♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■初めに、ことばがあった

2006年04月29日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日は皆様からお寄せいただく「心に残る聖書のことば」の御紹介です。東京都杉並区にお住まいの西川さんは新約聖書ヨハネの福音書1章1節から5節までのことばをお送りくださいました。少し長いですがお読みしてみましょう。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 
 「初めに、ことばがあった。」 この「ことば」とはギリシャ語のロゴスである。しかし単なる口のことば・文章としてのことばではなく、神そのものを指している。創造的・支配的・支持的に神の力があると今日知らされ、大変嬉しく自身がつきました。主は宇宙の創造者・創造主・救い主です。単に四福音書の解説のみでなく、モーセの五書の説明もよく分り感謝でした。

 ・・・西川さんは藤沢の教会でもたれたPBAみことばホットの集いに参加されてこのお便りをくださったのですねえ。マタイの福音書がユダヤ人向けにメシヤとしてのイエスを、マルコの福音書が神のしもべとしてのイエスを、ルカの福音書が人間としてのイエスを中心的に述べようとしているのに対して、ヨハネの福音書はイエス・キリストこそ神であり救い主だということを鮮明にしています。ヨハネはこの書の終わりに近い所でこう言っています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネの福音書20章31節)とあります。

 西川さんの心に残る聖書のことば。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネの福音書1章1節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.04.29放送のお話しより)

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■格差を越えるもの

2006年04月28日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は、今問題になっている格差ということについて考えてみたいと思います。

 ま、不況・構造改革・経済改革、ま、そんなものが多くの職を失ったり派遣社員・ニートと呼ばれる人たちを生み出してきたと言われています。ま、多少の経済的格差というのはやむを得ない訳ですけれども、その広がりが人の心や人間関係にまで弊害をもたらすことは避けなければならないと思います。なかなか難しいことですけれども、一つには、もう格差というのは目に見えることだけで評価・判断するという所から起こるんではないでしょうか。もっと大切な目に見えないもの、それがあるってことに気づいていくってことが大切ではないかなと思うんです。

 例えば重い知的障害者のために止揚学園という施設を作り、40年以上お世話をしておられる福井達雨さんがこんなことを言っています。「障害を持つ人から今も多くのことを教えられる。」って言うんです。例えば犬の食べ物を横取りするカラスを追い払うと、「カラスさん、はよ食べや。」と声をかける。実習生が靴のかかとを踏んで歩いてると、「靴が痛いって泣いてるよ。」と悲しそうな顔をする。ま、それはこの人たちが弱いカラスや靴などの立場でものを考えているからだと福井さんは言うんです。

 こういう見方・優しさが政治や経済を本気になって良い方向に向けようとする力になっていくんではないでしょうか。また福井さんのように、弱者や障害を持つ人には私たち健常者の持っていない尊い大切な心・ものを持っているんだということを自覚する。そして自分の心とかものの見方は実は浅くてむしろ自己中心で弱いんだと気づくのではないでしょうか。

 新約聖書のローマ人への手紙の3章23節という所には、すべての人が罪を犯したので神からの栄誉を受けることができなくなっているんだ、神様の恵みによりイエス・キリストの愛・救いによってのみ私たちは本当にあるべき素晴らしい者になれるんだと言っています。神の栄光の前に私たちはみんな五十歩百歩、太陽の光の前には100ワットも60ワットも10ワットもあんまり区別がないように、私たちはみーんな弱く愚かな罪人だと気がつくことから本当に他者への愛とか改革の力が生まれてくるのではないでしょうか。
 
(PBA制作「世の光」2006.04.28放送でのお話しより )


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■神が共におられる

2006年04月27日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のイザヤ書から読んでみましょう。旧約聖書イザヤ書43章4節。

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。

 古川なつ子さんという方が『心病むとはどういうこと』という本を書いています。心を病む人にはどんな苦しみがあるのか、自分の体験をまとめた本です。

 高校2年生の頃、なつ子さんは統合失調症と診断され、入院生活を送りました。その時、なつ子さんには心に深く残る思い出があったと言います。入院を拒み、暴れて手あたり次第に投げた物がお母さんの顔に当たり、歯が割れてしまったのです。お母さんは怒りませんでした。むしろ「なつ子、苦しいか?」と手を取って握ってくれました。そのことばを耳にして、なつ子さんは(助かった。母に救われた。)と思ったのだそうです。歯が割れた自分の痛みよりも心が割れた娘の痛みに寄り添ってくれた母親の存在。それは確かに救われた思いであったことでしょう。

 どんな人でも自分の心に寄り添い、心にひだがあるとしたらそのひだの細かい部分まで受け留めてくれる、そんな人を求めているのではないでしょうか。しかし、そのような出会いはなかなか得難いもの。たとえ家族であってもというのがこの世の現実かもしれません。

 しかし聖書は私たちの人生に寄り添う神様がおられることを語っています。私たちの弱さを受け留め、私たちの痛みを共に感じ、私たちの弱った足取りに歩調を合わせて歩んでくださる神様について語っているのです。目に見えない神様のことを言われても分からないと思う方もいるでしょう。けれども聖書を読んで見てください。聖書が語るイエス様の十字架を通して神様の深い愛を知ることができます。イエス様は十字架上で御自身のいのちをささげてくださいましたが、それは心の罪や汚れによって神様を見ることができなくなっている信仰の視力が癒されるためです。聖書を読んでいくならば、私たちの目が開かれ、神様が私たちを深く愛しておられること、私たちが一人ではないことを知ることができるのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。」これはあなたに向けられた神様の確かなおことばです。


 (PBA制作「世の光」2006.04.27放送でのお話しより)

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■なまけ者は言う

2006年04月26日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さあ今日の世の光はまず皆さまからのお便りの紹介です。

 宮崎県都城市にお住まいの、あずまさんから戴きました。

 御結婚50周年の先生御家族のお写真を見させていただきました。こんなに大勢、それも英国やアフガニスタンからまで集まって来られた、数えてみたら総勢24人の大家族、うらやましいですねえ。

 ・・・ あずまさん、ありがとうございました。久しくお会いしていませんね。

 さて、今日の神の知恵のことばです。旧約聖書箴言は「知恵の書」と呼ばれていますが、今日は箴言22章の13節です。お読みしましょう。

 なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。

 「狼が来た。狼だ。」といつも叫び続け、今日もまた同じ叫び声を上げていた所、誰も「またか」と言って助けに来ず、狼にかみ殺されてしまったという、そういう古い話があります。今日の箴言のことばはそんな古い話を思い出しますねえ。

 外に出て自分で真っ正面から獅子に対処してしまえばいいのに怯え、恐れるばかりで何もしない人をここでは「なまけ者」と言っていますね。

 ローマの総督ペリクスの前でパウロはイエスの死とよみがえり、そして罪人が罪のさばきを逃れる道として罪を悔い改めてこのイエス様を信ずるという救いの福音を説きました。ペリクスの妻はユダヤ人で、ペリクスはユダヤ人のこと、イエス・キリストの十字架のこと・よみがえりのことを知っていて、このパウロの証の前に心を刺され、心を動かされていたに違いありません。しかしベリクスはパウロは来るべき神の審判のことを語るのを聞いて「今日は帰ってよい。折りを見てまた呼び出そう。」と言ってそれきりになりました。救われないまま裁きの時を迎えたのです。

 今すぐにやるべきことを「また明日」と言って先延ばしにするなまけ者は本当にライオンに食われて死んでしまいます。
 
 聖書の知恵のことば。

   なまけ者は言う。「獅子が外にいる。私はちまたで殺される。」と。

 箴言22章13節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 (PBA制作「世の光」2006.04.26放送でのお話しより)

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■開かれた道

2006年04月25日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興(せきねひろおき)です。今日もさわやかに一日を過ごしていきたいですね。

 今日は聖書のことばをまず紹介いたしましょう。新約聖書ヘブル人への手紙11章1節から。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

 ある植物学者が数人のシェルパ(※ネパール東部の高地に住むチベット系の民族で、ヒマラヤ登山隊に雇われて、荷揚げや道案内に従事する者が多い。 )を連れて植物を採取していました。すると断崖絶壁にとても貴重な植物があったんです。彼は何とかその植物を採取したかったんですが、どのシェルパもあえてその植物のために危険を犯す気にはなりませんでした。ところが一人の子どもが「ねえねえ、僕が取ってきてあげるよう。」って言い出したんですねえ。「だめだよ。まだ子どもなんだから。そんな危険なことはさせられないよ。」と学者は断りました。しかしその子どもは「大丈夫だよ。」って言い続けるんですね。そしてこう言いました。「おじちゃんおじちゃん。ただ一つだけ条件があるんだ。僕の命綱はお父さん以外の人に持たせないでね。お父さんが持っていれば安心さ。」そう言ったっていうんですねえ。お父さんへの信頼が子どもにとっての一番の安心の元になったという訳です。
 
 さて、そうであるなら、あなたの安心はどこから来るでしょう。あなたの人生の命綱を誰が握っていますか? これによって安心の度合いはだいぶ変わってきますよね。

 私たちは信仰ということばを使う時、何か宗教的な特殊なことばのように考えます。でも信仰とは信頼ということと同じ意味なんですねえ。時々信仰というイメージがまるで理性を棄てて何かを思い込むことと考えていたり、また「鰯(いわし)の頭も信心から」といった具合で、内容はとうあれただ信じる熱意や心が大切という人もいます。本当にそうでしょうか。

 私たちの生活の中で 信じるということが失われたらどうなると思いますか? 一日も生きていけませんよね。朝起きて出された食事をまず疑うんです。気分の悪い一日が始まるでしょうねえ。通勤のホームで電車の目的地を疑うんです。いつまで経っても会社にたどりつきませんよ。電車の行き先を信じなければ目的地には決して到着しませんね。信仰とは聖書のことばを心に受け入れてその約束のことばに人生を委ねて生きていくことなんです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、いのちだ」とおっしゃいました。イエス・キリストを信じるということはあなたの生涯にとこしえの道があるということを確信して生きるということなんですねえ。

 (PBA制作「世の光」2006.04.25放送でのお話しより )

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■だから励みましょう

2006年04月24日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道(のぶみち)です。

 えーっと、あれはどこの地方だったか、ある集会に行きました時に一人の司会者の方がですね、「皆さん、私たちは猫のようじゃあいけませんねえ。」ってこうおっしゃるので、「猫のよう」ってどういうことなんだろう、猫舌というようになまぬるくってはいけないという意味だろうかとかよくよく考えていたんですが、「えー私たちはクリスチャンだから聖書を読まにゃあいかん。お祈りせにゃあいかん。イエス様のために一生懸命奉仕せにゃあいかん、ってこうニャーニャー、ニャーニャー言ってるような猫のようではいけません。」というお話をしてですね、面白い言い方だなあと思ったんですねえ。まあ東京の方では「やらにゃあ」というふうな言い方はしない訳ですけれども、ある地方ではそういうふうに「せにゃあいかん」「やらにゃあいかん」という「ニャー」というふうな言い方をされる処もある訳ですね。

 で、私たちがその聖書を読まにゃあいかんとかですね、一生懸命神様のためにお仕えしなきゃいけないという意味で「やらにゃあ」というようなことだとすると、何かこう律法的な規則的な窮屈なものになってしまいますよね。

 聖書の中に、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう。」ということばがあるんですね。第一コリントの15章(58節)という所なんですけれども、いつも主のわざに励んで一生懸命やりましょうって言うんですけれども、それはただやらなきゃいけないとかですね、かんばりなさいよとかいうようなことではなく、そこには根拠があるんですね。

 で、その根拠というのはこの15章全体は58節もある長い章なんですけれども、そこにはキリストの復活のことが書いてあるんですね。キリストは事実聖書に書いてある通りによみがえられたのだと言う。そしてそのよみがえった事実を何人もの人々が目撃したのだ。れっきとした、そこには証人がいるのだということを言いながら、そして私たちもやがて復活の恵みに与ることができるんだ。キリストの復活だけではなくって、やがて私たちに復活の栄光の希望があるのだということをはっきり記しながら、もしもキリストの復活がなかったらイエス様のことを伝えるなんてことは馬鹿らしい。そして信じるなんてことも馬鹿らしい。私たちは永遠の希望を持つことも馬鹿らしい。けれどもそうではなくてキリストの復活されたのは事実なのだからこの事実に基づいて私たちの労苦も決して無駄になることはないって書いてあるんですね。だからまあ一生懸命に励みましょう、って言うんですねえ。

 「やらにゃあ」ではなくって喜んでイエス様のために仕えさせていただきましょうということですね。これが素晴らしい人生だと思うんです。

 ( PBA制作「世の光」2006.04.24放送でのお話しより)


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■新しいいのち 

2006年04月22日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。羽鳥 明です。さ、今日の世の光は、イースター特別番組の第12番目、最後のメッセージです。新しいいのちという題です。

 新約聖書コリント人への手紙第一15章20節に、こういうことばがあります。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」十字架の上に死んだイエス・キリスト。三日めによみがえられたキリストこそ私たちクリスチャンの初穂・代表として死んでよみがえられたというのです。

 私たちのキリストは十字架にかかって死なれました。私たちキリストを信じる者もキリストと共に死んだ者です。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして死なれましたが、私たちクリスチャンはキリストと共に十字架により罪について死んだ者となりました。キリストと共に十字架に死んだのですからもう罪のために裁かれない。責められて裁かれて死ぬことはない。罪について死んだのです。

 次に私たちクリスチャンはキリストと共に新しいいのちによみがえり、新しいいのちに生きるのです。十字架の死、キリストの死の目的は私たちが新しいいのちに生きるためでした。聖書は言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節) イエス・キリストの十字架を見上げてイエス・キリストにおいて私の罪は裁かれて私は死んだ。私たちはよみがえられた主イエス・キリストを見上げる時に、私たちも新しいいのち、永遠のいのちによみがえらされたと信ずることができるのです。よみがえりの主イエス・キリストのいのちに生かされ、その新しいキリストのいのちに生きる者となるのですねえ。何という恵みでしょうか。

 聖書のことば。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロの手紙第一2章の24節のことばです。

 それではまた聞いてください。

 ( PBA制作「世の光」06.04.22放送でのお話しより )

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■変わることができる

2006年04月21日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気ですか? 安海靖郎(あつみ・やすお)です。今日は、変わる喜び・変えられる幸いということをお話しいたします。

 ある週刊誌に、自己改善で輝く人というテーマの特集記事がありました。目標に向かって自分の意識や生活を改善して輝いている人という訳です。例えば元Jリーガーだった人がリストラされてそして頑張って4年間で司法試験に受かって今輝く弁護士の卵になっているというようなそんな例です。ま、会社でも世界のトヨタと言われるそのトヨタ式改善というのが裏にあるって言うんですが、ま、徹底した効率化と意識改革が全社員に求められた結果だと言うのです。

 確かに目標や使命に向かって自己改善していくっていうのは大切なことですね。しかし現実にはなかなかそううまくいかない場合があるし、いいえ目的や使命を持てずに模索しているなんていう場合も多いのではないでしょうか。

 聖書には、イエス・キリストに出会って自分が変わった、そんな輝き・経験がたくさん書かれています。その代表的な例が新約聖書の多くの手紙を書いたキリストの弟子パウロです。若い時からまじめに生き、どうしたら納得いく人生が送れるか真剣に考えました。そして旧約聖書に示されている神に造られた人間としての理想的な生き方に努めました。しかし疲れました。どうしてもそれに到達できませんでした。よみがえられたキリストに直接出会うという経験を通して、実はイエス・キリストにおいて初めてこの神に造られた本当のあるべき人間の姿、(それがキリストに)あるだけではない示されているだけではない、キリストによってそれが神から(自分に)与えられているんだということを悟ります。そんな経験をコリント人への手紙第二の手紙の5章17節という所にこんなふうに書いています。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 キリストを知った時、今までの世界観や価値観・生き方がまったく新しくなるような変化をした。つまり神に生かされているという自分に気がついた。生きる意味がはっきりした。そこから自分の使命感、心の充足、生きる力が湧いて来たっていうのです。

 今も同じようにこのキリストを知り、心の中で出会うような経験を通して私たちも本当に変わっていく変えらる喜び幸いを味わうことができるのです。
 

(PBA制作「世の光」2006.04.21放送でのお話しより )


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■失敗しても

2006年04月20日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 福井 誠です。今日は聖書の中のヨハネの福音書から読んでみましょう。

 ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネの福音書21章17節)

 イエスが復活された後のことです。漁に出掛けた弟子のペテロにイエスは現れて大切な使命を与えられました。はじめにイエスは「あなたはわたしを愛しますか。」とペテロに語りかけられました。

 ペテロにとってそれは自分の心を深く探られる質問だったのではないでしょうか。かつてペテロはイエスに、「あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネの福音書 13章37節 )と言い切った人です。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイの福音書 26章35節)と断言した人です。ところが実際には三度も、しかも吐き捨てるようにイエスとの関係を否定してしまったのです。イエスの質問に、(自分の)愛のなさ、口先だけの忠誠心に恥じ入る思いになっていたのではないでしょうか。自分は完全な失格者だ。そんな思いで心が押し潰されそうに感じていたことでしょう。

 そんなペテロにイエスは大切な使命を与えられました。「わたしの羊を飼いなさい。」と、御自分の働きを羊飼いの働きに例えて、その跡を継ぐように勧められたのです。とまどうペテロにイエスは三度繰り返して確実に使命を託そうとされます。

 ここに私は、神様がどういうお方であるかということを考えさせられるのです。神様は、私たちが何をしたかということよりも、何をしようとしているかに関心を向けられるお方です。神様は、あの失敗この失敗をいつまでも咎めているようなお方ではありません。むしろ私たちの愚かで迷いやすい性質を分かった上で私たちにチャンスを重ねてくださるお方です。たとい世の中があなたを見捨てることがあっても、神様があなたを見捨てることはありません。あなたを受け入れ、どこまでもあなたと共に歩んでくださいます。そんな神様をあなたも信じてみませんか。
 

 (PBA制作「世の光」2006.04.20放送でのお話しより)

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■エマオ途上の二人

2006年04月19日 | Weblog


 世の光の時間です。お元気でしょうか? 羽鳥 明です。さあ今日の世の光はイースターの特別番組の第9のメッセージ「エマオ途上の二人」のお話しです。

 イエス・キリストがよみがえられた日の夕方、エルサレムからエマオという村へ向かってクレオパともう一人の弟子たちが二人で話しながら旅をしていました。もう一人別な男が来て、二人の弟子たちの話しをしていることを聞いて、「何のことだ」と尋ねました。弟子たちはイエス・キリストのよみがえりのニュースのことを話していたのです。その男は旧約聖書のいろいろの個所からイエス・キリストの誕生からよみがえりのことまで話してくれました。でもこの人自身がイエス・キリストなのだと二人には分りませんでした。エマオの村に着いてもまだこの方は先へ行こうとするので二人は、「今晩は私たちと一緒にここにお泊まりください」と頼みます。この人は承知をして一緒に食卓に着きました。この方がパンを取り、感謝して祈り、二人にパンを割いてくださった時に、「ああ、イエス様だ」と目が開かれて分りました。そうしてその方は、すうっと消えてしまいました。二人はびっくりして急いでエルサレムに帰って使徒たちに伝えたのです。(ルカの福音書24章13節~35節参照)

 このエマオの途上の二人の弟子たちについて、二つのことが書かれています。第一に、このお方がいろいろ聖書の中からイエス・キリストのことをお話しくださった時に、彼らの心が燃えたこと。第二に、この方がパンを捧げて祈り、二人に分けてくださった時に、二人の目が開かれてこの方こそイエスだと分かったということです。

 私たちもイエス・キリスト様が自分の救い主だと分かって信じる時にも、この二つのことを経験するのではないでしょうか。第一に心が燃えて開かれるのです。第二に信仰の目が開かれてこの方こそ私の救い主だと分かり、信じるのです。イエス・キリストが天に帰られた今も肉眼ではイエス・キリストを見ることができなくても私たちは信ずることができるのです。

 聖書のことば。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」ヨハネの福音書20章31節のことばです。

 それではまた聞いてください。

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