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山の日によせて

2016年08月13日 | エッセイ

  今年初めて山の日ができましたね。お盆にかけて、良い時期を選択してくれたと思います。

  みなさんは飛び石連休を活用されましたか。私はでかけていませんが、そのかわり山の思い出を書いてみました。私の山の思い出は、日本5位、3,180mの槍ヶ岳登頂です。それも中学2年生の夏のことでした。

   中学2年生が北アルプスの中でも最も厳しいと言われる山の一つである槍ヶ岳にどうして登れたのか。それも昭和38年、1963年のことですから、北アルプスも現在のように整備されてはいない時代でした。

   そのわけは学校にあります。ユニークな教育に力を入れる母校、成城学園の夏の行事で、中学2年は登山が公式行事でした。

   中学に入学すると1年生は夏の臨海学校で、全員が海で2kmの遠泳に挑みます。4月早々先生からそれを聞かされ、6月からプールでの訓練に入ります。泳げない生徒は特訓を受け、とにかく全員が挑むのです。私も6年生の時にやっと25mほど泳げただけなので、波のある海ではいったいどうなるんだろうと不安に思いました。

  しかし先生によれば、「プールで25m泳げれば海で2km泳ぐのはわけない」とのこと。その後の特訓でもプールでは平泳ぎで50mがやっとでした。しかし千葉県の富浦での臨海学校に行き訓練をすると、海では200mくらいは泳げるのです。でも2kmはその10倍です。

  挑戦の当日は生徒数200名くらいに対してサポートのボートが何艘も出て、大学の水泳部の先輩たちが泳ぎながらサポートしてくれます。生徒は全員掛け声とともに泳ぎ、途中ボートから水や氷砂糖をもらいます。その間だけボートにつかまることができるので、ついつい欲しくもない水や氷砂糖を欲しいとお願いしました。そしてたしか2時間ほどかかったと思うのですが、全員が泳ぎ切ったのです。なんという達成感だったでしょう。

    海の日の話になってしまいました(笑)。山に戻ります。

   2年生の春になると全員で神奈川県は丹沢山塊の大山に登山をして、登山訓練が始まります。実はこの大山登山、訓練と選別を兼ねています。遠泳と違い、さすがに何日もかけて登る槍ヶ岳は体力に差のある全員が登山するのは無理です。そのため自己申告で、槍ヶ岳組、白馬岳組、軽井沢高原組に分かれるのですが、その見極めのために大山に登るのです。槍ヶ岳や白馬岳に登るには本格的登山靴が必要で、その当時は小さな登山靴は売っていなくて、特別に学校がそろえてくれました。大山には厳しい登山道と穏やかな登山道があって、槍ヶ岳組は厳しい登山道を登らなければなりません。それをなんとかこなして、あこがれの槍ヶ岳組に入ることができました。

  槍ヶ岳登山に対して父兄はどうだったかと言いますと、すでに1年生のとんでもない遠泳と冬の志賀高原でのスキーを経験していたので、むしろ喜んで応援してくれました。クラスは男女半々で40数人ですが、男子は半分の10人ほどが槍ヶ岳に挑戦し、あとは白馬岳。女子は槍がわずか2名で、あとは白馬と軽井沢組に分かれました。

  槍への挑戦は2年生総勢50人ほど。それを登山好きの先生が5人、カメラマンを兼ねた山のガイドが1人、強力が2人でサポートしてくれました。当時の強力とは普段山荘に食料を運ぶ仕事をしている人たちですが、途中で疲れた生徒のリュックを背負ったり、時には生徒を背負ったりしてくれます。

  槍ヶ岳へは、燕岳から大天井岳(おてんしょうだけ)を経る北アルプスの「表銀座縦走コース」を取ります。日本のアルピニストの誰もが憧れる表銀座コースですが、中学生が縦走するのは本当に驚きだと、山好きの大学生の従兄が言っていたのを思い出します。

   私は小さいころから晴れ男だったので、全行程快晴に恵まれました。最も厳しかったのは初日の中房温泉から直登する燕岳、2,763mへの登山でした。とても大山登山の比ではなく、女の子は初日から強力に背負ってもらうほどでした。しかしそれを登り終えると、北アルプスの絶景が拡がっていました。この絶景を見るためにアルピニスト達は表銀座に来るのだそうです。

  当時の写真はモノクロだったし、プリントしかの残っていません。そこでみなさんには見ていただきたいサイトをお知らせします。知らない方のサイトですが、燕岳への登山と山頂小屋、そして360度のパノラマ動画をみることができます。感謝!

http://ohara98jp.exblog.jp/20873178/

 

  登山2日目はすごく遠方に見える槍ヶ岳まで一気に縦走しますが、あんなに遠くの山まで本当に一日で行けるのかと、気が遠くなるような思いで見たのを思い出しました。快晴の表銀座はとても気持ちのいい縦走ですが、途中でかなりの上り下りがあるため、中学生達はみんなで「もったいねー、降りるのヤダー」と大声で叫びました。すると北アルプスから「もったいねー、降りるのヤダー」と見事なコダマが返ってきました(笑)。

  縦走は途中で大天井岳を回りこむようにして槍ヶ岳の山頂脇にある「肩の小屋」まで行きます。翌朝は早朝に起きてご来光を仰ぎながら、山頂までのスリル満点のロッククライミングです。肩の小屋からは、ほとんど垂直のロッククライミングになります。

  別のサイトにはそのロッククライミングの写真があります。このサイトの登山ルートは我々が下った上高地から槍沢を経る登頂ルートですが、その間の写真がとてもきれいだし、槍ヶ岳の厳しさの様子がよく見てとれます。きっちょむさんに感謝!

http://kiccyomu.net/yarigatake.html

   槍ヶ岳のとんがりの横にちょっととんがっているのが「アルプス一万尺、小槍の上で・・・」という歌で有名な小槍です。小槍は自前のハーケンとロープでしか登れないはずです。

   頂上への最終ルートはオーバーハングにちかいのですが、数mだけはしごがかかっていました。最近登山した友人に聞くと、最近はもっとはじごがたくさんかかっていて、登りルートと下りルートが分かれているとのことでした。

  しかし思い起こすと、こんなに厳しい登山を中学2年生が毎年しているなんて、驚く以外ありません。我ながらよくやったものだと思います。

   最後は上高地に向かって槍沢を一気に下ります。下山も決して楽ではありません。膝が笑ってしまう体験を初めてしました。下山途中で大学の山岳部のグループが、一人30kgものリュックを背負って登って来ました。我々と出会うと、「お前ら槍に登ったのか、ホントか」と何度も聞かれ、我々は誇らしげに「ホントだよ」と答えたのを思い出しました。

   そして夕方には上高地の明神池にある明神荘に到着し、久々にお風呂に入って疲れをとりました。

   実は15年ほど前にこの上高地の明神池を再訪しました。60歳台で母親がなくなったあと一人になった父親に親孝行をしようと思い、写真好きの父親が昔から行きたいと言っていた上高地の帝国ホテルに泊まりに行ったのです。その時に上高地をトレッキングして明神池に行きました。そこには中学の時に泊まった古い明神荘がそのまま残っていました。なつかしい明神荘で、やまめの天ぷらをいただきました。その時父親に、成城学園にいれてもらったおかげで槍ヶ岳登山ができた話をしながら、感謝しました。

   「山の日」ができたおかげで、中学生時代の忘れがたき思い出を書き記すことができました。その年にはお隣のおじさんが、「せっかく登山靴を買ったんだから、富士登山を一緒にしよう」と言って連れて行ってくれ、3千メートル級の山を2つも登ることができました。でもそれを最後に本格的登山はしたことがありません。

 以上、山登りの思い出でした。

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