、石川球太版の山川惣治「少年ケニヤ」ですね。月刊「冒険王」連載当時の「ザンバ」は、雑誌連載されてた2年半の期間ほとんど常に別冊ふろくで着いてたし、だいたい本誌カラーページ掲載から別冊ふろくへと続くスタイルで連載されてた。当時の月刊誌の看板漫画は本誌カラーページ掲載から別冊ふろくへと続く形で連載されてた。「ザンバ」は「冒険王」の大人気漫画でしたね。

 テレビドラマ「少年ケニヤ」はSFヒーローもの「ナショナルキッド」の放送が終了した直ぐあとの、同時間帯の番組だったんですね。やはり、ナショナル=松下電器の一社提供で。僕は「ナショナルキッド」が大好きで毎週欠かさず放送を見てたと思うし、多分「少年ケニヤ」も毎週見てたと思う。「少年ケニヤ」が放送された61年5月から62年2月は、僕は5歳ですね。勿論、「ナショナルキッド」も「少年ケニヤ」も後の再放送でも見てるけど。再放送時は7歳くらいで見てるんだろうな。「ナショナルキッド」オリジナル初放送時は僕は4歳ということになるな。「ナショナルキッド」の記憶は再放送ではっきりしたものになったんだろうな。

 1961~62年の「少年ケニヤ」TV放送の冒頭タイトルバックの主題歌は子供の頃、好きな歌で、よく口ずさんでいたと思うが、歌詞の中の♪ナーダが味方だ という歌詞は、僕は最近までずーっと♪ガーナが味方だ と歌ってて、主人公ワタル少年を助けてくれる、マサイ族の酋長ゼガの名前がガーナだと思い込んでいた。完璧間違ってた。♪ナーダが味方だ と歌っていて“ナーダ”とはワタルが吹く笛の音が大好きでワタルの笛の音でワタルの味方をしてくれる、ワタルが危機に陥るといつも助けてくれる密林の大蛇だった。マサイ族の酋長-ゼガもワタルの味方だったよな。

 当時の僕は5~7歳くらいのまだまだ幼児域の子供だったが、何か「少年ケニヤ」のヒロイン、ケイトの魅力に参っていたように思う。まだ子供だったのにケイトにセクシーさを感じ取っていたんじゃなかろうか、と思う。

 ケイトもワタルのような身の上で外国人の少女ながらアフリカ部族の預言者に祭り上げられていて、一人二役でアメメ姫という少女もいたよな。同一人物か双子の生き別れか別人か、もう全く記憶してないけど。

 関みどりさんという女優がケイトをやっていて、僕は何か生まれて初めての異性への憧れをほのかに感じていたような気がする。初恋とまでは行かないけど。

 僕のまだまだ幼児域の時代の、初恋とまでは行かないけれど、生まれて初めての異性への憧れを感じた、当時のモノクロ·テレビの中の女性は、歌手の森山加代子さんと、「ナショナルキッド」の志村妙子=後の太地喜和子さん、それからケイト=アメメ姫役の関みどりさんかな。

 80年代後半の「テレビ探偵団」の放送回の中で、ある週のゲストが「少年ケニヤ」をリクエストして、もう1人のゲストとして、多分、そうだったと思う、「少年ケニヤ」でマサイ族の酋長-ゼガ役の当時の俳優さんが出て、当時の撮影の苦労話などをしていた。

 実際にアフリカまで行って撮影したのは背景だけで、役者の演じる物語のほとんどは日本で撮影されてて、ジャングル場面は日本の山中の森林で撮影したらしい。

 ゼガ役の方が、冬場に山の中で裸で撮影したのでとにかく寒くて堪らなかったと話していた。このとき、長野の山林の中と聞いたように僕は記憶してたが、ネットで「少年ケニヤ」の撮影場所を調べて見ると、神奈川県内の山林だったと書かれてますね。

 おもしろいのは、登場人物にアフリカ原住民の部族が多いのに、役者は全部日本人で、腰布以外裸だからみんな顔も身体も黒塗りして黒人感を出してる。

 幼少期はそんなこと何も解らないから毎週、興奮して見てましたね。多分、実際にアフリカでロケしてるとか思って見てたんだろうな。ほとんどの出演者が日本人でほとんどのロケ地が日本の中だとは。子供だから部族が全員、黒塗りした日本人だとか気付かなかった(考えなかった)かな。

 5歳の僕が心惹かれた美少女、関みどりさんは「少年ケニヤ」以外にもさまざまなテレビドラマに出演しているようです。僕が唯一記憶しているのは1965年のドラマ「空手三四郎」のヒロイン役だけですね。他にもドラマ「柔道一代」とか、当時の刑事ものドラマの1話脇役とかに出ていたみたいですね。ドラマ「隠密剣士」の1話の姫様役とか。当時のいろんなドラマの脇役·端役で出演してるみたい。劇場映画の出演もあるようですね。

 関みどりさんは何でも1947年生まれらしくて1970年には俳優業を引退してるのだとか。1961年放映の「少年ケニヤ」当時は14歳くらいだった訳か。

 

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