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私の青春のアイドル

2023年06月14日 | エッセイ

 どなたも若い時にご自分の好きなアイドルがいただろ思います。みなさんのアイドルは誰でしたか?

 私のアイドルは中学高校で一緒だった森山良子ちゃんです。初めは2学年上でしたが、最後は1学年上になっていました。すでにセミプロとして歌に集中していたせいです。

 何故唐突にこんな話題について書くのかと申しますと、今年は彼女がプロデビューから55周年に当たり、閉鎖間近の渋谷オーチャードホールと出身校である成城学園のコンサートホールで演奏会がありました。私は両方とも人気があり過ぎてチケットを手に入れることができなかったのですが、今月NHKBSがオーチャードホールでのコンサートをなんと2時間半もの長丁場でビデオ放映してくれ、それを見て感激のあまり青春時代を回顧してみたくなったというわけです。

 

  私の高校時代はビートルズが出きて全盛時代を迎えた時と重なります。良子ちゃんのあと私はビートルズ一本鎗でしたから、私の永遠のアイドルは良子ちゃんだけです。私も良子ちゃんと同じように中・高とも成城学園で、彼女は有名になる前からいつもみんなのアイドルでした。フォークソング全盛時代だったので、学校でギターを抱えて歌っていたのはジョーン・バエズやブラザース・フォーなど英語のフォークソング。彼女は父親が日系2世のためか、英語はとても上手で、そういえば別名「日本のジョーン・バエズ」と言われていました。母親はジャズ・シンガー。父母ともにジャズミュージシャンという音楽一家で育ちました。

  成城学園は幼稚園から大学まで全校行事はいつも全員参加でした。運動会では全学年を縦に6組に分けて競い合います。ですので赤白2組ではなく六色6組。なかでも盛り上がったのはリレーです。2年保育の幼稚園児による50m走から始まり、大学生の400mまで、学年別に距離を決めて2+6+3+3+4=18人がバトンを渡すという、ほかでは見られない長いリレーをするのです。

 学園祭も同じで、大学まで同時に開催され、コンサートでは実力があれば高校生も大学生に交じって一緒に大ホールで演奏していました。良子ちゃんの透き通るような声は全学園でもピカイチでしたから、学園祭では「トリ」ではないけどメインイベントでした。トリはいずれも学生時代のビレッジ・シンガーズや黒沢明の息子の久雄が主宰するブロード・サイド・フォーで、なんとも豪華な学園祭でした。

 高校くらいからどの学年にもバンドの一つや2つはあって、当時はやっていたヴォーカルのいない「ベンチャーズ」のロックバンドのそっくりバンドが演奏し、大きな体育館で何百人もの生徒が一緒に踊るディスコ・パーティーも開かれました。中高は男女が同数だったため時々スローの曲になるとペアで踊ることも許されていました。学園の自由な雰囲気を満喫したことを思い出しました。

 

 さて、良子ちゃんの55周年コンサートに戻ります。私は今73歳ですから彼女は75歳。最近歌声をほとんど聞いていないので、どの程度歌えるのかちょっと心配だったのですが、歌い出してびっくり。高校生の時の透き通るような声と豊かな声量はほとんど変化していませんでした。どの演歌歌手でもオペラ歌手でも70歳を超えて変化がないのはありえない。彼女は奇跡というしかありません。

 今回のステージでは、彼女のデビュー曲となった「この広い野原いっぱい」などのフォークっぽい歌はもちろん、母親譲りの英語のジャズも昔のままの歌声で聞かせてくれました。YouTubeのURLを付けておきますので、懐かしい方は聴いてみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=ek5-up9C2fs

 

 そして何より一番驚いたのは、プッチーニのオペラのアリアを歌ったことです。さすがに「今回のために高い声と声量を出す練習をしました」とステージで言ってはいましたが、練習したから出せるという代物ではありません。オペラ好きの家内ですら、「彼女はまだオペラで十分歌えるね」とほめていたほどです。

 

そして最後のほうで歌ったのは「ざわわ ざわわ ざわわ」という歌詞を何度も繰り返す「さとうきび畑」。10分を超える長い長い歌です。沖縄戦が終わった時に生まれた子が、まだ見ぬうちに戦死した父のことをサトウキビ畑で探すという悲しい歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=v5BmM2bNIGE

 

 その歌の前に彼女が披露したのは母親の言葉でした。ちょうどイラク・イラン戦争の最中だったとのこと、「あなた、こんな時に愛だ恋だなんて謳わないで、あなたにはもっとふさわしい歌があるじゃないの」と言われたそうで、「そうだ私には反戦の歌がある」と思い出し、再び取り上げたとのこと。実は彼女はこの歌がヒットしてから、戦争を体験していない自分に歌う資格はないと30年も封印していたそうです。それを今回も引っ張り出して歌ってくれました。

 この歌のさとうきび畑を「ひまわり畑」に変えたら、今のウクライナ戦争の悲惨さを象徴する歌になりそうだと思い、私は青春の思い出とともに思わず涙がこぼれました。

 

ということで、「わが青春のアイドル」、良子ちゃんの2時間半にわたる感動のビデオは、うちでは永久保存版となりました。

  おまけ

 最近卒業式では「仰げば尊し」を歌わないそうですね。そのかわりしばらく歌われていたのが良子ちゃんの「いつまでも絶えることなく友達でいよう」の歌詞で始まる「今日の日はさようなら」。我々は学生時代にキャンプファイヤーでこの歌をさんざん歌っていましたし、今でも同窓会の〆には応援歌とこの歌を歌います。

https://www.youtube.com/watch?v=YNQT68uHpyg

 さらにもっと最近の卒業式では、良子ちゃんの息子森山直太朗の曲「さくら」だそうです。最近桜の花は入学式より前の卒業式の時に咲くので、ぴったりなのかもしれませんね。素晴らしい親子のリレーです。成城学園の街は全体が桜並木だし、校内を流れる仙川沿いの広い陸上競技場にも桜が並木をつくっています。

 直太朗が母校の桜をバックに歌うビデオもあります。タイトルは「さくら 日本百歌、母校」です。

https://www.youtube.com/watch?v=3EI8DaIpqUA

 

  というわけで彼女は中高時代からおっとりした能天気キャラと言われ、清水ミチコとのウィッグの宣伝に出てくるままのキャラクターです。

 

 誰からも愛された「私の青春のアイドル、良子ちゃん」でした。

どうかできれば彼女の歌声も聞いてみてください。

 

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私の3.11

2023年03月10日 | エッセイ

  今年も3月11日がやってきますね。みなさんはあの日あの時、何をされていましたか。私は初めての出版を間近に控え、文芸書籍が得意の大手出版社との最終編集段階にありました。

  地震が起こった瞬間は買い物中で、大きな揺れとともに棚から商品が落ち始めたため、瞬間的に「ヤバイ、ついに関東大震災が来たか」と思いました。2階にある比較的広い売り場から階段を駆け下り、広い歩道に出て揺れが収まるのを待ちました。そばには高齢の女性がうずくまっていました。その方に声をかけ大丈夫であることを確認して駐車場の車に戻りました。

  途中、余震と思われる大きな揺れを感じることはありましたが道路は問題なく走れました。自宅は15階建てマンションの11階にあり、エレベータは停止したままでしたが階段を上り自宅に帰ることができました。部屋の内部はかなりひどい状態で、開かないはずの構造になっている食器棚の扉が開き、食器類がフローリングの床に落ちて割れガラスが散乱し、リビングボードの上にあったスピーカーボックスも床に落下。絵画も壁から落ちるほどのひどさでした。

  のちに聞いた話では、近所の一軒家に住む方が、うちのマンションの揺れが大きかったため倒壊するのではないかと思ったほどだそうです。しかし新築4年目だったためか柔構造のマンションの構造には全く被害はありませんでした。そして2階に住んでいる方は物が落ちるようなこともなく、大きな揺れを感じただけだとのこと、階によって差が大きいことがわかりました。ちなみにうちのフラットテレビは倒れることはなかったのですが、最上階のお宅ではテレビが倒れ画面が散乱してしまったとのことでした。

  しかしそれからが大変でした。家内はそのころ外資系金融企業にいて、東京駅前に建て替えられた新丸ビルの高層階にオフィスがあり、最近映像がよく流れる長周期振動に見舞われ、20分もゆらゆらと揺られ続けたそうです。子供のころから車酔いする質のため気分が悪く、とても一人では帰宅できないとショートメールが入りました。電車はすべて停止していため車で迎えに行くことにしました。渋滞で時間がかかることは分かっていましたが、ほかに選択肢はありませんでした。世田谷から出て都心に着くまでに2時間、7時くらいになっていました。娘が日比谷で働いていることを思い出し、メールも通じなかったので直接会いに行きましたが、会えず。同僚の人から、「家に帰るのを諦め、他の同僚たちと食事に出たとのこと」。結果的にはこれが正解で、12時過ぎまで飲み食いしていたら電車が動いて帰れたとのこと。

 娘はあきらめ家内を迎えに丸の内に行き、ショートメールのおかげで無事会うことができました。しかしどこもかしこも車は大渋滞のためすぐの帰宅はあきらめ、八重洲で見つけた居酒屋で食事をとって時間を調整。帰宅したのは深夜1時を回ってからでした。

  翌日のニュースで多くの帰宅困難者が出ていたことや、道路を何時間も歩いて帰宅した人々の苦労話がテレビで流れていました。

 

  さて、話を出版に戻します。すでに最終原稿を出版社に提出していた私に、編集長から驚きの電話がかかってきました。それはなんと「一週間で原稿を大幅に書き直せ」というものでした。理由は「あんたが言うほどアメリカという国も米国債も安全なんかじゃない」。08年のリーマンショックを乗り越えているのに、アメリカの債券市場でまた大暴落が起るというのです。なので、アメリカは安全だという部分をすべて削れとまで言いました。あれから12年を経過してもう時効になったと思われるので、この際すべてを披露します。

  私はただただびっくりし、「リーマンショックでは世界の金融商品で米国債だけが買われたのに、誰が売ると言うのですか」と聞くと、「米国債よりまずは住宅抵当証券市場や学生ローンの証券化商品が崩れるのがきっかけだ。それが全世界に波及し、アメリカにも失われた10年が来る」というのです。そのネタは「あんたよりベテランの著名インベストメント・バンカーから聞いた」のだそうです。

  私はもちろん書き直しを断固拒否しました。「この本の価値はアメリカ国家が世界で一番安全な国で、米国債は世界に激震を走らせた金融ショック時でも買われたことにある」と反論しました。

  電話で2時間、その後直接の面会で2時間。数字を示して説得を試みましたが、成功しませんでした。そんなに危険な債券だったら「そもそもこの本は出版しなければいいのに」とまで言ったのですが、それもダメだというのです。理由はたった一つ。来月のトーハンの枠に穴をあけてしまうことはできない、というのです。トーハンとは出版社と書店を結ぶ取次商社で、ニッパンとともに出版界に絶対的な力を持っています。そしてあげくの果てに、「あんたのようなシロウトが大手出版社の編集長に反抗するとは何事だ、言うことを聞け」とまですごまれました。

  シロウトであるがゆえに怖いものなしの私は書き直しを拒否し、決裂。出版を諦めました。

 

  そこで始めたのがブログです。つまりこの3月で12年になるということです。投稿開始以来の記録を編集ページで見てみると、記事数合計1,122件、アクセス数451万回。割り算すると平均で年に100回弱の投稿。1つの記事あたり平均で4千アクセスということになります。もちろん初期のアクセスは数件しかなかったため、最近のアクセス数は平均で2倍近い7千件くらいになっています。

  話を出版に戻します。大手出版会社の横暴に驚きながらも出版を諦められず、何の伝手もないダイヤモンド社にいきなり原稿をメールで送りつけてみました。すると2つ返事で「出版します」とのこと。最初の出版社も2つ返事で決まったのですが、2社目がこんなに簡単に決まるとは思いもよりませんでした。話は早く、早速本社に行き担当者と課長さんに面会すると、「うちの場合原稿を部員全員が読みます。内容は気に入りました。しかも誰もが米国債を買うぞと言っています」というのです。本当に買っていたら、今頃ホクホクでしょう(笑)。さすが金融・経済専門誌です。内容をしっかり咀嚼し、手直しもほぼないとのこと。5月に初めて原稿を提出し、8月に出版の運びとなりました。私は7月中旬に原稿を最終化し、家内と行くことになっていたアメリカの友人に会うため旅行に出発しようとしていました。

 ところが好事魔多し。「アメリカ国債がデフォルトする可能性あり」とのニュースが飛び込んできました。私はあり得ないと思っていたのですが、そのことに触れないわけにはいかず、大急ぎで2ページあまりを書き加えました。それも実際に書いたのは飛行機の中で、到着時に現地空港のキンコーズに駆け込み、日本にファックスを送り旅行も無事予定通りにはこびました。

  付け足した内容は、「アメリカ国債はデフォルトなど起こさない。現在の騒ぎは政争の具にされているからだ。それでもデフォルトが起ったとしたら、それはボクシングの試合で言えばスリップダウンで、最後の判定には影響しない」というものです。その後もこのデフォルト騒ぎは何度か「財政の崖」問題として取り上げられ、23年の現在も同じような状態にあります。もちろん、「またオオカミ少年が騒いでいるな」と笑ってやり過ごしましょう。

 

  ということで、3.11についてはみなさんも様々な体験談をお持ちだと思います。よかったらコメント欄でご披露ください。この節目に私の「初出版の記」をついでに書いてみました。大手出版社の編集長、きっとその後は自分の見通しの甘さに気づき、枠に穴をあけたことでほぞをかんでいるに違いないとおもいます(笑)。

 

そして最後にお知らせです。

  だいぶ遅れてしまいましたが、いよいよ2冊目の出版原稿が最終段階になっています。あくまで予定ですが、5月中の出版を目指し今回は意外にも「幻冬舎」さんと作業を進めていることをみなさんにお伝えします。経済誌とは違った幻冬舎というユニークな視点からの新たな書籍となりますので、是非ご期待ください。

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 さよならノスタルジック渋谷

2023年02月10日 | エッセイ

  先日渋谷の東急百貨店本店が閉鎖されました。生まれてこのかた大半を目黒と世田谷にしか住んでいなかったので、子供のころからデパートといえば渋谷駅上の東横百貨店でした。それが渋谷駅と周辺の超大型改造により取り壊され、そこに行けば感じられたノスタルジーを失ったように思っています。

  子供の頃の記憶で一番残っているのは、ハチ公前広場から地下鉄銀座線へと昇る階段の広めの踊り場に、白い装束の傷痍軍人がいて、白い犬と小さな篭を横に置き、小銭をもらっていた姿です。その人の他に何も持たず黙って座っていた元軍人と、アコーディオンを弾いて目立つ軍人がいました。今考えると、3人でローテーションを組んでいたのかもしれません。雨にも濡れず人通りの多い最高の場所ですからね。ご存じない方のために、、、地下鉄銀座線の渋谷駅は東横デパートの上の階にありますので、今でも地上から地下鉄には階段を登っていきます。渋谷は谷の底なのです。

  今回閉店となったのは駅から500mほど離れた東急本店です。そこは高級ブランド店とデパートらしい高級品ばかり売っているため、ほとんど買い物をしたことがありません(笑)。そのかわり併設されている「文化村」には足しげく通いました。BUNKAMURAザ・ミュージアムとコンサートホールのオーチャード・ホール、そして芸術関係専門の本屋さん、パリのカフェ、ドゥマーゴです。

  閉鎖される寸前の1月末、最後に鑑賞したのはバレエ公演でした。森下洋子と松山バレエ団による「白鳥の湖」です。彼女は74歳と私より年上のバレリーナですが、その年齢でプリマを演ずるのは本当に驚きです。彼女の演技で常に光っているのは指先までしなやかな手と腕、しっかりとした体幹を中心としたバランス感覚です。もちろん若いダンサーのキビキビとした動きはありませんが、観客の目を惹きつけるには十分な演技でした。カーテンコールも10回を超え、オーチャード・ホールの最後を飾るにふさわしい、ノスタルジーもたっぷりと感じさせてくれる公演でした。

 

  私はクラシック音楽ほどバレエに詳しくありません。バレエという芸術は、もともとはイタリア発祥だそうですが、フランスのルイ王朝で発展し、その後はロシア帝国のロマノフ王朝のへと引き継がれてきました。ロシアはバレエ音楽の作曲家も、プロコフィエフ、ストラビンスキー、そしてチャイコフスキーなど多くを輩出してきました。バレエ団も同じで、モスクワのボリショイバレエ団、サンクトペテルブルクのマリインスキーバレエ団。そしてウクライナがロシア領時代だった時から続くキエフバレエ団などがいまでも世界的に活躍しています。

 

 バレエ通とは決して言えませんが、そうしたロシアのバレエ団の公演を鑑賞するチャンスに恵まれました。それもボリショイとマリインスキーは現地、つまりモスクワとサンクトペテルブルクで鑑賞することができました。

 

  むかしむかしそのむかし、1977年12月厳冬のモスクワ、サンクトペテルブルクを、寒さにもめげすドイツから訪れたのです。バレエの季節は真冬なのです。当時はJALに入社して間もなく、トレーニーとしてフランクフルトに駐在していました。JALは海外拠点で駐在員をしている日本人顧客向けサービスとして、現地発のツアーを作っていました。その一環としてドイツでは旧ソ連を訪れ、バレエや美術館を鑑賞するツアーを恒例としていたのです。

  もう一つの理由は、当時の成田=フランクフルト線にはモスクワ経由があり、冬場はモスクワの乗降客がほとんどなくなりガラガラだったので、それを埋めると言う裏の目的もありました。週1便ですから、帰りの便を待つためロシアには1週間滞在することになります。私はハンブルグの支店長を団長とする20名ほどのグループのツアーコンダクター役に選ばれ、旧ソ連時代のモスクワとサンクトペテルブルクを訪れる貴重な機会に恵まれたのです。

  モスクワではボリショイ歌劇場でオペラとバレエを鑑賞。バレエの出し物はストラビンスキーの火の鳥で、新たな演出とのことでした。そして昼間は一度見たら決して忘れることのできない名画、その名も「忘れ得ぬ女(ひと)」をトレチャコフ美術館で鑑賞。馬車の上から貴婦人が少し振り返る瞬間を捉えたあの名画です。もちろん赤の広場やレーニン廟も訪れ、蝋人形のレーニンも見ました。何も売り物がない名ばかりの百貨店内も見物。たしかソ連崩壊後、そこはマクドナルドになっていたと思われます。

  モスクワからサンクトペテルブルクへは夜行の寝台列車で行きました。一等寝台だったためとても居心地のよい二人部屋で、ベッドも広くテーブルもあり、コンシェルジュもいて、いつでもカモミールティーを用意してくれました。列車は翌朝到着するために途中駅で停車を繰り返しますが、一直線の線路を走るため、横揺れもなく快適に眠れました。朝食も普通のホテル並みで、ロシアンティーもおいしかったのですが、パンだけはダメだったのを覚えています。

 

  サンクトペテルブルクは到着した日マイナス20度。凍り付くネヴァ川の景色は壮観でしたが、薄青色の壁に白い柱の冬の宮殿エルミタージュは、雪景色の中でこそ見るべき宮殿だと思いました。昼は美術館・博物館巡り、夜はマリインスキー劇場でコンサートにバレエ鑑賞。出し物は白鳥の湖。その後も何度か見た白鳥の湖ですが、胸が震えるほどの感動を今でも覚えています。

 

  渋谷からバレエ、そしてモスクワからサンクトペテルブルクへと話が拡がってしまいましたが、それらをつなぐものは私のノスタルジーでした。

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2021年はスポーツの1年でした

2021年12月31日 | エッセイ

2021年はすべてのスポーツファンにとって本当に素晴らしい1年でしたね。

ゴルフ好きの私は4月に松山英樹のマスターズ優勝に涙を流し、6月には全米女子オープンで笹生優花と畑岡奈紗がプレーオフ、笹生優花が優勝して感激。それから夏までは毎日のように飛び込んでくる大谷翔平の特大ホームランやナイスピッチングに心躍り、最後にはMVPを獲得するという快挙を成し遂げてくれました。

そして迎えたオリンピックは感動の連続でした。

柔道の安倍兄弟の金メダルに喜び、スケボーの子供たちの金メダルに驚き、卓球のミックスダブルスで水谷・伊藤ペアの優勝に感動。一方では絶対王者と言われたバドミントンの桃田賢斗、テニスの大阪ナオミが予選敗退し、残念な結果として印象に残りました。そして最後の男子マラソンでは大迫傑が6位に入賞し、見事な結果を残してくれました。

相撲でもどん底から這い上がった照ノ富士が大関、横綱と順調に昇進し、最後には全勝優勝まで成し遂げ、見事な復活劇を見せてくれました。以前も批判しましたが、とてもじゃないがフェアーとは言えない白鳳から、フェアーな相撲道に徹する照ノ富士に横綱が変わったことで、来年からはストレスフリーで相撲を楽しめそうです。

もう一つスポーツではありませんが、音楽好きの私にとりこの上ない感動の連続だったのがショパンコンクールでの日本人の活躍でした。以前から応援を続けている反田恭平の準優勝は見事と言うほかありません。すでに十分な名声を得ている彼にとってコンクールへの出場は大きなリスクです。にもかかわらず4年前からワルシャワ音楽院でショパンを学び直し、準優勝まで勝ち取ったのは快挙そのものです。帰国後はクラシックの世界にもかかわらずマスコミが数多く取り上げ、彼がトップを務める株式会社ジャパン・ナショナル・オーケストラにとっては最高のプロモーション機会となりました。

今後の活躍がますます期待されますが一つだけ問題が。それは実は彼はこの数年前から日本で一番チケットの取りづらい演奏家だったのが、ほぼ不可能な演奏家になってしまったことです。凱旋コンサートになるはずのコンサートも、売り出し直後にトライしても売り切れてしまい、今後もこんな状態が続くと思うと残念至極です。

 

年の瀬になってもコロナのパンデミックはおさまりませんが、新年はどんな世界が待っているのか、私の期待は膨らんでいます。

今年も私のブログをお読みいただき、ありがとうございました。

ではよいお年をお迎えください。

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長谷川町子美術館と新しい長谷川町子記念館

2021年03月20日 | エッセイ

  私が住む世田谷区用賀の隣駅、桜新町はサザエさんの街です。地下鉄の駅を降りて商店街に出るとすぐにサザエさん一家の銅像があり、見たとたんにとても心が和みます。漫画家長谷川町子さんが作った美術館があり、駅から美術館までの商店街は「サザエさん通り」と呼ばれ、サザエさん、ワカメちゃん、タラちゃんなど家族の銅像がいくつも置かれています。駅前通りは八重桜の並木があって、もうすぐ満開の桜を見る人々でいっぱいになるでしょう。

   今日は家内が運動不足解消のため散歩に行きたいと言うので、まだ咲いていない桜のつぼみを見ながら、昨年新たに作られた長谷川町子記念館まで歩いていきました。用賀のうちからは30分ほどの道のりですが、国道246号線やその旧道を歩かず、さらに古い大山道(おおやまみち)などの裏道を歩いて行きました。大山道について世田谷区のHPを引用しますと、「大山道は、江戸の赤坂を起点として、青山、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て、二子の渡しで多摩川を渡り、溝口、長津田、厚木、そして伊勢原(大山)へと至り、さらには秦野、松田を経て、矢倉沢関所に続く脇街道です。」とあります。

 

  大山は丹沢山系の山で、東京からは中高生の遠足のメッカです。江戸時代には山岳信仰で有名な山で、富士山と並び参詣者が多く、毎年20万人も参詣したと言われています。街道沿いには今でも古い石作りの道標がたくさん残っていますし、居酒屋では大山地鶏のヤキトリや大山豆腐が人気のローカル・メニューです。そして桜新町は隣の用賀や深沢と並び東京では珍しく碁盤の目状に整備された静かな住宅街が広がっています。

  その日はランチも桜新町の小さなイートインのお店でいただきました。名前はドイツ語で「ファインシュメッカ―さいとう」。意味は「グルメの店さいとう」です。ドイツ風の自家製ハムソーセージを販売しているお店です。我々がたのんだのはランチプレートで、ソーセージ2種類とザワークラウト、ハムにピクルス、そして丸いドイツ風パンがついていました。昼どきをちょっと外れていたためか空いていて、オーナーシェフとの会話がはずみました。会話のきっかけは、私が小さなパンにナイフを入れたとたんシェフが、「お客さん、ドイツにいましたね?」と話しかけてきたのです。「ナイフの入れ方がドイツ式だ」というのでびっくり。そんなことを言われたことはありませんでした。

「はい、駐在員でフランクフルトにいました」。

「日本人で小さなパンをそうやって切る人はいませんよ。普通はみなさん直接かじるか手でちぎります。水平に半分に切ったパンの間にハムやサラダを挟むんですよね」。

  たったそれだけの所作から私がドイツで暮らした経験を持っていることを指摘するとは驚きです。彼はキリンビールに就職し、会社からデュッセルドルフに派遣されていたそうです。その後ドイツのソーセージ類が好きになり、ついに製法を勉強して独立したとのこと。

 

  70年代当時一人暮らしだった私は田舎町のドイツ語学校に通い、あてがわれた宿舎のドイツ人家庭でドイツ式のパンの切り方を自然に身につけていたんでしょう。そのことを今回初めて気づかされました。学校はフランクフルトからミュンヘンに至るロマンチック街道のハイライトともいえる中世の街ローテンブルグの中にありました。そこにいたことを話すと彼は自分がローテンブルグを訪ねた印象を話しはじめ、あんな中世そのままの街が残っているなんて、奇跡としか思えないと言っていました。たしかにあの町は直径わずか1㎞もない城壁に囲まれた城塞都市で、昔の街並みがそのまま保存された稀有な街です。お互いにドイツの話で意気投合し、1時間を超える楽しいランチと会話ができました。

 

   さて本題です。長谷川町子美術館は以前からあり、町子と姉の鞠子の収集した美術品が展示されています。絵画を中心に陶磁器など800点余りの美術品が入れ替わり展示されます。特に絵画の趣味は私と似ていて、私の好きな藤田嗣治や岡鹿之助、そして加山又造などを所有しています。私はもちろんただ「見てるだけー」です(笑)。

  ところが美術館はその名に反して長谷川町子やサザエさんにちなんだ展示物はごくわずかしかありませんでした。名前に釣られてきた方は、きっとがっかりしたことでしょう。そこで昨年、長谷川町子の生誕100年を記念して、漫画家長谷川町子の作家活動を展示する記念館が新たに作られたのです、今回は主にそちらを見に行きました。

  記念館の場所は美術館と道をへだててすぐ隣。敷地も内部も美術館より少し広いと思います。私自身は漫画や劇画をほとんど見ない人ですが、サザエさんやイジワルばあさんなどは新聞やテレビで目にしていました。作家としての彼女の才能はとても素晴らしいと思います。わずか四コマの漫画に家族の悲喜こもごもを盛り込む技は見事というほかありません。私の子供時代である昭和の日常生活は漫画サザエさんにすべて盛り込まれ、記念館にはサザエさんに出てくる茶の間がそのまま再現されています。昔懐かしいちゃぶ台、食器棚、火鉢、柱時計からなべかまにいたるまで忠実に再現されていて、自分の子供時代を見ているようでした。

  一方展示は彼女の漫画家としてのデビュー前から始まり、デビューして売れっ子になるまでの経緯がわかるようにできていて、原画などもたくさん展示されています。なかでも4コマ漫画サザエさんの第一作の切り抜きもあり、見どころ満載です。サザエさんの連載が初めて取り上げられた福岡のフクニチ新聞からはじまり、全国紙朝日新聞に至るまでの歴史もたどってくれます。4コマ漫画としてなんと6,500回にものぼる作品がうまれたとのこと。驚く以外ありません。

 

  併設のカフェや図書館風の部屋では、これまでの出版物を自由に手に取って読むことができるので、好きな方にはたまらない記念館だと思います。特に大ファンでもない我々夫婦もカフェでの休憩時間を含め2時間近くのんびりと過ごし、自分の子供時代とサザエさんの世界を楽しむことができました。

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