♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■人生の宿題 / 岩井基雄

2012年08月31日 | Weblog
2012/8/31放送

世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 今日は8月最後の日ですね。地域によってはすでに夏休みは終わった所もあるでしょうし、今度の月曜日から新学期の地域もあるでしょうね。私は8月の最後の日というと、小学生時代の夏休みの宿題に追われていたことを思い出します。『夏休みの友』というテキストを仕上げるのですが、遊びすぎてしまった夏休みのツケをどっと払わされた苦い思い出です。あなたはどんな思い出がありますか? 

 宿題というと私たち一人ひとりにも人生の宿題があることを思わされます。すべての人が抱えている人生の宿題とは何でしょうか。それは人生をどう終えるか、ということかもしれませんね。

 今は天に帰られたクリスチャン作家の三浦綾子さんは、難病のパーキンソン病にかかり次第に体の機能が失われていく中で仕事を続け、最後まで「私にはまだ死ぬという仕事がある」と頑張り抜かれたそうです。多くの病気を抱えつつも神様にある使命と希望に満ちた三浦綾子さん。その姿からも私たちがどう最期を迎えそしてどのように今を生きるか、人生の宿題・人生の課題が問われますねえ。

 聖書の中に次のようなことばがあります。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
 新約聖書マタイの福音書6章19節から21節

 どんなにこの地上に宝を積み重ねても一瞬にしてそれらが失われることもありますねえ。しかし天に蓄える宝は絶対にそして誰にも奪われることがありません。それどころか天に宝を積むその歩みは現在の地上の歩みも人々と共に喜び愛し合える豊かなものとなるのです。

 自分の人生の最期をどう迎えるかという人生の課題は、自分が何に価値を置き、どこに自分の宝を積んで来たかという課題とも言えるでしょう。

 あなたはいかがですか? 永遠のために生きること、今の歩みを人への愛のために生きること、あなたも人生の課題を一つ一つ成し遂げていきませんか? 

  (PBA制作「世の光」2012.8.31放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■仕える者になりなさい / 福井 誠

2012年08月30日 | Weblog
2012/8/30放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「仕える者になりなさい」です。それではマタイの福音書20章26節から読んでみましょう。

 「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

 イエスが十字架に命を捧げる日が近づいてきた時のことです。弟子たちはそんなイエスの身を案じるよりも自分たちの地位に関心がありました。イエスの語る神の国が実現しそうだから今の内に重要なポストに就けるようにお願いしておこうとでも思ったのでしょう、ある母親は自分の息子の将来を思ってイエスのもとにやってきてお願いします。イエスを弟子である自分の二人の息子が一人は右に、一人は左の位に就くことができるようにというのです。

 神の国で特権的な地位や栄誉を求めるこうした姿にイエスは言いました。

 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」(マタイの福音書20章25節から27節)

 この世の社会では、偉くなればなるほど人の上に立って権力を振り回すものです。しかしイエスはそれはあくまでもこの世の社会でのお話であって神の国ではそうではない。むしろそこは互いに仕え互いに生かされるために支え合う所なのだと言います。そして神の国の住人になるあなたがたは今から仕えること、しもべになることを学びなさいという訳です。

 イエスはまさにそのことを実践し神のしもべとして十字架の死にまで従われました。しかしその謙りによって実に沢山の人の罪が赦され新しい命が注がれるのです。イエスはその十字架の死によって多くの人に愛されその栄誉をたたえられました。

 この世で当たり前と思うことに私たちは注意しなくてはなりません。イエスは私たちに新しい天の御国の価値感を教えています。上に立つよりも仕えることが生み出す栄誉があるのです。権力を振るうよりも仕えることが生み出す栄誉を覚えて歩みたいものですね。

  (PBA制作「世の光」2012.8.30放送でのお話より )

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■うしろ髪を引かれる /  板倉邦雄

2012年08月29日 | Weblog
2012/8/29放送

 光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「後ろ髪を引かれる」という題でお話ししましょう。創世記19章ソドムの町でのロトとその家族の話の続きです。

 さて夜が明けました。二人の旅人すなわち神様の使いはロトを促し急かしました。「さあグズグズしないで奥さんとここにいる二人の娘さんを連れて今の内に逃げるのです。大急ぎですよ。さもないと町ももろとも滅ぼされてしまいます。」

 それでもロトがグズグズしているので二人の旅人はロト夫妻と二人の娘の手をとって町の外の安全な場所に連れ出しました。神様が手を取ってくださるなんて思いやりのあるお方ですねえ。

 そして二人の御使いが言いました。「命が惜しかったら一目さんに逃げなさい。絶対後ろを振り返らないで山の中に逃げなさい。いつまでもこの低地にいると死んでしまいます。」

 ロトは二人の旅人に頼みました。「これまで命を助けてくださるご親切には俺の申しようもございません。そのついでと言ってはなんですが、山の中ではなくあそこに見える小さな村に逃げ込んではいけないでしょうか。山の中は危険ですし、あの村なら遠くないしお願いします。あそこへ行かせてください。」

 「いいでしょう。あの小さな村は滅ぼさないようにします。だが急ぐのですよ。」
 わがままロトの言う事を聞いてくださいました。

 ロトが村に着くとちょうど太陽が昇ったところでした。その時、天から燃える炎の塊がソドムとゴモラの町の上には雨あられのように降りかかりました。死海近くの山の爆発と言われています。平野の町や村は溶岩によって焼き飲み尽くされてしまいました。人も動物も植物のいのちあるものは死に絶えていったのです。

 ロトの妻も夫の後からついて行ったのですが、警告を聞かないで立ちどまって後ろを振り返ったので塩の柱になってしまいました。塩分と多量に含んだ死海火山の爆発だったと考えられています。後ろを振り返りながら後ろ髪を引かれながら人生を走る人はいません。いつも前を向いて走りたいのです。

 聖書のことば

 「私は・・・ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り」  ピリピ人への手紙3章13節と14節  口語訳聖書

 ( PBA制作「世の光」2012.8.29放送でのお話より )

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■素晴らしいどんでん返し / 山中直義

2012年08月28日 | Weblog
2012/8/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。人生をやり直すのに遅すぎるということはない、聖書はそう明日を教えています。今日は「素晴らしいどんでん返し」と題してお話をさせて頂きます。

 旧約聖書ヨナ書という書物にヨナという人物が登場します。このヨナは神様の語りかけに耳を閉ざし自分の思いを優先して神様から離れて生きようとしたと言います。その結果彼は下へ下へと落ちて行き、とうとう嵐の中、海の真ん中で嵐の海へと投げ出されてしまったと言います。海の底へ沈んでいくヨナ。彼の喉は水によって締め付けられ、彼の魂は絶望の底でとうとう衰え果てたと聖書は言います。しかしその絶望の縁でヨナは神様のことを思い出し、心から神様に祈ったと言います。ヨナはこう祈りました。

 「私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」(ヨナ書 2章4節)
ーー私は神様から離れるという罪を犯しましたが、もう一度神様と共に歩みたいのですーー。心をこめてそう祈ったと言います。

 すると素晴らしいどんでん返しが起こったと聖書は言います。神様が大きな魚を用意し、その魚を送り込んでヨナを飲み込ませてくださった。そうしてヨナは魚の腹の中で三日三晩を過ごし、地上へと吐き出された。生き延びることができたというのです。そのときヨナはこう言いました。「救いは主のものです。」(ヨナ書 2章9節)
 自分の思い通りに生きることが良いことではない。神様に聞き従うときにこそ救いは与えられる。素晴らしいことが起こるのだ。ヨナは心からそのように告白することができました。

 人生をやり直すのに遅すぎるということはありません。神様から遠く離れた絶望の縁でも、もしあなたが心を込めて、神様と共に生きたいのですと祈るなら、神様は必ずその祈りに応え素晴らしいどんでん返しを与えてくださると聖書は約束しています。絶望の縁で神様に祈るそのことがあなたの人生を大きく変えることになります。どうぞあなたも神様に目を向け神様に祈ってくださいますように。

(PBA制作「世の光」2012.8.28放送でのお話しより )

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■愛は絶えることはない / 関根弘興

2012年08月27日 | Weblog
2012/8/27放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。

 人が生きていくということはどういうことでしょう。もしあなたの人生から愛ということを全く奪い去ってしまったら果たして生きていけるでしょうか。誰をも愛さず誰からも愛されずには人は生きていくことができません。

 でもこの愛ということばは時々安っぽい響きに聞こえることがありますね。それは条件をつけて愛ということを使う時があるからです。たとえばあなたが美しいから愛しましょう。お金があるから愛しましょう。自分の言う事を聞いてくれるから愛しましょう、と言った具合にすべてを条件づけで決めていくわけです。

 そうなると美しさが色褪(あ)せたら、お金がなくなったら、少しでも反抗的な態度をとったら、もう愛されないということになりますよね。それは本当の愛の姿ではありません。聖書で語る愛の姿ではないんです。

 私たちにとって最も必要なことは、人格として愛されることです。まことの愛は相手を生かそうとします。そして相手の人格を受け入れ存在そのものを肯定していくんです。それはあなたをかけがえのない存在として見つめていくということでもあるわけです。

 新約聖書第一コリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」と書かれています。またこのことばの少し前には、「愛は決して絶えることがありません。」(第一コリント13章8節)と書かれているんです。

 聖書が私たちに教えていることは、あなたの人格そのものを愛するお方がいらっしゃる、それは天地を創造された神様ご自身だと教えているんです。そしてその姿はイエス・キリストがお話した放蕩息子のお父さんの姿のようです。

 財産を湯水のように使い果たし、挙げ句の果てには家畜の餌で飢えをしのぐほどやつれたこの放蕩息子。放蕩三昧したこの息子はふと我に帰り自分の愚かさを認めて父親のもとに帰っていくんです。その時父親はどうしたでしょう。この息子を見つけると走りより、抱き寄せて指輪をはめさせて、大喜びで家に迎えたのです。何の条件もつけず、自分の惨めさを悔いて帰ってきた息子の人格をそのまま受け入れたんですね。それは息子にとっては新しい人生の始まり本当の生きるという事の始まりになっていったはずです。

 「愛は決して絶えることがありません。」(第一コリント13章8節) 神様のあなたへの愛は絶えることはないんです。

(PBA制作「世の光」2012.8.27放送でのお話しより)

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■もう終わりだ / 羽鳥頼和

2012年08月25日 | Weblog
2012/8/25放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 羽鳥頼和です。

 そろそろ夏休みが終わっちゃうよー、と夏休みが終わることを残念がる子ども達の声が聞こえてきそうです。私たちの教会で行なっている子ども祈祷会ではキリスト教の教理を学んでいます。

 夏休みに入る頃から終わりの時について学びが始まりました。もちろんこの「終わりの時」とは夏休みの終わりのことではありません。「終わりの時」とはキリストが再びこの世に来て最後の審判をするときのことです。

 学びをする前に子どもたちに質問しました。世界の終わりの時、君は何をする? するとこんな答えがありました。「教会に逃げる。」「非常食や非常時セットを持って教会へ行く。」 キリストが審判を行う終わりの時は地震や津波の時とは違います。ですから、避難所ではなく教会へ行くというのはなかなか良い考えだと思いました。あなただったらどうしますか?

 ところで聖書はなぜ終わりがあるということを語るのでしょうか。すべてのものには終わりがあります。それはどうしようもないことです。だから今を楽しく過ごさればいいと思います。しかし聖書はそのような生き方ではない別の生き方を教えています。

 旧約聖書のエゼキエル書7章には「もう終わりだ。・・・あなたに終わりが来た。」という神様のことばがあります。自分勝手な生き方、神様を忘れてしまった人々に神様は預言者エゼキエルを遣わして語られたのです。「もう終わりだ。・・・あなたに終わりが来た。」(参照 エゼキエル書 7章2節、3節、6節)と何度も。

 なぜ神様は何度も「あなたはもう終わりだ」と語られるのでしょう。なぜ神様は人が滅びることを宣言するのでしょう。このエゼキエル書の7章ではもう一つの同じように繰り返されることばがあります。それは「その時あなたがたはわたしが主であることを知ろう。」ということばです。このことばに神様の本心・本音があります。あなたは終わりだということばによって神様は人が自分の罪のために滅びなければならないと教えています。しかし神様の本心は、そのことに気付いてわたしを知って欲しい、というのです。このままではあなたがたは終わりだ、早く神様を知り神の救いを受けなさい、と語りかけているのです。

 まだ終わりの時は来ていません。しかし必ずくるのです。そしてその時では遅いのです。終わりがあると知ったこの時、神様を知ってください。神を知るために子どもたちのようにぜひキリスト教会へいらしてください。

( PBA制作「世の光」2012.8.25放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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東海地方での世の光/さわやか世の光/ジェネレーションXの放送に協力してくださるキリスト教会・キリスト者の皆様の献金は、

  郵便振替 00890-3-111071 東海福音放送協力会   まで

  お問い合わせは、
  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
            

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■裸の王様・・・  / 岩井基雄

2012年08月24日 | Weblog
2012/8/24放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。

 デンマークの有名な童話作家で詩人のハンス・クリスチャン・アンデルセンが記した「裸の王様」という童話がありますね。原題は「皇帝の新しい服」と訳せるそうですが、スペインの古い伝承をもとにアンデルセンが翻訳した童話とも言われているようです。

 王様が不思議な布地を織るという二人組の詐欺師に自分の服を注文します。彼らの織る布は愚かな人や自分にふさわしくない仕事をしてい人には見えないというのですが、途中の仕事場に様子を見に行ったらしもべたちや王様の目にも実は何も見えません。しかし彼らは自分たちが愚か者だと思われたくないばかりに素晴らしい作品だと嘘をつき、完成した服のお披露目パレードでも見物人たちはみんな見えていない服を誉めそやします。しかし、一人の小さな子どもが「王様は裸だよ。」と叫び、ついに皆が王様は裸だと認めます。それでも王様はパレードを続けるというあの童話ですね。

 クリスチャンであったアンデルセンは、人の目や評価を恐れ真実を偽ってしまう私たちの愚かさや、愚かさが露呈してもなお自分の面子を重んじる人間の罪深さを描こうとしたのでしょうか。子どもの視点から、真実は何かを見よ、と語りかけるその切り口は聖書にも共通するものがあります。

 アンデルセンの最初の原稿ではその子どもは殺される結末になっていたそうですが、イスラエルのヘロデ王の罪を指摘したバプテスマのヨハネが殺されたことを思い起こさせます。裸の王様の結末は書き直されたそうですが、私たちは自分の愚かさや傲慢さを神の前に正直に見つめ、そして認める必要がありますねえ。

 聖書はあなたにこう語っています。

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 聖書 ヨハネの黙示録3章19節

 神様はあなたを愛するがゆえにあなたの愚かさや罪を指摘し苦しみを与えることもあります。その愚かさを認め罪を悔い改めるとき、あなたにも新しい人生が始まるのです。あなたも神の愛と希望に生かされ、本来の希望の姿、神の子としての人生に変えられて行きませんか? 

 (PBA制作「世の光」2012.8.24放送でのお話しより)

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■あとの者が先になる / 福井 誠

2012年08月23日 | Weblog
2012/8/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あとの者が先になる」です。それではマタイの福音書の20章16節から読んでみましょう。

 「あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

 マタイの福音書の18章から天の御国の喩え話が続いています。ここでイエス様は天の御国はぶどう園の雇い主に喩えられると言います。雇い主のどんなところに喩えられるのか興味をそそられるところですね。

 この雇い主はぶどう園で働く労働者を捜しに朝早く出掛けました。労働者を見つけると一日1デナリで雇う約束をします。1デナリは当時の日当として標準的な金額です。この雇い主は続いて朝の9時、お昼の12時、午後の3時、夕方の5時にも労働者を雇いました。

 さて夕方になり日当が支払われました。まず朝早く来た者は1デナリ、約束通りの日当でした。ところがそのあと遅れて9時に来た者も、お昼の12時、午後の3時、そして仕事が終わる間際の夕方5時に来た者も一律1デナリの日当トが支払われました。

 何か変ですねえ。実際朝早くから来て汗水垂らして働いた者から文句が出ました。夕方1時間しか働かなかった者にも同じように1デナリを支払うというのはどういう訳かと。するとこの雇い主は、約束はちゃんと守っている、むしろ私は気前が良いのだというのです。つまり天の御国は気前よく後から来た者でも誰でも受け入れてくれる愛の場であるということですね。

 そうであればこそ天の御国は私たちの希望です。真面目にきっちりと人生を生きた者だけが天国に入れるとしたら、後で悔い改めて真っ当に人生を生きたとしても天の御国に入る望みはありません。また真面目にきっちり人生を生きたとしても天の御国は神のお許し無くしては入ることはできないのです。
 この事実を忘れて自分は真面目に生きているから、真っ先に天国に入れると思いあがっていると後回しにされてしまったという気持ちになるわけです。私たちが天の御国に入れるというのは神の過分の取り扱いによるものです。罪人に過ぎない私たちの現実と神の恵み深さを覚えて歩ませて頂きましょう。

 
  (PBA制作「世の光」2012.8.23放送でのお話より )

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■身内の者を、連れ出しなさい / 板倉邦雄

2012年08月22日 | Weblog
2012/8/22放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「身内の者を連れ出しなさい」という題でお話ししましょう。キリスト教は家族の宗教です。決して個人だけの宗教ではありません。天の神様は個人一人ひとりを愛していますが、その身内、家族の者たちをも愛しておられるのです。

 不埒な悪行三昧にふけるソドムの町へやってきた二人の旅人はロトの家でお世話になりました。ソドムの男どもは二人の旅人を出せとロトに迫りましたね。その続きです。

 二人の旅人すなわち神様の使いはロトに言いました。「他にあなたの身内の者がこの町にいますか? この町にいるあなたの身内の人たちをみなここから連れ出してください。私たちは神様の使いとしてこの町を滅ぼそうとしているからです。この町の悪行三昧のために周りの人々も傷つき汚され腐りかけています。ですから主なる神様はこのところを滅ぼすために私たちを遣わされたのです。」

 そこでロトは出て行って娘達と結婚を予定している婿たちに告げて言いました。「この町を私たちと一緒に出ましょう。主なる神様がこの町を滅ぼされます。」 しかし婿たちはロトが気が狂ってしまったとしか思えませんでした。天の神様はソドムの町と人々を愛していました。アブラハムの執り成しの祈りに10人義しい人がいたらソドムの町は破壊しないと約束しましたね。しかし10人もいなかったのです。ロトの娘達の婚約者たちでさえ愛する人と共に生きるよりソドムの町での生活を選んだのでした。

 何とイエス様が嘆いている通りです。ロトの時代「人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てるなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。」 ルカの福音書の17章の28節から29節

 私たちは滅びる者ではなく主イエス様を信じて自分の救いまた自分の家族を救う者とさせて頂きましょう。聖書のことばです。

 「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。使徒の働き16章31節


 ( PBA制作「世の光」2012.8.22放送でのお話より )

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■因果応報でしょうか / 山中直義

2012年08月21日 | Weblog
2012/8/21放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、山中直義です。旧約聖書ヨナ書のお話の続きで「因果応報でしょうか」という題でお話をさせていただきます。

 預言者ヨナは神様の語りかけに敢えて耳を閉ざし神様から遠く離れようと船に乗って逃げ出してしまったと聖書は言います。ところがそんなヨナを神様は見捨てることも諦めることもせず、嵐を送って関わろうとされたと聖書は言います。

 そんな中、こんなやりとりがありました。ヨナ書1章11節、12節のことばです。

 嵐の中船員たちはヨナに言った。「海が静まるために私たちはあなたをどうしたらいいのか。」 海がますます荒れてきたからである。ヨナは彼らに言った。「私を捕えて海に投げ込みなさい。そうすれば海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい嵐は私のために起こったのです。」 ヨナはそう告白しました。そしてそれは正しい理解であったといえます。

 ところがヨナは一つの大きな間違った考えを持っていました。それは自分さえ海に投げ込まれて死ねばこの嵐は終わる。この嵐は私の罪に対する神のさばきなのだと考えていたことです。神様はこの嵐をさばきのために送ったのではありませんでした。神様が願ったもの、それはヨナの悔い改め、ヨナが何とかしてもう一度神様とともに歩むため、そのために神様は嵐を送られたと聖書は言います。

 私たちの人生にも時に嵐が訪れます。そんな中、私たちはそれを罪に対する罰、因果応報的な考えで理解してしまうことはないでしょうか。聖書はその嵐の背後に神様の深い愛があるということを教えています。嵐の苦しみの中、私たちに求められているのは希望を失って諦めることではなく、希望を持って神に悔い改めることだと聖書は教えています。どうか苦しみの中であなたも神様に祈り、キリスト教会へお越しください。あなたを愛し、あなたを救おうとしておられる神様があなたに必ず助けを与えてくださいます。

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