さめた目だけは持ち続けたい。郷土の歴史を調べていて、戦争中に大政翼賛会に指導者として旗を振った者が、戦後になって共産党の幹部になった例が多いのにビックリしたことがあった。竹山道雄が述べているように、インテリは魔術の信奉者なのである。「もともと魔術の本質は、ある特定の世界像をあたえて、それにしたがった行動をさせることだった。いま論理はまさにこれと同じ役目をしている。そしてインテリほど論理にたよって判断するから、インテリほど魔術にかかっている」(『昭和の精神史』)からである。竹山は社会主義国家は平和を愛しているとか、「東独は解放であり、西独は植民地である」と言っていたサヨクを槍玉に挙げていた。「ある特定の像」にもつづいてしか判断ができないサヨクは、そこから抜け出せないのである。大東亜戦争についても、サヨクは一定の見方を前提にして、そこから一歩も出ようとしなかった。具体的な事実を検証していく作業に、手を付けずにきた。自虐史観がはびこってしまったのは、それが原因なのである。サヨクや新自由主義者は改革とか進歩とかにこだわる。「ある特定の像」を信じているのである。しかし、私は竹山のようでありたいと思う。「今日は今日として迎え送り、明日のための今日とすることを断念せよ。もちろん将来をめざして積みあげてゆく現在ではあるけれども、その積みあげてゆくこと自体をもって結果としよう」(『手帖』)。
←インテリほど魔術にかかっていると思う方はクリックを