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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■聖餐式 / 羽鳥頼和

2013年10月19日 | Weblog
2013/10/19放送

世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。プロテスタントの教会では特別な式・礼典として洗礼式と聖餐式を行います。今日はその聖餐式についてお話しします。

 使徒パウロはコリントの教会な人々に聖餐式の由来を教えました。そのことがコリント人への手紙11章17節から34節に記されています。最初の聖餐式はイエス様が行われました。それが行われたのはイエス様が十字架につけられる直前の過ぎ越しの祭りの食事の時でした。この時の食事は「最後の晩餐」として知られています。その実際の最後の晩餐の時のことをパウロはこのように記しています。

 「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。」(1コリント 11章23節、24節)

 「渡される夜」とはイエス様が弟子の裏切りによりユダヤ人に引き渡される夜のことです。その次の日にイエス様は十字架につけられました。自分が十字架にかかって死ななければならないことを知っていたイエス様は最後の晩餐の時に続けてこのように言われました。

 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(1コリント 11:24節)

 これはパンを食べることによって十字架につけられたご自分のことを思い出すようにとの勧めです。そして自分が十字架につくのはあなたがたを救うためであることを教えているのです。

 続いて最後の晩餐でイエス様はぶどう酒の入った杯を持ちながら言われました。

 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(1コリント 11:25節)

 「わたしの血」とはイエス様が十字架で流される血のことです。それは神様と契約を結ぶ時に流される血であるというのです。新しい契約とはイエス・キリストを信じた者には神様がその人の罪を赦し永遠のいのちを与えるという約束です。そしてパウロは聖餐式を行う教会の人々に

 「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント 11:26節)

と教えています。他の人々にもイエス・キリストの十字架の死を告げ知らせなさいと勧めているのです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださなければ私たちの罪は赦されることはなかったのです。イエス・キリストはあなたを救うために十字架で死んでくださったのです。

 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」2013.10.19放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■導きとは / 岩井基雄

2013年10月18日 | Weblog
2013/10/18放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んで(みましょう。

 今日は「導き」です。私たちクリスチャンはよく人生の様々な場面で、「私は導かれて」とか「神様の導きによって」というような表現をします。あらゆる事柄に偶然を越えた神の不思議な御手が働くことを意味しているのですが、この表現を奇異に感じたり、人間の責任を回避しているように感じる方もいらっしゃるかもしれませんね。しかしこの「神の導き」という表現の背後には、自分の責任の放棄ではなく、反対に責任を誠実に果たし後の結果は神様に信頼して任せるという姿勢があります。その全体を「神の導き」と表現するのですね。

神の民イスラエルはエジプトで400年に及ぶ奴隷の経験をしました。彼らを解放し、約束の地に導いたモーセの背後には神がおられ、神がイスラエルの民を導かれたです。聖書はこう表現しています。
 「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
 旧約聖書 出エジプト記13章21節

 昼も夜も明るい日も闇の日も神の民イスラエルは神の導きに従い、周りも分からず、進むべき道も見えない荒野の中を約束の地へと前進して行きました。神の導きに従う歩みは神の祝福に向かう歩みともなっていったのです。
 しかしその道筋は決して順調ではなく、神は敢えて困難へと導くこともあり、苦難や飢えや渇きを経験する中で彼らは神に信頼し続け、神に従う者とされ、変えれていったのです。

 また詩篇ではイスラエルの歩みについて次のように記しています。

 「彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。

 詩篇107篇4節から6節

 試練の中で神の民は神に向かって叫び、神は彼らを苦難の中から救い出し、ゆくべき道を示されたのです。あなたも神に導かれ祝福と恵みを受け取る人生を進んで行きませんか? 


 (PBA制作「世の光」2013.10.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■穏やかに帰ってくれ / 福井 誠

2013年10月17日 | Weblog
2013/10/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「穏やかに帰ってくれ」です。それでは第一サムエル記29章7節から読んでみましょう。

 「だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちの、気に入らないことはしないでくれ。

 サウルに命を狙われたダビデは執拗を追跡をかわすためにペリシテ人の地へ逃れていました。そこでダビデはペリシテの王アキシュの信頼を得るようになりました。やがてペリシテ人たちがイスラエルと戦闘態勢に入ると当然ダビデもアキシュの後に続いてペリシテの軍隊と一緒に整列します。これを見たペリシテ人の領主たちはダビデの噂を取り上げ、裏切るのではないかと警戒感を示しています。アキシュは他の領主の手前、ダビデに穏やかに帰るように勧めました。アキシュはダビデが自分に忠実であることを全く疑っていないのです。しかし、他の領主たちは事態を正しく把握していました。事実ダビデはこれまでアキシュのもとでイスラエルを攻撃しているように見せかけて実際にはペリシテの国内で略奪し、口を封じる完全虐殺を繰り返していたのです。アキシュは完全にダビデに欺かれていたのでした。

 ダビデを信頼し、「穏やかに帰ってくれ」と気づかうアキシュに対して「私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。」(サムエル記第一 29章8節) ダビデは二重人格者だったのかと思わされる程のはったりをかましていますね。しかし「穏やかに帰ってくれ」というアキシュのことばは、ダビデに対する神の憐れみによるものでした。ダビデがペリシテ人と一緒に戦いさらなる窮地に立たせられることのないようにするための神の配慮だったのです。そしてこの神の愛の配慮が本当に裏表のない真実な生き方をする大切さをダビデに教えていったのではないかと私は思います。

 ダビデはこの時に旧約聖書の詩篇15篇を歌ったと言われます。

 「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。
 (詩篇 15篇 1節、2節)

 ダビデは神の憐れみによって助けられましたが、同じように神の恵みによって裏表のない単純で真実な心を持つ人生に導かれていきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2013.10.17放送でのお話より )

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■原点に帰る / 板倉邦雄

2013年10月16日 | Weblog
2013/10/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「原点に帰る」という題でお話ししましょう。

 私たちはこの人生において生活の整理や生き方の原点に帰らなくてはならないときがあります。ヤコブとヤコブ一族もそのような時に来ていました。創世記の35章に入ります。

 時に神はヤコブに言われました。
 あなたは立ってベテルに上り、そこに住んで、あなたが20数年前兄エサウの顔を避けて逃れた時あなたに現れた神に祭壇を造り、礼拝しなさい。

 ベテルに上りなさい。ベテル・「神の家」はかつてヤコブが杖のの他は何も持たないで、兄エサウの怒りを怖れて逃亡し、石を枕に野宿した場所でした。ヤコブは夢を見ましたね。一つの梯子が地上に立っていて、その頂きは天に達していました。神の使いが梯子を上り下りしているのを見たのです。ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。ここは何という恐るべきところだろう。これは神の家・ベテルである。天の門だ。ヤコブはもう一度生活の原点、自分の人生の原点に立ち帰ろうと決心しました。そして家族や一族に言いました。

 「あなたがたのある異教の神々を捨ててください。心と体を清めて生活を整えましょう。そして一緒にベテルに上ります。ベテルは私の苦難の日に私に答え私の行く道で共にいてくださった神が現れた場所です。」

 すると家族や一同は持っている異教の神々と贅沢な装飾品をヤコブに与えたのでヤコブはこれらをシェケムの木の下に埋めました。まさにヤコブ自らの宗教改革でした。身辺整理とシンプルライフの再スタートではなかったでしょうか。シェケムで買った土地を手放しました。礼拝用の祭壇も手放しました。娘のハレンチな事件、息子たちの悪行三昧は結局のところ父親ヤコブが家族の貪欲という偶像崇拝を許容し、家長としての家の監督を怠ったからではなかったでしょうか。

 聖書のことばです。

 「父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。
 コロサイ人への手紙 3章21節

(PBA制作「世の光」2013.10.16放送でのお話より )
 
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■あなたを探す神 3  / 大嶋重徳

2013年10月15日 | Weblog
2013/10/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 私は幼い頃から母親に連れられて教会に行っていました。子どもながらに、神様はいるのかな、と思いつつ育ちました。

 しかし、高校受験を迎えた頃、クリスチャンの母親が、「重徳、試験の結果を神様にお委ねしたら、最善の道が与えられるで。」と言って来るのです。また教会に行くと「しげちゃん、神様にお委ねして行きや。」って言ってくれるおばさんたちがいました。

 そんなことを聞いているとだんだん、神様に委ねて落ちたらどうすんねん、と腹が立ってきたのです。そんな思いで聖書を読んでいると、神が人間を想像した?、教科書には進化したと書いてあるがな、処女が身ごもった?、そんなことあるかい!、と聖書に疑いを持ちました。

 聖書には迷っている羊を探す羊飼いの話が出てきます。でももし神様ならば迷う前にあの羊が迷いそうだなと気が付くはずです。神様ですから。どこで迷っているかもすぐに分るはずです。しかし神様は迷うことを大切にされ、探す時間を大切にされていると思います。なぜならば、迷わないと気がつかないことがあるからです。悩まないと分からないことがあるからです。

 聖書に出てくる多くの人物が迷い悩んでいます。キリスト教信仰は信じるとすっきりさっぱりして一切悩まなくなる信仰でありません。むしろ信仰を持ってからも悩みますし、迷うことはあるのです。しかしクリスチャンになるとはその迷いと悩みの行き先が、もはや死と絶望に向かっていく悩みではなくなるということです。神様が私を探してくれているという安心感の中で迷うことができるし悩むことができるのです。ぜひきちんと悩んでいただきたいと思います。

 神様がいるのかどうかと迷っていただきたいと思うのです。悩んで疑って、つぶれてしまうような神様ならば、その神様はそこまでの神です。でも迷っても疑っても神様が本当におられるのであれば、あなたは必ずこの先神様にお出会いすることとなります。聖書の神様は今日もあなたの悩みと迷いの時間を大切にしておられます。この安心の中で丁寧に迷い、真実の迷いの先に真実の信仰が待っています。

 ぜひお近くの教会お尋ねください。神様がいるのでしょうか。そう牧師にお尋ねいただけたらと思います。

 ( PBA制作「世の光」2013.10.15放送でのお話しより )

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■良き羊飼い  1  / 関根弘興

2013年10月14日 | Weblog
2013/10/14放送

  世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今日は新約聖書のヨハネの福音書10章の中からお話をしたいと思います。

 イエス様はこの章の中でこのように言われたんですね。
 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ 10章11節)

 何とイエス・キリストというですねえ羊飼いは、あなたのために私のために、羊のためにいのちを捨ててくださるほど、一人ひとりを愛してくださる羊飼いなのだ、というんですねえ。

 そしてイエス様は「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ 10章10節)とも言われたのです。

 まあ考えたら私たちはいのちを捨てたらそれでおしまいって考えますね。でもイエス様は羊のために命を捨てるということは、それによって羊が命を得、しかも豊かに持つためだと言われるんです。つまりイエス様の死というものは、私たちに豊かな命をもたらすことになるのだ、とイエス様はおっしゃったんですね。

 そして私たちは聖書を読み進めていきますと、イエス様が命を捨てるという事の具体的な意味を知ることができるんです。イエス様が命をお捨てになった場所、それは何とあのむごたらしい十字架の死を意味している訳です。イエス様が十字架につけられることは、良き羊飼いが羊のためにいのちを捨てると言われたことなんだという訳ですねえ。

 どうしてそんなことが起こるのでしょう? それは私たちは正しい神様の前に出たらみんな罪人、みんな心にずれを持っているようなものです。どんなに誇っても自分の心を正直に見つめるなら闇があるし罪がある、そういう自分の姿を認めるのではないでしょうか。聖書は「罪から来る報酬は死です。」(ローマ 6章23節)とあるんです。つまり私たちの羊飼いであるイエス・キリストは羊である私たち一人ひとりを愛しているがゆえに一匹の羊も失われることのないように私たちの罪をすべて背負って身代わりに十字架についてくださったと聖書は教えるんです。

 そしてイエス様はその死を打ち破り、三日目によみがえられました。だから私たちはイエス・キリストの十字架によって私たちのすべての罪はあの十字架で罰せられ、私たちはイエス様の十字架によって罪赦され、イエス・キリストが復活されたことによって私たち一人ひとりが死を打ち破ることのできる豊かな命を受け取る道をイエス様は開いてくださった、と教えるんです。

 あなたの人生の羊飼いは一体誰ですか? イエス・キリストはあなたの人生の良き羊飼いです。それもあなたために命を捨てることさえ厭わないお方なんです。この羊飼いであるイエス様に導かれ、養われながら歩んで行きませんか? 

  (PBA制作「世の光」2013.10.14放送でのお話しより)

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■上からの知恵 / 羽鳥頼和

2013年10月12日 | Weblog
2013/10/12放送

 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日も先週に引き続いて。旧約聖書の箴言からお話しします。

 聖書は神様のことばであり、私たちの生活の唯一絶対の規範です。神様は私たちを造られました。ですから神様は私たちの存在する意味、生きる意味、目的を知っておられます。その神様が私たちに生きる意味、生きる目的を伝えて、幸いな人生を送るために与えてくださったのが神のことばである聖書です。特に旧約聖書の箴言にはたくさんの生きる知恵がちりばめられています。今日はその中の箴言8章35節36節からお話しします。

 ここでは神様が与える知恵が「わたしは」と語りかけています。

 「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく・・・。 わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。

 わたしを見出す者は生き生きと恵みに満ちて生きることができる。しかし、わたしを見失うものは自分の身を擦り減らして死んでしまうというのです。

 生き生きと恵みに満ちて生きる人生と自分の身を擦り減らして死んでしまう人生とどちらが良いでしょうか。それはもちろん生き生きと恵みに満ちて生きる人生の方が良いに決まっています。

 でも私たち現代人の多くはむしろ後者のように自分を見失い、人生の生きる目的を見失い、身も心も擦り減らしてぼろぼろになっている人が多いのではないでしょうか。現代人は疲れています。そして迷っています。自分の生き方を決められません。やり直さない人生に将来の希望が持てないでいます。

 どうしてそうなってしまうのでしょう。それは神様からの知恵を見つけられないからだと聖書は言います。

 どのようにしたらこの知恵を手に入れることができるのでしょう。新約聖書のヤコブの手紙1章5節には、
 「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、・・・神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
と神様に願うようにと勧めています。

 もう一つ神の知恵を得る方法があります。コリント人への手紙第一1章24節には、
 「キリストは神の知恵なのです
とあります。イエス・キリストを見いだす者はいのちを見出し、神様から恵みをいただくことができるのです。

 明日は日曜日です。私たちを救うイエス・キリストを見出すために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」2013.10.12放送でのお話より )
 
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■祝福の基となる人生 / 岩井基雄

2013年10月11日 | Weblog
2013/10/11放送

 世の光の時間です。変わりありませんか? 岩井基雄です。最初に聖書のことばをお読みします。

 主はアブラムに仰せられた。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

   旧約聖書創世記12章1節、2節 

 自分の故郷をあとにして神様が示される地へと歩み出したアブラハムは素晴らしい神様からの約束を与えられていました。それは彼だけではなく、彼から生まれ出る者をも神様は祝福してくださるという約束です。一人の人が神様に従うときその家族が豊かに祝福されるというのですね。

 私の基雄(もとお)という名前はこの創世記の12節の文語訳、「汝、祝福の基となるべし」ということばから名づけられました。私自身は祝福を届ける器とは十分になり得ませんが、私の曽祖父が最初に神様に信頼し神様に従う決心をしてから確かに彼の信仰を通して家族が祝福されていきました。

 「示す地に行け」という神様の命令に従ったアブラハムの信仰の原点は「あなたの名は祝福となる」という約束だったのです。本来は「あなたは祝福の基となる」という意味を持ち、彼を祝福する者を神は祝福し、祝福の基と祝福の源とされるというのですね。

 私たちはときに他の人の祝福を喜ぶことができませんが神様に信頼して歩む者の歩みを神は同じように祝福の器にすると約束してくださっています。あなたも他の人の祝福を心から喜ぶことができ、神様の豊かな祝福を届ける者とされていくのです。

 創世記の約束はこう続いています。

 「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
   旧約聖書創世記12章3節

 アブラハムは文字どおり祝福の器、恵みの器とされました。彼を祝福する者を神が豊かに祝福されたのです。あなたも神の祝福を受け取って、あなたと他の人を祝福する器とされていきませんか?

 (PBA制作「世の光」2013.10.11放送でのお話しより)

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■心はわなないた / 福井 誠

2013年10月10日 | Weblog
2013/10/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブルメッセージは「心はわなないた」です。それでは第一サムエル記の28章5節から読んでみましょう。

 「サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。

 ペリシテ人は激しくイスラエルを侵略しました。アフェクという地中海沿いの地から更に30キロ南東のシェネムの地に軍隊を移動させ、彼らはイスラエルの奥深くに侵攻してきたのです。これを迎え撃つためにサウルはギルボアという地に陣を敷いて備えました。聖書はこの時のサウルの心境を次のように語っています。
 「サウルはペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた。

 追い詰められたサウルはどうしたのでしょうか。これまでこのラジオを続けて聞いて来られた皆さんはこういうときにどうすればよいのか私がお話しすることはだいたい予測がつくと思いますね。聖書に聴く、神に依り頼むということですね。困った時の神頼みという言い方は余り良い意味では使われませんが、困った時でもいつでも、私は神に心を向けて祈り導きを求める、これが大切だと思っています。

 そこで、サウルはどうしたのか。サウルも実はそうしているのです。しかし聖書はそのあとでこう続けています。
 「サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」(サムエル記第一 28章6節)と。

 神に助けを求めても神が答えてくださらなかったというものです。神様は人を見捨てるることがあるのでしょうか? 皆さんにわかっていただきたいことは、サウルの求め方には重要な問題があったということです。神を信じているようで実は信じていない。神の御名を呼び求めているようで、それは口先だけであったということです。神に助けを求めるならば背水の陣を引いて、ただ神にだけ望みを抱くようでなくてはなりません。聖書の神がだめなら他の神を当たろうという浮ついた心ではだめなのです。心がひどくわななくようなことがあったなら、それこそすべての思いを神に向けて神にだけ助けを求めていくのです。神よ、あなた以外には救いはありません、と信仰を明らかにしていく、旗印をはっきりとさせた信仰を持ちたいものですね。

(PBA制作「世の光」2013.10.10放送でのお話より )

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■悪魔のささやき / 板倉邦雄

2013年10月09日 | Weblog
2013/10/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「悪魔のささやき」という題でお話ししましょう。人間は悪魔ではありませんが、悪魔のささやきに身も心も委ねてしまう時がありますね。ヤコブ家の一人娘ディナの事件の続きです。創世記34章です。

 妹のディナがハモル家の息子シェケムに恥ずかしめられたことを兄のレビとシメオンは赦せませんでした。そこで結婚を申し込んできたハモル親子を騙す計画を考えました。それは恐ろしい計画でした。「妹ディナとの結婚ですか? それはできない相談ですねえ。あなたたちは割礼を受けていないからねえ。でもあなたたち一族が一人残らず割礼を受けるというなら話は別ですねえ。」と兄弟たちは答えました。父ハモルと息子シェケムは喜んで提案を受け入れ、すぐさま言われた通りにしました。

 父親ハモルは町の話し合いの席で提案をしました。「あの人達は味方だ。ここに住んでもらって自由に商売してもらおう。彼らと親族となったら大いに有利だと思う。だからそのため男はみな彼らと同じ割礼の手術を受けなければならないというんだ。息子のためにも頼む。」 全員が賛成し割礼を受けました。

 ところが割礼の手術の三日後、傷がまだ治らないで少しでも動けば痛くてたまらない時です。ディナの兄シメオンとレビは剣を振りかざして街へ攻め込みした。一人残らず殺され、ハモルもシェケムも殺されてしまいました。二人はディナをシェケムの家から取り返しテントに連れ帰りました。

 このひどいやり方に父ヤコブは呆れ、レビとシメオンを責めました。「お前たちのおかげでわしはすっかり憎まれ者になってしまった。」 

 二人の兄弟は父親に食ってかかりました。「私たちの妹を遊女のように取り扱われていいのですか。」

 父親は黙ってしまったのです。

 息子たちを悪魔のささやきに走らせたのは何でしょうか。怒りと憤りを膨らませ復讐心を募らせていったからです。

 聖書のことばです。

 「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。」 エペソ人の手紙4章26節から27節

(PBA制作「世の光」2013.10.9放送でのお話より )
 
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 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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