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もう一つのパリに恋して その2

2024年08月22日 | パリ紀行

 ラジオのタマカワへの出演報告に多くのコメントをいただき、ありがとうございました。私にとってとても大きな励みになるコメントで、改めて感謝いたします。

 

 今回はタイトルにあるように、観光客があまり行かない「もう一つのパリに恋して」の2回目です。

 

 1977年にJALの先輩に案内してもらった「もう一つのパリ」の話を書きました。その先輩は後にJALを退職してフランス料理の評論活動をして、大学の教授にまでなりました。

 フランクフルトからパリに旅行した時に宿泊したのはホテル・ニッコー・ド・パリでした。このホテル、エッフェル塔から遠くないパリの街中にあって新しい高層ビルを建てることのできる地区に建てられたのですが、悪評ふんぷんの外観と内装でした。設計はそのころ頭角を現していた気鋭のアーキテクト、黒川紀章氏。まだ開業したばかりの新品ホテルでしたが、黒川氏設計の外観がパリの街を汚すと酷評されていたのを思い出します。そのホテル、今はノボテル・グループに買収されニッコーの名前は無くなりましたが、外装・内装はそのままだそうです。

 

 しかし当時、一つだけ自慢できることがありました。それはメインダイニング、「セレブリテ」の総料理長にまだ名もなき若いシェフ、ジョエル・ロブションを連れてきたことです。彼はまだ30歳そこそこでしたが、なんとわずか2・3年目、セレブリテでミシュランから星をもらったのです。日本版ミシュランなどはない時代、その星を宣伝文句に使っても日本人で理解する人は少なかったと思います。

 

 70年代のフランス料理は古き良き伝統的な料理から日本食、それも懐石料理のコンセプトを取り入れはじめた時代への変革期を迎え、ロブションはその先駆けの一人として活躍。その後の彼はフランス国内はもちろん、海外への出店も数多く進めていき、勲章としてのミシュランの星のコレクターとまで言われ、世界でたしか10数個の星を得ていたと思います。

 

 ちょっと脇道に逸れます。最近家内が買ってきた本、「三流シェフ」by三国清三を読みました。四谷のレストラン、オテル・ド・ミクニのオーナーシェフで有名でした。

 本は彼の生い立ちから始まる分厚い自叙伝で、何故北海道の増毛という寒村から出て来て一流シェフになれたかを詳しく書いてあります。70年代は20歳台の彼にとって大事な時代で、スイスの日本国大使館の料理長として一本立ちをする時期に当たるのですが、実は大使館付きの総料理長に就任した時、それまでに本格的料理を習っていなかったので、大使館近郊の有名レストランで修行をしながらという、なんとも際どいシェフだったのです。

 

 彼が教えを請うたのは新しいフレンチ、ヌーベル・キュジーンで名を成し始めたジラルデやアランシャペルで、そこに入り込めただけでも大変なラッキーでした。70年代のフランスは新しい料理と古き良きフレンチの戦いの場となっていて、そこに三国と限らず若き日本人のシェフたちが修行を始め注目され始めた時代でした。

 

 実は私はその後80年代の初め彼が四谷に「オテルド・ミクニ」をオープンして間もない彼と知り合いになり、ある友人宅で彼を含む3人の若手シェフと夜通し「食」について話をしたことがあります。そこで全員の意見が一致したことはなんと、「世界で一番の料理は和食だ。ヌーベル・キュジーンなんて、懐石料理のフレンチ版にすぎない」ということでした。

 

 それまでのヘビーで濃厚なフランス料理を根本的に覆したのが、懐石フレンチなどと言われ始めたヌーベル・キュジーンでした。それまでのフレンチは宮廷料理に代表される、たっぷりと食材を使い、濃厚なソースでの味付けをしたものでした。新しいフレンチは、季節の旬な素材を活かし、素材の新鮮さで勝負する。それまで主役だったソースを脇役に追いやるという大革命でした。日本からフランスにやって来たシェフのタマゴ達は日本の料理も知っていたため、とても便利な存在でもあったようです。

 

 もちろんいまでもフレンチのコースを食べに行くと、オードブルが出て、以前より軽めとは言え魚料理、肉料理と進み、デザートで終わるパターンが一般的です。私は食べる量は多い方ですが、それでもメインを一つ食べればおなかはかなり膨れます。それではもったいない、というのが天邪鬼な私の発想です。

 私はその押し付けメニューに異を唱え、オードブルだけを心行くまで食べるというスタイルを時々試してみるのが好きでした。そのわがままな注文をまともに受けてくれたのは三国さんと、もう一人私がとても好きだったシェフ、井上旭(のぼる)さんでした。彼らのレストランではオードブルだけで少なくとも5~7品くらい用意があったので、わがままを言ってオードブルだけのおまかせコースをお願いしました。特に井上さんが独立して自分の名前を冠したレストラン、「シェ‣イノ」を出してからは折に触れて彼の所に行って、わがままを言わせてもらいました。

 日本の懐石料理であれば一応メインぽい料理もありますが、だいたいは10~15コースくらい出してくれます。その楽しみを、フレンチでもお願いしたのです。

 

 特に井上さんはとはその後長く親交を結び、とてもレアで新鮮な食材が手にはいると私のオフィスにまで電話がかかってきて、「林さん、今日は北海道からエゾシカが入ったよ。今晩なら刺身で食べられるよ」という具合に知らせてくれました。そうした時私はなにがあっても喜んで誘いに乗るようにしていました。その後井上さんは京橋界隈のシェ・イノだけでなく、青山に大きな一軒家を手に入れ、「マノワール・ディノ」という広い庭付きのレストランもオープン。そちらは奥様がいわばマダムとして取り仕切り、井上さんの元で腕を磨いたシェフが料理長を務め、都会では味わえない自然に囲まれたレストランを展開していました。しかし彼は3年ほど前、残念ながらまだ76歳の年齢で他界されました。

 

 私が食べることが好きになり、その最初のきっかけを作ってくれたJALの先輩、佐原秋生さんには本当に感謝いたします。

 

 その後彼に連絡を取ろうとしたのですが、出版社などに尋ねても、「連絡先は不明です」とだけしか返ってきませんでした。もしこれをお読みの方で佐原秋生さんをご存知の方がいらっしゃれば、林敬一が連絡を取りたがっているとお伝えいただけると幸いです。

 

 以上、「もう一つのパリに恋して」でした。

 

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もう一つのパリに恋して

2024年07月31日 | パリ紀行

 オリンピックが始まり、すでに佳境に入りましたね。日本チームの活躍が目覚ましく、当分寝不足が続きそうです。

 いままでのどのオリンピックになかったセーヌ川でのパレードで始まった開会式は、本当に素晴らしい開会式でした。これまでの開会式はあの入場行進が長く冗長なため、見ていて飽きてしまったのですが、今回は違いました。行進が続く中、様々なショーが差し挟まれていたので、飽きずに見ることができました。さすが演劇の国でもあるフランス、そしてパリです。

 なかでも私が優れていたと感じたのは行進と同時進行していた聖火リレーです。これがパリだという誰もが知るパリを走るとともに、知られざるパリの中身を走って見せてくれました。覆面をしたランナーが、有名な広場や街路、建物の中や屋根を渡り歩く。そしてルーブル美術館の内部などを巡り、盗難にあったという想定のモナリザの絵がなくなっている壁や、断頭台で切られた首を自ら持つマリー・アントワネットなどが次々に出てくるのも面白い趣向でした。それらとは別に普段見ることのできない有名なパリの地下の下水道や観光客があまり行かない地下墓地のカタコンベを走り、頭骸骨まで出てくる演出は見どころ満載。

 そしてどこにあるんだと謎になっていた聖火台はチュイルリー公園にありました。気球の下で台に点火されるとそれがなんと空中に上がるという趣向には本当に驚かされました。

 そしてもちろん、雨の中濡れたピアノの伴奏で歌った闘病中のセリーヌ・ディオンが昔と変わらない歌唱力で歌ったシャンソン、「愛の讃歌」は感動そのものでした。

 これだけのシナリオと演出は、さすが芸術の都パリです。

 

 私はパリが大好きです。駐在したことのあるドイツも好きですが、世界で最も好きな都市の一つはパリです。開会式を見ながら思い出したのは私のパリの思い出の中でも印象に残った1977年のパリツアーでした。

 

 73年、日本航空に入社した年に初めてパリを訪れたのですが、それはまさに「パリのアメリカ人ならぬ日本人」と言うべき観光旅行だったため、あまり印象に残っていません。

 77年は、私がドイツのフランクフルトにトレーニーとして駐在していた時です。ドイツへの転勤前に新入社員だった私を、手取り足取り指導してくれたパリ好きの先輩が、ちょうどマネジャーとしてパリに2度目の駐在中で、フランクフルトにいた私を呼んでくれたのです。そして彼は私を観光客の行かない「もう一つのパリ」に連れて行ってくれました。

 最初に行ったのはマルモッタン美術館で、モネの睡蓮の部屋とともに印象派の名前のきっかけとなったモネの「印象日の出」を見ることができました。この絵はその後白昼たしか開館中盗難に遭い、数年間行方不明となってしまいました。次に訪れたのは、ガラス食器の最高級品を作っているバカラの美術館旧館で、工房の上にあったような気がします。訪問客は我々だけという寂しさで、現在のレストランが併設されているきれいなバカラ美術館とは全く別世界でした。

 

 次はパリの市街地にあるサンマルタン運河。近年、水の研究をされている天皇陛下も確か訪れていたと思います。その見どころは、2つの運河を結ぶために作られた水の高低差を調節して船を通過させる設備で、実際に水門を閉めたプールに水をはり船を入れて通過させる様子を見ることができました。

 そのそばには多分世界でパリにしかない男性用公衆トイレ、通称「エスカルゴ」。ドアはなく、入口からエスカルゴの殻の中に入るようにして入って用を足す簡易トイレで、最近はパリでも見かけなくなったので、今もあるかどうかは知りません。

 

 ツアーのハイライトはプチパレで開催されていた「唐招提寺障壁画と国宝鑑真和上像の展覧会」でした。この展覧会は日本好きの多いパリで開催されるため、非常に大きな仕掛けとなっていました。なんと唐招提寺の数部屋に及ぶ部屋を会場にしつらえ、何百畳にもなる畳まで敷き詰め、床や柱なども唐招提寺の内部と同じように作り、68枚にもなる障壁画を嵌めこんでありました。唐から日本に渡るため7度もトライし失明までした鑑真和上も、後に空を飛んでパリに渡るとは、思いもよらなかったことでしょう。

 鑑真和上像や障壁画の空輸は日本航空が請け負いました。像は麻布を漆で貼り合わせて整形され、鮮やかな彩色が施されているのですが、部分的には厚さが数ミリしかなく、運送は無理だと言われていたのを日本航空と日本通運がリスクを承知で請け負ったのです。その様子は後に確かテレビで放映されていたと思います。

 私は東山魁夷が10年の歳月をかけて制作したこの障壁画が大好きで、駐在を終え日本に帰国してすぐに習作のうちの1枚のリトグラフを、ボーナスをはたいて買い入れ、いまでもリビングの壁に飾っています。東山魁夷が波濤を越える鑑真をイメージしながら書いたと言われる「波濤」シリーズの一枚で、「魁夷ブルー」と言われる独特の青色は今も色あせずに活き活きとしています。

 

 最後は先輩ご夫婦が連れて行ってくれたミシュラン一つ星のレストランです。フランス料理好きの先輩が説明してくれた次の話を今でも覚えています。「パリのレストランで一番予約の取りにくいレストランは、三ツ星なんかじゃない。無印から最近星を取ったか、一つ星から二つ星に昇格したレストランだ。食通はそこを目指すのだ」というのです。なるほど、古くからある三星レストランはある意味観光地化されてしまうため、むしろ常に新しい味を求めるパリっ子には魅力がなくなってしまうのでしょう。

 

 実はこの先輩、日本に帰ってからフランス料理のレストランガイドを書き、平凡社から出版までしています。そしてその後日本航空を退社して本格的にフランス料理の評論家になり著書も30冊を超え、最終的には名古屋外国語大学で教授にまでなっています。ペンネームは佐原秋生で、大学教授の時もその名前でした。

 

 パリと料理について書きだしたらとまらなくなったので、つづきを書きます。

 

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