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昭和47年(1972年)、能登輪島へのドライブ旅行

2024年02月04日 | 旅行

 正月の能登震災から1か月ですね。その昔能登、輪島に旅行した時のことを書こうと思ってはいたのですが、被災された方がまだ大混乱のなかにいらっしゃることを考えて、遠慮していました。1か月経ち震災直後よりだいぶ落ち着いたようですので、50年も前の若いころの思い出を書くことにしました。

 

 先月、志賀高原で息子とスキーをしたのですが、何故かそこからスタートします。志賀高原スキー場は広大な地域にまたがっています。なかで最も奥地にあって行きづらい場所は奥志賀高原スキー場です。息子がそこに行ったことがないというので、午後の休憩を奥志賀高原ホテルで優雅に過ごすことにしたのです。プリンスホテルのある焼額山の頂上から、スキーで奥志賀高原ホテルまで滑って行きました。スキー板を外しブーツを脱ぎ広いロビーに入ると、真ん中に大きな暖炉、というより薪を積み上げてキャンプファイヤー風に暖を取れる炉があり、その周りでおいしいケーキを食べながらコーヒーを飲めるのです。そこでの休憩はスキーで疲れた身にとって至高の時間です。

 このホテルは昭和の香りがただよう、大人の隠れ家ホテルです。ホテルに隣接した六角形をした木造のコンサートホールもあり、とても響きがよいそうです。前の週に行った妙高赤倉スキー場にある赤倉観光ホテルと同様、古きよきリゾートとして私のお気に入りホテルの一つです。音楽家の方は夏の避暑地兼練習場所としてここをご存知の方も多いと思います。ホテルとスキー場は1968年に長野電鉄が作りました。

 実はここで学生時代の最後、72年の夏にゼミの合宿を行った思い出の場所なのです。東京からは生意気にもほとんどのゼミ生は車でドライブして奥志賀まで行きました。私も父親の車を一週間借り、友人と4人で東京から国道17号線=中山道を延々とドライブ。朝出発しても昼は碓氷峠の横川がやっと。荻野屋でお決まりの「峠の釜飯」を食べ、奥志賀に到着したのは夕方でした。

 合宿は3泊4日。一人一人が卒論の構想を発表し、学部長だったゼミの教授や助手、そして同期生から鋭い質問やコメントをもらい、卒論内容をブラッシュアップするという真剣勝負の場。かなり緊張する時間を過ごしました。

 

 4人とも無事に発表を終え、緊張から解放された最終日の朝、友人の一人が「このまま帰るのはもったいないよな。そうだ、日本海って見たことある?みんなで見に行こうよ」と言い出し、全員賛成。どうせなら金沢でも見物して帰ろうとなったのです。しかし問題は所持金。現金払いしかなくATMもない時代のこと、全員のカネを出してみたらやっと2万円程度でした。これで4人が2泊3日する必要があります。ガソリン代もばかになりません。できるだけ節約するために、国民宿舎を探して泊まることにし、日本海に向けて出発しました。

 道路地図しかない時代ですが最後の索引ページで国民宿舎を探したところ、能登半島の輪島にあることがわかり、そこを目指すことにしました。まずは直江津に出て日本海を初めて見ました。海外沿いに富山経由で能登半島の突端まで、休み休みでほぼ丸一日、やっと夕方に到着。そのころの国民宿舎は確か一人500円で2食付きだったと思います。

 翌朝、初めて朝市というものを見物しました。ほぼ地元の人しかいないひなびた感じの市場で、昨今の観光地としての賑わいとはきっと別ものだと思います。しかし今回の大地震による火災がすべてを灰塵にしてしまい大変残念です。たとえ長い時間がかかったとしても、是非とも復興し賑わいを取り戻すことを祈ります。

 その日は輪島からまず金沢に向かい、お城や兼六園、街並みを見物し、次の宿は山越えをして飛騨高山まで行くことにしました。地図では富山経由の道路があるので、夕方には着けるはずと計算。ところがそれが甘かったのです。

 

 富山を出ると道は舗装していないがたがた道になり、ガードレールもないただの林道でした。たぶん神通川沿いの道だったのでしょう。ゆっくりと走らざるをえませんでした。山間部のため夕方には暗くなり、真っ暗な道を慎重に走り続けました。夜8時になってもまだ半分くらいしか来ていないようでした。道路標識もなく、道を間違ったのか合っているのかもわからず、人に聞こうにも誰もいませんし車も全く通りません。

 そのうちやっと小さな集落を見つけ、幸運なことに一軒だけ灯りが灯っていました。その家のドアを叩くと怪訝な顔をしたおじさんが出てきました。我々にとっては地獄で仏です。

 「夜分すみません、このまま車で行くと飛騨高山に出られますか」と聞くと、「ああ、一本道しかないから出られるけど、真っ暗だからきーつけてな」とのこと。すくなくとも間違っていなかったので、ほんとにホッとしたのを今でも覚えています。

 

 高山の街に着いたのはなんと夜中の10時。駅で国民宿舎の場所を聞くと駅員さんが親切に教えてくれ、電話までして空いていることを確認してくれました。 

 翌朝、今やとても有名になった高山の朝市に行き、食べそこなった夕食分を買い食いしたのを思い出します。

 東京まではまだまだですが、お金がなくなるといけないのでとにかく東名高速を目指して飛騨川を下り下呂温泉経由で犬山まで来ました。すると「明治村」と書いた案内板を見つけたので、途中下車して見物。移築された帝国ホテル旧館がありました。

 こうして東名高速の小牧インターまでたどり着き、東京までのガソリン代と高速代を残してどうにか無事に冒険旅行を終えることができました。東京に着いた時、4人合計の所持金わずか1,200円なり。学生時代にしかできないかなり無謀な長距離ドライブの思い出でした。

 

 いまさらですがグーグルマップで距離を調べてみると、東京→奥志賀高原ホテル340㎞。ホテル→能登半島輪島300㎞。輪島→金沢→飛騨高山330㎞。高山→犬山→東京500㎞。高速道路は東名のみで、合計1,470kmでした。ちなみにドライバーは私一人、よくぞ走ったものです。

 以上、能登輪島の思い出でした。

最後になりましたが、被災地の早い復興を心からお祈りします。

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イスラエルという国のかたち

2023年11月02日 | 旅行

 

 パレスチナでは毎日のように子供たちが爆撃を受け、灰だらけになり血まみれになっている様子は見るに堪えません。前にも述べたように、ハマスの第一撃はテロ行為以外のなにものでもない。しかしそれに対するイスラエル正規軍の百倍返しもテロ同然あるいはそれ以上だと私は思っています。

 共同通信によれば、「パレスチナ自治区ガザではイスラエル軍の攻撃による死者が8,800人ほどになったと発表された。イスラエル側の1,400人と合わせ死者は1万人以上。そのうちパレスチナの子供が3,000人以上いる」とのこと。あまりにもひどい数字です。イスラエルを表立って支持してきたアメリカ国内でも、さすがにここに至って世論に変化が出てきています。

 もともとアメリカ人に占めるユダヤ人はわずか2.4%で、バイデン大統領はその支持を得ようとしているのではなく、人口の3割を占めると言われるキリスト教原理主義とも言える福音派の票の多さを気にしてイスラエルを支持しているのです。しかしそれではトランプも同じ。というよりトランプは福音派の支持によって当選したのです。だったらバイデンはその票を捨て、今アメリカで大きなうねりとなりつつある人道的配慮をすべきだという多くの人たちの票の獲得を優先すべきだと私は思っています。でないとトランプを支持する愚かな熱狂的支持者はくつがえるはずもなく、支持など絶対に得られない。そして国際社会も圧倒的にイスラエルを批判しはじめ、パレスチナ救済へ大きく傾いています。

 それに加え最近発表されたイスラエル国内の世論調査でも、5割程度の人がパレスチナへの非人道的攻撃は停止すべきだとなっていて、ハマスの最初の攻撃直後の反撃賛成が7割だった時から大幅に後退しています。非人道的であろうがなかろうが、それを一顧だにせず皆殺しにすればハマスは退治できると考えるのがイスラエルという国のかたちなのだと思います。それについて私のイスラエル旅行での経験談をお話します。

 

 私は2010年の年末にイスラエルとヨルダンを訪れました。きっかけは同じマンションにお住いの友人がイスラエル大使館に赴任され、奥様から在任中に是非遊びにいらしてくださいと言われたことでした。なかなか訪れる機会はなさそうな国のため、この機会に夫婦で旅行をしようとなったのです。時期は年末のクリスマスにかけてでした。せっかくなのでイスラエルの歴史やユダヤ人の歴史もある程度勉強し、ついでに隣のヨルダンも訪れることにしました。と言ってもヨルダンは映画インディージョーンズで有名になった世界遺産、ペトラ遺跡に行ってみたかったのです。

 

 イスラエルでは大使館のあるテルアビブの他、もちろん聖地エルサレムを訪問しました。ご存知のようにエルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教という3大宗教の聖地がすぐ隣り合わせになっていてそれだけでも驚きなのですが、どの宗教の信者も実に平穏に巡礼していたのが印象に残っています。もちろんキリスト終焉の地「ゴルゴタの丘」やキリストの墓のある「聖墳墓教会」、ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」を訪れましたが、イスラムの聖地「岩のドーム」だけはテロの危険があるとして立ち入りが禁止されていました。

 訪れたのがクリスマス時期だったため、世界中から巡礼者のグループが来ていて、ホテルでの朝食にも分厚いマニュアルのような書類を持ったグループが来ていました。その人たちとはゴルゴタの丘に登るための坂道、ヴィア・ドロローサでも出会ったのですが、一部の人たちはキリストのように十字架を背負って歩いていました。道端をよく見ると、軽い板でできた十字架がたくさん置いてあり、どうぞご自由にとなっていたのには驚きました。もちろんキリスト教徒ではない我々は担がずにただ歩いただけです。

 エルサレムではもう一つ必ず行くべき場所があります。それはユダヤ教・キリスト教のもっとも古い経典である「死海文書」を見ることのできるイスラエル博物館です。死海文書は、旧約聖書の原典とも言われ、1947年になって洞窟から発見された膨大な文書で、紀元前250年から70年に書かれたものと推定されています。現在その多くはエルサレムにあるイスラエル博物館の聖書館に置かれ、一般公開されています。実際には温度・湿度と明るさが厳密にコントロールされているため、肉眼で見るだけでも苦労するほどの古い文書です。

 

 エルサレムからはレンタカーを借りて旅をつづけました。まずは死海へ。エルサレムが高度800mで、そこから一直線の道をひたすら海抜マイナス400mの死海へ1200mも下ります。死海に出てからは沿岸をひたすら南へドライブし、アカバ湾に面するエラートの街を目指しました。イスラエルの最南端、そこがヨルダンへの入口です。ドライブ中はほとんど砂漠の荒涼とした景色が続きますが、何か所かでいわゆるキブツと呼ばれる入植地がありました。

 途中死海のほとりのリゾートの街で一泊し、砂漠とはいえ寒い季節なのにホテル前の死海の海岸で水浴。どうしても死海で浮いてみたかったのです(笑)。海水の10倍の塩分で本当に浮遊する感じを楽しむことができました。ホテル内はまるでロシア人植民地のようで、ロシア語しか聞こえてきませんでした。ホテル内に温水プールがあり、そこも死海同様浮いたままで本を読んでいる人がたくさんいました。私も冷えた体をプールで温めながら、浮いたままうたた寝をしました。

 

 その次に訪れたのが今回のメインの話の場所です。死海を望む丘の上にある世界遺産、「マサダの遺跡」です。そこはイスラエル人の誰もが子供の時に小学校の遠足で訪れ、誓いを立てる場所として有名なところです。なんの誓いかともうしますと、「つぎに侵略を受けても、二度と負けないぞ」という誓いです。紀元66年にローマの迫害を受けたユダヤ人1,000人が400mの岩山のてっぺんの城塞に立てこもったのですが、2年の攻防を経てローマの軍団に負け、ほぼ全員が自決するという悲惨な出来事があった場所です。

 遺跡にはロープウェイで行けるのですが、子供たちは絶壁の道を徒歩で登ってきていました。頂上には博物館を兼ねた施設があり、スクリーンに映し出された動画で歴史を勉強できるようになっています。ローマとの戦いの様子や、自決の場面、そして最後には先ほど書いた言葉が映し出され「つぎに侵略を受けても、二度と負けないぞ」とみんなで誓い、説明が終わるのです。

 彼らは高校卒業とともに徴兵制度で兵役に就きます。男3年、女2年で厳しい訓練を受け、いつでも戦場に立てるようにします。私たちはテルアビブからエルサレムまで1時間半ほどを乗り合いバスで行ったのですが、クリスマス休暇を前に帰省客で非常に混みあっていて、我々の座席のそばには男女の新兵たちが大勢機関銃を持って立ったまま乗り込んできました。彼らにどこに行くのと聞くと、休暇で家に帰るとのこと。機関銃を持ったまま帰るのかと思うと、彼らの置かれている厳しい状況がよくわかりました。でも時々銃口が私の肩に当たるため、それを手で払いのける必要があり、恐ろしさも感じました。

 その上エルサレムに着くとバスターミナル前でバスは停止したままで降りられず。何かなと思っていると、「ターミナル内の怪しい荷物を処理するため、しばらく降車できない」とアナウンスされました。そうか、ここはいつ爆弾テロに遭うかわからない場所なのだとあらためて思い知らされました。

 「二度と負けないぞ」という子供のころからの教育が、イスラエル人の中には染みついているのでしょう。みんな黙って待っていました。

 しかし再度言います。

「パレスチナはその名のとおり、パレスチナ人の地だ!」

  我々はそのままアカバ湾に向かってドライブを続け、イスラエル最南端の港町エイラートへ到着。そこもロシア人だらけのリゾート地でした。そして翌朝早朝にバスのワンデー・ツアーでペトラ遺跡に向かいました。

 ペトラではインディージョーンズが馬車で逃げた狭い峡谷を歩いて抜け、想像以上のすごい自然の造形に驚き、その後突然広い場所に出ると岩山に掘られた神殿が現れます。その劇的な出現はまるで映画の場面のようでした。1812年にスイス人の探検家が発見した時の驚きを、我々も同じように感じることができました。神殿や墓地を見た後はラクダに乗りながらのんびりと見物しました。

 イスラエルで感じた緊張のすべてはほぐれ、最後はのんびりとした旅行を楽しむことができました。

 

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夢の音楽祭の思い出

2020年08月04日 | 旅行

  毎年夏に行われるザルツブルグ音楽祭が今年100周年を迎えました。開催が危ぶまれていたのですが、コロナ対策に万全を尽くし、「この最中だからこそ開催する」のだそうです。

  それに大賛成です。私は2月以降現在まで3回のコンサートを予約していたのですが、すべてキャンセルされ、2回の有料オンラインコンサートで我慢しています。もちろん感染者数が圧倒的に少ないオーストリーだからこそ可能なのでしょう。8月の1か月間、世界の超一流の演奏家、歌劇団、楽団がモーツアルトを中心としたプログラムを演奏するためにザルツブルグに大集合します。それを目当てにヨーロッパを中心に多くのセレブが大集合するのが、夏のザルツブルグの風物詩になっています。

  今年のプログラムを見ていたら、今を去る43年前、1977年に行われた音楽祭と同じオペラの演目を見つけなつかしくなり、その時の思い出を書いてみることにしました。その年の前年から私はJALの海外研修生としてドイツのフランクフルトに赴任していました。クラシック音楽好きの私にとってドイツは天国でした。当時はまだ東ドイツだったベルリンのフィルハーモニアにカラヤンを聴きに行ったり、クリスマスの夜バンベルグ交響楽団による教会コンサートを聴いたりするチャンスがありました。

 

  76年の11月に知り合いの旅行社の方から、「林さんは音楽好きですよね。早いですが、来年夏のザルツブルグ音楽蔡に行きませんか」と聞かれ、一も二もなく「行きます!」と言ったのが事の初めでした。ただしそのツアーは「現地集合で5泊6日のホテルと、毎晩オペラやコンサートの切符がついていますが、値段は一人約25万円です」と言われ、びっくり。毎日5万円、夫婦二人だと10万円で計50万円かかる勘定です。しかし一生に一度のチャンスと、清水の舞台から飛び降りて二人分の申し込みをしました。

 

  当時の月給は日本では約15万円でしたからその3か月半分かかります。しかし通貨マルクの強いドイツにいたのがラッキーで、むこうではマルク建てですが、日本円換算で30万円ほどもらっていて、けっこう余裕のある生活を送れたのです。同じ研修生でもイタリアやフランスなど通貨の弱い国に赴任すると円換算では約半分の15万円ほど。高いマルクはドイツ以外でこそ価値があり、とてもラッキーでした。

 

  フランクフルトからザルツブルグまでは当時乗っていた愛車、中古のアウディでアウトバーンを600kmほど飛ばし、丸一日で到着できました。市内のホテルにチェックインを済ませ、初日の晩は体を休めレストランでの食事を終え、明日からのオペラ鑑賞に備えました。2日目から昼は観光、夜は音楽祭の鑑賞が始まりました。会場は主にザルツブルグ祝祭大劇場。当時世界のだれもが見て知っているミュージカル映画サウンド・オブ・ミュージックで、トラップ一家が歌を歌いながら一人また一人と消えて行ったあのシーンで使われた会場でもあります。岩山をくり抜いて作ったとても印象に残る舞台です。

 

  初日のプログラムはカール・ベーム指揮、ウィーン国立歌劇場によるモーツアルトのオペラ、コジ・ファン・トゥッテでした。そのプログラム、100周年記念の今年もスペシャルプログラムとして選ばれています。

  しかし当日会場に行って一番驚いたのは、入場客を見に来る見物人の多さでした。会場の入口と道路を挟んで反対側は見物人であふれ、交通整理が行われていました。世界各国からのセレブが豪華な衣装をまとい集まる様子を、人々が見物しに来ているのです。当時のヨーロッパはまだ貴族が多く、まるでアカデミー賞の会場入り口のようで、我々はきちんとした格好はしていたものの、イブニングドレスでもタキシードでもなかったので、とても気後れしてしまいました。それでもまだ健在だったベームによるオペラは見応えがあり、大満足でした。長いオペラの幕間は、さながら女性客たちのファッションショーのようで、なるほどこれが社交界というものかと思ったしだいです。

 

  二日目のプログラムは、当時私がもっとも聞きたかったピアニスト、マウリツィオ・ポリーニによるピアノ演奏で、彼も世界的に人気があるため会場はやはり祝祭大劇場でした。彼がピアノの前に座り弾き始めたのはベートーベンのピアノソナタ29番「ハンマー・クラビーア」です。弾きだしの音は、今でも私の耳に残っています。その瞬間全身に鳥肌が立ち、手に汗をかく経験をしました。その後も何度か彼のコンサートを聴き、レコードやCDがたくさんあるのですが、最初の出だしの音が今でも耳にこびりついています。

 

  三日目はザルツブルグのモーツアルテウム管弦楽団によるモーツァルトの交響曲第40番とセレナーデなどを、モーツアルテウム音楽院大ホールにて。さすがモーツアルトの地元の楽団の演奏はこうも見事なのかと思わせるもので、オペラもさることながら交響曲でもモーツアルトの神髄を聴けた思いだったことを覚えています。

 

  そして最後の四日目にはふたたびベームとウィーン国立歌劇場によるモーツアルトのオペラ、「皇帝ティートスの悲劇」でした。ベームが健在だったのは本当に幸運にめぐまれたといえるでしょう。この数年後に彼は亡くなり、引き継いだのはカラヤンでした。当時はもちろんベルリンフィルの終身指揮者でしたが、かつてウィーン国立歌劇場の総監督も務め、ベームを引き継ぐ音楽祭の芸術監督は、ザルツブルグ生まれのカラヤンしかいないということだったのでしょう。「皇帝」とまで言われたカラヤンの絶頂期でした。

 

  ザルツブルグは観光地としても名高いところで、日本からも多くの方が訪れていると思います。ザルツとはドイツ語の塩、ブルグは城、街にはホーエン・ザルツブルグという城があり、サウンド・オブ・ミュージックの舞台となったとても美しいミラベル城庭園やモーツアルトの生家が残されています。でも私が一番気に入ったのは映画サウンド・オブ・ミュージックにも使われたオーストリー・アルプスの景色と、8月でも涼しい山の気候でした。

 

  以上、私が経験した「夢の音楽祭」についてでした。

 

  コロナのニュースにかき消される毎日ですが、こんな時こそみなさんも昔訪れたお気に入りの場所に思いを馳せてはいかがでしょう。

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志賀高原、最新スキー事情

2020年01月26日 | 旅行

  今週は21日から今年2回目のスキーに出かけていました。志賀高原です。実は八方尾根に行く予定でしたが、雪不足で急きょ志賀高原に変更しました。八方尾根は普通なら長野県でも雪が豊富で、1月下旬に雪不足なんて記憶にありません。同じ長野県にあって長野盆地を挟んだ反対側の志賀高原には十分に雪があり、天気にも恵まれパウダースノーでのスキーを楽しむことができました。

  志賀高原のポスターが傑作です。ふもとの温泉に来る温泉猿が「人類よ、これ以上のパウダーを求めるのか」と言っている中、スキーヤーが滑っているというポスターです。温泉猿は外人旅行客には大うけで、きっとみなさんもご存知だと思います。写真はこちらで見られます。https://shigakogen.co.jp/

 

  今回驚いたのは志賀高原にもオーストラリア人が大量に進出してきたことです。八方尾根や野沢温泉スキー場が雪不足だったことが理由かもしれません。我々は彼らの進出は大歓迎です。さびれてきた日本のスキー場を活性化してくれるからで、それはスキーヤーの増加というだけでなく、資本も投下してくれるからです。もっともニセコではそのおかげで地価上昇率が日本一になったり、家賃が上昇したり、レストランなどの値段が上がってしまい、地元の人はほどほどにしてくれという意見が多くなっているようです。

 

  志賀高原での泊りは昔から一泊2食付き1万円程度の安ホテルを使っているのですが、今年は異変がありました。それは安いスキー宿に初めてオーストラリア人のグループが2・3組宿泊していたことです。スキーはかなり疲労するので、だいたい午後3時から4時には終え、お風呂に入ったあと夕食までの時間、暖炉のあるロビーで飲みながら歓談するのですが、我々と一緒にオーストラリア人グループもその輪に参加してきました。「どうして志賀に来たの」と彼らに聞いてみると、前はニセコに行っていたけど、オーストラリア人が多すぎていやになった。野沢や八方尾根にも行ったけど、あそこもオーストラリア人が多くなってきたから今回は志賀にしたとのこと。

  そういえばその昔、年末年始のハワイが日本人であふれ、あそこはやだと思ったのと同じことが日本のスキー場にも起こっているようです。リフトで乗り合わせたオーストラリア人もまったく同じことを言っていました。しかし志賀高原までオーストラリア人に本格占領されることは、まだ当分はないだろうというのが私の見立てです。理由は志賀高原にはナイトライフがないからです。スキーをしていると夕方は寒くなるので3時から4時には終えますが、その後はアフタースキーの楽しみが始まります。ニセコや野沢温泉の街はそれからが賑わうのです。野沢温泉ではとても寒いのに海外からのスキーヤーはわざわざ浴衣を着流して下駄をはき、タオルを持って13か所の町営無料温泉を訪ね歩き、その間に地ビールを立ち飲みする。しかも地ビール屋はイギリス人が作った店だったり、オーストラリア人のバーだったりします。

  志賀高原は昔ながらのスキー宿に毛の生えた程度のホテルが多く、街と言うものがなく、ナイトライフがないのです。ヨーロッパやアメリカのスキーリゾートはレストラン、バー、ナイトクラブ、ディスコ、ブランドショップまでが軒を連ね、夜も楽しめる街があります。それが志賀高原には皆無なのです。それらは自然発生するので、志賀高原に出来上がるにはかなり時間がかかると思います。

 

  我々のホテルのロビーには暖炉のそばに大きなテレビがあって、ちょうど相撲中継をやっていたのですが、オーストラリア人グループも興味津々で観戦していました。私がオーストラリアのどこからきたのかと話しかけたのをきっかけに、相撲談義がはじまりました。といってもほとんど一方的な質問攻めです。彼らは歌舞伎とスポーツを融合したような、不思議さを相撲に感じているようです。質問はたとえば、なんで仕切りを繰り返すのか。まわしの前に垂れている何本もの紐はなんだ。垂れ幕のようなものを持ってクルクル回るのはなんだ。あれは賞金だというと、誰が出すんだ、一ついくらだ。力士はいくら稼いでいるんだ。試合がない日は何をしているんだ、白人レスラーもいるがオーストラリア人のレスラーはいないのか、などなど質問は止まりません。

  私はそれに必死に答えながらも彼らの興味がどこにあるか知ることができ、炉辺の会話を楽しむことができました。そして驚いたのはあの小兵力士炎鵬が出てきた時の反応です。彼ら全員が炎鵬の番だと喜んでいるのです。知っているんですね。そして大男の朝の山を土俵の外に出したとたん、「やったー!」と大拍手。取組後の国技館内の炎鵬コールに合わせて手拍子をしていました。オーストラリア人は全員炎鵬の大ファンでした。

  志賀高原にも海外スキーヤー呼び寄せを先取りするホテルが現れました。スキー場で困るのはランチで、古いスキー場にはおいしいレストランが少ないのです。特に志賀高原は古いスキー宿ばかりで、スキー板で滑り込める場所のレストランはレトロというよりはっきり言って古くさい食堂しかありません。メニューも昭和レトロメニューのオンパレード。定番のカレーライス、カツカレー、豚汁、ラーメン、ナポリタン、オムライスのたぐいです。

 

  ところが今年一ノ瀬ゲレンデ近くに新しいリストランテ・アルトピアノが登場しました。昼のメニューはハンバーガーとピザだけなのですが、ハンバーガーのサイズは高さ15㎝もある国際サイズで、内容も様々。ピザも石窯でしっかり焼いて、ゴルゴンゾーラを含め本格的チーズを使っていておいしいのです。我々が入っていくと初老のフロア係の人が大歓迎してくれました。先月やっとオープンし、昼間の客はまだ少ないようです。その人は実は隣の比較的新しいHotel Japan Shigaのオーナーでもあり、今後レストランに力を入れるとのこと。外人が食べて喜ぶメニューをしっかりと知っているようです。いろいろ聞いてみると、実はディナータイムは外人客で満杯になるとのこと。彼らはやはり昭和レトロの宿に泊まりながらも、平均一週間の逗留ですから毎日代わり映えのしない鍋料理などに飽きてしまうのでしょう。渡されたホテルの案内パンフレットを見ると、ホテル内のレストランには高級和牛の焼肉レストランやエスニックレストランまでありました。シーズンオフはどうするのか心配でしたが、パンフレットには音楽関係者向けにグランドピアノを備えたホールなどがあり、特に夏は標高1,700mの地の利を生かした工夫もあるようです。志賀高原の振興のためにも頑張ってほしいものです。

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千葉県応援旅行記

2019年10月11日 | 旅行

  いよいよ超大型台風が近づいてきましたね。みなさん準備は大丈夫ですか。

  台風15号で大きな被害を受けた千葉県鋸南町に、応援旅行に行ってきました。被害は予想を超えるもので、ブルーシートのかかった家々だけでなく、全壊家屋の多さにも驚きました。

   初日のランチは、夕食のボリュームが多いことを予想して、簡単におそばを食べようと思いそば屋を探したところ、宿泊予定の海岸から20分ほど山奥に入った手打ちそばやをネットで見つけて行ってきました。道すがら、テレビの映像では見ることのなかった山津波の跡のような場所が何か所かあって、驚きの連続でした。ある場所では数十本に及ぶ杉や檜が風でなぎ倒されていて、その道路わきでは後始末の作業が続いていました。そしてかなり古いと思われる家々は屋根が飛んでいたり全壊していて、手のつけようもなく放置されていました。

   そば屋さんで被害はどうだったかを聞いてみると、

「いやーひどかったです。とにかく9月9日の台風当日から11日間、電気と水を絶たれてしまいました。道も塞がってしまったので、山を下りて情報を得ることもできず、家でじっとしている以外になかったです。いつまで停電と断水が続くのかわからなかったので、とても不安でしたよ。数日後に道が通れるようになって、やっと山を下りて水をもらいに行きましたが、もらい水も車で15分もかかるので、とても大変でした。家も瓦が飛んでしまって、いまでもブルーシートがかかったままです。瓦職人の不足で、いつになったら修理できるのか、見当もつきません。次の台風で風雨が強まらないでほしいです。」

   そして我々はその晩、鋸南町のリゾートホテル「ゆうみ」に泊まることになっていると話すと、「きのう、ゆうみのオーナーさんがそばを食べに来ました。とてもそば好きで、しょっちゅう来てくれるんですよ」とのこと。でも「ゆうみはすぐ再開できたけど、紀伊之国屋本館と別邸などはまだ閉じたままですよ」というのです。このグループは4か所の温泉旅館・ホテルを経営しているそうですが、やはり海岸線にある旅館の被害はひどいようです。

 

  私たち夫婦が結婚記念日を兼ねて宿泊したゆうみは元気に営業していました。ここの売りは食事で、HPやパンフレットのタイトルも「美食温泉紀行」です。その名のとおり都会で食べたら2万円では食べられないほどの美味しい懐石料理を、宿泊費込みで食べられます。結婚記念日でもあったので、プチ贅沢をしました。食材はすべて地元のもので、オーナーは漁港の魚市場で直接買い付けられるライセンスを持っていて仕入れているとのこと。そして個室の露天風呂もいくつかあるので、晩も朝も温泉を楽しむことができました。

   ゆうみから車で5分ほどの金谷港には「The Fish」というシーサイドレストラン兼海産物販売店があります。真っ白な鉄筋作りの大きな建物で、今回も海産物を買うために立ち寄ったのですが、階上の景色の良いレストランは営業開始が11月1日予定となっていて、いまだにクローズされていました。やはり被害はひどかったようで、被害と復旧工事の写真パネルがおいてありました。

   千葉県はいまだにブルーシートだらけで今回の超大型台風を迎えることになります。砂袋で留めたくらいでシートが大丈夫だとは思えないのですが、これ以上被害が上乗せされないことを祈ります。きっと大型台風のため、思わぬところで思わぬ大被害になるのではないかと懸念されますが、お互いに少しでもしっかりと準備体制を整えましょう。

   千葉県応援旅行記でした。

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