♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■権威ある新しい教え / 羽鳥頼和

2018年06月30日 | Weblog
2018/5/26放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は新約聖書マルコの福音書1章で語られている安息日にイエス・キリストがなさったことについてお話しします。

 安息日にイエスはカペナウムの会堂で行われた礼拝で語られました。人々はその教えに驚きました。するとその会堂に悪霊に憑かれた人がいて叫んで言いました。「ナザレの人イエス。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」 イエスは、「黙れ。この人から出ていけ。」と言われました。するとその悪霊はそのその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出ていきました。人々はみな驚いて言いました。「これは権威のある新しい教えではないか。悪霊でさえ従うのだ。」 人も悪霊もイエスの権威を認めました。

 続いてイエスは会堂を出るとすぐにシモンの家に行かれました。家ではシモンの姑が病で床についていました。イエスは近寄り、その手を取って起こされました。すると熱が引き、彼女は彼らをもてなしました。夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に憑かれた人をみなイエスのもとに連れてきました。イエスは様々な病気にかかっている多くの人を癒し、また多くの悪霊を追い出されました。

 これらの出来事は本当にあった出来事です。聖書は悪霊の存在を認めています。そして聖書は、イエスが病気を癒し悪霊を追い出す権威あるお方であることを教えています。

 ここで人々がイエスに驚いて言ったことばを思い出してみましょう。彼らはみな言いました。「これはどうだ。権威のある新しい教えではないか。悪霊でさえ従うのだ。」 彼らはイエスの教えに驚きました。イエスの語ることばに権威を感じたのです。

 私たちは聖書を読むことによって、イエスの教えを聞くことができます。そのときには読む姿勢が大切です。聖書を読むとき、神を信じる敬虔な思い、そして神が私に何を教えてくださるのかという聞く姿勢を持ちましょう。キリスト教会で聖書のお話を聞くことも良いことです。明日は日曜日です。みことばを聞くために、ぜひキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.5.26放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■心のきよい者は幸いです / 関根弘興

2018年06月29日 | Weblog
2018/5/25放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。今日はその六番目のことばを紹介しましょう。
 「 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」(マタイの福音書5章8節  新改訳2017)
 
 「心がきよい」とはどういう意味でしょうか。「あなたの心はきよいですか?」と聞かれて、「はい。きよいです。」と答えられる人は一体どれだけいるでしょうねえ。もし心のきよさは心に汚れが全くないという意味だとしたら心のきよい人など一人もいませんよね。しかしここで言われている「心のきよい」とは、二心が無い、心の中で二股をかけていない、つまりひたすらに神様だけを求める心を持っている、という意味なんです。

 旧約聖書の詩篇の24篇の中に、「手がきよく心の澄んだ人 そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。その人は主から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける。」 こう書いてあるんです。
 この詩篇の中の「心の澄んだ人」とは、「そのたましいを むなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人。」ですね。神様以外のむなしいことに心を向けず、ただ純粋に神様を求め、神様に心から従おうとしている人のことです。たくさんの神様から、どちらの神様にしようか、二股をかけるんではなくて一心に天地を創造された神様を求め続けるなら、ついに神を見ることができるんだ、と約束されているんです。

 では「神を見る」とは一体どういうことでしょう。神様は私たちの肉眼で見ることができませんね。でも毎日の様々な出来事の中に神様は生きて働いてくださっているという事を味わいながら歩むことができる、ということなんです。聖書を通して、自然を通して、また様々な出来事や出会いを通して、本当に心を素直に神様に求めていくとき、神様は居てくださるのだということを知ることができるんですねえ。すべては神様の御手の中にあり、偶然に見えるようなそういう事の中にも神様は働いています。心のきよい人は神様を見るんです。神様が実際の生活に働いていることを味わい知り歩むことができるんですね。

  (PBA制作「世の光」2018.5.25放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし 60 / 大嶋重徳

2018年06月28日 | Weblog
2018/5/24放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒第五戒には、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト記20章12節 新改訳2017)とあります。今まで両親を始めとする人間関係を見てきましたが、最後に十戒第五戒ではもう一つのことを確認しておく必要があります。

 宗教改革以来、教会はこの第五戒は、親子関係というところから始め、社会における私の上に立られた権威に対して敬意と愛と誠実を示すよう語っていると受け取ってきました。ふさわしい従順をもって服従すること、更に上に立られた権威また為政者に対してその人たちの欠けさえ忍耐すべきであるというように考えてきました。権威が崩壊したと言われる時代の中で、上に立られた権威に敬意、愛、誠実を示し従うことは私たちが属している共同体がふさわしく秩序をもって治められていることのためにとても大切なことです。牧師もまた教会において自らの欠けをさえ忍耐してくれる教会の兄弟姉妹の誠実さによって秩序が守られてきていることを感謝する必要があります。また教会に集う兄弟姉妹も、神様が立てられた権威への従順によって牧師を育てていく必要があるでしょう。

 しかし一方で同時に考えておかなければならないのは、権威への従順の順序です。新約聖書では、すべての人を尊びなさい、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさいとあるように、ここには神への恐れ、王を尊べ、という順序があります。まず神を恐れ、そして王を尊ぶという順序です。この順序はいかなる状況、いかなる圧力がかかろうとも決して逆転させてはいけません。
 かつて日本において、すべての日本国民は天皇の子どもであるとされて、天皇制家父長制度によって日本国の統治が図られてきました。その時、天皇は神格化され崇拝の対象となっていました。
 第五戒は崇拝によって権威に服従する教えではありません。もし聖書の語るまことの神への服従を阻むような権威への服従を求められるような事が起こった場合は、それは国家権力であっても職場の上司であっても親であったとしても、従うことはできないのです。むしろその時は権威への抵抗をもって神を神とする証しを立てることが必要となるのです。

 この順序を大切にしながら、今日も私たちは神様に立られた権威、リーダーたち、為政者たちのために神様にとりなしの祈りを捧げたいと思います。

   ( PBA制作「世の光」2018.5.24放送でのお話しより )

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■神が心配してくださる / 福井 誠

2018年06月27日 | Weblog
2018/5/23放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神が心配してくださる」です。 ペテロの手紙第一5章7節から読んでみましょう。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。
」(新改訳2017)

 ペテロは信仰者に向けて幾つか大事な勧めをしていますねえ。

 まずペテロは、思い煩いのことを語る前に従うことを勧めています。
 確かに人にとってなかなか難しいのは従うことかもしれません。人は自信に溢れて、しばしば自分が一番よく物事をわかっている、そう思い込んで人に従うことができなかったりしますねえ。ペテロは率直です。

 そして第二に、謙遜であることが勧められています。自分の分をわきまえる。自分を何者であるかのように思わないこと。これも人には難しいことでしょう。

 そして三番目に、これも難しいことだと思いますが、思い煩いを神に委ねるように勧めていますね。人は常にあれやこれやといろいろと物事に悩むものです。なかなか物事に楽観的になることができません。ある神学者は、神を信じることは楽観主義者になることであると言いました。けれどもそれは単純な楽観主義者ではなく、したたかな楽観主義になることだと言いました。つまり多くの苦しみや絶望的な事柄を分かっている。そしてそれらをしっかりくぐり抜けた後で、なお物事を楽観的に考えられるようになっていることが大切なのです。

 確かに神を信じることは困った時に根拠もなく楽観主義になることではありません。本当は平安もないのに自分の気持ちに偽って希望的観測を述べているのでもありません。それは思い煩いの中にありながら、かつて難しいところを通り抜けた時の神の真実さ誠実さを覚えていて、今度も大丈夫、と神様に信頼できることなのです。神様への深い信頼を持って今の問題を神様に委ねる訓練が重ねられてできていることです。

 信仰は実に長い時間をかけて学ばれていきます。「神様を信じましょう。ハイ、分りました。」という世界ではありません。雨雫が石を砕くように少しずつ深められていく世界です。ぜひ聖書を読み続け、教会に通い、あらゆる思い煩いを神に委ねる信仰へと成長させていただきたいものです。

(PBA制作「世の光」2018.5.23放送でのお話より )

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■テオピロよ / 板倉邦雄

2018年06月26日 | Weblog
2018/5/22放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「テオピロよ」という題でお話ししましょう。今日から新約聖書の使徒の働きの連続メッセージを始めます。作者はルカの福音書を書いた医者のルカです。

 この使徒の働きの宛先はテオピロという個人に向かって書かれました。
 「テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられる日までのことを、ことごとくしるしました。」と使徒の働きの手紙は始まっています。

 先週、私たちはルカの福音書の最後でイエスの昇天の出来事を確認したばかりです。それにしましても、テオピロという個人のために第一巻のルカの福音書に続き、第二巻の使徒の働きが書かれたということは、どんなにテオピロという人が神様とルカさんから愛されていたか、ということですねえ。聖書は神様からのあなたへのラブレターだということです。「テオピロよ」の所にあなたの名前を入れて読んでいただきたいのです。

 続けてルカはこう書いています。
 「イエスは苦難を受けたのち、自分が復活して生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび弟子ちと信徒たちに現れて、神の国のことを語られた。」

 イエス様の苦難と十字架の死と復活はこのように神の国を実現するためだったということが分ります。神の国とは、神の民が神の場所で神の支配と祝福を受ける、とある聖書学者は定義しています。地上のキリストの教会はある意味で神の国が実現している所でしょう。

 そしてこの復活のイエス様はこのように命じられました。
 「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っていなさい。」

 この父なる神の約束とは、「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマ(洗礼)を授けられるであろう」。

 この使徒の働きは、別名、聖霊の働きと呼ばれます。キリストの使徒たちの働きの書物ですが、実際に働いているのは使徒たちではなく、父なる神様とキリストから遣わされた聖霊による働きなのです。

   (PBA制作「世の光」2018.5.22放送でのお話より )

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■しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない/岩井基雄

2018年06月25日 | Weblog
2018/5/21放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいます。前回はキリストが1万人以上の群集の飢えをわずか五つのパンと二匹の魚で満たしてくださった箇所から学びました。

 食物を人々に配り、食べ残ったものをも集めた弟子たちは疲れ切っていたでしょうねえ。そんな弟子たちをイエスは、強いて舟に乗り込ませ、ご自分は人々を解散させるために残られたのです。

 ようやく休みを得られると期待した弟子たちを向い風が襲いました。弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師であり、向かい風には慣れていたでしょうが、疲れ切っていた彼らは漕ぎあぐねてしまいました。憔悴しきった彼らのもとにキリストは近づいていかれたのです。聖書はこの時のことをこう語っています。

 「イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。
しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。

  新約聖書マルコの福音書6章48節から49節 (新改訳2017)

 すべてを創造されたキリストにとって湖の上を歩くということは訳もないことだったでしょうね。しかし疲れ果てた弟子たちは恐怖を覚えました。しかしキリストは平安を届けるべく、彼らに近づいていかれたのです。

 ここにある「通り過ぎる」とは神の臨在を表す特別な表現です。キリストは弟子たちにこう語られました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない

 この「わたしだ。」ということばは「エゴー エイミー」というギリシャ語の表現で、聖書が語る神様のあり方を明確に示すことばであり、「わたしはここにいる。」と示したことばです。キリストは湖の上で、疲れと恐怖の只中にある弟子たちに、神の臨在を示し、「わたしはここにいる。」と神の平安を豊かに与えられたのです。

 キリストはあなたにも語ります。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。わたしはここにいる。」と。あなたがどのような疲れや不安や恐怖の中にいらしても、キリストが与える平安は、神が共におられる、という臨在に基づく、何ものによっても揺るがされない確かの平安なのです。あなたも今、この平安を受け取って歩んでいきませんか?

       PBA制作「世の光」2018.5.21放送でのお話しより)

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PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神の御力のゆえに / 羽鳥頼和

2018年06月23日 | Weblog
2018/5/19放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は旧約聖書詩篇21篇から、神の力についてお話しします。

 詩篇21篇の前半では王に対する神の祝福が語られています。
 「神よ。あなたの御力を、喜びましょう。
  あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。
  神は王の心の願いをかなえ、王のくちびるの願いを、退けられません。」(1~2節参照)
 「神は尊厳と威光を王の上に置かれます。」(5節参照)
 「まことに、王は神に信頼し、神の恵みによってゆるがないでしょう。」(7節参照)
 
 このように、神が王を祝福してくださり、王権が確立して、その王国が繁栄することが語られています。王と王国が繁栄しているのは神によることである、と語られています。

 詩篇21篇の後半では、悪者に対する神の裁きが語られています。
 「神の手は、すべての敵を見つけ出し、
  神の右の手は、神を憎む者どもを見つけ出す。」(8節参照)
 「神は御怒りによって彼らをのみ尽くし、火は彼らを食い尽くす。」(9節参照)
 「神は、地の上から、彼らの子孫を滅ぼされる。」(10節参照)
 「彼らが、神に対して悪を企て、たくらみを設けたとしても、
  彼らはそれを行うことができない。」(11節参照)

このように神は悪を必ず見つけ出し、あばいて裁きをくだされます。その裁きは悪に完全な滅びを与えるものです。悪は神に歯向かうことができない、と語られています。

 そして詩篇21篇は最後に神を賛美します。
 「神よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。
  私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(13節参照)

 詩篇21篇はこのように、神の力は、神に信頼し神に従おうとする者に救いの恵みと平和な繁栄を与えるものであり、悪に対しては完全な滅びを与えるものであることを告白して、神を賛美しています。救いの恵みと平和な繁栄を神から与えられる者になりましょう。
 明日は日曜日です。ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2018.5.19放送でのお話より )
 
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■あわれみ深い者は幸いです / 関根弘興

2018年06月22日 | Weblog
2018/5/18放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書の福音書の中に、イエス・キリストがガリラヤ湖を見渡す小高い丘の上で人々にお語りになった山上の説教と呼ばれているものがあります。その中でイエス様は、本当に幸いな人とはどのような人かということを教えてくださいました。今日はその五番目のことばを紹介しましょう。
 「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」(マタイの福音書5章7節  新改訳2017)
 
 この「あわれみ」ということばは時々誤解されやすいですねえ。あわれみというのが、ただかわいそうに思う、という風に考えてしまうことがあるからです。でもイエス様が言っておられる「あわれみ深い」とは相手の立場に立ち、相手の気持ちを思いやり、実際に行動を起こすことを意味しているんです。そのあわれみ深い姿は、実はイエス・キリストの中にはっきりと見ることができます。

 イエス・キリストは神であられる方なのに私たちと同じ人として来てくださいました。私たちと同じ立場に立って共に歩み、人としての痛みや苦しみを味わわれました。そして苦しんでいる人や悲しんでいる人を見ると手をさしのべて、助け慰め癒されました。そして私たちを罪の束縛から解放するために、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみをもお受けになったのです。イエス様の人々をあわれむ心は実際の行動によって示されました。聖書には神様がどれほどあわれみ深い方であるかが繰り返し記されているんです。

 ところでこのあわれみというものは、愛から出て来るものだということを分ると思うんですねえ。相手を愛しているなら、相手の苦しみや悲しみを見たとき、何かせずにはいられなくなりますね。それがあわれみです。

 ヨハネという人が手紙の中でこんなことを書いています。
 「 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」 (ヨハネの手紙第一4章7節 新改訳2017)

 私たちは神様に愛されていることを知れば知るほど、あわれみ深い者とされていくというんですね。神様の深いあわれみによって赦されていることを知るときに、私たちも他の人に対してあわれみ深く接することができるようになっていくのです。だからイエス様は、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」と教えられたんですねえ。

  (PBA制作「世の光」2018.5.18放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし 59 / 大嶋重徳

2018年06月21日 | Weblog
2018/5/17放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒第五戒には、「あなたの父と母を敬え。」(出エジプト記20章12節 新改訳2017)とあります。第五戒は、親に対して敬われやすい父になること母になることを求めています。
 子どもであれば親に従うのは自明のことではありません。敬われやすい父であること、敬われやすい母でいることは、父なる神と呼ばれる神を敬い、神に従う信仰の基礎が形成されていくこととなります。

 では敬われやすい父とは母とは何でしょうか。それは神様を神様として生きる親でいることです。親が何より神によって助けられ、神の守りの中を生きていることです。そして自分が神に愛されたように、わが子を愛する親のことでしょう。そのように生きる事ができるよう、神様は今日も私たちを神様を信じる信仰へと招いていてくれるのです。

 この神様を愛する信仰によって敬われやすい親への道を歩いていきたいと思います。そのために神様が備えていてくれる交わりが教会です。教会には自分たちが親になることのために良きモデルがいろんな意味でただ居てくれることは大きな恵みです。失敗した経験を分かち合ってくれる存在は、私にどれほど大きな励ましをくださったでしょうか。私たちは親になることを交わりによって助けられることが大切です。信仰によって子育てをすることを父になる前から母になる前から教えられていく必要があります。

 あるお父さんが教えてくれたことがありました。「子育てを精一杯やっていても、そのやり方が間違っていたことがある。その時に大切なことは子どもにきちんと謝ることだ。」と。「尊敬される親とは、間違わない親になるのではなく、親が間違った時にその間違いを子どもたちの前で認め、子どもに率直に謝まれる親でいることの方が大切なんだ。」と教えてくれた人がいました。

 この助言はどれほど助けになったでしょうか。私は出張も多く、妻に子育ての負担をかけないためにも家にいる時は随分と厳しい父親でいました。しかしその助言を受けてから、厳しいだけではなく子どもたちから赦されやすい親でいることを心がけるようになりました。今、わが家の子どもたちは高校3年生と高校1年生です。立派な父親のふりをしてもすぐにばれてしまいます。むしろきちんと謝りあえる大人どうしとして互いに敬いながら親子を続けて行きたいと思います。私たちの父である神様に助けていただきながら続けて行きたいと思うのです。

   ( PBA制作「世の光」2018.5.17放送でのお話しより )

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■上からの知恵 / 福井 誠

2018年06月20日 | Weblog
2018/5/16放送


世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「上からの知恵」です。 ヤコブの手紙3章17節から読んでみましょう。

 「 しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」(新改訳2017)

 私が高校時代に使った英語のテキストに古代イスラエルの王様ソロモン王の知恵について語るエピソードがありました。クリスチャンでしたから、一般に使う英語の教科書に聖書のお話が出て来るのがなぜかうれしく思った記憶があります。それはともあれ、ソロモンは確かに世界の誰よりも知恵ある者としてよく知られていますね。しかしそれはソロモンが学問的な研鑽を積んで身につけたものではなく、天地創造の聖書の神様に願い求めて上から与えられたものでした。彼が偉大な王様ダビデ王の後継者となり、力不足を感じた時に、まず神様に物事を正しく判断できる知恵を求め、神様はその願いを聞いてくださったというわけです。

 ヤコブもそのエピソードを踏まえているのでしょう。「知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1章5節)と語っています。そしてここでは更に、その上から与えられる知恵がどんなものかを説明しています。それは清いもの平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もない、と言います。ちょうど地上の知恵と対比されて、地上の知恵は苦々しい妬みや利己的な思いや自慢、偽りを特徴とする、と言っていますね。本当に知恵ある人というのは、知恵を語るときに相手に平安を与え、ほっとさせ、あるいは気持ちに納得を与え、喜びや信頼を引き出す人なのです。逆に知恵のない人は争いを引き起こし、人を犠牲にし、高ぶり、不満を引き起こすものでしょう。だからこそ上からの知恵のある人には人が引きつけられていくのですね。

 上からの知恵は神様が与えてくださるものです。ぜひそのような知恵を与えてくださる神様を求めていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2018.5.16放送でのお話より )

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