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NHKドラマ「シミュレーション  昭和16年夏の敗戦」

2025年08月21日 | エッセイ

 終戦記念日にあたり、NHKで2回にわたる長時間番組が放映されました。NHKの番組説明には、「NHKスペシャルが終戦80年の夏に送る、実在した総力戦研究所に着想を得たドラマ『シミュレーション 昭和16年夏の敗戦』」です。原作はドキュメンタリーを得意とする作家猪瀬直樹氏の本、「昭和16年夏の敗戦  総力戦研究所"模擬内閣"の日米戦必敗の予測」です。

 私は猪瀬氏を政治家としてではなく、ノンフィクション作家として高く評価しています。その昔読んだ西武グループの発展を描いた「ミカドの肖像」や東急グループ中心の「土地の神話」が中でも印象的でした。西武グループ総帥の堤康次郎が都心の超一等地にあるプリンスホテルの土地をどうやって皇族などから買収していったかを詳しく書いてありました。高輪プリンスは竹田宮邸。新高輪は北白川宮邸。赤坂プリンス旧館は李王家邸。 軽井沢プリンスは朝香宮家の別荘、などです。

 

 今回のドラマの原書も猪瀬氏は独自の取材力を駆使し、実話に即して書いていると言われています。テレビドラマの内容はそのタイトルどおりで、政府が総力戦研究所を作り、開戦半年前に詳細なデータを用いて有能なる若手がシミュレーションを行う。その研究成果を当時の首相を含む政権と軍幹部に発表しました。

 シミュレーション結果は政府の目論見と正反対で、「この総力戦争は必敗であり、開戦は避けるべきだ」でした。

 シミュレーションにあたったのは当時の若手エリート官僚・軍人・民間研究者たち数十人で、日米の軍事力はじめ外交力・経済力・資源量・輸送力・地理・気象などのデータを収集。日米格差をしっかりとした数字で比較し、かつ戦術までをシミュレーションした優れた研究でした。メンバーは模擬内閣での総理大臣や陸軍大臣などの役割を決め、短期間で計画作成に挑みました。

 

 必ず負ける根拠はありすぎるほどありました。決定打はまず石油資源が皆無の日本と無限に近いアメリカの差です。そのため日本はまずインドネシアなど産油国を占領して石油を確保する作戦を立てますが、問題は海上輸送で、タンカーなどがほとんどなく、あっても敵の攻撃には極めて弱い。また戦地での食料・弾薬などが決定的に不足。要は兵站が追い付かず、戦闘員は飢えに苦しむことが必定である。そもそもすべての大本をなす日米のGDP比は7対1。特に鉄鋼・石油などの生産比率は10対1。これではアメリカにとって対日戦とは、赤子の手をひねる程度の話だったのです。

 

 メンバーはそうした数値を綿密に収集・計算し、「必負である」と結論付け、9月に首脳陣に対し発表しました。そしてメンバーの中の軍人までを含む全員が「開戦は絶対にすべきではない!」と直接近衛文麿首相、東条英樹陸軍大臣などの幹部にプレゼン。しかし約3か月後に真珠湾攻撃をもって開戦してしまいました。プレゼンの場で東条英樹を含む軍幹部による反論は、「日本人は数字以上に強い精神力があるので、戦争には負けない」というナイーブな精神論でした。

 

 開戦後、実際の太平洋戦争の経過はシミュレーションどおりの展開となりました。戦後になされたこのシミュレーションに対する評価では、「予測できなかったのは2発の原子爆弾の投下だけだった」と言われるほど、正確なものだったのです。

 では何故それだけ正確なシミュレーションをし、幹部もわかっていながら開戦に踏み切ったのか。番組の中でくみ取れた要因は、「全国民を巻き込んだ戦争に向かう空気だった」でした。「空気」、恐ろしい言葉ですね。

 山本七平氏の著書に「空気の研究」があります。日本人はその時代や場の空気に支配され、大きな影響を受けるという考察です。

 軍幹部も政治家も全員がそのシミュレーションどおりに進む戦況を見ながら、原爆を投下され完膚なきまでに打ちのめされるまで、戦争を停止できませんでした。

 私は当然昭和天皇にも最終的かつ最大の責任があると思っています。8月の原爆より5カ月も前の3月、東京大空襲を皇居において経験すれば、たとえ原爆がなくとも日本中が灰塵に帰すことくらい、子供でも理解できたはずです。それを止められたのは、陸海軍の統帥権を持っていた天皇だけです。その間の状況を書いた別のドキュメンタリー番組の解説を参照ください。

「昭和天皇は東京大空襲を皇居から目にし、その惨状から『国民が気の毒』『戦争を早くやめねば』という強い敗戦意識を持ち始めました。これは側近の日記や「拝謁記」に明確に記録されています。ただし、軍部の抵抗と体制上の制約、つまり国体護持のために、即座に戦争を終結させることはできなかったのです」。

 

 話は飛びます。私は世界的な極右化が日本でも同調する空気がうまれつつあることを憂慮しています。それはSNSで展開され今回の参院選の結果に表れた若気の至りが生み出している「空気」です。大日本帝国憲法を党則に掲げ基本的人権を否定する極右の参政党が勢力を伸ばしたことを大いに憂慮しています。当選者の中の女性は「日本の防衛は原発を一発持てば済む。そうすれば費用はかからない」と発言。あまりにも稚拙で愚かな言動にあきれ果てますが、それを若者たちが支持してしまいました。

 話を戻します。

 以上が「シミュレーション 昭和16年夏の敗戦」の紹介と私の懸念です。

 この番組の詳細は、以下のNHKの番組サイトでかなり詳しく見ることができます。ご興味のある方は、是非ご覧ください。また、再放送も予定するとのことです。

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/paJnovBDza/bp/pvpnEp2l7w/

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トランプ・」プーチン会談の欧米メディアによる評価

2025年08月18日 | トランプ2

 トランプは会談の自己評価を「10点満点で10点だ」と自画自賛しています。もちろんそれをうのみにする人などなく、世界中を探しても愚かなトランプ支持者だけでしょう。

 一方日本での報道はほぼ日本メディアと一部のアメリカメディアの評価しか報道されていません。そこで毎日私がチェックしている欧米メディアに加えて、戦争当事者であるロシアとウクライナのメディアを含め、評価を確認してみました。しかしその報道を一つ一つ見て、翻訳したりサマリーしたりする手間を省くため、ChatGPTにまとめてもらいました。ではそのやりとりをそのまま掲載します。

 

あなた:アンカレッジでの米ロ会談結果の評価を欧米の主なメディアから拾いを数行ずつでまとめてほしい。

ChatGPT : 以下は、2025年8月15日にアラスカ・アンカレッジで行われた米露首脳会談について、欧米主要メディアの評価を数行でまとめたものです。

欧米メディアの評価(要約)

  • ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)
    プーチンは大きな外交的勝利を得たと報道。赤じゅうたんやリムジンなどの象徴的扱いにより、米側からの制裁回避と露側の正当性アピールに成功したと分析。ウォール・ストリート・ジャーナル
  • タイム誌(Time)
    会談で公式な合意はなかったが、プーチンこそ“勝者”だったと評価。儀礼や演出によって、戦争犯罪人の指名手配を受けた彼の国際的地位が強化されたと指摘。TIME

 

  • AP(Associated Press)
    停戦合意なし・具体的成果なしと結論付け、会談は象徴的な見せ場に終始しつつも外交的進展は乏しいと報道。AP News

 

  • フィナンシャル・タイムズ(FT)
    “西側によるプーチンの孤立は終わった“とし、米側の厚遇、拍手、栄誉衛兵、軍事演出などが「恥ずべき」「胸糞悪い」と強く非難した。ゼレンスキー政権には会談の構図によって影響が出るとの懸念も。フィナンシャル・タイムズ

 

  • ロイター(Reuters)
    ロシア国内では首脳会談を「外交的勝利」と歓迎。停戦や平和合意には至らなかったが、モスクワの国際的立場が強化されたと評価されている。Reuters

 

あなた;トランプ自身は会談結果を10点満点で10点だとほざいているが、ChatGPTの評価は何点か?

ChatGPT:

いい視点ですね 😊

私は「採点者」というよりも、公開された事実・成果・演出を見比べて、トランプ自身の「10点満点評価」と、各メディアや専門家の評価とのギャップを整理する立場で答えますね。

会談を点数化すると?

  • 実質的成果(停戦・和平・制裁解除・安全保障合意など)0〜2点
    主要メディアが一致して「具体的成果なし」と報じており、ここは厳しく評価せざるを得ません。
  • プーチンの得点(国際舞台復帰・国内向けアピール)7〜8点
    赤じゅうたん、儀礼、注目度の高さで「孤立解除」の印象を強め、ロシアに有利。
  • トランプの得点(政治演出・支持層へのアピール)4〜5点
    「強い指導者同士の対話」を演出できた点では自国支持層には効果に見える。ただしワシントンや欧州では「譲歩しすぎ」「成果ゼロ」と批判。

ChatGPT の総合評価

👉 10点満点中「3〜4点」程度

理由:

  • 「外交的ショー」としての派手さはあったが、中身は空虚。
  • 米国の国益(安全保障やウクライナ情勢の改善)に直結する成果はなし。
  • プーチンが一方的に得点した印象が強い。

つまり、トランプが言う「10点満点」は政治的自己宣伝であり、冷静な国際的評価では「ほぼ失点に近い低得点」と見るのが妥当です。

引用終わり

 

 では次に戦争当事者のロシアとウクライナでの報道をChatGPTにまとめてもらいましたので、それをそのまま掲載します。

 

あなた;ロシアとウクライナのメディアは、今回の米露首脳会談(アラスカ・アンカレッジ)をどのように報じているのか、欧米メディアとは異なる視点から簡潔にまとめください。

 

ロシアのメディア・報道の評価

  • 象徴的な勝利として評価
    ロシア国内の主要メディアや政治家は、トランプとの首脳会談を大きな外交成果として位置づけています。プーチンが再び国際舞台に立ち、西側とも直接対話できる存在であることをアピールした点を強調しています。
  • 「停戦合意なし」でも成果ありと強弁
    会談では具体的な停戦や和平合意には至らなかったものの、それでも「ロシアの平和への姿勢」が認められたという論調で報じられています。
  • 対露制裁の「一時的猶予」との解釈
    経済制裁の解除や貿易協定は得られなかったものの、トランプが制裁見直しの余地に言及したことを、ロシア側メディアは一時的な勝利としてポジティブに評価しています。

 

ウクライナのメディア・報道の評価

  • 激しい怒りと批判が主調
    会談でトランプがプーチンを赤じゅうたんで迎えた演出について、ウクライナ国内では「激怒」「嫌悪」「耻辱」の声が噴出しています。SNSでは、米国による迎賓儀礼の過剰さが猛烈に批判されています。
  • ウクライナ抜きで進む和平は容認できない
    トランプが“停戦抜きで和平”を進めようとする姿勢には強い懸念があり、「重要な決定にはウクライナを入れよ」という立場を堅持しています。
  • 主権と領土保全の重要性を再確認
    ウクライナ側は、ドンバス地域(ドネツク州など)の領土問題を含め、主権の侵害につながる和平提案に反対し、強固な安全保障と主権尊重を求めています。

 

以上、まとめますと、

 

・西側諸国のメディアの評価は、予想通り「プーチンの勝、トランプの負け」でした。

・ロシアのメディアはプーチンの一方的勝

・ウクライナのメディアは勝ち負けよりも当事者を参加させないことに対する「怒り」そのものでした。

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サッカー界のレジェンド釜本選手と、従弟の思い出

2025年08月15日 | エッセイ

 日本の生んだ世界的サッカー選手の釜本邦茂さんが81歳でなくなりましたね。いままで投稿でサッカーのことはたまにしか話題にしなかったのですが、今回は特別な感情をもって書いています。釜本さんは、私の大好きだった6歳年上の従弟と、早稲田大学時代に同級生でした。しかも二人はヤンマー・ディーゼルに同期入社し、そこでも同僚だったのです。

 私は兄弟が妹だけだったためお兄さんが欲しかったのですが、その役割を果たしてくれたのが、年上の従弟でした。小学生時代から何度も従弟の家に泊まりに行って遊んでもらうのがとても楽しみでした。彼の住んでいたのは小石川で後楽園のそばのため、よく遊園地の後楽園に連れて行ってくれました。そして柔道の講道館もすぐそばで、彼は子供のころから柔道をしていましたので、道場にも連れて行ってくれ、黒帯同士の激しい練習試合を見せてくれました。彼も兄弟は姉が2人で、男の兄弟がいなかったので、私を弟分として可愛がり楽しんで遊んでくれたのではないかと思います。

 

 その後釜本さんは日本サッカー・リーグの草分け時代に毎年のように得点王になる活躍をして、1968年メキシコオリンピックで日本サッカー界唯一の銅メダルを獲得しました。しかもそのオリンピックで彼はアジア人として初めて得点王に輝いています。従弟は釜本さんの活躍を自分のことのように喜んで話をしてくれたのを思い出します。

 従弟自身は大学時代に早大探検部に所属していて、2か月にもわたりブラジルのアマゾン川を探検した経験を持っています。私はその話を聞くのがとても楽しみでした。ブラジル大好きの彼がヤンマーに入社した動機は、ただただブラジルに行きたかったからで、ヤンマーは農業用機械の最大の輸出先がブラジルでした。そして釜本さんはサッカー選手としてヤンマーに入社し大活躍しました。その後従弟は念願かなってブラジル支店に転勤し、支店長にもなりました。

 時代は少し飛びます。私はJALにいた30歳代の時、1年ほどシカゴに駐在したのですが、その時に借りた家の郵便受けに、従弟の名前の記された郵便物がしばらくの間何度も届きました。もしかすると従弟が同じ家に住んでいたのかと思い連絡を取ってみると、なんと図星でした。彼の後のテナントが私だったのです。この広い地球上でこんなことが起こるなんて、なんという偶然でしょう。シカゴにはアメリカ最大のトラクター・メーカーであるジョン・ディア社の本社があり、ヤンマーとは深い提携関係にあったのです。

 彼は日本に帰国したのちに海外統括の責任者になったのですが、残念なことに50歳そこそこの若さで亡くなりました。

 釜本さんが亡くなったことで、私の子供時代のこと、シカゴでの不思議な偶然を思い出しました。お二人にあらためて哀悼の意を表させていただきます。

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御巣鷹山慰霊登山 (再掲、長文です)

2025年08月12日 | エッセイ

  8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆、そして15日は終戦記念日と続きます。しかし我々JALの関係者にはその間にある8月12日、御巣鷹山での日航機墜落事故慰霊の日があります。終戦以来80年、事故以来40年目の節目です。

 私の大学クラスメートであり、JAL同期入社の友人と昨年10月末に初めて慰霊登山をしてきました。その時の投稿を再掲いたします。

 

再掲

 10月の今どき何故?と思われる話題かと思いますが、先週私は好天の中御巣鷹山慰霊登山をしてきました。慰霊の日は8月12日ですが、その時期を避けた理由は、慰霊の日の登山はとても混み合い、遺族でもない人間が行くのははばかられるのと、真夏のため体にはしんどいという事情からです。

 今回の登山は二人での登山でした。もう一人は私の大学時代の同級生で、しかもJALに同期で入社した長年の友人です。先日真田宏之さんとのバーベキューの話を書きましたが、その時偶然にも彼と私は同時にニューヨークに駐在していてご近所同士。二家族で一緒に真田さんを歓待しました。

 一月ほど前彼に、「実は長年御巣鷹山に慰霊登山したいと思っていたけどできなかった。こんど一緒に登らないか?」と誘ってみると、「僕もずっと慰霊登山をしたいと思っていた」とのこと。二人とも積年の思いを募らせていたので、あっという間に日程を決め、10月24日に行くことができたのです。

 やっと心の中に長年つかえたままになっていた思いを果たすことができました。今後もし行かれる方がいらしたら、どうぞ以下の体験談を参考にしてみてください。

 

 彼とは朝7時半に環八沿いの井の頭線高井戸駅で待ち合わせ、私の車で現地を目指しました。まず関越道の藤岡ジャンクションを経て上信越道に入り、下仁田インターまで1時間半。そこから下道で御巣鷹山登山口駐車場まで同じく1時間半の道のりのハズでした。

 しかし下仁田の街を過ぎ国道を逸れて山道に入ったとたん、とても狭い道とトンネルの連続でスローダウン。しかもトンネル内にほとんど照明がなく、真っ暗な上にヘアピンに近いカーブまであり、徐行運転を強いられました。

 山道は一台分しかないほど道が狭いうえ、一方が崖になっているので落石が多く、中には直径20㎝ちかくあるものがゴロゴロころがっているという恐ろしいほどの悪路でした。

 ナビで1時間半のはずが時速20~30㎞でしか走れなかったため、3時間近くかかり、昼前にやっと御巣鷹山登山口駐車場に到着。この駐車場は比較的最近できたため私の車のナビにはなく、グーグルマップを頼りながらのドライブでした。駐車場は登山口の直下にあるのでとても便利ですが、乗用車だとせいぜい10台ほどしか駐車できません。それまでは数キロ離れた場所に比較的広い駐車場があり、そこだけが使用可能だったそうですが、登山道まで歩く距離が長いため、慰霊登山はとても大変だったそうです。

 駐車場に着いて、登る前の腹ごしらえでバナナを食べていると、もう一台車が着いて、我々よりお年を召した方がお一人で来られました。そこで私から、「もし山に登られるのでした、我々とご一緒しませんか?」と声をかけてみると、「いやー、助かります。是非ご一緒させてください」とのこと。お歳をうかがうとなんと80歳。お住まいは都内で、長年にわたり新潟県長岡市の大学で教鞭をとっていて、今回は長岡にいる友人を訪ねた帰りに、お一人で御巣鷹山に慰霊登山をするためにいらしたとのことでした。

 70歳代なかばの我々ですら二人で登山するのは心もとないと思うほど誰もいない険しい山道を前にしていたので、その方はさぞかし心強い道連れができたと思われたのだと思います。御巣鷹登山のガイドマップによれば、健脚な方なら約30~40分程度の登りだそうですが、我々はその方のペースに合わせて1時間ほどかけて山頂にある「昇魂の碑」に到着しました。実際にはそのペースで登らないとあまりに急登すぎて、我々もへばっていたにちがいありません。

 ジャンボ機墜落地点である御巣鷹の尾根に登ってみると、そこは垂直に近い尾根の頂上付近で、飛行機が激突して何故生存者がいたのか、今さらながら不思議に思えました。

 尾根を切り開いて作った200平米ほどの小さな広場に「昇魂の碑」が建てられていました。その他に、3mほどもある石造りの観音像、遺品を集めて埋葬した場所の石碑など様々な碑がありました。中でも心に残ったのは、ご遺族の方々がそれぞれの思いで建てられた数多くの碑です。碑文は故人の名前の他に様々な思いを言葉に表したもので、読むたびに涙を誘われました。

 慰霊碑の前では友人が用意してくれた線香を焚き、手を合わせ、静寂な中でやっと積年の思いを果たすことができました。

 おにぎりランチを含め一時間ほど山頂で過ごした後下山したのですが、急階段を降りるので、手すりにつかまりながら滑らないよう気をつけ、登り以上に神経を使い、時間も疲れ具合も登り同様でした。ただ慰霊も終え、途中でご一緒した方と様々な話ができたため、ひたすら歩くより、はるかに楽しく歩くことができました。

 

 駐車場に着いて名刺を交換すると、その方は長岡科学技術大学の工学博士で名誉教授とのこと。実は帰宅後も私の著書とブログに興味を持たれたようで、メールのやりとりが続いています。

 

 御巣鷹の尾根から下山したあと、我々は麓の上野村にある「慰霊の園」を訪れました。事故当時、林業が盛んで山をよく知る上野村の方々は、救助に当たった自衛隊や警察の部隊を、ヤブコギをしながら現場まで案内したり、麓のベースキャンプなどで長きにわたる支援活動をし続けたそうです。

 そのうえ上野村は山と谷ばかりの地域にもかかわらず広い土地を提供し、平らにならし、実に立派な「慰霊の園」を作ってくれたのです。野球場ほどの広大な敷地には広々とした駐車場や展示資料室が作られていて、訪問者にはとても便利です。そして慰霊の日によくテレビに映し出される三角形の大きな慰霊塔があり、その周りは事故で亡くなられた方全員の名前が刻まれていました。上野村の方々には、本当に感謝の言葉しかありません。

 そして私自身は、この数時間の間ほど敬虔な祈りを続けたことは、これまでついぞありませんでした。

 

 私はあの事故当時、ご遺族の支援のため約2か月ちかく山の麓の藤岡にいたのですが、今回の登山に同行した同僚も同じ様に藤岡市で遺体が収容されてくる体育館にいて手伝いをしていました。

 日航ジャンボ123便の事故は85年8月12日18時56分。私はその時ANAで私と同じ事業計画を担当している友人と、六本木のレストランでディナーをしていました。彼とは日本経済研究センターの同期仲間で、それぞれ会社から出向していて、その後も付き合いが続いていました。

 私が事故の第一報を受けたのはJALではなくANAの本社からで、彼宛てに会社の上司の方から電話が入ったのです。その内容は、
「君はたしか今JALの人と一緒だよな。JALのジャンボ機が消息を絶った。事故に間違いないので、すぐ本社に帰った方がよいと伝えろ」とのことでした。

 私は体から血が引くような異変を感じながら、食事も途中にあわてて社に戻りました。すると本社内はすでにてんやわんやの状況で、いまだ墜落地点は不明で、テレビを見たりしてひたすら情報収集にあたっているところでした。そして真夜中の2時頃になり、各人に指令が下されました。


「本社の人間は全員事故対応に当たるため、早朝午前5時に羽田のオペレーション・センター(運航管理センター)に出頭せよ。今から家に帰り1週間分の着替えを持参しろ」という内容でした。フライトの運航関係者や空港関係者は現場が動いているので持ち場を維持しなければならず、本社の人員だけがかき集められたのです。

 タクシーで帰宅後仮眠をとる暇もなく着替えだけ用意してそのまま羽田に直行。するとそこにはすでに数十台の大型バスが待機していて、事故機に乗り合わせたご家族の方も続々と集まり始めていました。携帯電話もない時代、よくあれだけ多くの方々が集まれたと思うほどでした。搭乗者名簿の連絡先から予約センターの社員が連絡を入れたのです。


 社員は2名ずつ各バスに支援員として乗車したのですが、どこに向かうのか決まっていませんでした。明け方には事故現場がほぼ特定されていたのですが、なにせとんでもない山奥で道もないため、そこへは一体どこからアプローチを行うか、あるいはご遺族はどこに行って待機するのがよいのか、決められずにいました。
 しばらくするとバスの無線に警察から出発の指令が入り、羽田から白バイの先導で出発。私はバスのガイドが座る位置にいたため、無線でのやり取りはよく聞こえていました。
 羽田で首都高速に入ったのですが、いまだに行先は不明のままでした。首都高速の環状線に入ったあたりで、「池袋から関越自動車道方面に行け」とのこと。
その間首都高速は全面的に一般車通行止めとなっていて、車の全くいない首都高速を走ったのは、後にも先にもそれが唯一の経験です。その後行き先が藤岡市と定められて藤岡ICで高速を降り、支援指令所の置かれた藤岡市民体育館に着きました。後にご遺体の安置所になった体育館です。

 しかしそこでも何十台ものバスが駐車されていて、しばし待機。やっと昼頃に市内の各学校に分散して休むことになり、次の指令を待ちました。夏休み中でもあり多くの学校にとっては寝耳に水の事態でしたが、大事故のため実に親身になって協力してくれました。約千人にもなるご家族は名前のあいうえお順に学校ごとに分れて待機。バスのラジオや携帯ラジオでニュースを聞きながら、少しでも事故関係のニュースを得ようとみな必死でした。その頃の学校ではまだテレビは少なかったのです。

 体育館の外では山の方に向かって自衛隊や報道関係と思われるヘリコプターが続々と飛来するのですが、どのヘリもしばらくするとまた戻ってきている様子でした。
 後で知ることになるのですが、実際には現場付近まで行っても着陸場所は一切なく、火災のあとの煙だけ見て引き返したようです。
 ご家族の方々は我々社員とともに体育館で休む以外行く場所もなく、ひたすら新たな情報を待っていました。夕方になると寝る場所を確保するため体育で使うマットを敷きましたが、数が足りません。そのうちやっと貸布団が届き始め、どうやら布団と毛布だけは確保できました。

 しかし我々社員は体育館に寝る場所はなく、しかたないので教室に行って机を並べてその上に寝ることにしました。幸い夏だったので、毛布がなくても寒くはなかったのだけが救いでしたが、固い板の上に寝たのは初めてでした。その翌日ころからやっと飲み物と食事が届き始めます。もちろん初めは近隣のマーケットやコンビニで調達したおにぎりやサンドイッチ類だけでした。

 その後は毎食事ごとに自衛隊のヘリで、お弁当が届くようになりました。その作り手は、実は「東京フライトキッチン」。つまりJALの機内食の子会社でした。ご遺族を含めその時点から弁当だけでまさか一か月以上過ごすことになろうとは、思ってもいませんでした。


 体育館は蒸し風呂のように暑かったのですが、3日後くらいにクーラー装置を搭載したトラックが来て、送風機で冷たい風が入るようにはなりました。そのあとテレビが入り、新聞も配布されるようになったのですが、どれもがすべて事故のニュースばかりで、一般報道はほとんどない状態が続きました。その後の阪神淡路大震災や東日本大震災の後と同じ状況です。

 最近は大きな災害が頻発しますが、その時TVで避難所を見ると、あの藤岡中学校での思い出が必ず頭をよぎります。
 当時と今一つだけ大きく違ったのは、その頃には全盛期を迎えていた写真週刊誌があったことです。彼らの報道はどんどんエスカレートして、事故現場でご遺体がそのまま写っている写真が掲載されていたのを見た時は、本当にショックでした。

 一方藤岡ではすべてのご遺族にベテランの社員が1名アサインされましたが、我々比較的若い社員はその下働きで、使い走りをしていました。2週間が過ぎるころにはご家族の方々はほぼ近隣の町のホテルなどに入れるようになり、過酷な体育館生活から解放されましたが、社員はまだ体育館暮らしが続き、私が高崎市内のホテルに入れたのは、一か月が過ぎた頃でした。

 ご遺族のヘルプにアサインされた社員は、そこからとてもつらい役目が始まりました。それはご遺族と一緒に藤岡市体育館に行き、ご遺体の確認をする仕事です。私は自分自身のためと思い、知り合いのベテラン社員に同行させてもらい、その作業を手伝いました。

 のちに「沈まぬ太陽」という山崎豊子の小説で描かれ、その後渡辺謙が主人公で映画化されましたが、その中でもあの体育館は登場しています。しかしその体育館は安置所であった時の強い臭いがぬぐえず、取り壊しになったと聞いています。

 体育館に着くと、中に入る前から線香の香りが漏れていました。体育館の中には番号の付いた棺桶が数多く並べられていて、線香の煙が充満していました。ご家族はそれを全部チェックするわけにはいきませんので、持ち物や着衣など痕跡が残っていればそれを頼りに目星をつけて、確認をします。ジャンボ機はかなりの燃料を搭載しており衝突と同時に大火災が起き、ご遺体は損傷が激しいため、最後に頼れるのは歯形でした。そのためご家族にご本人が通っていた歯科医を探していただき、治療の有無を確認。体育館には歯科医の方が何人かいて、歯の診断書を基に捜索を行っていました。いわゆる検視官などの人数は足りず、大勢の歯科医の方が白衣で作業を行う姿を見て、その仕事の大変さに心が折れそうになりました。そうした作業は一か月以上続きましたが、なかなか全員の確認は終わりませんでした。

 この先のことは書いてよいのか迷いましたが、この際事実ですので書くことにします。それは日本人と外国人のご遺族の行動に大きな差があったことについてです。私がアサインされた体育館はあいうえお順の一番最後のグループだったため、日本ネームのあとに外人のお名前が10名前後あったのです。海外から駆け付けたご遺族の世話をしていると、まだご遺体の発見に至らないうちに、帰国をされるご遺族が多かったのです。

 その方々はこう言い残していました。「事故機に搭乗していたのは名簿で確認できたし、本人から連絡はない。死亡したのは事実だから、遺体の確認を待っていてもしかたないので帰国します」と言う言葉でした。


 日本人は戦後80年を経ても遺骨を収集するために南方諸島や北方の島に出かけます。なんという違いでしょうか。それに衝撃を受けた感情はいまでも私の心に刻まれていて、慰霊の園でも、あいうえお順に碑に刻まれた最後のほうに外国人の名前を見つけた時、当時のことを思い出し、目に涙がうかびこぼれました。

 

 これにて私の慰霊登山のお話を終えることにします。

 今後二度とこのような悲惨な事故が起こらないことを祈ります。

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現時点での米国債投資

2025年08月03日 | 投資は米国債が一番

 およそ一年前の投稿では、私がFM東京の「ラジオのタマカワ」に出演した時の様子をみなさんにお知らせしました。

 タマカワとは、テレ朝の羽鳥慎一モーニングショーのレギュラーコメンテーターの玉川徹さんのことです。彼はFM東京でレギュラー番組、「ラジオのタマカワ」という番組のDJをしていて、番組に私をゲストとして招いてくれ、その時の様子を投稿しました。

 最初はゲストのリクエスト曲をかけるところから始まり、その後トークへと移っていきます。私のリクエスト曲はビートルズの「ノールウェーの森」でした。半蔵門のFM東京スタジオからちょうど武道館を望めたので、ビートルズの話で盛り上がりました。

 彼が私に興味を感じたのは幻冬舎から出版された著書の「投資は米国債が一番」を読み、「自分が全く知らなかった米国債という安全な投資対象にとても興味を持った」とのこと。しかし当然「為替リスクをどう考えたらよいのか」ということを焦点にして質問が来ました。

 質問内容は、「例えばドル円レートは20円くらい簡単に変動しますよね。すると4・5年分の金利などすっとんじゃいませんか?」と言うものでした。

 私からの回答は、「私の提唱している米国債投資は、最低でも10年、さらに20年、30年という長いタームでの運用です」。すると金利は為替に勝てるんです。ということで2011年出版の1冊目の本で例に上げた30年債投資のことを説明しました。

 1981年に30年のゼロクーポン債を買い複利で運用したケースの実例です。その時の為替レートは1ドル240円。それが本を書いた2011年にはなんと83円、満期を迎えた時のドルは約3分の1に目減りしていました。しかし金利が8%台と高かったので、複利でドル建て元本は24倍になった。為替では3分の1になったが、円で元本は8倍にもなった。「株でもなかなか8倍にはならないのに、安全な債券で8倍です」と説明すると、彼は「債券はすごい。複利は人類最大の発明の一つといわれていますね」と納得。

 2冊目の著書でも同じく30年投資の計算例がカバーに書いてあり、彼は手元の本を取り上げて、「本当だ、23年までの30年でも7.68倍になってる」と感心していました。

 

 一方アシスタントの原さん。「私ぜんぜんお金がないんですけど、それじゃだめですよね?」ときました。私は笑いながらもすかさず「大丈夫、今ならわずか100ドル、1万5千円ていどでも米国債に投資できます。証券会社によっては100ドルで売ってくれるんです」と回答。「それならできそうです」となりました。

 

 次の玉川さんからの質問は簡単に回答できそうもないだろうという前提でぶつけてきたものでした。それは「私は今の円安は行き過ぎているので、今の140円台が年末くらいには120円台になってしまうと思っています。そこから投資しようと思いますが、どう思われますか」というものでした。

 

 私の回答は「為替レートはどんな優秀なアナリストであろうが的確な予想などできません。今年160円台になると予想した人は皆無でしたからね」。

「もし玉川さんがいくらいくらを投資したいのであれば、年末までに例えば3回に分けて投資をされたらいいですよ。」とアドバイス。

 そうすればシナリオどおりでもシナリオからはずれて逆に行っても、投資し損ねることはありませんから」と回答。これもガッテンをいただきました。打合せなしのぶっつけ本番オンエアはこのような会話でほぼ終わりました。

 

 番組が終わって控室でまずは3人での写真撮影。パネルの前に並んで記念の写真を撮ってくれました。FM東京の「ラジオのタマカワ」のHPにその写真が貼ってあります。その後お二人とディレクターを交えて20分ほど話をしました。玉川さんとディレクターの方に共通していたのは、やはり日本国に対する不安で、それが円安への不安にもつながっているので、それを少しでもヘッジしたいとのこと。

 

 私は従来から読者のみなさんにも申しあげているように、「ヘッジするならあなたの金融資産のすべてをドルにしないと大きな効果は望めません。何故なら住んでいる家の不動産も、給料や退職金、将来の年金もすべてが円建てですよね。今の預貯金をすべてドルに換えても、ヘッジには足りないかもしれません」という話をすると、お二人とも「そうなんだよな、そのとおりだよな」と納得された様子でした。

 こうして約1時間のとても楽しいオンエアとその後の会話が終わりました。私はテレビで見ていた鋭い突っ込みをする玉川さん相手に、そこそこかみ合った会話ができたかなという感想を抱いて、スタジオをあとにしました。

 

 あれから1年を経た現在の為替レートは約150円。玉川さんのおっしゃったような120円台などには至らず、程遠いレートです。もし玉川さんが私のアドバイスどおりに米国債に投資をされていたら、1年分の金利をしっかりと得ていたと思います。

  もっともこのケースでは玉川さんの為替見通しが偶然はずれただけで、私が今の150円のレートを見通していたわけではありません。長期でみれば金利は為替に勝てるという経験則を言っていただけです。

 

 では現状の為替レートと金利レベルで米国債に投資したらどうなるか。おそのシミュレーションをしてみましょう。

 ここでは10年債と30年債を例にとります。

 現在為替は150円程度なので、それを前提としてブレークイーブンレートを計算します。ブレークイーブンの計算は、複利運用のゼロクーポン債に限り可能です。理由は、ゼロクーポン債は最後に必ず100%で償還され、その間に利子はないので保有期間の為替レートを想定しなくて済むからです。利付債は年に2回の利子をもらうため、その時の為替レートを想定しないとブレークイーブンレートを計算できません。それは不可能です。

 以下がそのシミュレーション結果です。10年債と30年債の計算です。

10年債 金利4.36%に1,000ドル投資 = 150,000円

償還時の元本は複利で1,540ドルとなるのでブレークイーブンレートの計算は、

150,000円÷1,540ドル=97.4円

 

30年債 金利4.36%に1000ドル投資 = 150,000円

 償還時の元本は4,290ドルとなるのでブレークイーブンレートの計算は

150,000円÷429ドル=35円

 10年債の97円も、ましてや30年債の35円もあり得ないドル円レートです。もちろん私自身は将来的に円に置いておくリスクは非常に高いため、金利にプラスして為替でも大きなゲインを得られると確信しています。

 注;複利の計算をする場合、米国債は一般的には半年複利と仮定して計算します。それは利付債の場合、半年ごとに金利が配分されるので、それに準じて半年複利にしているという理屈です。

なお償還前に途中で売却する場合、金利は毎日元本に加算されます。それは利付債でもゼロクーポン債でも同じです。

 以上が現時点での米国債投資にあたっての参考内容です。米国債の安全性を実感できる数値です。

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