岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

『おかのえさん』

2006-01-23 17:38:11 | いなか暮らし

Photo  全国的に残っている庚申講を集落ではこう呼ぶ。10~20人で講を組んでいる。60日に一度の庚申の日、人の体内に住むという三尸(さんし)と言う蟲がその人が熟睡してる間に天に昇り閻魔様の部下にその人の日頃の行いを告げ口する。大きな罪は300日、小さな罪は3日命を縮められる。それでは庚申の日、身を謹んで徹夜をすれば三尸(さんし)は閻魔様に報告することが出来ないとなれば少々悪さをしても長生きできる。これを庚申信仰という。

 講に集まった人たちは阿弥陀如来と薬師如来の化身である青面金剛童子、三尸(さんし)の天敵の猿が描かれた掛図を前に御詠歌をあげる。

   あさひさし とうしん かがやく かのえてら いりあいひびく      まつかぜのおと

   つきつきに いのれよまもる かのえさる ときのさいなん       のぞきたもうぞ

   げにいのる こころぞかのえ よいのそら うんはてんより       さずけたもうぞ

                       御詠歌独特の節回しで祈る。

 初庚申は立春の頃でもあり今年の豊作も併せて祈るようである。

御詠歌の後、酒、料理を囲む。徹夜が本来の形だが勤めの関係もあって最近は解散も早い。早く帰って熟睡した頃、悪いことをしている人の体内の三尸(さんし)が閻魔様に報告に行き相応の命を縮めらることになるのである。・・・・・悪いことはやめよう・・・・・と、思う

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「そり」遊び ①

2006-01-23 12:16:25 | いなか暮らし

 Cimg0717

 赤や青のプラスチックのあの 「そり」ではなく今は見かけなくなった1㍍×1.5㍍もある木製の大きな「そり」。馬橇(ばそり)と言う馬に引かせた「そり」を少し小さくした「そり」

 小学校高学年か中学一、二年生の男の子がその頃、どこでも飼っていた牛を大人の居ないのを見計らって牛舎から連れ出す。首木と呼ばれる道具を牛の首にかけて牛に「そり」を引かせて遊ぼうと言う計画。沖縄の由布島の牛車の雪国版である。

 その頃から近所の子供たちが集まりだす。中には弟や妹を背負った子も居る。牛を引き出したお兄ちゃんは大得意で準備をする やがて小さい子から順に「そり」に乗せる ぎっちり7,8人も乗せてお兄ちゃんは手綱を握って「そり」に立ち、牛に声をかけると静々と歩き始める。車も走っていないから危ないと言うこともない。乗り物に乗るのは秋の花巻祭りに汽車に乗って以来だから子供たちは大喜び。

 Uターンして家に戻ろうとした所から事件が始まる。帰巣本能か家に向かった牛は猛然と走り出す。小さな子供は泣き出し、手綱を持つお兄ちゃんも怖い。何とか無事に戻って牛は平然としている。泣く子をなだめたお兄ちゃんも心臓が大きく鳴っている。牛を牛舎に戻して安心。

 そんなお兄ちゃんは当然、下の子の尊敬を一心に集める。 こんな光景が昭和30年代まであった。その時のお兄ちゃん、今も尊敬している。 

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2006-01-22 12:16:09 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0733  農協や農機具屋さんから貰うどこの家でも使ってる暦とは少し違った暦を使っている。離れて暮らす孫たちと毎日、顔をあわせたいと思って一念発起、写真入の暦を作るべくパソコンに取り組んだ。

 かいあって、ようやく作れるようになった。電話の前やトイレにも、ポケットのメモ帳にも写真入の暦を持っている。

 トイレが一番良い。毎日、しっかり顔を合わせることが出来る。

 遠くの孫たちから毎日のように北から南からメールが届く。それでも写真がたまるとCD,ビデオテープも届く。ニューヨークのおいっこからもメール、昨日の電話は隣と話してると何等変わらない。おまけに随分と安くなってるらしい。

 その昔、と言っても昭和40年頃 山形からお嫁さんを貰った人がいた。そんなに遠くから貰って大変だろうと噂話になった頃もあった。便利な世の中になったものである。

 孫たちに「ここはいやだよ」と言われそうなトイレの暦、「じいちゃん頑張れ、ばぁちゃん頑張れ」 と、今日もしっかり微笑んでいた。

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春の海

2006-01-21 12:06:02 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0728  春の海はとても美しかった

 農業関連団体の研修旅行に参加した。道路に圧雪、端には黒く汚れた 雪が山のようになっている。三陸沿岸に向けて走る。

 峠を越えた頃から次第に雪が少なくなった。南三陸の陸前高田、普門寺で百日紅(サルスベリ)の大木を見た。夏、赤い花をつけたらすごい迫力と思う 夏、もう一度来て見よう。

 雪の無い唐桑半島は雪の中から出てきた眼には新鮮に映る。車窓からは日向ぼっこが出きるように見えたが外はやっぱり寒かった。

 夜、お酌、いや洋服を着ていたからコンパニオンを講師に(?)翌日に疲れが残るほどの研修をしっかりやった。

 翌日、春の日差しの唐桑半島を回った。赤い花が咲いている。平均60才を超えた、じいさんたちには椿か山茶花かわからず結局、結論はでなかった。

  海辺に出ると晴れた『春の海』が美しく水の青さが印象に残った。もうすぐ、春だなぁ・・・・思いながらの帰り道、道路に表示された温度計は最初マイナス2℃、進むごとに2℃ずつ下がって峠を越える頃にはもうマイナス7℃にもなっている。

 家に着いたらやっぱり、まだ真冬だった。その夜、なんと今冬最低のマイナス12.5℃

 大寒の入りにふさわしい気温だった。ふと浮かんだ歌、、、、

            ・・・・・春、まだ浅く、、、・・・・・

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『米 60俵』

2006-01-20 13:27:26 | 日記・エッセイ・コラム

Cimg0139  田植が終わって、植えられた幼い苗が自力で根を張り出して日ごとに逞しくなる。美しさと感動を与えられる時期である。

 『米100俵』は その昔、飢餓に苦しむ現在の新潟県長岡市に救援米100俵が届けられた。その米を食料として分けることなく将来の人づくりに役立てたと言うエピソードは小泉さんが総理になられたときの演説にもあったと記憶している。 

、、、、が『米100俵』にあらず『米60俵』である。

 小学校5,6年の頃、遊びに行った友達の家で米俵が60俵 いや50俵だったかも知れない それはドーンと居座り明るく輝いていたように子供心に思った。「米は財力」の当時、幼心に誓った??・・・ような気がした。

 「よし、俺は米をいっぱい作ってやる」

 目標の100俵は超えて200俵も超えた。それでは一日一俵、年間365俵を、 簡単に越えた。そして今、1000俵にも届かんところに居る。

 心に誓って50年、20倍もの生産、出荷をしているがあの、子供の頃 目の当たりにした輝きは無い。何しろ大量の米が余ってるそうだ。

 ICチップは産業の米とか言われた時代がある。この先、もしお米が足りない時代が到来したらいつかICチップを「電気釜」で炊いて食べるんだろうか。まずいと思うが・・・・・

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