ラジオのタマカワへの出演報告に多くのコメントをいただき、ありがとうございました。私にとってとても大きな励みになるコメントで、改めて感謝いたします。
今回はタイトルにあるように、観光客があまり行かない「もう一つのパリに恋して」の2回目です。
1977年にJALの先輩に案内してもらった「もう一つのパリ」の話を書きました。その先輩は後にJALを退職してフランス料理の評論活動をして、大学の教授にまでなりました。
フランクフルトからパリに旅行した時に宿泊したのはホテル・ニッコー・ド・パリでした。このホテル、エッフェル塔から遠くないパリの街中にあって新しい高層ビルを建てることのできる地区に建てられたのですが、悪評ふんぷんの外観と内装でした。設計はそのころ頭角を現していた気鋭のアーキテクト、黒川紀章氏。まだ開業したばかりの新品ホテルでしたが、黒川氏設計の外観がパリの街を汚すと酷評されていたのを思い出します。そのホテル、今はノボテル・グループに買収されニッコーの名前は無くなりましたが、外装・内装はそのままだそうです。
しかし当時、一つだけ自慢できることがありました。それはメインダイニング、「セレブリテ」の総料理長にまだ名もなき若いシェフ、ジョエル・ロブションを連れてきたことです。彼はまだ30歳そこそこでしたが、なんとわずか2・3年目、セレブリテでミシュランから星をもらったのです。日本版ミシュランなどはない時代、その星を宣伝文句に使っても日本人で理解する人は少なかったと思います。
70年代のフランス料理は古き良き伝統的な料理から日本食、それも懐石料理のコンセプトを取り入れはじめた時代への変革期を迎え、ロブションはその先駆けの一人として活躍。その後の彼はフランス国内はもちろん、海外への出店も数多く進めていき、勲章としてのミシュランの星のコレクターとまで言われ、世界でたしか10数個の星を得ていたと思います。
ちょっと脇道に逸れます。最近家内が買ってきた本、「三流シェフ」by三国清三を読みました。四谷のレストラン、オテル・ド・ミクニのオーナーシェフで有名でした。
本は彼の生い立ちから始まる分厚い自叙伝で、何故北海道の増毛という寒村から出て来て一流シェフになれたかを詳しく書いてあります。70年代は20歳台の彼にとって大事な時代で、スイスの日本国大使館の料理長として一本立ちをする時期に当たるのですが、実は大使館付きの総料理長に就任した時、それまでに本格的料理を習っていなかったので、大使館近郊の有名レストランで修行をしながらという、なんとも際どいシェフだったのです。
彼が教えを請うたのは新しいフレンチ、ヌーベル・キュジーンで名を成し始めたジラルデやアランシャペルで、そこに入り込めただけでも大変なラッキーでした。70年代のフランスは新しい料理と古き良きフレンチの戦いの場となっていて、そこに三国と限らず若き日本人のシェフたちが修行を始め注目され始めた時代でした。
実は私はその後80年代の初め彼が四谷に「オテルド・ミクニ」をオープンして間もない彼と知り合いになり、ある友人宅で彼を含む3人の若手シェフと夜通し「食」について話をしたことがあります。そこで全員の意見が一致したことはなんと、「世界で一番の料理は和食だ。ヌーベル・キュジーンなんて、懐石料理のフレンチ版にすぎない」ということでした。
それまでのヘビーで濃厚なフランス料理を根本的に覆したのが、懐石フレンチなどと言われ始めたヌーベル・キュジーンでした。それまでのフレンチは宮廷料理に代表される、たっぷりと食材を使い、濃厚なソースでの味付けをしたものでした。新しいフレンチは、季節の旬な素材を活かし、素材の新鮮さで勝負する。それまで主役だったソースを脇役に追いやるという大革命でした。日本からフランスにやって来たシェフのタマゴ達は日本の料理も知っていたため、とても便利な存在でもあったようです。
もちろんいまでもフレンチのコースを食べに行くと、オードブルが出て、以前より軽めとは言え魚料理、肉料理と進み、デザートで終わるパターンが一般的です。私は食べる量は多い方ですが、それでもメインを一つ食べればおなかはかなり膨れます。それではもったいない、というのが天邪鬼な私の発想です。
私はその押し付けメニューに異を唱え、オードブルだけを心行くまで食べるというスタイルを時々試してみるのが好きでした。そのわがままな注文をまともに受けてくれたのは三国さんと、もう一人私がとても好きだったシェフ、井上旭(のぼる)さんでした。彼らのレストランではオードブルだけで少なくとも5~7品くらい用意があったので、わがままを言ってオードブルだけのおまかせコースをお願いしました。特に井上さんが独立して自分の名前を冠したレストラン、「シェ‣イノ」を出してからは折に触れて彼の所に行って、わがままを言わせてもらいました。
日本の懐石料理であれば一応メインぽい料理もありますが、だいたいは10~15コースくらい出してくれます。その楽しみを、フレンチでもお願いしたのです。
特に井上さんはとはその後長く親交を結び、とてもレアで新鮮な食材が手にはいると私のオフィスにまで電話がかかってきて、「林さん、今日は北海道からエゾシカが入ったよ。今晩なら刺身で食べられるよ」という具合に知らせてくれました。そうした時私はなにがあっても喜んで誘いに乗るようにしていました。その後井上さんは京橋界隈のシェ・イノだけでなく、青山に大きな一軒家を手に入れ、「マノワール・ディノ」という広い庭付きのレストランもオープン。そちらは奥様がいわばマダムとして取り仕切り、井上さんの元で腕を磨いたシェフが料理長を務め、都会では味わえない自然に囲まれたレストランを展開していました。しかし彼は3年ほど前、残念ながらまだ76歳の年齢で他界されました。
私が食べることが好きになり、その最初のきっかけを作ってくれたJALの先輩、佐原秋生さんには本当に感謝いたします。
その後彼に連絡を取ろうとしたのですが、出版社などに尋ねても、「連絡先は不明です」とだけしか返ってきませんでした。もしこれをお読みの方で佐原秋生さんをご存知の方がいらっしゃれば、林敬一が連絡を取りたがっているとお伝えいただけると幸いです。
以上、「もう一つのパリに恋して」でした。