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ふるさと納税=元オリンピック選手と滑る一日

2025年02月18日 | エッセイ

 今シーズン4回目のスキーで、2度目の志賀高原に行ってきました。スキー場での私の楽しみの一つは、相変わらずゴンドラに乗る10~15分で出会った人々と話をすることです。今回は大ビックリ大会でした。

 出会ったお二人はアメリカのスキー・リゾート、コロラドのヴェイル、ソルトレークのスノーバードやバーモントのキリントンなど、私の行ったことのあるリゾートの詳しい話をしていたので、ずうずうしくも割り込んで、「お二人はスキー・リゾートの専門家の方ですか?」と尋ねると、お一人はアメリカ人のスキー・リゾート経営者でした。その方が日本人の方の紹介をしてくれて、「彼は元オリンピック選手の平澤岳さん。いまは志賀高原のある長野県山ノ内町の町長さんだよ」とのことでした。スキー選手が町長さんとはさすが志賀高原をいだく山之内町と感心しました。

 私は友人と二人で焼額(やけびたい)山の頂上に着き、彼らがどんな滑りをするのか見たくて、後をついて滑ろうということにしました。お二人の滑り出しは実にスムーズで、途中から30度ちかい急斜面に入るのですが、スキーぶりは上半身が全ブレない、「お見事!」と言う以外ない滑走を見せてくれました。

 あとで考えてみるとその焼額山の滑降コースは、平澤さんが出場した長野オリンピックの回転競技のコースそのものだったのです。なんという偶然!しかも彼の年齢は私と同じ75歳。三つ子の魂百までを地で行く滑走を見せていただきました。

 彼のことをもっと調べてみようと帰ってからネットで検索すると、とても面白い記事にぶつかりました。それは「ふるさと納税」で、山ノ内町のアイテムの中に、なんと「元オリンピック選手の町長と一日滑ろう」というアイテムがあるのをみつけたのです。ちなみにサイトの内容をそのまま以下に引用します。

「元アルペンスキーオリンピック選手の町長と志賀高原を滑ろう!」

標高1500m~2000m級に広がる18のスキー場を48基のリフト・ゴンドラが結ぶ日本最大のスキーエリア「志賀高原スキー場」。トップ標高は2,307mで日本一!その高い標高により、県内でも別格の雪質を誇ります。
わが町自慢の志賀高原スキー場で、他にはない特別な体験をしてもらいたい、そして最高の思い出を作ってもらいたい。そんな思いから本ツアーを開催することになりました。

山ノ内町長で元アルペンスキーオリンピック選手の平澤岳と一緒にスキーを楽しむなど、ワンランク上のプレミアムな体験を多数ご用意いたしました。志賀高原で最高の思い出を作るお手伝いをさせていただきます。

ワンランク上のプレミアムな体験をご用意しております


■町長と1日スキー体験
・山ノ内町長で元アルペンスキーオリンピック選手の平澤岳 が、一緒にスキーをしながら志賀高原をご案内いたします。
・志賀高原マウンテンリゾート全山共通1日券付き

■ホテルグランフェニックス奥志賀でのランチ、カフェ(宿泊は含まない)
「志賀高原No.1ランチ」との呼び声高い高原リゾートホテルで、町長と歓談しながらランチ(牛タンシチュー)をお楽しみいただけます。(宿泊は含まれません)

■カメラマンによる滑走中の写真撮影&画像データプレゼント
・専属スタッフを配置し、最高の思い出となる写真を撮影いたします。
・午前もしくは午後のどちらかに撮影します。
・データはUSBメモリーでお渡しします。(後日配送、人数分)

■山ノ内町SDG’s特産品3点セット贈呈(後日配送)
SDG’sにも配慮した、山ノ内町が誇る贅沢なお土産セット(信州牛・りんごジュース・アップルパイ)をご用意いたします。後日お届けします。
(1)りんごジュース3本(1L×3本)提供事業者:道の駅北信州やまのうち
(2)りんごで育った信州牛(以下のいずれから選択)提供事業者:福田屋
 すき焼き用 肩ロース(A5等級)約900g(5~6人用)
 しゃぶしゃぶ用 肩ロース(A5等級)約900g(5~6人用)
 ステーキ用 和牛サーロイン(A4等級)(約250g×3枚)
 焼肉用 肩ロース、モモ、バラ(A5等級)約900g(5~6人用)
(3)アップルパイ大ホール(20cm)提供事業者:マミーズ・アン・スリール

※寄附お申込みをする前に必ず役場までご連絡ください。日程調整が可能な場合に限らせていただきます。
※レベルは中級(パラレル)以上の方。
※現地集合、現地解散が可能な方。
※1名様~3名様まで
1月~3月の期間中の1日(寄附者様と町長の日程があう日)
1月22日 
2月6日、19日、21日
3月6日、11日、12日

引用終わり

URL;https://www.furusato-tax.jp/feature/detail/20561/21178?city-product_original

 なんという粋なプログラムでしょう。元アルペンスキーオリンピック選手の町長と志賀高原でスキーをして、素晴らしいホテルでランチ、カフェタイムを過ごし、おみやげまでもらえる。


 残念ながら私は多額納税者ではないので、該当しません(笑)。しかしスキー好きの方なら飛びつきそうな内容ですね。

 以上、今年はまだスキーに行きますが、25年のスキー・ツアー最高の思い出でした。

 

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団塊の世代、75年史

2025年01月06日 | エッセイ

 

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 
 一昨日、今年の初滑りに行ってきました。雪が豊富な今年は珍しくスキーヤーにとって絶好のチャンスです。
 
image.png
八ヶ岳を背景にパチリ
 

 昨年12月に誕生日を迎え75歳となり、後期高齢者に仲間入りしました。自分を振り返る意味で、75年の歴史を振り返ってみました。

 私が生まれたのは1949年、昭和24年。「団塊の世代」は昭和22年・23年・24年生まれを指しますので、ベビーブーム最後の年の生まれです。戦後4年目でまだまだ戦争の傷跡がわずかながら残る貧しい時代でしたが、同年生まれの人数は270万人と空前絶後の最大人数でした。

 小学校を出るまで育ったのは目黒区碑文谷です。戦争の傷跡を最初に感じたのは、隣の家の庭先から出てきた錆びた鉄の筒。それが6角形だったので親が、「これは焼夷弾の残骸だ」と言っていました。そして近くの東京工業大学のキャンパスが遊び場でした。キャンパスの中を流れる川べりの洞窟探検が一番面白かったのですが、実はそれは防空壕。そしてその川にかかる橋の欄干の鉄パイプが曲がっていて6角形の傷跡があり、子供心にこれも焼夷弾の跡だと気が付きました。

 団塊の世代は子供のころから人数が多かったので、幼稚園に入れるもの親は大変だったと言っていました。幸い近所にあったカトリックのサレジオ幼稚園に入学し、小学校は碑文谷の区立碑(いしぶみ)小学校でした。校庭にはプレハブ校舎が建てられ、一クラスに60人ちかくいて、机と机の間は通るのがやっとというほどすし詰めでした。

 その頃に大流行したのはまずダッコチャン、フラフープ、そしてホッピング。だれもがそれで遊んでいました。若い方には何なのかわからないかもしれませんね。それに加えて、みんなが長嶋、大鵬、卵焼きが大好き。

 しかし団塊の世代が最も苦労したのは大学受験です。一浪は当たり前。二浪までならよしとする時代でした。特に団塊最後の我々は上から浪人が大勢降ってくるので、受験地獄の最悪世代と言われていました。私はどうにか現役で合格できたのですが、同世代の仲間にはかなり苦労した友人もいました。しかしこの世代は若いうちに地獄を経験しているので、打たれ強いのも事実です。

 大学を卒業する70年代前半は高度成長時代の真っただ中だったため、就職はだれもがさほど苦労せず、我々の息子・娘時代の就職氷河期とは大違いでした。

 「団塊の世代」とは、そもそも1976年にまだ通産省にいた堺屋太一氏が書いた近未来小説のタイトルでした。未来を予想したとてもすぐれたその内容を、ウィキペディアから簡単に引用します。4つの話から出来上がっていました。

引用
第一話  与機待果
1980年代前半が舞台。成長が止まった電機メーカーがコンビニという新業態を始める話。
堺屋が小説を執筆した1975年当時、コンビニエンスストアが日本にはほとんど存在せず、後に業界大手の役員が堺屋に問い合わせに来たと、後年語っている。
第二話  三日間の反乱
1980年代後半が舞台。中堅自動車会社の東京工場跡地売却をめぐる話。中間管理職が中心となって東京工場跡地売却を阻止しようと奔走する。
第三話 ミドル・バーゲンセール
1994年前後が舞台。終身雇用と年功序列が崩壊する状況下で銀行の中年管理職が他企業に出向させられる話。
第四話  民族の秋
1999年が舞台。高齢化による年金や医療などの社会保障制度危機の話。
引用終わり

 なんという優れた未来予想でしょうか。私は出版直後最初に読んだのですが、その後サラリーマン生活を続ける中で2回も再読し、それが自分自身の生き方の指針の一つになったと言っても過言ではありません。

 人口推計は将来予想の中で最も確実に当たる推計です。そんな簡単な予想であるにもかかわらず、その後の政府はそれを無視し続け、見事に悲惨な姿の日本を実現してくれました。

 団塊ジュニアである我々の子供たちが結婚年齢に入り子供を産み始めたのは90年代の終わりから2000年代初めころです。そのころの出生数が団塊の世代と比較し少ないことは誰が見ても明らかだったのですが、今やもう完全に手遅れです。

 政府はやっと団塊の孫時代になってそれを必死に叫んでいます。現在の出生数は23年が73万人ポッキリ。団塊一年では270万人ですから、現在はそれからマイナス200万人です。今の政策がある程度奏功したとしてもその世代が労働人口に入るのは今から20年以降の2040年代半ば以降です。団塊世代の出生数はある意味異常な数ではありましたが、その4分の1程度しかないのが現実です。

 それに対する解決策を私は持ち合わせません。
せめてもの対処策は、もうすでにその段階ではありますが、自己防衛のみ。

 年明け早々情けない話となってしまったこと、どうかお許しください。
 
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レバノン杉植樹、レバノン大使の記者会見について

2024年12月31日 | エッセイ

 今年の日本は地震や大雨などの災害が多く、本当に大変な年になりましたね。大災害がなかった東京も、実は災害級の暑さに見舞われた年になりました。そんな中、私はレバノン杉植樹プロジェクトのメンバーとなり、特にこの3か月余り、とても忙しい毎日を過ごしました。プロジェクトは無事終了し、都立砧公園の一角にレバノン杉の小さな苗2本を植樹することができました。少しでも明るい出来事があったことを今年の最後に報告させていただきます。

 現在レバノンは戦火の中にあるにもかかわらず、駐日全権大使が式に出席してくださいました。その日の模様は朝日新聞と東京中日新聞の記者が植樹から会見内容まで取材し、新聞に写真付きで掲載してくださいました。

 植樹プロジェクトメンバーのお一人であるO氏がレバノン大使の通訳を務められ、昼食会の前に行われた記者会見の内容を要約していただいたので、このブログでそのまま紹介させていただきます。

O氏報告内容の引用

レバノン杉プロジェクトのリーダー森さんの2年に亘る粘り強いご尽力により12月17日、世田谷の砧公園においてニダル・ヤヒヤー駐日レバノン大使ご列席の下、日本・ヨルダン国交樹立70週年を祝してレバノン杉の植樹式が挙行されました。私はその機会にサイバーサロンのご縁で大使の通訳を務めるという貴重な機会を頂きました。

当日、大使からは現在、イスラエル侵攻によりレバノンがおかれている厳しい状況の訴えが種々なされましたが、植樹式でのご挨拶並びにその後の記者会見で大使より説明のあったレバノン杉にまつわる話が興味深かったのでここではその内容に絞って大使の説明の概要を次の通りまとめてみました。ご笑覧頂ければ幸いです。

レバノン杉は幅40メートルにも育つ、樹齢2000年にもなる強い木である。杉の木は聖書にもコーランにも記述があり創造神の木として崇拝されており、永遠と寛大さの象徴になっている。杉の木は神道と仏教においても自然界における最も美しい生き物の一つで神聖な物とされている。従って、杉の木は文化、文明、宗教そして自然に対する尊敬と崇敬の対象としてレバノンと日本の共通の絆を成す。

レバノン国旗には寛容さのシンボルである杉の木が描かれており、レバノンのパスポート他、あらゆる公式文書には必ず杉の木があしらわれている。古代フェニキア文明では5000年前に寺院や船は杉の木で作られていた。また、現在、エジプト博物館に所蔵されている「永遠の船」、「クフ王の船」は4500年前に釘一本も使わずに杉の木で作られたと記録されている。このような長い歴史が背景にあり、レバノンの居住者、移民何れにとっても杉の木は極めて大事な存在である。

これまで砧公園に植えられている杉の木がレバノン杉であると考えられていたが、実はそれがヒマヤラ杉であることが今回、森さんをはじめとする皆さんのおかげで判明したことは意義深い。新宿御苑は約120年前に設立されたが、その設計を担当したフランスの技術者により植えられた3本のレバノン杉が現在も残っていることも興味深い。

上皇陛下は皇太子時代から杉の木、特にレバノン杉に関心を寄せられていることが知られている。因みにフェニックス(不死鳥)はフェニキアが発祥の地である。今上天皇即位の儀に招かれた際、外交団の一員として拝見する機会に恵まれた高御座にも鳳凰像があしらわれており、ここでも長い歴史を有するレバノンと日本の繋がりが感じられた。

 以上、通訳の方のまとめられた大使の記者会見の内容でした。

 また当日、このブログの読者の方で公園の近くにお住いの方が式典に出席してくださり、その上「費用の一部にお使いください」と寄付金をくださいましことを申し添えます。誠にありがとうございました。

 新年を迎えるにあたり、来年はどうか良い年となりますように。そしてみなさんもどうぞよいお年をお迎えください。

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12月19日 砧公園レバノン杉プロジェクト、植樹式

2024年12月19日 | エッセイ

 12月17日、この時期にしては暖かい快晴・無風の中で、植樹とその後の公園内レストラン、ル・ジャルダンでの式典が無事終了しました。

 出席者はレバノン大使ご夫妻、レバノンから杉の苗を持ってきてくれた元大使館員のバシール氏を含む大使館側関係者が7名。日本側は来賓として世田谷区議会のひうち優子議員、東京都の公園課長、そしてプロジェクトメンバーとサイバーサロン・メンバーが出席してくださり総勢約40名。
 報道関係は朝日新聞、東京新聞、TOKYO MX TVの3社が来て、ニュースとして取り上げてくれました。
 TOKYO MX TVの放映部分のビデオをオンラインで見ることができます。とても短いニュースですが、以下のURLでご覧ください。
https://s.mxtv.jp/mxnews/article/chiiki/178irzz7a1er3zvqc.html

 私は両国国旗の映像とレバノン大使の演説映像の間で、テーブルの脇に控えいるのが一瞬写っています。
 
 植樹式とレストラン内のパーティーでも私が司会者を務め、みなさんの協力ですべてスケジュール通りに進めることができました。室内での式典の最初にはソプラノ歌手の新藤昌子さんがレバノン国歌をレバノン側出席者とともにを斉唱。日本国歌は全員で斉唱しました。ちなみに新藤さんは「世界の国旗国歌研究協会」の共同代表もされていて、世界中の国歌をすべて歌うことのできる稀有な方です。

 12月12日のブログでこの式典が行われる旨を書きましたが、砧公園の近所に住んでいる読者の方がお一人来てくださいました。その方は私の著書を2冊とも持参され、サインをして下ださいとのこと。とても嬉しくてサインを差し上げたのですが、残念ながら司会進行役のため、ゆっくりとお話する時間がありませんでした。しかもその方はこのプロジェクトのために寄付までしてくださいました。寄付金はプロジェクトの基金に入れさせていただきました。本当にありがとうございます。メモにメールアドレスがあったので、昨日お礼のメールを差し上げたのですが、届いておりますでしょうか。もしこの投稿をご覧になっていたら、返信いただけるとありがたいです。

 以上、世界的に希少となったレバノン杉の植樹式の報告です。みなさんも砧公園においでの折には、是非ファミリーパーク内、三角花壇のそばに今は緑色の柵に囲われ、白い霜よけの袋に覆われてはいますが、2本の小さな苗を見てあげてください。

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砧公園レバノン杉プロジェクト、植樹式のお知らせ

2024年12月12日 | エッセイ

 

 最近ちょっと投稿がスローダウンしていますが、その理由をお伝えします。

 理由はタイトルにある「砧公園レバノン杉プロジェクト」です。私の家からわずか5分の場所にある都立の砧公園には「世田谷銘木100選」の一つとして、実に立派なレバノン杉と書いた銘板をいただく杉の木があります。レバノン杉は数千年前のフェニキア時代から丈夫な木材として珍重され、地中海周辺国々の建造物や船に使われたため数を減らしてしまいました。それが砧公園にあるとは驚きなのですが、実はレバノン杉ではなくどこにでもたくさんあるヒマラヤ杉であることが判明。 

 私が初めての著書を書くきっかけとなったは、私がメンバーとなっていたメールマガジン、サイバーサロンへの投稿でした。そのサロンの主催者である森さんの友人の在日レバノン大使館の経済担当官が、昨年1月にレバノンから本物のレバノン杉をもってこようという提案があり、それが12月17日に実現の運びとなりました。

 以下はその植樹式にあたって報道各社に知らせたプレスリリースですが、そのまま引用します。

 

 東京都庁記者クラブ 御中


「レバノン共和国より砧公園へのレバノンスギ寄贈の件」
今年、日本とレバノン共和国の国交開始70周年を迎えました。
それを祝い、今後の両国の親善のさらなる伸展を祈念して、レバノン共和国より、レバノンスギ苗(2本)を世田谷区にある「砧公園」向けに寄贈いただいたので、その植樹を、下記のとおり実施することになりました。
1. 植樹式 :2024年12月17日(火)10:00-12:00
2.場所 :世田谷区「砧公園」(植樹場所:ファミリーパーク三角花壇前)
3. 来賓 :駐日レバノン大使 H.E. Mr.Nidal Yehya  他数名

 昨年10月に始まった「イスラエル/レバノン戦争」の停戦合意は成立しましたが、イスラエルの激しい攻撃を受けたレバノンは大きな被害を受けました。イスラエルのガザ攻撃が継続する不安の中、これからその復興に向かうレバノン。この小さな「レバノンスギ苗(2本)」が、将来に向け、日本とレバノンとの友好増進、更には世界平和祈念のシンボルとなって大きく育ってくれることを期待しています。


ここに至る経緯とその意義をまとめた別紙もご一覧賜り、本件の取材をいただければ幸甚です。
「植樹式」を取材いただいた後、「レバノン大使の記者会見」を、公園内の「昼食会場(レストラン)」に設営させていただくことも申し添えます。

以上、引用終わり

 このリリースに呼応して、何社かの新聞が興味を示してくれ、当日公園を訪れて大使に記者会見を行うことになりました。

 さらにこの移植の「経緯と意義」をより詳しく書いたものがありますので、上記の説明と重なる部分もありますが、一部を参考までに引用します。

 

「経緯と意義」引用

「レバノン杉」は、「古代エジプト」、「フェニキア」の時代に、神殿や、ピラミッドの建材、地中海貿易船の造船材などとして活用され、「レバノン国旗」のシンボルともなっている。このような歴史のある「レバノン杉」はかって中東地域に広く分布していたが、長い歴史を経た乱伐により、その数が減少したので、現在はレバノン国内で保護育成されている。

それを、「レバノン共和国」のご好意による寄贈で、「砧公園」に移植して育成することは、自然環境保護の観点からも大変意義深いことである。

更に、今年(2024年)は、日本とレバノンの「国交開始70周年」の記念の「年」となるので、「日・レ親善」を祝するという意味でも大きな意義がある。

引用終わり

 サイバーサロンは約1,000名のメンバー数を有していて、ほぼ毎日様々な投稿がメルマガとして送られてきます。今回そのメンバーの方々を対象にして、植樹費用のドネーションを依頼しました。その結果数十万円の寄付が集まり、植樹費用や当日行われるレバノン大使を囲むパーティーの一部を賄う予定です。
 植樹式は公園内で行われるため、もしご興味がおありの方は、上記の日時にご自由に見学いただけます。しかしランチパーティーは公園内のレストランで行われるため、人数の制限があり、すでに満杯となりました。

以上、「砧公園レバノン杉プロジェクト、植樹式のお知らせ」でした。

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