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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)

3.

 駅前大通りを占める、この地域の一大オフィス街に一際目立つ、豪奢な15階建てビルの6階7階、全フロアに渡る、『ワカト健康機器産業株式会社』 の、広域地方地域を網羅・管轄する、中枢的総支店の本部オフィス。その6階フロアの一角にある、支店本部営業部。その営業部の中の並んだ机群の一つに、営業部平社員の、藤村敏数がデスクチェアに腰掛け、開いたパソコンモニターを眺めながら、何やら机上のノートにボールペンで書き込んでいる。

 半袖ワイシャツに弛めたネクタイ姿で、眠そうな目でモニター画面を見ていた敏数が、無意識にアクビをした。机上のノートは、上から五、六行目まで文字と数字が並んでいるが、その下の行はテキトーな走り書きだ。ボールペンで書いた渦巻きと、目鼻口っぽい顔のような落書きが並んでいる。敏数がボールペンを置いて、モニター画面を見るのを止め、軽く両手を上げて伸びをした。

 「先輩、眠そうっすね」

 端の机に座っていた在吉丈哉が、いつの間にか敏数の横に来ていて、机の上に片手をついて、敏数の顔を覗き込んでいた。

 「おう。在吉君か。何だ、君も午前中は、客回りはないのか?」

 「はい。今日は、昼から二件だけっす。先輩も昼からっすか?」

 「ああ。俺は、大手の介護施設がいろいろと、ウチの製品見たいって言うからさ。午後から、そこの責任者の人、二人連れて工場見学だ」

 『ワカト健康機器産業』 は、郊外に自社工場を持ち、その工場の一画が、自社製品の展示場ともなっている。

 「上が誰も居ないから、何かみんな、緊張感無いっすね」

 丈哉が首を回して、辺りを見ながら言った。営業部のフロアは、机に着いている者、立っている者、みんな思い思いにしていて、何となくだらだらしているようだ。課長は、始業時間になってすぐに、7階の幹部フロアに呼ばれて行って、そのまま戻って来ない。主任は客回りらしく、出先だ。係長は‥、吉川係長は、まだ出て来ていない。今現在は、営業部フロアには役付きが居らず、平社員だけで、みんな勤務時間中でも緊張感無く、ゆったり過ごしていた。

 「昨日の夜は大変だったよ。あれから家帰ったら、まるみちゃんから電話があってさあ。今から来るって言うから、もう、なだめなだめしてさあ。何とか落ち着かせて、アパートまで来なくて済んだけど、もう深夜過ぎだよ、まったく‥」

 「まるみちゃんて、藤村さんの元カノっすか。前の職場で事務員してたっていう‥」

 「あ、そうか。しまった! 失敗した‥。在吉君は、まるみちゃんのこと、よく知らないんだよな。墓穴だ!」

 「でも、知ってるっすよ。会ったことないけど、真理ちゃんの話に出て来るもの」

 「えっ!? あ、そうなのか。大佐渡君とまるみちゃんは、仲良いのかな?」

 「いいや‥。事務と現場で、普段はそんなに接点はないみたいすけど。まあ、同じ職場で働いてますからね」

 「大佐渡君は何か言ってた?」

 「え? あ、はい。城山まるみさんは、何だか最近、元気ないように見えるとか‥」

 「そうか‥」

 「でも、藤村先輩は、城山まるみさんとはきちんと別れて、今の、その、悦子さんと付き合ってるっすからね。問題ないっすよね‥」

 「えっ? どうして在吉君が、悦ちゃんのコト知ってるんだ?」

 「中村先輩に聞いたっす」

 「チキショー! あいつめ。ぺらぺら何でも喋っちまって‥」

 「そういえば中村先輩、見ないっすね」

 「達男のヤツは珍しく、仕事で出てる。主任同行の顧客が、達男の受け持ちの客なんだよ」

 敏数は、口が悪くいい加減な、中村達男に腹を立てると、年齢的には一つ年上だから、“達男” と呼び捨てになる。

 「あ、それでか。吉川係長の方は、まだ出て来ないっすね。まさか、あの例のキャバクラに泊まった訳でもないでしょうに‥」

 「どうしたんだろうなあ、係長。心配だな」

 「藤村さん、それ手離せないんすか?」

 丈哉が机の上を指差した。

 「いや。雑務だよ。仕事の事務整理だけど、別に急ぐことでもないし、たいしてやることないから、だらだらやってんのさ」

 「ちょっとコーヒー、飲み行かないっすか?」

 「喫茶店は、まずいだろ」

 「いえいえ、ノンです。フロアの廊下の奥の、喫煙コーナーの自販機っすよ」

 二人は机を離れ、廊下に出て、エレベーターホールとは逆方向に向かい、ビル端に位置する階段の、その手前に設けてある、喫煙スペースへと歩いた。喫煙コーナーには長テーブル一脚の他、長椅子ソファが幾つか無造作に置いてある。壁に面して、各自販機が五、六台並べて設置してあった。ジュースやコーヒーの他にも、カップ麺や軽食の自販機があった。丈哉がコーヒーを二本買って、敏数に一つ渡した。

 「おう。払うよ」

 「イイですよ。昨日、喫茶店出して貰ったし」

 「そうか。じゃいただく」

 敏数が、微糖缶のプルトップを引いて、一口煽った。

 「よく冷えてて、うまいな。目が覚めるよ」

 「あれから結局、例のキャバクラから、吉川係長は出て来なかったすか? それとも先輩方も、直ぐ帰っちゃったすか? まさか、二人であれから、何処かキャバクラには入ってないでしょうけど‥」

 「冗談はよしてくれよ。キャバクラなんて行かないよ。あ、そうだ。君と大佐渡君が行っちゃった、すぐ後なんだけどね。変な婆さんが、達ちゃんに声掛けて来てね‥」

 二人は、缶コーヒーを持ったまま数歩、歩いて、廊下の窓際まで行って、窓枠の桟に身体を預ける格好で、向かい合って立った。

 「婆さんすか。何か不気味っすね」

 「いや、婆さんはポン引きの婆さんみたいで、達ちゃんのよく知ってる、あの界隈のヌシみたいな婆さんなんだけど‥」

 「中村さんも、あの、夜の街のことは、よく知ってるよなあ。中村さんこそ、あそこの街のヌシっぽいけどなあ。まあ、お客さんとしてですけど」

 「そうだなあ。達ちゃんは、あの街の、夜の界隈のいろんな店に入って来てるからなあ。ウチの会社入社して、ココ配属になってからもう何年て長い間、あの街のあらゆる店に通って来てる訳だしなあ」

 丈哉が感心したように言うと、敏数も何か感慨深げに言った。

 「中村先輩、病気とか大丈夫っすかね?」

 「その辺は、達ちゃんも気を付けてるだろう。二年前からは奥さんも居ることだし。それに案外、ああいうプロの女の方が、安全だったりするんだ。プロの女って、ほとんどが定期的に検査受けてるからな」

 「へえ~。そういうもんなんすね。しかし、吉川係長はどうなんでしょうね?」

 「う~ん‥。吉川さんは心配だなあ。変わり切っちゃってるし、今日だってまだ、出社して来ないしなあ」

 「こう言っちゃ悪いっすけど、吉川係長。あんな怪しげな店通って、病気移されたんじゃないっすか? こんな言い方すると、すごく失礼なんすけど、ほら、“脳梅”とかって言うでしょ?」

 敏数が声を出して笑った。

 「確かに失礼だけど、まあ、“脳梅” はなくても、あながち遠いとも言い切れんよなあ。あんなに人間が変わっちゃったからなあ。俺は、吉川係長って尊敬してたんだけどなあ」

 「そりゃあ、元の吉川係長は、尊敬に値する上司だったすよ。仕事、正確だったし、真面目だし。部下思いな面もあったす‥」

 敏数が、窓辺から離れて自販機近くまで戻り、ソファに座った。丈哉が後を追って続き、敏数の隣に座った。

 「それで、そのおタカ婆さんがさあ‥」

 敏数が話を戻した。

 「ポン引きの婆さん、“おタカ婆さん” って、いうっすか?」

 「ああ。達ちゃんが、“おタカさん” て呼んでた」

 敏数が笑いながら、続きを話す。

 「“婆さん” て呼んだら怒るんだよ、“姉さん” って言え、ってね。ものすごい厚塗りで、真っ白な壁みたいに化粧してるけど、かなりな婆さんだってことは、はっきり解るんだけどさ。ピンクのドレスみたいの着てて、見るからに派手な若づくりなんだけどさ。幾分、腰も曲がってるし、やっぱりこう、モノゴシも年寄りなんだよ‥」

 笑いながら話す敏数の、“おタカ姉さん” の昨夜のエピソードを、丈哉も笑い顔で面白く聞いていた。

 「それで、そのおタカ婆さんがさ、俺に、『自分を買わねえか?』、みたいなことまで言い出してさ。まあ、俺たちをからかってんのかも知んないけど、それ言われた時はまったく、ゾッとして背筋に震えが来たよ」

 丈哉が、身体を揺すって爆笑する。

 「そりゃ、たまんないっすね。そんな婆ァの “たちんぼ”、買う男居るんすかね? まあ、酔っぱらってて暗かったら、解んないというのもあるカモだけど」

 「いくら “熟女好き” なんてのが流行ってる時代でも、熟女過ぎもイイトコな婆さんだからなあ‥」

 「それで、その、“おタカさん” は行っちゃったんすか?」

 「いや、婆さんがここはあたしの庭なんて言ってるし、達ちゃんが訊いてみたんだよ」

 「へえ~、“庭” ね。で、中村先輩、何を訊いたんすか?」

 「例の、吉川係長の入ってった怪しいキャバクラさ」

 「ああ、ビッチハウス。婆さん、何か知ってたんですか? うわっ、興味津々だな」

 丈哉が驚いたように声を上げて、幾分身体を乗り出した。

 「それがさ、それまで俺たちをからかうように、ニヤニヤ笑いながら何か余裕で喋ってたのが、達ちゃんがあの店のことを訊いた途端、婆さんの態度が一変してさ。笑顔が消えて、険しい顔になっちゃって。あんな店のことは知らない!、って刺々しくなって、黙って行こうとしてさ‥」

 「え? 藤村先輩たちから、立ち去ろうとしたんですか?」

 「ああ。急に不機嫌になって、背中向けてね。そうしたら、俺のケイタイに急に電話が掛かって来て。これがまた、まるみちゃんでさあ‥」

 「あはは。困ったすね。中村さんの方は、どうしたっすか?」

 丈哉は笑ったが、“おタカ婆さん” の成り行きに興味津々だ。

 「おタカ婆さん追っ掛けて、もっと聞こうとしてたけど。俺の方は、まるみちゃんが今から逢いたいなんて行って来るしで、もう大変で。取り敢えず、まるみちゃんには後から電話するって言って、これを潮時に達ちゃんにはサヨナラ言って、急いで家帰ったんだ‥」

 「じゃ、中村先輩はおタカさんのトコ、残ったんだ」

 「うん。あれから達ちゃんが、どうしたか知らない」

 「まさか中村先輩、おタカ姉さんと遊んだりしないでしょうね?」

 「それはないだろ。遊びに行こうにも、金持ってねえもの」

 二人は笑った。

 ソファに座る二人とも、とっくに缶は空になっていた。丈哉が立って、敏数の空き缶を促し、受け取って空き缶専用箱に投げ込んだ。敏数もそろそろと思って、立ったところに、経理の高山さんがやって来た。白の七分袖ブラウスにクリーム色のタイトスカート姿だが、少々お腹のあたりがキツそうに見える。“ムチムチ” とか “ふっくら” という形容の、最終ライン上にありそうな体形には、スカートが、けっこう無理をして穿いているようにも見える。

 高山さんは独身だが、そろそろ中年太りに入って来ようかという年齢で、ウェーブを掛けてやや長めに切り揃えたヘアも、普段の口煩さも、もうオバサンそのものぽい。

 「まあ、あんたたち。二人でこんなとこで油売って。藤村君も、中村達ちゃんなんかとツルんで遊びに行ってるから、サボリ癖が着いて来てるわね。駄目よ、藤村君。こんな新入社員に、サボって休むこと教えちゃ!」

 「今、戻るトコだったっすよ。それに高山さん。僕は、新入社員でなくて二年目っすよ」

 丈哉が口を尖らせて、不満そうに言葉を返した。

 「あら。そんな、一年も二年も三年も、あたしから見れば全部同じよ。若者はもっと元気出して、快活にバリバリ仕事して行かなくちゃあ。あんた、彼女が居るっていうじゃないの。退社後、遊び過ぎじゃないの。彼女とのラブラブも、程々にしなくちゃね!」

 「えっ!? どうして、そんなことまで知ってるんですか? いや、そんなことまで‥って、“彼女が居る” ってコトだけですが‥」

 「あら。中村達ちゃんから聞いたわよ」

 「えーっ! まったく余計なコト、べらべら喋って。ホントにあの人は、口が軽いんだからもう‥」

 丈哉が腹立たしさを押えて、苦い顔をした。

 「自分のプライベートなこと喋られると、烈火の如く怒り、ヒトのプライベートはいとも簡単に、周りに吹聴する。達男ってのはそういうヤツさ」

 敏数も同調して、中村達男をなじるような言い方をした。

 「あんたたち。早く戻んないと営業は係長、出て来たわよ」

 敏数と丈哉は同時に、声を上げて驚いた。

 「マジすか!? 吉川係長、今、営業のセクションに居るすか?」

 二人は急いで、仕事場へ戻ろうとした。二人の背中に、高山さんが声掛けた。

 「吉川さんもう、営業には居ないわよ。課長に呼ばれて、来て直ぐに上に行ったわ。営業課も大変ね‥」

 敏数と丈哉は顔を見合わせて、高山さんを後にして、自分らの所属部署へと戻って行った。廊下で敏数が訊いた。

 「在吉君。そういえば真理ちゃんは、あれからどうしたんだい? あの、怪しいキャバクラ見に行ったとき、随分気分悪そうだったけど」

 「ああ。真理ちゃんは、あの店の周辺から離れたら、体調元に戻って大丈夫だったす。それよりも中村先輩のコト、文句言ってたすね」

 敏数は笑った。

 「達男と大佐渡君は、かなり相性悪いみたいだな。あの後、キャバクラのことは何か言ってたの?」

 「はい。あの奥のビルの、“ビッチハウス” って店には、二度と近寄るなって」

 「ああ~、やっぱり。そういうこと、言ってたんだ」

 「藤村さんは笑い出すかも知れませんけど、真理ちゃんは、あそこには何か得体の知れない魔物が棲んでる、って言うんですよ」

 敏数は吹き出してしまった。

 「いや、ごめんごめん‥。しかし、真理ちゃんも常識的には世間一般でいう、“不思議ちゃん” みたいなもんだよな。在吉君は、そういう大佐渡君のことを、どう思ってるんだい?」

 廊下を歩いて来た敏数と丈哉は、営業部セクションに入るドアの前で、立ち止まった。

 「実は、付き合い始めた最初の頃は、“変な娘” だなあー、って思ってました。彼女には悪いんだけど、少々おかしいんじゃないか、とかね。でも、真理ちゃんと長く付き合ってる内に、解って来たんですよ‥」

 敏数は黙って聞いていた。営業部フロアに入るドアの前で、二人立ち話する格好になっている。

 「ある時、夜、一緒にドライブしてる時に、大きな通りの交差点で、突然、彼女、涙流し出したんです。『どうしたの?』 って、俺が聞いたら、『ここは悲しみの匂いがする』 って言うんです」

 「“悲しみの匂い”?」

 いつの間にか、丈哉の話し方がいつもと違い、ていねいな口ぶりになっている。敏数が、鸚鵡返しに問うた。

 「はい。そうして、後で知ったことなんですが、そこの交差点、小学生の二人組が自転車に乗ってるトコ、自動車に跳ねられて、二人とも死んじゃった事故現場だったんです。彼女と一緒に居ると、そういうコトいっぱいあるんですよ」

 丈哉の真面目に話す態度に、敏数は笑わなかった。

 「へえ~、そうか。で、在吉君はそんな大佐渡君と付き合ってて、気味悪くないの?」

 「はい、勿論。愛してますから」

 在吉丈哉が清々しくも、はっきりと答えた。敏数は、苦笑ぎみにニンマリして言った。

 「やれやれ、ごちそうさま」

 二人は営業部セクションに戻って、各々の机に着いた。正午近くになって、藤村敏数は客のもとへ行くと、社有車で出て行った。行き掛けに何処かで昼食を摂り、客を乗せて工場へ行くということだった。敏数が出て行ったのと入れ換えに、中村達男が営業課主任と共に帰って来た。調度お昼になったので、在吉丈哉は達男と一緒に、昼食に行くことにした。

 「主任誘わなくてイイんすか?」

 「主任は愛妻弁当だとよ」

 「中村先輩は弁当、持って来ないっすね」

 「ウチは共働きだしな。それに弁当なんて、カッコ悪くて持って来れるかよ」

 二人は営業部フロアから廊下に出て、昼休みの社員の流れに混ざった。多くの社員たちが、廊下中央のエレベーターホールを目指して動く。達男や丈哉の勤務する、『ワカト健康機器産業株式会社』 が6階7階全フロアを占める、このビルは高さこそ15階までだが、敷地面積がかなり広い、幅広で奥行きのあるビルだ。達男と丈哉はエレベーターを待つ間、ホールで話し合って、二階に行くことに決めた。

 このビルの地下階は、大規模な食堂街になっており、和食・洋食・中華の専門店やレストランが軒並み、二十店舗以上も連なり入っている。さらに、軽食店も何店舖かあり、このビルのテナント会社の勤め人以外の、このオフィス街近辺のあちこちのビルから来て、時分どきに利用する人たちも大勢いる。また、地下食堂街の店舗で、夜は居酒屋をやっている店も多い。

 満杯のエレベーターが二階で止まると、降りたのは達男と丈哉の二人だけだった。ほとんどの人が、地下食堂街へ行くのだろう。二階には、会社テナントも入っているが、半分以上は店舗であり、アパレルフアッション系の洋装店や紳士服店、靴専門店なども入っている。そして、軽食店も何店舗か入っており、主にカウンター主体のカレー専門店や、うどん・そば店やファーストフード店、喫茶店などが入っている。

 達男たちはカレー専門店へ向かった。地下食堂街には規模の大きいカレー専門店があるが、丈哉は二階の店の方が好みだ。二階のカレー屋はまだ混んでいなくて、空いた席が幾つもあった。この店は、表側からは全面ガラス張りの店舗で、ほとんどカウンター席だけの店だ。店内の隅っこに申し訳程度に、二席用の小さなテーブルが二つ設けられていた。二人は、楕円の半円形の、長ひょろいカウンターテーブルの二席に、並んで腰掛けた。

 エレベーターを降りた時から卒の無い丈哉は、仕事のことを達男に訊き、達男は、自分が今こなして来た、仕事の成果を自慢気に話していた。達男の受け持ち顧客の大病院が、新しく病棟を増設して建てることになったので、ついては、新病棟の内部の浴室・トイレ等々の設備や、介護・介助用の機器・器具の設置に関しての、相談やオーダーなどの話があり、建設業者も交えて、ほぼ商談がまとまったのだ。『ワカト』 のビジネスとしては、相当な大口の仕事を取って来たことになる。

 「すごいっすね、中村先輩。やるときゃ、やるっすね。さすがは中村先輩、たいしたものっすね!」

 丈哉がタイコモチよろしく、達男を持ち上げ、褒め称えた。達男は上機嫌で、相当気分が良さそうだ。

 「そりゃあ、俺も、おまえ。やるときゃあ、やるさ。いつも遊んでるよーに見えてもよォ、ここぞって時には実力を見せて、大きな仕事を取って来る。仕事にメリハリがあるんだよ。いつもいつもコツコツ、真面目に仕事やるだけの藤村との違いよォ~!」

 実際は、この大口の仕事を取って来たのは、無論、達男だけの力ではなく、同行した主任の信用や、何よりも、会社のネームバリューがあることは言うまでもない。達男は、「腹が減った、腹が減った」 と言いながら、カツカレーの大盛りを注文し、丈哉は辛口ビーフカレーを頼んだ。直ぐに、料理がカウンターに出て来た。

 丈哉はひとしきり、達男に仕事の自慢話をさせた後で、丈哉の聞きたい肝心の、“おタカ婆さん” の話を切り出した。達男は旺盛な食欲で、もりもりとスライスしたカツを口に運んで、咀嚼して行く。口をもぐもぐ言わせながら、達男が問い返した。

 「おタカ婆さん?」

 「はい。その、“ポンビキ” のおタカ婆さんが、例のキャバクラ、ビッチハウスのこと、何か知ってそうだって」

 「何だ、藤村がそう言ってたのか?」

 「はい。そうっす」

 「ところで、係長は今日出て来たのか?」

 「はい。だいぶ遅くなって、出て来たみたいっすね。11時近かったんじゃないかな‥」

 「営業の部所に居なかったな」

 「いや。それが、出て来て直ぐに、幹部フロアに呼ばれたみたいで。俺も今日はまだ、姿は見てないっすよ」

 「あー、じゃあもう危ねえな‥」

 「ひょっとして、クビすか?」

 「いや。今日午前中、俺、主任と一緒だったろう。最近の吉川さんの話になってさ。課長以上がカンカンに怒ってて、もうどう仕様も無いところまで、話は来てるらしい。主任の話じゃ、これまでの実績があるからクビにはならなくても、今の職域からは追ん出されるって」

 「何処か、小さい営業所飛ばしすか?」

 「いやいや、もっと悪い。工場の倉庫番‥」

 「げえっ! そこまで落とされるっすか!?」

 「だって仕様が無いよ。度重なる仕事上のミスに、机に座ってる時の “心ここにあらず” の態度。それから近頃、頻繁な遅刻。ヤル気の無さ。決定的だったのが、総務の江口恭子へのセクハラな」

 カレーをスプーンで口に運び、租借しながら、たんたんと喋る達男だったが、美人で評判の総務OLの名はフルネームで語った。

 「やっぱり、ひどいっすね。中村先輩の十倍、二十倍ひどいっすね」

 丈哉がついうっかり、軽口のように、冗談めかして言ってしまった。

 「何だと、この野郎! だから俺は、メリハリ着けて仕事するタイプだって、言ってるじゃねーか。やるときゃ、どーんと大きな仕事すんだよ!」

 達男が怒って、それまで静かに喋っていたのが、大声ではないが、急に荒げ声になり、カウンター内の店の人がこっちを見た。

 「解ってます。解ってますって、先輩。ちょっとしたギャグで、言ってみたんすよ。済みません、冗談でした‥」

 丈哉が深々と謝る。丈哉は 「しまった」 と思い、達男に対して軽口を叩いてしまったことを後悔した。

 「おまえ、冗談も考えて言えよ。何しろ俺は、今日は、会社貢献度特Aランクの、大仕事を取って来た社員なんだからな」

 達男が胸を張って威張り、必要以上に丈哉に威圧感を与えようとする。

 「そりゃあもう、中村先輩はウチの会社の “プラチナ社員” っすよ。今回の仕事は、我が社の屋台骨支えましたね! 俺も、こんなすごい先輩の下に着けてて、誇りに思うっす」

 「そうか。そう思ってるんなら、まあ、良いんだけどよ」

 「ところでその、“おタカ婆さん” は“ビッチハウス” のコト、何て言ってたっす?」

 丈哉が直ぐに話を切り換えた。丈哉が聞きたいのは “ビッチハウス” のコトだ。

 「ああ、あのキャバクラな。おタカさんでも 『あそこだけは止めとけ』 って、言ってたよ。何でもあの、ビッチハウスって店が入って来たのは、去年の暮れらしい‥」

 「ああ、そうなんだ。出来て半年ちょっとか」

 「ああ。店がちゃんと営業始めたのは、今年の始めからだろう、ってさ。だいたい、あそこの四階建て古ビルは、長らくテナントが入ってなくてさ。空っぽビルなんだったんだと。そう言えば俺も、あのビルの存在は知ってたが、前は通っても入ったコトないしな。ひと頃は、“幽霊ビル” なんて呼ばれたりさ」

 「“幽霊ビル” っすか‥」

 丈哉は、“幽霊ビル” という言葉に反応した。付き合っている大左渡真理にさんざん、『あのビルには魔物が棲んでいるから、絶対に近寄るな』 と言われているからだ。達男が話を続ける。

 「それでも数年前までは、小料理屋とか焼鳥屋、スナックなんかが入ってたらしいんだけどな。みんな潰れちゃって、しばらく空きビルだったものらしい。まァ、場所が悪いやな。歓楽街でも外れだし、ひと頃は “たちんぼ” も居たが、今はそういうのも居ないんだと」

 「それみんな、“おタカ婆さん” からの情報すか?」

 「おう。シャッター閉まったビルの、上がり口階段に腰掛けてな。おタカさんが 『お茶おごっとくれ』 って言うからさ。自販機でペットのお茶買ってな。二人で座り話したんだ‥」

 「へえ~、何か、中村先輩も良いトコあるっすね」

 「おうよ。俺は本来、根は優しいんだよ。優しくねえと、女にゃモテねえからな」

 「それで、現在の “ビッチハウス” はどうなんすか?」

 「おまえ、いやに興味津々だな」

 「いや、何しろ、ウチの係長の関わってるコトですからね」

 本当の第一の理由は、やはり恋人の大左渡真理の言葉や態度に影響されて、オカルト的好奇心から興味を持っていた。しかし丈哉は、達男がことさらに真理を嫌っていることがよく解っているので、真理の名前を出すことはやめていた。

 「ああ、そうだな‥。それで、二、三年空き家だったあのビルに、去年の暮れくらいに突然、ビッチハウスが入ったらしいんだ。あのビルに入ってるのは総て、ビッチハウスの関係らしいな。何でも、キャバクラの他にバーみたいな店と、何か事務所みたいのがあるらしいんだな。それで、ボーイかウェイターみたいな男が居て、時々呼び込みみたいなコトやってるんだって。おタカさん、この男に邪険に扱われて、追っ払われたんだと。おタカさん、ひどく怒ってたよ‥」

 達男は長話を続けながらも、手と口は忙しく動かしていたので、カツカレーの大盛りもあらかた、たいらげていた。グラスの冷水をごくごくと飲んで、また話を続ける。

 「それまで、あの付近にゃ深夜、“たちんぼ” のお姉さんが何人か立ってたんだが、みんな追っ払われたんだって。それでな、その “たちんぼ” の中に、おタカさんに優しくしてくれる、比較的歳の若い、気の優しい街娼が一人居たんだが、この女が今は、ビッチハウスのホステスの一人になってて、しかも別人みたく、人が変わっちゃったんだってさ。おタカさんに冷たくなってしまって、『あんたなんか知らない』 って言うって話なんだ‥」

 丈哉も、達男の話を熱心に聞きながらも、辛口ビーフカレーを食べ続けている。丈哉がごくごくと冷水を飲んだ。食べるピッチは達男ほど早くはないが、注文した料理が量的に少なかったので、二人とも調度、同じくらいで皿が空いた。

 「“人が変わった” ってのは、妙な符号ですね。あそこに出入りしてるらしい、吉川係長も人間がすっかり変わっちゃってるし‥」

 丈哉は驚きを隠せなかった。達男から “おタカ婆さん” からの情報を聞くと、ビッチハウスがますます怪しく思えて、興味は尽きない。

 「先輩、他には何か言ってなかったんですか? その、おタカさんは‥」

 「おまえ、本当に “ビッチハウス” に興味津々だな。そんなにあのキャバクラが気になるのなら、一緒に行こうか? ただし、資金はおまえ持ちになるけど」

 「いや、イイっすよ。気にはなるけど、不気味だし‥」

 「うん。おタカさんもな、あの店には行かない方がいい、って行ってた。呼び込みのボーイもだが、別のホステスらしい女も、何か “変” なんだと」

 「そうっすか。じゃあ、キャバクラ自体は、流行ってはないですね。吉川さん、どうしてそんな店に入ったんだろ? 他にはおタカさんは何か、言ってなかったんですか?」

 「おまえも好きだね。軍資金がありゃあ、俺が冒険して来ても良いんだけどな。俺もあの界隈で行ったコト無いキャバクラなんて、あのビッチハウスくらいだからな。まあ、中の女はあんまり期待は出来ないだろうけど‥。あ、おタカさん、か。いや、おタカさんは、あんまりしつこくビッチハウスのコト訊くと、不機嫌になるからさ。それ以上は入って見ねえと解らねえよ」

 食べ終わって、一杯づつ、グラスに冷水を貰って一気に煽ると、二人は別々に料金を払って、スタンド仕様のカレー専門店を出た。

 二人は、二階のエレベーターホール目指して歩き、エレベーターホールの隅に長椅子ソファが幾つか並べられ、大型のテレビが置かれている場所の前で、何気なく立ち止まった。長椅子ソファには、中年のサラリーマン氏らしき男が一人座って、缶コーヒーをうまそうに飲みながらテレビを見ていた。他にはソファの周りに、二、三人の男が立ち、同じようにテレビ画面を眺めていた。

 「先輩、事務所戻ります? それか、お茶でも飲み行くっすか?」

 丈哉が達男の方を見て尋ねると、達男はテレビ画面を見ていた。テレビではニュース番組をやっていた。達男が画面を喰い入るように見ていた。

 「あれ? これ、あの歓楽街じゃないっすか」

 丈哉が間の抜けたような声で言った。テレビ画面には確かに、昨夜、藤村敏数と中村達男と、それから後で真理も一緒に行った、ここから近くの歓楽街の、今の昼間の様子が映し出されていた。丈哉も黙って画面を見ていた。その内、アップで老婆の顔写真が映し出された。

 「あっ!」

 達男が小さく叫んだ。画面を喰い入るように見る達男の表情が、放心状態のように見える。ニュースの解説では、アナウンサーが 「昨夜未明、老婆が野犬に咬まれて重症」 と繰り返していた。老婆の顔写真のアップからまた、歓楽街界隈の通りの風景に戻り、すぐにスタジオのキャスターに切り換えられた。男性キャスターが女性キャスターに、「早く保険所に野犬を探し出して、捕獲して欲しいですね」 と語り掛け、女性キャスターは 「そうですね」 とだけ返事して、次のニュースを読み上げ始めた。

 呆然として黙っている達男に、丈哉が呼び掛けた。

 「中村先輩。どうかしたんですか?」

 「おタカさんだよ‥」

 「はい?」

 「だから、犬に咬まれて重症、っておタカさんなんだよ! 今のテレビの被害者の写真‥」

 丈哉も驚きでしばらくは声が出なかった。

 

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)へ続く。

 

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

 

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●漫画・・ 「AMMO 弾 -アモウ- 」 ..(1)

 エロですねえ。刑事アクション漫画ですが、“エロ” 全開です。面白い、犯罪活劇劇画で、主人公は女刑事ですが、これがまた可愛い顔にナイスバディーを通り越した超グラマーの肢体で、その、女の身体を張って、凶悪犯罪に敢然と挑む、拳銃バンバン撃ちまくるエロ姉ちゃんの刑事です。これこそ文句なく “エロカッコ良い!” を地で行く、美人キャラクターですね。

 「AMMO 弾 -アモウ-」という漫画作品は、もともと、例えば「ビッグコミック・スピリッツ」のような青年コミック誌ではなく、成人誌連載された人気コミックです。「ヤングペンギン」や「コミック桃姫」 などといった成人コミック誌に、98年から2007年までの長きに及んで連載が継続されました。まあ、連載は不定期連載だから、まとめたコミックス単行本としては巻数は少ない方ですが、連載期間は約十年とかなりの長さです。

Photo

 成人誌掲載作品ですから、エロ描写度も青年コミック誌よりもドギツク、エロ・グロ度はかなり高いコーフン・コミックです。主人公の女刑事、アモウが魅力的でコーフンさせられます。バッチリ面白い、エロ味抜群刑事アクション巨編ですね。(『AMMO 弾』はAmazonでは成人コンテンツ扱いになってますねえ)。

 僕、山本貴嗣さんの絵柄、好きなんですよねえ。

 「AMMO 弾 -アモウ-」の、「アモウ」は主人公の名前ですけど、「AMMO」は “弾薬” の意味だそうです。アモウ・ハズミ。

「AMMO 弾 -アモウ-」..(2)へ続く。

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●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)

2.

 駅ビル二階にある喫茶“白ばら”で、藤村敏数はクリームパフェのアイスクリームを、スプーンで口に運んでいた。前に座る二人が凝っと、その顔を見ていた。在吉丈哉が言った。

 「よくそんな甘いもの、美味しそうに食べるっすね。藤村先輩には全然、似合わないっすよ」

 「あたし、藤村さんがそんな、女の子が食べるよーなもの、好きだなんて知らなかった」

 在吉丈哉の隣に座る、オカッパ頭を茶髪に染めた、色白で小顔の女の娘が言った。藤村敏数は彼女が自分のことを、「藤村さん」 と呼んでいることに満足していた。以前、同じ職場に居た頃は、何歳も年上の敏数のことを、「藤村君」 と“君付け”で呼んでいた。勿論、以前の職場では、勤務歴も敏数の方が先輩だったのだが。

 「藤村先輩。真理ちゃんとは、久しぶりに会うっしょ?」

 “真理ちゃん”と、在吉丈哉に呼ばれた隣に座る娘は、フルネームを大佐渡真理といい、藤村敏数が前に働いていた職場に、現在も勤めている。前の職場では敏数の後輩にあたり、現在の職場の後輩になる、在吉丈哉に紹介した格好になる。実際は、敏数が計画して行った、敏数の前の職場の従業員たちと現在の職場の社員たちとの、若者どおしの合コンで丈哉と真理は知り合って、お互い意気投合し、敏数も知らぬ間に、いつの間にか付き合い始めたカップルである。

 今、ビジネススーツ姿の在吉丈哉と、白いポロシャツと黒いジャージズボン姿の大佐渡真理は、テーブルを挟んだ敏数の前に仲良く二人並んで、同じものを注文して、ケーキをつつきながら時々コーヒーを啜っている。

 「やっぱ、アイスコーヒーの方が良かったかな」

 「うん。でも、ケーキはセットだったからね」

 丈哉の言葉に、すぐに真理が応える。さっきからこの調子だ。二人は本当に仲が良い。恋人どおしを通り越して、仲の良い姉弟のようにも見えた。真理の方が丈哉よりも、二つ三つ、年上になる。おもむろに、藤村敏数が話し出した。

 「そうだなあ。大佐渡君と会うのは、あの合コン以来じゃないかなあ。後で達ちゃんに、あの二人が付き合ってる、って聞いてびっくりしたよ。それから俺は、実は、酒よりも甘いものの方が好きなんだ。俺は、達ちゃんみたいな飲んべえとは違うしね。飲んでも付き合い程度だしね」

 「中村さんは、タケ君を風俗ばっかり誘うから困ってます」

 大佐渡真理が不満そうに言う。彼女は、在吉丈哉のことを 「タケ君」 と呼んでいるらしい。

 「大丈夫だよ。俺は行ってねえよ」

 タケ君が心持ち、うるさそうに答えた。笑いながら、敏数が真理を諭す。

 「確かに達ちゃんのキャバクラ勧誘はしつこいけど、大佐渡君、心配しなくとも在吉君は風俗なんて行ってないよ」

 「俺、だいたい酒も強くないし、キャバクラで馬鹿騒ぎとか趣味じゃねーよ」

 「そうだな。達ちゃんのは病気だな。キャバクラ病」

 と、答える敏数だったが、本当は敏数自身も遊び好きで、中村達男とは一緒にかなりの回数、キャバクラ通いしている。ただ、敏数も最近はあまり、飲み屋や風俗通いは乗り気がしないのだ。

 「キャバクラっていえば吉川係長、あんなとこに一人で入って行くなんて、びっくりっすね。まあ、最近の係長はちょっと、変過ぎてるけど」

 「うん。あの係長がなあ。人ってあんなに変わるもんなのかな‥」

 同じ職場の二人の話に、真理が興味を持った。

 「ねえ、何の話?」

 「ん? ウチの職場の係長の話さ。今年に入って、そうだなあ‥。春頃から何か、だんだん人が変わって行ってさ」

 丈哉が応える。

 「人が変わった?」

 真理が疑問を持って、なおも訊いてきた。

 「几帳面で真面目な人が、えらくだらしなくなっちゃってさあ。何か、別人になったみたいで。ねえ、藤村先輩」

 丈哉が、敏数に同意を求めた。

 「うん。それは俺もそう思うよ。同じ一人の人間が、この何ヵ月かの間に変わり果てちゃったからなあ。何か不思議でもあるよな」

 「入社二年目の俺がこんなこと言うのも何すけど、吉川係長、ぶっちゃけクビっすかね?」

 「う~ん、最近の仕事中の心ここにあらずな、ヤル気のない態度とか、実際の、数多くの仕事上のミスとかも大きいけど、流石に今日のセクハラは致命的だな」

 「え~っ! その吉川係長って、セクハラなんかしたんだ?」

 「うん。総務課のOLの尻を触ったんだ」

 「うわあ~、ひどいね。女の敵!」

 大佐渡真理が顔をしかめて、露骨に嫌な表情を見せた。

 「そんなにかい?」

 真理の様子に、敏数が追って訊いた。

 「だってそうじゃん! 女子のお尻を触るって、会社だからセクハラだけど、これ、電車の中だったらモロに痴漢だよ。警察逮捕ものじゃん!」

 「あ、そうだよなあ」

 丈哉が、真理の話に感心したように言った。真理が、丈哉に向かって訊いた。

 「その係長って、昔は真面目だったんだ? それが、人が変わったように変態みたくなったんだ?」

 「変態」 と、言葉を復唱して丈哉は、吹き出すように笑った。敏数は笑わずに言った。

 「昔って、何ヵ月か前から変わってしまったんだけどね。変態っていえば成程、変態になっちゃったんだなあ‥」

 「ふ~む」 真理は顎に手をやって、考え込んだ。

 「大佐渡君はえらく、関心持っちゃったみたいだな」

 敏数の言葉に、丈哉が応える。

 「いや、ちょっとアレなんすけど。真理ちゃん実はアレで‥」

 言いにくそうに、丈哉が訳の解らない説明をする。

 「はあ?」 敏数が怪訝な表情で、丈哉の顔を見る。敏数が真理に目を移すと、真理は俯き加減で、指先で自分の顎を弄びながら黙ったままだ。ふと、真理が顔を上げ、丈哉を見て訊いた。

 「ねえ、今、その係長って何処に居るの? 自分の家?」

 突然の真理の質問に、敏数も丈哉も驚いた顔をしたが、丈哉が応えた。

 「今、キャバクラに居るよ。何ていうか、場末のチンケなキャバクラでさあ。これが何か、気味悪いんだよ。何か、不気味な雰囲気で‥」

 「外側からしか見てないけど、安っぽい古ビルに入ってるし、確かに高級そうなイメージはないよなあ。不気味っていうのはどうかと思うけど、確かに何だか、不健康そうな雰囲気出してるよなあ。キャバクラの明るく陽気に弾けたイメージは、湧かない感じがしたなあ」

 「そういえば、中村さんも一緒だったんでしょ。中村さんも、そこに入って行ったの?」

 丈哉が否定する。

 「いや、違うよ。中村先輩は他の、自分のお気に入りのキャバ嬢が居る店に、一人で行っちゃった。俺も藤村さんも一緒に行こうって、しつこく誘われて断るのに苦労したよ」

 「まあーっ! 中村さんて奥さん居るんでしょお。それを、お気に入りのキャバ嬢だとか、最低っ!」

 真理は、中村達男が妻帯者のくせに一人でキャバクラに入って行ったということよりも、しつこく丈哉をキャバクラに誘った、ということに腹を立てているらしかった。

 「係長、いったい何時まで、あのキャバクラに居るんだろ? 午前零時くらいまで居るのかなあ? 風営法とかあるから、キャバクラもそのくらいがラストの筈だしなあ」

 「何か、係長の家庭が心配っすね。もし、キャバクラ狂いになってて、しょっちゅう通ってんなら家の中、きっと大変っすよ。小学生のお子さんが居るんでしょ」

 「そうだなあ。しかし、何度も言うけど本当に、いったいどうしてあの真面目でちゃんとした吉川係長が、あんなに変わっちゃったんだろう? 不思議だよなあ‥」

 敏数と丈哉のやりとりを聞いていた大佐渡真理が、突然、言い出した。

 「ねえ、今からそのキャバクラ、行ってみようよ。藤村さんも一緒に!」

 真理は最初、丈哉に向かって言い、後半は前に座る敏数の顔を見た。

 「えーっ!」 敏数と丈哉が、同時に驚嘆の声を出した。

 「待ってよ、真理ちゃん。今日はデートだったんだぜ!」

 「うん。でも、映画見る筈だったけど、あたしの仕事が終わんなくて映画間に合わなかったでしょ。もう遅い時間だし、後は何処かでご飯食べるくらいしかできないよ。それなら、ちょっと寄ってみようよ。その、係長さんが出て来るかどーかさ」

 丈哉は驚いたし、困った顔をしたが、黙った。真理がニヤリと笑う。どうやらこのカップルは、年上の真理がイニシアチブを持っているようだ。

 「真理ちゃん、吉川係長に興味津々だな。知らない人なのに、どうして?」

 敏数の問いには、丈哉が応えた。

 「この人、好奇心強いんすよ。気分悪くなるくせに、心霊スポット行きたがったりとか‥」

 丈哉が話すと、敏数が不思議そうな顔をした。

 「へえ~、二人はデートで、心霊スポット巡りみたいなことやってるんだ?」

 敏数の驚き顔に、丈哉が言い訳めいて話す。

 「いや、心霊スポット巡りって程は、そんな場所ばっかり選んでドライブしてる訳じゃないんですけど。たまたま行った行楽地から数キロのとこに、有名なのがあったりしたら、ちょっと寄り道してみたりする程度っすよ。」

 「へえ~、そうなんだ。俺はそういうのには、昔から関心がないからなあ。俺にはその、何だ、霊感なんてものも全然ないしね」

 そう言いながら敏数は、フッと笑いを漏らした。それが如何にも馬鹿馬鹿しい、という態度に見えたので、真理が怒った顔をした。

 「あの~」 と、丈哉が遠慮がちな調子で、話し始める。

 「藤村先輩。いや、馬鹿くさいって笑うかもっすけど実は‥」

 丈哉は話したいけど言いにくい、という雰囲気だ。

 「何だよ、在吉君。在吉君らしくないな。どんな話だって、別に、馬鹿くさいとか思わないよ。話してくれよ」

 「いや、笑わないで聞いて欲しいんすけどね」

 敏数は黙って、丈哉の次の言葉を待った。

 「実はこの真理ちゃん、霊感が強いんすよ。それも半端なく‥」

 隣で聞いている大佐渡真理は、困った顔をして居心地悪そうにした。敏数は言葉が出ずに、ポカンとした顔をした。

 「ほら、もう、タケ君、変なこと言うから、藤村さん固まっちゃったじゃん」

 真理が、隣の丈哉を責める。

 「いや、藤村さん本当なんですってば‥」

 敏数が口元に笑いを浮かべながらも、強い調子で肯定した。

 「いやあ、そりゃあ本当だろうさ。勿論、嘘だなんて言わないし、思ってもないさ。ただ‥」

 丈哉と真理は揃って、敏数の顔を見つめ、黙って次の言葉を待った。

 「ただ俺は、そういうオカルトみたいのは関心持って来なかったし、俺自身、霊感とかそういうの全くないし、これまで、霊とか見たりとか不思議体験、全然ないしなあ‥」

 「藤村さんは私のこと、馬鹿にしてる。本当は、馬鹿馬鹿しいって笑いたいんだ」

 真理が、怒った顔をした。

 「いやいや、そんなことないって。ただ俺に、そういう経験がないだけだ」

 「藤村先輩。本当っすよ。真理ちゃんと心霊スポット行くと、真理ちゃん、必ず気分悪くなるし、それに予備知識なしに通った峠で、真理ちゃんが気持ち悪くなって、ここはヤバいからって引き返して、後日解ったんすけど、その峠、有名な心霊スポットだったんです」

 丈哉は真理を庇って力説する。

 「実際、ユーレイ見たことあるって言うし。間違いないっすよ」

 「もういいわよ。信じてない人にいくら言っても、無駄なんだから」

 真理が怒ったような困りきったような調子で、焦って丈哉を止める。

 「いやいや、ごめんごめん。俺自身が、心霊現象とかと無縁の存在なもんだから。UFOとかだって見たことないし‥」

 敏数が慌てて言い訳をしていると、突然、真理が立ち上がった。

 「よし! 今から、そのキャバクラに行く。タケ君、案内して」

 「えーっ!」 丈哉が驚いて、立っている真理を見上げた。

 「いや、真理ちゃん。腹減ってるから、何処か食べに行こうよ。ケーキとコーヒーだけじゃ腹の足しになんなくて」

 「うん。だから、その怪しいキャバクラの様子、外からちょっと見に行ってさ。それから、ご飯食べに行こ」

 「ちぇっ。しょーがねえなあ‥」

 丈哉が、しぶしぶ立ち上がった。

 「ええ~! 二人とも、あの歓楽街の奥まで行くんだ?」

 敏数は驚きと焦りで、席を立った二人を見上げる。丈哉が応えた。

 「ちょっと行って来ますよ。ええっと‥、ここの勘定はと‥」

 丈哉がポーズだけ、財布を出して見せる。

 「いいよいいよ。ケーキ代くらい」

 「ゴチになります」

 テーブルから離れようとする二人を追って、敏数も立ち上がった。

 「俺も行くよ」

 「藤村さん。関心がないのに別に、無理に付き合わなくてもいいですよ」

 真理がクールに言い放った。敏数が慌てて返す。

 「いや、そうじゃないんだ。俺も、吉川さんは心配なんだ。あれから一時間近くは経つだろ。店から出て来るかも知んないしさ」

 「じゃ、三人で行ってみますか」

 丈哉の言葉に促され、三人は駅の喫茶店を出た。駅からは裏通りを掻い潜って、一番直線距離に近い道のりを歩いて、20分足らずで歓楽街の奥付近まで出た。途中、中村達男が多分、一人で入っているに違いないキャバクラ店、ギャラクシーの前を通った。敏数が、丈哉と真理に、この店だと教えると、丈哉は 「へえ~」 と、軽く驚き顔で、店の入ったビルを見上げ、真理は露骨に嫌な顔をした。

 三人は歓楽街を歩き、吉川係長が入って行った、四階建て古ビルの手前まで来た。ビル正面の電飾が、原色で点滅しながら毒々しい光を放っている。それ以外はあたりのネオンはあまり目立たず、全体的に薄暗い。街灯も遠く、このビル以外は、歓楽街としての雰囲気は放っていなくて寂しい。歓楽街の外れといっていい、この辺りにはもう、歓楽街特有の華やかな明るさなど見えず、薄暗いばかりだ。

 「何か、このへんまで来ちゃうともう、飲み屋街って感じじゃないっすね」

 「うん。そこのビルだけど‥。どうする? 前でしばらく待ってみるかい?」

 敏数ら三人以外には、人通りがなかった。勿論、呼び込みなど店サイドの人間も、一人も出ていない。

 「やっぱり、このビルのこの雰囲気、何か気持ち悪いっすよ。こう、何か不気味雰囲気で‥」

 そう言ってから丈哉は、隣の真理の方を見た。真理は険しい顔をして、俯き加減だ。暗いのでよく解らないが、顔色が悪そうな気がする。

 「真理ちゃん、気分悪いの?」

 「うん‥」 静かに、一言だけ返事した。

 「藤村先輩。真理ちゃんが、気持ち悪そうにしてるっす。少し退がりましょう」

 そう言って丈哉は、真理の手を引いて早足で、今来た道を戻り、歓楽街の賑やかなところまで戻った来た。敏数も着いて戻った。10メートル以上は戻って来て、例の、映画館ビルの建つ通りとぶつかる十字路まで来た。最初、敏数と達男が、丈哉と合流した時間に比べると、人通りもだいぶ少なくなっている。胸を押さえて、息苦しそうにしていた真理が、顔を上げた。明らかに顔色が悪い。

 「大丈夫か?」

 丈哉が心配そうに、真理の顔を覗き込む。

 「居るよ‥」

 それまで黙っていた真理が、一言ぽつんと喋った。

 「えっ!」 丈哉が驚き、軽く声を上げる。敏数も真面目な顔で、真理を見た。

 「多分、あそこには何か居る‥」

 真理が、まだ少し息苦しそうな口調で続けた。

 「やっぱり。俺も何か、あのビッチハウスって店の前で、気味悪さを感じたんだ」

 そう、真理の言葉を肯定する丈哉に続いて、敏数が慌て声で言葉を発する。

 「ゆ、ユーレイなのかい?」

 敏数は何だか、間抜けな調子だが、真理は真剣に応えた。

 「解らない。けど、何ていうのか邪悪なものを感じる。もしも霊だとしたら、悪霊だと思う。それもかなり悪質な‥」

 真理の口調は静かだが、緊張を含んでいる。

 「悪霊の親玉みたいなヤツ?」

 「いや。いつも心霊スポットで感じる気持ち悪さと、少し違うみたい。あれは多分、怨念みたいなものなんだろうけど、今、あのビルの手前で感じたのは、もっと異質の邪悪さみたいな‥」

 敏数が吹き出した。

 「考え過ぎじゃないかなあ。だって、吉川係長は平気で入って行ってるんだし、俺だって、その気になればあの店には入れるぜ。ただ、あんな怪しげなキャバクラ、あんまり気が進まないだけで。係長ボラれたりするんじゃないかなあ‥」

 「それは、藤村さんに霊感がないからっすよ」

 丈哉が強い口調で、真理を擁護する。真理は黙っていた。

 「おうっ。みんな揃ってるじゃんか!」

 敏数が振り返ると、中村達男が立っていた。

 「あれ? 中村先輩」

 丈哉が声掛けた。敏数が達男に問うた。

 「ギャラクシー、入ったんじゃないのか?」

 「ああ、入ったよ。悲しいかな軍資金の都合で、一時間しか遊べなかった。どうだ、藤村。今から一緒に入らねえか? ギャラクシー」

 「冗談じゃないよ。吉川係長の様子見に、またあのビルの前まで来てみたんだよ」

 「ああ、この先のビッチハウスって店か。何か、雰囲気怪しげだよな。で、係長はまだ出て来ないのか」

 「今さっき来たばかりだから、解んないけど多分‥」

 「あのキャバクラ、ちょっと気味悪ィけど、藤村が金出すなら俺が入って、見て来てやってもイイぜ」

 「どうして俺が、そんな金、出さなきゃいけないんだよ!」

 「馬鹿だなあ、藤村。おまえ、今日は風俗なんて気分じゃないんだろ? 俺はギャラクシーで軍資金使い果たしたし、あそこの怪しいキャバに入った吉川係長のことは心配だし、そうなると、ものの筋道として、おまえが金を出して俺が偵察にあの店に入る、ってこれが道理じゃねえのか?」

 「でも、何か怪しげな雰囲気出してる店だから、中でボラれるかも知れないっすよ」

 「そうだよ。それに係長はとっくにもう、店を出てて、店にはもう居ないかも知れないし。だいいち俺もそんな、達ちゃんのキャバクラ代なんて出さないよ。喫茶店でコーヒー代出すのとは、訳が違うんだから」

 達男は、敏数を口説くのを諦めたのか、丈哉の方を向いた。

 「なあ在吉君。これも人生勉強だ。これから仕事をやって行く上でも、必ず役に立つ。俺が中で、遊び方を一から指南するからさ。な、一緒に入ろう。まあ、今日のところは授業料は、払ってもらうことになるけど」

 丈哉の隣で真理が、怖い顔して達男を睨み着けている。

 「あれっ!? 在吉君、今日は彼女付きなのか?」

 「一応デートっす」

 真理はまだ、怒った顔のままだ。

 「中村先輩。あのビッチハウスってキャバクラは、止めた方が絶対良いっす。あの店は、不気味過ぎるっす」

 丈哉は店の手前で、真理の容態がおかしくなったこともあって、そう言った。

 「いや、俺はキャバクラだったら、何処でも良いんだよ。在吉君、何しろ人生勉強なんだから。デート中ならしょうがねえな。この次またな‥」

 真理が怒った顔のままで、丈哉の上着の袖を引っ張った。この場を離れよう、という合図だ。丈哉が慌てて大急ぎで、敏数と達男に挨拶した。

 「じゃ、先輩方。今日はこれで、どーも済みません。失礼します!」

 丈哉が、真理に引っ張られるように急ぎ足で去って行く。

 「ああ。じゃあまたな」 と、敏数は手を挙げて見送り、達男は黙っていた。

 見ると、達男は機嫌が悪い様子だ。

 「達ちゃん悪いが俺は、どうしてもキャバクラなんて気分にはなれないんだ。申し訳ないけど、俺は今日はこれで帰るよ」

 怒ったような顔の達男に気を使って、敏数が言った。

 「いや違うんだよ、藤村。俺が腹立ててるのは、今のあの女の態度だよ。何でぇ、挨拶も無しに、ヒトのこと睨み着けやがって!」

 「ああ。大佐渡真理ちゃんかあ。それは、達ちゃんが強引に、在吉君をキャバクラに誘ってたからだよ」

 「しかしあの女、まだ若いくせに生意気だよ」

 中村達男は、大佐渡真理の性格のボーイッシュで勝ち気なところが、表面に出ているのが気にくわないようだった。

 実は、一年少し前に藤村敏数が計画して行った、敏数の旧職場の女子従業員と現職場の男性社員との合コンの時に、既に結婚していた中村達男も独身だと偽って参加し、ルックスで見て大佐渡真理を気に入り、ナンパしようと口説きに掛かり、しつこく話し掛けていたら、真理に露骨に嫌われ、揚げ句、実は結婚していることがバレてしまった。真理は、“安全パイ”に見えた、在吉丈哉の隣の席に逃げてしまった。

 後日、在吉丈哉と大佐渡真理が付き合い始めた、と知って、達男はカンカンになって怒り、しばらく不機嫌になった。その当初は、達男は先輩の立場から、丈哉に随分辛く当たったものだ。しかし、要領良い丈哉はうまく立ち回り、また、先輩・中村達男の信頼を取り戻すことができた。だが相変わらず、大佐渡真理のキャラクターは気に入らないようだ。

 「だいたい俺は、ああいう女は嫌いなんだ」

 「ああ。解ったから達ちゃん、もう帰ろうぜ。駅まで一緒に行こう」

 敏数が達男に帰りを促し、駅方面へとターンしかけたとき、達男の肩に手を掛け呼び止める声があった。

 「ちょっと、ちょっと‥」 しわがれた女の声。

 二人はギョッとして、立ち止まった。振り向くと、達男の斜め後ろに、かなりな厚化粧の老婆が立っていた。敏数は一瞬、白雪姫に毒リンゴを持って来た老婆や、西洋の魔法使いを連想した。だが、この老婆の出で立ちは派手だった。老婆は赤く染めた髪にエンジのスカーフを被り、服装はピンク色のドレスのようなワンピースに、肩には真っ赤な薄手のショールを掛けている。真っ白く塗り固めた化粧に、真っ赤な唇が毒々しい。アイシャドーも両目上下に濃く塗ってあり、瞼は長い付け睫だ。

 敏数は無意識に、「お化けだ」 と口をついて出そうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。

 「どうしたんだい? 遊ぶトコ捜してんだろ‥」

 「ああ、おタカ婆さんか」

 老婆に話し掛けられた達男は、旧知の仲らしい。

 「婆さんは失礼だろ。お姉さんとお言い。あたしが相手してやっても良いんだけど、二人相手じゃね。それに今日は腰も痛いし‥」

 「いいよ、いいよ。おタカお姉さん。俺たちは今日は、キャバクラに来たんだ。それにもう、帰るところさ」

 「何だい、つまんないね。遊ぶんなら良いトコロ、紹介してあげるのに。乳の張った若い娘が居るよ」

 達男は笑い声を上げた。

 「いや、本当に今日はイイんだ。遠慮しとく」

 敏数が、達男の耳許に顔を寄せて、小声で訊いた。

 「ポン引きの婆さんか?」

 敏数は囁くように言ったつもりだったが、聞こえたらしい。

 「あんた。若いのに、古い言葉知ってんね」

 「み、耳が良いんですね、お婆さん‥」

 焦った敏数が、愛想笑いを浮かべながら言った。

 「あたしのことを“遣り手婆”だとか、ひどい呼び方する奴らも居るけどね。あたしゃ、ついこの間までバリバリの現役さ。ただ最近はちょっと、身体を悪くしちまってね。この頃は、この街の遊べる店をあれこれ、殿方に紹介しているのさ。いわば、この街の専任ガイドだね。あたしゃ、昔も今も良心的だよ」

 派手な格好の老婆は、敏数の顔を凝っと見てニタリと笑った。敏数は、真っ白く厚塗りした肌に浮かぶ、真っ赤な唇から覗いた白い歯並びに、ゾッとした。綺麗に揃った一見、健康そうに見える歯は、おそらく総入れ歯だろう。頭巾のように被ったスカーフの下の、真っ白くて皺くちゃの微笑が、敏数の顔まで近寄って来た。幾分、腰の曲がった老婆の身長は、敏数の肩くらいしかない。

 「あんた、けっこう男前だねえ」

 敏数は、すぐ近くまで寄った老婆の微笑に、心持ち退け反りぎみで、両肩から首筋に震えが走る。

 「今日は腰が痛いけど、何ならあんた一人くらい、相手してやっても良いよ。あたしのテクニックは、ギョーカイじゃあ“神ワザ”って評判なんだよ」

 「い、いえ、けっこうです。僕すぐ帰りますから」

 敏数は恐怖感を伴った震え声で、おタカ姉さんの申し出を断った。隣に立つ達男が可笑しそうにして、このやり取りを見ていた。

 「達ちゃん、行くぜ!」

 焦って敏数が帰りを促す。達男はハッと思い付いたように、老婆に向かって訊いた。

 「おタカ姉さん。ちょっと尋ねたいんだけどさ‥」

 「何だい? 遊ぶ気になったのかい? この辺はあたしの庭さ。どんな店だって、紹介してやるよ」

 「違うよ、おタカさん。この先なんだけど‥」

 達男は、今、自分らが立つ歓楽街通りの、奥の方を指差した。

 「ここからだと、もう歓楽街の外れになるけどさ。あの辺に古い四階建てのビルがあって、そこにキャバクラが入ってるんだよ。え~と、二階か三階だね‥」

 達男の話を聞いていると、それまで穏やかな表情で微笑を浮かべていた、おタカ姉さんの様子が急に変わった。

 「そのキャバクラのこと、訊きたいんだけどさ‥」

 達男が不思議そうな顔で、おタカさんを見る。明らかにおタカさんの表情は変わっていた。老婆は、緊張した面持ちで険しい顔をしていた。

 

「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)へ続く。

 

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)

 

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●漫画 ・・ 「鉄腕バーディー EVOLUTION」第12巻

 あの「鉄腕バーディー」が、ついに終わる! 大長編大河SF冒険サスペンス・スペースオペラ・ヒューマン活劇ミステリ宇宙ロマン巨編漫画、「鉄腕バーディー」~「鉄腕バーディー evolution」が終了します。2012年9月4日初版発行の「鉄腕バーディー evolution」第12巻が出て、2012年9月末日発行の「鉄腕バーディーevolution」第13巻にて、大長編SF「鉄腕バーディー」シリーズは堂々の完結をしてしまいます。寂しいっ!!

 2003年初頭、小学館の週刊ヤングサンデー誌上に始まり、2008年より掲載誌を週刊ビッグコミック・スピリッツに移し、約10年間連載を続けた壮大なSF巨編ドラマは、ビッグコミック・スピリッツ2012年第34号掲載分を持って、その連載を終了しました。物語は終わってしまいました。悲しいっ!!
 月間スピリッツ2012年10月号に、「鉄腕バーディー evolution」の週刊スピリッツ終了後の、後日譚が読み切りで掲載されているらしいですね。

Photo_2

 東京の裏町の住宅街から、都心の繁華街から、都会の工事現場から、廃病院から、学校の校舎や校庭から、湖底の秘密基地から、山奥から、宗教教団本部から、秘密実験棟から、大物政治家の屋敷から、製薬会社の本社ビルから、雪山から、雪山温泉旅館から、雪山地下要塞から、予備校教室から、地球成層圏外から、月面から、火星軌道上から、木星衛星軌道上から、太陽系外縁から、外宇宙・外銀河から、外銀河の各惑星から、恒星間飛行宇宙船内から、地球海洋上から、押入れからetc.etc.…と、地球上から大宇宙へとあらゆる地域を縦横に舞台を変えて、10年間の長きに渡って編み続けられて来た、SF大河巨弾巨編漫画、「鉄腕バーディー」~「鉄腕バーディー evolution」。ついに終わってしまうんですねえ。いや、もう終わってしまったんだなあ。ヤンサンからスピリッツのビッグコミックスで、「鉄腕バーディー」~「鉄腕バーディー evolution」合計全33巻。読み応えのある一大SF大河絵巻。我々の太陽系宇宙とは全く別の、銀河宇宙の各星系の歴史、紛争、文明、政治、生活、各宇宙人の姿形・生態までも描き切る一大スペースオペラでもあります。読んだことない人は是非ご一読を。全33巻。メチャ面白い。いや、面白かった‥。

※(2005-12/18)「鉄腕バーディー」第11集
※(2007-1/31)「鉄腕バーディー」第13集14集
※(2005-3/14)「鉄腕バーディー」⑧
※(2005-9/19)「鉄腕バーディー」第10集
※(2005-2/13)「鉄腕バーディー」
※(2006-5/1)「鉄腕バーディー」第12集
※(2005-06/19)「鉄腕バーディー」第9集

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