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●漫画・・ 「カックン親父」

 昭和30年代貸本の生活ゆかい漫画、「カックン親父」は、作者・滝田ゆう氏が、「のらくろ」で一世を風靡した戦中・戦後のメジャー漫画大家、田河水泡氏の内弟子から、1956年、貸本漫画家として独り立ちし、その後、1959年から描き始めた、滝田ゆう氏の貸本時代の代表作です。はっきりとはしませんが、滝田ゆう先生は、「カックン親父」を貸本で65年くらいまで描いていたと思います。

 漫画家・滝田ゆう氏というと、代表作として名前の上がる作品は「寺島町奇譚」ですが、僕はこの作品があんまり記憶にない。この漫画もある種、名作の誉れ高い漫画作品なんでしょうが、僕はきちんとちゃんと読んでいない。パラパラ見た程度くらいしか、読んだ記憶がありません。「寺島町奇譚」は1960年代末の月間雑誌、「ガロ」に連載され、当時、一部で注目された名作漫画の一つです。一部とはマニアのことで、「ガロ」自体が、マニア好みの漫画誌でしたからね。白土三平氏の「カムイ伝・第一部」が連載終了した後の、「ガロ」の内容では特にそうでしょう。掲載されてる漫画作品の内容から、「ガロ」自体はマニア向けと言っても良い、商業ベース度外視の編集方針の漫画雑誌でした。新しい若い才能の、実験的な内容の漫画作品も多かった。「寺島町奇譚」は「ガロ」1968年12月号から連載が始まり、70年1月号まで掲載されました。その後に、71年の新潮社の中間小説誌「小説新潮」の別冊号にも、何編か掲載されてるようですね。何て言うか、ちょっとシブい、玄人好みの漫画、かな。

 滝田ゆう氏というと、僕に取っては、「カックン親父」と「爆笑ブック」ですね。どちらも貸本漫画です。当時は貸本漫画の刊行を主体としていた、この時代の東京漫画出版社から刊行されていた、貸本の漫画本ですね。「カックン親父」は単一漫画の単行本で、「爆笑ブック」は当時の、ゆかい漫画のオムニバス誌でした。「カックン親父」は生活ゆかい漫画で、今で言えばジャンルはギャグ漫画ですが、当時はギャグ漫画という呼び名はなく、このジャンルは総称して“ゆかい漫画”と呼んでいました。滝田ゆう氏の「爆笑ブック」掲載分も、作品は「カックン親父」の中・短編で、だいたい「爆笑ブック」の巻頭カラー漫画として収録されていました。「カックン親父」の内容は、主人公がいつも着物姿でぶらぶらしているような、鼻髭すだれ(ハゲ?)頭の中年オヤジで、子供向けギャグ漫画というよりも、どちらかというともう少し年上の青少年以上、あるいは大人を読者対象としたような、そうですね、ジャンル的に同じような感じといえば、ちょっと「サザエさん」の内容にも似た、ファミリー生活ゆかい漫画でしたね。

 僕が当時住んでいた家の近所の、貸本屋さんに毎日通っていたのは、小一から多分、小五までです。毎日です。毎日、貸本二冊を必ず借りてました。月刊雑誌を借りるときは、付録ともどもで二冊。当時の児童漫画月刊誌は、B5の本誌の他に、B6の別冊付録がだいたい5冊から3冊付いていて、貸本屋はこの数冊の別冊をまとめて糸綴じして、一冊本にしてました。で、本誌と付録で二冊。たいていは毎日、貸本漫画二冊借りて帰るのですが、僕は当時小学生ですが、たまに月刊明星や月刊平凡という、芸能情報誌を借りることもありました。貸本漫画も月刊誌も借りて読んで、新刊もまだ入荷されなくて、もうあら方読む漫画本がなくなったときは、仕方なく読んだ本をもう一度、借りて帰ることもありました。

 だいたい、小一から行き始めた貸本屋通いは、僕は初めの頃は多分、まだ字が読めない頃で、7、8歳歳上の僕の兄の使者というか、パシリで通ってた訳で、多分、初めの頃は、僕は、漫画本の絵だけ眺めていたんだと思います。それでも絵本の好きだった僕は、当時も楽しかったのかも知れない。それから毎日毎日、貸本を借りに通い続けた。小一も三学期に入った頃は、僕もひらがなは読めるようになっていたから、毎日通っている内には僕自身、漫画の虜になって行きました。兄貴のお使いで通ってた貸本屋が、その内、自分が何か新たな漫画が読みたくて、毎日通った。でも主導権は7、8歳歳上の兄が持ってますから、一度借りた本を再度借りて帰ると、よく文句を言われました。

 僕は料金は先払いで、今で言うレジになる、一人座り用の小さな粗末な、簡易作りのカウンターの、店番のお爺さんかお婆さんに、貸本屋に入ると直ぐに、貸本二冊分の料金を置いて渡してた。で、しばらく本棚を見回して、借りる本がなかったときに、もともと人見知りが強く内気で小心臆病、他者に気を遣いまくる僕は、最初に渡したお金を、返してと言えなかった。だから、仕様がなく、一度読んでる本をまた借りて帰ってた。で、帰ると兄貴に「一度読んだ本を何故また借りて来たのか」と、文句を言われる。で、貸本屋の爺さん婆さんには、店に入って直ぐにお金を払う、通い初日からのルール変更を、気を遣い過ぎて言い出せない。だから、読む本がなければ仕様がなく、また同じ本を借りて帰る。また兄貴に文句を言われる。

 借りるものがなくて、少女向けの漫画本を借りて帰ったりしたときも、兄貴に多分、文句を言われていたんだと思います。それなら自分で借りに行け、って話ですけど、兄貴が貸本屋に行ったのは、最初に僕を連れて行ったときだけで、後はほとんど行ってないですね。ただまだ小一の頃ですが、兄貴が月刊誌を借りて来いと僕に指示して、六歳の僕が理解できずに小説本を借りて来たり、月刊誌の付録綴じ合わせを二部借りて帰って来た翌日は、僕が理解できないのだと踏んで、自分が月刊誌を借りに行ってました。僕の記憶する限り、それくらいですね、兄貴が貸本屋に行ったのは。僕の記憶以外に、兄が借りに行ったこともあるのかも知れないけど、もう他に何も憶えてない。まあ、何十年も昔の子供の頃の話だし。

 僕が毎日貸本屋へ通っていた当時、僕は小学生ですし、しかも学業成績劣悪な、劣等小学生です。漫画も当然、そんな難しい内容は理解できません。僕はもう、漫画に触れた幼少時からずっと、単純明快な勧善懲悪ヒーローもの漫画が大好きでした。後はまあ、子供向けのギャグ漫画も次点で好きだったかな。で、件の滝田ゆう氏の「カックン親父」ですが、ジャンル的には一応はまあ、ギャグ漫画なんですが、何しろ主人公は着物姿で一日中ぶらぶらしてる中年親父です。出て来る舞台は、昔の割りと都市部の町の、日本家屋の、何間かの和室の部屋と、その家の狭い裏庭と、家の立つ町内界隈。出て来る登場人物は、親父を中心とした家族とご近所の住人くらい。煙草屋の店先の婆さんとか、交番のお巡りさんとか、同じような近所のオヤジとか、それくらい。

 で、昔の新聞漫画での「サザエさん」みたいな、ファミリー漫画のほのぼの笑いネタに近いような、けっこう大人ウケの笑いの内容。超人やロボットや忍者大好きな小学生の僕が、面白い訳がない。同じ東京漫画出版発行の貸本オムニバス誌「爆笑ブック」も、巻頭カラー漫画が「カックン親父」の短編で、他の収録漫画も、似たような内容の“ゆかい漫画”の短編が三つくらいだったと思います。はっきり言って、小学生時代の僕は、このような漫画作品は面白いとは思わなかった。だから、毎日通う貸本屋さんであらかた読んで借りる本がなくなったときに、「カックン親父」や「爆笑ブック」を借りて来ていた。でも、借りて来たからには家で読んでましたけどね。僕は、あまりにも絵のヘタな漫画は読まなかったから、「爆笑ブック」の他の収録作品では、読まない漫画も多分、多かったんじゃないかと思います。当時の貸本漫画は玉石混交、絵がヘタクソな漫画も多かったですから。

 滝田ゆう氏の貸本時代の代表作、「カックン親父」は、そんなに面白い面白いと言って読んだ漫画でもないのに、何故か子供の頃の貸本漫画の記憶として、頭の中の片隅に残っています。あの当時のギャグ漫画の背景だから、細かく町の様子とか描き込んでいる訳ではないけど、「カックン親父」みたいな貸本漫画というと、昭和30年代の風景の記憶とかを呼び起こしますね。表紙の絵を見てるだけで懐かしいです。ノスタルジーに胸が響き、哀愁も含んだような、何処か寂寥感もあるような、それでいて甘く切ないような懐かしさ、かな。

 漫画家・滝田ゆう氏の代表作というと、大人漫画になりますが、やはり60年代末から70年代の、「寺島町奇譚」と「泥鰌庵閑話」でしょうね。滝田ゆう氏が少年時代に育った町が、昔の私娼街として有名だった玉ノ井で、「寺島町奇譚」は、その当時の自身の思い出をベースにした、何て言うのか、当時の風俗や情景を切り取った、伝記性の強い、ユーモアと悲哀や人情がないまぜになった、一話わずか数ページの短い、掌編漫画ですね(『寺島町奇譚』は一篇が2、30ページある、ちゃんとしたストーリーのある、物語となっている漫画作品です)。まあ、懐古的なエッセイ漫画かなあ。「泥鰌庵閑話」は、この当時の現代の、滝田ゆう氏のエッセイ漫画でしたね。70年代以降は滝田ゆうさんは、漫画家との付き合いよりも文壇仲間との付き合いの方が多かったでしょうね。漫画作品も中間小説誌とか文芸誌に掲載されることが多かったし、酒好きな氏が飲み歩くのも、文壇バーなんかが多かったんじゃないですかね。飲み屋好きで、住まいのあった国分寺界隈の居酒屋やバーを、よく飲み歩いていた、とありますから。

 あ、そうそう、それから氏の漫画の特徴の一つに、普通は登場人物の喋りを表す、いわゆる“ふきだし”に、セリフでなくて、人物の感情表現の簡単なイラストが入る、というのがあります。黙って立ってる人物の“ふきだし”の中に文字じゃなくて、何か小物の絵が入る。これが人物の心理表現になっている。これは「カックン親父」の時代の作画から使っていた、氏独特の手法でしたね。

 ちなみに貸本の単行本「カックン親父」は、50巻までも刊行されたんですね。貸本漫画で一定の人気があったのかな。

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泥鰌庵閑話傑作選 (ちくま文庫) 文庫 滝田 ゆう (著)

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(12)

12.

 小学校の校庭の隅の、花壇を四角く囲んだ縁石の一つに、和也は腰掛けて、姉が迎えに来るのを待っていた。五時限目の授業が終わり、ついさっき、この花壇まで来て腰を降ろしたばっかりだ。足元に置いたランドセルを開き、中を漁って、携帯電話器を取り出した。いわゆるキッズケイタイだ。時間と、メールの有無を確認する。新着のメールは入ってなかった。

 「お姉ちゃん、まだかな。まだだろうな‥」

 和也は小声で独り言で、そう言いながら、ケイタイをランドセルに戻した。いつも、中学生である姉・愛子の方が、授業が終わる時間が遅く、和也が、小学校や駅で愛子を待つことになる。学校の用事で愛子が、いつもよりももっと遅くなるときは、時には、和也が独りで先に帰ることもあった。勿論、その時は、愛子の持つ携帯電話に、メールを打って報せていた。

 広いグランドでは、友達どおしじゃれあいながら、校門方向へ向かう生徒たちが見える。和也の座る位置から対極の、遠いグランドの隅でも、三、四人の子供たちがランドセルを背負ったまま、ぐるぐる追い掛けっこをしている。他にも、下校に、会話をしながらグランドを横断する、女の子のグループが居る。校舎からグランドへ降りる階段にも、下校途中の子供たちのグループが見える。それらを眺めながら、和也は両手を挙げて伸びをした。

 「あ~あ、待ってるの、退屈だな。お姉ちゃん、早く来ないかな」

 和也はまた、独りごちた。

 「駅まで行って、待ってようかな…」

 和也は、先に一人で駅まで歩いて行って、駅前で待っていようか、と考えた。それには姉·愛子に電話を入れて、その旨、連絡しないといけない。和也は、横に置いてあるランドセルから、携帯電話を取り出そうと、ランドセルの方を向いた。

 「愛子ちゃんなら、今、こっちに向かってるよ」

 声が聞こえた。和也は顔を上げて、辺りを見回した。違う。これは、普通の呼び掛けじゃない。和也は気付いた。これは、自分の頭の中に直接、話してる。ハチさんだ。

 「ハチさん、居るの?」

 和也はもう一度、辺りを見回しながら、声に出して問うた。キョロキョロしていると、また、頭の中に声が聞こえた。

 「ああ。さっきから近くに居るんだが、下校の生徒さんが多いからね」

 「ああ、それで姿を見せないんだね」

 和也は声に出して、返事をする。また、ハチの言葉が頭の中に入って来た。

 「僕やジャックは、ほら、見た目野良犬だろ。今は、野犬とかにイロイロ、世間はうるさいしね。特に小学校とかじゃ、直ぐに通報されちゃう」

 「あ、そうなんだろうね」

 和也が返事する。

 「昔は、首輪さえしてたら普通、人間は、見逃してたけど、今は、ペットの放し飼いなんてないからね。今はほとんどの犬は、リードで繋いで人が連れてないと、駄目だ。自分ちの庭や私有地とか、公園とかだったら、放して遊ばせてるけど」

 「昔って、どれくらい?」

 「和也の、お父さんお母さんが子供の頃かな」

 ハチの話を聞いて、和也は俯いて黙った。

 「悪いことを思い出させたかな。お父さんは心配だよな」

 「うん。いったい、どうしちゃったんだろう、って。今、何処に居るんだろうって」

 ハチ自身も、何と答えて良いのか迷って、返しの言葉が出て来なくて、会話が途切れた。和也が、思い直したように顔を上げ、最初にハチが言ったことに気が付き、訊いた。

 「お姉ちゃん、今、こっちに来てるんだ?」

 「ああ。間違いないよ。もう十五分くらいすれば、着くんじゃないか」

 「ねえハチさん、姿、見せれないの?」

 「そうだな。下校してる生徒が、もう少し減ったらな」

 「ハチさん見つけたら、先生たち、大騒ぎするかな?」

 「いや、大騒ぎはしなくても、今の世の中は、野犬に厳しいからね。先生は、保健所に連絡するかも知れない。現代の日本じゃ、狂犬病は無いけれど、野犬だと、何かの病気に掛かってるとも限らないって、先生は考えるだろうし。学校は、子供ばかりの場所だからね」

 「ハチさんは、狂犬病に掛かったことあるの?」

 「無いけれど、狂犬病の犬は、何度も見たことある」

 「今は居ないんだ?」

 「世界のあちこちには居るだろうけど、今の日本には居ない」

 「ハチさんは大丈夫なんだ?」

 「僕やジャックは、免疫力が強いから、病気には掛からない」

 「じじごろうさんも?」

 「あの人は、どんな寒いところでも、裸で居て大丈夫な人だからね。多分、僕らより病気には強いだろう」

 「へえ~、不思議だね」 

 会話が途切れた。お互い、しばし黙っていた。

 「ねえ、もう出て来て良いんじゃないの?今、生徒見えないよ」

 沈黙を破って、和也が喋った。和也の声は、普通の会話のトーンだ。

 午後の授業、五時限目までで下校するのは、四年生くらいまでだ。高学年の五、六年生は午後は六時限まで受けて帰るから、もう少し遅くならないと校舎から出て来ない。

 「そうだな。それ程、心配することもないか…」

 ハチが返事する。勿論、音声ではなく、和也の頭の中に、だ。

 「ねえ、ハチさん。出て来ないの?」

 少しして、和也が前を向いたまま、独り言のように訊いた。

 「隣だよ」

 慌てて和也が、左右に首をやると、自分のランドセルの横に、ちょこんとハチが座っていた。中型犬サイズよりも少し小さめのハチは、ランドセルよりもひと廻り大きいくらいのサイズだ。「いつの間に…」と和也は、目をまん丸くして驚いた。

 「ねえ、さっき、お姉ちゃんが、こっちに向かってるって言ったよね?」

 「ああ。歩いて来てるようだから、もう少し掛かるだろうけどね。お客さんと一緒だ」

 「お客さん?お客さんって誰なの?」

 「僕の知らない人だ」

 「お姉ちゃんの、中学校の友達かなあ?」

 「いや。若いが、大人だな。愛子ちゃんは学校からでなく、元の家から向かって来てる」

 「えーっ!お姉ちゃん、こっちの家に行ったんだ」

 「そうみたいだな」

 「誰なんだろう?お客さんって。家に、お父さんは居たのかな?」

 「居なかったみたいだな。一緒に来てるのは、若い女だな」

 「ふう~ん。誰なんだろうな。お父さん、居なかったんだね。会社、行ってるのかなあ?」

 「僕は、吉川和臣の行方に関しては、解らない…」

 ハチは、愛子や和也の父親については、これ以上は話し辛そうに顔を背けて、遠くを見た。ハチの沈黙に、和也は話題を変えた。

 「ねえ、じじごろうさんやジャックさんは、今どうしてるの?公園の森に居るの?」

 「ジャックは知らない。じじごろうさんなら、さっきまで一緒に居たけど」

 「あ、そうだったんだ。お姉ちゃんがお客さんと、こっち来るの、一緒に見てたんだ?」

 「いや。それを見たのは、僕だけだけどね。じじごろうさんは、森に戻ったんじゃないかな」

 和也が返事をせず、会話が止まった。しばらく二人は黙って、あたりを見ていた。まだ、高学年の子供たちが、下校で校舎から出て来るには時間がある。小学校低中学年の子供たちの下校の流れも、途切れたり、ぽつりぽつりと校舎側からグランドに降りて来たりしていた。

 「あーっ!」という大きな声で、和也とハチは首を廻した。和也とハチが、何気なく見渡していた方とは死角になる、斜め後ろ方向から、子供としては凄い勢いで走って、近づいて来る小さな姿があった。

 「勇人くん…」

 荒い息を吐きながら、同じ小学三年生の池田勇人が、目の前に立った。池田勇人は、和也と学年は同じだが、クラスメートではない。

 「駄目なんだよ!」

 池田勇人が叫んだ。片腕で、ハチを指差している。

 和也は驚いて、勇人とハチとを交互に見た。突然のことに、和也は言葉が出ない。

 「野良犬を放っといちゃ、駄目なんだよ!和也くん」

 池田勇人はハチを指差したまま、子供ながら真剣な表情で訴えている。ハチはというと、和也の横にちょこんと座って、見た目はおとなしい犬そのもので、凝っとしたままだ。

 「お母さんも先生も、言ってたんだ。野良犬は危険だって。噛まれたら、病気のバイ菌を持ってるって。ほら、この犬も毛並みなんか、汚いじゃないか」

 勇人は興奮した様子で、一気に捲し立てる。和也はただただ、勇人の剣幕に気圧されて、言葉が出て来なかった。

 「えらい言われようやな…」

 ハチが、ボソッと言った。和也が驚いて、ハチを見る。勿論、ハチの喋りは、和也の頭の中に聞こえただけだ。ハチの声は音声としては流れていないので、勇人には聞こえない。ハチは、そっぽを向いた。和也はハチに気を遣って、戸惑いながら勇人に向かって言う。

 「勇人くん!この犬はね、とても人懐こくって、おとなしいんだ。だから、大丈夫だよ」

 和也は、ハチが形だけでも、勇人に尻尾でも振って、人懐こいふりをしてくれないかなあ、と思った。だがハチは、そ知らぬふうで遠くを見ている。

 池田勇人は、小さな身体の腰を曲げて、凝いっと、ハチを見詰める。

 「でも汚いし、やっぱり野良犬でしょ。お母さんが言ってた。野良犬は危険だから、見つけたら直ぐに保健所に電話しなさいって」

 「いや、大丈夫だよ、勇人くん!この犬はそうだ、僕の飼い犬みたいなもんなんだ」

 和也は慌てて、手振りを添えて、勇人の説得に掛かる。保健所なんか呼ばれたら大変だ。

 「でも…」

 勇人を何が何でも説得しようと、和也が腰を上げ勇人の前に立ち上がると、和也の隣におとなしく座っていたハチが、くるりと身体を回して、サッとひと跳びして、後ろの用具倉庫の陰に消えた。

 「あっ!」と、ハモるように和也と勇人が同時に叫んだ。

 勇人がダッシュして、用具倉庫の裏へ駆け込む。和也も勇人の背中を追った。勇人は用具倉庫の側面で、キョロキョロしながら辺りを見回し、倉庫の裏側を覗いたりしている。用具倉庫の裏側に沿って、低いフェンスがあり、その下の道路に向かってブロックの土手になっている。 

 勇人が、真下の道路から遠くまで、キョロキョロ辺りを見回したが、犬の姿は何処にも見当たらなかった。

 「あれえ~、おかしいなあ」

 勇人が首を傾げて、不思議そうにしている。勇人は暫く、辺りを見回し続けていた。和也の方は、ハチの能力からすれば、この場に居る人間の目から消えることなんて、雑作もないことだろうと、納得していた。

 勇人が振り返り、和也を見詰めながら言った。

 「何処行っちゃったんだろ?あの野良犬。取り敢えずさ、僕はこれから保健所へ連絡するからさ。和也くん、証人になってよ」

 和也は驚いて、焦った。

 「いや…。もういいじゃない、勇人くん。何度も言うけど、あの犬は悪い犬じゃないよ。保健所なんて通報したら、可哀想だよ。おとなしい犬なんだから」

 「えっ。駄目だよ、和也くん。野良犬はおとなしくても保健所に通報しないと、衛生的に悪いんだ。お母さんが言ってたから間違いないよ。野良犬や野良猫から、いろんな病気が生まれるんだって」

 「あの犬はそんなに汚くないよ。病気も持ってないよ。おとなしくて健康な犬なんだ」

 和也は、勇人に保健所へ通報させないように、必死で説得する。でも、勇人も、こうと言い出したら聞かない、頑固な性格のようだ。小学三年生ながら、同い年の和也に譲りたくない、ライバル心のような気持ちが働いているのかも知れない。

 「飼い犬なら良いけど、野良犬は駄目だ。僕、職員室行って電話借りて、保健所に連絡する」

 毅然として、勇人が言いきる。和也は胸中で、困り果てていた。

 勇人は、和也が携帯電話を持っているとは知らないらしく、和也に、通報しろとは言っては来ない。

 突然、和也のランドセルから、呼び出しベル音が鳴った。ベル音は二回だけだ。ショートメールだ。多分、姉の愛子だろう。驚いた顔をして、勇人が和也のランドセルを見る。

 「今の音、ケイタイでしょ?」

 和也の目を見ながら問い質す勇人に、和也は困りながら、あやふやに返事した。

 「直ぐ切れたね。メール?」

 この問い掛けにも、和也は、あやふやな調子で返事をする。

 「へえ~、良いなあ、和也くん。ケイタイとか持たせて貰ってるんだ!ねえ、それって、ゲームとかできるの?」

 「いいや。引っ越して家が遠くなったから、お母さんとお姉ちゃんとの連絡用だけ。メールもショートメールだけだよ。遊びには使えない」

 「ふう~ん。ちょっと見せて」

 「良いけど、勇人くん、野球の練習に行かないと、いけないんじゃないの?僕はもう直ぐ、お姉ちゃんが迎えに来るんだ」

 和也は六月に引っ越した際に、地域の少年野球チームからは一応、退団しているが、池田勇人はチームに所属して、周三回の練習を続けている。今日は練習日だ。

 「ああ、そうだった。帰んなきゃ。また見せてね」

 「良いけど、他の人たちに言わないでね」

 「学校に黙って、持って来てるの!?」

 融通の効かない性格の勇人が、子供ながら糾弾するように、強い調子で和也に問う。

 「大丈夫だよ。学校にはお母さんから話してあるんだ。野良犬のことは、お姉ちゃんに言って電話して貰うから、心配しなくて良いよ。勇人くん、練習頑張ってね」

 ここぞとばかりに和也は、一気に捲し立てた。和也の態度に怯んだように、勇人は後退り、「わかったよ。じゃあね」と、片手を挙げて、くるりと身体を翻して校門の方へと走って行った。

 そうこうしている内に、校門に姉・愛子の姿が見えた。学校前道路の坂道の下の方で、池田勇人と擦れ違ったかも知れない。愛子の顔を見定めると、和也は急いでランドセルを取り上げて、背にかるい、校門へと駈けた。

 愛子は一人ではなかった。愛子の後ろにもう一人、人影がある。女の人だ。若いお姉さんのようだ。ハッとして、走っていた和也は、急に立ち止まった。校門を抜けてグラントに入った愛子の手前、四メートルくらいのところで、駆け寄るのを急に止めた和也に、愛子は怪訝に思った。その位置から和也は、凝っと、愛子の後ろを見詰めている。

 和也の視線に気付いた愛子は、後ろを振り返り、大佐渡真理の姿を認めて、和也の人見知りだろうと合点をして、和也に向かって微笑んだ。

 「和也。この人はねえ、お父さんの会社の人の、知り合いの人。お父さんのことで、家まで来てくれたの」

 離れている和也に向かって、少し大きめの声を出して、愛子が説明した。愛子の後ろに立つ大佐渡真理は、驚いた顔をして、和也の方を凝っと見ていた。

 真理は、不思議な感覚に捉われていた。それは、敵意を持った者の放つ殺気的なものや、この世の者でない怪しい妖気のような、そんな恐ろしい気配とは違う、初めて感じる、不思議なものだった。しばらく何だか解らずに戸惑っていたが、突然閃いた。これは、あたしと同じものだ。多分そうだ。しかも、強い。

 和也が再び、歩を進め始めた。今度はテクテクと歩いて、二人に近付いて行く。

 「こんにちは」

 愛子の後ろから、ニコニコしながら、大佐渡真理が和也に言った。真理は安心していた。この子は自分の仲間であり、敵では全くない。真理は感覚で、そう納得していた。

 二人の前に立った和也が、ペコリと頭を下げた。和也が真理を見ながら、話し掛ける。

 「お姉さんも、サイキックなんだね」

 その言葉を聞いて、真理よりも先に、愛子が頓狂な声を上げた。

 「ええーっ!すごーい。顔見ただけで解るんだ!?」

 「うん。何か多分、同じような力があるんだ、って、そういうの、強く感じる」

 「私も」

 空かさず、大佐渡真理が応える。

 「嬉しい。仲間に会えて。こんなの初めて。ただ、あなたの方が、力が強いみたいね」

 「それは解んないけど…」

 和也の言葉を受けて、直ぐに愛子が話し始めた。

 「ねえ、和也。このお姉さんの超能力、凄いのよ!」

 愛子の言葉に、真理が、恥ずかしそうな様子を見せる。

 「お父さんの部屋のドアの前で、“この部屋の中がおかしい!”って、透視して見せたの」

 「透視って…。何か変なもの、感じただけよ」

 愛子の方は、言って、自分と弟の父親のことに想いを馳せて、急に表情を曇らせた。

 「お父さんの部屋、どうだったの?」

 和也が、姉に問う。愛子は、何と応えて良いのか当惑して、言葉を詰まらせた。姉の目を凝っと見詰めていた和也が、子供ながら険しい顔になって、言った。

 「お父さんの部屋の中が、変わり果ててたんだ‥」

 和也の様子を見ながら、真理は、この子はこの年齢にしては大人びている、と驚いていた。見た目は間違いなく小学三年生くらいだが、表情や態度が、とても子供とは思えないものがある。

 和也も黙った。愛子が、自分の家庭というものに想いを馳せて、たまらず感情が込み上げて来そうになるのに、凝っと見詰めている幼い弟を見ていて、ふと疑問がわき、感情が爆発して泣いてしまうのを、押し留めた。

 和也の顔だけ見ていても、表情が読めない。顔の表情だけ見ていても、いったい何を考えているんだろう、と思う。此の頃は特にそうだ。見ように寄っては、とても大人びている。平穏な家庭を失った悲しみから、感情が壊れそうになっていた状態から、直ぐ様立ち直った愛子は、真理の方を見た。

 真理は微笑んで、愛子を見詰め返した。

 「駅前まで行って、何か食べようか。もうお昼過ぎて、だいぶなるし」

 真理の提案に、愛子はニッコリ笑ったが、今日は財布にあんまり、持ち合わせがないことに気付いた。愛子の気持ちを察したのか、続けて真理が言った。

 「ああ、勿論、私のおごりよ。大丈夫」

 真理がニコニコしながら、交互に姉弟の顔を見る。和也の表情に初めて、微笑が出て、こっくりと頷いた。

 校門を出て、学校沿いの道路を下りながら、和也が愛子に訊いた。

 「ねえ、お父さんの部屋って、どんなになってたの?」

 「どんなにって、ね…。そうね、何か、白いクモの糸みたいのが張り巡らされてて、一見、真っ白く見えるの。濃い霧が掛かってるみたいに。でもよく見ると、クモの糸みたいなの。大きなクモの巣だらけみたいな」

 和也は姉の説明を聞いて、子供ながら、考え込むような顔つきになった。黙ったままだ。和也としては、この不思議な現象を、ハチに訊ねてみたかった。けれど、和也には感覚で解った。ハチさんは今、近くには居ない。

 大佐渡真理は、和也のことを考えていた。不思議な子供だな、と思う。妙に落ち着いていて大人びている。姉の愛子が、感情を顕にして取り乱した、父親の部屋の怪異な状態の話を聞いても、表情こそ、子供ながら険しくなるが、感情的になることは全くない。とても小学生には思えない態度だ。

 確かに、この子には、自分と同じものを感じる。自分の能力と言っても、例えば霊感が強かったり、自分の周りで事故などが起こるとき、胸騒ぎがしたり、嫌な感じを覚えたりするくらいだ。この子は多分、明らかに、自分よりは力が上だ。この子はいったい、どんな力を持っているのだろう?

 三人はテクテクと歩きながら、小学校下の大通りを駅へと向かった。

 

※「じじごろう伝Ⅰ」..狼病編(13)へ続く。

 

●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」..登場人物一覧(長いプロローグ・狼病編)2013-05/28

◆(2015-05/21)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(11)
◆(2016-02/20)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(12)

 

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