♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■仰ぎ見る者は生きる / 関根弘興

2018年11月30日 | Weblog
2018/10/26放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書のヨハネの福音書3章に、ニコデモという人がイエス様の元を訪ねてきた時のことが記されています。イエス様はニコデモに、「人は神様によって生まれなければ神の国を見ることができない。」と言われました。ニコデモはイエス様の語られた事をなかなか理解することができなかったんですねえ。

 そこでイエス様はニコデモがとてもよく知っている旧約聖書の民数記という所に書かれている出来事を引用して話されました。どんな出来事かと言いますと、昔モーセに導かれてエジプトの奴隷状態から脱出したイスラエルの民が荒野を旅をしている時でした。彼らは荒野の生活に我慢できなくなって、神様とモーセに逆らって文句を言い始めたんです。すると毒蛇が出てきて人々に噛み付き、多くの人が苦しんでいったんですねえ。

 民がモーセに、「私たちは罪を犯しました。蛇を取り去ってくださるように神様に祈ってください。」と言ったので、モーセが祈りますと、神様は不思議なことを命じられました。「青銅で蛇を造り、旗ざおの上につけよ。すべて噛まれた者はそれを仰ぎ見れば生きる。」 こう言われたんです。モーセはすぐにその通りにして、「この青銅の蛇を皆さん、仰ぎ見てください。そうすれば救われますよ。」と叫んだんですね。そこで毒蛇に噛まれて苦しんでいた人々がその青銅の蛇を見上げると、何と命が助かったというんです(民数記21章9節参照) 。

 イエス様はこの出来事を引用して、続けて「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章14節、15節) と言われたんですねえ。

 この天から下った人の子とはイエス様ご自身のことです。そのイエス様が上げられるとは、後に十字架につけられるということを意味してるんですね。

 昔、旗竿につけられた青銅の蛇を仰ぎ見た人が生きたように、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見る者は生きる、救われると語られているんです。十字架につけられたイエス様と私たちと間に何の関係もないように見えますよね。でも聖書は、イエス様を仰ぎ見て信じるならば救われる、信じる者は救われるのだ、とはっきりと約束されたんです。人は救い主イエス・キリスト信じることによって新しく生まれ、神の国に入ることができる。聖書が教えるそれが救いの道です。自分の力ではなく神様ご自身の働きによるのです。

     (PBA制作「世の光」2018.10.26放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし82 姦淫してはならない / 大嶋重徳

2018年11月29日 | Weblog
2018/10/25放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒の第七戒には「姦淫してはならない。」(出エジプト記20章14節 新改訳2017)とあります。

では神様はなぜ姦淫の罪を禁じられたのでしょうか。姦淫の罪がもたらすものは夫婦の交わりの破壊があります。創世記には最初の夫婦が出てきますが、この夫婦は罪を犯し、神に造られた姿から堕落しました。堕落はすぐさま夫婦関係に影響を及ぼしました。最初の人アダムは「なぜ罪を犯したのか」と神様に問いかけられた時、「あなたが置いたこの女が」と自分の罪の原因を妻のせいにしたのです。夫婦関係が壊れました。罪は人間関係を壊します。

 そして姦淫の罪は決定的に夫婦関係を破壊します。ここには愛の裏切りがあり、約束の破綻があります。そして時に伴侶の深い絶望や自殺をも生み出すことさえ起こります。旧約聖書に出てくる王様ダビデと自分の部下の妻バテシェバの夫の死をもたらし、更には生まれた子どものいのちにまでその罪は及びました。

 更にダビデの妻ミカルとその子アブシャロムは父ダビデに対して激しい憎しみを持つようになり、やがて父と子の殺し合いにまで発展する事となりました。

 姦淫の罪は夫婦のみならず親子家族などの共同体の破壊も起こします。更に、「父と母を敬え」という第四戒の導く従われやすい父、敬われやすい母であることを放棄することとなります。そして言うまでもなく教会の中で犯されてしまった姦淫の罪は教会共同体を激しく揺さぶります。特に牧師の罪は歴史の中で幾度となく起こり、キリストの教会を激しく傷つけてきました。姦淫の罪は共同体に決定的に傷をもたらしてしまうのです。

 私たちは神の愛されている家族、共同体を守る責任があります。愛に生きる責任があるのです。愛し合う家族を壊すのではなく、私たちは守りたいのです。そのために大切な事は、自分の中に愛のないことを認めることです。自分の罪を人のせいにするのではなく、その罪を認め、神の愛と赦しに生かされることです。そしてその神の愛と赦しに深く捕えられ、今度はその愛で自分の大切な家族を愛し始めるのです。あなたは神からその愛を受け取らなければいけません。この神の愛は傷ついているあなたの心を癒します。そしてあなたを愛する者へと造り変えてくれるのです。

    ( PBA制作「世の光」2018.10.25放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■主の命により / 福井 誠

2018年11月28日 | Weblog
2018/10/24放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主の命により」です。
 民数記4章49節から読んでみましょう。
 「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った。主がモーセに命じた、主によって登録された者たちである。」(新改訳2017)

 民数記に入りましたねえ。民数記はこの書物の最初と最後に二回人口調査があるので、人口つまり民の数を数えるという意味で民数記と呼ばれるようになったものですねえ。しかし実際のヘブル語の聖書では冒頭のことば「べ・ミドバール」がタイトルになっていて、それは「荒野にて」を意味しています。つまり荒野での40年間の出来事を記録したものだからです。実際、民数記は出エジプト記の続きもので、特に出エジプト記に書かれた最後の出来事から1ヶ月後のことから書き始められているのです。

 イスラエルの民はエジプトを脱出した後に、40年約束の地カナンの手前の荒野で過ごしました。民数記はその記録ですが、厳密な日誌ではなく重要な事柄をピックアップした記録で、霊的な教訓を物語る内容となっていますね。ですから民数記はしばしば新約聖書に繰り返し引用されています。

 例えばパウロは、第一コリント10章の中で民数記25章の偶像崇拝に対する神の裁きを取上げ、「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(10章11節 新改訳2017 )と語っています。

 同じようにヘブル人への手紙の著者も不信仰を戒めるものとして民数記を引用しています。民数記が神の民を約束の地カナンに向けて整えていくことを目的として書かれたとするならば、現代のキリスト者にとってそれはやがて来る約束の天カナンに向けて心を整えられるために読むべきものと言えるでしょう。そういう意味でこの箇所の重要な教えは神が与えられた秩序を大事にすることです。主に命によりモーセを通して任じられた奉仕に就く、つまりモーセを指導者として認め従うことで民全体が神の福に与ることが語られています。今日の教会も同じでしょう。神が立てられた指導者と共に自らの責任を果たすことで教会全体が祝福を受けるのです。

(PBA制作「世の光」2018.10.24放送でのお話より )

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■心を一つにし / 板倉邦雄

2018年11月27日 | Weblog
2018/10/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「心を一つにし」という題でお話ししましょう。
 
 夫婦二人でありましても心を一つにすることは難しいことです。まして何千人の人々が心を一つに思いを一つにしたというのです。一体どのように心を一つにしたのでしょうか。

 さて使徒の働き4章32節にはこう書いてあります。
 「信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。」

 心を一つにする秘訣は、一つのものを信じるということにあるようです。唯一の神様を信じる信仰、唯一の救い主であるイエス・キリストを信じる信仰です。同じ信仰を告白できるという共通点において私たちは心を一つにし思いを一つにすることができるのです。私のものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、そして私たちのものはみんなのものとなるのですね。信じた者の群の中に乏しい者は一人もいなかったのです。エルサレムや近郊に住んでいて地所や家屋を所有している人たちは、それらを売ったものの代金を持ってきて、使徒ペテロに、またヤコブ、ヨハネの足元に置いたのです。

 当時エルサレムには過越しの祭りと春の収穫祭のために外国から来ていた巡礼者がたくさんいました。彼らがイエス・キリストを救い主と信じました。そしてしばらく共同生活をしながらエルサレム教会を使徒たちと一緒に建てあげていました。巡礼者たちの生活、住居の場所、食事代が献品や献金によって賄われたのです。そしてそれぞれの必要に応じて誰にでも分け与えられた、と書いてあります。

 さて、心を一つにすることができれば私たちは持ち物を共有することができるのです。それができるのは私たちではなく主なる神様ではないでしょうか。人にはできないが神にはできるのです。イエス・キリストを信じる信仰の一致によって心を一つにし、思いを一つにして、この世で互いに助け合って行きたいと願っています。

  (PBA制作「世の光」2018.10.23放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■女子教育の先駆者 成瀬仁蔵 / 岩井基雄

2018年11月26日 | Weblog
2018/10/22放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。第四週の月曜日は歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいますが、今日は愛による女子教育の使命に生きた成瀬仁蔵について学んでみましょう。

 先月は日本の最初の牧師として歩んだ澤山保羅(ぽうろ)について学びましたが、成瀬仁蔵は澤山保羅と共にキリスト教女子教育に携わっていくのです。仁蔵は1858年安政5年、澤山と同じく長州の吉敷村で生まれました。仁蔵は明治9年に山口県教員養成所を卒業し、県内の小学校で教鞭を取ります。しかし規則に縛られた教育に疑問を感じ、自己の信念に基づく新しい教育をしたいと願う中、アメリカ留学後に吉敷へと一時帰郷していた澤山に会うのです。仁蔵は澤山の生き方と教えに深い感動と共鳴を覚え、澤山が信じる神様を自らも信じ、聖書を学び、自分の罪を認め、信仰を告白し洗礼を受けました。澤山が大阪で牧師をしつつ創立した梅花女学校の教師として仁蔵も教壇に立ちます。澤山は病身をおして各地へ行き人々に神様の愛を語りますが、病は進み約34歳で神様のもとに帰っていったのです。
 澤山の死後二ヶ月して、仁蔵は神様の愛の使命に立つ新潟女学校を開校します。しかしこの頃、キリスト教系の学校の経営は厳しくなりつつありました。そこで仁蔵は明治23年、今後の方向を求めてアメリカに渡り、神学校や大学で女子教育を研究し、大学の必要性を痛感します。そして帰国後、仁蔵は女子高等教育機関の設立に奔走し、明治34年、ついに日本初の女子総合大学・日本女子大学校の創設を果たします。小さく弱い存在にも学びと愛を届ける使命を仁蔵は澤山から引き継ぎ、『女子教育』という本も出版し、満60歳で亡くなるまで、神様に喜ばれる生き方をと女性の教育発展に力を尽くしました。

 聖書のことば
 「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
    新約聖書 エペソ人への手紙3章19節 (新改訳2017)

 思いをはるかに超えた神様の恵みと愛の御計画に信頼を置いて私たちもまた歩ませていただきましょう。

 (PBA制作「世の光」 2018.10.22放送でのお話より )
 
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■聖霊の賜物 / 羽鳥頼和

2018年11月24日 | Weblog
2018/10/20放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。

今日は新約聖書コリント人への手紙12章で語られている聖霊の賜物についてお話しします。

 「聖霊」とは神の霊のことであり、「賜物」とは贈り物・プレゼントのことです。「聖霊の賜物」とは信じる人に聖霊なる神が与えてくださる贈り物です。コリント人への手紙はまず、信じるすべての人に与えられる聖霊の賜物を教えています。それは「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(3節)と語って、イエス・キリストを信じる信仰がすべての人に与えられる聖霊の賜物だと教えています。

 続いて聖霊なる神の賜物について大切なことが教えられています。「賜物はいろいろなものがありますが、全てのたまものは聖霊が与えてくださるものです。」(4節参照) そして聖霊なる神が与えてくださる賜物によって人々は様々な働きをすることができます。

 更にそれらの働きは全ての人々の益となります。全ての働きが全ての人々のために役立つのです。

 そして聖霊なる神による働きは、神の現れであると教えられています。神の現れとは、神がそこにおられて助けておられるということです。人が聖霊の賜物によって働くとき、そこに神がおられ助けてくださいます。

 当時のコリントの教会では、聖霊なる神の賜物にランク付けをして、良いと思う賜物を自慢したり、劣っていると思われる働きがないがしろにされたりしていたようです。それで聖書は、全ての賜物・働きが神から与えられたものであり、互いのためのものであることを教えたのです。

 キリスト教会こそ聖霊なる神が働いておられるところです。教会は聖霊なる神によって一人ひとりがそれぞれに良い賜物を与えられ、その賜物による働きがお互いのための働きとなっています。教会では、聖霊なる神によって全ての人が全ての人にとってかけがえのない大切な人なのです。あなたは神にとってかけがえのない大切な人です。神はあなたが教会に来られることを待っておられます。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.10.20放送でのお話より )
 
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■水と御霊によって生まれる / 関根弘興

2018年11月23日 | Weblog
2018/10/19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 新約聖書のヨハネの福音書3章に、ニコデモという人がイエス様のもとを訪ねた時のことが記されています。イエス様はこのニコデモに、人は神様によって生まれなければ神の国を見ることができない、と言われました。

 しかしニコデモはその意味をなかなか理解することができず、「もう一度母の胎に戻って生まれ直すなんて不可能なことだ。それに私はもう歳を取っているのに。」とイエス様に言ったんですね。

 するとイエス様は、「人は水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません。」(ヨハネの福音書3章5節参照)と説明されたんです。ニコデモが「水」と聞いてすぐ連想することができることは、ユダヤ人の清めの儀式に使われていた水です。水は穢れを洗いきよめるためのものでした。つまり、人は罪に汚れたままでは神様の前に出ることはできない。そういうことをニコデモは旧約聖書からたくさん教えられてきました。また水を浴びることは悔い改めを意味していました。悔い改めるということは神様に背を向けた生き方を反省して、神様の方に向きを変えることです。ですからイエス様が「水によって生まれなければ神の国に入ることはできない。」と言われたのは、人は悔い改めて罪をきよめられなければ神の国に入ることはできないということなんですね。

 でもそれだけイエス様は言われたのではなくて「水と御霊」とも言われました。御霊とは聖霊のことです。聖書の神様は三位一体の神様です。神様は唯一の方ですが、ご自身の内に父なる神・子なるイエス・キリスト・聖霊なる神、三つの位格、まあ人間で言うならば人格にあたるものを持っておられます。そして父と子と聖霊は同じ本質を持ち、常に共働してみわざを行っておられるんです。ですから聖霊は、父なる神様の御心に従って、私たち一人ひとりに罪を自覚させ、救い主なるイエス様を示し、イエス・キリストを信じ新しいいのちを受けることができように助けてくださる方なんです。この聖霊の働きがなければ私たちは新しく生まれて神の国に入ることはできないという訳です。

 聖書は、人が悔い改めて神様に立ち帰ることの大切さを教えています。しかしそれだけではなく、そうしたことの背後に聖霊なる神様が働いているんですよと教えるんですねえ。そして今も聖霊なる神様はあなたに働いてくださるからこそ今も救いを得ることができるんです。

     (PBA制作「世の光」2018.10.19放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし81 姦淫してはならない / 大嶋重徳

2018年11月22日 | Weblog
2018/10/18放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。十戒第七戒には「姦淫してはならない。」(出エジプト記20章14節 新改訳2017)とあります。

 では神様はなぜ姦淫の罪を禁じられたのでしょうか。そしてこの罪を犯すことはどのような結果を私たちの生活にもたらすことになるのでしょうか。

 驚くべきことは第七戒は第六戒の「殺してはならない」に続いて、第八戒の「盗んではならない」よりも先に語られているという事実です。誰もが当然のごとく悪とされる「盗んではならない」よりも先んじて語られるほど、キリスト教信仰では「姦淫してはならない。」は重要視されているのです。

 この重要性の理由は、姦淫は神様に対する裏切り行為となるからです。神様はご自身のかたちに似せて人を造られ、男と女として神様のかたちを表しています。夫婦とされた男女の愛は三位一体の神の前に似せられて、神の愛を基盤にして神の愛を地上に表現するためのものなのです。

 また旧約聖書のマラキ書では、神様は若い時の妻との結婚の際に愛の証人と立っておられると記されています。若い時の妻を裏切る者に対して、幾ら神礼拝を捧げ、祈りを神様になしたとしても神様はその礼拝を受け取ることはしない、と明らかにされています。ここでは神様を礼拝することと自分の夫や妻を愛する事が密接に繋がっているのです。つまり、人生の伴侶を裏切ったり泣かせたりする者は神を愛することとはなっていないのです。礼拝を捧げ、神様を愛しますと言ったとしても、家に帰り、自分の妻を、自分の夫を大切にしないのであれば、その礼拝は口先だけのこととなるのです。このように姦淫の罪を犯すということは神の備えられた礼拝をも汚すこととなり、愛し合う者として造られた神の創造を裏切る行為を行う罪となるのです。

 聖書のいたるところで神とイスラエルの関係や神様と教会の関係が男女の愛で表現されているのは単なる比喩でも喩えでもありません。黙示録には世界の最後、私たちはキリストの花嫁となると書かれています。文字どおり私たちは神との関係において純潔を保ち、神を待ち望むのです。神様と私たちの関係は、自らの夫婦の関係の誠実さにおいて根本的な意味を持っています。その意味でも私たちは今日も妻を愛し夫を愛し神を愛する者とさせられたいのです

    ( PBA制作「世の光」2018.10.18放送でのお話しより )

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■目には目を、歯には歯を / 福井 誠

2018年11月21日 | Weblog
2018/10/17放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「目には目を、歯には歯を」です。
 レビ記24章20節から読んでみましょう。
 「骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。
            (新改訳2017)

「目には目、歯には歯」 聖書をよく知らない人でもこのことばはどこかで聞いたことがあると思う人は多いことでしょう。難しいことばで言うと、同じ害の報復と書いて同害報復の教えとされるものです。報復は同じ程度のものでなければならないという意味で一般には理解されていることでしょう。そして聖書がこの考え方で強調するのは、報復行為において限度を越えてはいけないという点です。

 一時流行ったことばに「倍返し」というものがありました。人にはやられたらやり返すどころか、やられた以上にやり返すという心があるものですねえ。報復はエスカレートするものなのです。しかしそういう心を許してはいけません。報復する時には限度をわきまえなくてはならない。正しいさばきが優先されなければならないと言っているのであって、やられたらちゃんとやり返しなさいと言っている訳ではありませんね。

 つまりこの教えは報復に強調があるのではなくて、罰を与えるにしてもそこに厳正で適正な正義がなければならないということを言っているのです。ですから後にイエスはこの教えを取上げて、「『目には目を、歯には歯を』と聞いているだろうが、悪い者には手向かってはいけない。右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」(マタイの福音書5章38節39節参照 )と語っていますが、それは人間の本質を深く洞察する新しい提案になっていますね。つまり人間は争い易い罪の心を持っているのだから、人間に正義はあり得ない。人間は必要以上の報復を与えてしまうものだから、報復や罰を語っている所に適正な裁きはあり得ない。もし正義があり得るとしたら、報復を越えた愛に立つ以外にないということを言っているのです。ですからイエスは、「『目には目を、歯には歯を』と言われているが、赦しなさい。愛しなさい。」と言うのですね。人間というのは自分たちが自覚する以上に罪深い性質を持った者です。謙虚にそのような性(さが)を覚えて、神の前に立つ歩みへと導かれていきたいものですね。
(PBA制作「世の光」2018.10.17放送でのお話より )

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■彼らが祈り終わると / 板倉邦雄

2018年11月20日 | Weblog
2018/10/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「彼らが祈り終わると」という題でお話ししましょう。
 
 祈りには個人の祈りと共同の祈りというものがあります。今日の使徒の働きの4章の箇所には、共同の祈りの大切な姿が描かれていますね。

 さて、使徒ペテロとヨハネが釈放されて教会の仲間の所に帰ってきました。教会の仲間一同は、この神様がなさってくださったこと、すなわち二人が釈放されたことなのですが神様の働きを聞くと神に向かって声を上げて祈り始めたのです。まさに共同の祈りの開始でした。

 祈りの内容はこのようなものでした。「天と地と海とその中のすべてのものとの造り主なる主よ。」とまず創造と摂理の神に向かって祈り始めました。天と地と海と全ての被造物を造られた神はこの世界を治め支配し処理しておられる摂理の神様です。

 次に、「あなたは私たちの先祖、あなたのしもべダビデの口を通して聖霊によってこう仰せられました。『地上の王たちは立ち構え、支配者たちは徒を組んでなぜキリストに逆らったのか。』 まことにヘロデ王とポンテオ・ピラトとは異邦人らやイスラエルの民と一緒になって聖なるしもべイエスに逆らい、御手と御旨とによってあらかじめ定められていたことを成し遂げたのです。」

 創造と摂理の神様はこの地上の歴史と私たちの心を支配しておられるということへの祈りでしたねえ。主なる神様の計画と御心が成し遂げられるのです。

 そして最後にこう祈りました。「主よ、しもべたちに思い切って大胆にみことばを語らせてください。そして御手を伸ばして癒しをなし、聖なるしもべイエスの御名によってしるしと奇跡とを行わせてください。」

 彼らが祈り終ると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて大胆に神のことばを語り出したのです。

 一緒に祈る共同の祈りこそ、私たちが聖霊に満たされ大胆に神のことばを語る秘訣なのです。

  (PBA制作「世の光」2018.10.16放送でのお話より )

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