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●映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(3)

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 劇場映画版の「ゼロの焦点」は2009年11月のロードショー公開で、僕がDVDで見たのが2010年の11月頃ですね。この映画が地上波初で放映されたのが2011年3月6日です。僕はDVDで見たので、TV放映は見ていません。あ、そうか。僕はこの2011年3月は目を悪くして入院していたんだ。そして入院中に、あの忌まわしき未曾有の大震災が起きてしまった。まあ、僕自身は入院中は、ただただTVで、信じられないような悲惨この上ない光景を、画面で見ているばかりでしたが。右目は普通に見えてましたからね。でも、実際には、2011年3月11日からそれ以降の数日は、まだ手術後の経過中で、安静中で、TVは見ていないですね。大部屋だったから、周囲の人たちの話から聞いたのでしょう。「ゼロの焦点」の地上波TV放映はもう一度やってますね。いつ頃のことかは記憶してないけど、TV放送の最後のところのシーンを見た覚えがあります。勿論、もう退院してしばらく経ってからのコトですが。まあ、僕は広末涼子さんはそれ程は好みの女優さんじゃありませんが、どちらかと言うと、中谷美紀さんの方が女優さんとしてはずっと好みですけど、中谷美紀さん、魅力的で素敵な女優さんですね。ちょっと痩せ過ぎな感も持ちますが、上品で綺麗です。良いなあ、中谷美紀。ええ~と、日本一、不幸な女の役が似合う女優さん、木村多江さんは申し訳ないけど、全くタイプじゃない。まあ、おまえ如きが言うな、ですけど。

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 僕が原作である小説の「ゼロの焦点」を読んだのは16歳のときで、読んだ季節は真冬で、物語の背景にピッタリでした。当時、非常に面白く読んでいるのですが、この後再読はしておらず、だいたいのお話の外郭は覚えていましたけど、細部はすっかり忘れてしまっていました。ただ、あの独特の寂寥としたムード、これだけは覚えていました。雪の能登半島の断崖絶壁。強風と雪、荒涼とした能登の風景。面白い物語でもあったけど、重たいお話でもあった。そういう雰囲気的なものは覚えていました。能登の断崖絶壁が最初から自殺の名所だったのか、この物語、「ゼロの焦点」の原作の小説と、1961年公開版の映画作品で、自殺の名所になってしまったのか、16歳でこの小説を読んで以降、僕の頭には「能登の断崖は自殺の名所」というのが焼き付きました。09年の映画作品をDVDで見て、ああ、そうか、こういうストーリーだったんだな、と思ったものでした。

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 僕の読書生活は16歳から始まりました。僕自身はもともと頭の出来そのものが悪いし、読書はメチャメチャ「遅読」なんですけど、高二の春、転向して来たクラスメートのM君から借りた、松本清張と五木寛之の文庫本で、当時の中間小説とか娯楽小説に嵌まり、その後、M君から清張と五木の作品の文庫本を幾度か借り、ついには自分で本屋で両小説家の文庫本を捜し、買い求めるようになりました。「遅読」といえど、ここからが僕の読書生活の始まりです。松本清張も五木寛之も当時のベストセラー作家ですけどね。当時の第一線の流行作家。その後、遠藤周作とか野坂昭如に嵌まって行く。野坂昭如には僕は明らかに影響を受けました。松本清張を読んでいたのは、ほとんどが高校生時代です。大人になって読んだ清張作品はわずか二冊くらい。高校生時代に深夜、勉強しているふりして読み耽っていて、一番面白かった松本清張の作品は、僕の好みで、第1位が「影の地帯」。これは本当に面白かった。もう、スリリングな謎解きサスペンス。第2位は双璧で、「蒼い描点」と「ゼロの焦点」ですね。第4位に「黒い樹海」とか来るのだろうか。僕は「再読」はほとんどしない人なので、無論、数十年前の読んだ本のことなんてどれも、細部はすっかり忘れてますけどね。「蒼い描点」はもともとが女性週刊誌の連載小説ですから、若い男女のロマンチック味も全体を覆うムード的にありますね。謎解き探偵役の主人公が若い女性の、雑誌編集者だし。それを助けるカッコイイ若い男、というか先輩編集者。あ、「蒼い描点」初出は「週間明星」だ。それで、若い女性読者好みな趣向のロマンチック風味で、読みやすく面白かったんですね。

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 「ゼロの焦点」のキーワードの一つに、「パンパン」というのがあります。今の人たちに「パンパン」とか聞いても、何のことやらさっぱりでしょう。「パンパン」の意味を知っているのは、もうけっこう年配の方たちになるでしょうね。少なくとも僕くらいの世代よりも上の方々なんじゃないかな。僕は昭和30年代初頭の生まれになるんですけど、多分、言葉自体は小学生の頃から耳にして知ってたんじゃないかなあ。ただ、意味までとなると、中学生くらいにならないと解らなかったと思う。特に僕は、子供の頃から、シモネタ言葉をくっちゃべって人を笑わすことはよくやってたけど、僕自身の実態は臆病で“ウブ”そのものだったし。これは太平洋戦争後に焦土と化し荒廃した日本で、極貧・赤貧の中で生き抜いて行くために、何よりもとにかく、食べるために「パンパン」になるしかなかった、という日本の国の悲しい過去の裏歴史の一面ですね。僕は現代、今のアダルトビデオ産業に於ける“本番”を見せているAV嬢も、あれは職業としては「売春」の一種だと思っていますけど、今の時代にほいほい「AV嬢」になるのと、戦後に「パンパン」になるのとは随分意味が違うと思います。もっとも僕自身は、生きて行くことが第一優先と考える人間なので、それで食べて生きれるのなら「売春」だって良い、と思っている者なのですけど。「売春」を生業にするのは、それは、あまり褒められたことではありませんけど、「売春」という仕事をして、食べることが出来て、とにかく生きて行けて、子供を育てて子供が立派に育ったのなら、それに越したことはないし。まあ、やらないに越したコトはない仕事だとは思うけど、生きるための最終手段としては‥、と思います。しかし、ハイソな世界でも「売春」やってる人もけっこう居るんでしょうけど。「枕営業」って言葉もあるくらいだし。援助交際とかっていうのもあるし。まあ、だから、この「ゼロの焦点」のキーワードの一つ、「パンパン」は、時代が時代なだけに、日本の悲惨な過去の歴史の裏面が生んだ、悲しい言葉ですね。しかしある意味、生き抜こうという生命力。「ゼロの焦点」は悲しい物語でもあります。謎解きミステリーだし、メチャ面白い小説だけど、けっこう重くもある。

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 「パンパン」の話をもう少し続けると、今の人たちには、フジTV・局アナのアイドルアナが、「~パン」とパン付けで呼ばれていますけど、「パンパン」とかいう言葉の音を聞くと、このフジTVのアイドル女子アナを想起してしまうんではないでしょうか。代表的なのが「アヤパン」で、以前には「チノパン」が居たり、今では「ショーパン」とか「カトパン」とかの、フジ第一線のA級人気アナが居る。比較的新しいフジ・アイドルアナには「ヤマサキパン」とか「ミタパン」とかも居るのかな。カトパンは現在のフジのエースですね。僕は小学生の頃、自分の生活の周囲で大人たちがよくこの言葉を口にしていたので、まあ、「よく」は聞いてもいなかったでしょうが、下世話な大人たちの俗っぽい会話の中に入ってて、自然と耳に残ったんでしょう。まあ、よくは解んないけど。「パンパン」からの発展形語で「パンスケ」とかありましたね。多分、中学生頃にはある程度、意味も解っていたろうし、戦後20年経ってもこの言葉はまだ残っていて、戦後に使われた本来の意味ではなく、何というか、異性間の肉体関係におおらかな女の人と言いますか、尻軽な人、性にだらしない女の人、男付き合いの派手な人、水商売の女性でモテて割とあっさりと肉体関係に入る女性とかに、蔑称の意味で「パンスケ」とか呼んだりしてましたね。いわゆる「立ちんぼ」と呼ばれる街娼なんかも、まだ「パンパン」と呼ばれたりもしてました。だから僕がけっこうイイ歳になって来て、比較的よくTV番組を、特にTVバラエティーを見るようになって、フジのアイドルアナを「~パン」とパン付けで呼んでいるのには、違和感がありました。まあ、TVの東京キー局の女子アナというのはいろいろとゴシップも多いし、週刊誌ネタにされてスキャンダルの上がる女子アナも多い。まあ、真面目で身持ちの固い女子アナさんも居るんでしょうけど、何か、ハイソな尻軽、セレブ尻軽、というイメージがある。だから、戦後に、卑猥な隠語的意味で影の流行語となった「パンパン」という言葉と、現代のアイドル女子アナのパン付け呼びは、何だかちょっとイメージ的に交錯する部分もあるようで、皮肉にイメージ被るなあ~、と思ったものでした。はい。まあ、知れたら、フジTVアナウンス室、激怒ものですね。※(終戦直後の“パンパン”とフジテレビ女子アナとは全く関係はありません。)

 清張作品の多くは、大衆娯楽小説寄りな作風といえど、優れた知的エンタティンメントで、日本文学史に名を残す現代文学の代表的作家、だといっても過言ではない、と思える昭和の文豪、松本清張の、戦後社会派推理小説群ですが、それら山ほどの傑作の中の一つ、「ゼロの焦点」の中の重要なキーワードの一つ、「パンパン」とは、戦後焼け跡の、ただ何かを口に入れて食べて生きて行くだけで必死の極貧の状況下で、進駐軍の米兵相手にその身体を売って、糊口を凌いだ悲しい女性たちに対する、冷酷な蔑称ですが、もともと売春自体は、売春とは世界で最も古くからある職業である、という言葉を昔、聞いた覚えがありますけど、古今東西どの時代にも、合法違法を問わず、とにかく存在した仕事ですよね。何年か前に、ドイツで売春が合法化され、その代わりに税金がエラい高い税率を課せられる、というニュースを聞いた覚えがあるんですけど、調べてみたら、ドイツの売春の合法化は2002年ですね。あれはどういうニュースだったんだろう? 済みません、そのニュースの詳細は忘れてますが、確か、税率が半端なく高い、という話でした。だいたい、ヨーロッパの国々は、現代ではほとんどが売春は合法化されているみたいですね。世界の売春事情は、良いことか悪いことか、まあ、メジャー宗教的には悪いことなんでしょうが、倫理観や道徳的にもどうなのか、世界的にも流れは合法化の方向へ行っている、ということみたいです。職業としての売春も自由主義の一環かなあ。ただ、特にヨーロッパ諸国など、売春の斡旋や営業行為、客引きなどを禁じている国もあるようですね。仲介業者が入ることを禁じている、とかですね。売春婦との客との極力1対1のシンプルな交渉ならOKだけど、ここに中間業者が入って斡旋や営業などなどをやって手数料等のお金を取って商売にしてはならない、ということなんでしょうね。管理売春はともすれば人身売買に繋がりますからね。現在でもあるのでしょうけど、昔から売春商売目的で人身売買が行われて来た悲しく暗い歴史は、これも古今東西何処の地域でもあった、あることです。僕も、売春する女性とそれを正当な対価金銭を払って買う男という、シンプルな関係なら良いけど、間に男や業者が入って、中間搾取的に金儲けするのは許せませんね。

 まあ、別に「売春」の話に、僕もあんまりこだわらなくてもいいんですけど、少なくとも僕が、男娼として売春して来た訳でも、売春に関わって来た訳でもなし。これはどっちかっつうと女性側の問題でしょうからね。買う男が居ることが悪いんだ、と言えばそれまでなんですけど。でも、モラル的に考えてどうなんかなあ。現代では成人女性の200人に一人の割合でAV出演している、という世の中だし。今のAVは九割以上が本番作品でしょ。「中出し」とか倫理的にどうなんかな。自由主義世界の自由恋愛なんだから、自分の性は自分がどうしようが自由だ、というのもどうなんだろうなあ。それほど、愛情とかいうものが介在しなくとも、快感や(国内法的には違法ですが)金銭が得られるなら、避妊さえちゃんとして病気さえ気を付ければ、自分の性はどうしようが勝手で、不特定多数と寝ようがそれは自由だ、というのはどうなんだろう。性のモラルなんてなくてもいいものなのか。まあ、これは大きく女性側の問題なのでしょうけど、私も古い昭和の人間なので、現代の性の自由には何か釈然としないものも持つ訳であります。「ゼロの焦点」の一つのキーワード、「パンパン」から、話が名作物語の本題から大きくずれてしまって、申し訳ないのですけど。どうなんだろう、女の性を自由にさせない、という考え方は、「男側の価値観」「男の支配性」から来てるものなんだろうか。抽象的になりそうだけど、これも難しい問題だな。この先、性は何処へ行くのか。まだまだ、「不倫は許されない」とかいう常識的認識は一般的にけっこう固くあるし、「恋人は一人でなくてはいけない」という考え方は崩壊してますね。眉を顰められたり後ろ指差されたり、というのはありますけど、何又とかセフレとか、ほぼ許されてるのではないですかね。それもある面、英雄視・豪傑視される部分もなきにしもあらずだし。まあ、いいか、「性のモラル」のことは。「ゼロの焦点」から大きく外れた。

 それでもまだ、「パンパン」のことを書くと、「パンパン」の語呂の音が比較的、可愛く聞こえるので、その語呂音から、例えば赤ちゃん紙おむつの「パンパース」とか連想しちゃうし、小学生の頃からアリナミンA25を常用していたという薬フェチの僕としては、昔お世話になっていたタケダの総合ビタミン錠、「パンビタン」の歌とかをつい思い出しちゃいます。♪パンパンパンビのパンビタン‥、というCMの歌。これも連想しちゃって、イメージとして、何だかパンパンのお姉さんが、現代では立ちんぼやコールガールのお姉さんやおばちゃんが、出勤前にパンビタン飲んで、「よーし、今夜は、はりきって5人は客取ってやるぞーっ!」と、元気良く出掛けてるみたいで。あと、「ピーターパン」とかも似た語呂音から、ピーターパンは男の子だから、ウェンディーあたりが、夜中に彼女の出来ない独身男性のもとに訪れて、恋人ボランティアとして相手してくれる、とかつい連想しちゃいます。ピーターパン(ピーターパンパン)も可愛い男の子だから、彼氏の出来ないHOMOの男性とかの下に行くのもアリですね。「パンパン」って意味を聞くと、とんでもないことですけど、意味を知らないで語呂音だけ聞くと可愛いイメージもありますからね。だから今のフジTVの有望アイドル局アナに番組で、「~パン」とパン付けしたんでしょうね。決して、フジの誰かプロデューサーが、「こいつら清楚で可愛いふりしやがって、局の有力上司やIT成金とか有名タレントとか、プロの野球やサッカー第一線選手とかと、見境なくバンバン寝やがって、このセレブ尻軽が!」ということで、ルックスの良い局アナに「~パン」と、パン付けで呼ぶようにした、という訳ではないでしょうからね。済みません。悪ノリし過ぎました。「ゼロの焦点」タイトルで、こんなこと書いてると松本清張ファンにぶん殴られますね。「パンパン」は一つのキーワードですけど、名作でメチャ面白い小説です。お勧めです、「ゼロの焦点」。映画作品も良いです、面白いです。

※ (2010-11/19) 「ゼロの焦点」..(1)

※ (2010-12/16) 「ゼロの焦点」..(2) 

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●映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(2)

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 記事巻頭(冒頭)の画像写真は、2009年公開の映画版「ゼロの焦点」の1シーンの画像です。中谷美紀さんも広末涼子さんも綺麗な女優さんですね。「ゼロの焦点」..(1)というタイトルの前回記事の続きの今回記事の「ゼロの焦点」..(2)なんですが、何故か続編(2)は、この間、というか先月11月26、27日に二夜連続で放送されたフジ系のスペシャルドラマ「球形の荒野」についての話から始まります。という訳で‥。

 フジTV系列で11月下旬に二夜連続放映されたスペシャルドラマ「球形の荒野」は、ドラマ全編は見ませんでしたが、他番組とチャンネルを切り替えつつ見まして、後半、二夜目ですね、は、物語終わりまでのクライマックス1時間は多分、ほとんど鑑賞したと思います。膨大な作品数を誇る戦後昭和の文豪、松本清張さんですが、僕は高校時代けっこう読みました。遅読きわまりない僕ですから知れてますけど、それでも思い出すままに、長編小説で、「蒼い描点」「影の地帯」「黒い樹海」「わるいやつら」「時間の習俗」「Dの複合」「点と線」‥。16歳から18歳までにはけっこう読んでますね。あと、「波の塔」というのもあって、これも新書判のカッパノベルスで読んだんだけど、この小説はミステリーというよりも、もろ恋愛小説で、それは清張さんだからミステリー味もあるしサスペンス味も入ってはいるんだけど、社会派風味ももちろんあったが、これは文句なく恋愛小説で、僕にはダメでした。一応ムリムリ読み上げはした記憶はありますけど。僕はもう高校生時代から恋愛小説というのがダメでした。小説の内容はね、あんまりよくは憶えてないんですよ。何しろ読んだのは僕が高校生の頃ですし。多分、3年生になってたと思うけど。この間、というか、今年は春から晩夏に掛けてNHK連続TV小説で「ゲゲゲの女房」を大人気放送してたでしょ。あのドラマの中で主人公の水木しげる夫妻が住居を構えて生活していたところが調布市内で、ドラマの背景によく深大寺という有名な社寺が出て来てたんですよね。僕は「波の塔」の物語内容はほとんど忘れながらも、小説の中の一つの背景に深大寺付近が出ていたのだけはしっかり覚えてたんですよ。だから「ゲゲゲの女房」のドラマの中で深大寺背景がよく出ていたのは、「ああ、深大寺とはこういう雰囲気の場所だったのかあ」と何だか懐かしいような気持ちで、ちょっと感慨がありました。僕は若い頃、東京で生活していた時期がありますが、その時代には調布市なんて行ったことはなかったですから。厳密に言えば一回だけ、仕事中で、社有車で営業移動中、運転する職場先輩の主任が、時間があるから自分の親戚を訪ねる、と調布市内のとある団地の一つのお宅にお邪魔したことがある。僕は関係ないんだが、自動車内で待っているのも何なので一緒に、お宅に上がらせてもらって昼飯をご馳走になった。だから一度だけ、調布市内には入ったことはある。話を「波の塔」に戻すと、この作品はミステリサスペンス性が弱くて、男女の三角関係とか不倫とか純愛とか、単行本になる前の初出掲載が女性週刊誌連載だっただけに、メインがもうドロドロ恋愛物語で、僕にはたまらなかったのですが、我慢して完読しましたが脳味噌に内容が残りませんでしたね。

 僕が、ムリムリ読んで何とか読み通して完読したけど、脳味噌に全然残らなかった本、というと、僕の人生では19歳頃読んだ、トルストイの「アンナカレーニナ」ぶ厚いの全3巻と、スタンダールの「パルムの僧院」が思い起こされる。19歳とか20歳の頃の僕は、有名な外国文学を読んでたんですねえ。あの時代の世界文学全集にスタンダードで入っているよーなヤツ。ほとんど文庫本でだけど。で、ジイドとかラディゲとかラクロとか長編でも比較的短いヤツは、まあまあ納得しながらというか、けっこう僕なりに解りながら読んでたんだけど、「アンナカレーニナ」と「パルムの僧院」は、はっきり言って活字追ってただけみたいな感じだった。まあ、形は完読はしたことはしたんだけど。要するに僕にはつまんなくて。話が飛んだなあ。で、「波の塔」は僕には面白くなかったけど、ミステリサスペンス味的につまんなかったけど、多分、文学性という意味ではけっこう優れた作品だったんじゃないでしょうか。はい。今さらながら、深大寺は、東京在住中に行っとけば良かったなあ。

 で、「波の塔」ではなくて、「球形の荒野」はどーも僕は読んではいないようでした。「球形の荒野」というタイトルは知ってました。僕が高校生の頃では、松本清張は大ベストセラー作家だったし、清張さんは、あの時代でも既に膨大な作品数を誇っていた。売れるから文庫では新潮でも角川でもいっぱい出てたし、後続の講談社文庫や文春文庫、中公文庫でも清張作品は、いっぱい刊行された。何よりも新書のカッパノベルズには清張さんの書いた作品は、膨大な作品数全部といっていいくらいに揃っていた。で、高校2、3年生時の僕はもう松本清張にはメチャメチャ興味があったから、本屋さんの棚にある本のタイトルは全部憶えるくらい見ていた。貧乏だったから見るばかりだったけど。ただ、当時は五木寛之も大好きでファンだったからねえ。清張ばっかし読んでた訳でもなかった。遠藤周作の小説も面白かったし、野坂昭如にはかなり影響されたし。そして何よりも遅読だから毎日毎日深夜読んでても、冊数読むのはそれ程は進まない、進めない。ま、元々アタマ悪いから遅読なんだけど。15歳からの僕はかなりの貧乏少年だったし、別に学校というところは好きじゃなかったし、多分、基本的にあんまりヒトツキアイしたくなかったからなんだろうけど、部活とかも入らなかったから、金持ってないんで、放課後は毎日、街の本屋さんに行って本をパラパラ眺めてた。街の本屋さんを3件じっくり回ってから帰宅する。そして深夜に五木寛之や松本清張を読書。

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 TV番組のドラマで見た「球形の荒野」で、鑑賞後ズバリ一番に感じたのは“ハードボイルド”ですね。田村正和扮するメインの謎の人物が解るに連れ、思い至ったのは“ハードボイルド”でした。僕が子供の頃や若い頃にイメージ定着していた“ハードボイルド”というのは、少々筋肉質の腕っぷしの強い、けっこうハンサム顔のタフガイが、卑怯な相手サイドに罠に掛けられ、始めはやられっ放しで形勢不利でも、クライマックスでは逆転し、悪いヤツラをこてんぱんに一網打尽、やっつけてのしてしまうカッコイイヒーロー、というものだと思い込んでいたんですけど、“ハードボイルド”というのは、もっと精神的なものですね。大人になって歳喰った今解ります。ドラマ「球形の荒野」で、一番スポットライトの当たる謎の人物、ドラマの鍵、田村正和扮する一方の主役の男こそが“ハードボイルド”でした。その行動、生き方。昔イメージしていた肉体的強靭さではなく、もっと、ずっとずっと精神的なストイックな強さ、ですね。しかし、TVドラマと小説は違いますからね。原作小説を読むとまた受ける印象も大きく違うのでしょう。多分。まあ、いいんです、別に。これはタイトル「ゼロの焦点」で書いている記事ですから。はっきり、僕は、昔々読んだ松本清張作品の数々でも、「球形の荒野」は読んでませんね。

 あ、“ハードボイルド”で書いときたい。昔読んだ、劇画なんですけど、漫画作品ですけどね、確か原作者が居て、原作は小説家だったように思うんだけど、何という題名の劇画だっけか、原作も漫画家も忘れたけど、その中の1場面で主人公の吐く言葉。これがカッコイイ。「ハードボイルドっていうのは日本語に直すと何て言うか知ってるか?痩せ我慢って言うんだ」。このセリフですね。正に“ハードボイルド”とはこれだと思います。

 あ、そうそう、思い出したんですけど、僕は、16歳のとき、高校二年生の一学期の始めに転向して来た不良の文学少年から借りた何冊かの文庫本から読書を始めた、とタイトル「ゼロの焦点」の記事1回目で書き記しましたけど、まあ、それが松本清張ミステリと五木寛之中間小説だった訳ですが、正確には僕は、このM君から借りた清張文庫本より前に、光文社カッパノベルズで松本清張のジュブナイル作品となる「高校殺人事件」を読んでいるんです。何でも松本清張のジュブナイル小説はこの1作だけなんだとか。確か、昔々の高校生向け学習雑誌、何々時代とか何々コースとかそういう高校学年誌に連載された読み物の、まとめた単行本ですね。どうしてこれを読んだのかというと、僕は小中学校と学力非常に芳しくない劣等生で読書はあんまりしたことがない超遅読アタマパー少年だったので、この不良の文学少年M君が貸してくれた大人向け文庫本を読めるかどうか自信がなかったんですね。だからウォーミングアップのつもりで、もっとずっと読み易そうな清張作品を本屋さんで捜して読んだ、と。だから、せっかく最初、文庫本を2冊貸してくれたM君に「おまえ、おっせーなあ、おまえ読むのホント遅えなあー」と随分、文句を言われた。けれど、無事、「高校殺人事件」も「点と線」や「張り込み」も読み終えて、僕は松本清張の虜になり、五木寛之大ファンとなり、目出度く僕が独り籠もりきり没頭し、ひたすらどっぷり浸水(心酔)しきる悦楽の、僕だけの世界を見つけ、精神的には見事ここに引き籠もった訳です。あくまで、まあ、精神的に、ですけど。

 という訳で今回の「ゼロの焦点」の(2)は目出度く終わり、次回「ゼロの焦点」..(3)へと続く。この記事は続きます。タイトル「ゼロの焦点」の(3)へと続いてしまう。

◆(2010-11/19)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(1)
◆(2010-12/16)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(2)
◆(2012-08/25)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(3)

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●映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(1)

 僕が小説「ゼロの焦点」を読んだのは16歳の冬です。6歳の頃から漫画に夢中になっていた僕は少年期、漫画浸けの日々でした。とにかく子供の日々、漫画本はよく読んでました。また、アニメでなく、本の漫画が大好きでほとんど熱中していました。中学生の頃、活字の本、子供向けの小説ですね、これは「シャーロック・ホームズ」ものは長編・短編ほとんど読みましたが、義務教育時代の僕の読書体験なんて、ほとんどそれだけです。もう少しだけ、少年少女向けの推理小説本を読んでるかも知れませんが、とにかく子供時代は活字の本は読まなかったですねえ。小学生時代は学業成績著しく悪く、いわゆる劣等生で、勉強に繋がるよーな「活字だけの本を読む」なんてことは全然しなかったのです。また、活字だけの本を読むのは苦手でした。それでも中学生になって、幼馴染の友達の勧めで「シャーロック・ホームズ」だけは読んだんですけど。ホームズもの推理小説は長短編全作に近いくらい読んではいますけど。まあ、義務教育期間の9年間はそれだけと言ってもいいくらいの読書体験ですねえ。激しく情けないけど。

 で、高校一年生の時に学校の図書館で江戸川乱歩の小説本を借りた覚えがある。けれど、僕は活字を読み進むのがひどく苦手で本を読むのがとても苦労していた。ものすごく遅読だし。だから、確か比較的新しく刊行された江戸川乱歩全集の中の1冊で、表紙の装丁や挿画が横尾忠則さんの全集本ですが、装丁そのものまでやってたかどうか表紙イラストが横尾さんだったかどうか、済みません記憶にないし調べてもいませんが、ぶ厚いB6(A5だったかも?)全集本の間に3枚くらいカラーイラストが挟んだ製本の全集本でしたが、その1冊を借りたはいいが、なかなか読み進めずに苦労していました。小学校の頃から勉強というものをやって来てないし集中力がなく、また小学3年生くらいで急激に落ちた視力は小四の時は0,1ピタリで止まってその後はずーっとそのままで視力そのものも悪くすぐに眼精疲労してしまう目だったし、まあ、小中学校の時代、国語の教科書さえまともに読んで来ていない読書苦手でしたからね、その高一で借りた江戸川乱歩の小説本も、到底まともには読めなかった。でも高一の時代には学校図書館でその全集本を2回くらい借りてるんですよね。無論別の本ですけど。どっちも到底読了出来てない。また他に、まともに全部読んでないけど、リアルに忍者の歴史を解説した本を借りています。こっちは興味を持ってけっこう読んだ。無論、完読はしてません。これは同じ本を2回借りた記憶がある。

 高校二年生になって一人の転校生と仲良くなりました。いつも一緒につるんで居るようになってました。この転向して来た友達が、ある意味不良少年のクセに、読書家だったんですね。ある意味不良とは、高校生のクセに喫煙は勿論のこと、学校帰りに神社で私服に着替えてパチンコをやるは、土日は転向して来た元の学校、元の地元に帰ってそこの仲間とマージャンしたり飲酒したりしているという。それでいて一人で居る時は本ばかり読んでいる。本って小説ですが、話を聞いてると太宰、芥川、漱石などを読んでいて、この当時の流行小説まで広く読んでいる。高校二年生で、大学生の女の娘と付き合ったりもしながらかなりの読書家でもある。家庭が裕福らしくいつでも充分に小遣いを持っている。まあ、だからパチンコもマージャンも出来るし、飲酒やタバコ買う金もあったんでしょうけど。田舎育ちの劣等生だった僕には、この転校生は都会的で洗練されて見えて、とても新鮮だったんですね。僕は学校の中ではこの転向して来た不良ぽい文学少年の友達とつるんでいたけど、下校してからの学校の外では一緒には居ませんでした。というのが、こいつは家が裕福なんでしょう、小遣いをいっぱい持ってたけど、この時代の僕は本当に貧乏で小遣いどころじゃなかった。

 僕は子供の頃から周囲に比べて比較的裕福な家庭に育っていましたが、15歳のとき家が破産して、その前と比べると雲泥の差の生活レベルの大貧乏になってしまっていた。高校に行けたのが奇跡的なくらいの貧乏でした。住んでいた家も中学校のときまでの玄関構えのしっかりした広い裏庭のある比較的大きな、まあ、あの当時じゃ割りと立派な構えの家から、それはもうボロボロのあばら家住居に移り住んで、隙間だらけの家は風通しが良過ぎて秋冬は寒いは、春も早春は寒かったでしょう、雨の日は盛大に雨漏りするは、強風でも吹こうもんならバタンと倒れてしまいそうなボロ家で生活していて、幼馴染やそれまでのかつて知ったる人たちに移り住んだボロボロ住居を見られるのが恥ずかしくて恥ずかしくて、極力、中学の頃までの友達や知人に会うのを避けたし、街で出会おうもんなら逃げ隠れしてました。それは当時の高校のクラスメートたちも同じで、絶対に生活する住居を見られまい、としていました。だからこの、クラスでは仲良くしていた不良の文学少年も、僕の家には絶対に連れて行かなかった。一度僕の家に遊びに来たがったんですが、とにかく阻止しました。「何だ、貧乏だからって、家がオンボロだからって、友達に家を見せるのを嫌がらなくたっていいじゃないか。貧乏はそんなに恥ずかしがることじゃないぞ」とおっしゃる方も多いと思いますが、これが小さな子供の頃から貧乏だったら馴れっこでそうでもないと思いますが、15歳という思春期に比較的良い方の生活レベルからいきなり、どーんっと大貧乏に落ちてしまうというのはこれはキツイですよ。貧乏落ちたての頃は明日食べる米がないといって家にない金目の物を何とか捜して捜してかき集めて、質屋に行ってわずかな現金を作ったりして凌いでたんですから。

 もともとは僕はとてもシャイですがとにかく面白いことをしてみんなにウケたいという自己顕示性も持ち合わせていましたし、小学生の頃は劣等生でも友達は多かった。反面ヒトミシリが強くて内気だけど反面はけっこう明るくて友達付き合いが良かった。そんな僕は思春期に大貧乏に落ちて雨漏りと寒風吹きすさぶあばら家に住んで、内気が増幅し自分に籠もる方の性格ばかりが強く成ってしまった。とにかく自分に籠もるばかりの性格にかなりシフトしてしまったんですね。高校生の頃は学校では友達は居ましたし、みんなイイヤツばかりでしたが、僕は学校外では全く人付き合いしなくなった。休みのアルバイトとかは行ってましたけどね。でも、自分で言うのも何ですが、何処でも心を閉ざしがちになりましたね。だから高二になってすぐに「読書」を覚えたのは、自分に閉じ籠る世界を作る絶好のものでした。自分の籠もるべき世界を見つけて有り難かった。

 この高二の学年始めに転向して来た不良の文学少年M君は仲良くなって間もなく、僕に2冊の文庫本を貸してくれました。はじめ2冊、その次にまた2冊。これで僕は大衆小説の虜になった。正に自分に籠もりきる世界の発見です。4冊の作家はどちらも松本清張と五木寛之。このときM君が貸してくれたのが堅苦しい日本文学なんぞではなかったのが良かったんでしょうね。はじめの2冊は五木寛之の方は短編集で、松本清張は多分「黒い画集」という短編集だったと思います。相変わらず僕は読むのが遅くて何度もM君に「何だ、まだ読み終えないのか!?」と呆れ気味に文句を言われました。僕は、目が悪いのもあるんでしょうけど、小学校のときから活字が苦手で、漫画でもコマの中にかなりスペース割いて説明文が入るのは読み飛ばしてました。出来るだけ活字のない、極力簡単なセリフだけの漫画が好きでした。まあ、生まれながらのアタマの出来が解ろう、というもんですけど。で、苦労しながら読んだぶ厚い松本清張の短編集は面白かった。やっとのことで2冊読んでM君に返して2回目貸してくれた。1冊は松本清張の「点と線」。もう1冊の方はよく覚えてないけど、多分、五木寛之の別の短編集でしょう。それかひょっとしたら松本清張の別の短編集、「張込み」だったかも知れない。「目の壁(眼の壁)」かな?

 読み上げるのは遅いが僕は、松本清張の世界にどっぷり浸かって行きました。清張や五木寛之の小説を読んで、その世界に入り込むとなかなか奥深い。僕は完全に松本清張と五木寛之の世界に魅了されてしまった。M君から小説本を借りたのは最初の数冊までで、後は自分で買って読みました。田舎の公立高校の学校図書館には流行小説本なぞ置いてなかったのです。市立図書館、というのはアタマに浮かばなかった、思い付くことがなかった。え?どうしてそんなに貧乏な家の学生なのに流行小説の本が買えたのかって?それはね、僕は最初、母親が朝作ってくれる弁当を持って学校へ行ってたんだけど、途中から毎朝昼飯代に百円玉1個貰って行くようになったんですよ。あの時代は公立高校の食堂で百円1個あればカレーライスでもうどんでも定食でも食べれた。僕は本代欲しさに毎日昼飯を抜いたんですね。それで学校帰りに、新潮文庫、角川文庫、講談社文庫の小説本を買って読んだ。貯めた百円玉が増えればハードカバー書籍も買って読んだ。松本清張は文庫本で続けてかなり読んで行きましたねえ。五木寛之もカッコ良くて大ファンになった。他には、遠藤周作や野坂昭如が多かった。遠藤周作はあの時代、狐狸庵山人という仮名を冠したエッセイ本がベストセラーで大流行でしたが、僕は遠藤周作は小説本はいっぱい読んだけど、エッセイ本は読んだことないですね。遠藤周作さんは大衆文学の娯楽小説も純文学も書き分ける、とても器用な作家さんだった。娯楽小説も抱腹絶倒系もホラーもあれば、思わず涙する悲哀な感動小説もあった。野坂昭如さんは高三のときには僕は、何だか野坂信者のようになっていましたね。野坂昭如のエッセイ本や評論にはかなり影響された。

 高二の始めに転向して来たM君とも僕が高三になるとクラスも違い、一緒に居ることもなくなった。高三のクラスではまたいっぱい友達が出来、親友も居た。高二の頃はかたくなに殻に籠もったように、学校から出ると友達付き合いはほとんどしなかったけれど、高三の頃は学校が退けての校外でも友達とつるんでることも、けっこうありましたね。M君とは高三になってからはほとんど付き合いはなかったですね。

 ※という訳で、今回のお題タイトルの「ゼロの焦点」にまだ全然触れることなしに、どこが「ゼロの焦点」なんだ!?というくらいに上記の話に「ゼロの焦点」が入って来ない、状態の中で今回の記事は終わりを告げて、終わりを告げるって、要するに次回へ「続く」んですけど、そういう訳で次回へ続く。この記事は、「ゼロの焦点」..(2)へと続きます。待たれよ次回。

◆(2010-11/19)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(1)
◆(2010-12/16)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(2)
◆(2012-08/25)映画&小説・・ 「ゼロの焦点」..(3)

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