♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して66年の
「世の光」を文字で 

■あなたのための十字架の愛 / 岩井基雄

2018年04月30日 | Weblog
2018/3/26放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 東京にあるミッションスクールで聖書を教えているのですが、毎年生徒たちと一緒に『塩狩峠』という事実に基づく映画の最後の47分を見ます。それは雪の中、東京から北海道に来た宣教師が神の愛とキリストの十字架を語る場面からです。

 主人公の長野さん(※映画の原作の小説『塩狩峠』では永野信夫、この人物の実話モデルは長野政雄)は、そのメッセージに聴き入り、あとでその宣教師から誰のためにキリストは十字架にかかったと思いますか?と問われます。答えに窮する長野さんに宣教師は、「あなたのためですよ。」と語ります。1900年以上も前の出来事がなぜ自分に関係があるのかと驚く長野さんに、宣教師は続けて、「キリストはあなたの罪のために十字架にかかったのですよ。」と力強く語りかけるのです。心に残る場面です。そのうち長野さんは神の愛とキリストの十字架の意味を深くそして正しく知り、自分の罪を認め、キリストを自分の救い主として信じ、受け入れます。そして彼はキリストの愛を人々に伝え、その愛に応え、キリストのために生きるようにと励ます働きをするようになるのです。

 そんな歩みが続く中、明治42年2月28日、極寒の塩狩峠で連結が外れ、その峠を猛スピードで降る客車を止めるために長野さんは自分の身を投げたです。それは命がけで自分を愛し自分の罪の赦しのために十字架にかかられたキリストの愛に応える愛と勇気の行動でした。実際その時に、30名近い人々のいのちが助けられたのです。

 聖書に次のようなことばがあります。
 「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
          新約聖書 ヨハネの福音書12章24節  (新改訳2017)

 キリストは今から約2000年前に、事実十字架にかけられました。それは一粒の麦のように、全ての人の罪の裁きを身代わりに受けて死に、そして実を結ぶためでした。それゆえ、どんな人であっても、自分の罪を認め、自分のためにキリストが十字架にかかられたことを信じ受け入れる者にキリストの愛といのちは注がれ、豊かな実を結ぶのです。

 あなたも本物の神の愛とキリストのいのちによって生かされ、実を結ぶ人生を歩み始めて行きませんか?

       PBA制作「世の光」2018.3.26放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主よいつまでですか / 羽鳥頼和

2018年04月28日 | Weblog
2018/3/24放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は詩篇13篇から、長く続く苦しみの中にあるときの神への信仰についてからお話しします。

 この詩篇の作者は「主よいつまでですか。」(新改訳2017)と4回(※「いつまで」が1節で2回、2節で2回)も神に尋ねています。自分を迫害する者が自分を破滅させようと攻撃してきています。その苦しみが長く続いていて、このままでは自分は本当に破滅してしまうかもしれません。神はいつまで私を忘れたままなのだろう。私はいつまで悩み苦しまなければならないのだろう。私を迫害する者はいつまでおごり高ぶって私を攻撃するのだろう。作者はそのように思っています。そして「神よ、いつまでですか。」と必死に語りかけるのです。そして神に願います。「私に目を注いでください。私の目を明るくしてください。私が死なないように。」

 目が明るいとは、心が喜び、希望をもってどんな状況でも生きられるということでしょう。神が私のことを見てくださるならば必ず私は救われる、と期待しているのです。そして作者は言います。「私が倒れてしまい、迫害する者が神に対して不遜な態度を取ることがないように私は神の恵みに依り頼みます。私の心は神の救いを喜びます。私は神を賛美します。神は私を必ず救ってくださいます。苦しみ、困難の中にあって神を信頼し、喜び、賛美するというのです。これが信仰です。


 明日は日曜日です。幸せな人生を約束してくださる神を礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。


(PBA制作「世の光」 2018.3.24放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■大切なのは目の高さ / 関根弘興

2018年04月27日 | Weblog
2018/3/23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 迷子が泣いている。さてあなたはその時、どうしますか?
 これはある遊園地で仕事をする人が面接で受ける質問の一つだそうです。
 さてあなたはどうしますか?

 答えはですねえ、まず子どもの目の高さまでひざまずいてにっこりと笑って、「どうしたの?」と聞いてあげることなんだそうです。大切なのは目の高さという訳ですね。

 でも子どもでなくても上から下へと一方的な言い方をされると人は反発してしまいますよね。聖書は、神様は愛なる方です、と記しています。この愛は自らが人として私たちと同じ目の高さにまで降りてきてくださる程の徹底的な愛なのですよと教えています。神なる方が私たちと同じ場に来てくださったお方、その方こそイエス・キリストです。

 イエス・キリストは決して御殿に生まれた訳ではありません。豪邸で教祖様!と呼ばれて過ごした訳でもありませんでした。身分が低く人々からのけものにされていた人たちの目の高さにまで降りて一人ひとりに「私の友よ」と語られ、病む人を癒やし、絶望の中にいる人に平安を語っていきました。でもイエス様の最後は、何とあのむごたらしい十字架刑だったんですねえ。なんという不条理でしょう。徹底的に愛の使徒として歩まれたイエス・キリストは、十字架につけられて殺されてしまったんです。

 でも聖書は、何とその十字架につけられるためにイエス様は来てくださったのですよと教えているんです。一体どういうことでしょうか。

 本来私たちは、みんな罪人です。正しい神様の前にみんな裁きを受けても当然な存在です。しかしイエス様は私たちに代わって一人ひとりの罪をご自分で背負われて身代わりとなって十字架の苦しみを受けられた、と聖書は教えます。私たちはこのイエス様の中に本当の愛を、比べることのできない愛を見ることができるんです。

 聖書のことばをお聞きください。
 第一ヨハネ3章16節
 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

  (PBA制作「世の光」2018.3.23放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

■十戒 -自由への励まし 53 / 大嶋重徳

2018年04月26日 | Weblog
2018/3/22放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
十戒第五戒には「あなたの父と母を敬え」とあります。この戒めは子どもたちに語られた道徳の教えではなく、大人になっているイスラエルの男性たちに語られました。つまり親が年を重ねて自分たちにとって思い出しかないと思ってしまい、自分たちの生活から父母を追い出したくなると思う時に、第五戒はそれでも父と母を重んじ続けるということを聖書は命じているです。

 親の老後にこそ自らが幼い子どもの時に親からひどい扱いを受けた記憶がよみがえり、老いていく親に復讐心から虐待を繰り返すことも起こりやすいものです。その復讐心とも戦うことを第五戒は求めているのです。更に結婚した夫の両親、妻の両親との関係になると複雑さはより深刻になっていくことは言うまでもありません。親子関係ほど自分の感情にごまかしがきかない関係はないのではないでしょうか。

 宗教改革者ルターは大教理問答で、「この戒めを守ることができる人は聖人と呼ばれるのに値する」と言ったほど、父と母を敬うということは途方もなく難しいこととして私たちに迫ってきます。この途方もない思いにさらされるとき、十戒第五戒によって私たちは十戒の序文に連れ戻されていることとなります。

 「わたしはあなたがたを奴隷の地から連れ出したイスラエルの主である」と十戒第五戒を与えられた神は、親を赦せないという思いに縛られた奴隷のような状況から連れ出してくださる神です。神様に愛された私たちは愛されている子どもらしく神に倣う者となりなさい、と神の子とされました。私たちは神様が父という名前を持つ神であることに希望を置くことができます。私たちの地上の両親がどれだけ未熟なまま私たちを育てたとしても、神様の願っておられる父から受けるべき愛を神様から私たちは与えられることができます。この愛によって育てられていくとき、私たちはいつの間にかこの愛によって育てられ、父なる神に似ていくようになるのです。父なる神の愛に似た愛で誰かを愛せるように変えられていくのです。私たちが神様に何度反抗してもなお赦し続け諦めず愛し続けてくださった父なる神に、その物の味方、物の言い方に少しずつ似せられていこととなるのです。これはどんなに大きな希望でしょうか。私たちはもう愛のない自分を諦めなくてもよいのです。この希望によって今からでも変えられていきたいと思います。
 
   ( PBA制作「世の光」2018.3.22放送でのお話しより )

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■キリストを信じることによって / 福井 誠

2018年04月25日 | Weblog
2018/3/21放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「キリストを信じることによって」です。ガラテヤ人への手紙 2章16節から読んでみましょう。

 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。」(新改訳2017)

ここで律法ということばが出てきます。普通、律法というと旧約聖書、十戒、そんなイメージでとらえる人は多いでしょうね。約30年前にもなると思いますが、敬和大学の学長をしている山田耕太という先生が翻訳されたジェームズ・ダンの「新約学の新しい視点」という本が紹介されて、パウロが語る律法についてキリスト教会でも改めて理解が進んだところがあるように思います。つまり聖書では「先祖の言い伝え」という言い方がありますが、当時のユダヤ人は十戒を守るために更に細かく割礼やら手洗いの儀式、安息日の生活のあり方などを規定したいわゆる生活規範集のようなものを別に持っていて、それを守ることに熱心だったんですね。確かにパウロのみならずイエス様もそういう先祖の言い伝えをモーセの十戒よりも優先させ大事にするユダヤ人の問題点を指摘しています。ただ問題は、新しくイエスを信じ新しくクリスチャンになったユダヤ人がそういう古い宗教感覚や先祖の言い伝えを厳しく守る生活からなかなか解放されず、自分にも他人にも批判的な目を向けていたことです。そこでパウロは、神との関係に入る、つまり救われるために必要なことはイエス・キリストが十字架上ですべてしてくださったその事を信じるだけで十分なのだと教えています。私たちはキリスを信じる信仰によって神に義と認められる、つまり愛されるものとして受け入れられているのだと言うわけですね。

 私はこれだけのことをしている、だから神様は愛し祝福してくださるだろう、という感覚の信仰は、パウロに批判されたユダヤ人の信仰のあり方と同じです。神はキリストにあって既にあなたを認め、愛しておられます。それが本当に分るなら私たちの心には力が溢れて自然に新しい人生を歩み始めることでしょう。信じる者が救われるのです

(PBA制作「世の光」2018.3.21放送でのお話より )

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■生きた方を死人の中に / 板倉邦雄

2018年04月24日 | Weblog
2018/3/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「生きた方を死人の中に」という題でお話ししましょう。 夜に太陽を探す人はいないでしょう。太陽は昼に輝いているからです。同様に、生きた方を死人の中に尋ねることはありません。

 さて、イエス様が葬られて三日目の日曜日の朝です。まだ夜明け前に三人の女性はイエス様の葬られている墓へ急ぎました。三人の女性とは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、そしてヤコブの母マリヤでした。着いてみると大きな入口の墓石は転がされていました。墓の中に入ってみますと、イエス様の身体が見当たらないのです。身体を包んだ亜麻布だけでした。三人の女性たちはご遺体がなくなっているので途方に暮れてしまいました。一体誰が盗んだのでしょうか。

 するとその時です。輝いた白い衣を着た二人の者が女性たちに言いました。「あなたがたはなぜ生きた方を死人の中にたずねているのですか? その方はここにはおられません。よみがえられたのです。あなたがたにお話になったイエス様のことばを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえると仰せられたではありませんか。」 (ルカの福音書24章5~7節参照) 

 イエス・キリストは死者の中からよみがえられたのです。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。私たちの罪の償いをしてくださったのです。それからすべての人がゆく死者の世界、よみへ降ってその死者の世界から帰ってきてくださったのです。よみから帰る、よみがえられた、と言われています。

 イエス・キリストの十字架と復活はキリスト教の中心です。イエス・キリストを信じるすべての人に約束される罪の赦しと永遠のいのちです。イエス・キリストを信じる者は一人も滅びないで永遠のいのちを得ることができるのです。

 イエス様のことばです。
 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。
     ヨハネの福音書11章25節、26節 (新改訳2017)

  (PBA制作「世の光」2018.3.20放送でのお話より )

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■羊飼いのいない羊のよう / 岩井基雄

2018年04月23日 | Weblog
2018/3/19放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。今日は「羊飼いのいない羊のよう」と題して、私たちの姿とキリストの愛についてご一緒に考えましょう。

 弟子たちの疲れを労わるキリストは「休もう」と彼らに声を懸け、共に舟で向こう岸に向かいました。弟子たちはその配慮をどれほど喜んだでしょうか。しかし彼らを見た人々が彼らを追いかけて向こう岸に先に着いたのです。男性だけで5000人、女性や子どもも含めると1万人を超える人々の求めと渇きがそこにありました。目的地に着いた弟子たちは、人々の多さに驚くと共に、「休もう」と連れてきてくれた主が群衆を解散させてくれることを期待していたかもしれません。しかし主は集まった人々をじっと見つめ、そして彼らの心を知り、彼らへの愛を明らかにされたのです。

 聖書はこう語っています。
 「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。
   新約聖書 マルコの福音書6章34節 (新改訳2017)

 人々のケアのために弟子たち以上に疲れを覚えていたのは主ご自身だったでしょう。しかしキリストはどこまでも人々の心と痛みに思いを留められます。彼らの心の深みにあるむなしさや孤独、愛や真実を求める心の渇きを知り、愛を注いでくださるのです。

 羊飼いのいない羊は不安や恐れを持ちやすく危険でもあるでしょう。同様に、様々な恐れや不安、失望や悲しみを抱える私たちをキリストは深く憐れんでくださるのです。この「深くあわれむ」ということばは、はらわたがねじれるほどの思いと熱情を表します。イエス・キリストはあなたに豊かな恵みを与えようと心が引き裂かれるほどの命がけの愛をあなたたにも注いでくださり、愛と真実の教えを与えてくださるのです。

 あなたも、まことの羊飼いであり牧者であるキリストのもとに行きませんか? キリストはあなたを愛し、恵みと祝福を与え、真理へと導こうと待っていらっしゃるのです。

 聖書のことば
 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
    新約聖書 ヨハネの福音書 10章11節 (新改訳2017)

 キリストの愛に生かされていきませんか?

       PBA制作「世の光」2018.3.19放送でのお話しより)

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■エドムの歴史 / 羽鳥頼和

2018年04月21日 | Weblog
2018/3/17放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。今日は旧約聖書 創世記36章1節から19節に記されているヤコブの兄のエサウの子孫についてお話しします。

 創世記36章は1節で、「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。」(新改訳2017) と始めて、エサウが娶った3人の妻たちとその妻たちがカナンの地でエサウに産んだ5人の子どもたちの名を記しています。5人の子どもと共に多くの家畜や財産を持つことができたエサウは弟ヤコブから離れてセイルの山地に住みました。エサウとその子孫はそこに住みつき、彼らはエドム人となりました。聖書はセイルの山地に移り住んだエサウの子孫たちの系図を記していきます。

 聖書がここで、イスラエル民族ではない、このようにエドム人の歴史を記しているのには理由があります。それは以前の神の預言がその通りなっていることを教えるためです。以前、神はエサウの母リベカに預言して言いました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。」(創世記25章23節 新改訳2017) 
 二つの国民とはエサウの子孫であるエドム人とエサウの弟ヤコブの子孫イスラエル人のことです。さらに神はエドムとイスラエルについて、このように預言しています。
 「一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」(創世記25章23節 新改訳2017) 
 「兄が奮い立つなら兄は自分の首から弟のくびきを解き捨てるであろう。」(創世記27章40節参照) 
 これは兄エサウの国エドムが弟ヤコブの国イスラエルに支配され、後には独立する事の預言です。神はエドムにも心を留めておられたのです。

 心を留めてくださる神に詩篇の作者は語っています。
 「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。・・・
  あなたは人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。

    詩篇8篇4節、5節  (新改訳2017) 

 神はあなたにも心を留めてくださっています。そしてあなたに幸せな人生を与えようと約束してくださっているのです。

 明日は日曜日です。幸せな人生を約束してくださる神を礼拝するために、お近くのキリスト教会にいらしてください。

(PBA制作「世の光」 2018.3.17放送でのお話より )
 
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■祈りを聞かれる神様 / 関根弘興

2018年04月20日 | Weblog
2018/3/16放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 前回までイエス・キリストが教えてくださった主の祈りについてお話をしてきました。 たぶん世界中のどんな人でも今まで一度も祈ったことはないという人は誰もいないでしょうね。何らかの形で祈るという経験をしてきたと思います。しかし多くの場合、誰に祈るのか?と問われた時、困ってしまう場合が多いかもしれません。誰に?って言われても分りませんよ、ということになってしまうことが多いんですねえ。

 お正月には沢山の人が初詣に出かけます。しばらく前に、私はラジオの番組の取材を兼ねて、初詣に来られた方々にインタビューをしたことがありました。「すいません。どんなことをお祈りされましたか?」 「そうねえ、健康のためかな。」「商売繁盛するようにね。」 受験生は、「希望校に合格することです。」こんな答えが返ってきました。でも私が聞いた誰一人、「新しい年をまず感謝をささげるために来ました。」と答えた人は誰もいませんでした。私も意地悪く、「どうでしょうねえ、お願いしたことは叶えられそうですか?」と尋ねると、「そうねえ、どうかなあ、分かんないなあ。まあ賽銭少なかったからダメかなあ・・・」 まあいろんな答えで返ってきました。

 人はみな祈ります。しかし祈る対象やその祈りの確信を持つことはなかなか難しいようですね。新約聖書の第一ヨハネ 5章14節から15節にはこう書かれています。
 「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」(新改訳2017)

 聖書の神様は、あなたの願いをちゃんと聞いてくださると約束しているんです。もちろんそれは何でもかんでも自分が思うように叶えらるということではありません。あなたの自分勝手な祈りに対しては神様は「ノー」という答えを与え、あなた自身の姿を点検する機会となっていくでしょう。またある時は、「少し待ちなさい」と、祈ることを通して忍耐を教えられるでしょう。もちろん祈った祈りを神様は耳を傾け具体的な答えを与えてくださるお方です。だから私たちは神様を心から信頼し、いつでもどこでもどんな時でも、「天のお父さん」と祈りの声をあげることができるんです。祈りを聞かれる神様がいてくださるからです。

  (PBA制作「世の光」2018.3.16放送でのお話しより)

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 さてあなたはどうしますか?

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 でも子どもでなくても上から下へと一方的な言い方をされると人は反発してしまいますよね。聖書は、神様は愛なる方です、と記しています。この愛は自らが人として私たちと同じ目の高さにまで降りてきてくださる程の徹底的な愛なのですよと教えています。神なる方が私たちと同じ場に来てくださったお方、その方こそイエス・キリストです。

 イエス・キリストは決して御殿に生まれた訳ではありません。豪邸で教祖様!と呼ばれて過ごした訳でもありませんでした。身分が低く人々からのけものにされていた人たちの目の高さにまで降りて一人ひとりに「私の友よ」と語られ、病む人を癒やし、絶望の中にいる人に平安を語っていきました。でもイエス様の最後は、何とあのむごたらしい十字架刑だったんですねえ。なんという不条理でしょう。徹底的に愛の使徒として歩まれたイエス・キリストは、十字架につけられて殺されてしまったんです。

 でも聖書は、何とその十字架につけられるためにイエス様は来てくださったのですよと教えているんです。一体どういうことでしょうか。

 本来私たちは、みんな罪人です。正しい神様の前にみんな裁きを受けても当然な存在です。しかしイエス様は私たちに代わって一人ひとりの罪をご自分で背負われて身代わりとなって十字架の苦しみを受けられた、と聖書は教えます。私たちはこのイエス様の中に本当の愛を、比べることのできない愛を見ることができるんです。

 聖書のことばをお聞きください。
 第一ヨハネ3章16節
 「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

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