シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

旧越路町:稲荷大社、岩塚製菓、長谷川邸、三波春夫碑

2019-05-25 | お出かけ

若い頃に実家から長岡市街地に行くときは、国道17号線を使ったが、越後丘陵公園は市街地よりも西側に位置し、後に国道に指定された403・404号線が近い。そこで、5月4日(土)に越後丘陵公園に行く際は、新しい国道を使って行くことにした。そして気付いた。404号線は旧越路町地域を南北にはしるのだが、ここ(越路町)を通るのは初めてのことだった。

なので、越後丘陵公園に向かいながら「アレは何?」とか「ここは帰りに寄ろう」とか思うところがあったので、帰路に立ち寄ることにした。

●宝徳山稲荷大社
遠くからでも小高い丘陵の中に大きな建物・大屋根が見えた。行ってみると本当に大きいし、木造ではない(SRCか)。これまで見てきた神社仏閣のイメージとは異なるものだ。一番近い駐車場にとめ、鳥居の下の入口らしきところ行く。ここは「内宮」というところで、入ってみると・・・


この時期参拝できるのは「本宮」ですよという案内。夏と冬で参拝場所が変わるようだ。本宮はどこ?と外に出て見まわすと近くの鳥居のたもとに「本宮」とあるので、この先のようだ。


それにしても、鳥居の土台の黒っぽい円柱部分の高さが私の胸高ほどある大きさ。奥の建物にしてもサイズは“ビル”かマンションか。
ここが参道だとして、でもその先は左に曲がっているので見えない。なので、車で移動する。坂道を上がって行くと別の駐車場があった。そこから歩いていくと「本宮」だ。


中に入り様子を伺う。状況説明は省くが、一般的な神社とは違うし、勝手が分からないし、よそ者感というか場違いな感じをヒシヒシと受け、早々に移動することにした。
ちなみに、Wikipediaによると、大社の起源は縄文時代に遡り、この地に遷座してから何度も増築などを繰り返し、現在の朱塗りの大殿堂が完成したそうだ。

 

●岩塚製菓 直売店
新潟県は米どころでもあり、全国区の菓子メーカーは多い。亀田製菓、三幸製菓、岩塚製菓、越後製菓、浪花屋製菓、ブルボンもある(他にもある)。
稲荷大社からほど近い国道沿いに、岩塚製菓の工場があり、道路の反対側には直売店があった(画はない)。


広さは、駅構内にある狭いNewDaysくらい。普通の製品もあるが、直売店らしく数種類の詰め合わせや「直売店限定」マークが入った大袋も多数ある。個包装もあるしそうでないものもある。いずれもリーズナブル。さらに「規格外」というのもあって、さらにお安い。身内や内輪のお土産なら充分だ。

最初、買い物客はほどほどの人数、商品もほどほどの数量に思えた。しかし、慣れない我々が驚きながら考えながら選んでいるなか、皆さんササッと買い物かごに入れて、店員は随時補充していた。そして、絶えることなく次々に人はやってくる。
もう少し実家に近かったら、帰省の度にここで買うだろう。

ちなみに、旧越路町の有名な企業は、岩塚製菓の他にヨネックスや朝日酒造(久保田)などがある。

 

●長谷川邸【国重文】
岩塚製菓から国道を南にいくと、道路沿いに「長谷川邸」という幟に茅葺の大きな門
。スマホで調べると国指定重要文化財だというが、こんな所に(失礼)何があったのだろうと。表門をくぐっていく。


正面に主屋、左側は庭塀に中門(ここは入れない)。


主屋の土間に入る所に受付がある。入館料420円。受付のおばちゃんに何があるのか聞いてみた。「古い家があるだけですよ」 庭は?「あまりキレイにしてないからハハハ」って正直者か。とはいえ気になるので入ってみた。

リーフレットによると、武士の出身といわれる長谷川家が、塚野山に居を構えたのは江戸時代の初め頃。以来山村地主としての地位を固め、代々庄屋を勤めてきた豪農。
敷地は街道に面した間口約70メートル、奥行120メートルと広大な物で、周囲に濠をめぐらせている。主屋は宝永3年(1706)の大火で類焼し、享保元年(1716)に再建されたと伝えられている

約300年前の民家にあがる。板の間の「広間」。隅に見慣れないモノあり。白い碍子に電線が巻いてあるように見える。これは電気ストーブだろうか(?)。別の部屋にも異なる形のがあった。


「玄関の間」の床の間に漫画?イラスト?でも長谷川邸が描かれているし、漫画も見たことがあるようなないような、いったいこれは。


後ほど調べてみたら、3年前に『長谷川邸再建300年祭』が催され、越路地域の出身で「るろうに剣心」の作者である「和月伸宏」先生の作品展を開催。その際に、このイラストが贈呈されたようだ。隣地域の小国和紙に描かれている。

「二の間」奥は「上段の間」だったかな。質実剛健という感じ。


その縁側からの庭。主がいた頃はどんな庭だったのだろう。


この「湯殿」は、お坊さん専用で、経を読む前に身を清めていただく為に使用されたもの。

トイレは広い。漆塗りだろうか。


「井籠蔵(せいろうぐら)」に入ってみると、思ったより狭い。通路の脇には(画の左下)には三個の瓶が埋められていた。中には水、砂、土がそれぞれ入っており、火災の際に扉の隙間を土や砂で埋めるようだ。


広い土間。天井は高く、梁や束、垂木などがあらわに。中央の釜は先の「湯殿」の湯沸かし専用釜。


主屋の裏は広い空地を挟んで、左は蔵で、右は「資料館」。間は裏門に続く。


トイレを借りるついでに資料館におじゃまする。外見と異なり、中は近代的に改装されていた。ホールには映画のロケ地になった時の記録。展示は、旧長谷川家の収蔵品で、長谷川家当主の妻の訃報を知った山本五十六が親友の当主に書いた手紙などもあった。

古~い白黒の写真の中に、テニスをしている光景があった。たぶんコートは広い空地にあったのだろう。
旧越路町にこのような家があったとは、正直驚いた。行ったことのない所には行ってみるものだな。

 

●三波春夫顕彰碑
長谷川邸から田んぼに向かって数分歩いたところにある。三波春夫も越路町出身。碑にも刻まれたとおり~「お客様は神様です」の名台詞とともに国民的歌手として多くの人々に親しまれた~。


「東京五輪音頭」や大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」など知っているものの、改めて経歴をみると、
13歳で上京し、16歳から浪曲を習い初舞台を踏んだもの、20歳で出征。終戦後の22歳~26歳まではシベリア抑留。帰国後は浪曲家として復帰したが、「今、大衆が求めているのは歌だ」と歌に人生をかけることを決意。昭和32年、34歳の時、「チャンチキおけさ」でデビュー。和服姿の男性歌手第一号として三波春夫が誕生した。凄い方だった。お疲れ様でございました。


ちなみに、銅像の近くには、ボタンを押すと曲が流れる機械が置いてあった。5曲も選択できる。

ということで、越後丘陵公園散歩から旧越路町観光は大変有意義だった。(日記も長くなった)

 

コメント (3)
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