お元気でいらっしゃいますか。世の光の榊原 寛(ひろし)です。
京都大学の霊長類研究所教授をされてらっしゃる正高信男(まさたかのぶお)さんはですね、少年犯罪についてこんなふうに言ってるんですね。凶悪としか言いようのない少年犯罪が頻繁に報ぜられるようになって久しい。それらに対して、なぜと問いかけても答えが見つかることは少ないようだ。そのたびにマスコミは「心の闇」といった表現を用いる。しかしこういった発想は本質を見謝っている気がしてならない。正岡子規の表現を借りるならば、「一匹の人間としてこの世に生を受ける。その後成長していく中で、ことばによって思考していく術(すべ)を普通は学んでいく。ところが成人してなお一匹として暮らす者の数が急増しつつあるらしい。」こんなふうに言っているんですねえ。ま、成人してなお一匹として暮らす者というのは、つまり人間としての一人ではなくて哺乳動物の一匹としてということなんでしょうか。犬やネコの方がましじゃないかというなことばがありますが、学校で知識は詰め込まれていく訳ですけれど、ことばによって思考して心で受けとめていく術(すべ)を身につけることができないまま体が成長していくんでしょうか。人間が他の動物と異なる点は火を用いることとか道具を用いることとか着物を着ることとか話すこと聞くこと、そんなことがあげられますよね。ことばを使うのは人間だけです。
新約聖書のローマ人への手紙の1章の20節には、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性--神の性質ですね--は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」こんなふうなことばが書かれています。実はここにですね、人間がことばを失い、心を失った原因が記されていると思います。それは造り主である神を神としてあがめず感謝もしない、人間の傲慢な姿ではないかと思うんです。したがってその思いは空しくなり、 その無知な心はますます暗くなってしまったという訳ですねえ。これはもう少年だけではなくて、今の日本全体がそうじゃないかと思います。信心する心の尊さを言いながら、まことの神・天地万物の造り主、そしてすべてのものにいのちを与え生かしておられる神、そして私たちのために身代わりとしてキリストのいのちをかけて愛しておられる神を神として生きていかない。ここに大きな原因があるのではないでしょうか。
(PBA制作「世の光」2005.6.30放送でのお話しより )
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