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「ばったり侍」

 「ばったり侍」は時代劇漫画で、絵柄は今で言えばギャグ漫画的なタッチで、描かれたのは多分、1950年代末だと思う。絵柄はどちらかと言うと、昭和時代の大人が読む週刊誌などの雑誌に、四コマ漫画や八コマの時事漫画とか風俗漫画とかの、ちょっとした笑いを取る漫画ですね、昭和40年代にナンセンス漫画に進化する、あの手の大人四コマ漫画の絵柄ですね。あの時代のギャグ漫画ふうタッチで描かれてるけど、内容はストーリー漫画ですね。時代劇のちゃんとしたストーリーがあるけど、表現がギャグ漫画的。

 また、漫画の中の登場人物が喋る吹き出しの中のセリフ、これが全部、活字でなくてペンで書いた手書き文字なんですよね。時折入る簡単な説明も手書き。そういうところも大人が読む雑誌の四コマ·八コマ漫画と一緒でしたね。

 「ばったり侍」の漫画本は当時のA5 ソフトカバーの貸本で、ページ数は176ページとなってるから当時の貸本としてはかなり厚い。貸本漫画は1962~63年頃からだいたいA5 ソフトカバーで136ページくらいのものが多くなった。それまでは同じA5 貸本でも150ページ以上から200ページ近いものまでぶ厚いものもあり、けっこうまちまちだった。63年頃から貸本のフォーマットが128P か136P に統一された感はあったけど、日の丸文庫刊行のミステリー短編集誌「影」だけは、62年63年以降もずっとぶ厚くていつも160ページ以上あったけど。

 「ばったり侍」という貸本漫画を僕が読んだのは、多分小学校一年生の二学期の終わりか三学期頃なんだろうと思う。ひょっとしたら小学二年生になっていたのかも知れない。というか、この「ばったり侍」の漫画本は当時のウチにあった。だからこの当時僕はこの漫画本をいつでも読めた。僕は六歳当時の晩秋頃からほとんど毎晩、近所の貸本屋に通い始めたが、この「ばったり侍」の漫画本は貸本漫画だけど、貸本屋で借りた本ではない。

 僕は五歳まで野山と田畑ばっかりのザ·田舎みたいなトコで育って、六歳になった年の三月の後半に地方の中でも町(市街地)に引っ越し、越して来た新住居は当時の商店街のど真ん中にあった。この年の四月から僕は小学校に上がる。幼稚園とか保育園に行っていない僕は学校に慣れず、幼稚園·保育園に行ってなくて親が簡単なひらがなはおろか自分の名前の書き方も教えてないから、小一の授業に着いて行けず、もともと人見知りの強い性格もあって、当時は学校が嫌で嫌でしょうがなく、小一の一学期は登校拒否児童でもあった。

 当時、ウチの親父は電力会社の社員で、僕の小·中学生時に住んでいた自宅は、電力会社の社宅だった。商店街の真ん中あたりに電力会社の電業所という事務所があって、僕んちはその事務所に隣接した4LDK の社宅だった。家の裏には割りと広い庭と二棟の倉庫があった。

 僕の生まれ育った地方は産炭地で、子供の頃は人口も多く活気のある町々だった。いろいろな炭坑施設には当然、電力は重要で、田舎住まいのときも小学生時も親父は数々の民家や炭坑施設や工場などを回って忙しく働いていた。親父も電業所勤めのときは事務所の所長職身分だったから、数人の若い部下を使って仕事を回してたから、田舎に住んでたときに比べると労働量的にはラクになってたろうけど。

 でも、配下の社員が退社した後の、深夜に掛かって来た電話の仕事には、親父がどんな時間だろうがバイクに乗って電気関係の修理に出て行ってたな。

 僕の生まれ育った地方は、戦前·戦後、産炭地として栄えた都市で、石炭産業は僕が小学校三、四年生頃から衰退し初め、小学校五年生頃には石炭会社は軒並み撤退して行った。だから僕の小学校三~六年生時、転校して行く同級生は多かったですね。僕の小学校四年生頃までは同級生の親は炭坑で働いている人が多かった。地域のあちこちに炭住と呼ばれる長屋が林立し、町々は人々で溢れ活気がありましたね。

 小学校一年~三年時に比べると小学校六年時は同級生数はだいぶ減っていたような気がする。中学校に上がって見なくなった顔ぶれは多かったな。小学校六年間で子供ながら胸の中に思っていた女の子も何人か居たけど、中学校に上がったとき、その子たちはみんな居なくなってたな。

 僕と兄とは年が七つ八つ離れてて、僕がまだ生まれる前、この、僕が小·中学生時代住んでた街の電業所が建て変わる前、炭坑で栄えた都市だけに歓楽街に飲み屋や色街が多く、何でもこの電業所は二階屋の大きな、こういう店舗は何て呼ぶんだろう?女郎屋なんて言えば露骨過ぎるし、まぁ女も買える大きな飲み屋だったらしいのだが、僕の家族が住んだのは建て変えた後の平屋造りだったが、それ以前の電業所は女郎屋の名残の二階家だったらしい。

 僕の七つ八つ離れた兄に以前聞いた話なんだが、炭坑が栄えてた頃の地域の祭りはそれはもう賑やかで、たいそうな人出で、たくさんの雄壮な神輿や山車が地域を駆け巡ってた。繁華街である電業所の前の通りも、炭坑で働く男衆が威勢よく担ぐ神輿や山車が通る。

 戦後に日本各地からやって来た者も数多く居る産炭地で、荒くれ者も多いし、戦後昭和の時代で、昔ながらの地元のヤクザ組織も地域で幅を利かせている。そんな土地の祭の神輿や山車が繁華街である、当時の電業所の前の通りをワッショイワッショイと練り行く。

 幼い当時の兄が、親父の職場同僚の人の子供と一緒に、二階家の上から神輿か山車を見下ろしていた。そうすると、その神輿か山車が止まって、担いでいる若い衆が、神様の乗るものを上から見下ろすとは何事!、と文句を着けて来た。当時の電力会社電業所の所長は日本酒を何本か渡すことでその場を納めたそうです。

 まぁ、そういう時代で、戦後昭和の地方の産炭地なんてところは、一方で炭坑で働く荒くれ者や地元を締めているヤクザ組織が強かった。前にも書いたけど、ある個人宅の電気代未納が続き、親父とは別の電力会社の社員がその家の電気を止めたら、親父が止めたと勘違いしたヤクザ者がウチの家に日本刀抜いて乗り込んで来たこともあった。戦後昭和なんて田舎はそんな時代だったんですね。

 僕は30歳から約10年、行ったり行かなかったりで空手道場に通いましたが、僕の空手道の基礎を習った先生は、沖縄小林流のけっこう高名な師範で、沖縄空手や琉球古武術の専門書を何冊も上梓している、沖縄空手や琉球古武術や古流柔術の師範です。といっても、僕がこの高名な師範に習ったのは空手の基礎だけですけど。

 僕はこの武道の先生に空手以外にも棒術や太極拳も習いに行きましたが、直ぐにやめてしまい、続いたのは沖縄空手だけです。まぁ、僕が大好きなのは、誰も居ない深夜の広場で一人だけで黙々と続ける練習ですからね。棒術なんかはしょっちゅう、深夜の公園で独り練習してましたが。

 この空手の達人の師範は、基本、昔ながらの、師の動きを見て覚えろという先生で、僕たちみたいな下っ端の弟子には琉球空手の初歩の型を教えるだけで、ごくタマにピンアンなんかの分解技を教えてくれたりしてました。僕はここで習った型を毎晩、深夜の公園で一人黙々と反復練習してましたね。空手の技々の細かい用法は、この道場に長年通う高弟の人たちに教えて貰ってました。僕は独り練習が大好きなので、あとはさまざまな本を読んでの独習ですね。

 この空手の達人の先生のお父上が、かつて戦前や戦後間もなくの時代でしょうが、炭坑会社に勤務して労務係という部署に就いていた。当時の炭坑の労務係とはどういう仕事だったかと言うと、炭坑で働く者は勿論、真面目な労働者がいっぱい居る中で、やはり中には荒くれ者やヤクザ者も居る。炭坑の現場では、炭坑施設のあちこちで揉め事はよく起きる。中には派手な喧嘩や暴動的なことも起こる。当時はそれを納めるのが労務係だったそうです。

 炭坑の荒くれ者たちの喧嘩や暴動を納めるために仲裁に入る訳ですから、当然危険極まりない訳です。先生のお父上は腕っぷしに自信があったんですね。先生ご自身がおっしゃってたんですが、親父は裏拳が強かったということでした。暴動の仲裁に入ったときに裏拳を多用してたんでしょうね。多分、先生のお父上も柔術か空手かの心得があったんでしょう。

 まぁ、僕の生まれ育った地方は、炭坑の栄えた時代はそんなふうに荒くれ者が多く、ヤクザ者が幅を利かせていた地域だった。

 このあたりのことは、五木寛之氏の大河小説「青春の門・筑豊編」を読むと、当時の産炭地の状況の一面が窺えるかも知れません。

 ウチの親父たち電力会社の技術作業員たちは、毎日、地域の炭坑施設や各工場や個人の家々などに電気関係の修理に出向いていた訳です。電力会社が管理するさまざまな電気系統は今の時代よりも格段に故障が多かった。僕の子供時代は停電も多かったですしね。別段、台風とか地震がなくてもよく停電してました。家庭の電源装置もヒューズで直ぐに切れていた。あの当時、親父は毎日忙しく、あちこち修理に回ってましたね。

 まぁ、地域と時代というのがあって、電力会社もこの地方で企業として営業して行くのが、ある意味大変だったんですね。会社員は普通の人で相手にするのは中には、ヤクザ者や荒くれ者、昔ながらの地域のヤクザ組織がある。この時代、電力会社は何て言うか、つまりヤバい相手と何かトラブルがあったときに間に入って納めてくれる人が必要だったんですよ。ある種、地元の顔役のような。

 僕んちが街の電力会社の社宅で暮らしてた時代、社宅の前部に併設された電業所事務所には、いつも、遊び人ふうの親父よりも少し年上くらいの、何の仕事してるかよく解らないオジサンが来てた。僕はM のおいちゃんと呼んでいて、僕の回りの大人たちはこのオジサンのことをマッタンと呼んでいた。

 このオジサンは普通の服装してるんだけど毎日ぷらぷらしていて、時折僕んちで昼飯を食べたりしてた。やって来ては電業所の社員たちと何かバカ話みたいのしてみんなでゲラゲラ笑ってた。このオジサンは街の顔みたいで僕はよく、近くの映画館にこのオジサンの顔でタダで入れて貰ってた。

 で、後々、僕がもうかなり成長してから多分、母親から聞いて知ったんだけど、このマッタンは当時、電力会社が雇っていたヤクザ者だった。実際、地域の昔ながらの暴力団の一員でもあったらしい。僕は見たことなかったけど背中一面に刺青が入ってたそうな。杯を受けたというのか、まぁ構成員に数えられる人だったんでしょうね。顔だったくらいだから幹部レベルだったのかな?

 子供の僕の印象では、そんなヤクザ者には全く見えない、怖くも何ともない普通の面白いオジサンだった。電力会社は地域の危ない連中と揉め事が起きたときのために、この、地域の顔役でもあるマッタンと非正規で契約してたみたいですね。荒くれ者やヤクザ者とのトラブルが起きたときに間に入って貰う役目の人として。

 で、「ばったり侍」の漫画本とこのマッタンと呼ばれてた面白いオジサンがどう関係するかと言うと、まだ小学校一年生か二年生の僕が毎日、貸本屋に行って貸本の単行本借りて来て読んでたので、このオジサンがある日、貸本の「ばったり侍」を持って来て僕にくれたんですよね。

 長々と書いて来たけど、それだけの話です。「ばったり侍」みたいな漫画は子供の頃、趣味でも何でもなかったのに、「ばったり侍」の漫画本と言うとこのオジサン、マッタンを思い出すし、マッタンのことを思うと「ばったり侍」の漫画本を連想する。まだ幼児期と言ってもいい頃の僕が面白いとも何とも思わなかった漫画だけど、「ばったり侍」は何故か印象深く記憶に残ってた。

 遊び人のM のオジサンのことだから、多分貸本屋で借りてそのまま戻さずに僕んちに持って来たんだろうし、返却しなくとも貸本屋もこのオジサンには何も言えなかったろうし。

 このオジサンは妻子が居て大きな二階家を持っていて、広い家で、一階は自分の家族が住んでいて、二階の各部屋は三世帯くらいに貸していた。見た目普通のオジサンだけど、実際は遊び人だから本妻の他に二、三人の愛人が居た。当時、電業所の裏手に長屋があったんだけど、この長屋の一部屋に若い愛人が住んでいた。この若くて綺麗なお姉さんは囲われてるんじゃなくて裏通りのバーで働いてたなぁ。上村一夫の劇画のヒルみたいな美女の絵を見ると、このお姉さんを思い出す。僕が小三くらいの頃、この人はもう居なくなってたなぁ。母親の話だとマッタンには何人も愛人が居たらしいし。

 大人になってからも僕のジョークは下ネタばかりなのだが、実は僕は子供の頃から下ネタばかり言っていた。僕は基本、とてもシャイな恥ずかしがりの少年で、中学生になっても高校生になっても基本ウブだったのだが、下ネタは小さい頃からいつも言っていた。

 僕が下ネタ少年になったのは、このM のオジサンのお陰なのだ。この遊び人のオジサンはいわば僕の下ネタの師匠だった。本妻の他に愛人が何人も居てストリップ大好きなオジサンは、電業所事務所に来ては、ストリップの話などなどエッチなエロ話をして、事務所の若い社員や電気工事作業の人たちを笑わせていた。

 このオジサン、マッタンは事務所だけでなく普通に隣接した僕んちにも上がって来て、母親などと世間話をしていた。まぁ、この時代は電業所の立つ商店街は地域で一番の繁華街だったから、買い物などで街に出て来た親戚や父母の知り合いが、しょっちゅうウチの家に上がり込んで母親と話したりご飯を食べたりしていた。あの時代のウチの家は賑やかだったな。

 マッタンは当時は僕んちに自分の家みたく普通に上がって来てたから、当然、子供の僕のところにもしょっちゅう来る。で、幼い僕をからかってたんだろうが、エロ話というよりもシンプルに下ネタ語を連発してた。僕はいつもいつも下ネタ語を聞いてるから、小一の勉強よりも、ひらがなよりも1+1=2よりも、真っ先に下ネタ語を覚えた。

 6歳の僕は毎日、チンポ·×メコ·キンタマ·ケツの穴とか何とか、下ネタ語ばかりをくっちゃべってる子供になった。まぁ、実際、あの当時の僕の回りの大人たちはみんなおおらかで、僕が平気で自分のチンチンを出して引っ張って見せて、ピシューンとかやってたらゲラゲラ笑ったり、オバチャンたちは笑いながら軽く叱るくらいのものだった。こうして下ネタ少年が誕生した。

 でも小学校ではそうは行かなかった。学校では、チンポ·×メコ·キンタマとか下ネタ語を言ったり書いたりしてるのが先生に見つかる度に、アタマに強烈なゲンコツを落とされていた。毎回本当に痛かった。

 貸本時代劇ユーモア·コメディ系ストーリー漫画「ばったり侍」の作者は宇田川マサオさんという漫画家で、ネットを回っていて見つけたんだけど、水木しげる先生の「東西奇っ怪紳士録」という作品の「貸本漫画の紳士たち」という章に、宇田川マサオさんのエピソードとして「『ばったり侍』という漫画を描いてバッタリ仕事が来なくなった歌多川雅男氏」というふうに紹介されているらしい。

  僕は宇田川マサオさんの漫画作品を「ばったり侍」以外知りません。僕は6歳から11歳まで家の近くの貸本屋にほとんど毎日通っていたけど、この手の漫画を見た記憶がない。前谷惟光氏の貸本版の「ロボット三等兵」や滝田ゆう氏の「カックン親父」などは借りて来て読んだ記憶があるけど、宇田川マサオ氏の漫画や似たような貸本漫画を読んだ記憶はないなぁ。

 僕の通っていた貸本屋さんに置いてなかったか、あったんだけど、当時の子供の僕がこういう作風の漫画が趣味でなかったので目に入らなかったのか。

 宇田川マサオ先生の漫画作品は当時、「ばったり侍」の他にも貸本単行本でいろいろと出ていたみたいですね。僕は当時、滝田ゆうをメイン作家に持って来てた、ギャグ漫画の貸本短編集「爆笑ブック」をときどき借りてましたが、この「爆笑ブック」にも短編作品を載せていたようです。「爆笑ブック」では滝田ゆうの漫画は記憶してるけど、他の作品は全く覚えてないです。

 また、1995年に当時の彩流社というところから「マンガ家流転人生·筆一本の50年」という書籍を上梓されてるようですね。この本は宇田川マサオ氏の自伝エッセイ本のようですね。

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