♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■都のぼりの歌 / 羽鳥頼和

2017年04月29日 | Weblog
2017/4/29放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
旧約聖書の詩篇120篇は「都上りの歌」と言われ、国を滅ぼされたイスラエルの人々が再び祖国に戻ることができた頃に作られたと考えられています。一節、二節はこのように言われています。
 「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。
 
 「苦しみの内に」とは外国の地にいた時のいろいろな苦しみが思い出されているのでしょう。そしてその苦しみの中で、神に祈ると神は祈りを聞いてくださったのです。そしてこれからも神は祈りを聞いてくださることを確信しているのです。

 次に言われている「偽りのくちびる、欺きの舌」とは自分が受けた誹謗中傷のことです。外国に住み、よそ物呼ばわりされ、蔑まれ、疎まれたことを指しています。

 王の勅令によってイスラエルの人々は解放され、国に戻ることが許されましたが、人々の誹謗中傷偏見はやまなかったのでしょう。いやもしかすると解放されて更にひどくなったかもしれません。今で言うなら、いじめやヘイト・スピーチです。ことばの暴力によって人々は苦しんでいました。イスラエルの人々が仲良くしようとしても周りの人々の憎しみや妬みは簡単には無くならなかったようです。そこでイスラエルの人々は神に祈るのです。「主よ私たちを救い出してください。」

 実はイスラエルが滅ぼされてから解放され祖国への帰還が許されるまでには70年の長い期間がかかっていました。人々は70年間我慢し続け、神の救いを待ち望んだのです。それと共にこの期間に人々の信仰生活が整えられていきました。会堂における聖書朗読や祈りという礼拝を中心とした生活が営まれるようになったのです。人々にとって苦しみの時は、神に祈り、救いの神に信頼する時だったのです。このように苦しみの中で整えられていった信仰生活は、イエス・キリストが生きた時代でも守り行われました。そして今もイスラエルでは守り続けられているのです。

 日本でもキリスト教会は聖書を朗読し、祈りと賛美をし、神に礼拝を捧げています。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください

 (PBA制作「世の光」 2017.4.29放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■永遠の命に生きる / 関根弘興

2017年04月28日 | Weblog
2017/4/28放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。それでは聖書のことばをまず紹介いたしましょう。
 新約聖書ヨハネの手紙第一5章11節
 「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

 聖書は、御子すなわちイエス・キリストを信じる一人ひとりに永遠のいのちが与えられる、と約束します。永遠のいのちは決して長生きということではありません。永遠とは決して尽きることがないということです。いつまでも続き、失われることが無いいのちがある、というんですね。日本語の「いのち」は「息の内」が省略されて出来たことばだそうです。つまり息をしている内が人生だ、死ねば終わりだ、という至って合理的なことばだそうです。でも死ねば終わりといういのちなら、それは決して永遠ではありませんね。

 しかしイエス様は、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ 11章25 節)と約束されたんです。つまり私たちの肉体のいのちを超えたいのちを与えると約束されました。そしてこの永遠のいのちに生きるとき、三つのことを私たちは知ることができるんです。

 第一は、失われることのない希望です。永遠のいのちなのですから死をも乗り越えていくいのちです。ですから死は決してすべての終わりではありません。決して失われることのない希望に生きる者と導いていくのです。

 二番目は、いのちはそこに応答があるということです。死は応答のない世界ですよね。どんなに叫んでも決して応答しません。しかしそこにいのちがあるときに応答が始まります。永遠のいのちが与えられているということはいつも応答可能だということなんです。どなときにもイエス様によって祈り、叫び求め、聖書として語りかけられることばを聞きながら神様との応答の中で生きることができるんです。

 そして第三は、いのちの実を結ぶということです。リンゴの種を蒔いたらリンゴがなります。桃の木を植えれば桃がなります。そこにはいのちがあるからです。ではこの永遠のいのちが与えられて生きるとき、このいのちは何をもたらすのでしょう。それは私たち一人ひとりに、愛、喜び、平安、寛容、柔和、誠実、自制、このような実を少しずつ実らせていくものとなるのです。

 イエス・キリストを信じる者はこのいのちに生かされていくんですね。
 
 (PBA制作「世の光」2017.4.28放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■唯一の道筋 -4 / 大嶋重徳

2017年04月27日 | Weblog
2017/4/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。今月はキリスト教会のイースターと呼ばれる大切な日がありました。そこでキリスト教信仰の中心であるイエス・キリストの十字架と復活についてお話ししたいと思います。

 聖書にはこうあります。
 「 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ人への手紙2章20節)

 イエス様の十字架の血が流された時、私自身の罪も完全に死んだのだ、と。私は中途半端に罪の中に生きているままではない。古い自分の罪は完全に死んで、今新しくされた自分がイエス様の復活とともに生き返ったのです。イースターにおいて復活されたキリストが私たちと共にいてくださり、今神様に近づくことができるようにしてくださり、イエス様と共に私たちが神様の前に出ていることができるようになったのです。

 そうであるならば、私たちがこのイースターの時期にこそ大切になすべきこととは、イエス様の十字架の赦しを信じ、自分の罪を悔い改めて、神様の前に赦されに出て行くことをやめないということです。時に、私たちは自分の罪に浸ってしまって、イエス様の十字架を遠くから眺めて、赦されるために十字架の前に出ていかないということがあります。しかし、大切なことは、何度も何度も赦されに出て行くのです。なぜなら、完全なるいけにえがイエス様という完全な祭司によって捧げられているのですから。もう神の前に出ることを躊躇する必要はないのです。私たちに必要なことは、その神様の前に出るための悔い改めを遅くしてはいけないということです。もう神様の救いを受けることのできる門は完全に開いているのです。何の準備も、何の人間の努力が必要なのでもはなく、私たちはイエス様のしてくださったことを感謝して受け取るのです。

 私たちが神様の前で言えるのは二つのことばだけではないかと思います。一つは「まじすか」ということばです。「こんな罪人ですよ、いいんですか? マジっすか?」 もう一つは「あざーす」です。ありがとうございます、と言ってこの赦しをイエス様から受け取るのです。私たちの人間のいかなる努力でも到達することのできなかった救いをイエス様が成し遂げてくださったのですから受け取らないことは余りにももったいないことなのです。あなたもそれをこのイースターの4月に受け取って欲しいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2017.4.27放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■二度と直すことができない / 福井 誠

2017年04月26日 | Weblog
2017/4/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブルメッセージは「二度と直すことができない」です。 それではエレミヤ書19章11節からお読みしましょう。
 「 彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことができない。このように、わたしはこの民と、この町を砕く。

 今日はまた聖書通読ブログの流れに戻ってエレミヤ書を見ていきます。この箇所に出て来る陶器師の器というはイスラエルの民のことです。陶器は粘土から造られますが、粘土はまだやわらかいうちにはいくらでも作り直しができますねえ。しかし一旦乾燥し固まりと化してしまうと、なかなか作り直すことができません。もはや砕くのみです。エレミヤは神が命じられるままに陶器の器を買い、その器を皆の面前で砕きました。偶像礼拝から立ち返らずその罪を悔い改めないイスラエルの霊的な頑なさは固くなり修正の効かなくなった陶器そのもので、もはや壊される以外にない、というわけです。

 またエレミヤが器を砕いたベン・ヒノムの谷は偶像礼拝が盛んに行われた場所です。その昔、一度はヨシヤ王の宗教改革の時代に、その偶像崇拝の祭壇は取り除かれて廃棄物の焼却場または犯罪者の火葬場として用いられようになったのですが、エレミヤの時代には再び偶像崇拝の場所として復活していたようですね。

 そこでエレミヤは異教の民の真似をして偶像崇拝に傾くイスラエルの民の面前で器を砕き、民がどんな裁きの運命に直面しているかに気づかしようとしたのです。恐らくエレミヤのしたことは当時の人々の間では噂となって、みながエレミヤの言動に注目することになったでしょう。しかしこれほど分りやすくまた確実に神の裁きを伝えながら、イスラエルの民は悔い改めませんでした。そしてやがてイスラエルの国は滅んで行くのです。

 今日の私たちの心も、もはや再生のきかない粘土、乾燥した土の固まりとなっていることはないでしょうか。正しくない者は神の御国を受け継ぐことは決してありません。どこかで私たちは新しい命を経験し、新しい歩みを始めないといけないのです。神の新しい命にあずかり、神の祝福の中に進んで歩む者でありたいですね。

(PBA制作「世の光」2017.4.12放送でのお話より )

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■許容する神 / 板倉邦雄

2017年04月25日 | Weblog
2017/4/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「許容する神」という題でお話ししましょう。

 少し難しいテーマをお話しすることになります。それは主なる神様の絶対主権と私たち人間の自由意志の問題と関係性です。

 さてモアブの国の王様バラクは占い師バラムにイスラエルの人々を呪い殺してくれと依頼の使者を送りましたが断られてしまいましたね。そこで王様は前の使者よりは身分の高い大臣を前より多く遣わしました。
 大臣たちは占い師バラムの家に行って言いました。「王様はこのように申しております。どのような妨害にもめげず、どうぞ私どもの所においてください。私はあなたを大いに優遇しましょう。あなたが私に要望されることは何でも叶えましょう。どうか私の国に来て、このイスラエルの民を呪ってください。」(民数記 22:15~17参照 )

 しかし占い師バラムは王様の大臣たちに答えました。
 「たとい王様が家に満ちるほどの金銀を私に与えようとも、事の大小を問わず、私の神主のことばを超えては何もすることはできません。それでどうぞあなたがたは今夜ここにとどまって主なる神様がこの上私に何と仰せられるかを確かめさせてください。」(民数記 22:18~19参照 )

 さて、夜が来ました。主なる神様は占い師バラムに臨んで言われました。
 「この人々はあなたを招きに来たのだから立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただし私が告げることだけを実行しなくてはなりません。」(民数記 22:20参照 )

 恐らく占い師バラムは二回目の使者たちによる王様の申し出に目がくらんだのではないでしょうか。1回目は動かなかった心が、二回目は動いたのです。

 行ってみたいなあ、という欲求。すなわちバラムの自由な意思を神様は許容したのです。神の絶対的な主権と支配、ご計画の中に於いてであります。神様は私たちの意思に自由を授けてくださいました。ですからそれが善でありあるいは悪でありましても、調整されたりすることは決してないのです。

 イエス様のことばです。
 「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。
  しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。

   マタイの福音書 10章29節 ( 口語訳)

  (PBA制作「世の光」2017.4.25放送でのお話より )

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■日本で最初に孤児院を創設した石井十次 / 岩井基雄

2017年04月24日 | Weblog
2017/4/24放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 月の最後の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯を取り上げたいと思いますが、今日は「児童福祉の父」とも言われている石井十次について学んでいましょう。

 高鍋藩、今の宮崎県の藩士の長男として生まれた石井十次は、小学校の教師や警察署の書記を経たあと、難病を患います。その時に彼を診察したキリスト者、荻原医師の勧めと援助で十次は岡山県医学校、今の岡山大学医学部に17才で入学し、19才の時に岡山キリスト教会牧師金森通倫から受洗し、信仰に生きる決心をするのです。22才の時、彼は岡山の診療所で四国巡礼途上のある母親から預かった一人の男の子をきっかけに孤児救済の事業を始めます。医学への思いを断ち切り、児童福祉と教育に専心する覚悟を決めた十次は神の教えに反するとの思いから賛助会員からの会費を断り全額寄付金による運営を始めていったのです。明治24年に名古屋地方を襲った濃尾地震でも多くの孤児を引き受け、明治25年、26年と続けて岡山市で起こった大洪水ではその孤児たちが活躍します。東北地方一帯の冷害による大凶作が起こった明治39年の時の人員数は1200人にも達したというです。十次は子どもたちに腹いっぱい食べさせましたが、そのための1ヶ月の経費は現在のお金で数千万円も必要だったそうです。これらや妻に先立たれるそのような経験の中でも彼の思いは断たれることはありませんでした。十次が組織した孤児たちによる音楽幻灯隊(※音楽会に続いて幻灯で十次が孤児院のスライドを見せながら孤児たちの生活を紹介)は国内はもとより、韓国、台湾、中国大陸でも講演をしました。またルソーのエミールに感化を受けた十次は故郷の宮崎県に農場を開き、茶臼原の分院に子どもたちを移住させ、自然の中で遊び学ばせる教育を実践していったのです。親の愛を知らない3000人を超える子どもたちは石井十次の背中にキリストの愛を見て育っていったのです。

 キリストはあなたにも語られます。
  「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。
  マタイの福音書18章10節
 PBA制作「世の光」2017.4.24放送でのお話しより)

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■解決の糸口はここに~キリストの再臨 / 羽鳥頼和

2017年04月22日 | Weblog
2017/4/22放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
先週からイースター・スペシャルをお届けしてきました。今日がその最終日です。今日は「解決の糸口はここに~イエスの再臨」というタイトルでお話しします。

 キリストは十字架にかかり三日目によみがえられました。その後キリストは天に上られました。聖書は更に、これから起こることとして天に上られたキリストはもう一度この世に来られ、この世の全ての悪を裁かれると教えています。このことをキリストの再臨と言います。再臨の時、キリストの正しいさばきが行われ、完全な正義が実現します。様々な問題がすべて解決し、平和で幸せな世界が実現するのです。

 今からおよそ2500年以上前の新バビロニア帝国の時代に、このキリストの再臨のことが預言されました。それが旧約聖書のダニエル書7章です。その7章ではまず、新バビロニア帝国以降の世界帝国の攻防が預言されています。新バビロニア帝国の次のメディア、その後に勢力を拡大するペルシャ帝国、その次のアレキサンダー帝国、そしてローマ帝国。更にローマ帝国が東西に分裂し、ローマ帝国は形を変えて強大な国家権力として終末の時代つまり現代まで続くことが預言されています。

 その終末の時代に人の子が天の雲に乗ってこられる、と預言されているのです。この人の子とはイエス・キリストのことです。

 更にダニエル書は、キリストの最近の時、キリストに主権と光栄と国が与えられ、全ての国の者たちがキリストに仕えることになる、と預言されています。

 イエス・キリストもこのダニエル書を引用して、十字架で死なれる前にご自分が再臨されることを預言されました。キリストは十字架と復活そして再臨をすることを知っておられたのです。イエス・キリストは必ず再臨されます。その時イエス・キリストは全ての国をご自分のものとして永遠に支配され、本当の平和が実現するのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会ではキリストの再臨を待ち望みながら神に礼拝をささげします。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.4.22放送でのお話より )
 
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■復活の意味/関根弘興

2017年04月21日 | Weblog
2017/4/21放送

 世の光の時間です。関根弘興です。今週はイースター・スペシャルをお届けいたします。

 聖書の中心は何か、と問われるならば、イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと、そして三日目に死から復活されたということ。つまりイエス・キリストの十字架と復活こそが聖書の中心なんです。

 前回は十字架こそ愛の極みであるというお話をいたしました。それではイエス様の復活にはどんな意味があるんでしょう。まずイエス様が語られたことばを紹介いたしましょう。
 ヨハネの福音書11章25節
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

 何と大胆なことばでしょう。イエス様は、死んでも生きるいのちがあるのだと語られたんです。つまり私たちのこの肉体のいのちを超えたいのちがあると教えられたんですねえ。そして、イエス様を信じる者にそのいのちが与えられるのだ、と約束なさったんです。
 人はことばだけなら何とでも言うことができます。もしイエス様が十字架につけられ墓に眠ったままなら、なあーんだ、イエスは生前大げさなことを言ってだけど大言壮語も甚だしい。それで終わってしまいますね。しかしイエス様は語られた通りに十字架につけられ、墓に葬られ、三日目に復活なさったのです。ですから復活の事実はイエス様の語られたことばや約束は本当に確かなものだということの保証となるんです。そして死を打ち破るいのちがあるということは、私たちに死を乗り越える希望が豊かに与えられているということを保証するんですね。

 先日、私はある方の臨終を看取りました。癌のために緩和病棟で入院生活をされていた方でした。昨年ご主人を先に亡くし悲しみを抱え、また病の痛みや辛さを抱えながらの入院生活でした。しかしこの方はイエス様を信じ、苦しみの中ではありましたが、決して失われることのない永遠のいのちに生き、天国の希望を見つめながら地上の生涯を閉じられたんです。私はこの方の傍らで、私たちを迎える神様の愛があることを語り、静かに讃美歌を歌いました。そしてこの方は静かに息を引き取られたのです。

 死は悲しみをもたらし、そしてこの肉体のいのちは失われます。でも終わりではありません。イエス様の復活の事実を受け入れることは、永遠を見つめ生きる者とされていくのです。

 (PBA制作「世の光」2017.4.21放送でのお話しより)

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■唯一の道筋 -3 / 大嶋重徳

2017年04月20日 | Weblog
2017/4/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
今週の4月16日はイースターと呼ばれる大切な日でした。そこでキリスト教信仰の中心であるイエス・キリストの十字架と復活についてお話ししたいと思います。

 イエス様の十字架の死によって、かつて旧約聖書の時代に行なっていた祭司の捧げた罪のためのいけにえはもうしなくてもよくなった、と聖書は語ります。なぜならイエス様が大祭司として私たちのもとに来てくださり、ご自分を神の前で捧げるいけにえとして十字架の上で死んでくださったからです。この大祭司であるイエス様こそ唯一罪を犯すことのなかった、父なる神の前に出ることができる唯一の完全な大祭司です。私たちが神様の前に出ようとしても、誰かの罪を身代わりに背負うとしても、私たち人間には自分の罪があり、その罪の裁きを負わなければなりません。しかしイエス様だけは自分の罪が無いお方であるからこそ、他人の罪を背負うこともできる方でした。その方が大祭司として自分のいのちを捧げられた。それは私たちが神の前に出て、私たちが神様の元に戻って行くことができるためにです。イエス様は傷の無い子牛と同じように十字架で血を流されました。かつて祭司は子牛に手を置いて全体重をかけて自分の罪を子牛に載せたように、私たちの罪の全体重をイエス様は受け止めてくださって、イエス様は十字架で死んでくださったです。そして十字架の上で最後に「完了した。」(ヨハネ 19章30節)と言われました。「すべて完了したよ。あなたの罪を父なる神は赦されたよ。あなたの罪の赦しは完了した。」とおっしゃってくださったのです。

 十字架で死なれた時に、当時のエルサレム神殿の幕が真っ二つに上から下に裂けました。上から下に「真二つに裂けた」(ルカ福音書 23章45節)というのは、神がご自身で引き裂かれたことを意味しています。そして今や私たちはイエス様を通していつでもどこででも私たちは父なる神様のもとに近づくことができるようになったのです。日本であってもあなたのあの部屋であっても、気兼ねなく、思う存分、大胆にイエス様のそばに行くことができるようになりました。このイエス様によって神に近づいていくとき、神様は「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」(ヘブル 10章17節)と言われるのです。ここに私たちの救いがイエス様でなければならない理由があるのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.4.20放送でのお話しより )

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■神の子たちを一つに集め / 福井 誠

2017年04月19日 | Weblog
2017/4/19放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・バイブル・メッセージは「神の子たちを一つに集め」です。 それではヨハネの福音書11章51節、52節をお読みします。

  「 ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。

 先週に続いて今日もイースターのメッセージです。先週はイエスの十字架の死の意味が、私たちの罪の身代わりのため、私たちに新しいいのちを得させるためであることをお話いたしました。

 今週は同じ宗教的指導者、大祭司カヤパのことばから、イエスの十字架の死のもう一つの意味について教えられたいと思います。というのはカヤパのことばを受けてこの箇所を書いたヨハネという著者は、イエスの死はただ人の罪の赦しのためだけではなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためのものである、と解説していますねえ。実に大切な点です。イエスの十字架の意味は、一つは罪の赦し、そしてもう一つは神の子たちが集められるためである、という訳ですねえ。そういう意味で教会は神の家族という言い方をします。

 教会に行くと何故か皆他人どうしなのに、兄弟姉妹という呼び方をしますね。私も教会に行きかけの頃は違和感がありましたが、実際にはそうした血の繋がりを超えて、思いやり支え合い励まし合い助け合う温かいものを感じたことがあったものです。成人になって行動範囲も広くなり、アメリカ、アフリカ、中東、ヨーロッパ、アジアと様々な国へ出かけるようになりましたが、それらの地域にある教会を訪問すると、初めて出会った人であれ、イエスを信じているということで兄弟姉妹として受け入れられる素晴らしい神の家族の親しい時を経験させていただくようになりました。

 あなたにもイエスを信じ、イエスの復活の力によって神の家族に生まれる、そして集められる、人生の素晴らしさを知っていただきたいと思います。ぜひ、あなたを待っている教会を尋ねてみてくださいね。

(PBA制作「世の光」2017.4.19放送でのお話より )

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