♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して68年の
「世の光」を文字で 

■賛美歌ものがたり『主、我を愛す』 / 飛田紀代美アナウンサー

2019年11月30日 | Weblog
2019/10/19放送

 世の光の時間です。飛田紀代美です。土曜日はスペシャルバージョン。今日は賛美歌の生まれた背景をご紹介する賛美歌物語をお送りします。今日は教会に通い始めた子供たちが必ず歌う讃美歌『主、我を愛す』をお送りします。

 キリスト教禁制が解かれた明治5年、横浜のフェリス女学院で日本初のキリスト教宣教師会議が開かれた時、初めて日本語に訳され紹介された二つの讃美歌のうちの一つがこの『主、我を愛す』でした。この讃美歌が生まれたのは19世紀半ばのアメリカ・ニューユーク、女流作家アンナ・バートレット・ワーナーが裕福な家庭に生まれましたが、二歳で母を失い、後には経済恐慌で資産を失って貧しい生活を余儀なくされました。後に姉スーザンが執筆した小節の中で、間もなく天に召されようとしている子どもが歌う挿入歌としてアンナが書いたのがこの『主、我を愛す』だったのです。その3年後、この歌詞にメロディーがつけられ、独立した讃美歌として広く歌われるようになりました。アンナは信仰熱心な女性で、作家活動をしながら60年にわたって自宅でバイブルクラスを開き、沢山の生徒たちにイエス・キリストを伝えました。シンプルな歌詞から神の愛が力強く伝わってきます。「イエス様は私を愛してくださっている。そう聖書に書いてあります。イエス様は私の罪のために、天から降り、十字架についてくださいました。」と歌います。(旧)讃美歌461番 『主、我を愛す』 光の子合唱団でどうぞ。

 1 主われを愛す 主は強ければ
   われ弱くとも 恐れはあらじ
    (くりかえし)  わが主イェス わが主イェス
           わが主イェス われを愛す

 聖書のことば 新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章9節
   「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」

 (PBA制作「世の光」 2019.10.19放送でのお話より )
 
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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
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■無駄を厭わない愛 / 関根弘興

2019年11月29日 | Weblog
2019/10/18放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス・キリストがベタニヤのシモンという人の家に行った時のことでした。この村に住むマリヤが大変高価なナルドの香油の壷を割り、イエス様に注ぎ始めました。するとその香りは家中に広がり、麗しい光景となっていきました。しかしそれを見た弟子たちは、何という無駄なことをするのか、とマリヤを一斉に批判したんですねえ。しかしイエス様はこのマリアの行為を、世界中のどこででも福音が宣べ伝えられる所ならこの人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう、とお褒めになったんです。弟子たちは、あれは無駄だ、これも無駄だ、と損得の計算ばかりしていたようですねえ。本当の愛によって行動するということは損得勘定を抜きにしたものです。といってもそれはどんな浪費をしても構わないという意味ではありません。

 でも考えてみてください。イエス・キリストの姿の中には一見無駄と思えることが沢山あるように思いますよね。イエス様はすぐにご自分から離れていってしまうような人々のために癒やしを行い、恵みのことばを語り続けられました。また五千人の人たちにパンと魚を分け与えられた時には十二のかごにいっぱいなるほどパンが余りました。そんな余らせて何と無駄なことか、と思うかもしれませんねえ。またイエス様は、たった一人のサマリヤの女性と話をするために、わざわざユダヤ人が嫌っていたサマリヤ地方に行かれました。ユダヤ人にとってはそれは全く時間の浪費で馬鹿げたこととしか思えませんでした。エリコの町では、わざわざ嫌われ者の取税人ザアカイの家に行かれましたね。町の人たちから見たら、何と無駄なことをしているのか、と思われたでしょう。そしてイエス様は何と私たちのために何をしてくださったのでしょう。それは神様に背を向けている私たち一人一人の身代わりとなって十字架についてくださった、と聖書は教えます。ご自分に逆らい、罵倒する人々のために十字架で血を流すなんて何と無駄なことか、と思いますよね。

 でもイエス様のこの無駄死にと思われたこの十字架の死が、人々の罪を赦し、神様の豊かな愛を示し、救いの道を開くものとなっていったのです。無駄を厭わない愛、それこそがイエス様のあなたへの愛そのものなのです。

     (PBA制作「世の光」2019.10.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし-127  欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年11月28日 | Weblog
2019/10/17放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 第十戒は「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。
 私たちの人生には本当に欲しがるべきものがあります。イエス様は言われました。「人はパンのみにて生くるにあらず。」 有名なことばです。

 ではパン以外に私たちは何によって生きるのでしょうか。この続きがあります。「神の口から出る一つひとつのことばによって生きるのだ。」と聖書は語るのです。そしてこの神のことばと出会うことができる場所こそキリスト教会です。キリスト教会の礼拝こそ私たちはことばとなられたイエス様とお会いします。礼拝で語られることばにこそ人間の欲しがるべきすべてのものが詰まっているのです。本来、この神のことばを受け取るならば私たちの人生にはもうその他何もいらないとすら言えることのできるものがすでに私たちの前に週ごとに用意されているのです。

 ではどのような神のことばがキリスト教会では語られているのでしょうか。神のことばは語ります。あなたの人生は神の子が十字架にかかる程までに大切で価値あるものなのだ、と。神様はいのちを与えるほどにあなたの人生を愛している、と語ります。この愛に出会うとき、私たちは自分の欲していたものが何であったかを自覚するのです。ああ自分はずっと愛されること求めていたのだな、と分るのです。自分の存在を誰かに認めて欲しかったのだ、と。

 人間の社会は私たちが何ができるかということで評価をしてきます。生産性があるかどうかで人の価値が量られます。そしてそれを求めて必死に働き、いつまでたっても十分な評価を得ることはできません。

 しかし神様は、あなたがそこに存在することを何より喜んでくれるのです。むしろ世界を造られた神様が欲しているものがあるのです。それはあなた自身です。欲しがってはならない、と十戒で私たちに教える神様があなたを求められるのです。あなたを欲しい、と言われるのです。あなたを失いたくない、と言われるのです。神の独り子が十字架にかかる程までにあなたを求め、愛してくださっている。この神の愛に触れるとき、私たちもまた神様を欲するのです。神との交わりを欲し、神にかけてもらえることばを欲するようになるのです。

 この神様の愛のことばに出会う教会に、ぜひあなたも日曜日、お越しくださることを願っています。

    ( PBA制作「世の光」2019.10.17放送でのお話しより )

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■主はヨブを元どおりにされた / 福井 誠

2019年11月27日 | Weblog

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨブ記42章10節から「主はヨブを元どおりにされた」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた。さらに主はヨブの財産をすべて、二倍にされた。

 ヨブの試練は終わりました。ヨブは友人たちとの議論の最終段階で、彼らは神を分っていない、と激しく攻撃するところがありましたが、自らも神を分っていると思う程には分っていなかった事を教えられていますね。誰も彼もが分ったつもりでいるだけで、表面的に神を語っているということはあるものです。けれども人間はみなそのようにして徐々に神の深さを悟らされていくものなのでしょう。そして自分の力ではどうにもならないような苦しみや試練に巡り合った時にこそ神に目を開かれることがあります。分ったつもりになっていたことはこうだったのか、と悟らされるのですね。

 さてヨブの物語はハッピーエンドに終わっています。それは神が友人たちの前にヨブの面目を保ち、ヨブの正しさを示すものとなりました。神は私たちを恥辱の中に捨て置かれたままでいることはありません。正しい者の苦難が苦難で終わることはないのです。

 しかし、ヨブが二倍のものを祝された、というのは文字通りとるよりも、私たちの苦難が決して虚しくは終わらないことへの信仰を促すための結論なのでしょうね。と言うのも、私たちは自分たちが願うような終わり方にならなければハッピーエンドではないと思い易いものですが、そうでなくても、これが良い結果であり希望である、と長い目で考えると理解できることの方が多いからです。

 実際、神に見捨てられたかのように十字架の恥辱の死を味わった主イエスは全人類の救いの祝福をもたらしています。彼の死は、その時は理解しにくいものでしたが、今や聖書に於いて誰にも分るように説き明かされていますね。今ここの満足を超えて、神の目線で良い結果を望み見る信仰こそ持ちたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.10.16放送でのお話より )

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■やる気をそがれる / 板倉邦雄

2019年11月26日 | Weblog
2019/10/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
今日は「やる気をそがれる」という題でお話ししましょう。

 これからみんなで力を合わせてやっていこうというときに、「一抜けた」と言われたらがっかりしてやる気がそがれますねえ。三人の伝道チームからヨハネ・マルコが抜けてしまったのです。使徒の働き13章の続きです。

 さて、キプロス島での魔術師エルマ事件で総督セルギオ・パウロがキリスト者になった後、パウロ伝道チームの一行三人はキプロス島のパポスの港から船出しました。そして小アジアの南岸パンフリヤ地方のペルガに渡ったのです。ここでヨハネ・マルコは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまいました。その理由は書いてはいません。しかし、伝道旅行というものは思ったより大変だということです。私もキリスト教の伝道者養成の学校で学生六名を引率して新潟へ伝道旅行に行ったことがありました。しかし三日目のある夕方、一人の学生が東京へ帰ってしまったことを思い出します。ヨハネ・マルコがいなくなって三人から二人のチームになりましたが、パウロとバルナバの二人はめげること無くペルガへ進みました。このペルガからピシデヤの地方・アンテオケに進むことになりました。ピシデヤのアンテオケに行くには直線にして約160キロメートルです。しかし途中、山賊の出る険しいタウルス山を越えなければなりませんでした。アンテオケには山に囲まれた軍事基地があり、そこにはユダヤ人の会堂があったからです。何とかして会堂を足場にして伝道をしていきたかったのですね。若きヨハネ・マルコの戦線離脱はバルナバとパウロにとって、これからという時でしたので、やる気をそがれ、出鼻をくじかれたことでしょう。アンテオケへ向かうタウルス山を越える二人の足取りは重かったことでしょう。しかし、バルナバとパウロも万事を益としてくださる神を知っていました。

 聖書のことばです。
 「 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
           ローマ人への手紙8章28節

  (PBA制作「世の光」2019.10.15放送でのお話より )

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■嘆きを聞き、契約を思い起こされる神 / 岩井基雄

2019年11月25日 | Weblog
2019/10/14放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日の今日は詩篇108篇の後半から「苦難の時の神への祈りと信頼」と題して、神様の恵みに生かされる人生に心を留めてみましょう。

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。第二月曜日の今日は、旧約聖書のモーセの生涯を通し、「嘆きを聞き、契約を思い起こされる神」について学んでみましょう。

 人生の苦難の中で、神様に見放されているような思いを深めることがありますねえ。神の民イスラエルは、飢饉を逃れてエジプトに下り、増え広がりました。その影響力を恐れたエジプトの王は神のために苦役を強います。王女の息子としてエジプトで育ったモーセは、自らの手で神の民を助けようとした傲慢のゆえに王から命を狙われ、ミデヤンの地へと逃れたのです。モーセがエジプトで過ごした40年に加え、ミデヤンで過ごした40年の間もエジプトにおける神の民の苦悩は続いたのです。神に見捨てられたような思いを抱いたことでしょう。しかし神はご自分の民を決してお忘れにならないのです。聖書はこう語っています。
 「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。 」 旧約聖書 出エジプト記2章23節から25節

 神の民に苦役を課し、絶滅を計り、モーセの命を狙った王は死んだのです。どんな権力を持った王も、委ねられた命が取り去られる時が来ます。神様の前に人間は無力です。しかし、神の民の状況は好転しませんでした。神は敢えて苦難を与え続けることがあるのです。痛みの中でなお神様に信頼し祈り続けることを神様は待っていてくださるのです。

 ここには主権者でいらっしゃる神がご自分の民をしっかりと見守っていることが明らかにされています。民の嘆きを聞き、民をご覧になり、民を御心に留められる神様が示されているのです。そして信仰の父アブラハムたちとの契約を思い起こしてくださるです。その契約の中心は神であり、神ご自身がご自分の約束を覚えていて実行してくださるのです。私たちはこの方に信頼することができるのです。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.10.14放送でのお話より )
 
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■三谷幸喜流・壁にぶつかった時の対処法 / 水谷 潔

2019年11月23日 | Weblog
2019/10/12放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、水谷 潔です。
 人気劇作家の三谷幸喜さんのお話です。三谷さんは徹夜をしても脚本を1行も書けないっていうことであるそうです。しかし三谷さんは、壁にぶつかった時は完成間近なんだっていうことが多いのを経験的に知っておられるそうです。ですから壁にぶつかったときは、ゴールは近いんだとポジティブに考えて壁に向き合うのだそうです。
  あるキリスト教の宣教師はこう語りました。「トンネルに入ったら最短距離を進んでいると思え。」  これもまた信仰経験が生み出した知恵の言葉なのでしょう。ゴールの手前に山があるとしたら、ゴールに向かう最短距離は山を突き抜けて進む道、すなわちトンネルを通過することですよね。

 「 壁にぶつかったときはゴールが近い。」「トンネルに入ったら最短距離を進んでいると思 え。」
 実は、 聖書にもそれに似た言葉があります。それは、試練というものは必ず脱出の道とセットなんだという約束の言葉です。 新約聖書のコリント人への手紙 第一の10章13節は言います。

 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 神様は真実な方ですから、意地悪をして耐えられないような試練を与えることはなさいません。真実な神様は愛する者の成長を願って、耐えられるような試練を与えられます。それどころか耐えることができるようにと、試練からの脱出の道をあらかじめ備えていてくださるんです。

 試練が訪れること、それ自体は決して喜ばしいことではありません。しかしその試練が脱出の道とセットならどうでしょう。 神様が真実な愛のゆえに脱出の道を備えてくださっているとしたら失望してしまうのは気が早すぎます。むしろ備えられた脱出の道を信じて希望を持って試練の中を歩めたらと願うんですね。

  神様と共に歩む人生は試練の中でさえも希望を持って歩むことのできる人生です。これまでの試練を思い起こすとき、そしてこれから訪れるかもしれない試練を思い描くとき、どうでしょう、あなたは神様を必要としないでしょうか。

 (PBA制作「世の光」 2019.10.12放送でのお話より )
 
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■無駄と思えても / 関根弘興

2019年11月22日 | Weblog
2019/10/11放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 イエス様がベタニアのシモンという人の家に行った時のことでした。この村に住むマリヤが大変高価なナルドの香油の壺を割り、イエス様に注ぎ始めました。するとその香りは家中に広がり、それは麗しい光景となっていきました。

 しかしそれを見て、すぐに批判が起こったんです。「何という無駄なことをするのか。これを300デナリで売って貧しい人に施した方が良いではないか。」 そういう声でした。この事を言ったのはイエス様の弟子のユダであり、また身近な弟子たちでした。彼らは一斉にマリヤを批判したんですねえ。

  しかしイエス様はこう言われました。「そのままにしておきなさい。この女は自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、私の身体に前もって油を塗ってくれたのです。まことにあなたがたに告げます。世界中のどこででも福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。」 (参照 マタイの福音書26章10、12、13節  マルコの福音書14章6、8 、9節)イエス様はこうおっしゃったんですね。

 マリヤが香油を注いだ時、弟子たちは「無駄だ!」と批判しましたが、イエス様は「立派なことをしてくれた」とマリヤを賞賛なさったんです。私たちはともすると自分自身の狭い判断で物事を評価してしまいがちです。マリヤはイエス様に対する心からの感謝と愛と献身の思いを込めて香油をささげましたが、弟子たちはその姿を無駄だと批判したんですね。

 しばらく前ですが、ある方に「 関根さん、礼拝も大事かもしれませんがね、礼拝していても食っちゃいけないんですよ。」 そう言われました。イエス様を礼拝したって一銭も得にならないっていうわけですねえ。そんな無駄な時間を使うならもっと別のことのために時間を使いたい、というわけです。またある人は、「関根さん、祈っても何も起こらない。なんだか無駄だと思うんです。」 こういう風におっしゃる方がいます。
 しかしイエス様は決してそうは見ないんですね。もし私たちが心から主に捧げる感謝や賛美、それは人の目に無駄と見えるかもしれませんが、しかしイエス様はその一つ一つの事を、「あなたは立派なことをしてくれた」と喜んでくださるのです。是非知って頂きたいんですねえ。イエス様は、人の目には無駄と見えたとしても私たちが捧げる感謝や賛美そして礼拝を、ご自分の栄光を現すために用いてくださるお方なのです。ですからこの方にあって何一つ無駄になる ことはないのですね。
     (PBA制作「世の光」2019.10.11放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし-126  欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年11月21日 | Weblog
2019/10/10放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 第十戒は「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。
 この教えは欲しがってはならないものは何かを示すこととともに、私たちが本当に欲しがるべきものが何かを教えてくれます。そして聖書が語る私たちが本当に欲しがるべきものは神のことばであり神との交わりです。そしてそれを手に入れることのできる場所はこの世界の一体どこにあるのでしょうか。それはキリスト教会にあります。キリスト教会でなされる礼拝でこそ神のことばが語られ、神への祈りがささげられます。神への賛美がささげられ、神との真実な交わりがそこにあります。

 教会の礼拝ではさらに聖餐式というものがあります。パンを食べ、ぶどうの杯を飲みます。それはイエス様が「わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカ福音書22章19節、コリント書第一11章24-25節)とおっしゃったからです。礼拝の聖餐についてイエス様は、「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書 6章35節)とおっしゃいました。飢えることがない、渇くことがない、いのちのパンこそ私たちが本当の意味で欲するべきものです。私たちの人生には、本来これさえあれば全てが満たされることとなるのです。

 聖餐式で私たちの舌はキリストを味わいます。その鼻でキリストの香りを嗅ぎます。パンを欲しがることも、ぶどう酒を求めることも、イエス様を求める祈りの入口に備えられているのです。食べることはキリストのことばを思い起こし、飲むことが十字架の血潮を想うこととなるのです。キリスト教信仰は禁欲主義でありません。食べることは大切な事です。食欲という欲望も神様によって作られました。感謝して私たちは食べて味わい楽しむのです。聖餐式で口にするパンを味わうとき、天におられるイエス様と自分は一つにさせられている、その神秘の中に身を置くのです。そうするとき私たちは本当に必要なものを手にしている満足を手に入れることが教会で出来るのです。私たちはキリストにお会いするとき、神が私たちのすべての必要を知っていてくださる安心を得ます。あれが必要だ、これが必要だという、世の中の声に惑わされずに生きていく生き方を手にするのです。

 どうぞキリスト教会にお越しください。そこではあなたが本当に欲しがるべきもので溢れていますか。神様のことばを信じ神との交わりをすることができる礼拝であなたのことをお待ちしています。

    ( PBA制作「世の光」2019.10.10放送でのお話しより )

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■あなたは神を待て / 福井 誠

2019年11月20日 | Weblog

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。ヨブ記35章14節から「あなたは神を待て」と題してメッセージをお伝えいたします。

  「神を見られない」とあなたが言うときには、なおさらだ。
    しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。


 先週は、神の預かり知らぬところで何かが起こることはないので、人間の思考的限界を越えた神の御心を信頼しつつ、府に落ちない思いをも神にぶつけて神と語り続けることの大切さを語りました。聖書を読み解く時というのは神が私たちと友として交わることを望んでおられる奇跡の時だからですね。

 けれども現実問題として聖書を通じて神様と語り合っても、心が晴れるような思いになって欲しいということはあるものでしょう。いじましくも、神が最善を尽くしていることについて何かしるしが欲しい、と思うことがあったりするものです。

 そこでエリフという人物がここで語りかけていることに注目してみましょう。
 「人々は、激しい抑圧のために泣き叫び、偉大な者の腕のために、助けを叫び求める。」(ヨブ記35章9節 )
  人は祈ってもそれはただ泣き叫び、叫び求めるだけのこと。つまりそれはただ声を上げるだけのことで、神を神として認め至高者の前に静かに耳を傾けるものではない、と。

 確かに、追い詰められて、もはや理性も働かず、愚かさをさらけ出してしまうような切羽詰った状況にあっては、ただただ自分の思いをぶつけることが精一杯で、耳を開くということができなかったりするものですね。しかし神はどんな小さな叫びも聞き漏らすようなお方ではないことは確かです。神は遥(はる)か高きにおられる偉大なお方であっても、十字架のイエスをお遣わしになって、私たちの罪の赦しのためにその深い愛を明らかにしてくださったお方ですね。

 エリフは言います。「訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」 これが全てなのです。わたしははあなたの友であるとも、父であるとも語ってくださる神を信頼して、神の時を待ち続けることですね。忍耐を失わず、主の誠実さを信じたいものです。

 では良き一週を祈ります。

 (PBA制作「世の光」2019.10.9放送でのお話より )

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