♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■イエス様の権威 / 関根弘興

2022年04月30日 | Weblog

2021.10.23放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしですか? 関根弘興です。
 イエス様は十字架につけられ、3日目に復活されました。そしてイエス様は弟子たちにこう言われました。マタイの福音書28章18節

 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

 イエス様はご自分に権威があることを様々な形で示してこられました。例えば当時の学者たちが驚くほど権威を持って人々に教えられました。病気の人を癒やし、様々な束縛の中にある人を解放し、また自然界さえも支配する権威があることを示されました。

 それは、ご自分が神に遣わされた神の子であり、真の救い主キリストであることを明らかにするためでした。

 そしてイエス様は十字架にかかり、3日目によみがえることによって、ご自分が本当の罪の赦しと永遠のいのちを与える権威を持つ救い主であるということを、はっきりと証明されたのです。

 そしてイエス様は弟子たちを全世界に遣わす前に改めて、「わたしには天においても地においても、一切の権威が与えられています。」とお語りになったのです。

 弟子たちはこれから様々な困難や激しい迫害を経験するでしょう。しかしイエス様は「わたしには一切の権威が与えられているのだから、わたしを信頼し、生きていけば大丈夫だ。わたしからあなたがたを奪うことのできるものなど何もない。あなたがたに与えられた救いは決して失われることはないのだ。」そう語りかけているようですよねえ。

 ところでイエス様は、「わたしには一切の権威が与えられている」と言っておられますね。でもイエス様は神なるお方なのですから権威が「与えられている」ではなくて、権威を「持っている」と言ってもいいではありませんか。

 しかしイエス様は、神としての立場を捨てて私たちと同じ人となり、人としての模範を示してくださいました。

 イエス様の権威は、威張り散らしたり、人々を思いどおりに支配したり、無理強いするための権威ではありません。イエス様の権威は、父なる神様のみこころに従うことにより与えられる権威、つまり私たちを愛し、救い、生かし、養い、導くという神様のみこころを行うために用いられる権威なのです。

 このイエス様の権威のもとに生きるとき、平安と希望と喜びが豊かに与えられていくのです。

      (PBA制作「世の光」2021.10.23放送でのお話しより)
 ***

さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■わたしを愛するか? / 関根弘興

2022年04月29日 | Weblog

2021.10.22放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 復活されたイエス様は、弟子たちに三度ご自分を現してくださいました。一回目と二回目のときは、弟子たちがエルサレムに滞在している時でした。そして三度目は、ガリラヤ湖畔で、イエス様はご自分を弟子たちに現してくださったのです。

 その時、弟子たちは漁に出ていました。でも夜通し漁をしても一匹も取れませんでした。しかし夜が明けるとイエス様が岸辺に立って、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば捕れます。」と言われたのです。するとどうでしょう、大量の魚が捕れたのです。弟子のヨハネは思わず「主です!」と叫び、ペテロはわざわざ上着をまとって湖に飛び込んで岸まで泳いでいきました。ペテロは大変律儀で面白い男ですよね。

 そんなペテロにイエス様は「この人たちが愛する以上に、わたしを愛しますか。」と三度質問されたのです。するとペテロは、「主よ、あなたはすべてをご存じです。」と答えました。以前のペテロなら「はい、もちろんです。」と胸を張って答えたでしょう。しかしペテロは、イエス様が逮捕された時、「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」「イエスなど知らない」と三度も否定してしまいましたよね。ですから、今は「はい、主よ。私があなたを愛することはあなたがご存じです。」としか答えられませんでした。

 ペテロはこのガリラヤ湖畔で、自分がイエス様の弟子として従う決心をした以前のときのことを思い出したことでしょう。そしてイエス様と過ごした約3年の様々な出来事を思い起こしたに違いありません。そして今、彼は自分のありのままの心を主に見ていただくしかないと感じていたのでしょう。「主よ、あなたはすべてをご存じです。」と答えるだけでした。

 でもこれは決してペテロだけのことではありませんね。私たちは時には自分の気負いや勢いで「イエス様、あなたを愛することなら誰にも負けません!」と威勢のいい告白をすることがあるかもしれません。でも失敗や弱さのゆえにうなだれてしまうこともあります。

 でもそんなとき思い出してください。私たちの主は私たちのありのままの姿を知り、受け入れてくださっているということです。ですから、「私は弱さも欠けもありますが、主よ、私があなたを愛することはあなたがご存じです。」と告白していこうではありませんか。

      (PBA制作「世の光」2021.10.22放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■ガリラヤ湖での顕現 / 関根弘興

2022年04月28日 | Weblog

2021.10.21放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 イエス様は十字架につけられたあと、3日目に復活なさいました。そして、弟子たちに三度ご自分を現してくださいました。

 一回目と二回目のときは、弟子たちがエルサレムに滞在しているときでした。そして、その後、弟子たちの多くがガリラヤ湖に戻っていきました。ガリラヤ湖で、イエス様はご自分の姿を現してくださったのです。それが、三回目の出来事でした。

 弟子たちはエルサレムで復活のイエス様にお会いした後、なぜガリラヤに戻ってしまったのでしょう。それはイエス様が弟子たちに以前、ガリラヤに行くようにと指示していたからです。では、どうしてイエス様はわざわざエルサレムから遠く離れたガリラヤで弟子たちに会おうとなさったのでしょうか。

 これには、大切な意味があるのではないかと思うのです。弟子たちが復活したイエス様に最初にお会いしたのはエルサレムでした。その時、エルサレムはユダヤ最大の祭りの最中で、特別な宗教的雰囲気と熱気に満ち、町全体がまるで聖なる場所のように感じられたはずです。日常からかけ離れた特別な一週間だったことでしょう。皆さんも経験があると思いますが、例えば礼拝に出席して心から賛美をしているうちに何か心に平安が満たされて感謝と喜びが溢れてくるということがありますよね。でも家に帰った途端、現実の日常が待っているわけです。家事や仕事に追われ、つい愚痴は出るし、イライラもしてしまいます。「あれっ? 主は本当にここにおられるのかなあ。」と思わず疑ってしまう、そんなこともありますよね。

 しかし、ガリラヤはエルサレムから遠く離れた弟子たちにとって親しみのある、これ、日常の場所でした。弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師でした。そして、このときも彼らは漁に出ていたのです。そんな彼らの生活の場にイエス様はご自分を現してくださいました。

 イエス様は特別な時に特別な場所にだけおられる方ではありません。ごくありふれた生活の日常の場で、ご自分を現してくださるお方です。またガリラヤはイエス様が最初に公の活動を開始された場所です。弟子たちの多くはこの場所でイエス様を信じ、従うようになりました。弟子たちの原点ともいえる場所です。その場所でイエス様は弟子たちとお会いになったのです。

      (PBA制作「世の光」2021.10.21放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■見ずに信じる者の幸い / 関根弘興

2022年04月27日 | Weblog

2021.10.20放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 イエス・キリストは十字架につけられたあと、3日目に復活なさいました。その日の夕方、イエス様は弟子たちの前にご自分の姿を現されたのです。

 ところがその時、弟子の一人であったトマスだけはその場にいませんでした。トマスは「私はこの目でイエス様の手や脇腹の傷を見、この手でその傷に触らなければ決して信じない。」 こういう風に言ったのです。

 しかしその8日目のことでした。イエス様はこのトマスにも現れてくださったのです。イエス様はトマスに、ヨハネの福音書20章29節で「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われたのです。

 実はこのイエス様のことばはよく誤解されます。「トマスのように疑い深い態度では良くない。見なくても信じる素直な人にならなくてはならない。」という意味だと考える人が多いのですねえ。

 イエス様はここで、見て信じる者と見ずに信じる者を比較して、見ずに信じる者の方は幸いと言っておられるのではないんです。確かにトマスは仲間のことばを信じようとしない頑なさがありました。でも、どうでしょうか。他の弟子たちも、実際に自分たちの目でイエス様を見るまでは信じることはできなかったのです。トマスだけが特に疑い深かったわけではありませんでした。弟子たちは見たから信じたのです。

 実は弟子たちがイエス様を実際に見ることはイエス様の復活を証明するためにどうしても必要なことでした。彼らはイエス様と共に生活をしてきたわけですから、復活されたイエス様にお会いしたとき、すぐにこの方がイエス様だと分かりました。そして、はっきりと証言することができたのです。そして、弟子たちはイエス様の復活の目撃証言者となって世界中の人々に宣べ伝えていきました。

 しかしイエス様の弟子たちは、今は皆、天に召されていますよね。しかし、イエス様が復活された目撃証言は、聖書を通してはっきりと知ることができるのです。ですから、実際の目でイエス様を見なくても弟子たちの証言を聞いて、イエス様が復活された真の救い主であると信じることができるんですね。見ずに信じる者の幸いは、私たち一人ひとりに差し出されている幸いなのです。

      (PBA制作「世の光」2021.10.20放送でのお話しより)
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■使命に生きる平安 / 関根弘興

2022年04月26日 | Weblog

2021.10.19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 イエス様は、十字架につけられたあと、3日目に復活なさいました。その日の夕方、イエス様は、弟子たちの前にご自分の姿を現されたのです。そして、失意と恐れの中にいた弟子たちに「平安があるように」と語りかけてくださいました。

 イエス様が「平安があなたがたにあるように」と言われたとき、イエス様はご自分の手と脇腹を示されました。イエス様の手は十字架に打ち付けられたときの釘の跡が、そして、脇腹には兵士の槍で突き刺された傷が残っていました。イエス様はご自分が十字架にかかり血を流されたことを弟子たちに改めて示されたのです。そして弟子たちは復活されたイエス様が確かに十字架につけられ血を流された方であるということをはっきりと知ることができたのです。

 イエス様が十字架上で流された血は私たちの罪の赦しのためでした。新約聖書のヘブル人への手紙9章22節には「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」と書かれています。また、ヨハネの手紙第一1章7節には「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめてくださいます。」と記されています。ですから、イエス様が「平安があなたがたにあるように」と言われたことばの中には、「この手の跡を見なさい。脇腹を見なさい。あなたがたの罪が赦されるために、わたしは十字架で血を流した。だから、今、あなたがたの罪は赦されている。安心しなさい。」という大切なメッセージが込められているのです。

 赦されていることを知ると平安が生まれます。イエス様の十字架によって完全な赦しが宣言されているのですから、私たちは安心して神様の前に出て、神様を「天のお父様」と呼び、親しい関係の中に生きていくことができるのです。

 そしてイエス様は続けて「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」とお語りになりました。つまり、「わたしがあなたがたを遣わすのだから、これから安心して生きていきなさい。」ということですね。

 弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸を締め切り、自分の人生はおしまいだと考えていました。しかし、イエス様は「あなたがたには、使命がある。目的がある。」と語りかけてくださったのです。そしてあなたにも、「わたしの恵みと愛を運ぶ器として生きていきなさい」と声をかけられているのですね。

      (PBA制作「世の光」2021.10.19放送でのお話しより)
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■平安あれ / 関根弘興

2022年04月25日 | Weblog

2021.10.18放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
イエス様は、十字架につけられたあと3日目に復活されました。その日の夕方、イエス様は弟子たちの前にご自分の姿を現されたのです。

 弟子たちは、ユダヤ当局者たちを恐れ、戸を締め切っていました。それは自分たちの身も危険にさらされていると思っていたからです。弟子たちは失意と恐れの中にいました。また弟子たちはイエス様が逮捕される前は「何があってもあなたについていきます」と勇ましいことを語っていましたよね。でも、イエス様が逮捕されると、散り散りに逃げ去ってしまいました。ですから弟子たちは「俺たちはイエス様を裏切り、見捨ててしまった」という罪悪感も持っていたことでしょう。

 そんな彼らのところにイエス様は来られ、開口一番こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」と。イエス様は弟子たちに「お前たち、よくもわたしを裏切って、逃げて行ったな。あれだけ世話をしたのに恩を仇で返す者たちめ!」とは言われませんでした。弟子たちを非難し叱責するのではなく、「平安があなたがたにあるように」と語りかけてくださったのです。

 弟子たちはこのことばにどれほど安堵したことでしょう。この「平安」ということばはヘブル語では「シャローム」ということばです。シャロームは今でもイスラエル人のあいさつのことばとして使われています。「こんにちは」も「さようなら」もシャロームです。ではイエス様は弟子たちに「こんばんは」という、ただのあいさつのつもりでシャロームと言われたのでしょうか。

 決してそうではありませんでした。イエス様は恐れと失意の中にいた弟子たちに向かって「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。それは「安心しなさい。もう、恐れることはない。失意の中にとどまることもない。自分を責めることもない。」 このように弟子たちに大きな励ましと慰めを与えることばとして届けられたのです。

 イエス様は「わたしがあなたがたに与える平安は世が与えるものとは違う」と以前、弟子たちに語っておられたとおりでした。

 そして、知ってください。今日あなたの人生にも「平安があるように」とイエス様は語りかけてくださっているのです。この平安は世が与えるものとは違う決して奪われることのない永遠の平安であることをぜひ知っていただきたいと思います。

      (PBA制作「世の光」2021.10.18放送でのお話しより)
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■神に祈った / 福井 誠

2022年04月23日 | Weblog

2021/10/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。今日は創世記20章17節から「神に祈った」と題してメッセージをお伝えいたします。

「そこで、アブラハムは神に祈った。神は、アビメルクとその妻、また女奴隷たちを癒やされたので、彼らは再び子を産むようになった。」

 昨日、この世界は目に見えるところのみならず、また身近な人間関係だけで動いているわけではなく、神の手の中にあって動かされていることをお話ししました。

 そうであればこそ、その神を恐れる人もいれば、むしろ安心して神に信頼したいと希望を持つ人もいることでしょう。神を信じることは人間にとって自然な営みですね。

 さて、アブラハムのもう一つのエピソードが描かれています。当時の時代背景であればこそありそうな出来事ですね。アブラハムがゲラルという地方に滞在していた時のこと。その国の王に妻サラが召し抱えられてしまうのです。今の時代では考えられないことでしょうが、当時の部族社会では自分の身を守るものは自分以外にありません。力関係の差ですべて物事が決まっていくのです。アブラハムは旅先のゲラルでは無力な人、自分の身を守ることもできず、要求されるまま妻を差し出すほかなかったのですね。

 けれども、これは象徴的なお話しです。つまり現代の私たちにも同じようなことはいくらでも起こりうるからです。世の中には力関係で自分の思い通りに物事を進められない、あるいは力にねじ伏せられてしまうなど、あるお話ではないでしょうか。大切なのは、このエピソードには、神が介入してアブラハムが助けられたというオチが加えられていることです。

 この一週間、創世記を読み続けながらあなたは何を考えたでしょうか。私は、この地上の出来事に介入される全能の神がおられることをやはり教えられました。神は架空の存在でも神社仏閣に鎮座しておられる方でもなく、私たちの具体的な生活に介入されるお方です。神を信じる人生には希望があるのです。

 では、今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.10.16放送でのお話しより )


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■うしろを振り返ってはいけない / 福井 誠

2022年04月22日 | Weblog

2021/10/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は創世記19章17節から「うしろを振り返ってはいけない」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「彼らを外に連れ出したとき、その一人が言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。』」

 アブラハムの時代、死海の沿岸にソドムという町がありました。そこは今でいえばネオンの輝く遊興の町でした。神は不法と堕落に満ちたこの町を滅ぼそうと考えておられたのです。

 ところが、そこにはアブラハムと別れて住み着くようになった甥のロトがいました。神はロトに主の使いを遣わし、もうじきこの町が滅ぼされるのでこの町から脱出するようにと命じられます。しかしロトは迷いました。娘婿たちにもこの神の使いの話は冗談のように思われたとあります。確かにその気持ちはよくわかりますね。

 すると主の使いたちは、手をこまねいているロトと妻と二人の娘の手をとって彼らを町の外へと引っ張り出すのです。何か強引ですが、その町は警告されたとおりに滅んでしまいました。

 この物語を私たちはどう受けとめたらよいのでしょう。新約聖書を読むと、イエスがこの物語を引用して、この世界が終わる主の日のことをお話ししています。イエスは「その日が来たらロトの妻のように振り返ってはいけない。神のことばを信じて逃げなさい。」と語られました。つまりイエスは、ロトの物語と同じように神がこの世界に介入されるときがあることを語っているのです。教えられるべきことは、この世の中には神が手を下すことがあるという心の余地を持つことでしょう。

 実際、私たちの世の中は、どう考えても目に見えるところだけで、また身近な人間関係だけで動いているわけではないようですねえ。自分たちの力を超えた何かが働いていて時代が動いていくと思わざるを得ないことがあります。いや、神がこの世界を支配し動かしておられるという信仰をそこで持つべきではないでしょうか。

 では、今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.10.15放送でのお話しより )


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■主にとって不可能なことがあるだろうか / 福井 誠

2022年04月21日 | Weblog

2021/10/14放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日は、創世記18章14節から「主にとって不可能なことがあるだろうか」と題してメッセージをお伝えいたします。

 ヘブロンから西へ2.5キロほど行った所に「アブラハムの樫の木」と呼ばれる一本の老木があります。聖書が言う「マムレの樫の木」とされているものです。この日、アブラハムはマムレの樫の木のそば、天幕の入り口に座っていて、妻サラは天幕にいました。

 そこに三人の人が現れました。一般に、この三人の人は神と二人の天使であったのではないかと説明されているところです。聖書の神は行動される神ですね。一昨日は、社会に埋もれて消え去っていくハガルを見つけ出す神について教えられましたが、今日の箇所では再び、人を訪ねる神について語られています。

 さて、アブラハムは三人の人に気付くと、当時のもてなしの風習に従って、足を洗う水を用意し、木の下で休むように勧めています。そして、パン、子牛、凝乳の料理を旅人たちに差し出しました。

 するとこの訪問者はもてなしてくれた妻サラに、子どもが授けられる約束を告げるのです。しかし既に老齢となってしまったサラには、それが何ともおかしく思われたのでしょう、思わず心の中で笑ってしまうんです。すると神は言います。「主にとって不可能なことがあるだろうか。」

 昨日もお話ししましたように、聖書の神は全能の神です。そして信じられない思いを抱えながらも神の全能性に寄りすがって生きていくのが信仰です。神が約束されたことは不可能と思われる事であっても実現すると神に信頼し続けることですね。

 もちろん不可能なことがすべて神の御力によって可能になるわけではないでしょう。神は貪欲な人間の欲望にお付き合いなさるお方ではありません。けれども、神は約束されたことを途中で投げ出すようなお方でもありません。大切なことは、自己中心ではない正しい願いを神にささげることですね。

 では、今日も良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.10.14放送でのお話しより )


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■代々にわたる永遠の契約 / 福井 誠

2022年04月20日 | Weblog

2021/10/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。創世記17章7節から「代々にわたる永遠の契約」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。」

 17章は、昨日お話しした出来事から約13年後のこと。アブラムが99歳の時のお話しです。この時、アブラムは「神様は何でもできるとはいうが、やはりできないこともある。妻サライの言うとおりに奴隷ハガルの子をもって本当に良かった」と思い始めていたのではないでしょうか。

 そんなアブラムに再び神がご自身を現わされます。このとき神はご自分を全能の神と呼び、アブラムに子孫が与えられると再び語られるのです。アブラムは神にひれ伏し、顔を伏せながら笑ったとありますね。信仰の父と呼ばれたアブラムも、神のことばに冷めた思いになっていたことがあったのです。

 アブラムは言いました。「どうか、イシュマエルが祝されますように」と。

 すると神は「そうではない」とさらにしつこく言うのです。「いや、あなたの妻があなたに男の子を産む。そして、あなたとは永遠の約束を交わそう。」と。

 確かに100歳の者にまた90歳の妻に子どもが生まれるなど全く不可能でしょう。そのように神に言われることは嬉しいことであっても受け入れがたいことです。

 しかし聖書は、私たちに信じるようにと語りかける神は全能の神であると語るのです。そして、思いつきでもまた死んだらそれまでというものでもない、永遠の契約を結ぶと言います。つまり、約束されたことは永遠に守り通すと語るお方です。

 やがてアブラムは、この神のことばが真実であること、また神が全能であることをその人生を通して体験するようになります。信仰の父アブラムは、神を強く信じた人というよりは、何とも頼りない信仰を神に支え続けられた人なのですね。

 神のことばを聞いたなら、思いはついていけなくても従っていく心を持つ、これが大事です。

    ( PBA制作「世の光」 2021.10.13放送でのお話しより )


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