祖国を取り戻すことは、かなわぬ夢であるのだろうか。村上一郎が『浪漫者の魂魄』で書いているように、「私歴に即するなら『国』を思うとは、自分にとって、歌を思うことにほかならなかった」とするならば、一体どんな歌を口ずさめばいいのだろうか。政治的な権力闘争の場面で、村上は日本精神から我が身を引き離そうとした。アメリカに代表される占領軍に屈服することは、断じて容認できなかったからだ。村上自身の大東亜戦争を継続するためには、共産党に入ることも厭わなかった。しかし、魂の奥底は違っていた。斎藤茂吉の「あめつちにただひとつなる命さへ今ぞささぐる悔はあらめやも」「直心(ただこころ)こぞれる今かいかづちの炎と燃えて打ちてしやまむ」といった歌に執着したのは、バタ臭いサヨクには、馴染めなかったからだ。古から今まで、日本人は歌の優劣を競ってきたのではない。行動へと駆り立てる情念が結晶化したのである。羅針盤なき時代にあって、日本人の叫びを託せるのは歌だけである。塚本邦雄の「日本しずかに育ちつつあり木に干してちぎれたる耳のごとき子の沓(くつ)」の歌についての解説で、村上は「木に干してある子の沓に、日本のそだちをーその疎外進行の裡でのー悲しみ目守る心は、果たして強者の心のみ知って弱者の倫理を知らない西欧人に伝え得るだろうか」と疑問を呈した。日本を日本たらしめるために、日本人が行動するにあたって拠り所となるべきは、歌心ではないだろうか。
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