8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆、そして15日は終戦記念日と続きます。しかし我々JALの関係者にはその間にある8月12日、御巣鷹山での日航機墜落事故慰霊の日があります。終戦以来80年、事故以来40年目の節目です。
私の大学クラスメートであり、JAL同期入社の友人と昨年10月末に初めて慰霊登山をしてきました。その時の投稿を再掲いたします。
再掲
10月の今どき何故?と思われる話題かと思いますが、先週私は好天の中御巣鷹山慰霊登山をしてきました。慰霊の日は8月12日ですが、その時期を避けた理由は、慰霊の日の登山はとても混み合い、遺族でもない人間が行くのははばかられるのと、真夏のため体にはしんどいという事情からです。
今回の登山は二人での登山でした。もう一人は私の大学時代の同級生で、しかもJALに同期で入社した長年の友人です。先日真田宏之さんとのバーベキューの話を書きましたが、その時偶然にも彼と私は同時にニューヨークに駐在していてご近所同士。二家族で一緒に真田さんを歓待しました。
一月ほど前彼に、「実は長年御巣鷹山に慰霊登山したいと思っていたけどできなかった。こんど一緒に登らないか?」と誘ってみると、「僕もずっと慰霊登山をしたいと思っていた」とのこと。二人とも積年の思いを募らせていたので、あっという間に日程を決め、10月24日に行くことができたのです。
やっと心の中に長年つかえたままになっていた思いを果たすことができました。今後もし行かれる方がいらしたら、どうぞ以下の体験談を参考にしてみてください。
彼とは朝7時半に環八沿いの井の頭線高井戸駅で待ち合わせ、私の車で現地を目指しました。まず関越道の藤岡ジャンクションを経て上信越道に入り、下仁田インターまで1時間半。そこから下道で御巣鷹山登山口駐車場まで同じく1時間半の道のりのハズでした。
しかし下仁田の街を過ぎ国道を逸れて山道に入ったとたん、とても狭い道とトンネルの連続でスローダウン。しかもトンネル内にほとんど照明がなく、真っ暗な上にヘアピンに近いカーブまであり、徐行運転を強いられました。
山道は一台分しかないほど道が狭いうえ、一方が崖になっているので落石が多く、中には直径20㎝ちかくあるものがゴロゴロころがっているという恐ろしいほどの悪路でした。
ナビで1時間半のはずが時速20~30㎞でしか走れなかったため、3時間近くかかり、昼前にやっと御巣鷹山登山口駐車場に到着。この駐車場は比較的最近できたため私の車のナビにはなく、グーグルマップを頼りながらのドライブでした。駐車場は登山口の直下にあるのでとても便利ですが、乗用車だとせいぜい10台ほどしか駐車できません。それまでは数キロ離れた場所に比較的広い駐車場があり、そこだけが使用可能だったそうですが、登山道まで歩く距離が長いため、慰霊登山はとても大変だったそうです。
駐車場に着いて、登る前の腹ごしらえでバナナを食べていると、もう一台車が着いて、我々よりお年を召した方がお一人で来られました。そこで私から、「もし山に登られるのでした、我々とご一緒しませんか?」と声をかけてみると、「いやー、助かります。是非ご一緒させてください」とのこと。お歳をうかがうとなんと80歳。お住まいは都内で、長年にわたり新潟県長岡市の大学で教鞭をとっていて、今回は長岡にいる友人を訪ねた帰りに、お一人で御巣鷹山に慰霊登山をするためにいらしたとのことでした。
70歳代なかばの我々ですら二人で登山するのは心もとないと思うほど誰もいない険しい山道を前にしていたので、その方はさぞかし心強い道連れができたと思われたのだと思います。御巣鷹登山のガイドマップによれば、健脚な方なら約30~40分程度の登りだそうですが、我々はその方のペースに合わせて1時間ほどかけて山頂にある「昇魂の碑」に到着しました。実際にはそのペースで登らないとあまりに急登すぎて、我々もへばっていたにちがいありません。
ジャンボ機墜落地点である御巣鷹の尾根に登ってみると、そこは垂直に近い尾根の頂上付近で、飛行機が激突して何故生存者がいたのか、今さらながら不思議に思えました。
尾根を切り開いて作った200平米ほどの小さな広場に「昇魂の碑」が建てられていました。その他に、3mほどもある石造りの観音像、遺品を集めて埋葬した場所の石碑など様々な碑がありました。中でも心に残ったのは、ご遺族の方々がそれぞれの思いで建てられた数多くの碑です。碑文は故人の名前の他に様々な思いを言葉に表したもので、読むたびに涙を誘われました。
慰霊碑の前では友人が用意してくれた線香を焚き、手を合わせ、静寂な中でやっと積年の思いを果たすことができました。
おにぎりランチを含め一時間ほど山頂で過ごした後下山したのですが、急階段を降りるので、手すりにつかまりながら滑らないよう気をつけ、登り以上に神経を使い、時間も疲れ具合も登り同様でした。ただ慰霊も終え、途中でご一緒した方と様々な話ができたため、ひたすら歩くより、はるかに楽しく歩くことができました。
駐車場に着いて名刺を交換すると、その方は長岡科学技術大学の工学博士で名誉教授とのこと。実は帰宅後も私の著書とブログに興味を持たれたようで、メールのやりとりが続いています。
御巣鷹の尾根から下山したあと、我々は麓の上野村にある「慰霊の園」を訪れました。事故当時、林業が盛んで山をよく知る上野村の方々は、救助に当たった自衛隊や警察の部隊を、ヤブコギをしながら現場まで案内したり、麓のベースキャンプなどで長きにわたる支援活動をし続けたそうです。
そのうえ上野村は山と谷ばかりの地域にもかかわらず広い土地を提供し、平らにならし、実に立派な「慰霊の園」を作ってくれたのです。野球場ほどの広大な敷地には広々とした駐車場や展示資料室が作られていて、訪問者にはとても便利です。そして慰霊の日によくテレビに映し出される三角形の大きな慰霊塔があり、その周りは事故で亡くなられた方全員の名前が刻まれていました。上野村の方々には、本当に感謝の言葉しかありません。
そして私自身は、この数時間の間ほど敬虔な祈りを続けたことは、これまでついぞありませんでした。
私はあの事故当時、ご遺族の支援のため約2か月ちかく山の麓の藤岡にいたのですが、今回の登山に同行した同僚も同じ様に藤岡市で遺体が収容されてくる体育館にいて手伝いをしていました。
日航ジャンボ123便の事故は85年8月12日18時56分。私はその時ANAで私と同じ事業計画を担当している友人と、六本木のレストランでディナーをしていました。彼とは日本経済研究センターの同期仲間で、それぞれ会社から出向していて、その後も付き合いが続いていました。
私が事故の第一報を受けたのはJALではなくANAの本社からで、彼宛てに会社の上司の方から電話が入ったのです。その内容は、
「君はたしか今JALの人と一緒だよな。JALのジャンボ機が消息を絶った。事故に間違いないので、すぐ本社に帰った方がよいと伝えろ」とのことでした。
私は体から血が引くような異変を感じながら、食事も途中にあわてて社に戻りました。すると本社内はすでにてんやわんやの状況で、いまだ墜落地点は不明で、テレビを見たりしてひたすら情報収集にあたっているところでした。そして真夜中の2時頃になり、各人に指令が下されました。
「本社の人間は全員事故対応に当たるため、早朝午前5時に羽田のオペレーション・センター(運航管理センター)に出頭せよ。今から家に帰り1週間分の着替えを持参しろ」という内容でした。フライトの運航関係者や空港関係者は現場が動いているので持ち場を維持しなければならず、本社の人員だけがかき集められたのです。
タクシーで帰宅後仮眠をとる暇もなく着替えだけ用意してそのまま羽田に直行。するとそこにはすでに数十台の大型バスが待機していて、事故機に乗り合わせたご家族の方も続々と集まり始めていました。携帯電話もない時代、よくあれだけ多くの方々が集まれたと思うほどでした。搭乗者名簿の連絡先から予約センターの社員が連絡を入れたのです。
社員は2名ずつ各バスに支援員として乗車したのですが、どこに向かうのか決まっていませんでした。明け方には事故現場がほぼ特定されていたのですが、なにせとんでもない山奥で道もないため、そこへは一体どこからアプローチを行うか、あるいはご遺族はどこに行って待機するのがよいのか、決められずにいました。
しばらくするとバスの無線に警察から出発の指令が入り、羽田から白バイの先導で出発。私はバスのガイドが座る位置にいたため、無線でのやり取りはよく聞こえていました。
羽田で首都高速に入ったのですが、いまだに行先は不明のままでした。首都高速の環状線に入ったあたりで、「池袋から関越自動車道方面に行け」とのこと。
その間首都高速は全面的に一般車通行止めとなっていて、車の全くいない首都高速を走ったのは、後にも先にもそれが唯一の経験です。その後行き先が藤岡市と定められて藤岡ICで高速を降り、支援指令所の置かれた藤岡市民体育館に着きました。後にご遺体の安置所になった体育館です。
しかしそこでも何十台ものバスが駐車されていて、しばし待機。やっと昼頃に市内の各学校に分散して休むことになり、次の指令を待ちました。夏休み中でもあり多くの学校にとっては寝耳に水の事態でしたが、大事故のため実に親身になって協力してくれました。約千人にもなるご家族は名前のあいうえお順に学校ごとに分れて待機。バスのラジオや携帯ラジオでニュースを聞きながら、少しでも事故関係のニュースを得ようとみな必死でした。その頃の学校ではまだテレビは少なかったのです。
体育館の外では山の方に向かって自衛隊や報道関係と思われるヘリコプターが続々と飛来するのですが、どのヘリもしばらくするとまた戻ってきている様子でした。
後で知ることになるのですが、実際には現場付近まで行っても着陸場所は一切なく、火災のあとの煙だけ見て引き返したようです。
ご家族の方々は我々社員とともに体育館で休む以外行く場所もなく、ひたすら新たな情報を待っていました。夕方になると寝る場所を確保するため体育で使うマットを敷きましたが、数が足りません。そのうちやっと貸布団が届き始め、どうやら布団と毛布だけは確保できました。
しかし我々社員は体育館に寝る場所はなく、しかたないので教室に行って机を並べてその上に寝ることにしました。幸い夏だったので、毛布がなくても寒くはなかったのだけが救いでしたが、固い板の上に寝たのは初めてでした。その翌日ころからやっと飲み物と食事が届き始めます。もちろん初めは近隣のマーケットやコンビニで調達したおにぎりやサンドイッチ類だけでした。
その後は毎食事ごとに自衛隊のヘリで、お弁当が届くようになりました。その作り手は、実は「東京フライトキッチン」。つまりJALの機内食の子会社でした。ご遺族を含めその時点から弁当だけでまさか一か月以上過ごすことになろうとは、思ってもいませんでした。
体育館は蒸し風呂のように暑かったのですが、3日後くらいにクーラー装置を搭載したトラックが来て、送風機で冷たい風が入るようにはなりました。そのあとテレビが入り、新聞も配布されるようになったのですが、どれもがすべて事故のニュースばかりで、一般報道はほとんどない状態が続きました。その後の阪神淡路大震災や東日本大震災の後と同じ状況です。
最近は大きな災害が頻発しますが、その時TVで避難所を見ると、あの藤岡中学校での思い出が必ず頭をよぎります。
当時と今一つだけ大きく違ったのは、その頃には全盛期を迎えていた写真週刊誌があったことです。彼らの報道はどんどんエスカレートして、事故現場でご遺体がそのまま写っている写真が掲載されていたのを見た時は、本当にショックでした。
一方藤岡ではすべてのご遺族にベテランの社員が1名アサインされましたが、我々比較的若い社員はその下働きで、使い走りをしていました。2週間が過ぎるころにはご家族の方々はほぼ近隣の町のホテルなどに入れるようになり、過酷な体育館生活から解放されましたが、社員はまだ体育館暮らしが続き、私が高崎市内のホテルに入れたのは、一か月が過ぎた頃でした。
ご遺族のヘルプにアサインされた社員は、そこからとてもつらい役目が始まりました。それはご遺族と一緒に藤岡市体育館に行き、ご遺体の確認をする仕事です。私は自分自身のためと思い、知り合いのベテラン社員に同行させてもらい、その作業を手伝いました。
のちに「沈まぬ太陽」という山崎豊子の小説で描かれ、その後渡辺謙が主人公で映画化されましたが、その中でもあの体育館は登場しています。しかしその体育館は安置所であった時の強い臭いがぬぐえず、取り壊しになったと聞いています。
体育館に着くと、中に入る前から線香の香りが漏れていました。体育館の中には番号の付いた棺桶が数多く並べられていて、線香の煙が充満していました。ご家族はそれを全部チェックするわけにはいきませんので、持ち物や着衣など痕跡が残っていればそれを頼りに目星をつけて、確認をします。ジャンボ機はかなりの燃料を搭載しており衝突と同時に大火災が起き、ご遺体は損傷が激しいため、最後に頼れるのは歯形でした。そのためご家族にご本人が通っていた歯科医を探していただき、治療の有無を確認。体育館には歯科医の方が何人かいて、歯の診断書を基に捜索を行っていました。いわゆる検視官などの人数は足りず、大勢の歯科医の方が白衣で作業を行う姿を見て、その仕事の大変さに心が折れそうになりました。そうした作業は一か月以上続きましたが、なかなか全員の確認は終わりませんでした。
この先のことは書いてよいのか迷いましたが、この際事実ですので書くことにします。それは日本人と外国人のご遺族の行動に大きな差があったことについてです。私がアサインされた体育館はあいうえお順の一番最後のグループだったため、日本ネームのあとに外人のお名前が10名前後あったのです。海外から駆け付けたご遺族の世話をしていると、まだご遺体の発見に至らないうちに、帰国をされるご遺族が多かったのです。
その方々はこう言い残していました。「事故機に搭乗していたのは名簿で確認できたし、本人から連絡はない。死亡したのは事実だから、遺体の確認を待っていてもしかたないので帰国します」と言う言葉でした。
日本人は戦後80年を経ても遺骨を収集するために南方諸島や北方の島に出かけます。なんという違いでしょうか。それに衝撃を受けた感情はいまでも私の心に刻まれていて、慰霊の園でも、あいうえお順に碑に刻まれた最後のほうに外国人の名前を見つけた時、当時のことを思い出し、目に涙がうかびこぼれました。
これにて私の慰霊登山のお話を終えることにします。
今後二度とこのような悲惨な事故が起こらないことを祈ります。