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シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

ときがわ町:雀川砂防ダム公園、三波渓谷

2022-11-08 | お出かけ

10月28日(金)、埼玉県比企郡ときがわ町の「昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉」へ行く前に、同町の「雀川砂防ダム公園」と「三波渓谷」を見に行った。

◆雀川砂防ダム公園
雀川砂防ダムは、昭和63年(1998年)度に完成した重力式砂防ダム。完成後、ときがわ町(旧玉川村)により、雀川砂防ダム公園が整備された。公園は、周辺の自然環境に恵まれた緑豊かな山並みと雀川の清らかな水を生かし、かつ、その自然環境を保全することを目的として整備され、憩いの場として親しまれている。(埼玉県Webサイトより)

ここは初めて訪れる。川沿いの駐車場に着き、ダムに向かって歩いて進むと、広場があり、野外ステージもある。


右手には東屋、左手は川に降りる階段があり、親水公園の趣き。小さい子供でも川遊びができそう。


橋の上から上流をみると、砂防ダムの堤体が正面に。


近くまで行ってみる。どっしりとした大きいダム。高さは17mとのこと。


ダムの上にも駐車場があるというので車で移動する。天端は一人が歩ける程度の巾はある。


土砂がどれほど溜まっているのかは分からないが、水は満ちていた。遠く稜線の上にさいたま市のビル群が見えた。


ダムの下側を見降ろす。このダムのおかげで、相当な量の土砂を留めてくれそうだ。


“ダム”でイメージする貯水ダムは、全国で約3千基あるらしい。それに対して砂防ダムは約9万基あるとか。
砂防ダムは、山地の多い日本では、地方の川沿い・沢沿いに行けばけっこう見る機会はあるはずだが、多くは規模が小さいし気にも留めないだろうと思う。
雀川砂防ダムは、比較的街中に近いところにあるし、公園も併設しているので行きやすいスポットだ。せっかくなので、砂防ダム自体の事が解るような説明等があってほしいとも思う。

 

◆三波渓谷(さんばけいこく
三波渓谷は「御荷鉾緑色岩」(みかぶりょくしょくがん)と呼ばれる緑色をした岩石からできている。この緑色の石が、群馬県藤岡市を流れる三波川付近で採掘される緑色の石(三波石)に似ている事から、この渓谷の名がついた。(町のWebサイト参照)

子供が幼い頃は、都幾川には何度も川遊びに行ったり川釣りもしていたので、当地にも一度立ち寄ったはずだが、あまり覚えてない。ただ、当時に比べると駐車場が広くなったことは間違いない。

駐車料金は環境整備費として料金ボックスに入れるようになっていたが、通年なのか時季によるのか分かり難かった。
駐車場の案内板では、渓谷に降りる階段が2か所示されていた。下りれば河原でつながっているのだろうと思い、近くの下流側の階段から下りる。階段・坂道はそれほど整備されていない。

狭い河原に降り立つ。川下の様子。


川上の様子。上流の方が川に起伏がある。階段と手すりがわずかに見えるが、あそこまで行けるのか?


水の流れはキレイだ。深いところは緑がかって見える。


途中、岩のトンネルをしゃがみながら通る。しかし、その先からは歩けるスペースが無かった。夏だったら、水の中に入るという選択も考えるだろうけど・・・。


仕方がないので、一旦戻って上流側の階段から再度下る。階段は整備されていた。河原は少し広い。


川下の様子。一人のライダーが、ティータイムを過ごしていた。


川上の様子。岩が張り出してよく見えない。夏だったら、ジャブジャブとさらに歩いて行くところだ。でも、夏は人が多いらしい・・・。


ひっそりと三波渓谷を楽しめた。

 

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ときがわ町:昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉

2022-11-04 | お出かけ

埼玉県比企郡ときがわ町にある「玉川温泉」には、二十数年前に一度訪れたことがある。その時の妻と私の印象は、地元の人だけ?寂びれた、暗い感じだったと覚えている。
ただ、その後リニューアルしたというニュースは何かで見た。Wikipediaによると、2011年より「昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉」になったようだ。

少しは気になっていたし、たまたまTV番組でとりあげられていたのを見て、妻と一緒に行ってみることにした。ついでに周りの観光もしようと。

10月28日(金)、近くの観光をしてからの14:40頃に玉川温泉到着。名に違わず、入口周辺から“昭和レトロ”の様相。
三輪自動車のダイハツ:ミゼットが2台。Webサイトによると手前はMP5型(1962年~)、奥はDKA型(1957年~)のようだ。タイルの浴槽(?)、丸型ポスト、レトロな自転車、物干しには洗濯物と布団まである。


奥のミゼットの横には、井戸の手押しポンプ。


玄関の土間にもサトちゃんやパーマのお釜、黒板の予定表、足踏みミシン、ポスター等々。


通路は、昭和の「横丁」の雰囲気。


売店は、駄菓子屋風。「玉川商店」というらしい。サイダーはとても多い。


ゲームコーナーは、ゲームも椅子もレトロ。ゲームは10円とある。


通路に白黒テレビや黒電話、牛乳瓶入れ、求人募集張り紙など。TV番組では、子供がこのテレビを見て「レンジ?」と言っていた。また、室内にもお釜ドライヤーにサトちゃんと同席できる乗り物。


おこもり休憩室・木の図書室の外には、「銭湯喫茶 玉川テラス」が設けられ、元々近隣で営業していた銭湯のタイルやカラン、番台、ロッカーなどが使われている。


2階にも大広間と中広間の休憩室があった。大広間にはカラオケステージがあり、おばさまオンステージ(客1人)。中広間のコーナーは、昭和のお茶の間の感じ。


“昭和レトロ”をコンセプトにしているだけあって、どこもかしこも雰囲気に浸れる。

肝心の温泉は、強アルカリ性泉でPh10だという。肌表面の角質を落とす効果がある「お肌つるつる美肌の湯」で、入っている時はトロトロした肌触り。また、体の芯からしっかりとあたたまり、しかも長持ちする保温効果にも優れているそうだ。

また、浴室内には「泥パック」が置かれていた。使用方法を見ると、塗ってから10分間おくのが良いらしいが、間が持たないと思ったので使用せず。

昭和レトロは懐かしくも面白く、温泉自体も良かった。また訪れる機会もありそうだな。

ところで、辞書によると「レトロ」とは、「懐古的であること。古いものを好むこと。また、そのさま。」のことらしいが、昭和はレトロで、それよりも前の大正はロマンというのが腑に落ちない・・・。

 

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鴻巣市:「コスモスフェスティバル」と「天空の里」

2022-11-02 | お出かけ

10月22日(土)の荒川水管橋見学会(前回参照)では、周辺で鴻巣市主催の「コスモスフェスティバル」も開催していた。
「コスモスアリーナふきあげ」周辺の荒川河川敷では、例年10月中旬から10月下旬にかけて、ピンクや赤、白、黄など約1,000万本(約88,000平方メートル)のコスモスが咲き誇る。

今年のコスモスフェスティバルは、10月22日(土)と23日(日)の10時~16時開催。コスモスの花摘みや各種ステージイベントのほか、地元特産品や農産物の販売などが行われていた。

花摘みができるコスモス畑。参加費は、協力金として「気持ち」を納める。


日本一長い水管橋「荒川水管橋」を背景にコスモス畑の様子を紹介する。(できれば晴れ間が欲しかった)


主な品種はピンクや白が混ざる「センセーション」、レモン色の「イエローキャンパス」、オレンジ色の「ブライトライト」のようだ。


見学会の後は、少しだけ秩父連山の稜線が分かりやすくなった。三角お山は武甲山であろう。

 

 



コウノトリ野生復帰センター「天空の里
という施設が、アリーナの隣にあった。屋外ではマルシェも開催されていた。


鴻巣市では、市名の由来の一つともいわれ、市民にとってなじみの深いコウノトリを「豊かな生態系のシンボル」として、人にも生きものにもやさしいまちづくりを進めている。
「天空の里」では、つがいのコウノトリを飼育し、繁殖させた当地生まれのコウノトリを放鳥することで、野生復帰に貢献する。また、コウノトリの展示や環境学習、まちづくりの拠点となる施設のようだ。

広いゲージの中で自由に動き回るつがいのコウノトリを、室内の大きな窓から見学できる。


オスは「空(そら)」くん、メスは「花(はな)」ちゃん。


ズームで撮ったが、ピントはイマイチ。青と銀の足環のある右側が「空」で、左側が「花」。


鴻巣市公式YouTubeチャンネルで、つがいのコウノトリの様子を配信している。
https://www.youtube.com/watch?v=MPN6ukw9Zuo&list=PLmg7j8NPf_b4zdGjZbY78kH3ykcuGS6H0

「人形のまち鴻巣」だけあって、コウノトリをモチーフにした雛人形が幾つか飾られていた。


コウノトリは、全長約110~115センチ。翼開長は約200~220センチで、水辺の生態系ピラミッドの頂点にたつ生きもの。コウノトリが生きていくためには、たくさんの生きものがいる「豊かな自然」が必要。(パンフレットより)

コウノトリは、環境省レッドリストで絶滅危惧IA類(ごく近い将来、野生での絶滅の危険性が極めて高いもの)に選定されている。
本市ではもちろん、他の地域でもコウノトリが繁殖・周年生息するようになったら、素晴らしい環境をつくりあげた証になるだろう。

 

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鴻巣市:日本一長い「荒川水管橋」見学会“秋”

2022-10-30 | お出かけ

水管橋(すいかんきょう)は、水道管が川や鉄道などを横断するための橋のこと。
「荒川水管橋」は、荒川と、その南側に並行する和田吉野川に架かる水管橋で、全長約1,100m。日本一長い水管橋として知られている。

今年の5月、「荒川水管橋見学会」が3年振りに催されるというので、ポピー畑と併せて行ってみようと考えていたが、天気予報はイマイチで、当日の朝も雨だったので行くのをあきらめた。(見学会は天候回復により行われたらしい)
その際、次回はコスモスの頃に開催というので、秋の開催を気にしていた。

10月の初旬、埼玉県のWebサイト(水道イベント情報)を確認したところ、10月22日に鴻巣市主催の「コスモスフェスティバル」と同時開催すると知り、直ぐにスケジュール帳に予定を入れ、妻と一緒に荒川水管橋見学会へ出掛けることにした。

10月22日(土)午前9時前に「コスモスアリーナふきあげ」の駐車場に着く。見学会の受け付けは9時からというので、その頃に着ければと考えてのことだが・・・甘かった。受付場所に行ったところ既に行列になっていた。行列の折り返し地点からの様子。


しばらく並んでいると、後ろの方で「もう午後になるらしい」との声が・・・。
見学会は、通常立ち入ることのできない狭いメンテナンス用通路を歩くため人数・回数などルールが決められている。
 (1) ショートコース(往復400m) 1回あたり30分/定員40名/計8回(午前3回、午後5回実施)
 (2) ロングコース(往復2.2km)  1回あたり60分/定員40名/計3回(午前1回、午後2回実施)

午後は娘宅に行く用があるので、午前でなければならない。午前のロングは早々に一杯になり、あとはショート3回のどこかに入れれば良いのだが、前に並んでいる方々が見た目通りではなく、連れがいるのかもしれない。受け付けの直前までひやひやだった。午前3回目(10:30)に滑り込みセーフ!

集合時間まで、露店を見たりコスモス畑を見たりして過ごす。(※コスモス畑のことは次回にとりあげる)
水管橋までの土手の遊歩道沿いではクイズラリーが5問続く。途中、撮影用の額があったので利用してみる。(右下のイラストは“コバトン”で県のマスコット)


荒川水管橋を土手から見る。橋の赤いアーチは全部で14個ある。円柱の橋脚は直径3.2mと(中央部分?は)4.2m。(以下、サイズは現地に掲示していた図面を参照))


送水管は左右に2本あり、それぞれ径1.2m。2本ともこちらから対岸へ送水されている。2本の間に通路があり、この後の見学では、そこを歩くことになる。


集合場所は橋の端、橋台のところ。ここは直径2m×4本の柱。ここで受付し、軍手を渡された。


職員の方の説明後、高さ10m超の階段をゆっくり上り、通路を一列に歩く。


ショートコースは通路の途中まで。その先の様子を見ようと、先頭に移動して記録する。


一般的な橋のような桁は無い。アーチは左右の送水管に直接つながる。送水管が桁代わりにもなっているようだ。


通路も橋脚の間は送水管が支える。ショートコースは青いネットも張られていた。


足元は格子状(グレーチング)なので、サンダルやハイヒール、スカートや裾の長い服などの動きにくい履物や服装での見学は不可。また、風もあるので、カメラやスマホにストラップを付けるなど、事前に落下防止対策必要とのこと。

なお、クイズラリーに参加したので、カード3枚をいただいた。その内の2枚を紹介。


当日は曇りだった。もっと天気が良ければ、遠くに富士山や秩父連山の稜線などの景色も堪能できたであろう。

荒川水管橋は、1984年(昭和59年)5月に、埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)と大里郡大里町(現:熊谷市)の間に完成。
利根川の利根大堰で取水された河川水は、行田浄水場で浄水処理され、その水道水のうち比企・入間地方をはじめとする県西部へは、本橋を介して左岸側(東側の鴻巣)から右岸側(西側)に送水される。

 

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森林公園2:チョウやバッタ、沼の風景・沼普請など

2022-10-21 | お出かけ

10月15日(土)『国営武蔵丘陵 森林公園』のつづき。今回は、チョウやバッタなどの生き物や沼の風景。

この時季、過去(2016年)には「野草コース」のフジバカマが群生し、アサギマダラが多数飛翔していた。しかし、その後は同様の状態を見ていない。
さて今回は、フジバカマの株数が少ない。少なすぎて驚いた。アサギマダラはいない。コース内の「秋の七草園」を一回りした帰路、「いたー」との声の方を見ると、フジバカマを見る園路の反対側の林内に、一匹のアサギマダラが飛んで行ったようだ。どれどれと私も近づくと、ひらひら飛びながら黄色い花にとまった。黄色い花は何だろう、アキノキリンソウかな。


そのアサギマダラ♀が羽を閉じた状態。 / ノコンギクにツマグロヒョウモン♀


羽毛ゲイトウにキタテハ。秋型。 / ダリアにとまった黒いアゲハは後翅が・・・。


枯れたオミナエシにツチイナゴ。越冬する。 / ノハラアザミにはキリギリスの仲間。触覚長っ。


セグウェイ自然体験ツアーの方々。 / 買ってきたお弁当。軽くサクッとサイズ。





森林公園がある「埼玉県比企郡滑川町」は、関東一沼の多い町と言われている。沼はすべて、田んぼに水を引くために人工的に造られた「ため池」。丘陵地に特徴的な「谷津」と呼ばれる地形を活かして造られている。
(森林公園Webサイト参照)

運動広場花畑に行くため、吊り橋を渡る。(画は、渡って振り向いた風景)

その橋の上から眺めると、本来なら水面があるはずなのに、水が無い。

この「あざみくぼ沼」という沼は、水が抜かれていた。

滑川町の伝統行事のひとつ、「沼普請(ぬまぶしん)」の際に行われていた「魚とり」を再現した「沼まつり」を翌日(16日)に開催するための準備のようだ。

「沼普請」は、大雨や地震などで沼の堤がこわれたり漏水したりしないように行われてきた補修作業のこと。
田んぼで水を使わなくなる10月頃に沼の水を抜き、泥をさらったり、ゴミを取り除いたり、堤を補修したりして、生活に欠くことのできない沼を守ってきた。その時の楽しみの一つに「魚とり」があった。それを再現したお祭りが「沼まつり」と呼ばれている。

園内最大の「山田大沼」は、真ん中にある中堤によって上池(北側)と下池(南側)に分かれ、下池の堰体下は噴水が設けられ、エントランス広場から中央ゲートになる。
上池の渓流広場近くから中堤を見る。

遠くに水鳥が見えたので、沼沿いの遊歩道を進み、ズームで確認すると、カワウが多数いた。


検索してみると、山田大沼の湖畔林には埼玉県最大、関東で有数の大規模コロニーがあり、糞害や食害がひどかったので、繁殖地化の防止対策を行っているという。
バーダーさん(鳥見屋さん)はご存知かもしれないが、多くの来園者は気付いてないだろう。というか、気付かないような施策をしているのかもしれない。

 

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森林公園1:花壇やコリウス・ケイトウ・赤ソバの花畑

2022-10-19 | お出かけ

10月15日(土)、埼玉県滑川町にある『国営武蔵丘陵 森林公園に行ってきた。今年の3月13日以来となる。
天気予報がころころ変わる頃で、15日と16日のどちらで行こうかと迷っていた。いずれも曇り~晴れ。念のためと公式Webサイトで情報を確認すると、16日(日)は「秋の都市緑化月間」で入園料が無料となる日だった。無料は嬉しいけど、人出が増えるのは避けたい。結局、15日に行くことにした。(結果的には、15日の方が天気が良かったので、正解だったと思う)。

園内の移動距離が長くなると想定されるので、今回は自転車レンタルを利用することにした。サイクリングコースは、けっこうアップダウンがあるので変速機付きにしようかと思ったら、電動アシスト自転車もある。料金は通常420円/3hが倍の840円/3h。電動アシストは利用したことがないので、これも良い機会かと自分に納得させ、利用することにした。(この選択には、3月の森林公園の翌日に脳外科クリニックに行ったら、脳内出血で急遽入院になったことがあり、妻からは「くれぐれも無理をしないで」と言われていたこともある。)

中央口から入った所の噴水のある広場は改装中(飾り中?)。ハロウィンのディスプレイと手前にはレンタルした自転車。


これまでの歩きの場合は、運動広場花畑や野草コース→西口ひろば花畑→こもれび花畑、ハーブガーデン・ボーダー花壇、植物園展示棟の順に見ることが多かったが、今回は逆から見てまわることにした。

ハーブガーデンは、一部リニューアルされていた。多数の花が咲いていた。


生垣園内のダリア花園では、約300株のダリアが楽しめるらしい。


公園庭園樹園内のこもれび花畑では、約2000㎡、約1.3万株、7品種のコリウスが植栽され、ただいま最盛期の見頃。カラーリーフで作る景観を楽しめるのは、他所ではあまり無いのでは。


西口ひろば花畑の羽毛ゲイトウ花畑は、赤・ピンク・黄・ローズ・オレンジなどの色が、丘に広がっている。全体を見渡せないのが少し残念。少し傾いた株も出ているが、全体的には見頃だった。


運動広場花畑では、赤ソバのピンクの小花が約8000㎡を埋め尽くしている。緩やかな斜面の下の方の広い花畑で見頃だった。独特の香りも漂っていた。


植物園展示棟の近くの高木には、白くて丸いモノが。ハロウィンのイベントでイルミネーション&ライトアップがされるらしいので、イベント開催日の夜には明かりが灯るのだろう。


ところで、電動アシスト自転車は、当公園利用にはピッタリだと思った。ただ、サイクリングコース&駐輪場は決まっているので、そこから離れた所には行きにくいし、歩きながらの発見機会も少なくなってしまうのは仕方がない。今後も、時々は利用しようと思う。
(次回も森林公園から)

 

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川島町でコスモスの摘み取り

2022-10-17 | お出かけ

昨年か一昨年、出かけた帰りに埼玉県川島町を通ったら、コスモス畑があったので立ち寄ったところ「ご自由にお摘み取りください」との看板があり、ステキなサービスをするものだと感心した。ただ、この時は、ほとんど残っていなかった。

10月15日(土)、武蔵丘陵森林公園に行ってきた。その帰り、川島町のコスモスのことを思い出し、急遽立ち寄ってみることにした。
すると、コスモスの花は咲いており、残っていた。農道沿いに車が2台とまっていて、スマホで撮影している方や、ハサミを持って摘み取りをしている方もいた。


あっ!ハサミは無い!!と気づく。ここは公園などの施設ではないので、自分で持参しなくてはいけないわけだ。ここを目的にして出かけるのであれば、事前に考えたと思うけど・・・。
でも、車の中には常に十徳ナイフを入れてある。小さいハサミも付いている。これでできることをしようと考えた。

あと、コスモスの摘み取りの経験が無い。どうすればベストなのか分からないので、摘み取りをしていた“おばさま”に教えを乞うた。「なるべく長めに切った方が良い。なるべく茎が太い方が良い」とのこと。感謝。

十徳ナイフの小さいハサミには酷な作業だったが、三掴み位の量になったので、充分と思い引き上げることにした。
帰りは、まず(妻が孫の世話でおじゃま中の)娘の家に寄り、半分弱くらいを預けた(プレゼント)。
帰宅してからは、とりあえず水につけた。この後の作業は妻に任せるしかない。
妻が帰宅し、花瓶を出して活けてもらった。けっこう葉を落としたようだ。


翌16日(日)の朝、見ると花が新たに咲いており、花数が増えた。娘からも同様の連絡がきた。


大柄なので部屋も華やかになる。たま~にだけど、花のある室内はイイね。

 

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さいたま市:国指定史跡「見沼通船堀」,水神社,鈴木家住宅

2022-10-10 | お出かけ

さいたま市に「見沼たんぼ」という江戸時代の新田開発地がある。かつて、その用水となる見沼代用水路東縁及び西縁と芝川を結ぶ、総延長約1kmの閘門式運河「見沼通船堀」が運行されていたと知り、9月30日(金)に立ち寄ることにした。(お彼岸に行けなかった義母宅に行く途中)

見沼通船堀は、江戸時代中期の享保16年(1731)に開通した閘門式(こうもんしき)運河で、大正時代の末頃まで利用されていた。
東西の見沼代用水と芝川は、その水位差が3mもあったため、東西2ヵ所ずつ閘門を設け、水位を調整して船を通した。
閘門式運河で有名なのは、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河であろう。規模は比較にならないが、パナマ運河は1914年の完成なので、見沼通船堀はパナマ運河よりも183年も前にできていた。
見沼通船堀は閘門式運河として、日本有数の古さであり、江戸時代中期の土木技術の高さが評価されている。また、近世の土木技術、流通経済を考える上で貴重なものとされ昭和57年(1982)に国指定史跡となった。(現地説明板、市のWebサイト参照))

芝川の八丁橋と並行する歩行者専用の橋から北側を見る。左側の小さい橋のところが見沼通船堀西縁、右側は藪で分かり難いが電柱と電柱の間に見沼通船堀東縁がある。


今回、見沼通船堀東縁を進むと、最初に見えるのが「一の関」という水門。


その先に「二の関」。通船堀に水は通ってない。用水側で水を止めているのだろう。

一の関と二の関の間は閘室(こうしつ)にあたり、2つの水門(関)に挟まれた水路に船を収容して水位を上下させる部分。閘室内には堀の幅が広くなっている部分(舟溜り:ふなだまり)があり、用水へ上る船と芝川へ下る船がすれ違うことができる。

関の中央にある太い木枠を鳥居柱といい、ここに角落(かくおとし)と呼ばれる板を取り付けたり、外したりして水位を調整する。角落の大きさは、長さ11尺(約333cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ2寸(約6cm)の細長い形。


見沼通船堀の開削、特徴、構造、通船のしかた、閘門開閉のしかたなどは、さいたま市Web「見沼通船堀のしくみ」が参考になる。
https://www.city.saitama.jp/004/005/006/008/p077111.html
鳥居柱に沿って角落を設置するのは水圧を上手く利用している。9枚積んで高さは162cmになる。2つの関で高低差3mを乗り切るわけだ。
一の関では、毎年8月に閘門開閉の実演をしているらしい。(←リンクの動画参照)


二の関の上流側は、堀が浅い。用水側の方が水位が高いし調整が効くので、これで充分なのだろう。

反対側の見沼通船堀西縁は、JR武蔵野線東浦和駅からほど近いところにある。

◆水神社、鈴木家住宅
八丁橋のたもとには「水神社」がひっそりと佇んでいた。見沼通船堀のおかげで、江戸と代用水路縁辺の河岸の間で荷物を運ぶことができ、当地には河川輸送に携わる方たちが住んでいた。水神社は、その方たちが水難防止を祈願して祀ったもの。

本殿は関東大震災で全壊してしまい、翌年に再建されたもの。国の史跡に追加された。

荷物は、見沼で取れた米(年貢)などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や塩、酒などの商品が水上交通によりもたらされた。

対岸の近くには、同史跡に追加された「鈴木家住宅」がある。鈴木家と高田家は見沼開拓事業に参加し、見沼通船堀の完成と同時に両家は差配役に任じられ、当地で通船会所を持っていた。

その後(文政年間以降)住まいも同地に移した。現存する住宅は、このころの建立で、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物とされている。

 

◆見沼誕生~見沼用水~見沼代用水~見沼通船堀までの経緯
古代、海面は現在よりも高く、現在の「見沼たんぼ」のある地域は東京湾とつながる入り江であった。その後、約6000年前を境に海が後退し、入り江が東京湾と分離して、無数の沼・湿地が生まれた。その一つとして見沼が誕生した。

江戸時代初期、利根川と荒川は合流して東京湾に流れ込んでいたが、氾濫を繰り返しており、また新田を開発することから、利根川東遷と荒川西遷の大土木事業が行われた。
大河川が遠のいた当地では水不足が懸念され、八丁堤と呼ばれる堤防を築き、農業用水を貯めておく大規模な溜井(ためい)を設けた。見沼溜井から水を引く「見沼用水」のおかげで周辺の新田開発が進んだが、次第に見沼溜井だけでは新田開発に追いつかなくなり再び水不足になった。

その後享保12年(1727)、 徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する大工事を行った。
利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれた。見沼代用水は、取水口(行田市)の利根川から見沼まで全長60km、末端(東京都足立区)までは84.5kmにも及んだ。

米が収穫できるようになったことから、年貢米として江戸に運ばれることになり、そのために造られたのが、東西の見沼代用水と芝川を結ぶ見沼通船堀で、井沢弥惣兵衛為永によって開削された。(さいたま市のWebサイトから抜粋しまとめたもの)

井沢弥惣兵衛為永さんはスゴイ。ちなみに、さいたま市緑区の「見沼自然公園」に井沢弥惣兵衛為永さんの像が建っている。

 

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吉見町:岩殿山 安楽寺(吉見観音)、八丁湖公園

2022-10-07 | お出かけ

9月25日(日)、吉見百穴や松山城跡・岩室観音堂を見た後、何だかんだで八丁湖に立ち寄り(下段参照)、その後に訪れたのが『安楽寺(吉見観音)』。

岩殿山 安楽寺は、鎌倉時代初期に開設された坂東三十三観音の11番の札所で古くから「吉見観音」の名で親しまれてきた。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられている。(青字:吉見町Webサイト参照。以下同様))

駐車場から緩い坂道を歩いて安楽寺に着く。石柱に「坂東十一番」とあり、石段の上に仁王門がある。


仁王門は八脚門。県指定有形文化財(建造物)。屋根は瓦葺であったが、現在は銅板葺に改められている。こちらの仁王像は全身真っ赤。


門をくぐって左手には、手水舎~奥に薬師堂~何かの慰霊碑~弘法大師像など。


正面に本堂。県指定有形文化財。本堂・三重塔は源範頼が建立したが、松山城の落城に際してすべて消失した。 現在の本堂は、今から約350年前の寛文元年に再建されたもの。


手前右側には、高さは約3mの阿弥陀如来坐像(吉見の大仏)。本殿右側に三重塔。


本堂の屋根の造りや彫刻など、目を見張るものがある。

左側にまわって見る。


その奥の方に、鐘楼八起地蔵尊があった。


本堂の右側には三重塔。こちらも県指定有形文化財で、指定番号1号(昭和28年3月)。現在の三重塔は、今から約380年前の寛永年間に再建されたもの。


総高約24.3m。軒の出が非常に深く、どっしりした安定感を感じさせる。


埼玉県内で江戸時代の三重塔は3基のみで、他は行田市の成就院(総高約11.18m)と川口市の西福寺(総高約23m)。成就院は今年の7月に訪れたが、その際に他の三重塔のことを知り、見たいと思っていたので一つ叶った。

三重塔から一段下に降りて、大仏越しの本殿を振り返る。


団体さんも来ていて、思っていたよりも人出があった。大河ドラマの影響もあるのかな。


八丁湖公園
『黒岩横穴墓群』というところがある。~現在、30数基の横穴の存在が確認されているが、この一帯の斜面には多数の横穴墓が埋蔵しており、国指定史跡である吉見百穴よりも大規模で良好に保存されていると云われている。その総数は500基以上と推定される。~というのだ。

Googleマップを頼りに向かったのだが、案内標識もなく近くまで行けない。そこで、近くの八丁湖に行ってみることにした。八丁湖は、稲作のために造られた溜め池。


案内板を見ると、八丁湖の周辺は散策路が整備された『八丁湖公園』になっていて、その公園内に黒岩横穴墓群があると分かった。しかし、駐車場からそこそこ距離がありそうなのであきらめた。またの機会に訪れよう。

 

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吉見町:国指定史跡『松山城跡』と『岩室観音』

2022-10-03 | お出かけ

9月25日(日)、前回の「吉見百穴」見学の前後で、近くの『松山城跡』と『岩室観音』にも行ってみた。

◆松山城跡(比企城館跡群)
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城、平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)と共に加わり、『比企城館跡群』として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。

吉見百穴で頂いた、松山城跡のパンフレットの表紙を拝借。三方が市野川に囲まれているのが分かる。


築城に関する文献資料は極めて乏しく詳細は不明。歴史的には、小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。
特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。
松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。(パンフレット参照)

現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っているという。
国道沿いの本曲輪入口から上り始めるが、この山道で合っている?と疑いながら・・・。


急に開けて、山道に比べてかなり幅の広い石段が登場。


その上が本曲輪だった。東西、南北とも45mの広さがあるようだ。


現地の案内図。光の反射のせいで、やや斜めから撮らざるをえなかった。


曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪・曲輪四が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧倉跡を始め大小様々な曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空掘と切り落としがあり、城跡の南側の斜面には竪堀も認められるとのこと。市野川もあり、確かに要害だと思われる。

◆吉光院 當選寺(とうせんじ)
松山城跡への本曲輪入口の近くに「當選寺」というお寺があり、道路から多角形のお堂が見えたので参拝してみることにした。


御堂の中には、「承理観世音菩薩」が祀られているそうで、承理=勝利ということからか必勝祈願・合格祈願で訪れる方もいるとか。

 

◆岩室観音(岩室山 龍性院)
松山城跡の麓に、崖に寄り添うようにお堂が建っている。岩をうがって観音像を祀ったところから岩室観音堂と言い、龍性院の境外仏堂である。

弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4センチ)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の落城に伴い建物の全てが焼失した。
現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に再建したものと伝えられている。(吉見町のWebサイト参照)


お堂の造りは懸造り(懸崖造り)様式で、規模は異なるが清水寺本堂や長谷寺本堂などと同じ建築様式。石段を上った1階部分の左側は、岩盤と接している。


江戸時代になると、遠隔地を巡礼できない人々のために、地域ごとに完結する札所めぐりが創設された。それほど知られていないと思うが、比企郡内には「比企西国三十三所」があり、岩室観音は比企西国三十三所の第三番である。

また、ここには四国八十八箇所の霊場と同じ88の石仏が祀られており、ここで参拝することで、四国をお遍路するのと同じだけの功徳があるとされている。
左側の岩窟の中に1番から51番、反対側には岩盤をくりぬいた中に52番から88番がある。


急な階段を上ると最初に目についたのは、天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千住札も多数貼られており、額も様々飾られている。


ご本尊が奉ってある側。檻のような扉に見える・・・。


1階の奥、観音堂のその先には谷筋の急斜面に「胎内くぐり」があるそうだが、当日は地面が濡れていたので、そこまで行かなかった。

吉見百穴を訪れる際は、是非、こちらにも訪れてほしい。

 

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