ストレスフリーの資産運用 by 林敬一(債券投資の専門家)

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日経平均株価新高値、おめでとうございます

2024年02月23日 | 株式市場へのコメント

 証券業界を挙げて悲願だった89年末の日経平均株価38,915を遂に破りましたね。株式投資をされているみなさん、おめでとうございます。今朝の日経朝刊では、「もはやバブル後ではない」という小見出しが踊っていました。

「もはや戦後ではない」という見出しが経済白書で示されたのが1956年、戦後11年を経た年でした。全国が灰塵に帰した戦争からの復興に11年。たかが株価が復活に要した期間は33年もかかるとは情けない。

 昨日からのテレビニュースでは89年の大納会での三々七拍子や、その後証券会社の倒産ラッシュの象徴である山一証券最後の社長の言葉、「社員は悪くありませんから」がさんざん流されていました。

 ではこの期間の他の株価などの数字を見くらべてみましょう。30年以上でやっと戻った日本株に対して、「アメリカ株は同時期に14倍に達した」と報道されています。しかしその間、果たして日本株や米国株投資をしている方々が、ドットコムバブルの崩壊やリーマンショックの大暴落では売らずに堪えて堪えて保有し続けることができたのでしょうか。かなり疑問を感じます。

 ちなみに超安全な米国債30年物に投資をすると何もせずにただ保有するだけで、約12倍になっています。この間、為替は90年の145円が現在もほぼ同じですので、金利の累績だけで元手が12倍にもなったのです。

 

 たとえ株式でも私が安心して保有してもよいと思う株が1つだけあります。それは私の命の恩人、ウォーレン・バフェット爺さんの運用している投資会社、バークシャー・ハサウェイ社の株です。この株は配当をせず、その分を次の投資に回すことで成長するため、言ってみれば常に複利運用ができるのです。

 ではバークシャーの株を90年の初めに買って現在まで保有するとどうなっていたか。なんと83倍です。ダウの14倍なんて子供のお遊び程度でしかありません。

 ご存じない方のために何故バフェット爺さんが私の命の恩人なのかを説明します。私は89年にJALを辞め、90年にソロモンブラザーズに転職しました。しかし91年9月、一人のトレーダーが米国債の入札で不正を働き、当局にとがめられ、国債の入札資格を停止されてしまいました。会社も信用を失い資金ショート寸前に至りました。その時、株主の一人であったバフェット爺さんが「ソロモンは一人のトレーダーの不正で倒産させるには惜しい立派なインベストメントバンクだ。オレが会長になって救う」と宣言。しかも年収たった1ドルで会長を引き受けたのです。その威力は抜群で、すぐに資金調達が可能となり倒産を免れました。私は全くのシロウトで入社し、たった1年半で倒産していたら、路頭に迷うこと間違いなし。ですので爺さんは私の命の恩人なのです。

 

 日本の株価が「もはやバブル後ではない」と言えるようになったことはささやかながら喜ばしいことです。しかも実体経済でもデフレを克服しつつあり、賃金上昇を伴うインフレとなる期待が高まっています。

 しかし待てよ。株価に沸き立つ報道や金融アナリストのみなさん、だいじなことを忘れていませんか。それはもちろん実体経済の中身です。1990年から2023年まで、名目GDPはどれほど成長したのでしょうか。

90年のGDP430兆円 → 23年のGDP588兆円

この33年間の増加額は

588兆円―430兆円 = 158兆円

年率にするとわずか1%の成長で、このところの四半期は2期連続のマイナス成長です。

しかもそれにはドーピングとしての財政支出が加わっての数字です。

 1990年の財政赤字は200兆円、それが現在1,000兆円。つまり800兆円ものドーピングをした結果なのです。もちろん財政支出のすべてがGDPに加算されるわけではありませんので、およその数字とご理解ください。

 先ほど32年間GDP増加額258兆円だと申し上げましたそれからドーピングによる800兆円を差っ引くと、とてつもなく大きなマイナスでしかない。平均のドーピング額の単純計算をします。

800兆円 ÷ 33年間 = 24兆円・・・毎年の平均ドーピング額

 このことを報道は誰も指摘していません。片手落ちもはなはだしい。これを忘れるということは、借金を踏み倒すということですが、そうはいきません。何らかの形で返済する必要があります。

 実はその最大の方策の一つはインフレです。インフレで通貨価値が落ちれば、その分の累積赤字も実質的には目減りします。財務省出身のクロちゃんがインフレを作り出そうと必死にもがいたのも、半分はインフレによる累積赤字の実質的目減りを狙ったものに違いない。

 さて、では投資結果のおさらいをしましょう。1990年初から2024年初までの32年間、各指標の成長倍率です。

日経平均株価    ゼロ    (その間、日本経済名目GDP 1.4倍)

米国債       12倍    (    アメリカ名目GDP 4.5倍)

ダウ平均      14倍

バークシャー株   83倍

 

 今後果たして日本の株式に投資するべきか否か。

よーく考えてみましょう。

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私の中の小澤征爾さん

2024年02月11日 | クラシック音楽

 先月他界された元妻江戸京子さんの後を追うようにして、小澤征爾さんが亡くなりましたね。米寿という年齢を考えると、私は残念とは思いません。私の父親はいつも「米寿を越えたら誰が死んでも「残念だ」なんて言うな。よくぞ生きた、オメデトウと言え」と言っていました。不謹慎と言われるかもしれませんが、私も「よくぞ長生きをしてくれてありがとう、そしてオメデトウございます」と言うことにします。そう言っていた父親は92歳まで生きていました。私のクラシック好きはオーディオにも凝っていた父親譲りです。

 これを機に、「私の中の小澤征爾」を心に焼き付けるために、この文を書き残すことにしました。

 

 小澤征爾さんと私は中学と高校が同じ成城学園だったため、私の中高時代から折に触れて縁を持つことになりました。クラシック好きな私としては、どのエピソードもかけがえのないものです。

 まず初めは60年代、中学・高校時代です。彼は毎年冬になるとオーケストラとともに成城学園に来て、次の演奏会のリハーサルを見せてくれたのです。ほとんどがたぶん新日本フィルと一緒だったと思います、N饗とは犬猿の仲でしたから。彼は後輩たちに、曲の紹介や解釈をじっくりと説明してくれました。

 しかしそのリハーサルの最中、私が最も印象に残ったのは、演奏とは全く関係のない着替えです。彼はとても激しい指揮をするため大汗をかき、何度も休憩を取り、そのたびにトックリのセーターを着替えて出てくるのです。黒いセーターの後は白いセーターというように。「暑いならトックリはやめればいいのに。でもなんてオシャレなんだろう」とみんなで話しました。若き小澤さんの熱血指揮ぶりがいまでも目に浮かびます。

 次に彼と直接出会ったのは77年の西ベルリンです。私は当時JALでフランクフルト支店にトレーニーとして赴任していました。その当時のベルリン営業所長が大のクラシック好きで、私も好きであることを聞きつけて、「林君、今度小澤がベルリンフィルを振るので、聞きにおいで。チケットは用意するから」と電話をくれたのです。ルフトハンザに航空券をもらい、いそいそと出かけました。航空会社社員の役得ですね。その人のクラシック好きは度を超えていて、家には1千枚を超えるLPレコードがあり、ある時その重みで床が抜け落ちるという珍事が語り草になっている人物です。

 JALは彼、西村氏をベルリンに営業所長として派遣しました。というのは、ベルリンは音楽家やオーケストラの出入りが多く、彼はその需要を掴み取るために、専門家と渡り合うことのできる稀有な人材だったからです。おかげで私は後に彼の手配してくれたカラヤン指揮のベルリンフィルのコンサートまで聴くことができました。

 夕方西ベルリンに到着し、翌日は東ベルリン見物の後に小澤さんとベルリンフィルの公演を見る手はずになっていました。夕食を日本食レストランで食べ始めたら、なんとそこに小澤さんがひょっこり現れ、「よー西村君、久しぶり。一緒に食おうよ」と誘ってくれたのです。私はあまりのことに驚きながら一緒の席に移りました。すると西村さんは私を「この若者はフランクフルトからさっき着いたJALのトレーニーで、クラシック好きなんです。夏には夫婦で一週間もザルツブルグ音楽祭を聞きに行ったほどです」と紹介してくれました。私はすかさず自己紹介し、「私も中高が小澤さんと一緒の成城で、毎年小澤さんのリハーサルを母校のホールで聞いていました」と言うと、彼はとても喜んでくれました。

 それから先は二人の専門家の会話となり私の出る幕なし。その中で西村さんの言った次の話がいまだに印象に残っています。

「今回も(会場の)フィルハーモニアは満席で、オケはきっとフルメンバーですよね。日本人で満席にできるのは小沢さんだけですから。だいたいベルリンの人たちはカラヤン中心。外からの指揮者を本気で聞きに来るのは小澤さんだけ。ウィーンからベームが来たって満席にならないほどのシビアな人たちなんですよ」とのこと。

 西村さんによるとオーケストラがフルメンバーかどうかを一目で見分けるには、コントラバスを数えれば簡単にわかるとのこと。8本ならフル、6本ならまあまあだそうで、大きなコントラバスは遠目でもすぐ数がわかるからとのことでした。

 その後も小澤さんと二人で、ベルリンフィルとウィーンフィルの古い楽器や音の差など、微に入り細にわたる専門的話に終始していました。私はただただ一緒の席にいることだけで感激し続けていました。

 

 3つ目に印象に残ったエピソードは、以前にも紹介したことのあるニューヨークのカーネギーホールでの出来事です。私は90年にJALからソロモン・ブラザーズに転職し、ニューヨークで半年近く研修を受けていたのですが、その時小澤さんがボストンフィルを連れてマルタ・アルゲリッチとピアノ協奏曲で共演するとの情報を得ました。早速チケットを手に入れて聴きに行ったときのことです。第一楽章が始まってしばらくすると、「ブン」という大きな音とともにアルゲリッチが両手を上げて席を立ちあがり演奏をストップ。小澤さんに「ピアノ線が切れた」と言ったのです。そうしたことは、なくはないのですが、それからの二人の行動がとても面白かったのです。

 二人は舞台正面の端まで来て足を下に投げ出して座ると、すぐそばの聴衆を交えて話をし出したのです。私は10列目くらいだったので、話を聞き取ることができました。話の内容は例えば「カーネギーは素晴らしいホールだけど、静かになると地下鉄の音が聞こえるのよね。それとニューヨークらしいのは、救急車のサイレンよね。ヨーロッパだとそんなことはないのに・・・」。というようなたわいもない話なのですが、とにかく人気絶頂の二人の話です、聴衆はこんな経験は2度とできないので、待つ間も時々拍手をするくらい大盛り上がりでした。

 ピアノ線を張替え、調律を終えるまで待つこと30分。この上なく楽しく貴重な時間を過ごすことができました。切れたピアノ線に感謝です。もちろん演奏の再開はまた最初からでした。彼女のピアノと小澤ボストンによるベートーベンのピアノ協奏曲第4番は、私にとって忘れがたい演奏となりました。それ以降、有名な5番の「皇帝」より、おだやかな4番の協奏曲をこよなく愛することになりました。

 

 最後のエピソードは私の娘とサイトウ・キネン・オーケストラのことです。今この文章を書きながら私は小澤の指揮するサイトウ・キネン・オーケストラの2枚のCDを聴いています。1枚目は軽快な2曲が入っています。チャイコフスキーの弦楽セレナーデとモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジーク。2枚目はちょっと重たいブラームスの交響曲1番、ライブ収録の1曲でCD1枚分です。

 

 何故小澤さんの話に娘が出てくるかと申しますと、彼女はピアノを小澤さんのいた桐朋学園で学んだ経験を持つクラシック好きで、数年前にコンサル系の会社を辞め、その後毎年夏に松本市で行われる「サイトウ・キネン・オーケストラ、松本フェスティバル」の手伝いをしているのです。

 サイトウ・キネン・オーケストラとは、小澤さんが桐朋学園で指揮を学んだ恩師、斎藤秀雄氏を記念して桐朋の卒業生らがオーケストラを編成し、折に触れて小澤さんとともに世界で演奏活動をして、松本でもフェスティバルを行っています。

 「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は、1992年から毎年8月、9月に渡り長野県松本市で行われる日本随一の音楽祭です。2015年から名称を「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」に変更しました。プログラムは大編成のオーケストラ・コンサートからオペラ、小さなコンサートまで多岐にわたります。ちなみに23年のプログラムはこちらです。

https://www.ozawa-festival.com/programs/2023/

 

 小澤さんは体調が思わしくなくなってからも毎年この時期だけは涼しい松本に来て、総監督を務め指揮もしていました。昨年の夏もずっと松本に来ていたそうです。

 小澤さんはセイジ・オザワ松本フェスティバルと名付けられた演奏会の本番であっても、体調の悪さから数年前を最後に指揮台には上がっていませんでした。

 しかし彼こそ日本人音楽家として初めて世界の超一流音楽家の仲間入りを果たした稀有な人材です。私の心の中には彼が指揮する姿やオーケストラに指示を与える大きな声が鮮やかに焼き付いています。今もCD聞いているので、彼が長い白髪をなびかせながら鋭いまなざしでオーケストラの指揮をする姿が目に浮かんでいます。

我ながら、なんという幸せな思い出でしょう。

ありがとう、征爾さん。

 以上、「私の中の小澤征爾さん」でした。

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アサハカなるかな、「オルカン」投資

2024年02月10日 | 株式市場へのコメント

  株価の上昇が止まりませんね。今年NISAを開始された方にはよいことなのか、よくないことなのか。長い目でみないと結論は出ませんが、日本経済全体の雰囲気を盛り上げるには格好の材料です。

 一方、為替は予想に反してドルが上昇していますね。23年の終わり頃には大半のアナリスト予想は、「24年には140円を割り込み130円台前半まで行くだろう」となっていました。ところが意外や意外、ドルは150円をうかがうほどの堅調さを示しています。アメリカ経済やアメリカ株の堅調さがその原因です。

 

 ドル高の要因としては、新NISAの開始で海外株に投資が集まったことも一つの要因としてあげられています。新NISAが始まることは昨年から決まっていたことですし、その人気の中心は日本株ファンドではなく、海外株式を中心としたファンドであることも予想されていました。海外株に人気が集中するのは日本株だけに頼るのは心もとないからで、世界に分散投資しようというわけです。株屋さんもこぞって世界の株への分散投資を推奨していました。

2月2日の日経ニュースを引用します。

「新しい少額投資非課税制度(NISA)を通じた個人の海外投資が新たな円安圧力になるとの見方が外国為替市場で出てきた。新NISAのもと、個人が毎月3000億円超を株式など海外資産に投じるとの試算がある。円を外貨に替える需要が発生し、円相場を押し下げる方向に働く。」

 政府と金融界こぞってあれだけ新NISAを宣伝すれば、投資が増加することはわかっていました。上記ドル高の解説は、お勧め商品である積立型NISAの契約が非常に多額になっているからです。毎月の投資額を決め、以降ずっと継続という投資ですので、何か月という単位ではなく何年も継続されるので、ドル円レートをコンスタントに押し上げる力を持っています。

 

 そして年初に新NISAが開始されると人気の中心となったのは「オルカン」と略して呼ばれるファンドで、世界中の株式を対象とする「eMAXIS Slim全世界株式(オール・カントリー)」です。世界の株式に分散投資すべしというリスク分散の考え方を実践するファンドというのが謳い文句です。

 ところがオルカンは各国の株式時価総額の大きさに比例して投資をするため、現状では約60%が米国株への投資になっています。果たしてそれが分散と言えるのでしょうか。2番目に配分が多いのは日本株ですが、なさけないことにたった6%でしかありません。一国に偏っているファンドを本当に分散投資の代表選手と呼んでいいのだろうか、疑問を感じます。

 さらに私に言わせていただければ、本来「分散投資とは、国を分散させるのではなく、リスクを分散させる投資」であるべきだということです。

 リーマンショックを思い出してください。アメリカのダウ平均株価はなんと3分の1になり、日経平均株価も2分の1以下になりました。もちろんその他の国の株価もすべて大暴落。株式投資だけではいくら国を分散したところで、リスク分散など絶対にできないのです。このことはオルカンだけでなく、どの株式投信を買おうがリスクの分散などできません。すべてが株式だからです。

 

 ではどうしたらリスク分散投資ができるのか。いつも申し上げているように、片方で株式を買っていたら、もう片方では債券を買うことです。

 リーマンショックはアメリカ発でしたが、株価が大暴落する中、米国債の価格は暴騰したのです。資本の逃避先はいつでも米国債です。株価と債券価格は反比例して動くことがほとんどだからで、それでこそ本当のリスク分散になるのです。しかし何度も申し上げているように、NISAはそもそも債券投資を認めていません。

 それに対して投資をよくご存じの方から、「債券のETFであればNISAでも投資できる」との指摘を受けました。たしかに債券のETFファンドはNISAの投資枠対象として認められています。

 しかしその方は米国債券のETFファンドが株式ファンド同様のリスクを持つことをご存じないようです。債券ETFの値動きは、株式同様大きな上下動を繰り返し、運用に失敗すれば大きな損失を出します。生の米国債なら償還まで持ち切れば必ず100で償還されますが、そうした運用はしていません。金利の上下動をうまく利用して常に利益を出し続けようと無駄な努力をするのです。

 

 今の株屋さんたちの債券に対する基礎知識のなんと浅はかなことか。あきれてものが言えません。株屋さんはしょせん株屋さんにすぎませんね。

 NISAの掛け声に踊らされて高くなっている株式に投資を開始している日本の素人投資家さんたち、どうぞお気をつけあそばせ。

 そうした方々にもう一度言っておきます。

「人の行く、裏に道あり、花の山」

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昭和47年(1972年)、能登輪島へのドライブ旅行

2024年02月04日 | 旅行

 正月の能登震災から1か月ですね。その昔能登、輪島に旅行した時のことを書こうと思ってはいたのですが、被災された方がまだ大混乱のなかにいらっしゃることを考えて、遠慮していました。1か月経ち震災直後よりだいぶ落ち着いたようですので、50年も前の若いころの思い出を書くことにしました。

 

 先月、志賀高原で息子とスキーをしたのですが、何故かそこからスタートします。志賀高原スキー場は広大な地域にまたがっています。なかで最も奥地にあって行きづらい場所は奥志賀高原スキー場です。息子がそこに行ったことがないというので、午後の休憩を奥志賀高原ホテルで優雅に過ごすことにしたのです。プリンスホテルのある焼額山の頂上から、スキーで奥志賀高原ホテルまで滑って行きました。スキー板を外しブーツを脱ぎ広いロビーに入ると、真ん中に大きな暖炉、というより薪を積み上げてキャンプファイヤー風に暖を取れる炉があり、その周りでおいしいケーキを食べながらコーヒーを飲めるのです。そこでの休憩はスキーで疲れた身にとって至高の時間です。

 このホテルは昭和の香りがただよう、大人の隠れ家ホテルです。ホテルに隣接した六角形をした木造のコンサートホールもあり、とても響きがよいそうです。前の週に行った妙高赤倉スキー場にある赤倉観光ホテルと同様、古きよきリゾートとして私のお気に入りホテルの一つです。音楽家の方は夏の避暑地兼練習場所としてここをご存知の方も多いと思います。ホテルとスキー場は1968年に長野電鉄が作りました。

 実はここで学生時代の最後、72年の夏にゼミの合宿を行った思い出の場所なのです。東京からは生意気にもほとんどのゼミ生は車でドライブして奥志賀まで行きました。私も父親の車を一週間借り、友人と4人で東京から国道17号線=中山道を延々とドライブ。朝出発しても昼は碓氷峠の横川がやっと。荻野屋でお決まりの「峠の釜飯」を食べ、奥志賀に到着したのは夕方でした。

 合宿は3泊4日。一人一人が卒論の構想を発表し、学部長だったゼミの教授や助手、そして同期生から鋭い質問やコメントをもらい、卒論内容をブラッシュアップするという真剣勝負の場。かなり緊張する時間を過ごしました。

 

 4人とも無事に発表を終え、緊張から解放された最終日の朝、友人の一人が「このまま帰るのはもったいないよな。そうだ、日本海って見たことある?みんなで見に行こうよ」と言い出し、全員賛成。どうせなら金沢でも見物して帰ろうとなったのです。しかし問題は所持金。現金払いしかなくATMもない時代のこと、全員のカネを出してみたらやっと2万円程度でした。これで4人が2泊3日する必要があります。ガソリン代もばかになりません。できるだけ節約するために、国民宿舎を探して泊まることにし、日本海に向けて出発しました。

 道路地図しかない時代ですが最後の索引ページで国民宿舎を探したところ、能登半島の輪島にあることがわかり、そこを目指すことにしました。まずは直江津に出て日本海を初めて見ました。海外沿いに富山経由で能登半島の突端まで、休み休みでほぼ丸一日、やっと夕方に到着。そのころの国民宿舎は確か一人500円で2食付きだったと思います。

 翌朝、初めて朝市というものを見物しました。ほぼ地元の人しかいないひなびた感じの市場で、昨今の観光地としての賑わいとはきっと別ものだと思います。しかし今回の大地震による火災がすべてを灰塵にしてしまい大変残念です。たとえ長い時間がかかったとしても、是非とも復興し賑わいを取り戻すことを祈ります。

 その日は輪島からまず金沢に向かい、お城や兼六園、街並みを見物し、次の宿は山越えをして飛騨高山まで行くことにしました。地図では富山経由の道路があるので、夕方には着けるはずと計算。ところがそれが甘かったのです。

 

 富山を出ると道は舗装していないがたがた道になり、ガードレールもないただの林道でした。たぶん神通川沿いの道だったのでしょう。ゆっくりと走らざるをえませんでした。山間部のため夕方には暗くなり、真っ暗な道を慎重に走り続けました。夜8時になってもまだ半分くらいしか来ていないようでした。道路標識もなく、道を間違ったのか合っているのかもわからず、人に聞こうにも誰もいませんし車も全く通りません。

 そのうちやっと小さな集落を見つけ、幸運なことに一軒だけ灯りが灯っていました。その家のドアを叩くと怪訝な顔をしたおじさんが出てきました。我々にとっては地獄で仏です。

 「夜分すみません、このまま車で行くと飛騨高山に出られますか」と聞くと、「ああ、一本道しかないから出られるけど、真っ暗だからきーつけてな」とのこと。すくなくとも間違っていなかったので、ほんとにホッとしたのを今でも覚えています。

 

 高山の街に着いたのはなんと夜中の10時。駅で国民宿舎の場所を聞くと駅員さんが親切に教えてくれ、電話までして空いていることを確認してくれました。 

 翌朝、今やとても有名になった高山の朝市に行き、食べそこなった夕食分を買い食いしたのを思い出します。

 東京まではまだまだですが、お金がなくなるといけないのでとにかく東名高速を目指して飛騨川を下り下呂温泉経由で犬山まで来ました。すると「明治村」と書いた案内板を見つけたので、途中下車して見物。移築された帝国ホテル旧館がありました。

 こうして東名高速の小牧インターまでたどり着き、東京までのガソリン代と高速代を残してどうにか無事に冒険旅行を終えることができました。東京に着いた時、4人合計の所持金わずか1,200円なり。学生時代にしかできないかなり無謀な長距離ドライブの思い出でした。

 

 いまさらですがグーグルマップで距離を調べてみると、東京→奥志賀高原ホテル340㎞。ホテル→能登半島輪島300㎞。輪島→金沢→飛騨高山330㎞。高山→犬山→東京500㎞。高速道路は東名のみで、合計1,470kmでした。ちなみにドライバーは私一人、よくぞ走ったものです。

 以上、能登輪島の思い出でした。

最後になりましたが、被災地の早い復興を心からお祈りします。

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