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「アトミック・ゴロー」-月刊誌ぼくら連載-

 僕が講談社の当時の児童月刊雑誌「ぼくら」を初めて読んだのが1963年の「ぼくら」3月号だと思う。みずがめ座生まれの僕が7歳になったばかりの頃だ。

 当時のまだ幼児域の最終段階頃にあった僕は、テレビの子供向けの超人ヒーローものの勧善懲悪ドラマが大好きで、その「ぼくら」3月号には目玉の超人ヒーロー漫画が乗っていなかったので、そこから何ヵ月かは「ぼくら」は購読しなかったんじゃないかな。

 その少し前の1958~62年頃までの「ぼくら」には「七色仮面」「少年ジェット」「ナショナルキッド」といった勧善懲悪の超人ヒーロー漫画が連載されていたのだが。

 当時の僕は、SFロボット漫画も大好きだったから「鉄腕アトム」「鉄人28号」の掲載された光文社の児童月刊誌「少年」を毎月購読した。

 子供時代の僕はとにかく少年漫画雑誌が大好きで、小遣いの余裕さえあれば幾らでも漫画本を買って来てた。毎日、当時の貸本屋に通っていた。

 結局「ぼくら」もまた購読し始めた。「ぼくら」もね、63年の秋頃の例月号からは僕の好きなヒーローものが連載され始めたんだよね。7歳とか8歳とかの幼児に毛が生えた子供だから、まだ毛は生えてなかったろうけど、幼稚な子供だからヒーローものやSFロボットものやテレビでアニメ放映されてる漫画が好きだった。

 「ぼくら」にSFロボット漫画の「アトミック·ゴロー」が連載され出したのが1963年の11月号からだ。僕はこの頃から月刊誌「ぼくら」を毎月購読し始めた。64年頃になると「アトミック·ゴロー」の他にも、テレビの少年ターザンものアニメのコミカライズ「狼少年ケン」、同じくテレビアニメの輸入もの「冒険少年JQ」、テレビアニメ「宇宙パトロール·ホッパー」、スパイアクションヒーローもの「スパイキャッチャーJ3」、テレビアニメの忍者ヒーローもの「少年忍者·風のフジ丸」などなどと、主人公のヒーローが活躍するアクションものや忍者ものなどが連載陣に多くなった。

 だから僕は講談社の月刊誌「ぼくら」を1964年頃からは欠かさず毎月購読するようになった。僕の「ぼくら」毎月購読は13歳の中二頃まで続く。

 僕は、多分、66年の4月くらいまで、近所の貸本屋に毎日通っていたから、当時毎月発行されていた少年向け月刊雑誌、「少年」「冒険王」「少年画報」「少年ブック」「まんが王」も66年の4月号か5月号までは毎号読んでいた。

 当時の僕に取って漫画本は特別なものだったから、漫画雑誌は貸本屋で一泊二日で借り読みするよりも、やはり手元に置いておきたかった。だから貸本屋で安価で借りて読むことができても、手持ち小遣いの額の許す限りは市販の本屋で漫画本を購読した。月刊少年誌は特に「少年」と「ぼくら」と秋田書店発行の「まんが王」を買った。

 月刊誌3冊買った月もあれば、「少年」と「ぼくら」か「まんが王」のどちらか1冊という月もあった。

 光文社の「少年」は1963年の3月号からだいたいほとんど毎月購読して、横山光輝先生の「鉄人28号」が連載終了した66年5月号頃まで買った。65年の秋頃からはもう買ってなくて貸本屋で借りて読んだのかも知れないな。雑誌「少年」の別冊付録が薄いB6冊子何冊かの形態をやめて、A5か変形B5くらいのけっこう厚い本に漫画作品を4本くらい収録した「少年パンチ」の形になってからは、「少年」はあんまり購読しなくなった気がする。

 秋田書店の「まんが王」は1965年の5月号あたりから付録を全廃して、本誌のみ一冊本の形になって、値段を付録分さっぴいて安くした。その頃から「まんが王」は市販書店で買わなくなったかなぁ。

 僕は戦後に誕生して昭和30年代に隆盛した月刊少年雑誌の、B6の薄い冊子の漫画が何冊も付録で付くのが大好きだったのだ。僕が愛読した昭和38年から41年頃まではB6冊子形の漫画付録が3~5冊付いていた。僕が漫画を読み始める以前の、昭和32年33年頃から37年くらいまでは、各少年月刊誌が別冊付録合戦をやってて、多いときは別冊付録の薄い漫画本が8冊から10冊も付いていた。僕の1歳2歳時から5歳6歳時くらいまでのことだから、実際には僕は知らない。

 月刊誌「ぼくら」の1963年11月号から連載の始まったSFロボット活劇漫画「アトミック·ゴロー」の作画者は楠高治氏だった。「アトミック·ゴロー」のことは大人になってもいつまでも覚えていたけど、この漫画に原作者が付いていたのは知らなかった。

 後々気が付くが「アトミック·ゴロー」は、原案-関沢新一、原作-新井豊、まんが-楠たかはる、となっている。作画者の楠高治氏といえば代表作はアニメのテレビ放送となった「遊星仮面」ですね。「遊星仮面」の漫画は集英社の月刊誌「少年ブック」に連載されてた。「少年ブック」に連載された期間は1966年7月号から12月号までの半年間ですね。

 楠高治先生は桑田次郎先生の弟子筋で、長らく桑田次郎先生のアシスタントをやってました。桑田次郎先生といえば昭和前半の大人気漫画家で、昭和30年代いっぱいから昭和40年代中頃までは、少年漫画雑誌に引っ張りだこで各少年誌に連載を持つ超人気漫画作家でした。「まぼろし探偵」や「月光仮面」が少年誌に連載が始まった頃から先の15年間は漫画家としては超多忙な作家生活を送っていたと思います。

 楠高治先生は桑田次郎先生の代表作の一つ「月光仮面」の終盤を単独で作画していますし、またもう一つの桑田次郎代表作「8-エイト-マン」の最終回を代筆しています。

 師匠の桑田次郎氏の手伝いばかりでなく、昭和30年代後半から40年代前半には、「アトミック·ゴロー」のような楠高治先生単独の作品も連載、読み切り短編共にけっこう少年雑誌に掲載されてますけどね。

 SFロボット活劇漫画「アトミック·ゴロー」は、主人公の少年が乗り込み式ロボットの最頂部でもないか額にあたるような窓の部分に乗って座って、操縦というか、ロボットは今で言うAI 、それも高性能AI で、操縦士の少年と会話しながら自立で動く、鉄腕アトムみたいな電子頭脳ロボットでありながら、鉄人28号みたいな巨人ロボットです。

 巨人ロボットというか、巨大な大砲の弾のようなフォルムで、真っ黒い鋼鉄巨体にぐいーんと伸びる二本の腕手があり、足はあったのかなぁ?飛行ロボですね。

 乗り込み式ロボットというとエヴァンゲリオンよりも前にマジンガーZが有名ですが、「アトミック·ゴロー」はマジンガーZよりも何年も前に描かれた作品ですね。乗り込み式ロボットが主役の漫画では一番最初じゃないかな?

 いや、藤子F不二雄氏の「すすめロボケット」の方が少し前か。「アトミック·ゴロー」が1963年なら藤子氏の「すすめロボケット」は62年ですね。

 藤子不二雄A氏の「スリーZメン」にも乗り込み式ロボットは出て来るけど、こっちは完全に飛行機の形で主役ではないですしね。「スリーZメン」は64年か。

 「アトミック·ゴロー」の漫画の表紙やコマ絵を見ると、乗り込み式ロボット-ゴローは、主人公の守少年が乗り込んだとき、頭頂部に透明な球形窓が出るみたいですね。乗ってないときは窓部は塞がれてるみたい。

 足はあるんだろうか?空を飛ぶときは丸い身体の最下部四隅に火を吹くロケットが付いてて、その四つの小型ロケットで噴射して飛ぶみたい。二本の腕手が出る他は、幾つかのドリルが出て地中を進行できるみたいですね。

 ゴローはずんぐりむっくりした大砲の弾フォルムの真っ黒い楕円形に近い、乗り込み式ロボット。

 守少年がこれに乗り込んで、AI -ゴローと対話しながら、悪の巨大犯罪組織と戦って行く。敵のジェット戦闘機や飛行ロボットなどとの空中戦が多いみたいですね。

 無論、僕は1963~64年の雑誌「ぼくら」誌上リアルタイムで「アトミック·ゴロー」全編読んでるのですが、その後、コミックスなど単行本で再読したことはなく、乗り込み式ロボット-ゴローのことは覚えていたけれど、数十年前の漫画の詳細は忘れきってます。

 この文章を書くにあたって、1963年64年当時の月刊誌「ぼくら」をネットで検索して雑誌の表紙や中身部分を見てたら、63年の「ぼくら」に藤子不二雄A氏の「OK学校」というのがあって、そういえばこの漫画あったな、と懐かしかった。

 タイトルはカタカナで「オーケー学校」だな。作者表記は統一·藤子不二雄だけど、この絵柄は全般藤子不二雄A氏だな。

 僕は幼児の頃からラクガキ大好きで、家の中の壁という壁にラクガキして回ってた。小一·6歳頃から、親とか近くにいた大人とかがラクガキばかりしてる僕に紙を与えて、僕は家の中の壁などにしてたラクガキを紙に鉛筆で書くようになる。

 僕が小一の秋頃から漫画本を見るようになる。これは多分、年の離れた兄貴が近くで漫画本を読んでたからだ。しかし、幼稚園や保育園に行ってなくて学校大嫌いな僕は、なかなか字が読めなかった。僕が子供対象の漫画本を読めるようになるのは多分、小一·二学期の終わり頃だ。明けて小一·三学期に入り、7歳手前頃になって、ようやく漫画をバンバン読めるようになる。それまでは兄貴の読んでた漫画本をただ眺めるだけだった。

 商店街に住んでた僕は、隣家が文房具屋さんで、毎日のように隣で西洋紙を買って来てラクガキを書いてた。それが、僕が漫画をバンバン読むようになって、ラクガキが、漫画本に載ってるプロの描いた漫画絵の真似になる。

 小二に上がった頃には、僕のラクガキは少年漫画の真似絵ばかりでなく、ストーリーも真似た、漫画雑誌のストーリー漫画やギャグ漫画の真似漫画になった。まだラクガキの域を出ない漫画モドキの真似漫画だったけど。

 当時の僕の住居は前面に、親父の所属する会社の事務所が隣接してて、会社の若い社員が僕ん家の居住スペースに勝手に上がって来てた。特によく家の中まで上がって来てたYさんが、僕に大きなホッチキスをくれた。僕は隣の文房具屋で買って来た二種類の西洋紙を綴じて簡易冊子を作った。

 ホッチキスの弾も隣の文房具屋に売ってた。隣の文房具でHBやH、Bなどと濃さの違う鉛筆を買い、色鉛筆もセットで買った。僕は西洋紙を綴じて80~100ページの冊子を作り、そこにHBを中心に漫画を描いて行った。真っ白い良い西洋紙には色鉛筆でカラーで絵を描いた。

 僕は、「少年」 「少年画報」「少年ブック」「冒険王」「まんが王」「ぼくら」を真似して、自分オリジナルの漫画雑誌を作った。普通の鉛筆と色鉛筆書きだけど。

 市販雑誌を真似て別冊付録も作った。西洋紙を半分に切って綴じて。僕は毎日毎日、このオリジナル漫画雑誌作りをウキウキしながらやっていた。楽しくて楽しくてしょうがない独り遊びだった。毎日毎日没頭して鉛筆書き殴り漫画を描いて過ごしてた。学校の勉強なんて全くやらなかった。

 小学校の勉強は5段階成績の小一はオール1、小二は1.2.1.2になった。小三は2.3.2.3。 ごくごくタマに体育と図画工作で4を取ったことがあった。小学校六年間で最高の成績はオール3。

 自分オリジナル漫画は毎日描いてたなぁ。漫画を描いてるというより自分がオール作者となって漫画雑誌を作ってた。

 自分オリジナルの雑誌の誌名にどんなタイトルを着けてたかもう忘れてしまってるが、市販雑誌に似せたタイトルを着けてたと思う。「少年王」という誌名はよく使ってた。

 講談社の「ぼくら」を毎月毎号買ってたから、僕の作る漫画雑誌名もそれに似せて「ぼくも」という誌名を着けてた。

 「ぼくも」は二種類の西洋紙を綴じて80~100ページで、西洋紙を半分に切って10~18ページくらいの別冊付録を3~4冊付けて、さまざまなジャンルのストーリー漫画·ギャグ漫画を、その冊子に普通の鉛筆と色鉛筆で描き込んだ。「ぼくも」という雑誌モドキを作って楽しんでた。

 小学生時代、僕はこの独り遊びが楽しくて楽しくてしょうがなかった。別に誰に見せなくてもよかった。独りで作って独りで満足してた。完璧自己完結した遊びだった。

 中二くらいまで鉛筆書き漫画を描いてたけど、中学生になってからは雑誌モドキ作りというより、漫画作品を描いてたなぁ。自分なりの鉛筆書きストーリー漫画。冊子に何本も書き込んで行くのじゃなくて一本の作品を描き上げてた。

 中二·中三あたりからは鉛筆をやめて、ボールペンや細マジックのサインペンなどで描いてた。その内、製図用インクとペンで描くようになったりした。紙も西洋紙ではマジックやインクには薄くて耐えられないので、モゾウ紙やケント紙を使ったりした。

 しかし高校生になるとピタリと漫画を描くのをやめた。何だか高校生時代の僕は絶望的気分で灰色の青春時代を送ってた。とても青春なんて呼べるものじゃなかった。真っ暗に近いような灰色の毎日だったような気がする。

 子供時代にずっと続けて購読していた月刊誌「ぼくら」で、SFロボット漫画「アトミック·ゴロー」は好きな漫画だった。連載期間は一年間くらいだったけど、当時の月刊誌の人気漫画がそうだったように、本誌カラーページから別冊付録へ続く形式で連載されてた。

 雑誌「ぼくら」の楠高治先生の作品は1965年には「ミュータン島」というやはりSF漫画が連載されている。

 でも「アトミック·ゴロー」は後々、コミックス単行本化されてない気がする。多分、コミックスにはなってないんじゃないかな。「遊星仮面」の方はコミックスはどうか知らないけれど、2007年頃、マンガショップさんから復刻版で全3巻で刊行されたけど。「遊星仮面」も新書判コミックスでは出版されてないんじゃないかな。

 漫画版「遊星仮面」の単行本はアップルボックスクリエイトから1990年に復刻版が刊行されてますね。これは全2巻かな。

 楠高治先生の作品はコミックス単行本ではあまり見掛けないですね。

 楠高治先生は1936年生まれで、師匠の桑田次郎先生は1935年(昭和10年)生まれだから1歳しか違わないんだ。楠高治先生は2014年に亡くなられ、桑田次郎先生は2020年に亡くなられています。

 子供時代に愛読して楽しんだ、講談社の月刊児童雑誌「ぼくら」の思い出はたくさんありますね。

遊星仮面〔完全版〕【上】 (マンガショップシリーズ 201)

遊星仮面〔完全版〕【中】 (マンガショップシリーズ 202)

遊星仮面〔完全版〕【下】 (マンガショップシリーズ 203)

戦え!!アニメヒーロー大百科 (ジャガーバックス)

昭和特撮文化概論 ヒーローたちの戦いは報われたか (集英社クリエイティブ)

まんが宇宙開発事典 (学研まんが事典シリーズ 23)

 「アトミック·ゴロー」の作者クレジットの原案に名前のある、関沢新一さんって凄い方なんですね。従軍~復員経験の方で戦後の映画関係の世界でアニメ·実写映画の制作·監督·脚本に携わり、特に脚本では数々の東宝映画の作品の脚本を書いている。東宝のアクション映画から喜劇映画、ゴジラシリーズの特撮映画の脚本を多数こなしている方で、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」の金城哲夫·上原正三の師匠になる。

 金城哲夫さんは、円谷英二監督から関沢新一氏を紹介して貰い、関沢新一氏に弟子入りしたんだそうな。凄いビッグネームばかり。

 また、関沢新一氏は、昭和歌謡界では作詞業で数々のヒット曲を出し、レコード大賞の「柔」やミリオンヒットの「涙の連絡船」の作詞家でもある。

 「アトミック·ゴロー」の“原案”というから、SF系物語の基本設定やプロットを作った方なんでしょうが、こんな凄い人だったとは知りませんでした。関沢新一氏は、戦後昭和のエンターテイメントを作った人たちの1人なんですね。

 「アトミック·ゴロー」は原案が関沢新一氏で、実際に漫画脚本となるストーリーを書いたのは新井豊さんという作家さんなんでしょうが。一番肝腎な作画業は勿論、楠高治氏ですが。

 アニメ「宇宙パトロール·ホッパー」のテレビ放送は子供時分見てました。1965年の2月から11月までの放映なんですね。小三·3月期から小四の僕の9歳当時。「宇宙パトロール·ホッパー」のコミカライズ漫画版の作画者が、「遊星少年·パピイ」の井上英沖氏だったとは知らなかったなぁ。

 井上英沖氏も僕の子供時代に活躍した漫画家で、手塚治虫のアシスタント経験を持ち、横山光輝の弟子筋になるのかな。画風がちょっと横山光輝に似てますね。SFロボット漫画を得意とするし。横山光輝の光プロダクションにも在籍してたんですね。

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