先月他界された元妻江戸京子さんの後を追うようにして、小澤征爾さんが亡くなりましたね。米寿という年齢を考えると、私は残念とは思いません。私の父親はいつも「米寿を越えたら誰が死んでも「残念だ」なんて言うな。よくぞ生きた、オメデトウと言え」と言っていました。不謹慎と言われるかもしれませんが、私も「よくぞ長生きをしてくれてありがとう、そしてオメデトウございます」と言うことにします。そう言っていた父親は92歳まで生きていました。私のクラシック好きはオーディオにも凝っていた父親譲りです。
これを機に、「私の中の小澤征爾」を心に焼き付けるために、この文を書き残すことにしました。
小澤征爾さんと私は中学と高校が同じ成城学園だったため、私の中高時代から折に触れて縁を持つことになりました。クラシック好きな私としては、どのエピソードもかけがえのないものです。
まず初めは60年代、中学・高校時代です。彼は毎年冬になるとオーケストラとともに成城学園に来て、次の演奏会のリハーサルを見せてくれたのです。ほとんどがたぶん新日本フィルと一緒だったと思います、N饗とは犬猿の仲でしたから。彼は後輩たちに、曲の紹介や解釈をじっくりと説明してくれました。
しかしそのリハーサルの最中、私が最も印象に残ったのは、演奏とは全く関係のない着替えです。彼はとても激しい指揮をするため大汗をかき、何度も休憩を取り、そのたびにトックリのセーターを着替えて出てくるのです。黒いセーターの後は白いセーターというように。「暑いならトックリはやめればいいのに。でもなんてオシャレなんだろう」とみんなで話しました。若き小澤さんの熱血指揮ぶりがいまでも目に浮かびます。
次に彼と直接出会ったのは77年の西ベルリンです。私は当時JALでフランクフルト支店にトレーニーとして赴任していました。その当時のベルリン営業所長が大のクラシック好きで、私も好きであることを聞きつけて、「林君、今度小澤がベルリンフィルを振るので、聞きにおいで。チケットは用意するから」と電話をくれたのです。ルフトハンザに航空券をもらい、いそいそと出かけました。航空会社社員の役得ですね。その人のクラシック好きは度を超えていて、家には1千枚を超えるLPレコードがあり、ある時その重みで床が抜け落ちるという珍事が語り草になっている人物です。
JALは彼、西村氏をベルリンに営業所長として派遣しました。というのは、ベルリンは音楽家やオーケストラの出入りが多く、彼はその需要を掴み取るために、専門家と渡り合うことのできる稀有な人材だったからです。おかげで私は後に彼の手配してくれたカラヤン指揮のベルリンフィルのコンサートまで聴くことができました。
夕方西ベルリンに到着し、翌日は東ベルリン見物の後に小澤さんとベルリンフィルの公演を見る手はずになっていました。夕食を日本食レストランで食べ始めたら、なんとそこに小澤さんがひょっこり現れ、「よー西村君、久しぶり。一緒に食おうよ」と誘ってくれたのです。私はあまりのことに驚きながら一緒の席に移りました。すると西村さんは私を「この若者はフランクフルトからさっき着いたJALのトレーニーで、クラシック好きなんです。夏には夫婦で一週間もザルツブルグ音楽祭を聞きに行ったほどです」と紹介してくれました。私はすかさず自己紹介し、「私も中高が小澤さんと一緒の成城で、毎年小澤さんのリハーサルを母校のホールで聞いていました」と言うと、彼はとても喜んでくれました。
それから先は二人の専門家の会話となり私の出る幕なし。その中で西村さんの言った次の話がいまだに印象に残っています。
「今回も(会場の)フィルハーモニアは満席で、オケはきっとフルメンバーですよね。日本人で満席にできるのは小沢さんだけですから。だいたいベルリンの人たちはカラヤン中心。外からの指揮者を本気で聞きに来るのは小澤さんだけ。ウィーンからベームが来たって満席にならないほどのシビアな人たちなんですよ」とのこと。
西村さんによるとオーケストラがフルメンバーかどうかを一目で見分けるには、コントラバスを数えれば簡単にわかるとのこと。8本ならフル、6本ならまあまあだそうで、大きなコントラバスは遠目でもすぐ数がわかるからとのことでした。
その後も小澤さんと二人で、ベルリンフィルとウィーンフィルの古い楽器や音の差など、微に入り細にわたる専門的話に終始していました。私はただただ一緒の席にいることだけで感激し続けていました。
3つ目に印象に残ったエピソードは、以前にも紹介したことのあるニューヨークのカーネギーホールでの出来事です。私は90年にJALからソロモン・ブラザーズに転職し、ニューヨークで半年近く研修を受けていたのですが、その時小澤さんがボストンフィルを連れてマルタ・アルゲリッチとピアノ協奏曲で共演するとの情報を得ました。早速チケットを手に入れて聴きに行ったときのことです。第一楽章が始まってしばらくすると、「ブン」という大きな音とともにアルゲリッチが両手を上げて席を立ちあがり演奏をストップ。小澤さんに「ピアノ線が切れた」と言ったのです。そうしたことは、なくはないのですが、それからの二人の行動がとても面白かったのです。
二人は舞台正面の端まで来て足を下に投げ出して座ると、すぐそばの聴衆を交えて話をし出したのです。私は10列目くらいだったので、話を聞き取ることができました。話の内容は例えば「カーネギーは素晴らしいホールだけど、静かになると地下鉄の音が聞こえるのよね。それとニューヨークらしいのは、救急車のサイレンよね。ヨーロッパだとそんなことはないのに・・・」。というようなたわいもない話なのですが、とにかく人気絶頂の二人の話です、聴衆はこんな経験は2度とできないので、待つ間も時々拍手をするくらい大盛り上がりでした。
ピアノ線を張替え、調律を終えるまで待つこと30分。この上なく楽しく貴重な時間を過ごすことができました。切れたピアノ線に感謝です。もちろん演奏の再開はまた最初からでした。彼女のピアノと小澤ボストンによるベートーベンのピアノ協奏曲第4番は、私にとって忘れがたい演奏となりました。それ以降、有名な5番の「皇帝」より、おだやかな4番の協奏曲をこよなく愛することになりました。
最後のエピソードは私の娘とサイトウ・キネン・オーケストラのことです。今この文章を書きながら私は小澤の指揮するサイトウ・キネン・オーケストラの2枚のCDを聴いています。1枚目は軽快な2曲が入っています。チャイコフスキーの弦楽セレナーデとモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク。2枚目はちょっと重たいブラームスの交響曲1番、ライブ収録の1曲でCD1枚分です。
何故小澤さんの話に娘が出てくるかと申しますと、彼女はピアノを小澤さんのいた桐朋学園で学んだ経験を持つクラシック好きで、数年前にコンサル系の会社を辞め、その後毎年夏に松本市で行われる「サイトウ・キネン・オーケストラ、松本フェスティバル」の手伝いをしているのです。
サイトウ・キネン・オーケストラとは、小澤さんが桐朋学園で指揮を学んだ恩師、斎藤秀雄氏を記念して桐朋の卒業生らがオーケストラを編成し、折に触れて小澤さんとともに世界で演奏活動をして、松本でもフェスティバルを行っています。
「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は、1992年から毎年8月、9月に渡り長野県松本市で行われる日本随一の音楽祭です。2015年から名称を「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に変更しました。プログラムは大編成のオーケストラ・コンサートからオペラ、小さなコンサートまで多岐にわたります。ちなみに23年のプログラムはこちらです。
https://www.ozawa-festival.com/programs/2023/
小澤さんは体調が思わしくなくなってからも毎年この時期だけは涼しい松本に来て、総監督を務め指揮もしていました。昨年の夏もずっと松本に来ていたそうです。
小澤さんはセイジ・オザワ松本フェスティバルと名付けられた演奏会の本番であっても、体調の悪さから数年前を最後に指揮台には上がっていませんでした。
しかし彼こそ日本人音楽家として初めて世界の超一流音楽家の仲間入りを果たした稀有な人材です。私の心の中には彼が指揮する姿やオーケストラに指示を与える大きな声が鮮やかに焼き付いています。今もCD聞いているので、彼が長い白髪をなびかせながら鋭いまなざしでオーケストラの指揮をする姿が目に浮かんでいます。
我ながら、なんという幸せな思い出でしょう。
ありがとう、征爾さん。
以上、「私の中の小澤征爾さん」でした。