草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

安倍首相が手堅いのは政治力学に精通しているからだ!

2013年06月22日 | 政局

 安倍晋三首相の最初の関門が東京都議会議員選挙である。政治家はどうあるべきかをめぐっては、様々な意見がある。葦津珍彦は『武士道「戦闘者精神」』において、明治維新と昭和維新との差を論じていて興味深い。葦津は「前者が広汎な国民の思想と結びついており、後者が少数精鋭の孤立独走に流れたということは、もっとも大きな相違点ではあるが」と前置きしながら、「指導的人物の条件にも、かなりに差があったと思う」と述べたのである。維新を成し遂げるような人物は、平凡な人間であるわけがない。「詩人的な情熱の人でなければならない」からだ。しかし、それだけでは政治的な力を持つことは不可能だ。そこで大事になってくるのが「権力の法則に徹した、冷徹な計算能力」である。それと詩人的な情熱が結びついて、世の中を変えるのである。会津が戊辰戦争で敗れたのは、そこで後れを取ったからであり、権力闘争に敗北したのには、それなりの理由があったのだ。明治維新史における薩長の指導者は、まず藩内での権力闘争を勝ち抜かなければならなかった。純粋無垢であることは許されなかったのだ。これに対して、2・26事件の青年将校らは、軍隊特有の上位下達にならされており、政治力学に関しては甚だしく無知であった。その点については、安倍首相はなかなかのものである。「権力の法則に徹した、冷徹な計算能力」を駆使して、国難に立ち向かっているからだ。政治家はそうあるべきなのである。

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西洋化は日本人の自己喪失であることを危惧した江藤淳!

2013年06月22日 | 思想家

 安倍首相には頑張ってもらわなくてはならない。日本という国家を重視しようとするスタンスは、高く評価されるべきだ。江藤淳に「影をなくした日本人」という一文がある。1965年1月4日に神戸新聞に発表された文章で、そこでは1964年10月10日号の「ニューヨーカー」の表紙が取り上げられている。聖火を掲げた青年走者の顔は、チョンマゲをとって髪を七三にわけた侍の顔であり、背景は12、3世紀の日本の絵巻物の世界であった。江藤はそれを見て時代錯誤的だと一瞬声をあげて笑ったが、すぐに「案外そうでもないかもしれないな」と反省したのである。日本人を異質に感じるアメリカ人の眼差しに促されて、気付かないでいる日本を再認識させられたのだった。「異質であることを、なぜマイナスと考えなければならないのであろうか。要するに、日本文化の有機的な統一を世界のなかに実証するための同等の願いが、いつか同意への願いにすりかえられたとき、われわれは自分の過去を忘れ、自己喪失への道を歩みはじめたのではなかったであろうか」。江藤が言いたかったことは、日本と西洋とは同一視できないという現実である。だからこそ江藤は「われわれは、日本人がどれほど西洋に似ており、自分がどれほど『日本人離れ』しているかを得意がるべきではなく、自分をいや応なく過去につないでいるさまざまなきずなに、静かな自信を持つべきである」と主張したのだ。近代化イコール西洋化が、「徹底的な自己喪失を日本人のもたらすであろう」ことを危惧したのである。

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