♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人間関係の基本は愛 / 関根弘興

2011年10月31日 | Weblog
2011/10/31放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。私たちはいろいろな関わりの中で生きてますが、時々難しいなと感じるのが人間関係だと思うんですね。人間関係はペケペケだ。このペケペケ・空白に文字を入れよ、という質問がありました。すると返ってきた答えは何と、人間関係はわずらわしい、面倒くさい、難しい、という返答が圧倒的に多かったんですね。どうも人間関係というと否定的なイメージを感じてしまう人が多いようですね。でも人間関係は難しい・煩わしいと多くの方は考えるんですが、それでは人との関わりなしに生きていけるかというと、そうはいかないわけです。みんな孤立することを嫌いますし、孤独から逃れたいと願うわけですね。

 聖書には人間関係の基本をこのように記しています。
 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(参照 レビ記 19章18節、マタイ19章19節、マタイ22章39節、マルコ12章31節、ルカ10章27節、ローマ13章9節、ガラテヤ5章14節、ヤコブ2章8節) 人間関係の基本は愛することだという訳です。

 ある広告代理店が、あなたの好きなことばは何ですか、というそのことばの調査をしました。すると上位に「真実な愛」ということばが来たそうです。 面白いですねえ、「愛」ということばにわざわざ「真実」ということばをつけているんです。愛とは本来真実だからこそ愛なんです。どうも愛ということばにさらに真実をつけないと真意が伝えられないということなんでしょうね。

 愛と一体何でしょう。愛の中には二つの愛があるそうです。一つは「だから」の愛というもの。これはあなたが金持ち「だから」愛しましょう。あなたが美人「だから」愛しましょう。私によくしてくれた。「だから」愛しましょう。このように「だから」ということばが愛の前に付くのです。

 しかしもう一つの愛は「でも」の愛というものです。あなたが病気「でも」愛しましょう。あなたが疲れ、困難な時「でも」愛しましょう。成績が良くても悪くても何かができてもできなくても、「それでも」愛しましょう、という「でも」の愛。これは無条件の愛の姿なんです。

 聖書は私たちに素晴らしいことを教えています。それは天地を創造された神様があなたに注いでいる愛は「だから」の愛ではなく、無条件の「でも」の愛だ、と言うんですねえ。ローマ人への手紙5章8節 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 こう書かれています。聖書は、あなたが罪人であった時、いやあなたが神様に敵対しているようなとき、あなたのために命を捨ててくださる大きな愛を神様はイエス様を通して示してくださったと教えています。人間関係の基本は愛です。そしてこの愛の出発はこの神様の愛から始まるんです。

 (PBA制作「世の光」2011.10.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■       / 羽鳥頼和

2011年10月29日 | Weblog
2011/10/29放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。ルーシーという女の子が神様にこんな手紙を書きました。

 神さま、プラスチックの ぞうかを見て、はらが立たないの? ほんものをつくったのが もしこのわたしだったら、きっとはらを立てるでしょう。

 人が造花を作るということは神様を怒らせる行為なのではないか、という発想は鋭いと思います。人が自然を見るとき、それを神様が造られたのだと自覚して見ることは少ないと思います。そんな人を見て神様はどう思っておられるのでしょうか。

 ローマ人への手紙1章20節には、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」とあります。自然はそれを造られた神様のことを明らかにしています。しかし人はそのことに気づかないのです。人は神様のことを忘れてしまっているのです。

 いや神様を忘れてしまっただけではありません。ローマ人への手紙1章23節には、人は神様を「人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」と語っています。本当の神様を忘れて神様が造られた物を神として拝んでしまっているというのです。ですからローマ人への手紙1章18節には「神の怒りが天から啓示されているからです。」と神様が腹を立てておられることを教えています。

 さて、もう一つ子供の手紙を紹介します。ユージーンという子が神様に書いた手紙です。

 神さま、おれ、オレンジいろがあんなによくむらさきいろに にあうなんて おもってなかった。かよう日に 神さま、あなたがつくった夕やけをみるまでは。ありゃちょっとしたもんだったよ。

 ユージーンは夕焼けに感動しました。その感動はこの夕焼けを神様が造られたことを覚えることによって神様への感動ともなり、神様への語りかけとなっているのです。神様はユージーンのことを喜んでくださるに違いありません。そして返事をくれるでしょう。聖書にこのようにあります。

 あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 イザヤ書43章1節と4節 

 あなたも自然を見るとき、ユージーンたちのように、人を愛しておられる神様のことを覚えてください。
 
  ( PBA制作「世の光」2011.10.29放送でのお話より )

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■神の前を真実に生きる  / 岩井基雄

2011年10月28日 | Weblog
2011/10/28放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 フランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーは日本でもよく知られる人気画家の一人ですね。1814年北フランスの寒村グレヴィル(※フランスのノルマンディー地方グレヴィルの村グリュシー)で生まれたミレーの画家の人生は熱心なクリスチャンであった祖母から大きな感化を受けたそうです。ロマン・ローランによると、ミレーの祖母は神の中にすべての物を見、自然の風物や人生の出来事をすべて神と結びつける人物で、その影響はそのままミレーの作品に現れているとも言われています。

 ミレーは30代前半の頃から農民の生活を主題として描き始め、パリのオルセー美術館にある有名な『晩鐘』は彼が45才の時に完成した作品です。たそがれの迫る畑で一日の終わりに教会の鐘に合わせ静かに祈りを奉げる農夫夫妻の姿それは祖母から教えられた祈りの姿であり、ミレーの幼い頃の思い出から描かれたとされています。またこの夫婦の足元には彼らの子供の棺のようなものがあり、この夫婦は様々な悲しみを通り、それを共有してきたのではないかという説もあります。ミレー自身も実際の結婚の中で、様々な苦労や痛みを通ってきましたが、その痛みがあったからこそ彼は真実な人間の姿、農民の姿、そしてその祈る姿を描いたのでしょうね。彼の心には、神の御命令に忠実に生きなさい、という祖母の教えがいつも響いていたのかもしれません。

 神は私たちに人の前ではなく神の前に生きること、苦しみや悲しみの中でも神に祈りを捧げ誠実に歩むことを求めておられます。

 聖書は言います。
最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」 新約聖書 ピリピ人への手紙 4章8節 

 あなたもこの神様の大きな愛によって生かされ、真実に生きること、また苦しみの中からどんな中にあっても神の前を歩む人生を歩み出しませんか? 神様はあなたの人生を本当に真実に誠実に生きるものと変え続けてくださいます。

   (PBA制作「世の光」2011.10.28放送でのお話しより)

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こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■なぜ怖がるのか  / 福井 誠

2011年10月27日 | Weblog
2011/10/27放送
 
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。
今日のバイブル・メッセージは「なぜ怖がるのか」です。それではマタイの福音書8章26節から読んでみましょう。

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」 それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

 イエスと弟子たちが舟に乗り、ガリラヤの湖を渡ろうとしました。イエスは連日の働きで疲れていたのでしょう、舟の中で眠っていたとあります。湖に大暴風が起きて弟子たちに起こされるまで気づかなかったようですから、よほど疲れていたのでしょうねえ。大暴風で舟が沈みそうになりました。弟子たちはいよいよ最後の手段とばかりにイエスを起こして「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ 8章25節)と叫びました。イエスに頼めば何とかしてくれる。何かがイエスにはできる、そう思っていたのかもしれません。

 するとイエスは弟子たちに言いました。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。 「それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」とあります。実に自然の力を従えるイエスの姿に誰もが驚いたことは言うまでもありません。。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ 8章27節)

 皆さんはどういう方だと思いますか? これまで荒れ狂う自然を従わせることのできた人間等いたためしがありません。答えは明らかですねえ。聖書はイエスを人間以上の存在として、ご自分が作った世界を支配しておられる神として描いています。大切なことは、弟子たちもイエスをそのように見ていました。しかし実際に自分たちが神と共にあるという揺るぎのない確信に至るまでには時間がかかっているのですね。

 私たちも聖書を読んで、イエスが本当に素晴らしい人間以上の存在である、この方こそ神であると思わされることがあるでしょう。しかしイエスが神であると頭で理解していることと、その確信に心から生きていくこととは違います。頭ではなく心から、つまり体験的に知って信じて生きていくことができたなら、私たちの心から恐れも消え去ることでしょう。信仰のない者でも薄い者でもなく、はっきりと神の守りを信じる歩みをさせていただきましょう。

  ( PBA制作「世の光」2011.10.27放送でのお話より )

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■神の名を呼び求める  / 板倉邦雄

2011年10月26日 | Weblog
2011/10/26放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神の名を呼び求める」という題でお話ししましょう。

 私たちは神の名を呼び始める時があります。なぜなら私たちはみな万物の創造主である神様によって造られているからですねえ。私が神の名を呼び始めたのは17才の高校生の秋でした。さて旧約聖書の創世記に於いても、神の名を呼び始める人々が登場しました。それはアダムとその妻の間にセツという息子が生まれた時代です。

 それまで兄カインが弟アベルを殺害した暗い闇のような時代ではなかったでしょうか。憎しみと復讐の時代でした。自分の力を誇り、それでいて満たされることがなく、放浪するさすらう時代ではなかったでしょうか。神様もなく、望みもない人生ではなかったでしょうか。

 しかしアダム家にセツが生まれた時から人々は主なる神を呼び始めたのです。闇から光への転換点となった時代です。真夜中が過ぎて夜明けの兆しが始まり、やがて太陽が昇るのです。

 私の高校2年生17歳の秋はまさに人生の真夜中という時でした。小中と一緒だった友人が鉄道自殺をしました。人はなぜ生きるのか、人生の意味と目的は何か、俺はなぜ男なのか、アメリカではなく日本に生まれたのか、気が付いたら酒飲みの父と失明した母、3人の兄弟が上にいました。突然私は人生に放り出された感じがしたのです。私の性格の問題もありました。気が短く短気でしたねえ。あだ名は「瞬間湯沸かし器」と言われました。すぐ頭に血が上りました。人と比べてばかりで自分より劣った人を見ると高ぶり、自分よりもすぐれた人を見ると劣等感に落ち、聖書のことばが自分にぴったりです。
 「わたしたちも以前には、・・・さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。」 (テトスへの手紙 3章 3節 口語訳聖書)

 そのような暗闇の人生の中で私は主なる神の名を呼び始めるようになりました。1枚のキリスト教のパンフレットを手にした時からです。

 あなたは人生の目的を持っていますか? 聖書のことばです。

 すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない。・・・なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
  ローマ人への手紙10章11節、13節 (口語訳聖書)

 ( PBA制作「世の光」2011.10.26放送でのお話より )

 

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■井戸の口の上にある石  / 山中直義

2011年10月25日 | Weblog
2011/10/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。他者を思い遣るということについて聖書に興味深いエピソードがあります。旧約聖書 創世記29章からのお話です。

 そこに一つの井戸がありました。その井戸は街から離れた野にあり、その井戸の口には貴重な水を守るために大きな石が置いてありました。ある時、そのように三つの羊の群れがやってきました。ですが不思議なことにその羊飼いたちは石をどかそうとしませんでした。実は彼ら、ラケルという少女の羊飼いと彼女の羊の群れを待っていたのでした。自分たちのことだけを考えるならさっさと石をどけて羊に水を与えてその場を立ち去れば良かったでしょう。ですが、そうしてしまうとラケルは大きな石を取りのけることができず羊たちは水を得ることができなくなります。自分よりも弱い者のことを思いやり、恵みを共に分かち合って生きようとする。そんな優しさ、愛に満ちた思いやりの大切さを彼らに学ばされます。

 自己犠牲さえ厭わない、そんな愛について新約聖書にこんなことばがあります。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。・・・すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。・・・愛は決して絶えることがありません。」  ( 1コリント 13章 4節、7節、8節 )

 ここでの愛、思いやりに満ち、忍耐と自己犠牲を厭わないその愛は、神様の愛、イエス・キリストの愛をさしています。神様はわたしたち人間が豊かな恵みを受けられるように、信じられないような犠牲を払ってくださった、と聖書は言います。神様はご自身の大切な独り子をイエス・キリストを十字架につけて私たちの罪の身代わりとしてくださったと言うのです。そうして私たちが神様と共に歩むことができるようにしてくださった。その神様は今もそんな思い遣り、深い忍耐と愛を持って私たちを待っていてくださると聖書は言います。

 あなたが豊かな恵みを受け、深い喜びと平安を持って生きるために、神様は今もあなたを待っておられます。罪の重荷も、孤独と絶望の闇も取り除いてくださる神様とあなたも共に歩んでみませんか。

    (PBA制作「世の光」2011.10.25放送でのお話しより )

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■わたしはまことのぶどうの木  / 関根弘興

2011年10月24日 | Weblog
2011/10/24放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 イエス・キリストが私たちとの関わり・絆についてお話をしてくださった中にこんなことばをイエス様は語られました。 「わたしはまことのぶとうの木だ。」(ヨハネ 15章1節参照)と言われたんですね。そして「あなたがたはその枝です。」(ヨハネ 15章5節参照)とお語りになりました。

 イエス様はわざわざ「わたしはまことのぶとうの木」(ヨハネ 15章1節)と語っているんですねえ。そうすると、世の中には真でないぶどうの木がある、ということですよね。聖書には毒ぶどうや酢っぱくて食べられないぶどうも出てきます。イエス・キリストこそ真のブドウの木で、良き実を結ぶぶどうの木だと教えています。そしてこのイエス・キリストを信じ生きる一人一人はその枝だという訳ですねえ。

 そしてイエス様は言われました。「あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ 15章4節)、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ 15章5節)と言われたのです。考えてみればそうですよね。枝が幹から離れてしまったら枯れてしまうだけです。

 それではイエス・キリストに繋がるとかイエス・キリストにとどまるというのは具体的にどういうことでしょう。

 第一に、それはイエス・キリストの約束のことばにとどまるということです。人の行動はどんな情報を受けるかによって決まっていきます。あなたはもし安売りのチラシを見た時、醤油1本50円、これは安い! このことばを心にとどまらせ、そのことばが心に繋がっていたらもうすでに店に並んでいますよね。例えばイエス・キリストは私たちの罪からの救い主だと聖書は教えていますよねえ。このことばを心にとどまらせたらどうでしょう。どういう行動が生まれますか。罪赦されたことへの感謝と賛美が生み出されてきます。人生には心配や思い煩いがあります。でも聖書には「思い煩いを委ねなさい。主イエス様が心配してくださる。」と記されているんです。このことばがとどまるとき、そこには神様の祈りと平安が生まれて来るんです。聖書の約束、キリストの約束のことば、その約束のことばにとどまり続けることです。

 二番目は、イエス様の愛の中にとどまることです。イエス様の愛にとどまるとはどういうことでしょう。人は本当に愛されているということを知った時、初めて愛に生きることができるんです。イエス・キリストの愛は私たちのためにあの十字架で罪を背負う命がけの愛です。命を捨ててくださるほどの大きな愛です。その大きなイエス様の愛の中にとどまるとき本当の安息を得ることできるんです。そして互いに愛し合うという生き方の方向性まで示されていくんですねえ。

 イエ様はまことのぶどうの木です。実を付けるのは幹にとどまる枝だけです。イエス様にとどまり続けましょう。

 (PBA制作「世の光」2011.10.24放送でのお話しより)

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■災いの中で 神から祝福を受けたヨブ  / 羽鳥頼和

2011年10月22日 | Weblog
2011/10/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。これまで4回に亘ってヨブ記からお話をしてきました。今日はその最後です。

 神様がヨブに向かって語られました。「知識もなく言い分を述べるのは誰か。あなたはわたしのことを知らないではないか。」(ヨブ記 38章2節参照)とヨブを責めます。

 私はこの神様の厳しいことばの中にもヨブへの励ましを感じます。それは神様はヨブを責め始めた所で、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。」(ヨブ記 38章3節、ヨブ記 40章7節)と言われたからです。悲しみと苦しみの中にあるヨブに対してはきついことばです。しかし私はこのことばが信仰の人であるヨブの心を奮い立たせ、彼の信仰を励ましたと思うのです。

 ヨブは以前、私は神様と論じ合ってみたいと言いました。また「神様が私を殺しても私は神様を待ち望む」(ヨブ記 13章15節参照)と神様の救いを求め続けていたのです。その神様がヨブの願いを聞いて語りかけてくださったのです。本当だったらその前に立つことさえできない神様が「さあ語ってみなさい。あなたの言い分を聞いてやろう。」と言われたのです。葵の紋どころの印籠を出した水戸黄門様が悪代官に「さあ、申し開きをしてみよ。聞いてやろう。」というようなものです。いやもっと畏れ多いことでしょう。ヨブは神様を畏れ神様の前にひれ伏しました。

 ヨブが友人たちのために祈ると神様は友人たちをも赦されました。そして神様はヨブを祝福されました。神様は彼の財産をすべて2倍に増やされました。しかしもっと素晴らしいことは、ヨブのすべての兄弟姉妹たちすべての友人知人たちがヨブの所にやってきて一緒に食事をし、ヨブをいたわり、悲しむヨブを慰めたことでした(ヨブ記 42章11節参照)。神様は多くの人を用いてヨブを慰め励ましてくださったのです。

 神様はきよく正しく厳しいお方であると共に、憐れみ深く情け深く愛に満ちたお方なのです。私たちはこの神様に叫び求めることができるのです。神様は必ず私たちの叫びを聞いてくださいます。悲しみ苦しみにある時こそ神様に救いを求めましょう。

 聖書のことば
 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
 マタイの福音書5章4節
 
  ( PBA制作「世の光」2011.10.22放送でのお話より )

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■「アーメン」って何?  / 岩井基雄

2011年10月21日 | Weblog
2011/10/21放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。私は時々、キリスト教会で耳にする分りにくいことばは専門用語ですか?と聞かれます。確かにキリスト教会で使われている用語には分るようで分りにくいことばがありますよね。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。第二回は「アーメン」です。

 讃美歌や祈りの最後に「アーメン」て言うことがありますが、一体何の呪文だろうって思う方もいらっしゃるかもしれませんね。実はこのアーメンは「確証する」とか「支持する」という意味を持つヘブル語の「アーマ」に由来し、「その通りです」とか「実に」などの意味がある故に讃美歌や祈りの最後などに使わているんですね。ですから祈りの後に「その通りです」と意味をこめてアーメンと唱和します。

 また神の独り子であるイエス・キリストをアーメンなる方として記されている箇所が聖書にあります。

 「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
 新約聖書 ヨハネの黙示録3章14節

 これはイエス・キリストこそ本当に忠実で真実な方であり、すべての被造物の源でありすべてを正しく管理し治めておられる方だということを示しています。また聖書の他の箇所には次のように書いてあります。

 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。   新約聖書コリント人への手紙第二 1章20節

 この方すなわちイエス・キリストによって神様の恵みと愛の約束は完全に成就しました。旧約聖書のはじめから私たちを見捨てずに私たちを罪から救うことを神様は約束してくださいました。そしてその約束の通りに救い主イエス・キリストを送り、私たちの罪の赦しの道を完成してくださったからです。

 アーメンということばは神様の真実さや誠実さを表し、イエス・キリストによって愛の約束の成就が完成したことを証明しているのですね。皆さんも心から愛なる神様の約束の素晴らしさを味わい、心から人生においてアーメンと告白することできますように心からお祈りをしています。

 あなたもどうぞ教会へ来て心から祈りをささげませんか?

   (PBA制作「世の光」2011.10.21放送でのお話しより)

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■旧約預言の成就として / 福井 誠

2011年10月20日 | Weblog
2011/10/20放送
 

 世の光の時間です。お過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「旧約預言の成就として」です。それではマタイの福音書8章17節から読んでみましょう。

 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
 「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」


 マタイの福音書はユダヤ人に向けて書かれた書です。それはユダヤ人に十字架にかかられたイエスが旧約聖書の時代から預言されていた約束の救い主メシアであることを納得させようとして書かれたものです。ですからマタイの福音書には旧約聖書の預言が沢山引用され、この預言のことばがイエスのあの行為、あの出来事に成就したという書き方がされています。

 今日お読みした箇所では旧約聖書のイザヤの預言が取り上げられています。預言者イザヤは紀元前700年前後にイスラエルで神のことばを伝える人として活躍しました。当時イスラエルは2大強国のアッシリヤとエジプトに挟まれ、国家存亡の危機にあったのです。そのような状況でイザヤはイスラエルのヒゼキヤに神の守りがあることを伝え、神に信頼するように励ましたのです。

 しかしながら、イザヤが語ったことは当時の人々に当てはまることだけではなく、それから後の時代700年後のイエスの時代にも当てはまる大切なメッセージとなっていました。つまりイザヤは救い主イエス・キリストの働きについても預言していたのです。

 イザヤは言いました。
 「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」

 マタイは、ペテロの姑の熱病が癒されたこと、悪霊に憑かれた人が悪霊から解放され、病気の人々がみな癒された出来事を見て、それが預言者イザヤの語った通りであると私たちに伝えています。つまりイエスは旧約聖書で約束されたメシアであり、私たちの患いや病を負われる方であるのだと言います。

 このマタイの主張をあなたはどう思いますか? あまり関係がないと思いますか? しかし、もしイザヤの預言が真実であるとすれば、イエスは今も生きておられる方なのですからあなたの患いも病も背負ってくださることでしょう。あなたを愛しておられるイエスを知っていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2011.10.20放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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http://yonohikari.biblica.info 

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