世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

列車が行きかう瀬戸大橋そばの塩飽本島には車内から想像も付かない古民家が並んでいます

2014-11-23 08:00:00 | 日本の町並み
 岬が風を防いだ良港が風待ちの港となっていた引田には、マゼンタ色の漆喰壁のお醤油屋さんが目立っていました。江戸時代は陸路による物の移動が大変だったので北前舟に代表されるように船による運搬が盛んでした。しかしながら、エンジンを持たない船は、風が頼りで、また潮流などにも左右されました。このため、北前舟の航路には風待ち港や潮町港といわれる港が数多く存在しました。今回は、これらの中から、香川県の西部の塩飽諸島の本島を紹介します。


 塩飽諸島は18に島々からなり、香川県の坂出市や丸亀市などに属しています。塩飽とは、塩を焼くまたは潮湧くに由来して、製塩業の歴史から名付けられたものと考えられています。中心となる島が塩飽本島で、現在は丸亀市の一部になっています。島には、丸亀港からフェリーや旅客船に乗って20~30分ほどで、岡山県の児島からも旅客船が通っています。この船は、瀬戸大橋の下をくぐって走っていますが、丸亀ルートより便数が少ないのが難点です。瀬戸大橋は、フェリーの港から、古い町並みの残る笠島集落に行く途中の海岸から全貌が見渡せて、橋を通ったのでは見られない、橋そのものの姿が見られます。

 
 フェリーの港から北へ10分ほど歩いたところには、江戸時代の政庁であった勤番所の建物が残されており、建物内には、塩飽水軍や咸臨丸の資料が展示されています。幕末にアメリカに渡った咸臨丸の乗組員の実に70%は塩飽諸島の出身者で占められ、これは塩飽水軍の名残のようです。江戸初期に出羽の米を江戸に運ぶ事業は河村瑞賢が立ち上げた西廻海運が独占しましたが、その運行の一切を仕切ったのが塩飽衆で、その本拠地であった塩飽は風待ち港として栄えました。

 
 
 
 
 
 
 勤番所からさらに北東から北へ瀬戸大橋を眺めながら海岸沿いに20分ほど歩くと重伝建地区となっている笠島地区に着きます。かつて、塩飽衆が本拠地としていたところで、三方を小高い山に囲まれた海沿いの集落です。ここ、笠島地区には、なぜこんな所に、これだけ多くの古い民家が残されているのだろうか?と驚くほどの物量で白壁、なまこ壁それに格子の家並みが続いています。フェリーの本数も少なく、島内のバスの便も良くない笠島地区ですが、それらの不便さを忘れさせてくれるすごさです。皮肉にも、島のこの不便さが、伝統的な町並みの景観を再開発という名の文化の破壊から守ってくれたのではないでしょうか。

 本州と四国とを結ぶ瀬戸大橋は開通して1/4世紀がたちましたが、開通当時は世界一の鉄道併用橋でしたが、現在は香港にある青馬大橋に1位の坐を譲っています。しかし、瀬戸大橋のすごいところは、1,000tの列車の通行を想定している所です。建築や土木の分野では早くから構造計算に大型コンピュータが利用され、電電公社が提供した大型コンピュータの共同利用サービスのDEMOSを利用する企業には建築関連の企業も多くありました。構造計算で大丈夫といっても、実際に1,000tの貨物列車を通す実験では、関係者の方々は、はらはらされたのではないかと思います。その時の様子の放送を見ましたが、列車の重さでたわんだ橋の付け根の所ははレールが折れ曲がらんばかりだったように思います。瀬戸大橋の貨物列車の通る上には道路があり、貨物輸送の主役は鉄道からトラックに移って久しいのも皮肉です。