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御巣鷹山慰霊登山 その2

2024年11月12日 | エッセイ

 OMGで時間が空いてしまいましたが、その2をお読みください。

 

 私はあの事故当時、ご遺族の支援のため約2か月ちかく山の麓の藤岡にいたのですが、今回の登山に同行した同僚も同じ様に藤岡市で遺体が収容されてくる体育館にいて手伝いをしていました。

 日航ジャンボ123便の事故は85年8月12日18時56分。私はその時ANAで私と同じ事業計画を担当している友人と、六本木のレストランでディナーをしていました。彼とは日本経済研究センターの同期仲間で、それぞれ会社から出向していて、その後も付き合いが続いていました。

 私が事故の第一報を受けたのはJALではなくANAの本社からで、彼宛てに会社の上司の方から電話が入ったのです。その内容は、
「君はたしか今JALの人と一緒だよな。JALのジャンボ機が消息を絶った。事故に間違いないので、すぐ本社に帰った方がよいと伝えろ」とのことでした。

 私は体から血が引くような異変を感じながら、食事も途中にあわてて社に戻りました。すると本社内はすでにてんやわんやの状況で、いまだ墜落地点は不明で、テレビを見たりしてひたすら情報収集にあたっているところでした。そして真夜中の2時頃になり、各人に指令が下されました。


「本社の人間は全員事故対応に当たるため、早朝午前5時に羽田のオペレーション・センター(運航管理センター)に出頭せよ。今から家に帰り1週間分の着替えを持参しろ」という内容でした。フライトの運航関係者や空港関係者は現場が動いているので持ち場を維持しなければならず、本社の人員だけがかき集められたのです。

 タクシーで帰宅後仮眠をとる暇もなく着替えだけ用意してそのまま羽田に直行。するとそこにはすでに数十台の大型バスが待機していて、事故機に乗り合わせたご家族の方も続々と集まり始めていました。携帯電話もない時代、よくあれだけ多くの方々が集まれたと思うほどでした。搭乗者名簿の連絡先から予約センターの社員が連絡を入れたのです。


 社員は2名ずつ各バスに支援員として乗車したのですが、どこに向かうのか決まっていませんでした。明け方には事故現場がほぼ特定されていたのですが、なにせとんでもない山奥で道もないため、そこへは一体どこからアプローチを行うか、あるいはご遺族はどこに行って待機するのがよいのか、決められずにいました。
 しばらくするとバスの無線に警察から出発の指令が入り、羽田から白バイの先導で出発。私はバスのガイドが座る位置にいたため、無線でのやり取りはよく聞こえていました。
 羽田で首都高速に入ったのですが、いまだに行先は不明のままでした。首都高速の環状線に入ったあたりで、「池袋から関越自動車道方面に行け」とのこと。
その間首都高速は全面的に一般車通行止めとなっていて、車の全くいない首都高速を走ったのは、後にも先にもそれが唯一の経験です。その後行き先が藤岡市と定められて藤岡ICで高速を降り、支援指令所の置かれた藤岡市民体育館に着きました。後にご遺体の安置所になった体育館です。

 しかしそこでも何十台ものバスが駐車されていて、しばし待機。やっと昼頃に市内の各学校に分散して休むことになり、次の指令を待ちました。夏休み中でもあり多くの学校にとっては寝耳に水の事態でしたが、大事故のため実に親身になって協力してくれました。約千人にもなるご家族は名前のあいうえお順に学校ごとに分れて待機。バスのラジオや携帯ラジオでニュースを聞きながら、少しでも事故関係のニュースを得ようとみな必死でした。その頃の学校ではまだテレビは少なかったのです。

 体育館の外では山の方に向かって自衛隊や報道関係と思われるヘリコプターが続々と飛来するのですが、どのヘリもしばらくするとまた戻ってきている様子でした。
後で知ることになるのですが、実際には現場付近まで行っても着陸場所は一切なく、火災のあとの煙だけ見て引き返したようです。
 ご家族の方々は我々社員とともに体育館で休む以外行く場所もなく、ひたすら新たな情報を待っていました。夕方になると寝る場所を確保するため体育で使うマットを敷きましたが、数が足りません。そのうちやっと貸布団が届き始め、どうやら布団と毛布だけは確保できました。

 しかし我々社員は体育館に寝る場所はなく、しかたないので教室に行って机を並べてその上に寝ることにしました。幸い夏だったので、毛布がなくても寒くはなかったのだけが救いでしたが、固い板の上に寝たのは初めてでした。その翌日ころからやっと飲み物と食事が届き始めます。もちろん初めは近隣のマーケットやコンビニで調達したおにぎりやサンドイッチ類だけでした。

 その後は毎食事ごとに自衛隊のヘリで、お弁当が届くようになりました。その作り手は、実は「東京フライトキッチン」。つまりJALの機内食の子会社でした。ご遺族を含めその時点から弁当だけでまさか一か月以上過ごすことになろうとは、思ってもいませんでした。
 体育館は蒸し風呂のように暑かったのですが、3日後くらいにクーラー装置を搭載したトラックが来て、送風機で冷たい風が入るようにはなりました。そのあとテレビが入り、新聞も配布されるようになったのですが、どれもがすべて事故のニュースばかりで、一般報道はほとんどない状態が続きました。その後の阪神淡路大震災や東日本大震災の後と同じ状況です。

 最近は大きな災害が頻発しますが、その時TVで避難所を見ると、あの藤岡中学校での思い出が必ず頭をよぎります。
 当時と今一つだけ大きく違ったのは、その頃には全盛期を迎えていた写真週刊誌があったことです。彼らの報道はどんどんエスカレートして、事故現場でご遺体がそのまま写っている写真が掲載されていたのを見た時は、本当にショックでした。

 一方藤岡ではすべてのご遺族にベテランの社員が1名アサインされましたが、我々比較的若い社員はその下働きで、使い走りをしていました。2週間が過ぎるころにはご家族の方々はほぼ近隣の町のホテルなどに入れるようになり、過酷な体育館生活から解放されましたが、社員はまだ体育館暮らしが続き、私が高崎市内のホテルに入れたのは、一か月が過ぎた頃でした。

 ご遺族のヘルプにアサインされた社員は、そこからとてもつらい役目が始まりました。それはご遺族と一緒に藤岡市体育館に行き、ご遺体の確認をする仕事です。私は自分自身のためと思い、知り合いのベテラン社員に同行させてもらい、その作業を手伝いました。

 のちに「沈まぬ太陽」という山崎豊子の小説で描かれ、その後渡辺謙が主人公で映画化されましたが、その中でもあの体育館は登場しています。しかしその体育館は安置所であった時の強い臭いがぬぐえず、取り壊しになったと聞いています。

 体育館に着くと、中に入る前から線香の香りが漏れていました。体育館の中には番号の付いた棺桶が数多く並べられていて、線香の煙が充満していました。ご家族はそれを全部チェックするわけにはいきませんので、持ち物や着衣など痕跡が残っていればそれを頼りに目星をつけて、確認をします。ジャンボ機はかなりの燃料を搭載しており衝突と同時に大火災が起き、ご遺体は損傷が激しいため、最後に頼れるのは歯形でした。そのためご家族にご本人が通っていた歯科医を探していただき、治療の有無を確認。体育館には歯科医の方が何人かいて、歯の診断書を基に捜索を行っていました。いわゆる検視官などの人数は足りず、大勢の歯科医の方が白衣で作業を行う姿を見て、その仕事の大変さに心が折れそうになりました。そうした作業は一か月以上続きましたが、なかなか全員の確認は終わりませんでした。

 この先のことは書いてよいのか迷いましたが、この際事実ですので書くことにします。それは日本人と外国人のご遺族の行動に大きな差があったことについてです。私がアサインされた体育館はあいうえお順の一番最後のグループだったため、日本ネームのあとに外人のお名前が10名前後あったのです。海外から駆け付けたご遺族の世話をしていると、まだご遺体の発見に至らないうちに、帰国をされるご遺族が多かったのです。

 その方々はこう言い残していました。「事故機に搭乗していたのは名簿で確認できたし、本人から連絡はない。死亡したのは事実だから、遺体の確認を待っていてもしかたないので帰国します」と言う言葉でした。


 日本人は戦後80年を経ても遺骨を収集するために南方諸島や北方の島に出かけます。なんという違いでしょうか。それに衝撃を受けた感情はいまでも私の心に刻まれていて、慰霊の園でも、あいうえお順に碑に刻まれた最後のほうに外国人の名前を見つけた時、当時のことを思い出し、目に涙がうかびこぼれました。

 これにて私の慰霊登山のお話を終えることにします。

 今後二度とこのような悲惨な事故が起こらないことを祈ります。

 

 

 

 

 

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御巣鷹山慰霊登山 その1

2024年10月30日 | エッセイ

 今どき何故?と思われる話題かと思いますが、先週私は好天の中御巣鷹山慰霊登山をしてきました。慰霊の日は8月12日ですが、その時期を避けた理由は、慰霊の日の登山はとても混み合い、遺族でもない人間が行くのははばかられるのと、真夏のため体にはしんどいという事情からです。

 今回の登山は二人での登山でした。もう一人は私の大学時代の同級生で、しかもJALに同期で入社した長年の友人です。先日真田宏之さんとのバーベキューの話を書きましたが、その時偶然にも彼と私は同時にニューヨークに駐在していてご近所同士。二家族で一緒に真田さんを歓待しました。

 一月ほど前彼に、「実は長年御巣鷹山に慰霊登山したいと思っていたけどできなかった。こんど一緒に登らないか?」と誘ってみると、「僕もずっと慰霊登山をしたいと思っていた」とのこと。二人とも積年の思いを募らせていたので、あっという間に日程を決め、10月24日に行くことができたのです。

 やっと心の中に長年つかえたままになっていた思いを果たすことができました。今後もし行かれる方がいらしたら、どうぞ以下の体験談を参考にしてみてください。

 

 彼とは朝7時半に環八沿いの井の頭線高井戸駅で待ち合わせ、私の車で現地を目指しました。まず関越道の藤岡ジャンクションを経て上信越道に入り、下仁田インターまで1時間半。そこから下道で御巣鷹山登山口駐車場まで同じく1時間半の道のりのハズでした。

 しかし下仁田の街を過ぎ国道を逸れて山道に入ったとたん、とても狭い道とトンネルの連続でスローダウン。しかもトンネル内にほとんど照明がなく、真っ暗な上にヘアピンに近いカーブまであり、徐行運転を強いられました。

 山道は一台分しかないほど道が狭いうえ、一方が崖になっているので落石が多く、中には直径20㎝ちかくあるものがゴロゴロころがっているという恐ろしいほどの悪路でした。

 ナビで1時間半のはずが時速20~30㎞でしか走れなかったため、3時間近くかかり、昼前にやっと御巣鷹山登山口駐車場に到着。この駐車場は比較的最近できたため私の車のナビにはなく、グーグルマップを頼りながらのドライブでした。駐車場は登山口の直下にあるのでとても便利ですが、乗用車だとせいぜい10台ほどしか駐車できません。それまでは数キロ離れた場所に比較的広い駐車場があり、そこだけが使用可能だったそうですが、登山道まで歩く距離が長いため、慰霊登山はとても大変だったそうです。

 

 駐車場に着いて、登る前の腹ごしらえでバナナを食べていると、もう一台車が着いて、我々よりお年を召した方がお一人で来られました。そこで私から、「もし山に登られるのでした、我々とご一緒しませんか?」と声をかけてみると、「いやー、助かります。是非ご一緒させてください」とのこと。お歳をうかがうとなんと80歳。お住まいは都内で、長年にわたり新潟県長岡市の大学で教鞭をとっていて、今回は長岡にいる友人を訪ねた帰りに、お一人で御巣鷹山に慰霊登山をするためにいらしたとのことでした。

 70歳代なかばの我々ですら二人で登山するのは心もとないと思うほど誰もいない険しい山道を前にしていたので、その方はさぞかし心強い道連れができたと思われたのだと思います。御巣鷹登山のガイドマップによれば、健脚な方なら約30~40分程度の登りだそうですが、我々はその方のペースに合わせて1時間ほどかけて山頂にある「昇魂の碑」に到着しました。実際にはそのペースで登らないとあまりに急登すぎて、我々もへばっていたにちがいありません。

 ジャンボ機墜落地点である御巣鷹の尾根に登ってみると、そこは垂直に近い尾根の頂上付近で、飛行機が激突して何故生存者がいたのか、今さらながら不思議に思えました。

 尾根を切り開いて作った200平米ほどの小さな広場に「昇魂の碑」が建てられていました。その他に、3mほどもある石造りの観音像、遺品を集めて埋葬した場所の石碑など様々な碑がありました。中でも心に残ったのは、ご遺族の方々がそれぞれの思いで建てられた数多くの碑です。碑文は故人の名前の他に様々な思いを言葉に表したもので、読むたびに涙を誘われました。

 慰霊碑では友人が用意してくれた線香を焚き、手を合わせ、静寂な中でやっと積年の思いを果たすことができました。

 

 おにぎりランチを含め一時間ほど山頂で過ごした後下山したのですが、急階段を降りるので、手すりにつかまりながら滑らないよう気をつけ、登り以上に神経を使い、時間も疲れ具合も登り同様でした。ただ慰霊も終え、途中でご一緒した方と様々な話ができたため、ひたすら歩くより、はるかに楽しく歩くことができました。

 駐車場に着いて名刺を交換すると、その方は長岡技術科学大学の工学博士で名誉教授とのこと。実は帰宅後も私の著書とブログに興味を持たれたようで、メールのやりとりが続いています。

 御巣鷹の尾根から下山したあと、我々は麓の上野村にある「慰霊の園」を訪れました。事故当時、林業が盛んで山をよく知る上野村の方々は、救助に当たった自衛隊や警察の部隊を、ヤブコギをしながら現場まで案内したり、麓のベースキャンプなどで長きにわたる支援活動をし続けたそうです。

 そのうえ上野村は山と谷ばかりの地域にもかかわらず広い土地を提供し、平らにならし、実に立派な「慰霊の園」を作ってくれたのです。野球場ほどの広大な敷地には広々とした駐車場や展示資料室が作られていて、訪問者にはとても便利です。そして慰霊の日によくテレビに映し出される三角形の大きな慰霊塔があり、その周りは事故で亡くなられた方全員の名前が刻まれていました。上野村の方々には、本当に感謝の言葉しかありません。

 

 そして私自身は、この数時間の間ほど敬虔な祈りを続けたことは、これまでついぞありませんでした。

その2につづく 

 

 その2では、事故当日とその直後から藤岡市でご遺族支援のため2カ月を過ごした時の私の経験談を書くことにします。

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おめでとう真田広之さん

2024年09月17日 | エッセイ

  エミー賞の受賞、おめでとうございます。しかもほぼ独占というのは本当に素晴らしい快挙です。よくご存知とは思いますが、NHKニュースを引用します。

第76回エミー賞は現地時間の15日、ロサンゼルスで主要な賞の発表が行われ、俳優の真田広之さんがプロデュースと主演を務め、アメリカの有料テレビチャンネルFXが制作した「SHOGUN 将軍」がドラマ部門の作品賞を受賞しました。
このほか真田さん自身が主演男優賞、アンナ・サワイさんが主演女優賞、フレッド・トーイ監督が監督賞をそれぞれ受賞しました。
「SHOGUN 将軍」は9月8日に撮影賞や編集賞なども受賞していて、15日に発表された主要な賞とあわせてひとつのシーズンの作品として18の賞を受賞し、エミー賞で最多の受賞記録を打ちたてました。

引用終わり

 

 今回のお話は真田さんを私の家に招いて、バーベキュー・パーティーをしたお話です。

えっ?と思われる方が多いと思いますが、今を去ること35年前、1989年夏の思い出です。

 何故そんな機会があったのかを説明します。彼はテレビドラマの撮影で2か月間ニューヨークに滞在していたのです。日本はバブルにまみれていて、テレビドラマなのに豪華な出演者全員を2か月もニューヨークに滞在させ、全編現地ロケというありえないほどの豪華版連続ドラマでした。

 

ウィキペディアを引用しますと、

ニューヨーク恋物語 LOVE STORY IN NEW YORK』は、1988年10月から12月まで11回にわたるフジテレビ系列の「木曜劇場」枠で放送されたテレビドラマ。主演田村正和脚本鎌田敏夫その他の主な出演者は、真田広之、柳葉敏郎、桜田淳子、岸本加代子などで、かなりの視聴率を稼いだドラマでした。

 

 真田さんは主役ではありませんでしたので、けっこう暇な時間が多く、一緒に遊ぶ機会があったのです。何故そこにJAL社員の私が登場したのかを説明しますと、JALはスポンサーの一角にいて、出演者よりもはるかに多い撮影クルーや、撮影機材などの輸送に携わりました。全米の宣伝担当だった私は本社からの依頼で、「時間があれば出演者を適当に遊ばせてあげて」と言われていました。役得です(笑)。ドラマはフジテレビが作ったのですが、当時フジテレビはNYで日本語放送のニュースを地上波で流していたため、スポンサーだったJALとは商売上も仲良しだったのです。

 知り合いのフジテレビ・プロデュサーから「林さんゴルフするよね。真田さんがゴルフをしたがっているので、一緒に連れて行ってもらえないかな」という依頼があり、私は「喜んで引き受けます」となったのです。彼はその日一日自由だったので「ゴルフのあと私の家で一緒にバーベキューをしませんか」と誘うと、「是非」ということになりました。そこで私は近所に住む大学の同級生でJALに同期入社の友人家族も誘って、フジテレビのキャスターや真田さんを含め10人ほどでバーベキューをしたのです。

 住んでいた場所は 198 Bell Road, Scarsdale NY 。グーグルマップで簡単に検索できます。ご興味のある方はストリートビューで写真も是非ご覧ください。

  マンハッタンのグランドセントラル駅から北へ郊外電車で40分。一般的にニューヨークという地名から受ける印象とは真逆の、緑に囲まれた夢のような郊外の住宅地にありました。

 私が住み始めたのはこの家が建ってから60年経った時だったので、現在ではほぼ築100年ですが、グーグルマップの写真で見ると全く変わらずにきれいなまま建っています。さすがアメリカの家ですね。

 家賃は当時月1,650ドルで、社内規定を150ドルほどオーバーしていたのですが、広い庭と芝生にほれ込んで自腹を切るとして即決しました。敷地約300坪、平屋で50坪ほどのむこうでは「小さな家」です。右隣の家は敷地面積は同じくらいですが、そのあたりでは典型的な2階建てで、建坪は150坪ほどの大きな家。しかし私の借りた家は、実は地下室が1階とほぼ同じ広さのファミリールームがあったので、住んでいて余裕はありました。

 ところがこの家に実際に住むのは、かなりの覚悟が必要です。それは芝刈り落ち葉処理です。芝は成長が早いため、5月から10月くらいまで週に1度は必ず芝刈りをする必要があります。私は「今後一生で芝刈りをすることなどないだろう」と考え、芝刈りは自分ですることに決めました。エンジン付きの芝刈り機を買い、毎週せっせと芝を刈りました。週末はゴルフでも芝を刈り、家に帰っても芝を刈る生活でした(笑)。 

 ここまで書いて思い出したことがあります。それはこの広い庭の真ん中に、大きなゆりの木があったことです。今それはなくなっています。ゆりの木は葉がとても大きいため、落ち葉の季節はそれを道路に掃き出すのに、半日くらいはかかりとても大変でした。まあそれも楽しみのうちと考え、子供たちにも手伝わせながら、家族でやっていました。

 

 スカースデールは周辺の街より税金がかなり高いのですが、それは会社が払ってくれます。そしてその分公共サービスが充実しています。たとえば子供たちの行っていた公立学校は、全米でも指折りの学校でしたし、芝を刈ったあとの芝草や落ち葉も、すべ道路に掃き出すだけで済み、あとは街が巨大なバキュームカーで吸い取ってくれるのです。もちろん冬は寒くて雪が降るのですが、どんなに降っても朝までには除雪が終わっていますので、車のチェーンなどは不要でした。

 

 話が横道に逸れましたが、真田さんに戻します。彼はとてもナイスガイで、何にでも興味を持ち、ゴルフ場への往復の間もアメリカやニューヨークの郊外に住むというのはどんな感じか、安全性はどうか、食べ物はどうか、そして肝心のゴルフ場についてなど、話は尽きませんでした。

 今一度、おめでとう真田広之さん

 

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源氏物語と私 

2024年09月02日 | エッセイ

 NHKの大河ドラマがいよいよ佳境に入ってきて、主人公紫式部である「まひろ」が源氏物語を書く段になりました。世界で最も長い小説である54帖をすべて読まれた方は多くないかもしれませんね。

 私もその一人だったのですが、偶然の入院により長い長い物語を読む機会ができました。2008年、59歳になった私は長年の酷使がたたり、膝の手術を受けることになり、北里大学病院に入院しました。

 告げられた病名は、両膝の半月板損傷。膝に水が溜まってすこし腫れたり、曲げ伸ばしで痛みが出るようになりました。医師からは「両膝の半月板を一度に手術をするべし」という診断を受けました。20歳代後半から毎朝のジョギングを開始。ニューヨークに転勤していた30歳代、37歳でNYマラソンを走り、冬はスキー、それ以外のシーズンはゴルフに明け暮れ、膝を酷使しすぎたのです。ただ幸いなことに膝にメスを入れると言っても、内視鏡による手術のため、一つの膝に1cmほどのキズが二つずつできるだけで、10日もすれば歩いて帰れるとのこと。

 その先生はあの女流アルピニスト、田部井淳子さんの主治医でもあり、「彼女もあなたと同じように膝にメスを入れ、その後エベレストを登頂しました。それに比べればあなたの損傷はたいしたことはないですよ。半月板をきれいに削るだけだから」と言ってくれたのです。

 そして両膝を一度に手術する理由は、「片方ずつでも二ついっぺんでも入院は同じ日数が必要。現役のあなたには一回で両方をお勧めします」とのこと。私は納得し「先生にすべてお任せします」と両膝手術を選択しました。手術とリハビリを入れて入院日数は12日間の予定でした。手術後の経過は順調で、膝の痛みは10年以上を経て激しい運動をしても、いささかもありません。

 そこで一計を案じた活字中毒の私の決断は、「この際10冊に及ぶ長編小説、源氏物語を一気に読もう」というものでした。ちょうどその頃、瀬戸内寂聴による現代語訳版の源氏物語10巻が完結していたので、それを一気読みすることに決めました。

 日本人であるからには、死ぬまでに一度は読もうと思ってはいたのですが、とにもかくにも超長編です。よほどの覚悟を決めないと読めるものではありません。と、ここまで書いて、「そうか、山岡荘八の徳川家康26巻のほうが小説としては長いな」と思い返しました。それはともかく、

 病室は6人部屋で、同部屋5人はすべて慶応大学の体育会に属する現役プレーヤーでした。彼らは大怪我をすると何故か慶応大学病院ではなく、大学同士親密な関係にある北里大学病院に入るのだそうです。ラグビー、サッカー、アメリカンフットボールの選手ばかりで、ほとんどが複雑骨折の重傷患者。2か月から半年に及ぶ長期入院の患者でした。そこに闖入者とも言うべきオジサンが一人、源氏物語を抱えて入ってきたので、みんな興味津々だったようです。

 同室の連中とはすぐ仲良く話すようになりました。もっとも若い彼らの関心は私が学卒で入社したJALからどうしてアメリカの投資銀行に転職し、その後イギリスの投資会社で働いているのかという点でした。その説明を終えると、次は何故源氏物語10巻を抱えてきたのかに移りました。

 そもそも私は「兄弟の多い父方の親戚が集まる新年会で、子供のころから百人一首で遊んでいたので、和歌と平安時代には自然に興味を持ち、源氏物語は一度は読んでみたかった」という説明をしました。なにしろ叔父叔母合計12人、いとこは合計14人という大人数が一堂に会し、大人は二組に分かれて争う源平合戦、子供たちはばらにまいたカルタを取る乱取り、新年会とはカルタ会だったのです。少しでも早く取るために、上の句の最初5文字が読まれたら、すぐ下の句の札をめがけて飛びつく。その競争心が100首をすべて覚えた原動力でした。

 

 入院中の読書はどんどん進むだろうと思っていたのですが、横たわって読み始めるとすぐに眠くなるため、意外に進まないことがわかりました。そこでベッドだけではなく、歩行のリハビリに使う半円形の歩行器に肘を乗せて歩きながら本を読むことを思いつき、病院中を歩いたり、面会スペースの椅子に行って腰かけたりして読むことにし、1日1冊のペースをどうにか守ることができました。

 源氏物語を読むにあたって必要なものが一つあります。それは登場人物が多すぎるのを整理するために、すべての人物の相関図を見ながら読む必要があることです。本を買った時点でそれがわかったので、実は入院準備としてネットで大版の源氏物語相関図を見つけてプリントし、さらにA3のコピーマシンで拡大して病院に持参したのです。実際の本は新書版のため、1冊ごとに小さな相関図はあるのですが、それらをつなぐ頭の整理が難しいのです。もし今後読まれる方がいらしたら、これだけは必需品であることを申し上げておきます。

 

 源氏物語に関して著者の瀬戸内寂聴は1冊目のあとがきで、以下のようなことを書いています。

・源氏物語こそ日本が世界に誇る最高の文化遺産である

・源氏物語54帖は400字詰め原稿用紙で4千枚。世界でも類を見ない長編

・登場人物は430人に及ぶ

・千年も前に紫式部という女性がこれを書いたのは、天賦の文学的才能に恵まれていたから

・主人公光源氏は稀有な美貌の持ち主で、文武両道あらゆる才能に恵まれ、怪しいほど魅力的な上、人並み以上に多感好色な皇子である

 そのように形容されるパーフェクトな主人公が、ありとあらゆる恋の手練手管を弄して物語を紡ぐため、読んでいても冗長さは全く感じませんでした。

 

 ところで私の住んでいる世田谷区の用賀には、駅前から歩いて20分ほどの砧公園に続く、「いらか道」と呼ばれるプロムナードが整備されています。その道はグレーの瓦の素材でできた10㎝四方の石板が敷かれ、そこに「百人一首」が刻まれています。

 用賀駅前の1人目は天智天皇。「秋の田の かりほのいほの とまをあらみ わがころも手は 露に濡れつつ」から始まり、砧公園入口付近には100人目の順徳院。「ももしきや 古き軒ばのしぶにも なほあまりある 昔なりけり」そこまで数メートルおきに歌が刻まれています。文字はプロとおぼしき書道家の見事な草書体もあれば、きっちりとした楷書体、子供が書いたと思われる字もあり、千差万別。原稿のまま写し取って彫られたものだそうです。

 今回の大河ドラマの登場人物の歌を二つ上げますと、

57人目 紫式部 ; めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲隠れにし 夜はの月かな

62人目 清少納言  ; 夜をこめて とりのそらねは はかるとも よに逢坂の関は許さじ

 

百人一首を内容別に分類すると、以下のとおりだそうです。

・恋の歌 43首

・季節の歌 32首  うち秋16首 春 6首 冬6首 夏4首

・旅の歌 4首

・その他 21首   

 紫式部の歌はストレートに恋の歌ですが、清少納言の歌はどう分類されるのでしょうか、よくわかりませんのでその他なのでしょう。中国の函谷関という厳しい関の故事と日本の逢坂の関の検問の厳しさを比べています。そういえば「箱根の山は天下の剣」の歌にも「函谷関もままならず」という比較がありますね。

 清少納言には、今回のドラマでもそのシーンがありましたが、「香炉峰の雪はいかにせん?」という問いに対して、「すだれをかかげて見る」と白居易の歌で返しています。それもやはり中国の故事に極めて詳しい賢者である故のエピソードなのでしょう。

 さきほども述べましたが、私は中高生のころは百首をすべて諳んじていて、上の句の最初の5文字を聞けば、かるたに平仮名で書かれている下の句がすぐ浮かぶほどでした。例えば「めぐりあいて」を見れば、即「くもがくれにし・・・」が出るという具合です。

 しかしその時代から数十年を経て用賀に引っ越してきて「いらか道」を歩くたびに記憶をたどるのですが、最初の5文字から下の句に飛べるのは全体の4分の3ほど。あとの4分の1は上の句すべてを言ってからでないと、下の句がスムーズに出てこなくなっています。それでも若い時の記憶はしっかりと刻まれているものだと、我ながら感心してはいるのですが・・・。

 実は先週、鮫洲の自動車試験場で75歳に向けて「認知テスト」を受けました。幸い無事通過。一度に受けるおよそ10人中、一番先にテストを終えて席を立つことができました。とりあえず、めでたし めでたし。

 

 横道に逸れてばかりで長くなりましたが、「源氏物語と私」でした。

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私の青春のアイドル

2023年06月14日 | エッセイ

 どなたも若い時にご自分の好きなアイドルがいただろ思います。みなさんのアイドルは誰でしたか?

 私のアイドルは中学高校で一緒だった森山良子ちゃんです。初めは2学年上でしたが、最後は1学年上になっていました。すでにセミプロとして歌に集中していたせいです。

 何故唐突にこんな話題について書くのかと申しますと、今年は彼女がプロデビューから55周年に当たり、閉鎖間近の渋谷オーチャードホールと出身校である成城学園のコンサートホールで演奏会がありました。私は両方とも人気があり過ぎてチケットを手に入れることができなかったのですが、今月NHKBSがオーチャードホールでのコンサートをなんと2時間半もの長丁場でビデオ放映してくれ、それを見て感激のあまり青春時代を回顧してみたくなったというわけです。

 

  私の高校時代はビートルズが出きて全盛時代を迎えた時と重なります。良子ちゃんのあと私はビートルズ一本鎗でしたから、私の永遠のアイドルは良子ちゃんだけです。私も良子ちゃんと同じように中・高とも成城学園で、彼女は有名になる前からいつもみんなのアイドルでした。フォークソング全盛時代だったので、学校でギターを抱えて歌っていたのはジョーン・バエズやブラザース・フォーなど英語のフォークソング。彼女は父親が日系2世のためか、英語はとても上手で、そういえば別名「日本のジョーン・バエズ」と言われていました。母親はジャズ・シンガー。父母ともにジャズミュージシャンという音楽一家で育ちました。

  成城学園は幼稚園から大学まで全校行事はいつも全員参加でした。運動会では全学年を縦に6組に分けて競い合います。ですので赤白2組ではなく六色6組。なかでも盛り上がったのはリレーです。2年保育の幼稚園児による50m走から始まり、大学生の400mまで、学年別に距離を決めて2+6+3+3+4=18人がバトンを渡すという、ほかでは見られない長いリレーをするのです。

 学園祭も同じで、大学まで同時に開催され、コンサートでは実力があれば高校生も大学生に交じって一緒に大ホールで演奏していました。良子ちゃんの透き通るような声は全学園でもピカイチでしたから、学園祭では「トリ」ではないけどメインイベントでした。トリはいずれも学生時代のビレッジ・シンガーズや黒沢明の息子の久雄が主宰するブロード・サイド・フォーで、なんとも豪華な学園祭でした。

 高校くらいからどの学年にもバンドの一つや2つはあって、当時はやっていたヴォーカルのいない「ベンチャーズ」のロックバンドのそっくりバンドが演奏し、大きな体育館で何百人もの生徒が一緒に踊るディスコ・パーティーも開かれました。中高は男女が同数だったため時々スローの曲になるとペアで踊ることも許されていました。学園の自由な雰囲気を満喫したことを思い出しました。

 

 さて、良子ちゃんの55周年コンサートに戻ります。私は今73歳ですから彼女は75歳。最近歌声をほとんど聞いていないので、どの程度歌えるのかちょっと心配だったのですが、歌い出してびっくり。高校生の時の透き通るような声と豊かな声量はほとんど変化していませんでした。どの演歌歌手でもオペラ歌手でも70歳を超えて変化がないのはありえない。彼女は奇跡というしかありません。

 今回のステージでは、彼女のデビュー曲となった「この広い野原いっぱい」などのフォークっぽい歌はもちろん、母親譲りの英語のジャズも昔のままの歌声で聞かせてくれました。YouTubeのURLを付けておきますので、懐かしい方は聴いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=ek5-up9C2fs

 

 そして何より一番驚いたのは、プッチーニのオペラのアリアを歌ったことです。さすがに「今回のために高い声と声量を出す練習をしました」とステージで言ってはいましたが、練習したから出せるという代物ではありません。オペラ好きの家内ですら、「彼女はまだオペラで十分歌えるね」とほめていたほどです。

 

そして最後のほうで歌ったのは「ざわわ ざわわ ざわわ」という歌詞を何度も繰り返す「さとうきび畑」。10分を超える長い長い歌です。沖縄戦が終わった時に生まれた子が、まだ見ぬうちに戦死した父のことをサトウキビ畑で探すという悲しい歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=v5BmM2bNIGE

 

 その歌の前に彼女が披露したのは母親の言葉でした。ちょうどイラク・イラン戦争の最中だったとのこと、「あなた、こんな時に愛だ恋だなんて謳わないで、あなたにはもっとふさわしい歌があるじゃないの」と言われたそうで、「そうだ私には反戦の歌がある」と思い出し、再び取り上げたとのこと。実は彼女はこの歌がヒットしてから、戦争を体験していない自分に歌う資格はないと30年も封印していたそうです。それを今回も引っ張り出して歌ってくれました。

 この歌のさとうきび畑を「ひまわり畑」に変えたら、今のウクライナ戦争の悲惨さを象徴する歌になりそうだと思い、私は青春の思い出とともに思わず涙がこぼれました。

 

ということで、「わが青春のアイドル」、良子ちゃんの2時間半にわたる感動のビデオは、うちでは永久保存版となりました。

  おまけ

 最近卒業式では「仰げば尊し」を歌わないそうですね。そのかわりしばらく歌われていたのが良子ちゃんの「いつまでも絶えることなく友達でいよう」の歌詞で始まる「今日の日はさようなら」。我々は学生時代にキャンプファイヤーでこの歌をさんざん歌っていましたし、今でも同窓会の〆には応援歌とこの歌を歌います。

https://www.youtube.com/watch?v=YNQT68uHpyg

 さらにもっと最近の卒業式では、良子ちゃんの息子森山直太朗の曲「さくら」だそうです。最近桜の花は入学式より前の卒業式の時に咲くので、ぴったりなのかもしれませんね。素晴らしい親子のリレーです。成城学園の街は全体が桜並木だし、校内を流れる仙川沿いの広い陸上競技場にも桜が並木をつくっています。

 直太朗が母校の桜をバックに歌うビデオもあります。タイトルは「さくら 日本百歌、母校」です。

https://www.youtube.com/watch?v=3EI8DaIpqUA

 

  というわけで彼女は中高時代からおっとりした能天気キャラと言われ、清水ミチコとのウィッグの宣伝に出てくるままのキャラクターです。

 

 誰からも愛された「私の青春のアイドル、良子ちゃん」でした。

どうかできれば彼女の歌声も聞いてみてください。

 

コメント
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